オリックス・ブルーウェーブ
概要[編集]
1988年10月19日、阪急電鉄がオリエント・リースへの球団譲渡を発表。 同年には南海の身売り、更に阪急の身売りが発表された10月19日は近鉄vsロッテの10.19ダブルヘッダーがあった日であり、プロ野球の重大ニュースづくめの中での球団譲渡の発表であった。
この球団譲渡により、阪急ブレーブスは球団名をオリックス・ブレーブスと改め、ユニフォームも青と黄色を基調としたものとなった。本拠地球場は西宮球場のまま。監督は阪急から引き続き、上田利治が指揮を執った。
オリックスとなった1989年は阪急から主軸のブーマー・ウェルズ、石嶺和彦、松永浩美、藤井康雄、南海から移籍した門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを牽引、近鉄、西武との三つ巴の戦いの中、近鉄とのゲーム差無しの2位となる。
1990年も引き続き2位となる。同年、本拠地を西宮球場からグリーンスタジアム神戸へ移転。阪急から引き続き監督を務めた上田利治が辞任し、地元出身である土井正三が監督に代わり、更にチーム名もオリックス・ブルーウェーブとなり、阪急色は消え去った。
1991年のドラフトでは後のメジャーリーガー、田口壮がドラフト1位で入団。そして同ドラフト4位で鈴木一朗、後のイチローが入団する。
1993年オフに監督が土井正三に代わり仰木彬が就任。そして1994年、仰木は鈴木一朗の登録名をイチローとし、怪我や不振で手薄となった外野手から一軍に大抜擢する。そして同年、イチローは日本球界初となるシーズン200本安打を達成した。
1995年、1月17日に阪神淡路大震災が発生。本拠地が被災地の近くということもあり、多くの選手が被災した。震災の影響で神戸での試合が危ぶまれたが、チーム全員が「がんばろうKOBE」を合言葉に奮起。 同年リーグ優勝を果たし、神戸に感動と勇気を与えた。
1996年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは読売ジャイアンツを破って日本一となる。
以降も1999年までAクラス入りと強豪球団として名を馳せた。
しかし2000年には4位となり12年ぶりのBクラスに転落し、オフにはイチローがメジャーリーグに移籍。2001年は勝率5割に戻すも2年連続4位のBクラスとなり、オフには監督の仰木彬が勇退。この年以降、主力の流失や投手陣の崩壊が重なり、2002年~2004年は3年連続最下位に沈んだ。
2004年には球界再編問題で近鉄との合併がなされる事が発表された。そして2005年に近鉄との合併球団、オリックス・バファローズが誕生した。合併球団ではあるが、実質的にオリックス・ブルーウェーブの流れを組んだ球団である。