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'''茨木機関'''(いばらぎきかん)は、[[1944年]]に[[シンガポール]](当時の[[日本占領時期のシンガポール|昭南特別市]])で、[[第7方面軍 (日本軍)|第7方面軍]]参謀部2課の[[石島唯一|石島少佐]](通称:茨木少佐)が立ち上げた[[特務機関]]。シンガポール周辺と[[ジョホール州]]の内陸の防諜謀略を担当し、戦争末期には[[連合軍]]上陸後の[[ゲリラ戦]]に備えて元[[特別操縦見習士官]]を受け入れ、ゲリラ要員の訓練を行うなどした。終戦直後に[[スマトラ治安工作]]による戦犯追及をおそれた機関幹部の意向で「[[インドネシア]]独立を支援する」として集団で[[スマトラ島]]へ脱出し[[アチェ州]]へ向かったが、北スマトラに展開していた[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]の[[近衛師団|近衛第2師団]]によって拘束され計画を中止。機関員の多くは[[英軍]]によって[[マレー半島]]に抑留され、1946年に日本に帰国したが、一部隊員はスマトラ島で潜伏中に死亡・行方不明となった。
 
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'''茨木機関'''(いばらぎきかん)は、[[1944年]]に[[シンガポール]](当時の[[日本占領時期のシンガポール|昭南特別市]])で、[[第7方面軍 (日本軍)|第7方面軍]]参謀部2課の石島少佐(通称:'''茨木少佐''')が立ち上げた[[特務機関]]で、シンガポール周辺の内陸の防諜謀略を担当し、戦争末期には連合軍進攻後のゲリラ戦に備えて元[[特別操縦見習士官]]を受け入れ、ゲリラ要員の訓練を行うなどした。終戦直後に戦犯追及をおそれて「[[インドネシア]]独立を支援する」として集団で[[スマトラ島]]へ脱出し[[アチェ州]]へ向かったが、北スマトラに展開していた[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]近衛第2師団によって拘束され計画を中止、機関員の多くは英軍によって[[マレー半島]]に抑留された後1946年に日本に帰国した。茨木少佐は英軍に逮捕・監禁されたが、後に脱走し日本に帰国したとされる。<ref>この記事の主な出典は、中西(1994)、本田(1988)および篠崎(1981)。</ref>
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{{GeoGroup|article=茨木機関}}
 
{{GeoGroup|article=茨木機関}}
  
 
== 設置の経緯 ==
 
== 設置の経緯 ==
1943年9月に[[昭南港爆破事件]]が起きると、シンガポールの日本軍は、マレー半島に潜伏する連合軍のスパイや抗日分子がシンガポールに残った連合国人と連絡して事件を起こしたとみて<ref>ブラッドリー(2001) 203-205頁</ref>、内陸の防諜謀略の強化をはかった<ref>本田(1988) 38-39頁、篠崎(1976) 195頁</ref><ref>1943年10月以降、シンガポールの特別警察隊の憲兵が[[テロックインタン|テクロアンソン]]・{{仮リンク|タパー|en|Tapah}}で商社員に扮して偵諜を行い、同年12月に[[イポー]]で[[李亜青]]、1944年4月にはイポーの南方 {{仮リンク|カンパル (ペラ州)|label=カンパル|en|Kampar, Perak}}で{{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}の{{仮リンク|林謀盛|zh|林謀盛}}らが検挙された(大西(1977) 163-167頁)</ref>
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1943年9月に[[昭南港爆破事件]]が起きると、シンガポールの日本軍は、[[マレー半島]]に潜伏する[[連合軍]]のスパイや抗日分子がシンガポールに残った連合国人と連絡して事件を起こしたとみて{{Sfn|ブラッドリー|2001|pp=203-205}}、内陸の防諜謀略の強化をはかった{{Sfn|本田|1988|pp=38-39}}{{Sfn|篠崎|1976|p=195}}。
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*1943年10月以降、シンガポールの特別警察隊の憲兵が[[テロックインタン|テクロアンソン]]・{{仮リンク|タパー|en|Tapah}}で商社員に扮して偵諜を行い、同年12月に[[イポー]]で[[李亜青]]、1944年4月にはイポーの南方・{{仮リンク|カンパル (ペラ州)|label=カンパル|en|Kampar, Perak}}で{{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}の{{仮リンク|林謀盛|zh|林謀盛}}らが検挙された{{Sfn|大西|1977|pp=163-167}}。
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この頃、連合軍の反攻の本格化を受けて[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]麾下の各軍団の参謀部2課(情報部)には[[陸軍中野学校]]出の諜報要員が多数配属され、連合軍の諜報活動の防止や動静の探索などの諜報工作に携わった{{Sfn|中野校友会|1978|p=348}}。戦争が破局に近付くと、現地の抗日勢力の攻撃や連合軍上陸への対処が課題となり{{Sfn|中野校友会|1978|p=552}}、各兵団が連合軍の進攻に備えて[[遊撃戦]]の準備に入る中で、中野学校の出身者はゲリラ要員の教育訓練にあたった{{Sfn|中野校友会|1978|p=557}}
  
