西暦
元来、「西暦」は西洋の暦法であるグレゴリオ暦(あるいはユリウス暦)を指しており、「西紀」が西洋の紀年法であるキリスト紀元というように分けて指していたが、後に混同され、現在では「西洋の暦法」「西洋紀元」が一緒に「西暦」と呼ばれている。
19世紀ごろからキリスト教国家を中心に、世界で最も広く使われている紀年法である。
目次
歴史
西暦は6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出された。525年、ディオニュシウスはローマ教皇ヨハネス1世の委託を受けてキリスト教の移動祝日である復活祭の暦表(復活祭暦表)を改訂する際に、当時ローマで用いられていたディオクレティアヌス紀元(ローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位を紀元とする)に替えて、イエス・キリストの受肉(生誕年)の翌年を元年とする新たな紀元を提案した。これはディオクレティアヌスがキリスト教の迫害者であり、その名を残す事を嫌ったからである。
聖書の記述によると、イエスが復活した日はユダヤ教の過越の祭り(春分の頃の最初の満月の日)の前日から三日目の日曜日(主日)であり、伝承では「ユダヤ暦でニサンの月の14日」(ユリウス暦の3月25日)とされていた。ディオニュシウスはイエスの生誕年を求めるにあたり、ディオクレティアヌス紀元279年が、伝えられるイエスの復活した日の状況と合致することを発見した。そこで、ここから復活祭(過越の祭りと同日)の日付が532年で一巡するという当時の知識に基づき、イエスの復活した年を求め、その時のイエスの年齢が「満30歳であった」とする当時の聖書研究者の見解を根拠として、更に31年遡った年がイエスの生誕年に当たるとした。これにより「ディオクレティアヌス紀元248年=キリスト紀元532年」として復活祭暦表に記載した。532年から記載されたのは、改定前の復活祭暦表にはディオクレティアヌス紀元247年までの復活祭が記載されていた為である。
西暦1年から531年までは概念上の存在であり、実際の紀年法として使用されていた訳ではない。その後も長らくこの紀年法は受け入れられず、731年にベネディクト会士ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史(イギリス教会史)』をキリスト紀元で著してから徐々に普及し、10世紀頃にようやく一部の国で使われ始め、西欧で一般化したのは15世紀以降のことであるという。
西暦が国際社会でもっとも用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国の世界進出や植民地拡大により非キリスト教国でも西暦が普及したからである。
正教圏
東ローマ帝国などの正教会諸国では10世紀以降、世界創造紀元(『旧約聖書』の『創世記』にある天地創造が基準。西暦紀元前5508年を元年とする)が使用されていた。現在も正教会の幾つかの教会で使用されている。西暦がキリスト教圏すべてで用いられた訳ではないので、注意が必要である。
また紀年法が異なるのみならず、正教圏では20世紀初頭に至るまで西欧とは異なり、グレゴリオ暦ではなくユリウス暦が用いられていた。現在でもアトス山、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会などがユリウス暦を使用している。他方、コンスタンディヌーポリ総主教庁、ギリシャ正教会などは修正ユリウス暦と呼ばれる、月日にグレゴリオ暦と同様の修正を施したユリウス暦を使用している。
西暦元年とイエス生年のズレ
ディオニュシウスの求めた紀元は、今日推定されるイエスの生年から4年ほどずれている。現在では、イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前4年頃に生まれたと考えられている。これは、新約聖書によるいくつかの記述が根拠となっている。
一つ目は「大規模な人口調査が行われた年にイエスがベツレヘムで誕生した」という記述がルカ福音書2章にあり、人口調査は紀元前4年に行われたとされていること。二つ目は、「救世主イエス誕生の話を耳にしたヘロデ大王が、新たな王の存在を恐れ二歳以下の幼児を虐殺させたためにイエスと両親がエジプトに避難した」という記述がマタイ福音書2章にあるためである。
これらの記述に歴史的な裏づけはないが、ヘロデ大王在位中にイエスが誕生したことは明らかであり、ヘロデ大王の死は当時の文書などにより紀元前4年と確定しているので、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられている(史的イエス#十字架での生年と没年も参照)。
紀元前
西暦において紀元前を表記する場合、西暦1年の前年を0年ではなく紀元前1年とし、過去に遡る度に年数を重ねる「西暦紀元前」を使う。これは17世紀フランスの神学者ドニ・プトによる案で、18世紀末になってようやく一般化した。
日本では、通常「紀元前」と表記する。日本での欧文表記は、英語の略であるB.C.又はBCである。
表記
東洋
漢字圏では西暦年を表す際、元号との統一性から漢字二文字を接頭辞的に使い、「西暦年」のように表すのが一般的である。
日本語では通常「西暦」と表記する。キリスト教由来の紀年法として明示する場合は「キリスト紀元」と表記する。「紀元」と紀年法を明示せずに表記する場合、現在ではキリスト紀元(西暦)を指しているが、明治期から太平洋戦争終了までは神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。
中国語では「公元」や「西元」を使う。「公暦紀元」や「西暦紀元」の略である。
