「イブラヒム・ヤーコブ」の版間の差分
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1938年、SITCの同窓生や新聞記者ら約100人と、マレー社会の改革、[[イギリス]]支配からの独立を標榜する{{仮リンク|マレー青年同盟|label=マレー青年同盟(Kesatuan Melayu Muda; KMM)|en|Kesatuan Melayu Muda}}を結成{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。マラヤ各地で遊説を行なった{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。 | 1938年、SITCの同窓生や新聞記者ら約100人と、マレー社会の改革、[[イギリス]]支配からの独立を標榜する{{仮リンク|マレー青年同盟|label=マレー青年同盟(Kesatuan Melayu Muda; KMM)|en|Kesatuan Melayu Muda}}を結成{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。マラヤ各地で遊説を行なった{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。 | ||
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+ | *{{Harvtxt|フォーラム|1998|p=672}}は、シンガポール日本総領事だった鶴見憲が、[[同盟通信|同盟]]記者・[[飼手誉四]]を通じてKMMに資金を援助し、『ワルタ・マラヤ』紙を買収させ、反英運動助長を図った、としている。 | ||
+ | *{{Harvtxt|鶴見|1986|p=292}}によると、戦後、鶴見憲は、資金提供の件について、自身の記憶になく、担当していたのは総領事館員として活動していた陸軍少佐だろうと語っていた。同書は、『ワルタ・マラヤ』はジャーナリストだったイブラヒムにとって自然な隠れ蓑になり、各地に支局を持つ情報機関になった、としている。 | ||
+ | *{{Harvtxt|篠崎|1981|p=174}}によると、鶴見憲は情報・宣伝工作を積極的に推進し、鶴見が総領事の時代に陸軍参謀・[[鹿子島隆]]少佐が総領事館に入り、情報・宣伝工作を担当した。 | ||
− | + | {{Harvtxt|鶴見|1986|pp=292-293}}によると、イブラヒムは開戦直前期に[[英国諜報部]]とも接触し、[[トレンガヌ州]]の総務長官[[オマール]]と接触して[[蘭印|オランダ領]]だった[[リアウ州|リオ]]の独立工作に携わった。 | |
=== 日本軍占領時期 === | === 日本軍占領時期 === | ||
KMMのメンバーの多くは[[マレー作戦]]直前に英国植民地当局によって逮捕されたが、1942年2月の日本軍によるシンガポール陥落後に解放された{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}。 | KMMのメンバーの多くは[[マレー作戦]]直前に英国植民地当局によって逮捕されたが、1942年2月の日本軍によるシンガポール陥落後に解放された{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}。 | ||
− | 日本軍によるマラヤ占領後、日本軍はKMMの政治活動を禁止し{{Sfn|フォーラム|1998|pp=13,672}}、イブラヒムら元KMMの幹部は[[マライ軍政監部]]顧問室に勤務した{{Sfn|フォーラム|1998|pp=55,672}}。この頃、イブラヒムは[[マラヤ共産党]] | + | 日本軍によるマラヤ占領後、日本軍はKMMの政治活動を禁止し{{Sfn|フォーラム|1998|pp=13,672}}、イブラヒムら元KMMの幹部は[[マライ軍政監部]]顧問室に勤務した{{Sfn|フォーラム|1998|pp=55,672}}。この頃、イブラヒムは[[マラヤ共産党]](MCP)と秘かに接触していた{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|p=165。イブラヒムの回想録の中に、[[MPAJA|共産軍]]の[[スルタン・ジュナイ]]と連絡を取っていたとの記載があった(同)。}}。 |
1944年1月、日本軍は[[マライ義勇軍|義勇軍]]を組織し、イブラヒムを隊長に任命{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。イブラヒムはKMMを改組して日本軍に協力した{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。 | 1944年1月、日本軍は[[マライ義勇軍|義勇軍]]を組織し、イブラヒムを隊長に任命{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。イブラヒムはKMMを改組して日本軍に協力した{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。 | ||
=== クリス運動 === | === クリス運動 === | ||