この頃、連合軍の反攻の本格化を受けて[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]麾下の各軍団の参謀部2課(情報部)には[[陸軍中野学校]]出の諜報要員が多数配属され、連合軍の諜報活動の防止や動静の探索などの諜報工作に携わった<ref>中野校友会(1978) 348頁</ref>。戦争が破局に近付くと、現地の抗日勢力の攻撃や連合軍上陸への対処が課題となり<ref>中野校友会(1978) 552頁</ref>、各兵団が連合軍の進攻に備えて遊撃戦の準備に入る中で、中野学校の出身者はゲリラ要員の教育訓練にあたった<ref>中野校友会(1978) 557頁</ref>
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1944年初には、当時シンガポールにあった南方軍総司令部直属の特殊機関としてシンガポール周辺の海上防諜を行う[[浪機関]]が設置されていたが、同年春または暮頃<ref>{{Harvtxt|本田|1988|p=38}}は「暮頃」としているが、{{Harvtxt|南洋商報|1947}}は、茨木機関を立ち上げ、浪機関設置(1944年初頃)の3,4ヵ月後にスパイ組織を強化した、と記述しており、この順によると茨木機関の成立は第7方面軍が編成された同年「春頃」のことであったかもしれない。もし本当に1944年の暮頃に設置されたとすると、{{Harvtxt|篠崎|1976|pp=97,195}}の昭南港爆破事件と茨木機関の発足を結び付ける見方には少し無理があり、茨木機関は設置最初から抗日勢力に対する融和工作やゲリラ戦の準備に主眼が置かれていたことになるかもしれない。ただし、{{Harvtxt|本田|1988|p=38}}の「暮頃」が正しい、という確証もない。</ref>、[[第7方面軍 (日本軍)|第7方面軍]]の下に、シンガポールの反日分子や、[[ジョホール州]]に潜伏する[[マレー人民抗日軍|共産軍]]の動向に関する情報収集などの防諜謀略と、連合軍進攻の際のゲリラ活動展開を目的として、'''茨木機関'''(機関長:[[石島唯一|石島少佐]]、通称:茨木少佐)が設置されることになった{{Sfn|本田|1988|pp=38-39}}。<ref>{{Harvtxt|本田|1988|pp=38,44}}は、茨木機関は茨木少佐が勝手に立ち上げ、参謀部が事後承認した機関だとしている。また同書 p.25は、「正式名称は『岡機関』」としている。</ref><ref>{{Harvtxt|中野校友会|1978|pp=557-558}}は、[[第29軍 (日本軍)|第29軍]]の[[定機関]]が浪機関・'''茨木機関'''と連絡していたことに言及しているが、同書には茨木機関の活動内容に関する記述がなく、「岡機関」という名称への言及もない。</ref><ref>{{Harvtxt|南洋商報|1947}}は、広東から来た「飯島大尉(のち少佐)」が特務機関員を増員し、リバー・バレーに「飯島機関」を立ち上げた、としており、経歴の類似から茨木機関に言及したものと思われる。</ref>
  
