出雲大社教
出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は、出雲大社の祭神・大国主命を崇拝対象とする宗教団体。出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造の千家家の第80代当主・千家尊福によって明治6年(1872)に出雲大社敬神講として創始され、出雲大社教会と改称。1882年の神官の布教活動禁止、葬祭禁止の通達を受けて出雲大社から分離され、独立した宗教団体・神道大社派となり、同年神道事務局から独立して神道大社教となった。第2次世界大戦後、GHQの政教分離政策と1882年の通達が無効になったことにより、国家の管理を離れ、1951年に出雲大社教と改称し、出雲大社と合併、翌1952年に宗教法人となった。
沿革[編集]
戦前[編集]
明治維新の後、出雲大社は官幣大社に列格された。出雲国造の千家家の第80代当主・千家尊福は、神道西部管長となり、明治初年の国家神道形成期の神道界で指導的立場にあった[1]。
千家は、明治5年(1872)に出雲大社の大宮司に就任し、明治6年(1872)に「甲子講」「出雲講」と呼ばれた出雲大社の信者団体を結集して「出雲大社敬神講」を組織した[1][2]。
- 柏書房 (2011 249)は、千家は、「祭神論争」で民間の神道系講社が所属する団体・神道事務局に祀る祭神を巡って伊勢神宮の大宮司・田中頼庸と対立したことから、国家神道として祭祀を行うだけでなく、出雲大社の神道の伝道につとめる必要性を感じた、としている。
- 村上 (1978 66)は、千家は、幽冥界の主宰神として人間に安心立命を与えるオホクニヌシノミコトの神徳によって、明治の新政下の人心を導こうと志した、としている。
敬神講は神道事務局に加入したが、「祭神論争」はその後も数年間続き、千家は事務局からの独立を志向[2]。
1882年(明治15)に政府が神官の布教活動禁止、葬祭行為禁止の通達を発出したことから、出雲大社と敬神講の後身である出雲大社教会は分離され、独立した宗教団体・神道大社派が結成された[3]。同年11月に神道大社教と改称し、神道事務局から独立[3]。出雲大社の大宮司を辞任した千家尊福が初代管長となった[3]。
戦後[編集]
第2次世界大戦終結後、GHQによって政教分離政策が実施され、出雲大社は国家の管理を離れ、また1882年の布教・葬祭の禁止令も無効となった[3]。
1951年に教団は出雲大社教と改称し、出雲大社と合併[3]。翌1952年に宗教法人となり、信徒を教育する教務部にあたる存在となった[3]。
教義[編集]
出雲大社教は、オホクニヌシノミコトの経国治幽(ちゆう)の精神と、敬神崇祖を説き、信者の祖霊を出雲大社の境内に鎮祭して祖霊社を設けていた[1]。
- 村上 (1978 66)は、神社に祖霊を祀る(葬祭を行う)ことを、他にほとんど類例がない、出雲大社の大きな特色、と評している。
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柏書房 (2011) 島田裕巳(監修)柏書房(編)『現代にっぽん新宗教百科』柏書房、ISBN 978-4760139729
- 村上 (1978) 村上重良『日本宗教事典』講談社、JPNO 79002209