− | 1945年7月、マライ軍政監部調査部民族班で民族工作に携わっていた[[板垣與一]]からの要請を受けて、マレー系住民の政治的自立を目指す[[クリス運動| | + | [[ファイル:Ibrahim_Yaacob_1.jpg|thumb|イブラヒム・ヤーコブ(右から2人目)。1945年8月13日、[[タイピン]]飛行場にて{{Sfn|フォーラム|1998|p=30}}]] |
+ | 1945年7月、マライ軍政監部調査部民族班で民族工作に携わっていた[[板垣與一]]からの要請を受けて、マレー系住民の政治的自立を目指す[[クリス運動|クリス(KRIS)運動]]の指導者となり、{{仮リンク|ムスタファ・ハッサン|ms|Mustapha Hussain}}、{{仮リンク|イシャク・ハジ・モハメド|en|Ishak Haji Muhammad}}ら戦前のKMMのメンバーとともにマラヤ各地にクリス協会支部を設立{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}{{Sfn|リー|1987|p=170は、1973年頃、イブラヒムから直接聞いた話として、1945年7月頃にマレー半島のマレー人を統一してインドネシアに引き入れるために組織を結成した、としている。}}{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=154-158}}。 | ||
− | クリス協会は1945年8月17-18日に発足を予定し、同月13日にイブラヒムは板垣を介して[[タイピン (ペラ州)|タイピン]]飛行場でインドネシア独立運動の指導者である[[スカルノ]]、[[ハッタ]]および{{仮リンク|ラジマン|en|Rajiman Wediodiningrat}}と会い<ref>スカルノらは、[[サイゴン]]の[[寺内寿一|寺内]][[南方総軍]] | + | クリス協会は1945年8月17-18日に発足を予定し、同月13日にイブラヒムは板垣を介して[[タイピン (ペラ州)|タイピン]]飛行場でインドネシア独立運動の指導者である[[スカルノ]]、[[ハッタ]]および{{仮リンク|ラジマン|en|Rajiman Wediodiningrat}}と会い<ref>スカルノらは、[[サイゴン]]の[[寺内寿一|寺内]][[南方総軍]]司令官からインドネシア独立準備委員会の発足について承認を受け、帰国する途上だった{{Harv|板垣|山田|内田|1981|pp=158-159}}。{{Harvtxt|鶴見|1986|p=317}}は、仏印[[ダラット|ダラト]]からの帰国途上、としている。</ref>、激励を受けた{{Sfn|フォーラム|1998|p=672}}{{Sfn|鶴見|1986|p=317}}{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=158-159}}。 |
=== 終戦 === | === 終戦 === | ||
− | 1945年8月15日、[[イポー]]からの移動中に板垣から日本の降伏を知らされ、同日夜、シンガポールへ移動{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=159-160}}。板垣からはマラヤ域内で潜伏することを勧められていたが、数日後に[[ジャワ]]へ脱出した{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=162-164}} | + | 1945年8月15日、[[イポー]]からの移動中に板垣から日本の降伏を知らされ、同日夜、シンガポールへ移動{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=159-160}}。板垣からはマラヤ域内で潜伏することを勧められていたが、数日後に[[ジャワ]]へ脱出した{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=162-164}}{{Sfn|フォーラム|1998|p=672。英国による逮捕を恐れた(同)。}}{{Sfn|鶴見|1986|p=292は、終戦直前にインドネシア・ジャカルタへ逃亡した、としている。}}。 |
イブラヒムは板垣に対してシンガポールへ行く理由を「義勇軍を解散させるため」としていたが、義勇軍は、[[MPAJA|共産軍]]と合流するような形で[[クアラルンプール]]へ北進し、[[ジョホール]]近辺で解体されており、イブラヒムがMCPと義勇軍を共産軍に合流させる密約を結んでいた可能性も指摘されている{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=164-165}}。またイブラヒム自身が直接義勇軍の解体を見届けたかは疑問視されている{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|p=164}}。 | イブラヒムは板垣に対してシンガポールへ行く理由を「義勇軍を解散させるため」としていたが、義勇軍は、[[MPAJA|共産軍]]と合流するような形で[[クアラルンプール]]へ北進し、[[ジョホール]]近辺で解体されており、イブラヒムがMCPと義勇軍を共産軍に合流させる密約を結んでいた可能性も指摘されている{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=164-165}}。またイブラヒム自身が直接義勇軍の解体を見届けたかは疑問視されている{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|p=164}}。 | ||