1944年初には、当時シンガポールにあった南方軍総司令部直属の特殊機関としてシンガポール周辺の海上防諜を行う[[浪機関]]が設置されていたが、同年暮れ頃、シンガポールの反日分子や、[[ジョホール州]]に潜伏する[[マレー人民抗日軍|共産軍]]の動向に関する情報収集などの防諜謀略と、連合軍進攻の際のゲリラ活動展開を目的として、'''茨木機関'''が設置されることとなった<ref>本田(1988) 38-39頁</ref>
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== 組織・人員 ==
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=== 機関本部 ===
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茨木機関の本部はシンガポール市内の{{仮リンク|リバー・バレー|label=リバー・バレー路|en|River Valley, Singapore}}<ref group="map">{{Coord|1.295965|N|103.839505|E|name=リバー・バレー路}}</ref>沿いにあり、'''国際運輸昭南事務所'''の看板を掲げいて、外見は小さな会社の事務所兼住宅のようだった{{Sfn|中西|1994|p=105}}{{Sfn|本田|1988|p=37}}。本部は通信網の中心・謀略資材の集積場所になっており、准尉以下の下士官兵や民間人が通信、庶務、給養、兵器などの業務を分担していた{{Sfn|本田|1988|pp=39,45-46}}。<ref>{{Harvtxt|中西|1994|pp=138-139}}は、無線の傍受や、暗号解読、捕まえた敵のスパイを利用して偽の情報を送る等の諜報活動を行っていた、としている。</ref>
  
