新家春三
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新家 春三(にいなみ はるみつ、1814年 - 1896年以前)は、淘宮術の創始者・横山丸三の直弟子・後継者[1][2]。諱は孝悌、通称は彦次郎[3]。
文化11年(1814)11月15日、白山御殿跡大通りに生まれる[3]。
天保6年(1835)、22歳のとき、天源淘宮学と称していた横山の門下に入る[3]。
天保14年(1843)、6月、皆伝を許され、新亀斎春三と号した[3][1]。
嘉永元年(1848)10月に開運淘宮術は江戸幕府によって講義集会を禁止された[4][5]。横山は安政元年(1854)に死去した[6][1]。
明治維新後、横山の門弟のうち、佐野量丸と青木十丸は内務省の許可を受け、大成教会の管理下で、再び一般に淘宮術の宣伝を行うことができるようになった[7]。
新家は、佐野と意見が合わないところがあり、別に公の許可を得て一派を形成した[7]。また正統を継いだのは新家で、淘宮の本家のように言われていた、ともいう[1]。
明治・大正期の医師で、淘道の革新主義を提唱した森友道は、新家の門人だった[8]。
隠居後も蓄髪し、春三と称した[3]。
1896年より少し前に没した[1]。没後は夫人某が門跡を継ぎ、1913年に病没した[9]。その男子・河村某は別に一家門を成した[9]。
付録
脚注
参考文献
- 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
- 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
- 西川 (1914) 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、1914・大正3、NDLJP 908681
- 鈴木 (1966) 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、NDLJP 2985880/8