「大谷吉治」の版間の差分
(ページの置換「スパイダークラッシュローリングサンダー!」) |
|||
1行目: | 1行目: | ||
− | + | '''大谷 吉治'''(おおたに よしはる、? - [[慶長]]20年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]([[1615年]][[6月3日]]))は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[豊臣氏|豊臣家]]の[[家臣]]。[[越前国|越前]][[敦賀城]]主・[[大谷吉継]]の嫡男。兄弟に[[木下頼継]]、[[大谷泰重|泰重]]、[[真田信繁]][[正室]]となった[[竹林院]]ら。官途は[[大学]]助。諱に関しては'''義治'''、'''吉勝'''(よしかつ)、'''吉胤'''(よしたね)と確認されている<ref name="cn1top">『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、60頁</ref>。子に[[大谷吉之|吉之]]。 | |
+ | |||
+ | == 生涯 == | ||
+ | 生年は不詳。[[豊臣政権]]下における吉治の記録は少なく、政権末期や[[大坂の役]]においての記録が確認されるのみである<ref name="cn1top"/><ref name="cn2top">『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、61頁</ref>。慶長2年([[1597年]])に[[豊臣秀吉]]が大谷吉継の屋敷に御成をした際、病身の吉継に代わり出迎えて贅を尽くしてもてなしをした(『[[鹿苑日録]]』)。慶長3年([[1598年]])[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]の秀吉の死去に関しては遺物である鐘切の刀を拝領した<ref name="cn2top"/>。 | ||
+ | |||
+ | 慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では吉継に従って[[加賀国|加賀]]の[[前田利長]]を相手に転戦<ref name="cn3top">『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、62頁</ref>。[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]の関ヶ原本戦では[[戸田重政]]や[[平塚為広]]と共に奮戦し、両者の部隊が壊滅するまで踏み止まる<ref name="cn3top"/>。しかし吉継から離脱を勧められて鶴賀に逃亡し再挙を期した<ref name="cn3top"/>。以後、慶長19年([[1614年]])まで14年間、諸国を流浪した。[[大坂冬の陣]]が始まると豊臣家の誘いに応じて[[大坂城]]に入城<ref name="cn3top"/>。翌年5月7日、[[大坂夏の陣]]における[[天王寺・岡山の戦い]]で戦死した<ref name="cn3top"/>。 | ||
+ | |||
+ | == 血縁について == | ||
+ | 吉治に関しては次のような説がある。 | ||
+ | |||
+ | * 吉継の長男で嫡子<ref name="cn2top"/>。 | ||
+ | * 吉継の弟で[[養子]]<ref name="cn2top"/>。 | ||
+ | |||
+ | 吉継の実子である場合、吉継の年齢から生年は[[天正]]8年([[1580年]])頃とされる<ref name="cn2top"/>。弟で養子の場合は[[西笑承兌]]が『[[日用集]]』『鹿苑日録』の慶長2年9月24日条で「'''養子'''大学介'''舎弟'''其外長男衆78人」とある。つまり秀吉の御成の際に養子で弟の吉治ら78人が秀吉一行を出迎えたと記載しているのである<ref name="cn2top"/>。 | ||
+ | |||
+ | また、大坂の役に参戦した[[土屋知貞]]が吉治の年齢を「50歳計り」と『[[土屋知貞日記]]』に記録している。仮に吉継が存命していても56、57歳くらいのため、弟でないと計算が合わない<ref name="cn2top"/>。 | ||
+ | |||
+ | == 脚注 == | ||
+ | {{Reflist}} | ||
+ | |||
+ | == 参考文献 == | ||
+ | * 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年 [[花ヶ前盛明]] | ||
+ | |||
+ | {{DEFAULTSORT:おおたに よしはる}} | ||
+ | [[Category:大谷氏|よしはる]] | ||
+ | [[Category:戦国武将]] | ||
+ | [[Category:戦死した人物]] | ||
+ | [[Category:近江国の人物]] | ||
+ | [[Category:16世紀生]] | ||
+ | [[Category:1615年没]] | ||
+ | [[カテゴリ:歴史]] |
2015年4月14日 (火) 22:21時点における版
大谷 吉治(おおたに よしはる、? - 慶長20年5月7日(1615年6月3日))は、安土桃山時代の武将。豊臣家の家臣。越前敦賀城主・大谷吉継の嫡男。兄弟に木下頼継、泰重、真田信繁正室となった竹林院ら。官途は大学助。諱に関しては義治、吉勝(よしかつ)、吉胤(よしたね)と確認されている[1]。子に吉之。
生涯
生年は不詳。豊臣政権下における吉治の記録は少なく、政権末期や大坂の役においての記録が確認されるのみである[1][2]。慶長2年(1597年)に豊臣秀吉が大谷吉継の屋敷に御成をした際、病身の吉継に代わり出迎えて贅を尽くしてもてなしをした(『鹿苑日録』)。慶長3年(1598年)8月18日の秀吉の死去に関しては遺物である鐘切の刀を拝領した[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは吉継に従って加賀の前田利長を相手に転戦[3]。9月15日の関ヶ原本戦では戸田重政や平塚為広と共に奮戦し、両者の部隊が壊滅するまで踏み止まる[3]。しかし吉継から離脱を勧められて鶴賀に逃亡し再挙を期した[3]。以後、慶長19年(1614年)まで14年間、諸国を流浪した。大坂冬の陣が始まると豊臣家の誘いに応じて大坂城に入城[3]。翌年5月7日、大坂夏の陣における天王寺・岡山の戦いで戦死した[3]。
血縁について
吉治に関しては次のような説がある。
吉継の実子である場合、吉継の年齢から生年は天正8年(1580年)頃とされる[2]。弟で養子の場合は西笑承兌が『日用集』『鹿苑日録』の慶長2年9月24日条で「養子大学介舎弟其外長男衆78人」とある。つまり秀吉の御成の際に養子で弟の吉治ら78人が秀吉一行を出迎えたと記載しているのである[2]。
また、大坂の役に参戦した土屋知貞が吉治の年齢を「50歳計り」と『土屋知貞日記』に記録している。仮に吉継が存命していても56、57歳くらいのため、弟でないと計算が合わない[2]。
脚注
参考文献
- 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年 花ヶ前盛明