== 機関の概要 ==
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本部には、捕えられて機関に協力していた中国人スパイや、運搬係、炊事夫、マレー人の女中やボーイ、インド人庭師なども含めて、20人以上が住み込みで働いていた{{Sfn|中西|1994|p=139}}{{Sfn|本田|1988|pp=39,45頁}}
=== 機関長・茨木少佐 ===
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茨木機関の機関長・石島唯一<ref>本田(1988)25頁に「茨木誠一少佐」とあるが、中西(1994)104,138頁および篠崎(1981)52頁によると「いばらぎ」、「茨城」ないし「茨木」は仮名で本名は「石島」であり、中野校友会(1978)556頁のスマトラ治安工作に関する記述から本名は「石島唯一」とした。また南洋商報(1986)135頁では「飯島機関」の「飯島少佐」としているが、拠点や活動内容の記述から茨木機関に関する説明と解した<!--編注:同書は漢字の書き間違いが多いので、多分ソースが英語だったから、iijima とishijimaを間違えたのかなと思うけれど、中野校友会(1978)840頁の卒業生名簿には「石島唯一」と並んで「飯島良雄」という卒業生の名があるので、別組織だった可能性がなくもない。この「飯島」さんが関係ないことをしていた、というような裏付けは取れていない -->。 </ref>少佐は、[[茨城県]]出身で<ref>篠崎(1981) 52頁</ref>、[[茨城弁]]を話し<ref>本田(1994) 26,64頁</ref>、「茨木少佐」と呼ばれていた<ref>中西(1994)138頁、本田(1988)25頁、篠崎(1981) 52頁。</ref>。茨木少佐は[[幹部候補生]]から陸軍中野学校に入り<ref>中西(1994)138頁、本田(1988)37,39頁、篠崎(1981) 52頁、中野校友会(1978) 556頁</ref>、<!--単一の出典:広東の[[嶺南大学]]で学んで[[広東語]]を話し<ref>篠崎(1981) 52頁</ref>、-->[[南支那方面軍|南支那派遣軍]]に属して[[広東]]各地でのスパイ・特務経験の後<ref>中西(1994)138頁、南洋商報(1986) 135頁、本田(1988)37頁</ref>、<!--単一の出典:1942年の中頃<ref>本田(1988)37頁</ref>、-->南方軍総司令部参謀部2課(のち[[第7方面軍 (日本軍)|第7方面軍]]参謀部2課)に移り、[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]参謀部2課付を兼務して1943年6月に[[パレンバン]]軍政部警務部特高科長に着任、同年9月の[[スマトラ治安工作]]での親オランダ分子の残置諜者の一斉検挙で功績を挙げた<ref>中西(1994)138頁、本田(1988)37-38頁、中野校友会(1978) 554-557頁</ref>
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茨木少佐は、シンガポール入りすると、1944年の春に[[広東省|広東]]から日本人や台湾人の特務機関員・軍属・通訳を連れてきて浪機関の組織を強化し<ref>南洋商報(1986) 135頁。浪機関の組織強化については中野校友会(1978) 553頁でも触れられている。</ref>、1944年の暮れ頃<ref>本田(1988)38頁。南洋商報(1986) 135頁では、茨木機関を立ち上げ、浪機関設置(1944年初頃)の3,4ヵ月後にスパイ組織を強化した、と記述しており、この順によると茨木機関の成立は1944年の「春頃」になりそうだが、機関の設置時期を特定している本田(1988)38頁により「暮頃」とした。<!--編注:もし本当に1944年の暮頃に設置されたとすると、篠崎(1976)97,195頁の昭南港爆破事件と茨木機関の発足を結び付ける見方には少し無理があり、茨木機関は設置最初から抗日勢力に対する融和工作やゲリラ戦の準備に主眼が置かれていたことになるかもしれない。ただ本田(1988)38頁の「暮頃」が正しい、という確証もない。--></ref>、自ら茨木機関<ref>本田(1988)25頁に「正式名称は『岡機関』」とあるが、他の文献にはなく、中野学校(1978)557-558頁では「茨木機関」の名で言及がある<!-- 同書44頁では「茨木少佐が勝手に立ち上げ、参謀部は事後承認した」旨の記載があり、中野学校(1978)には茨木機関ないし岡機関に関する記述はなく、557-558頁で第29軍の[[定機関]]が浪機関、'''茨木機関'''と連絡していたことに触れているだけなので、正式名称「岡機関」だったかどうか確証がない。 --></ref>を立ち上げた<ref>本田(1994) 38,44頁、南洋商報(1986) 135頁</ref>
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本部から歩いて15分程の場所に、[[無線機]]を製造する通信班と、[[爆薬]]を製造する爆薬班の、住宅を利用した工場があり{{Sfn|中西|1994|p=139}}{{Sfn|本田|1988|pp=40,48-49}}、爆薬班では徴用された女性5人が[[缶詰]]や[[椰子の実]]に火薬を詰める作業をしていた{{Sfn|本田|1988|p=48}}
  
=== 機関本部 ===
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その他に昭南市内に2カ所、ジョホール州内に3カ所のゲリラ要員養成拠点があって、軍属たちがインドネシア青年にゲリラ戦の訓練をしていた{{Sfn|本田|1988|pp=40,49,50-53}}
茨木機関の本部はシンガポール市内の{{仮リンク|リバー・バレー|label=リバー・バレー路|en|River Valley, Singapore}}<ref>{{Coord|1.295965|N|103.839505|E|name=リバー・バレー路}}</ref>沿いにあり、「国際運輸昭南事務所」の看板を掲げいて、外見は小さな会社の事務所兼住宅のようだった<ref>中西(1994)105頁、本田(1988)37頁</ref>。本部は通信網の中心・謀略資材の集積場所になっており、准尉以下の下士官兵や民間人が通信、庶務、給養、兵器などの業務を分担していた<ref>本田(1988) 39,45-46頁。中西(1994)138-139頁では「無線の傍受や、暗号解読、捕まえた敵のスパイを利用して偽の情報を送る等の諜報活動を行っていた」としている。本部には、捕えられて機関に協力していた中国人スパイや、運搬係、炊事夫、マレー人の女中やボーイ、インド人庭師なども含めて、20人以上が住み込みで働いていた(中西(1994)139頁、本田(1988) 39,45頁)</ref>。
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本部から歩いて15分程の場所に、無線機を製造する通信班と、爆薬を製造する爆薬班<ref>徴用された女性5人が缶詰や椰子の実に火薬を詰める作業をしていた(本田(1988) 48頁)</ref>の、住宅を利用した工場があり<ref>中西(1994)139頁、本田(1988) 40,48-49頁</ref>、その他に昭南市内に2カ所、ジョホール州内に3カ所のゲリラ要員養成拠点があって、軍属たちがインドネシア青年にゲリラ戦の訓練をしていた<ref>本田(1988)40,49,50-53頁</ref>
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=== ジョホール州への展開 ===
 
