紅卍字会
紅卍字会(こうまんじかい)は、1922年に中国・山東省で設立され、新興宗教団体の道院を思想・信仰上の背景として慈善事業などの社会活動を行った組織。10数年のうちに中国東北部や華北地方を中心に中国各地に400近くの支部を有するまでに急拡大した。満州事変以降の日中戦争期に、各地での戦闘後に戦死者の埋葬や戦傷者の看護、避難民の救護などの活動を行った。日本軍が中国の各都市を占領した後、中国人に組織させた治安維持会の幹部の多くは紅卍字会の会員だった。日本で自然災害が発生したときに各方面から非難や反対を受けながらも金品を提供する等の活動も行った。大陸では中華人民共和国建国後に日本の帝国主義的侵略の手段となった組織とみなされ、公安当局の闘争の対象となって、解体された。日本法人は2019年現在も存在している。
目次
設立[編集]
1922年(民国11・大正11)に創設され、それから10数年のうちに中国各地に400近くの支部を有し、実勢力は300万人といわれるまでに急速に勢力を拡大した[1]。
日本支部[編集]
1924年に大本の出口王仁三郎によって神戸に日本支部が設立された[2]。
満州事変と紅卍字会[編集]
日本では、1931年(昭和6)の満州事変の後、各地での戦闘後に紅卍字会の会員が戦死者の片付けや埋葬、戦傷者の収容看護や避難民の救護などの活動を行ったことで、その名が知られるようになった[3]。
日本軍の占領後に「満洲国」の要職に就いた張海鵬、張景恵、熙洽らの人物は、紅卍字会の会員だった[3]。
満洲国発足と前後して紅卍字会満洲総会が創設され、新京(長春)に本部を置いた[3]。同会は満洲国皇帝から御内帑金として金20万円を下賜された[3]。
日本での災害時の金品の提供[編集]
日本で災害が発生した際には、中国内部でも内戦や水災が頻発しており、満洲事変以降は排日思想も高揚していた時期で、各方面から非難や反対があったが、日本へ下表の金品の提供や慰問団の派遣を行った[3]。
年次 | 災害名 | 提供額 |
---|---|---|
1923年(大正11) | 関東地方地震 | 米約2,000石 金1万元 |
1927年(昭和2) | 北丹地方震災 | 金5,000元 |
1932年(昭和7) | 三陸地方震災 | 金2万元 |
1933年(昭和8) | 函館火災 | 金1万元 |
1933年(昭和8) | 関西風水害 | 金1万元 |
1935年(昭和10) | 台湾震災 | 金5千元 |
1935年(昭和10) | 伊豆震災 | 金5千元 |
1940年(昭和15) | 静岡火災 | 金5千元 |
日中戦争と紅卍字会[編集]
日中戦争開戦の後、日本軍が占領した各都市、具体的には初期の北京、張家口、大同、石家荘、後の徐州、九江、漢口、更に後の鄭州などでは、治安維持会が組織されたが、その幹部の大部分は紅卍字会の会員だった[4]。
もともと紅卍字会の会員は、教養があって、慈善活動を行うだけの財力を有する各地の有力者が多かった。彼等は、当該地域を支配・統治する政治・軍事指導者が転変する中で、信仰を媒介とした集団を形成し、一族郎党使用人を動員して、民衆の保護につとめていた。[4]
組織[編集]
小田 (1942 103-104)によると、1942年当時の道院・紅卍字会の組織は以下のとおり。
母院[編集]
済南の道院が「母院」とされていた。
総院・総会[編集]
1国に(道院)1総院(紅卍字会)1総会が設置された。
主院・主会[編集]
全国の主要都市に主院が設置され、主院のある都市には主会が設置された。
道院・分会[編集]
道院は中国各地(旧満洲を含む)に約400あり、道院のある所には紅卍字会の分会があった。
主な道院・世界紅卍字会の所在地[編集]
所在地 | 道院名称 | 紅卍字会名称 |
---|---|---|
済南 | 母院 | (世界紅卍字会) |
北京 | 総主道院 | 中華総会 |
天津 | 中央主院 | 中央主会 |
張家口 | 西北主院 | 西北主会 |
南京 | 東南主院 | 東南主会 |
武昌 | 西南主院 | 西南主会 |
奉天 | 東北主院 | 東北主会 |
新京 | 満洲総院 | 満洲総会 |
京城 | 朝鮮主院 | 朝鮮主会 |
宗壇[編集]
山東省の浜県にあった。
行宗壇[編集]
天津の日本租界にあった。
世界紅卍字会[編集]
世界紅卍字会は、1942年当時、世界各国各地の紅卍字会を統括する最高機関として、3ヶ国以上に総会ができたときに正式に成立する予定とされていた[5]。その後、正式に発足したのかは不明。正式な成立までの暫定的な統括機関として下記の3部が設けられていた[5]。
総監察部[編集]
天津に設置。
監察部[編集]
済南に設置。
基本執行部[編集]
北京に設置。
会員[編集]