− | 同月17日にスカルノらが発表した[[インドネシア独立宣言|独立宣言]] | + | 同月17日にスカルノらが発表した[[インドネシア独立宣言|独立宣言]]にはマラヤへの言及はなく、ジャワへ渡ったイブラヒムは、スカルノにこの点を質したが、スカルノは[[オランダ]]と[[英国]]の両国と対立することの不利を説明したという{{Sfn|リー|1987|p=171。イブラヒムの著書からの引用として、インドネシア側は英国が復帰した時点でも態勢が整わず、オランダとの戦闘で頭がいっぱいだった、としている。}}{{Sfn|鶴見|1986|p=318}}。 |
=== 戦後 === | === 戦後 === | ||
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+ | 戦後、インドネシアへ渡ったイブラヒムは、1957年10月に[[ジャカルタ]]で面会した板垣によると、'''イスカンダル・カメル'''と変名して貿易商を営んでいた{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|p=166は、1947年に板垣がインドネシアで面会したとき、「カミール」と変名していた、としている。}}{{Sfn|板垣|1968|p=159}}。 | ||
{{Harvtxt|リー|1987|p=171}}によると、イブラヒムはインドネシアで[[闘争民主党#インドネシア国民党時代|インドネシア国民党]](PNI)に入党して国会議員になった{{Sfn|リー|1987|pp=170,178}}。他方で、{{仮リンク|マラヤ国民党|ms|Parti Kebangsaan Melayu Malaya}}(MNP)翼下のマレー人組織・{{仮リンク|中央人民団結委員会|ms|Pusat Tenaga Rakyat}}(PUTERA)の活動にも参加し、シンガポールの[[リバティ・キャバレー]]にあったPUTERAと[[全マラヤ統一行動会議]](AMCJA)の連絡事務局にしばしば現れていた{{Sfn|リー|1987|p=170}}。 | {{Harvtxt|リー|1987|p=171}}によると、イブラヒムはインドネシアで[[闘争民主党#インドネシア国民党時代|インドネシア国民党]](PNI)に入党して国会議員になった{{Sfn|リー|1987|pp=170,178}}。他方で、{{仮リンク|マラヤ国民党|ms|Parti Kebangsaan Melayu Malaya}}(MNP)翼下のマレー人組織・{{仮リンク|中央人民団結委員会|ms|Pusat Tenaga Rakyat}}(PUTERA)の活動にも参加し、シンガポールの[[リバティ・キャバレー]]にあったPUTERAと[[全マラヤ統一行動会議]](AMCJA)の連絡事務局にしばしば現れていた{{Sfn|リー|1987|p=170}}。 | ||
− | その後、実業界に転身し{{Sfn|リー|1987|pp=170-171}}、事業に成功して経済的に豊かになった{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|p=167}} | + | その後、実業界に転身し{{Sfn|リー|1987|pp=170-171}}、事業に成功して経済的に豊かになった{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|p=167}}。他方で、経済的な成功も一因となって、ムスタファやイシャクら元KMMのメンバーとの個人的な信頼関係は損なわれていたという{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|p=167}}。 |
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1957年に[[統一マレー国民組織]](UMNO)の[[トゥンク・アブドゥル・ラーマン|ラーマン]]がMCPとの和平を模索した際には、イブラヒムはラーマンと書簡をやりとりし、共産党に合法的な政党として活動する余地を残すような形でなければ和平交渉はうまくいかない、と、MCP(総書記・[[陳平 (マレーシア)|陳平]])寄りの見解を示していたとされる{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=165-166}}。 | 1957年に[[統一マレー国民組織]](UMNO)の[[トゥンク・アブドゥル・ラーマン|ラーマン]]がMCPとの和平を模索した際には、イブラヒムはラーマンと書簡をやりとりし、共産党に合法的な政党として活動する余地を残すような形でなければ和平交渉はうまくいかない、と、MCP(総書記・[[陳平 (マレーシア)|陳平]])寄りの見解を示していたとされる{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=165-166}}。 | ||
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1973年、講演で、日本との開戦直前に英軍とも接触していた(二重スパイだった)ことを告白{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。 | 1973年、講演で、日本との開戦直前に英軍とも接触していた(二重スパイだった)ことを告白{{Sfn|鶴見|1986|p=292}}。 | ||