=== ジョホール州への展開 ===
機関の幹部である安達孝大尉と近藤次男大尉<ref>ともに中野学校出で茨木少佐の後輩にあたり、それぞれスマトラの東海岸州、アチェ州の特高科長としてスマトラ治安工作を実行した後(本田(1994) 38頁、中野校友会(1978) 555-557頁)、茨木少佐とともに茨木機関を立ち上げた(本田(1994) 38頁)</ref>は、機関の工作隊の展開を担当し、機関員約50名がジョホール州に商社の駐在員や警察分署長を装って展開、共産軍や地元の抗日分子と接触して動向把握・宥和工作を行っており<ref>本田(1988)40頁、中西(1994) 140頁。占領後期になると、日本軍は、憲兵隊による共産党員の検挙・弾圧を続ける一方で(大西(1977) 167-170頁)、共産軍の討伐が不可能なことを悟り、連合軍反攻の場合に腹背に敵を受けないよう、特務機関を使って共産軍に接近し、アジア人の団結を強調し、ある程度の自治権を認めるなど譲歩することで、協力関係を打ち立てることを目標にしていた(本田(1988) 40,53-56頁)。しかし、共産軍はそれ以前から英軍と手を結び、{{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}の指導と武器、食糧等の供給を受けていたため、仮に日本軍が大幅に譲歩したとしても、妥協は困難だったとみられている(同)。</ref>、これに続いてスマトラの北端[[アチェ州]]にも展開を予定していた<ref>本田(1988)40頁。中西(1994) 138頁では安達大尉はジョホール州、近藤大尉はアチェ州に部下の工作員を展開させていた、としているが、本田(1988)40頁では安達大尉はジョホール州南部、近藤大尉はジョホール州北部に展開しており、アチェ州への展開は準備中だったとしている。</ref>
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機関の幹部である[[安達孝]]大尉と[[近藤次男]]大尉<ref>ともに中野学校出で茨木少佐の後輩にあたり、それぞれスマトラの東海岸州、アチェ州の特高科長としてスマトラ治安工作を実行した後({{Harvnb|本田|1988|p=38}}、{{Harvnb|中野校友会|1978|pp=555-557}})、茨木少佐とともに茨木機関を立ち上げた{{Harv|本田|1988|p=38}}。</ref>は、機関の工作隊の展開を担当し、機関員約50名がジョホール州内で商社の駐在員や警察分署長を装って展開、共産軍や地元の抗日分子と接触して動向把握・宥和工作を行っていた{{Sfn|本田|1988|p=40}}{{Sfn|中西|1994|p=140}}。
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*占領後期になると、日本軍は、憲兵隊による共産党員の検挙・弾圧を続ける一方で{{Sfn|大西|1977|pp=167-170}}、共産軍の討伐が不可能なことを悟り、連合軍反攻の場合に腹背に敵を受けないよう、特務機関を使って共産軍に接近し、アジア人の団結を強調し、ある程度の自治権を認めるなど譲歩することで、協力関係を打ち立てることを目標にしていた{{Sfn|本田|1988|pp=40,53-56}}。しかし、共産軍はそれ以前から英軍と手を結び、{{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}の指導と武器、食糧等の供給を受けていたため、仮に日本軍が大幅に譲歩したとしても、妥協は困難だったとみられている{{Sfn|本田|1988|pp=40,53-56}}
  
