花岡事件 (遺骨発掘・送還運動)

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花岡事件(はなおかじけん)の遺骨発掘・送還運動(いこつはっくつ・そうかんうんどう)は、花岡事件の犠牲者となった華人労務者の遺骨を発掘し、中国へ送還する運動。1949年の中華人民共和国成立の頃から花岡町労働組合や在日華僑団体によって発掘が行われ、事件や遺骨発掘について団体の機関紙で全国に報道されたことを契機に、日本各地の華人労務者使役事業所でも遺骨が発掘・収集された。1952年12月に新華社が発表した中国残留日本人の帰国支援に呼応して、1953年2月に中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会が結成され、1953年から1964年にかけて日本各地で遺骨を発掘・収集し、中国へ送還した。

華人労務者の遺骨[編集]

1945年10月に花岡事件の戦犯調査を開始した米軍は、鹿島組花岡出張所の「中山寮」で華人労務者の遺体が木箱()に入れたまま放置されていることを確認し、また「鉢巻山」に土葬されていた遺体を鹿島組に掘り起こさせた[1]。調査後に火葬された遺骨は400余人分の箱に分けられて、同年11月に鹿島組から信正寺の蔦谷達元に預けられた[2]

  • 蔦谷は「納骨堂をつくってくれないと預かれない」と断わったが、鹿島組は遺骨を一方的に本堂に置いて帰り、蔦谷はその後何度か鹿島組に納骨堂を建てるよう要請したが、都度断わられたという[3]

鹿島組による発掘で遺骨が全て収集されたわけではなく、花岡ではその後も雪解けや大雨の後に人骨が露出していることがあり、地元の労働組合が遺骨を収集していた[4]

運動化[編集]

1949年6月に、『解放新聞』の記者・朴準が七ツ館事件と花岡事件の調査のため花岡を訪れ、花岡在住で元朝鮮人労務者として花岡鉱山で働いていた金一秀がこれに協力することになった[5]

同年夏に、在日本朝鮮人連盟花岡支部の李鐘応、金一秀、李又鳳が花岡・姥沢の「中山寮」の跡地に人骨が散乱しているのを見付け、ツルハシなどで土を掘り起こし、地中にも大量の人骨が埋まっていることを確認、同年秋に金一秀は東京の留日華僑民主促進会に状況を報告した[6]

  • 新美(2006,p.305)は、李又鳳の証言として、1949年秋に、花岡自由労組の朝鮮人・日本人によって、多数の遺体・遺骨が発掘され、火葬された、としている。杉原(2002,p.172)によると花岡自由労組の結成は1950年1月で、同年9月に同労組が発掘を行なっているが、1949年秋にも発掘をしていたかは不明。

1949年10月に中華人民共和国が成立し、日中友好協会が発足すると、日本の各地に置かれたままになっていた中国人の遺骨の問題が表面化した[7]

同年11月に、鹿島建設は、宗教団体や現地住民、各地の市民団体からの要望を受けて、信正寺境内裏地に「華人死没者追善供養塔」を建立し、遺骨を納骨した[8]

同年11月から12月にかけて、『華僑民報』の記者・鄭龍三が花岡を訪問し、李鐘応・金一秀ら花岡在住の朝鮮人や日本共産党花岡細胞の案内を受けながら現地調査をした[9]

杉原(2002,p.172)によると、1950年1月に『華僑民報』、続いて『赤旗』が花岡事件について報道したことによって、事件が全国的に知られるようになった。

  • 野添(1992,pp.226-227;1975,pp.135-136)は、1951年1月に、前年12月に花岡を現地調査した全日本金属鉱山労働組合本部員の山下竜三の報告が『赤旗』に掲載され、これと前後して『華僑民報』が花岡事件の詳細を発表したことによって、事件が全国的に知られるようになった、としている。

1950年1月に、花岡で、金一秀を委員長として花岡自由労働組合が結成され、以後同組合が中心となって花岡での遺骨発掘・送還運動を進めた[9]