韓国語では「西紀」や「紀元」を使う。「西洋紀元」の略である。
西洋
ラテン語では、イエス・キリストの誕生年と考えられていた年を(主(イエス・キリスト)の年に)と書き、これに具体的な年を続ける。 これらは世界共通ではなく、主な言語での呼び名・略記は次の通りである。
言語 | 西暦 | 略 | 紀元前 | 略 |
---|---|---|---|---|
ラテン語 | Anno Domini | A.D. | Ante Christum | A.C. |
英語 | Anno Domini | A.D. | Before Christ | B.C. |
フランス語 | Après Jésus-Christ | ap.J-C | Avant Jésus-Christ | av.J-C |
ドイツ語 | nach Christus | n. Chr. | vor Christus | v. Chr. |
スペイン語 | Despues de Cristo | d.C. / D.C. | Antes de Cristo | a.C. / A.C. |
英語では西暦には英語固有の表現を使わず、ラテン語を使う。日本での「西暦はラテン語・紀元前は英語」の組み合わせは英語に由来する。
西暦年を下2桁で表す習慣は西洋にもあるが、西暦1年から99年までの表記との混同を避けるため、下2桁と A.D. などを組み合わせて使うことはない。
共通紀元
19世紀から20世紀初期にかけて、西洋のシステムがグローバルスタンダードになって行く中で、非キリスト教圏にも西暦が浸透していった。これについて、特に欧米の非キリスト教徒には強い抵抗感があったといい、そのため、例えば英語圏では Anno Domini を Common Era(共通紀元、C.E. と略す)、Before Christ を Before Common Era(B.C.E.)と言い換える動きも見られる。たとえば、Unicode Standardでは一貫してテンプレート:Smallcapsとテンプレート:Smallcaps(スモールキャピタル)を使っている。
一方で、キリスト紀元であることには変わりがないのだから言い換えたところで同じである、キリスト紀元を common と言い切ることは傲慢である、キリスト教の産物を無自覚のうちに使わされてしまう、などの反論もある。これらの立場の者の中には、西暦を Christian Era(略号は同じ C.E.)と呼ぶ者もいる。とはいえ、キリスト教暦は宗派によって異なるので必ずしも適切であるとは言えない。
西暦と各国の紀年法の関係
日本
日本においては西暦が使われるようになったのは、西洋に合わせる形で明治5年(1872年)に天保暦(太陰太陽暦)からグレゴリオ暦(太陽暦)への移行が決まってから(経緯の詳細は「グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入」参照)のことであり、日常生活に普及し始めたのは第二次世界大戦後のことである。
日本の公の機関が作成する公文書における年の表記には、元号法制定時の政府見解[1]にも拘らず、基本的に元号のみが用いられており、西暦による記載はほぼ排斥されている。元号法は元号の制定手続きを定めているが、「政府機関は元号を用いねばならない」とは定められていない[2]。許認可の証明書(発行日、有効期限など)、法令、判例でも、全て元号のみに統一されており、西暦による記載は行われていない。
ただし、気象測器検定規則(平成14年3月26日国土交通省令第25号)に定められた気象機器の検定証印の年表示や、乳及び乳製品の成分規格等に関する省令(昭和26年12月27日厚生省令第52号)に定められた食品の賞味期限表示の一部のように、西暦を使用する法令も存在する。また一部の白書は、西暦主体の表記となっている。
今日の日常生活では、元号よりも西暦を使うか、元号を用いる際にも「嘉永3年(1850年)」「明治23年(1890年)」「大正9年(1920年)」「昭和15年(1940年)」「平成12年(2000年)」のように西暦と併記することが格段に増えている。主要なマスメディア(新聞・テレビ等)の多くは、主に西暦を使用しており、法令番号や判例など、元号で記される公文書を示す場合は、西暦に換算するか西暦を併記している。インターネットにおいても、元号より西暦が使用されるケースの方が多い。
西暦と同様の紀年法として、日本には神武天皇即位紀元(皇紀、神武紀元)が存在する。明治期から太平洋戦争終了までは元号と共に皇紀もよく用いられたが、現在では殆ど使用されていない。但し、現在でも有効である閏年の置き方に関する勅令(閏年ニ関スル件、明治31年5月11日勅令第90号)では、神武天皇即位紀元が使用されている。
西暦に対応して元号のことを和暦のほかに、邦暦と呼ぶこともある。
中国
中華民国では、辛亥革命勃発(1911年)の翌年に当たる1912年に元号を廃止し、中華民国が樹立された1912年を元年とする民国紀元(中華民国暦)を採用した。中華民国では宣統の次の元号のように「民国」という表記で扱われている。中華民国が台湾に逃れた1949年10月以降も、政府機関が公式に使用している紀年法であり、民間では西暦と共に使用されている。
1949年10月に成立した中華人民共和国では、民国紀元も廃止され、政府機関も民間も西暦(公元)に統一されている。歴史に関する話題で元号を使用(あるいは併用)していても、1912年以降は元号が廃止されているので西暦のみを使用する(中華民国時代についても民国紀元を使わない)。
脚注
- ↑ 元号法案(趣旨説明)での答弁 参議院会議録情報 第087回国会 本会議 第13号、1979年(昭和54年)4月27日
- ↑ 一方で西暦には元号法のような法律規定は存在しない。