「佐野量丸」の版間の差分
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− | 文化4年(1807)11月7日、[[小石川]]上餌差町に生れる{{Sfn|大井|1868|p=36}}。 | + | 文化4年(1807)11月7日、[[小石川]]上餌差町に生れる{{Sfn|大井|1868|p=36}}。[[御家人]]の青木家に生まれ、祖父の佐野氏を嗣いだ{{Sfn|藤田|2019|p=352 - 日本淘道会『淘道』による。}}。[[青木十丸]]は弟{{Sfn|藤田|2019|p=352 - 日本淘道会『淘道』による。}}。 |
天保元年(1830)3月・24歳のとき、横山に入門{{Sfn|大井|1868|p=36}}。 | 天保元年(1830)3月・24歳のとき、横山に入門{{Sfn|大井|1868|p=36}}。 | ||
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新家とは意見が合わないところがあって別派となった{{Sfn|西川|1914|p=125}}。佐野は2代目の指導者として、新家と並び称された{{Sfn|井上|1896|p=228}}。 | 新家とは意見が合わないところがあって別派となった{{Sfn|西川|1914|p=125}}。佐野は2代目の指導者として、新家と並び称された{{Sfn|井上|1896|p=228}}。 | ||
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− | *{{Aya|大井|year=1868}} | + | *{{Aya|大井|year=1868}} 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、{{NDLJP|2209062/10}} |
*{{Aya|井上|year=1896}} 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、{{NDLJP|1080793/118}} | *{{Aya|井上|year=1896}} 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、{{NDLJP|1080793/118}} | ||
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佐野 量丸(さの りょうまる/りょうがん/かずまる、1807年 - 1896年以前)は、江戸時代後期の御家人、淘宮術の指導者[1][2]。諱は正載、通称は清右衛門[3]。淘宮術の創始者・横山丸三の門人で、1855年頃、横山が没した後、2代目の指導者となり、正統を継いだ新家春三とともに淘宮の指導者として並び称された[4]。
経歴[編集]
文化4年(1807)11月7日、小石川上餌差町に生れる[3]。御家人の青木家に生まれ、祖父の佐野氏を嗣いだ[5]。青木十丸は弟[5]。
天保元年(1830)3月・24歳のとき、横山に入門[3]。
天保6年(1835)4月、免許皆伝[3]。竹元斎(ちくげんさい)と号した[6]。
嘉永元年(1848)10月に開運陶宮術は幕府によって集会を禁止された[7]。
明治維新の後、佐野と青木は、内務省の許可を受け、大成教会の管理下で、再び一般に淘宮術の宣伝を行うことができるようになった[9]。[10]
新家とは意見が合わないところがあって別派となった[9]。佐野は2代目の指導者として、新家と並び称された[4]。
のちに神道大成教の開祖となった平山省斎や、丸三の直弟子だった吉川尹哲も佐野の門下だった[9]。
晩年には阿声堂と号し、また今哉庵と称した[3]。
1896年より少し前に没した[4]。没後は妻の佐野陽月が門跡を継承した[9]。
著書[編集]
- 佐野量丸『分宮考』[11]
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 大井 (1868) 大井正元三始氏「淘宮元祖先聖伝記并略年譜」天源淘宮術研究会『天源淘宮術秘訣』松成堂、1909・明治42(原著:慶応4・1868)、pp.4-44、NDLJP 2209062/10
- 井上 (1896) 井上円了(講述)『妖怪学講義 合本第3冊 増補再版』哲学館、明治29、pp.225-236、NDLJP 1080793/118
- 西川 (1914) 西川光次郎『神道教祖伝 - 霊験奇瑞』永楽堂、1914・大正3、NDLJP 908681
- 細川 (1922) 細川潤次郎「淘宮術」『梧園随筆 賸編 3』西川忠亮、大正11、NDLJP 985320/7
- 鈴木 (1966) 鈴木龍二「相沢翁と淘宮術」相沢菊太郎ほか『相沢日記・続』相沢栄久、7-9頁、NDLJP 2985880/8
- 藤田 (2019) 藤田英昭「幕末維新期の大奥と『淘宮術』」『論集大奥人物研究』東京堂出版、pp.345-371、ISBN 978-4490210200