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* KMMの指導者だったイシャクは、イブラヒムの回顧録に対して、自身の役割を過大評価していると批判を寄せた{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=166-167}}。イブラヒムはインドネシアへ逃亡し、経済的に成功した後、ムスタファへの金銭的な支援を断わったことがあり、元KMMのイシャクやムスタファからは個人的によく思われていなかったとみられている{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=166-167}}。 | * KMMの指導者だったイシャクは、イブラヒムの回顧録に対して、自身の役割を過大評価していると批判を寄せた{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=166-167}}。イブラヒムはインドネシアへ逃亡し、経済的に成功した後、ムスタファへの金銭的な支援を断わったことがあり、元KMMのイシャクやムスタファからは個人的によく思われていなかったとみられている{{Sfn|板垣|山田|内田|1981|pp=166-167}}。 | ||
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+ | *{{Aya|Cheah|year=1979}} Cheah Boon Kheng, [http://www.jstor.org/stable/3350897 The Japanese Occupation of Malaya, 1941-45:Ibrahim Yaacob and the Struggle for Indonesia Raya], ''Indonesia'', Southeast Asia Program Publications at Cornell University, no.28, Oct. 1979, pp.84-120, {{Doi|10.2307/3350897}} | ||
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− | + | *{{Aya|フォーラム|year=1998}} 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 1941~45年 インタビュー記録』〈南方軍政関係史料 33〉龍溪書舎、ISBN 4844794809 | |
− | * {{ | + | *{{Aya|リー|year=1987}} リー・クーンチョイ(著)花野敏彦(訳)『南洋華人‐国を求めて』サイマル出版会、ISBN 4377307339 |
− | + | *{{Aya|鶴見|year=1986}} 鶴見良行『マラッカ物語』時事通信社、ISBN 4788781247 | |
+ | *{{Aya|板垣|山田|内田|year=1981}} 板垣与一・山田勇・内田直作(述)「板垣与一氏・山田勇氏・内田直作氏 インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室(編)『インタヴュー記録 D 日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、pp.115-168、{{NCID|BN1303760X}} | ||
+ | *{{Aya|篠崎|year=1981}} 篠崎護(述)「篠崎護氏インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室(編)『インタヴュー記録 D 日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、pp.169-213、{{NCID|BN1303760X}} | ||
+ | *{{Aya|板垣|year=1968}} 板垣与一『アジアとの対話』新紀元社、{{NDLJP|2981281}}{{閉}} | ||
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イブラヒム・ヤーコブ(イブラヒム・ビン・ハジ・ヤーコブ、英語:Ibrahim bin Haji Yaacob、1911年-1979年)は、マレーシアの政治家。戦前のマラヤでマレー青年同盟(Kesatuan Melayu Muda; KMM) を率いて反英運動を展開。日本軍の占領時期には軍政に協力し、マライ義勇軍の隊長を務め、1945年7月に元KMMのメンバーと共にクリス(KRIS)運動を推進した。戦後インドネシア・ジャワ島へ逃れ、のち実業家に転身した。戦時中から、英国諜報部やマラヤ共産党(MCP)とも通じていたとされる。
目次
来歴[編集]
生い立ち[編集]
パハン州の農村の出身[1]。1931年にペラ州のスルタン・イドリス師範学校(SITC) を卒業した[1]。
戦前[編集]
1938年、SITCの同窓生や新聞記者ら約100人と、マレー社会の改革、イギリス支配からの独立を標榜するマレー青年同盟(Kesatuan Melayu Muda; KMM) を結成[2][1]。マラヤ各地で遊説を行なった[1]。
