アントニウス・ボードイン
アントニウス・ボードイン(Anthonius Franciscus Bauduin. 1820年6月20日 - 1885年6月7日)は幕末・明治期のオランダ人お雇い教師であり陸軍軍医である。 「アントニウス・ボードウィン」「ボードワン」とも表記される。
概要[編集]
9人兄弟の5番目(長男)として1820年6月20日にオランダのドルドレヒトで生まれる。父はフランシスクス・ドミニクス・アンドレアス・ボードイン、母はマリア・ヤコバ・マション。 1839年1月15日にウトレヒト大学に入学し学んだ。その間、一時的にウトレヒト陸軍軍医学校でも学ぶ。1845年6月12日にはグロニンゲン大学で 「上顎切除に関する研究」で 医学博士号を取得した。 1843年8月22日より三等陸軍軍医、1847年10月30日から二等陸軍軍医となる。一八六二年の間にウトレヒト陸軍軍医学校教授となる。ウトレヒト大学教授のドンデルスにも教えを受け、眼眼科学、生理学にも精通する[1]。
=来日[編集]
A・F・ポードインの弟のアルベルトゥス・ヨハネス・ボードウィンの推薦により、江戸幕府の招きを受けて来日する。ポンペの後任として1862年 (文久2年)に長崎養生所教頭となる。長崎大学医学部にはボードインの生理学、眼科、内科の講義録が残ささている。1866年(慶応2年)に教頭を離任し、緒方惟準ら留学生を伴って帰国する。帰国する直前に江戸に赴き医学校と理学校を建設する提言を幕府に行う。 ボードインは1867年2月に教え子緒方惟準(洪庵次男)と松本鑑太郎(良順の息)を伴って再度来日する。1869年4月オランダから帰朝した緒方惟準を院長として正式に大阪府仮病院(大阪大学医学部の前身)が発足し、医学校教頭ボードインの講義が始まった[2]。しかしボードインの講義はオランダ語であったため、多くの学生は理解できず、通訳が必要であった。教員たちが訳して、概要を伝える程度であった[3]。 1870年の帰国前にボードインは東京大学医学部の前身である大学東校でも2ヶ月間講義した。大阪では2年間診療と講義を受け持った。京都で襲われて負傷した大村益次郎を手術するも,大村は術後敗血病で死亡する。
帰国[編集]
1870年に帰国する。1873年にはオランダ陸軍に復帰。1884年に退役し、ハーグで1885年に病没した。
上野公園[編集]
1870年(明治3年) 秋 、大学東校 (現 東京大学医学部〉の外国人教師を務 め て い た ボードインは明治政府の役人と共に現在の上野公園の敷地を訪れた。明治政府の役人はこ の地に医学校と病院を設置する予定であるとボードインに告げた。しかし、こうした自然 豊かな場所は公園にすべきであるとボードインは反対し、提言した。そこで現在の東京大 学の敷地に医学校と病院が置かれ、上野の地は3年後の 1873年(明治6年) に上野恩賜公園として開園した。