ヘンリー・アームストロング
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ヘンリー・アームストロング | ||||||
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1943年、米軍メンバーにボクシング技術を指南 | ||||||
基礎データ | ||||||
本名 | Henry Melody Jackson | |||||
通称 | Homicide Hank | |||||
階級 | フェザー級 ウェルター級 ライト級 | |||||
身長 | ||||||
リーチ | ||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||||
生年月日 | 1912年12月12日((2024-1912)+((11-12)*100+(5-12)>=0)-1歳) | |||||
出生地 | ミシシッピ州コロンバス | |||||
没年月日 | 1988年10月22日((1988-1912)+((10-12)*100+(22-12)>=0)-1歳没) | |||||
死没地 | ||||||
所属 | ||||||
構え | オーソドックス | |||||
入場曲 | ||||||
アマチュアボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | ||||||
勝 | ||||||
KO・RSC勝 | ||||||
敗 | ||||||
分 | ||||||
無効試合 | ||||||
獲得メダル | ||||||
金 | 銀 | 銅 | ||||
オリンピック | 0 | 0 | 0 | |||
世界選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
ヨーロッパ選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
アジア選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界ユース選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界ジュニア選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界女子選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
0 | 0 | 0 | ||||
獲得タイトル | ||||||
全日本選手権優勝 | 0 | |||||
全日本社会人選手権優勝 | 0 | |||||
全日本女子選手権優勝 | 0 | |||||
全国高校総体優勝 | 0 | |||||
全国高校選抜優勝 | 0 | |||||
国民体育大会優勝 | 0 | |||||
0 | ||||||
0 | ||||||
0 | ||||||
プロボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | 181 | |||||
勝 | 151 | |||||
KO勝 | 101 | |||||
敗 | 21 | |||||
分 | 9 | |||||
無効試合 | ||||||
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ヘンリー・アームストロング(Henry Armstrong、1912年12月12日 – 1988年10月22日)は、アメリカ合衆国出身の元プロボクサー。ミシシッピ州コロンバス生まれ。元世界フェザー級、ウェルター級、ライト級チャンピオン。身長166cmの体躯にしてフェザー級、ウェルター級、ライト級の順で史上唯一の3階級同時制覇を果たした。8階級しかなかった時代にウェルター級タイトルを同級史上最多の19度防衛した。脈拍29bpmという特異なスタミナを備え、「ハンマリング・ハンク」「殺人ハンク」と畏怖された猛ファイター。左手を下げたクラウチングスタイルで絶えず身体を振りながら敵に迫り、至近距離からPerpetual Motion(永久機関)と形容された左右フックの連打を放ち、反撃はボディワークでかわしながらパンチの動作に繋げた。至近戦は体格で優る相手に効果的で、フェザー級からウェルター級にいきなりウェイトアップしたり、ミドル級の強打者セフェリノ・ガルシアを圧倒したりした。
貧しい労働者の15人兄弟の11番目として生まれる。幼時に父母を喪い、祖母に育てられた。真面目で学校の成績も良く、高校の卒業式ではアームストロングの作った詩が唱和された。鉄道工事作業員となったが生活は貧しく、キューバの天才キッド・チョコレートの活躍に刺激されてボクシングを始めた。
1931年のプロデビュー戦には3回KO負けを喫した。その後は勝ち星を積み上げていくが、時は大恐慌のさなかで、チャンスを求めてシカゴ、カリフォルニアと放浪しながら戦った。放浪の果てに辿り着いたロサンゼルスで、人気歌手アル・ジョルソンにその素質を見出された。ジョルソンにギャング役で知られた俳優ジョージ・ラフト、そしてジョルソンのマネージャーであるエディ・ミードを加えた3人がアームストロングのマネジメントを行うことになり、3人は時の英雄ジョー・ルイスの人気に対抗するため、フェザー級、ライト級、ウェルター級の3階級同時制覇という破天荒な構想を練った。
まず1936年10月27日にマイク・ベロイズとの統一戦で勝利後、1937年10月29日にマディソン・スクエア・ガーデンでタフ・ファイターのペティ・サロンに挑み、6回KOで下してフェザー級世界タイトルを統一した。次はライト級、ルー・アンバースの予定だったが、アンバースのマネージャー、アル・ワイルが対戦を忌避したため、いきなりウェルター級に挑むこととなった。チャンピオンは3階級制覇の不屈のラッシャー、バーニー・ロスであった。ウェイトの足りないアームストロングは、試合前に大量の水を飲んでリングに上がったと言われるが、体格とパワーで勝るはずのロスのパンチを巧みに殺し、懐に入り込んで回転の速い連打で圧倒した。あまりのワンサイドにレフェリーはロスに再三試合中止を勧告したが、ロスは肯んぜず、アームストロングは大差の判定で2冠を制した。
それから3か月と経たない8月17日、件のルー・アンバースのライト級タイトルに挑戦した。アームストロングは5回にアンバースをダウンさせ圧倒したものの目尻と唇を切り、噴き出る血を飲み込みながらの凄惨な闘いとなったが、判定で勝利を得、前人未踏の3階級同時制覇が達成された。
フェザー級タイトルは返上、ライト級タイトルはアンバースに奪回されたが、ウェルター級タイトルは同年11月25日のセフェリノ・ガルシア戦を皮切りとして2年足らずの期間で19度の防衛に成功。1939年10月には1か月で5度の防衛戦をこなした。
そして1940年3月1日、ニューヨーク州公認世界ミドル級チャンピオンのセフェリノ・ガルシアに4階級制覇を懸けて挑戦した。この試合でも試合巧者ぶりを遺憾なく発揮、ガルシアの重いパンチを凌いでインファイトに持ち込み、優勢のうちに試合を進めたが引分に終わった。
1940年10月4日、希代のダーティ・ファイターフリジー・ジビックに判定負けを喫し、守り続けたウェルター級タイトルを失った。再戦では12回KOで敗れ、タイトル奪還は果たせなかった。しかしその後3年間リングに上がり続け、50戦近くを戦って多くの勝ち星を上げた。
引退後はアルコール依存症に陥るが一念発起し、1951年にバプティスト派の牧師になった。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
前チャンピオン マイク・ベロイズ |
第27代世界フェザー級チャンピオン 1937年10月29日 - 1938年9月12日(返上) |
空位 次タイトルホルダー レオ・ロダック |
前王者 バーニー・ロス |
第38代世界ウェルター級王者 1938年5月31日 - 1940年10月4日 |
次王者 フリジー・ジビック |
前王者 ルー・アンバース |
第21代世界ライト級王者 1938年8月17日 - 1939年8月22日 |
次王者 ルー・アンバース |
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