[[ジョホール・バル]]<ref>{{Coord|1.483333|N|103.733333|E|name=ジョホール・バル}}</ref>には機関のジョホール州で最大の拠点となる要員訓練所兼通信基地があった<ref>本田(1988)40頁</ref>。連合軍が攻めてきた場合、シンガポール島は土地が狭く住民の大半が中国系であるためゲリラ戦は困難とみた茨木少佐は、ジョホールの山中で長期間抵抗する計画を立て、終戦直前の1945年8月初旬に機関本部をジョホール州に移転し、謀略機材や食糧を送り込もうとしたが、その途中で終戦となった<ref>本田(1988)40,55-58頁</ref>
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また機関は、スマトラ北端の[[アチェ州]]にも展開を予定していた{{Sfn|本田|1988|p=40}}。<ref>{{Harvtxt|中西|1994|p=138}}は、安達大尉はジョホール州、近藤大尉はアチェ州に部下の工作員を展開させていた、としているが、{{Harvtxt|本田|1988|p=40}}は、安達大尉はジョホール州南部、近藤大尉はジョホール州北部に展開しており、アチェ州への展開は準備中だったとしている。</ref>
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[[ジョホール・バル]]<ref group="map">{{Coord|1.483333|N|103.733333|E|name=ジョホール・バル}}</ref>には機関のジョホール州で最大の拠点となる要員訓練所兼通信基地があった{{Sfn|本田|1988|p=40}}。連合軍が攻めてきた場合、シンガポール島は土地が狭く住民の大半が中国系であるためゲリラ戦は困難とみた茨木少佐は、ジョホールの山中で長期間抵抗する計画を立て、終戦直前の1945年8月初旬に機関本部をジョホール州に移転し、謀略機材や食糧を送り込もうとしたが、その途中で終戦となった{{Sfn|本田|1988|pp=40,55-58}}
  
 
=== 特操転用と総軍班 ===
 
=== 特操転用と総軍班 ===
1945年6月には、情報要員に転用されることになった陸軍の[[特別操縦見習士官]](以下「特操」)<ref>同月1日付で、戦争末期の飛行機・ガソリン不足により、マレー・ジャワで飛行訓練を受けていた特操の南方要員約420名が訓練を中止して情報要員に転用されることになり、同月中に南方軍の各軍団の参謀部第2課に配属された(本田(1988)8-9,22-23頁、中西(1994) 99,102頁)</ref>のうち、第7方面軍の参謀部に配属された約40名全員を機関員として受け入れ<ref>本田(1988)29頁、中西(1994) 99,102頁</ref>、また南方軍総司令部参謀部付となった特操のうち80名をゲリラ要員として訓練することになり、リバー・バレー路の本部近くのインスティテシューション・ヒル<ref>{{Coord|1.295177|N|103.839702|E|name=インスティテシューション・ヒル}}</ref>にあった訓練所で現地語<ref>40人ずつ2班に分けてそれぞれ中国語とマレー語を教えた(中西(1994) 138-140頁、本田(1988) 29-35頁)</ref>や無線通信などの講義を受けさせた(通称「ヤマ」、「総軍班」)<ref>中西(1994) 138-140頁、本田(1988) 29-35,90頁</ref>
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1945年6月には、情報要員に転用されることになった陸軍の[[特別操縦見習士官]](特操)<ref>同月1日付で、戦争末期の飛行機・ガソリン不足により、マレー・ジャワで飛行訓練を受けていた特操の南方要員約420名が訓練を中止して情報要員に転用されることになり、同月中に南方軍の各軍団の参謀部第2課に配属された({{Harvnb|本田|1988|pp=8-9,22-23}}、{{Harvnb|中西|1994|pp=99,102}})</ref>のうち、第7方面軍の参謀部に配属された約40名全員を機関員として受け入れ{{Sfn|本田|1988|p=29}}{{Sfn|中西|1994|pp=99,102}}、また南方軍総司令部参謀部付となった特操のうち80名をゲリラ要員として訓練することになり、リバー・バレー路の本部近くのインスティテシューション・ヒル<ref group="map">{{Coord|1.295177|N|103.839702|E|name=インスティテシューション・ヒル}}</ref>にあった訓練所で現地語<ref>40人ずつ2班に分けてそれぞれ中国語とマレー語を教えた({{Harvnb|中西|1994|pp=138-140}}、{{Harvnb|本田|1988|pp=29-35}})</ref>や無線通信などの講義を受けさせた('''総軍班'''、通称「ヤマ」){{Sfn|中西|1994|pp=138-140}}{{Sfn|本田|1988|pp=29-35,90}}
  
