工藤會
工藤會(工藤会)は、福岡県北九州市に本部を置く指定暴力団。構成員数は2011年度の警察庁の報告によればおよそ630。
北九州地区最大かつ九州地方最大規模の暴力団組織で、北部九州地方に根差した他の数多の暴力団組織と同様、極めて好戦的な傾向を有することが指摘されており、強烈な反警察志向、容易に激昂する、手段としての闘争ではなく闘争行動それ自体に価値を見出す、などの傾向を有することで知られる『九州ヤクザ』の好例であるとの評がある。
暴力団追放運動の関係者宅や一般企業に銃撃し、平然と手榴弾を投げ込むなど、いわゆるカタギの市民をも攻撃対象とすることからまた悪名高く、関係事案の公判において、工藤会への恐怖から証言者5名のうち4名が証言を拒否するなどの異常事態が確認されている。福岡県庁はこうしたことから『極めて凶悪な組織』と形容。警察庁も『極めて悪質な団体』と名指しする。
反山口組の旗手としても知られ、九州地方の独立組織でつくる四社会という親睦団体を道仁会、太州会、熊本会とともに結成している。
来歴
代 | 会長 | 期間 |
---|---|---|
初 | 工藤玄治 | 創立—1987 |
二 | 草野高明 | 1987—1990 |
三 | 溝下秀男 | 1990—2000 |
四 | 野村悟 | 2000—2011 |
五 | 田上文雄 | 2011—現在 |
前身は戦前の小倉に結成された『工藤組』という博徒組織で、その初代が工藤玄治であった。
1946年(昭和21年)、福間町の福間競馬場のスタンドの中央で、下関合田一家の合田幸一総長や工藤玄治から成る集団と、朝鮮連盟の者らとの喧嘩が起こった。するとたまたま居合わせた大長組の大長健一組長以下組員ら5名が合田・工藤らへの援軍に入り、朝鮮連盟の者たちを叩きのめした。その後、一行は博多に入った。
1950年(昭和25年)、若松市の暴力団・梶原組の組員が、工藤組草野組・草野高明組長の弟を刺殺。梶原組と草野組は和解することなく対立を続けた。1963年(昭和38年)には三代目山口組若頭の地道行雄が北九州市内の安藤組と長畠組、そして梶原組を傘下に収める。その後梶原国弘は北九州市での力道山のプロレス興行の実施を地道を通して三代目山口組田岡組長に依頼し、これを田岡が即座に了承。ところがこれを知った草野高明が、梶原への対抗から、市内での北原謙二の公演の開催を決定。これを直接のきっかけとして、工藤組組員らが山口組系組員らを河原で虐殺する、いわゆる紫川事件が発生した。
紫川事件から服役するに至った草野高明が出所後に工藤組を離脱したうえで草野一家を結成。そこから抗争状態に突入した工藤会と草野一家は、双方の幹部に死者を出しながら福岡県下全域で激しい銃撃戦を展開した。特に傘下田中組の組長が草野一家極政会によって殺害された1980年(昭和56年)を境に抗争は激化の一途を辿った。
そうして激しい抗争を続けたものの、1987年(昭和62年)をもってついに草野一家と合併。それまでの『工藤会』から『工藤連合草野一家』へと名を変え、草野一家の総長であった草野高明が当代の総長に就任。やがて若頭であった溝下秀男が1990年(平成2年)に三代目を襲名。1992年(平成4年)に暴力団対策法に基づく指定暴力団となった。
1999年(平成11年)をもって『工藤會』と名を変え、翌2000年(平成12年)に野村悟が四代目を継承。やがて最大傘下組織・田中組の組長であった田上文雄が2011年(平成23年)に五代目を襲名し、前会長の野村は総裁に退いた。
情勢
その主な資金獲得活動には、みかじめ料の要求、違法薬物の密売、公共工事などへの不当介入、更には一般の商取引および経済取引部門への介入、などが含まれるものと見られている。
2000年代から重武装化の兆候が確認されており、2011年には組織の武器庫の一つであったものと見られる、アメリカ製の回転式拳銃やサイレンサー付きの半自動拳銃、イスラエル製ウージー短機関銃やM4カービン自動小銃などの殺傷能力の高い銃火器群を大量に収めたマンションの一室が福岡市内で摘発されている。
他団体関係
道仁会、太州会、熊本会とは四社会を通して盟友関係にある。住吉会とは親戚団体の関係にある。山口組関係者の言によると、司六代目体制に入った山口組が組織ぐるみの縁を築いていない組織は、道仁会と住吉会、そして工藤会のみである。
かつては山口県の合田一家や兵庫県の忠成会、広島県の共政会、岡山県の浅野組などとともに、反山口組を掲げる親睦団体・関西二十日会を結成していた。
2001年度の警察白書は、その前年に発生した暴力団抗争事件の目立った事例として、工藤会の山口組との抗争事件を採り上げている。福岡県と山口県を舞台に頻発したその抗争事件の過程で、工藤会は山口組傘下組織の組長を射殺している。
2008年に三代目会長の溝下秀男が死去した際には、同業界すなわち暴力団界の代紋頭や最高幹部などの大物陣が日本全国各地から葬儀に駆けつけた。いわゆる指定暴力団組織に着目すれば、全22団体中、九州誠道会のみを除いた全団体の頭目ないしはその名代が参列した。
暴追関係
暴力団対策法実施後の1994年、当局から受けていた再発防止命令を無視してみかじめ料の要求を行ったとして傘下組織の組員が検挙された。これは全国初の同法違反に基づく検挙例であった。
