佐野量丸
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佐野 量丸(さの りょうまる/りょうがん/かずまる、1807年 - 1896年以前)は、淘宮術の2代目の開拓者[1]。諱は正載、通称は清右衛門[2]。淘宮術の創始者・横山丸三の門人で、1855年頃、横山が没した後、2代目の指導者となり、正統を継いだ新家春三とともに淘宮の指導者として並び称された[3]。
経歴
文化4年(1807)11月7日、小石川上餌差町に生れる[2]。
天保元年(1830)3月・24歳のとき、横山に入門[2]。
天保6年(1835)4月、免許皆伝[2]。竹元斎(ちくげんさい)と号した[4]。
嘉永元年(1848)10月に開運陶宮術は幕府によって集会を禁止された[5]。
明治維新の後、佐野と青木十丸は、内務省の許可を受け、大成教会の管理下で、再び一般に淘宮術の宣伝を行うことができるようになった[7]。[8]
新家とは意見が合わないところがあって別派となった[7]。佐野は2代目の指導者として、新家と並び称された[3]。
のちに神道大成教の開祖となった平山省斎や、丸三の直弟子だった吉川尹哲も佐野の門下だった[7]。
晩年には阿声堂と号し、また今哉庵と称した[2]。
1896年より少し前に没した[3]。没後は妻の佐野陽月が門跡を継承した[7]。
付録
脚注
参考文献
- 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
- 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
- 西川 (1914) 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、1914・大正3、NDLJP 908681
- 細川 (1922) 細川潤次郎「淘宮術」『梧園随筆 賸編 3』西川忠亮、大正11、NDLJP 985320/7
- 鈴木 (1966) 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、NDLJP 2985880/8