南部氏

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南部氏(なんぶし)は、陸奥戦国大名清和源氏河内源氏義光流。甲斐源氏加賀美遠光を祖とする。

略史[編集]

南部氏は加賀美遠光の子・南部光行を先祖とする名族である。本来は甲斐国の巨摩郡南部郷(現山梨県南部町)が本領であったため、南部と称した。

鎌倉時代[編集]

なお、平安時代末期の、源頼朝による奥州征伐のころ、南部光行糠部(現在の青森県から岩手県にかけての地域)の地に土着したとも言われるが、裏付けに乏しい。しかし、この時代から土着していた痕跡とされるものが八戸の習俗として残っている。

旧正月12日に八戸・上北地方で行われる八戸えんぶりがそれである。

吾妻鏡によれば、初代光行が糠部に下向した最初の正月、大晦日を前にして正月の準備が全く揃わない事態となり、困った家臣が光行に相談に言ったところ光行曰く「ならば南部の正月は12日だ」と鶴の一声で、以後南部家の正月は12日となり、南部家においては領民共々正月は12日に祝うようになったとされ、世間においては「南部氏の私改め」と評判を呼び、それが正月の伝統行事とされた八戸えんぶりへと継承された。

このエピソードは当時の南部氏が、後の南部氏と違い、如何に弱小で困窮していたかを知る上でも貴重なエピソードでもある。

南北朝時代[編集]

南北朝時代、奥州鎮撫を目的とした義良親王を奉じた北畠顕家麾下として、伊達行朝と共に南部氏も奥羽に出向く。やがて本拠地である甲斐から離れ、陸奥に移住して陸奥北部最大の勢力を誇る大名にまで転身した。しかし、一族内実力者の統制がうまくいかず、そのために内紛が絶えず発生し、一時、衰退した。

戦国時代[編集]

戦国時代に南部氏二十四代を称した南部晴政が現われると、他勢力を制して地域を掌握する。さらに積極的に勢力拡大を図り、晴政は南部氏の最盛期を築き上げたのである。他方、晴政は外交にも優れており、中央の織田信長とも誼を通じるなどしていた。

しかし、その後家中は内紛に苦しむ。晴政の晩年に(一門とも思われる)大浦為信が独立し、南部氏は津軽地方と外ヶ浜を失うことになる。また、1582年南部信直が晴政・晴継父子から家督を引き継いだ際に晴政親子が急死していることから、「晴政親子は信直によって殺害された」とする説もある。

1590年、信直は豊臣秀吉小田原攻めに参陣して南部七郡を安堵された。同族が起こした九戸政実の乱(九戸一揆)も豊臣政権の手で鎮圧され、安定した基盤を得ることとなる。

江戸時代[編集]

その後、南部氏は江戸時代を通じて盛岡藩 八戸藩 七戸藩として存続する。

明治時代[編集]

明治の世になるとともに華族に列し、1884(明治17)年に、盛岡藩主南部氏は伯爵、八戸藩主南部氏および七戸藩主南部氏は子爵となる。根城南部氏(遠野南部氏)は士族となり、1896(明治29)年に南朝天皇への忠節を賞して特旨を以って華族に列せられ、男爵を授けられた。九戸政実の実弟の系譜 中野氏は士族となった。なお、八戸氏 中野氏は、江戸末期より南部と称することを盛岡南部氏より許され、以後、南部を名乗っている。

ちなみに、鎌倉時代から明治維新まで同じ所領で通したのは南部氏と薩摩島津氏だけで、どちらも所領が中央政権(幕府)から最も遠く離れていたのが理由と考えられている。

南部氏の各支族[編集]

※ 下記のほか、南部氏の支族には、九戸一揆で豊臣軍に敗北した南部一族の有力者・九戸政実の実弟とその子孫が居り、中野氏と称して代々重臣の地位にあった。

根城南部氏(中世)・遠野南部氏(近世)[編集]

甲斐国南部氏は内部に多くの支族を抱えている。その中で、南部師行は、南部氏としては記録上初めて、南北朝時代に北畠顕家に従って奥州に下向した。師行は、糠部(ぬかのぶ)の八戸の地に根城(ねじょう:現青森県八戸市根城)と呼ばれる、従前に工藤氏の拠っていた城を接収し、居城した。師行が一時、工藤氏を称していたとの少数説もあるが、そもそも南部氏は清和源氏、工藤氏は藤原姓とされていることから考えると、にわかには信じがたい。

彼の子孫は八戸氏と称し、一般に根城南部氏(ねじょうなんぶし)と呼ばれる。従来、この系統は南部氏の有力な分家としてみられてきたが、最近の研究では、根城南部氏が宗家であったと推定されている。いずれにしても、14世紀半ばから根城南部氏は次第に力を弱めたが、17世紀前半まで下北半島などを領有し、南部氏のなかでも比較的大きな勢力を有していた。

1617年(元和3年)、所領のうち、下北が、幕藩体制下で宗家としての地位を確固たるものにした三戸南部氏(後述)に接収され、1627年(寛永4年)に遠野に移される。これ以後のこの家系は遠野南部氏と呼ぶ。遠野南部氏は、江戸時代を通じ、盛岡藩の世襲筆頭家臣であった。

なお、根城南部氏が、日蓮(にちれん)に帰依し身延の地を寄進したとされる南部(波木井)実長の伝統を継承する子孫と称するのは江戸時代後期からである。

三戸南部氏(中世)・盛岡南部氏(近世)[編集]