同年2月には、東京で留日華僑総会、留日同学総会、東京華僑聯合会、留日華僑民主促進会の4団体が「遺骨の適切な処置を求める要求書」を日本政府に提出[9]。同年4月には日本中国友好協会準備会が花岡町長にあてて「花岡事件に関する声明書」を送り、犠牲者の遺骨の安置、本国への早期送還、記念碑を建立し「日本国民の誠実な陳謝と反省のよすがとすること」、事件の責任の所在を明かにすることを要望した[9]

この頃、遺骨の収集は運動として行なわれるようになった[10]。1950年4月には金一秀らが大穴跡の遺骨調査を行い、同年8月に留日華僑民主促進会が現地を調査し、同年9月に留日華僑同学会の中国人学生によって遺骨の発掘調査が行われた[11]

  • 同年9月の華僑諸団体による発掘調査の際には、花岡町の失業対策事業の一環として遺骨発掘が行なわれ、9月7日から17日にかけて、朝鮮人11人(延べ40人)、日本人10人(延べ22人)が失業対策費の支給を受けて遺骨の発掘を行なった[12]。このときの発掘では8箱分の遺骨が発掘された[13]

慰霊祭[編集]

発掘・収集された遺骨は、1950年10月に東京・浅草のなつめ寺(運行寺)に移し置かれ、同年11月1日に浅草の東本願寺で、留日華僑総会の主催で「中国人戦争俘虜死亡者慰霊祭」が、開催された[14]

  • 留日華僑総会は事前に東京特別区公安委員会に慰霊祭の執行届を提出し、公安委員会は占領軍などを誹謗しないこと、講演や演説を行わないことなどを条件に開催を許可し、開催当日、東本願寺の周辺に相当数の武装警官を配置して警備した[15]
  • 中華民国駐日代表団は慰霊祭の開催に反対し、開催前日に留日華僑総会に対して個人としての焼香や追悼は許容しつつも、祭文や弔辞、報告、演説、展示などを禁止すべきだとの訓令を発していた[16]
  • 慰霊祭当日、元鹿島組花岡出張所の華人労務者の1人で、戦後も日本に在留していた劉智渠が事件について語ろうとしたところ、中華民国駐日代表団の長官が発言を阻み、劉を退席させた[17]。また金一秀は花岡の現地代表として発言する予定だったが、これも認められなかった[18]

1951年7月に金一秀を遺族代理・施主として初めて花岡で慰霊祭が行なわれ、併せて花岡町で募金活動が行なわれ、以後毎年7月1日に花岡町で慰霊祭と募金活動が行なわれるようになった[19]

慰霊実行委員会[編集]

1951年9月にサンフランシスコ講和条約日米安全保障条約、1952年4月に日台条約が締結されたことで、日中間の公的な外交関係は遮断されたが、民間では交流関係が模索された。1952年12月に新華社は、中国に残留していた日本人の帰国支援を発表し、これを受けて1953年1月に日本の帰国3団体の代表団が訪中し、同年3月に中国紅十字会との間で「日本人居留民の帰国援助問題に関する共同コミュニケ」が締結された。これにより、同年末から1958年7月まで21次にわたって約35千人が中国から日本へ帰国した。[20]

これと並行して、1953年2月27日には、東京で帰国3団体を中心に中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会(慰霊実行委員会)が結成され、日本に連行された中国人の殉難者の遺骨を発掘・収集し、中国へ送還することになった[21]

同年3月に慰霊実行委員会の代表と在日華僑団体の代表は、調査のために花岡を訪問して、信正寺の供養塔下に納骨されていた遺骨を確認[22]。同年3月25日に花岡で行われた慰霊祭の後、同月26日に、信正寺にあった遺骨を東京・浅草のなつめ寺へ移した[23]

同年4月1日に浅草・東本願寺で、慰霊実行委員会により「殉難者慰霊大法要」が催された[24]

