亀井三郎
亀井 三郎(かめい さぶろう)または松森 俊雄(まつもり としお)は、日本の宗教活動家。小田秀人の「霊媒」となって「物品移動」などの「物理現象的霊能」を披露した。[1]
1930年(昭和5)頃、初めて小田秀人と会い、菊花会を創立[2]。
亀井霊媒の支配霊・モゴールさんは「ブロークンな英語交り」で託宣をし、また「すごい念力」を持っていたという[3]。
犬の念でも、こういう風に集中させると、役に立つんだそうだよ。
先ず犬の入れるくらいの穴を掘るんだ。充分深くだよ。そしてその中に犬を入れて、首だけ出して埋める。絶体に飛び出せぬようにしっかり埋めなくては駄目だよ。そして犬の好きな食べものを首の届かぬ所におく。もうちょっとで届くくらい、しかし絶体に届かぬように……そして毎日お美味しそうなものに取り替える。むろんキャンキャン泣くよ。泣いたって食べさせては駄目だよ。そうして1週間でも10日でも、生きてる間中餌をやるんだ。そのうちにとうとう死ぬね。――犬の念は凝るよ――食べたい食べたいの一心に吠え、わめき、とうとうそのまま死なせるんだ。そしてその凝り固まった犬の念を利用するんだそうだ。同情心など、絶対に起こしては駄目だよ。ただ命令だけするんだ。どうだ、やってみる気はないかね。
そんな残酷なことなどできるはずないよ、というと、出来なければ初めからしないことだね。餌代と時間が丸損だからね……。
亀井は、石原純が考案した状況(厳重な金網をめぐらした中)で物品移動の心霊実験を行ったが、同席していた明大の小熊虎之助教授からはインチキ、手品だといわれた[1]。
1931年頃、小田秀人のもとを訪れた内山若枝はたびたび亀井の実験会に参加し、亀井を崇拝していた[5]。
亀井は、新宿のムーラン・ルージュの女性歌手と高野 二郎(たかの じろう)の仮名を使って交際し、同棲していたが、後に離別した。離別後、この女性が別の音楽家と結婚することになったときに、結婚式の仲人の体調が悪くなったり、急死したりしたことがあったという[6]。
菊花会は間もなく経営不振に陥り、亀井は満洲に渡って小田とは音信が途絶した[2]。
戦後の1952年(昭和27)頃、小田と再会し、新日本窒素の支援をうけて小田と「亀井交霊会」を開いた[2]。
しかし小田は、亀井が「一回毎に謝礼金を値上げ」したため、「いささかウンザリ」して秘かに津田江山と「津田交霊会」を開くようになり、亀井はこのことが契機となって小田を憎悪するようになったという[2]。
その後、小田が金沢で本城千代子の真理実行会を支援していたときに、亀井が金沢を訪問して本城に対し小田と縁を切るよう説得したことがあった[7]。
評価
小田 (1985 79)は、亀井は、「一面ダンスの上手なパリパリの近代的プレイボーイ」で、「霊媒業でガメツク手に入れた金は湯水のように気前よくはたいた」としている。
付録
脚注
参考文献
- 小田 (1985) 小田秀人『生命の原点に還れ』たま出版、1985年1月、ISBN 4884811291