愛子内親王
敬宮 愛子内親王(としのみや あいこないしんのう、2001年(平成13年)12月1日 - )は、日本の皇族。皇太子徳仁親王と雅子皇太子妃の第一女子。今上天皇の孫。御称号は敬宮。身位は内親王。皇室典範に定める敬称は殿下。お印はゴヨウツツジ(五葉つつじ)。
略歴
2001年(平成13年)12月1日14時43分、東京都千代田区の宮内庁病院で出生。同日、祖父である天皇から守り刀と袴が贈られる「賜剣の儀」が行われた。同年12月7日、「命名の儀」が行われ、天皇から愛子と命名され、敬宮の称号を受けた。名と称号の由来は『孟子』離婁章句下の「仁者は人を愛し、礼ある者は人を敬ふ。人を愛する者は人恒に之を愛し、人を敬ふ者は人恒に之を敬ふ」に拠る。皇太子と同妃、そして学者が相談して内定し、天皇も皇太子・同妃の意向を尊重して命名した。幼時には、両親(皇太子夫妻)から「愛ちゃん」と呼ばれた。国民の祝賀も盛り上がり、お祝いの記帳は誕生の日と翌日で12万人に達した。
2005年(平成17年)春から週2回、東京都渋谷区のこどもの城に通い、音楽遊びなどを通じて集団生活に親しんだ。2006年(平成18年)4月11日、学習院幼稚園に入園。同年11月11日に、袿(うちき)と袴をつけ「着袴の儀」を行った。このとき着けた「濃色(こきいろ、濃い赤色)」の袴は、誕生のときに天皇から贈られたものである。この頃には自転車の練習なども始めている。同年8月、皇太子・同妃のオランダ旅行・滞在に同行して、初めて海外訪問した。
2008年(平成20年)3月に学習院幼稚園を卒園し、同年4月に学習院初等科へ入学した。2009年(平成21年)の初等科2年生時には、漢字の書き取りや習字を行う姿が報道された。
2010年(平成22年)2月下旬から風邪のため欠席しがちだったが、同年3月5日になって野村一成(当時の東宮大夫)が、3月上旬に発生した初等科での児童同士のトラブルから体調不良となり、学校を欠席したと発表し、大きな波紋を呼んだ(詳細は愛子内親王不登校騒動)。2011年(平成23年)秋より、初等科への通学は平常な状態に戻った。
2012年(平成24年)には5年生となり、管弦楽部、バスケットボール部などで練習に励み、学習院女子大学で開かれる英会話セミナーにも通い出したと報道された。恒例の那須御用邸での夏休みには、出迎えた400人の観衆に笑顔で手を振り晴れやかな印象を与えた。
逸話
- 趣味の一つは大相撲の観戦。力士の四股名だけでなく下の名前や出身地も覚えており、父である皇太子が「とてもかなわない」と述べている。2006年(平成18年)の初場所でテレビ観戦中に皇太子徳仁親王が愛子内親王に旭天鵬対玉乃島戦について話を向けると、地位について何も話していないのに愛子内親王は「小結同士ですね」と答えたという。力士の出身地にも詳しくて愛知万博を訪問する父の徳仁親王が「愛知県に行く」と話すと「琴光喜関の出身地の愛知県ですね」と答えた。2006年(平成18年)9月10日、両国国技館にて両親と共に初めて秋場所を観戦し「夢じゃなかったのかしら」と述べたという。2007年(平成19年)9月22日の大相撲秋場所14日目にも皇太子ご夫妻と共に観戦に訪れ、星取表に白星・黒星を書きこまれるなど熱心に観戦した。
- また2009年(平成21年)の2009 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)を契機に、野球にも興味を持つようになっており、選手では内川聖一がお気に入りという。2009年(平成21年)7月12日にはプロ野球公式戦のデーゲーム、ヤクルト-横浜戦(神宮球場)を皇太子ご夫妻と共に観戦された。
- 幼児の時より東宮御所で飼われている犬や猫を可愛がっている。誕生日会見などでも一緒に写ることがある。
- 運動神経が良く、運動会では度々リレーの選手に選ばれている。2013年(平成25年)、6年生では組体操に参加した。
- 書道をたしなんでおり、宮内庁職員文化祭に力強い書を出品した。
- 2012年(平成24年)4月、5年生時に運動のクラブ活動としてバスケットボール部入部を決めた。はじめは野球部入りも考えたが、女子が少なかったため、女子の団体競技としてバスケットを選択したという。
系譜
愛子内親王 | 父: 徳仁親王(皇太子) |
祖父: 今上天皇 |
曾祖父: 昭和天皇 |
曾祖母: 香淳皇后 | |||
祖母: 美智子(皇后) |
曾祖父: 正田英三郎 | ||
曾祖母: 正田富美子 | |||
母: 雅子(皇太子妃) |
祖父: 小和田恆 |
曾祖父: 小和田毅夫 | |
曾祖母: 小和田静 | |||
祖母: 小和田優美子 |
曾祖父: 江頭豊 | ||
曾祖母: 江頭寿々子 |
内親王をめぐって
待望久しかった皇太子の第1子であったことから、誕生と同時に注目を集めた。出産翌日には皇居前広場で祝賀の「国民の集い」が行われ、約2万5000人もの人々が集まった。皇居に記帳所がもうけられ、また赤坂では提灯行列が行われた。出産翌日に対面した今上天皇は「非常に元気そうですね」という感想をのべられた。
しかし、その後メディアに露出することを控えたため、発達の遅れがあるのではないか等といった噂・憶測が、2004年(平成16年)頃に海外メディアを中心に流れ、一部の国内週刊誌にもとりあげられた。この状況を受け、同年6月の定例会見にて林田英樹東宮大夫は、ただちに「事実無根で不本意」と否定。宮内庁は同年9月にスナップ写真や徳仁親王が東宮御所内で撮影したビデオを公開し、事態の収束につとめた。ビデオの中には皇太子を「パパ」と呼びながら絵本を読む姿などが映されていた。
学習院幼稚園に入園してからは、運動会の大玉転がし、オール学習院の集いでの合唱の様子などがテレビに公開されている。その後は、こうしたメディアの定期的な取材を受けることにより、愛子内親王が心身とも健康であることが浸透した。2013年(平成25年)においては、学習院初等科での成績は学年でのトップクラスと伝えられている。
1965年(昭和40年)の秋篠宮文仁親王誕生以降、長く皇室に男子が誕生しなかったため皇室典範見直しの機運が高まり、皇太子に女子が誕生したこともまたこれを後押しした。そのため、2005年(平成17年)から2006年(平成18年)にかけて、「皇室典範に関する有識者会議」において愛子内親王の即位を念頭においた女性・女系天皇の可能性が検討された(皇位継承問題)。その後、2006年(平成18年)9月6日、秋篠宮妃紀子が皇室で41年ぶりの男子・悠仁親王を出産したことで、典範見直しの動きは止まった。
呼称について
父・徳仁親王は誕生後の会見以来「愛子」と呼んでおり、今上天皇・皇后美智子は「敬宮」としていたが、2006年(平成18年)以降は同様に「愛子」と呼んでいる。
マスコミ報道においても当初は御称号が用いられていたが、のちに「愛子さま」へ転じ、「愛子さま」という呼称が国民の間にも広く定着している。
愛子内親王自身の学校生活においては「敬宮愛子」の名が用いられているという。
宮内庁のHPでは「敬宮殿下」か「愛子内親王殿下」となっている。