 
=== 中国人協力者 ===
 
=== 中国人協力者 ===
このほかに、元中華民国の軍人で、日本軍の占領地域でスパイ活動をしていて捕えられ、助命されて逆スパイとして日本軍に協力していた陳奇山<ref>元中華民国の軍人(大佐)で、シンガポール陥落後、残置諜者として12名ほどで島内の[[ジュロン]]地区に潜伏し、無電で重慶へ情報を送っていたところを検挙・逮捕され、参謀部2課で助命するかわりに、重慶へ偽情報を流させたり、抗日分子の所在など治安対策について助言を受けていた(中西(1994) 139頁、本田(1988) 41頁)。
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このほかに、元[[中華民国]]の軍人で、日本軍の占領地域でスパイ活動をしていて捕えられ、助命されて逆スパイとして日本軍に協力していた[[陳奇山]][[王桐傑]]や、[[陳嘉庚]]系の華僑の有力者・[[蔡和安]]をはじめとして、素性のはっきりしない中国人の機関員・協力者が多数いた{{Sfn|中西|1994|pp=139-140}}{{Sfn|本田|1988|pp=41,46}}
</ref>・王桐傑<ref>元中華民国の軍人・工作員で、スマトラ島の[[メダン]]で残置諜者をしていたところを一味6人とともに第25軍の憲兵隊に捕まり、死刑になるところを近藤大尉により助命されて機関に協力、近藤大尉とともに主にスマトラで活動していた(中西(1994) 139頁、本田(1988)41頁)。</ref>や、[[陳嘉庚]]系の華僑の有力者[[蔡和安]]<ref>多数の[[ジャンク]]を所有し、[[黒十字会]]を主宰し、浪機関で米の密貿易を担っていた(中西(1994) 139頁、本田(1988) 41-43頁、篠崎(1981))。</ref>をはじめとして、素性のはっきりしない中国人の機関員・協力者が多数いた<ref>中西(1994) 139-140頁、本田(1988) 41,46頁</ref>
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== 終戦・スマトラ潜行 ==
 
== 終戦・スマトラ潜行 ==
 
=== シンガポール脱出 ===
 
=== シンガポール脱出 ===
1945年8月15日の[[玉音放送]]の数日前に日本の[[ポツダム宣言]]受諾を察知した<ref>本田(1988)59,66頁</ref>茨木少佐らは、スマトラ治安工作を実行していたことからオランダからの[[戦争犯罪|戦犯]]訴追は免れないと考え、連合軍がシンガポールに進駐するとの情報があった同月20日以前にシンガポールを脱出することにした<ref>本田(1988)71-72,92頁、中西(1994)140-141頁</ref>
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1945年8月15日の[[玉音放送]]の数日前に日本の[[ポツダム宣言]]受諾を察知した{{Sfn|本田|1988|pp=59,66}}茨木少佐らは、[[スマトラ治安工作]]を実行していたことからオランダからの[[戦争犯罪|戦犯]]訴追は免れないと考え、連合軍が進駐してくるとの情報があった同月20日以前にシンガポールを脱出することにした{{Sfn|本田|1988|pp=71-72,92}}{{Sfn|中西|1994|pp=140-141}}
  
