曹真
曹 真(そう しん、? - 231年)は、中国の三国時代の魏の武将。字は子丹(したん)。
曹操の従子[1]。父は曹邵(秦伯南)[1]。弟に曹彬。子に曹爽、曹羲、曹訓、曹則、曹彦、曹皚。従孫に曹熈。
生涯
『魏略』によると曹真の元の姓を秦氏といい、父が早くに死去したため、曹操に養育されて曹氏を名乗ったという。
一方で父の秦伯南は曹操の身代わりになって殺されたため、幼くして孤児となった[1]。曹操に引き取られて曹丕と生活を共にしたという[1]。ある時、狩猟に出て虎に追われた[1]。振り返って虎を矢で射て倒した[1]。曹操は曹真の勇猛を認めて虎豹騎を率いさせた[1]。曹操・曹丕(文帝)の時代、各地を転戦して数々の戦功を挙げた[1]。226年に文帝が崩御する直前、司馬懿らと共に遺詔を受け、皇太子・曹叡の補佐を命じられた[1]。
228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始して祁山に迫ると、明帝の命令を受けて関中に赴き、魏軍の指揮をとった[1]。張郃が馬謖を撃破して諸葛亮が漢中に撤退すると、安定の住民である楊条らが官民を連れて月支城に籠城した[1]。曹真は自ら軍を進めて月支城を包囲した。楊条は仲間に向かって「大将軍(曹真)が自らおいでになったから、わしはすぐにでも降伏するつもりだ」と述べて自ら後手に縛り上げて外へ出て降伏した[1][2]。こうして諸葛亮に奪われた安定・天水・南安3郡を曹真は悉く奪い返した[2]。曹真は諸葛亮が今度は陳倉を通って出撃してくる可能性が高いと考え、郝昭に城壁を修理させて陳倉を守らせた[2]。229年春、曹真の読み通り諸葛亮が蜀軍を率いて陳倉を包囲したが、郝昭はよく守り抜いて蜀軍を撃退した[2]。この功績により曹真は大司馬に昇進した[2]。
230年、曹真は司馬懿と共同し、自ら魏軍を率いて蜀を攻めた[2]。しかし長雨のため撤退を余儀なくされた[2]。231年、洛陽に帰還して間もなく病に倒れた[2]。明帝は自ら曹真の屋敷に行幸して病気を見舞ったが、曹真は間もなく死んだ[2]。跡を息子の曹爽が継いだ。
人物像
曹真は遠征するといつも将兵と苦労を共にした[2]。兵への恩賞が足りない場合は常に自分の財産の中から分かち与えたため、兵は全員曹真のために役に立ちたいと心から願ったという[2]。
このように史実の曹真は大変な名将なのだが、小説『三国志演義』ではひどい扱いを受けて辱められている。文帝の時代に行なわれた孫権征伐では敗走する。明帝即位直後、諸葛亮と馬謖により明帝・司馬懿の離間策が謀られて司馬懿謀反の噂が流されて多くの重臣がその噂を信じる中で曹真のみは明帝を諌めて慎重な対応をするように進言している。諸葛亮の北伐が始まると諸葛亮にいつも先を読まれて敗北している。史実での諸葛亮撃退や陳倉修築、郝昭抜擢などの功績は全て司馬懿の物にされてしまっている。第2次北伐でも諸葛亮に嵌められて部下の費耀ら数万の兵を失ったり、兵糧輸送に見せかけて薪と芝を運ばせて火計の罠に嵌めようとしたのを逆に嵌められたりするなど、諸葛亮の名軍師ぶりをさらに強調するために徹底したやられ役として描かれている。ただし自らの能力の限界はわかっていたようで、司馬懿に総司令官の印綬を自ら譲渡したりなど度量がある人物として描かれている。最後は司馬懿と共に蜀に攻め込み史実同様に長雨が原因で撤退するが、諸葛亮が追撃してくるかどうかで司馬懿と賭け勝負を行ない、曹真は諸葛亮が追撃してこない方を賭けて司馬懿に敗れる。しかも敗走途中で負傷し、諸葛亮に書状で散々にけなされ曹真は憤激し筆殺される最期が描かれている。