送還[編集]

同年7月から1964年11月まで、9回に分けて、日本各地で収集された華人労務者の遺骨2,300-2,400柱は中国に送還され、花岡事件の被害者の遺骨も中国に送還された[25]

  • 遺骨の送還は、1953年に3回、1954年-1958年の間毎年1回、1964年11月に1回行なわれた[26]。第1次の「中国人犠牲者遺骨送還船」・黒潮丸は、1953年7月1日に出航した[27]
  • 東京華僑総会は、1951年-1952年頃に「外務省報告書」を入手しており、遺骨送還に関して外務省管理局と交渉した際に、同報告書を根拠にして政府の責任を認めさせ、遺骨の送還は日本政府が用意した船によって行われた[28]
  • 年を経るごとに、日本各地で慰霊実行委員会が結成され、各地の労働組合が参加して遺骨発掘運動が展開された。東京都では都議会議長が慰霊実行委員会の祭主となり各区長や区議会が協力するなど、地方自治体の参加もあった。仏教者団体は当初から参加していたが、途中からキリスト教者団体も参加し、本郷弓町協会の牧師・田崎健作は1956年の第6次遺骨送還捧持代表団の団長を務めた。[29]

中国に送還された花岡事件の犠牲者の遺骨は、天津市の水上公園にあった抗日殉難烈士記念館に保管された(2006年に同市郊外の在日殉難烈士・労工記念館に移管)[30]

  • 1964年の第9次遺骨送還捧持代表団が捧持した遺骨は、同年11月21日に北京市の広済寺中国仏教教会主催で行われた法要の後、(天津市の納骨堂ではなく)同寺に安置された[31]

遺骨の送還にあたっての日本の赤十字と中国紅十字会の協力関係は、後に花岡事件の損害賠償請求訴訟で和解が成立した後、被害者への補償に中国紅十字会が関与する契機になった[32]

記録報告[編集]

1959年には、新たに中国人殉難者名簿共同作成実行委員会が組織され、従来の調査・発掘・送還の諸活動についての報告書がまとめられた[33]

1960年-1964年にかけて、報告書は『中国人強制連行事件に関する報告書』として刊行された[34]

  • 報告書の中では、遺骨発掘・送還の経緯だけでなく、強制連行の政策決定や「兎狩り作戦」、日本での強制労働の状況などにも言及しており、また「外務省報告書」を引用して作成した、連行者約4万人の氏名、年齢、出身地などの名簿を載せている[35]

同年5月に、同委員会は、中国に代表団を派遣して、中国紅十字会に報告書を渡した[36]

遺骨発掘一鍬運動[編集]

その後も花岡では、しばしば華人労務者の遺骨が見つかっていたが、1960年に鉢巻山で2遺体が発見され、これを契機にして1963年6月5-13日には、中央・秋田慰霊実行委員会の呼びかけで、地元や全国から秋教組高教組、平和団体などから500余人が参加して、花岡・姥沢で「遺骨発掘一鍬運動」が行なわれ、遺体13柱が発掘された[37]

遺骨の発掘作業は同年6月13日で打ち切られ、同日、慰霊実行委員会・鹿島建設・町役場代表に同和鉱業・東京華僑総会代表を加えた会議が開かれ、鹿島建設が慰霊実行委員会に遺体の処理状況を記した覚書を示すこと、花岡以外の事業所での死者について東京で慰霊祭を行うことが取り決められ、花岡の中山寮や「大穴」跡地などに遺跡表示をすることが懸案事項とされた[38]

記念碑[編集]

1963年11月27日に、花岡十瀬野公園墓地(地図参照)に「中国殉難烈士慰霊之碑」が建立された[39]。建立にあたり、鹿島建設は建設費用の一部を負担した[40]