2006年には福岡県警の製作による反暴力団関係のビデオに関し、これの学校での上映を検討していた市教委に対して上映の中止を要望する旨の申し入れを行ったことが注目を集めた。最高顧問の林武男名義で送付されたその請願書は、当該ビデオの上映を人権侵害に当たる行為であるとし、それによって起こりうる組員の子息らへのいじめの誘発への懸念の旨などを記していた。これに対して市教委は返答が可能な段階には未だ至っていないとし、県警側は指摘されたような内容のものではないとの反論を示した。
北九州市内小倉南区に新たな事務所を設立した2010年には、その立地が小学生児童らの通学路に隣していたことが問題となった。これを受けて北九州市は近辺への防犯カメラの配置を決定。それからほどなくして県では暴力団排除条例が実施の運びに至り、警察庁長官の安藤隆春が現地を視察。工藤会を壊滅に追い込むよう捜査員らに訓示した。
防犯標榜活動
工藤会はいわゆる中国人犯罪の排除を提唱し、1990年代の後半頃からというもの、組員数十人を動員したうえで北九州市内の繁華街における中国人経営の風俗店や酒場の存在を調査させ、発見しだいそれらを街から追放するという活動を行ってきた。市内小倉の繁華街にあっては、中国人経営のスナックが放火されるなどの事件が相次ぎ、中国人の経営によるその種の店舗は街から完全に姿を消している。
市民対象暴力
工藤会はいわゆるカタギの一般市民をも容易に攻撃対象に加えるとして悪名を高めている。著名な事例としては、歴史的なものでは、中華人民共和国在福岡総領事館を散弾銃で攻撃(1988年)、福岡県警元暴力団担当警部宅にガソリンを撒布し放火(1988年)、パチンコ店や区役所出張所などを17件前後にわたって連続的に銃撃(1994年)、などが挙げられ、2000年代以降のものでは、暴力団事務所撤去の運動に取り組んでいた商店に車両で突撃、暴力追放を公約に掲げて当選した中間市長の後援市議を襲撃、警察官舎敷地内の乗用車に爆弾を設置、九州電力の会長宅に爆発物を投擲、西部ガスの関連会社と同社役員の親族宅を銃撃、暴力団追放運動主導者の経営するクラブに手榴弾を投擲、次期総理大臣であった安倍晋三の下関市の自宅と後援会事務所に火炎瓶を投擲、工藤会追放運動を推進していた自治連役員宅を銃撃、みかじめ料の要求を断ったパチンコ店を火炎瓶や放火などをもって執拗に攻撃、などが幅広い報道の対象となった。
わけても手榴弾を用いたクラブ襲撃事件は、福岡県警が大規模な取り締まり強化態勢を布いていたさなかの出来事であり、この件を受けて県警幹部は、これを市民に対する『テロ行為』であるものと断言、『工藤会は越えてはならない一線を越えた』との声明を発した。西部ガスの件を全国ニュースとして報道したNHKは工藤会関係者を名乗る男からの脅迫電話を受け取っている。
工藤会元幹部が撃たれ死亡、福岡県筑紫野市(2012年7月)
7月8日午後3時40分ごろ、福岡県筑紫野市光が丘3のマンション入り口で「人が倒れている」と110番があった。福岡県警によると、倒れていたのは暴力団工藤会(本部・北九州市)の江藤允政元幹部(65)で、腹部から血を流していた。拳銃で数発撃たれたとみられ、病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。
県警筑紫野署は犯行の手口などから暴力団が関与した疑いがあるとみて、殺人容疑で捜査を始めた。
県警によると、江藤元幹部は現場のマンションの住人。1階入り口のオートロック式ドアの内側で、長袖シャツにジーンズ姿であおむけに倒れていた。近くの住民が同日午後3時ごろ、拳銃の発射音とみられる音を複数回聞いたという。
県警によると、江藤元幹部は2008年に引退していた。県警は暴力団関係者と何らかのトラブルを抱えていた可能性があるとみている。
現場はJR鹿児島本線の原田駅から東に約2キロメートルのマンションなどが立ち並ぶ住宅地。付近には小学校やスーパーなどがある。筑紫野署は9日、署員ら約50人態勢で、筑紫野市内の小中学校の通学路を警戒する予定。
福岡県内の発砲事件は今年、建設会社社長や県警の元警部が撃たれ重傷を負った事件などに続き4件目。同県では昨年、発砲事件が全国最多の18件起きたが、今年の発生分も含め県警が容疑者を逮捕したのは2件にとどまっている。
五代目工藤會
- 総裁 野村悟
- 会長 田上文雄
- 最高顧問 林武男
- 執行部
- 会長代行 本田組組長・本田三秀
- 理事長 五代目田中組組長・菊池啓吾
- 総本部長 石田組組長・石田正雄
- 幹事長 二代目津川組組長・木村 博
- 組織委員長 三代目極政組組長・今田雄二
- 風紀委員長 長谷川組組長・長谷川泰三
- 懲罰委員長 山本組組長・山本峰貢
- 渉外委員長 篭縞組組長・篭縞武志
- 総務委員長 山中(政)組組長・山中政吉
- 事務局長 田中(十)組組長・田中十四春
- 理事長補佐 山下組組長・山下義徳
- 顧問 添島組組長・添島弘之
- 常任相談役
- 三代目林組組長・林忠道
- 永田組組長・永田雅登
- 中島組組長・中島直人
- 玉井組組長・玉井金芳
- 緒方組組長・緒方紀年
- 三代目土谷組・奥平政義
- 松本組組長・松本光将
- 林(政)組組長・林政美
- 二代目矢坂組組長・山本和義
- 西田組組長・西田明吉
- 総裁秘書 木政組組長・木村政勝
- 総裁付
- 白石組組長・白石孝
- 大池組組長・大池洋司
- 大原組組長・大原康昭
- 井塚組組長・井塚則夫
- 久保組組長・久保恵
- 事務室長 上髙組組長・上髙謙一