紅卍字会の会員になることができたのは、道院の修方であり、かつ一定額以上の慈業費を喜捨して「外慈」を行う資格があると認められた人物だった[6]。紅卍字会は実勢力300万人-400万人と称していたが、真の会員数は数万人であり、「300万人-400万人」には、真の会員を中心として活動する一族郎党や使用人などの非会員の数も含んでいた[7]。
事業[編集]
紅卍字会は、「政治を語らず、党派に渉らず」を原則として[8]、以下の活動を行っていた[9]。このため、道院はしばしば当局の弾圧や制限を受けたが、紅卍字会は弾圧や制限の対象になることを免れた[10]。
- 平常時の年中行事としての慈善活動
- 孤児院、恤養院、慈育学校(貧民子弟の教育施設)
- 施診施療(受診者が漢方医と西洋医のいずれかを選ぶことができた)
- 掩埋隊(行路病死者の掩埋)、施棺
- 粥廠(主に冬季に、貧困者に粥を提供)、施米(米粟等を貧困者に提供)
- 資道難民(難民に旅費を与えて帰郷させる)
- 因利局(無利子で小額の資金を貸与する)
- 非常時、天災人禍の際の救済隊の組織
日本軍による利用[編集]
小田 (1942 106-107)は、紅卍字会を、日本の皇道神道を理解し、指導精神を同じくする純粋な支那(ママ)の民族運動と評価し、これと合流・合作ないしこれを指導することによって日本は歴史的発展を遂げることができる、としている。
1961年に「帝国主義日本の長期潜伏スパイ」容疑で検挙された若林不比等は、1932年に関東軍から指示を受けて紅卍字会に介入し、以後、長期間にわたって旧関東州復県の紅卍字会の名誉会長、「満洲国」の紅卍字総会責任会長職を務め、同会を通じて宗教団体を「操縦」していた、とされている。また1937年7月の盧溝橋事件の後には、妻子とともに北平(北京)へ移り、華北派遣軍(北支那方面軍)の特務機関の嘱託となって、表向き「中華紅卍字総会副会長」の身分で、情況を調査し、日本軍が華北地方を統治するための政策や宣撫工作を展開するための策略を提案した、とされている。[11]
日本軍の紅卍字会介入にあたっては、彼の元妻・川上初枝の影響が大きかったともいう。川上は若林や藤原勇造とともに紅卍字会朝鮮主会の設立に関与したとされている。川上が属していた板垣機関の板垣征四郎や、小磯国昭も、道院や世界紅卍字会に関心を持ち、道院から道名をもらっていた。[12]
大連市 (2004 147)は、抗日戦争の時期に、特定の会・道・門は帝国主義日本が中国を侵略するための手段になり、日本の降伏後は国民党の特務機関や反共産主義勢力によって制御・利用され、反共産主義・反人民活動に従事した、と評価している。1949年の中華人民共和国建国後、中国ではこれらの会・道・門は反動勢力として公安当局の闘争の対象になり、弾圧を受けた[13]。特に紅卍字会は早い時期に解体されたようである[14]。
外部リンク[編集]
- 公益社団法人 日本紅卍字会 東京総院 2019年3月11日閲覧
- 世界紅卍字会 埼玉道院 2019年6月13日閲覧
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 小田 1942 100
- ↑ 原 2009 175
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 小田 1942 98
- ↑ 4.0 4.1 小田 1942 99-100
- ↑ 5.0 5.1 小田 1942 103
- ↑ 小田 1942 104-105
- ↑ 小田 1942 104
- ↑ 小田 1942 105は、この原則は、戦乱の時代に弾圧を免れるための一種の保身術であり、実際には道院の精神が活動を通じて社会生活や国家生活(?)に表現されない訳はない、と指摘している。
- ↑ 小田 1942 105-106
- ↑ 10.0 10.1 10.2 小田 1942 106
- ↑ 大連 2004 127-128
- ↑ 三村 1953 264-265
- ↑ 大連市 2004 147
- ↑ 大連市 2004 149
参考文献[編集]
- 原 (2009) 原武史『松本清張の「遺言」 - 『神々の乱心』を読み解く』〈文春新書〉文藝春秋、2009年、ISBN 978-4166607037
- 大連市 (2004) 大連市史辨公室『大連市志・公安志』方志出版社、2004年、ISBN 7801921321
- 三村 (1953) 三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』八幡書店、1986年
- 初出:日猶関係研究会、1953年
- 新装版:八幡書店、2000年、ISBN 4893500163
- 小田 (1942) 「世界紅卍字会存在の意義」大日本興亜連盟『興亜』v.3 n.5、1942年5月、pp.98-107、NDLJP 1538109/55