鹿島建設による花岡の中山寮や「大穴」跡地の遺跡表示は進展しなかったことから、1964年から「日中不再戦友好碑をつくる運動」が始められ、建立実行委員会が結成されて全国で募金活動を行い、1966年5月22日[41]に、花岡姥沢の鉱泥に埋められた中山寮を臨む丘の上(のちの滝ノ沢沈殿池近く。地図参照)に「日中不再戦友好碑」が建立された[42]

1971年10月には「日中不再戦友好碑を守る会」が結成され、(1992年当時)毎年6月30日に慰霊祭を行なっている[43]

厚生省による遺骨収集[編集]

1957年3月に、慰霊実行委員会は、厚生省政務次官・同省援護局長と面会し、殉難者の遺骨送還事業を政府が自らの政治的責任において行うべきだ、との見解を伝えた。これに対して厚生省の援護局長は、中央と各地方の慰霊実行委員会の解散、遺骨の所在と数を示す資料の提出、実際の発掘・輸送・送還の日本赤十字社による代行を条件として挙げた[44]

慰霊実行委員会は厚生省の提案を拒否し、事業の移管は行われなかった。しかし、厚生省は、中国から日本への残留日本人の帰還を促進するため、交渉材料となる日本に連行された中国人の遺骨の送還準備・調査を進め、各地方自治体に日本で死没した中国人の遺骨の調査と収集を指示した。厚生省の指示を受けて、1958年から1969年にかけて、関係都道府県による遺骨の調査・収集活動(「中国人死没者調査」)が行なわれた。[45]

東京・小石川の伝通院には、外務省から、「近く本国に送還される予定」の遺骨として、1963年に9人分、1967年に2人分の遺骨が預けられた。1972年に日中の国交が回復した後、「遺骨相互引き取り」が行なわれることになり、1973年6月に山口敏夫厚生事務次官が、伝通院にあった11人分の遺骨を持って中国・北京を訪問、持参した遺骨を渡し、中国紅十字会が保管していた899人分の日本人の遺骨を受け取って、日本へ持ち帰った[46]

運動の退潮[編集]

1960年代中葉以降になると、中国の窓口争いによって日中友好協会運動が分裂したことを契機に、中国人強制連行事件に関する政府・企業の責任を追及する運動や、遺骨の発掘・収集活動は急速に退潮した[47]

1971年には本多勝一古川万太郎の『中国の旅』を契機とした日中戦争の実録の刊行ブームもあったが、1972年のキッシンジャー訪中以降の米中接近によって、日中間の国交回復が米国主導で実現し、日中共同声明で中国が日本に対する戦争賠償の請求を放棄したことにより、中国人強制連行の問題が日中政府間交渉において取り上げられる見込みは薄くなり、むしろ日中友好の気運になじまない過去の出来事として排除・無視されるようになった[48]

1974年には日本の戦争責任を追及する過激派・東アジア反日武装戦線による鹿島建設爆破事件が起きた[49]

付録[編集]

地図[編集]

関連文献[編集]

  • 中国殉難者名簿共同作成実行委員会編『中国人強制連行事件に関する報告書』第1-3編、同実行委員会、1960年[50]
  • 中国殉難者名簿共同作成実行委員会編『40,000人の中国人強制連行の真相』同実行委員会、1961年[50]
    • 中国人殉難者全道慰霊祭事務局『戦時下における中国人強制連行の記録』中国人殉難者全道慰霊祭事務局、1992年に付されている。
  • 中国人強制連行事件資料編集委員会編『草の墓標-中国人強制連行事件の記録』新日本出版社、1964年。NDLJP:2989493 (閉)[50]
  • 赤津益造『花岡暴動-中国人強制連行の記録』〈三省堂新書〉三省堂、1973年、全国書誌番号:71002241

脚注[編集]