太平洋戦争の開戦直前の頃、マレー人のナショナリズムに注目した在シンガポール日本総領事館(総領事:鶴見憲[1])と接触し、資金提供を受けて新聞『ワルタ・マラヤ 』(のちの『マライ・ニュース』)を買収[1][2][3]。
- フォーラム (1998 672)は、シンガポール日本総領事だった鶴見憲が、同盟記者・飼手誉四を通じてKMMに資金を援助し、『ワルタ・マラヤ』紙を買収させ、反英運動助長を図った、としている。
- 鶴見 (1986 292)によると、戦後、鶴見憲は、資金提供の件について、自身の記憶になく、担当していたのは総領事館員として活動していた陸軍少佐だろうと語っていた。同書は、『ワルタ・マラヤ』はジャーナリストだったイブラヒムにとって自然な隠れ蓑になり、各地に支局を持つ情報機関になった、としている。
- 篠崎 (1981 174)によると、鶴見憲は情報・宣伝工作を積極的に推進し、鶴見が総領事の時代に陸軍参謀・鹿子島隆少佐が総領事館に入り、情報・宣伝工作を担当した。
鶴見 (1986 292-293)によると、イブラヒムは開戦直前期に英国諜報部とも接触し、トレンガヌ州の総務長官オマールと接触してオランダ領だったリオの独立工作に携わった。
日本軍占領時期[編集]
KMMのメンバーの多くはマレー作戦直前に英国植民地当局によって逮捕されたが、1942年2月の日本軍によるシンガポール陥落後に解放された[2]。
日本軍によるマラヤ占領後、日本軍はKMMの政治活動を禁止し[4]、イブラヒムら元KMMの幹部はマライ軍政監部顧問室に勤務した[5]。この頃、イブラヒムはマラヤ共産党(MCP)と秘かに接触していた[2][6]。
1944年1月、日本軍は義勇軍を組織し、イブラヒムを隊長に任命[2][1]。イブラヒムはKMMを改組して日本軍に協力した[1]。
クリス運動[編集]
1945年7月、マライ軍政監部調査部民族班で民族工作に携わっていた板垣與一からの要請を受けて、マレー系住民の政治的自立を目指すクリス(KRIS)運動の指導者となり、ムスタファ・ハッサン 、イシャク・ハジ・モハメド ら戦前のKMMのメンバーとともにマラヤ各地にクリス協会支部を設立[2][8][9]。
クリス協会は1945年8月17-18日に発足を予定し、同月13日にイブラヒムは板垣を介してタイピン飛行場でインドネシア独立運動の指導者であるスカルノ、ハッタおよびラジマン と会い[10]、激励を受けた[2][11][12]。
終戦[編集]
1945年8月15日、イポーからの移動中に板垣から日本の降伏を知らされ、同日夜、シンガポールへ移動[13]。板垣からはマラヤ域内で潜伏することを勧められていたが、数日後にジャワへ脱出した[14][15][16]。
イブラヒムは板垣に対してシンガポールへ行く理由を「義勇軍を解散させるため」としていたが、義勇軍は、共産軍と合流するような形でクアラルンプールへ北進し、ジョホール近辺で解体されており、イブラヒムがMCPと義勇軍を共産軍に合流させる密約を結んでいた可能性も指摘されている[17]。またイブラヒム自身が直接義勇軍の解体を見届けたかは疑問視されている[18]。
同月17日にスカルノらが発表した独立宣言にはマラヤへの言及はなく、ジャワへ渡ったイブラヒムは、スカルノにこの点を質したが、スカルノはオランダと英国の両国と対立することの不利を説明したという[19][20]。
戦後[編集]
戦後、インドネシアへ渡ったイブラヒムは、1957年10月にジャカルタで面会した板垣によると、イスカンダル・カメルと変名して貿易商を営んでいた[22][21]。
リー (1987 171)によると、イブラヒムはインドネシアでインドネシア国民党(PNI)に入党して国会議員になった[23]。他方で、マラヤ国民党 (MNP)翼下のマレー人組織・中央人民団結委員会 (PUTERA)の活動にも参加し、シンガポールのリバティ・キャバレーにあったPUTERAと全マラヤ統一行動会議(AMCJA)の連絡事務局にしばしば現れていた[24]。
その後、実業界に転身し[25]、事業に成功して経済的に豊かになった[26]。他方で、経済的な成功も一因となって、ムスタファやイシャクら元KMMのメンバーとの個人的な信頼関係は損なわれていたという[26]。
同書によると、戦後もKRISは林天保を通じてMCPのロイ・タクと接触しており、KRISとMCPはマレー独立後の民主政府の民族別人員構成を巡って軋轢を生じた。
1957年に統一マレー国民組織(UMNO)のラーマンがMCPとの和平を模索した際には、イブラヒムはラーマンと書簡をやりとりし、共産党に合法的な政党として活動する余地を残すような形でなければ和平交渉はうまくいかない、と、MCP(総書記・陳平)寄りの見解を示していたとされる[27]。
晩年[編集]
1973年、講演で、日本との開戦直前に英軍とも接触していた(二重スパイだった)ことを告白[1]。
1979年、ジャカルタで死去[1]。
著書[編集]
- 『マラヤ・ムルデカ』(不詳)[28]
評価[編集]
- 鶴見 (1986 292-293)は、戦前にイブラヒムが携わったリオ独立工作を「質の低い」計画と評価し、イブラヒムがかつての同志から受けていた「俊敏なオポチュニスト」という評価は当たっているようだ、と評している。
- KMMの指導者だったイシャクは、イブラヒムの回顧録に対して、自身の役割を過大評価していると批判を寄せた[29]。イブラヒムはインドネシアへ逃亡し、経済的に成功した後、ムスタファへの金銭的な支援を断わったことがあり、元KMMのイシャクやムスタファからは個人的によく思われていなかったとみられている[29]。