 これに対し、三戸(さんのへ)に根拠を置いた系統も存在した。これを三戸南部氏という。三戸南部氏の出自については明かではないが、14世紀半ば頃に奥州に下向した甲斐国南部氏一族と考えられる。
旧来、三戸南部氏が鎌倉時代、この地に下向した南部氏の宗家と考えられてきた。いつ三戸南部氏が宗家としての地位を築いたかははっきりしない。

根城南部氏も場合によっては三戸南部氏とほぼ同格の存在としてみなされることがあり、室町時代後期には九戸氏も有力者として幕府に認知されており、少なくとも室町期から安土桃山期にかけての南部氏には宗家と呼べるような確固とした権力を所持する家はない、同族連合の状況であった。根城南部氏の当主とされている南部信長が上洛して武田信虎信玄の父)の世話になって室町幕府13代将軍足利義輝に拝謁したという記録の存在も指摘されている。

このような曖昧な状況に終止符が打たれるのは、秀吉による、いわゆる「天下統一」事業により、三戸南部氏の当主南部信直が大名として本領安堵及び津軽為信に与えられた津軽郡の代替地を与えられたころである。近世大名として同族連合を否定し、有力一族も家臣として服属することを求めた信直に反発した九戸政実は激しく対立する。秀吉は政実を近世的秩序である「豊臣の平和」への反逆者として全力で討伐を開始する。政実は滅ぼされ、全国的にも近世秩序を再確認する契機ともなった。

その後、居城を三戸から盛岡に移し、根城南部氏に対しては遠野への知行替を行い、盛岡南部氏の系統が宗家としての地位を固め、近世大名南部氏の座が確立した。

八戸南部氏(近世)[編集]

近世には他に「八戸南部氏」が分立するが、これは、盛岡南部氏の当主南部重直が、実子、養子の死後、4代将軍 徳川家綱に面会して後継者選定と家の存続を願い、それに基づき重直の死後 家綱が裁定して、1664(寛文4)年12月、重直の異母実弟・七戸重信(初め花輪重政)に2万石減封して盛岡8万石を与えて家を継がしめ、同じく異母実弟(重信とも異母)・中里直好(なかざと なおよし)に新知として八戸2万石を与え、事実上の分割相続を行った際に創立したものである。

七戸重信は南部重信、中里直好は南部直房と更称した。直房の嫡子・直政は、5代将軍 徳川綱吉の側衆を経て側用人となり、江戸期南部氏中、唯一、幕政に参画した。 重信は、後、幕府に盛岡藩の高直しを願い出て、領地に変動なく、八戸藩を含むものではなく、10万石となっている。

七戸南部氏[編集]

七戸藩盛岡新田藩)は、重信以後の盛岡南部氏の分知旗本南部氏に、盛岡南部氏が更に分知を行い、幕府に願って分知大名としたものである。分知旗本家を創設の際、七戸藩を創設の際、いずれの分知も名目上は新田開発による打出高を当てたため(新田分知)、盛岡藩の石高に分知の前後で変動はない。

分知旗本南部氏は2系あり、共に重信の子息を初代とする。七戸藩主家とならない もう1系は当主が盛岡藩主となったとき、幕府に願って盛岡藩に併合した。

南部氏歴代当主[編集]

* 以下は三戸南部家の当主である。

  1. 南部光行源光行
  2. 南部実光
  3. 南部時実
  4. 南部政光
  5. 南部宗経
  6. 南部宗行
  7. 南部祐行
  8. 南部政連
  9. 南部祐政
  10. 南部茂時
  11. 南部信長
  12. 南部政行
  13. 南部守行
  14. 南部義政
  15. 南部政盛
  16. 南部助政
  17. 南部光政
  18. 南部時政
  19. 南部通継
  20. 南部信時
  21. 南部信義
  22. 南部政康
  23. 南部安信
  24. 南部晴政
  25. 南部晴継
  26. 南部信直
  27. 南部利直(盛岡藩祖)
  28. 南部重直

系図[編集]

                   ┃ 
                   守行
                   ┃        
  ┏━━┳━━━━┳━━━┳━━━━┻━━━━━━━┓
横田行長 助政  久慈則信 政盛           義政  
  ¦  ┃     ¦   ┣━━┓         ┃
蠣崎氏信時  大浦氏へ 時政 光政        東政継 
     ┣━━┳━━┓  ┣━━┓         ┃
     信義 政康 光康 通継 信実        政重
  ┏━━┥     ┃               ┃
 北致愛 政康   大光寺氏へ  石亀毛馬内   政勝
  ┃  ┝━━━┳━━━━━━┳━━┳━━┓    ┃
 信愛  安信 石川高信    長義  信房  秀範    重康
  ┃  ┃   ┣━━━┓  ┃  ┃  ┃    ┃
  愛清  晴政  南部信直  政信 康義 政頼 政次    直義
  ┃  ┠──┐∥      ┃  ┃  ┃         
  清乗  晴継  信直     盛義 直徳 政氏                        
         ┃        
         利直1盛岡藩藩祖)
      ┏━━┫
      重信3 重直2
   ┏━━┻━━┳━━━━━━━━━━━━━┓
   通信    行信4            政信
   ┃     ┣━━┓          ┃
   広信    利幹6 信恩5          略 
   ┃     ┃  ┃          ┃
   信興    利雄8 利視7         信喜
   ┃     ┃  ┣━━━━┓     ┃
   信依    利謹 利正9   信周     信鄰  
 ┏━┫     ┃  ┃  ┏━┻━┓   ┃
信房 信真    利済12利敬10信丞  信浄  信誉
   │  ┏━━┫     ┃   ┃   │ 
   信順 利剛14利義13   利用11a 利用11b 信民
      ┣━━┓             │
      利恭15信方            信方

南部氏家臣団[編集]

関連項目[編集]