  1. 大館郷土博物館(2014)、新美(2006)p.304、野添(1993)p.3
  2. 新美(2006)p.305、杉原(2002)pp.169-170、野添(1993)p.31、野添(1975)p.134
  3. 野添(1993)p.31、野添(1975)p.134
  4. 杉原(2002)pp.169-170、野添(1992)p.226
  5. 杉原(2002)p.171
  6. 杉原(2002)p.171。新美(2006,p.305)は、「金鐘応」が遺骨を発見し、金一秀が報告した、とし、田中(1995,p.177)および石飛(2010,p.337)では、金一秀が遺骨を発見し連絡した、としている。
  7. 野添(1993)p.31、野添(1975)p.135
  8. 新美(2006)p.305、李(2010)p.99、杉原(2002)p.170、野添(1993)p.31
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 杉原(2002)p.172
  10. 野添(1992)p.226
  11. 新美(2006)p.305
  12. 杉原(2002)p.173
  13. 杉原(2002)p.173
  14. 杉原(2002)pp.173-174。新美(2006,p.305)は、「東京華僑総会」の主催で「花岡殉難416烈士追悼会」が開催された、としている。
  15. 杉原(2002)p.174
  16. 杉原(2002)pp.174-175
  17. 劉(1995)pp.3-7、石飛(2010)pp.56-57、野添(1992)p.226
  18. 杉原(2002)p.174
  19. 野添(1992)pp.226-227
  20. 杉原(2002)pp.176-177
  21. 杉原(2002)p.177
  22. 田中(1995)p.178、野添(1993)p.31、野添(1992)p.227、野添(1975)p.136
  23. 新美(2006)p.306、野添(1993)pp.31-32、野添(1975)pp.136-137
  24. 新美(2006)p.306
  25. 新美(2006)p.306、李(2010)p.100、田中(1995)p.178
  26. 杉原(2002)p.177
  27. 野添(1993)p.32、野添(1992)p.227
  28. 石飛(2010)pp.61-63、呉修竹・元東京華僑総会副会長の談話として。
  29. 杉原(2002)pp.177-178
  30. 李(2010)p.105、田中(1995)p.178、野添(1993)p.口絵
  31. 武田武雄「遺骨送還に参加して」(野添,1975,p.195)
  32. 李(2010)p.100
  33. 田中(1995)p.178
  34. 田中(1995)pp.178-179
  35. 田中(1995)pp.178-179
  36. 石飛(2010)pp.46-47
  37. 新美(2006)p.306、野添(1992)p.227
  38. 石飛(2010)pp.201-202-赤津益造『花岡暴動』三省堂、1973年による。
  39. 新美(2006)p.306、大館郷土博物館(2014)
  40. 石飛(2010)pp.77,202
  41. 大館郷土博物館(2014)は、6月としている。
  42. 新美(2006)p.306、大館郷土博物館(2014)、野添(1992)p.235
  43. 野添(1992)p.235
  44. 杉原(2002)p.185
  45. 杉原(2002)pp.181-188
  46. 杉原(2002)p.188
  47. 石飛(2010)p.49、杉原(2002)p.189
  48. 石飛(2010)pp.53-55、杉原(2002)pp.188-190
  49. 石飛(2010)pp.53-55
  50. 50.0 50.1 50.2 野添(1993)p.35

参考文献[編集]

  • 大館郷土博物館(2014) 大館郷土博物館 > バーチャル博物館 > 展示館2F > 花岡事件 2017年7月31日閲覧
  • 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
  • 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
  • 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
  • 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6
  • 田中(1995) 田中宏「解説」(劉,1995,pp.173-198)
  • 劉(1995) 劉智渠(述)劉永鑫・陳蕚芳(記)『花岡事件-日本に俘虜となった中国人の手記』岩波書店、1995年、4002602257
  • 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X
  • 野添(1992) 野添憲治『聞き書き花岡事件』増補版、御茶の水書房、1992年、4-275-01461-8
  • 野添(1975) 野添憲治『花岡事件の人たち-中国人強制連行の記録』〈「人間の権利」叢書16〉評論社、1975年