付録[編集]
関連文献[編集]
- Cheah (1979) Cheah Boon Kheng, The Japanese Occupation of Malaya, 1941-45:Ibrahim Yaacob and the Struggle for Indonesia Raya, Indonesia, Southeast Asia Program Publications at Cornell University, no.28, Oct. 1979, pp.84-120, DOI 10.2307/3350897
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 鶴見 1986 292
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 フォーラム 1998 672
- ↑ 篠崎 1981 174
- ↑ フォーラム 1998 13,672
- ↑ フォーラム 1998 55,672
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 165。イブラヒムの回想録の中に、共産軍のスルタン・ジュナイと連絡を取っていたとの記載があった(同)。
- ↑ フォーラム 1998 30
- ↑ リー 1987 170は、1973年頃、イブラヒムから直接聞いた話として、1945年7月頃にマレー半島のマレー人を統一してインドネシアに引き入れるために組織を結成した、としている。
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 154-158
- ↑ スカルノらは、サイゴンの寺内南方総軍司令官からインドネシア独立準備委員会の発足について承認を受け、帰国する途上だった(板垣 山田 内田 1981 158-159)。鶴見 (1986 317)は、仏印ダラトからの帰国途上、としている。
- ↑ 鶴見 1986 317
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 158-159
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 159-160
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 162-164
- ↑ フォーラム 1998 672。英国による逮捕を恐れた(同)。
- ↑ 鶴見 1986 292は、終戦直前にインドネシア・ジャカルタへ逃亡した、としている。
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 164-165
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 164
- ↑ リー 1987 171。イブラヒムの著書からの引用として、インドネシア側は英国が復帰した時点でも態勢が整わず、オランダとの戦闘で頭がいっぱいだった、としている。
- ↑ 鶴見 1986 318
- ↑ 21.0 21.1 板垣 1968 159
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 166は、1947年に板垣がインドネシアで面会したとき、「カミール」と変名していた、としている。
- ↑ リー 1987 170,178
- ↑ リー 1987 170
- ↑ リー 1987 170-171
- ↑ 26.0 26.1 板垣 山田 内田 1981 167
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 165-166
- ↑ リー 1987 171
- ↑ 29.0 29.1 板垣 山田 内田 1981 166-167
参考文献[編集]
- フォーラム (1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 1941~45年 インタビュー記録』〈南方軍政関係史料 33〉龍溪書舎、ISBN 4844794809
- リー (1987) リー・クーンチョイ(著)花野敏彦(訳)『南洋華人‐国を求めて』サイマル出版会、ISBN 4377307339
- 鶴見 (1986) 鶴見良行『マラッカ物語』時事通信社、ISBN 4788781247
- 板垣 山田 内田 (1981) 板垣与一・山田勇・内田直作(述)「板垣与一氏・山田勇氏・内田直作氏 インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室(編)『インタヴュー記録 D 日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、pp.115-168、NCID BN1303760X
- 篠崎 (1981) 篠崎護(述)「篠崎護氏インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室(編)『インタヴュー記録 D 日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、pp.169-213、NCID BN1303760X
- 板垣 (1968) 板垣与一『アジアとの対話』新紀元社、NDLJP 2981281