南洋倉庫
南洋倉庫(なんようそうこ)は、大正から昭和時代戦前にかけて、台湾、中国南部や東南アジア各地、特にシンガポールや蘭領東インドなどの各都市で倉庫業を営んでいた株式会社。1920年に日系企業の中国南部・東南アジアにおける貿易活動支援を目的として台北で設立。第一次世界大戦後に業績不振に陥ったが、1930年以降、石原広一郎により更生が進み、金再禁輸以降、業績が好転し、業容を拡大した。
目次
会社沿革[編集]
南洋倉庫は、1920年(大正9)1月、台北で、資本金500万円で設立された[1][2]。
- 台湾総督と台湾銀行頭取の主唱により[3]、日系の拓殖企業家や中小企業の中国南部・東南アジアにおける貿易活動を支援することを目的として設立された[1]。
- 同じように、南洋における日系企業や華僑の貿易活動を支援する目的で、1919年(大正8)1月に資本金1,000万円で華南銀行が設立されていた[4]。
南洋倉庫は、広東、サイゴン、シンガポール、バタビア等の主要都市に倉庫を設けた[3]。
大正末期以降、第一次世界大戦後の戦後恐慌やボイコットにより、業績不振に陥った[5][3]。
石原広一郎は、台湾銀行に対する負債を肩代わりする形で、更生の依頼を引き受け、1930年(昭和5)以降、最高顧問として同社の経営に携わった[3]。
金再禁輸以降、為替安によって輸入量が激増して業績が好転、倉庫の数を増やした[5]。
1938年当時の会社概況[編集]
以下、特に断り書きがない場合の出典は、南洋経済研究所 1938 42。
本社所在地[編集]
支社出張所[編集]
主要幹部[編集]
- 社長 高田儀三郎
- 専務取締役 塩山恭夫、仁田利助
- バタビヤ本部取締役 小笠原延弥
資本金[編集]
80万円
主な出資者[編集]
- 石原産業 9,041株
- 華南銀行 1,500株
- 大永興業 400株
- 岡野繁蔵 370株
- 大槻寿美夫 260株
主な事業[編集]
- 一般倉庫業
- 南洋海運株式会社蘭領インド総代理店
- 東京海上火災保険株式会社その他保険会社の代理店
主な事業地[編集]
シンガポールにおける営業状況[編集]
1920年(大正9)5月、シンガポール支店営業開始、当初、事務所はウインチェスターハウスに設置された[5]。
のち、事務所はチュリア街2号に移転[5]。
初代支店長は、東比古某。2代目:本田光徳が辞職した後、専任の支店長は置かず[5]。
1922年(大正11)本部から矢田某が監督としてシンガポールに赴任し、支店長を兼務[5]。
1926年(大正15)1月にバッテリー路2号に移転[5]。
その後、支店長は、篠田某、川津某が務め、1938年当時は井上清[5]。
ポンチアナク支店[編集]
太平洋戦争中、南洋倉庫は西カリマンタンのポンティアナク市に支店を設置しており、パシルパンジャンからスンガイ・ドリアン飛行場へカプアス河を遡上して曳船で砂を運んでいた[6]。
戦争末期の1945年7月下旬頃、所有船の報国丸と別の曳船1隻が、それぞれ連合軍のB17による機銃掃射と焼夷弾攻撃を受けて炎上し、報国丸の船長が銃撃で即死した。同年8月3日には、社員が連合軍の不発弾を使って防火・消防訓練をした後で、不発弾が爆発して当時の平山支店長と現地人の従業員・サクラニーが死亡した。[6]
付録[編集]
関連文献[編集]
- 久末亮一「『南洋倉庫』の軌跡 - 日系倉庫会社の興衰から見る南進の一側面:1920-1945」『アジア経済』v.60 n.1、2019年、pp.37-67、DOI 10.24765/ajiakeizai.60.1_37
- 石原産業海運株式会社『創業弐拾年史』石原産業海運、1941年、NDLJP 1053399 、pp.25-27
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 奈良 (1980) 奈良文二「日本鉄鋼業と『南洋』鉄鋼資源」国際連合大学『国連大学 人間と社会の開発プログラム研究報告』IDE-JETRO HOME > 研究テーマ別に論文を読む (鉄鋼) > 論文一覧 > 論文ページ
- 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073
- 台湾銀行 (1939) 「華南銀行及南洋倉庫会社の設立並に援助」台湾銀行『台湾銀行四十年誌』台湾銀行、pp.257-261、NDLJP 1453891/211
- 南洋経済研究所 (1938) 南洋経済研究所(編)『南洋関係会社要覧 昭和13年版』南洋経済研究所、p.42、NDLJP 1073765/27
- 南洋及日本人社 (1938) 南洋及日本人社「南洋倉庫」『南洋の五十年』章華社、p.515、NDLJP 1462610/287