茨木少佐は機関の各拠点に現地住民の職員・工員の全員解雇を指示し<ref>中西(1994)144頁、本田(1988)71-72,74頁。篠崎(1981) 52頁に「茨木機関の全員は、少佐と行を共にした」、「女子の機関員もこれに従った」云々とあるが、中西(1994)144頁、本田(1988)74,90頁によると、同行したのは機関幹部と特操の軍人が主で、現地職員(女性5人を含む)は希望者少数のみが同行した。</ref>、同月16日にジョホール・バルの新本部やインスティテューション・ヒルの総軍班で、機関員や特操出身者に日本の無条件降伏を伝え、「このままシンガポールにいると、特務機関員は全員連合軍に捕まって処刑される。聖戦の目的を完遂するため、スマトラ島・アチェ州に渡り、アチェのインドネシア人青年とともにインドネシアの独立を目指して連合軍に徹底抗戦する。」とスマトラへの同行を呼びかけた<ref>本田(1988)60-66頁、中西(1994)140-141頁</ref>
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茨木少佐は、機関の各拠点に現地住民の職員・工員の全員解雇を指示し{{Sfn|中西|1994|p=144}}{{Sfn|本田|1988|pp=71-72,74}}{{Sfn|篠崎|1981|p=52には「茨木機関の全員は、少佐と行を共にした」、「女子の機関員もこれに従った」云々とあるが、{{harvtxt|中西|1994|p=144}}および{{Harvtxt|本田|1988|pp=74,90}}によると、同行したのは機関幹部と特操の軍人が主で、現地職員(女性5人を含む)は希望者少数のみが同行した。}}、女子機関員を元の所属か病院の看護婦に転属させ、通訳を各部隊に転属させ、機関員の将校・下士官をその希望と戦犯関係を考慮して一般科に転属させ、連合軍の取り調べや証拠になりそうな書類や資材を焼却させた{{Sfn|茨木|1953|p=19}}
  
特操出身者はほぼ全数の約120名がスマトラへ同行することになり<ref>本田(1988)61,90頁。「わいわいがやがやで結論が出ない。だが勇ましいことをいう方が、大勢を制する。組合大会の議論と同じである。反対派は次第に沈黙し、賛成派の張り切った声だけが聞こえるようになった。翌日になると、スマトラ行きの命令が出た、という話になった。だれが聞いてきたのか分からない。(…)気が動顚しているので、冷静な判断ができず、盲目的に信じてしまうのだ。迷った家畜の群が、一頭のふとした動きにつられて、ぞろぞろと、ついていくようなものである。いつの間にか、全員がスマトラ行きという空気になってしまった」(本田(1988)61頁)。</ref>、同月16-18日にかけてシンガポールの各所から武器・弾薬、食糧、宣撫物資(衣料品など)、海峡ドル、金塊、阿片等の物資を調達して船に積み込み<ref>本田(1988)68-71頁、中西(1994)142-143頁。茨城少佐は、茨木機関の本部の機関員には同行を命令したが(本田(1988)65-66頁)、総軍班では「ついて来たい者だけついて来い」と話し(本田(1988)60-61頁、中西(1994)140-141頁))、埠頭で膨大な物資と総軍班の特操ほぼ全員が集合したのを見て、「"貴様等、ようこんなに集めたのう"と呟くように言いながら、終始不機嫌な面をしていた」とされる(中西(1994)145頁)</ref><ref>本田(1988)91-92頁によると、物資調達にあたって方面軍司令部から命令が出ていたかどうかに関しては、許可していなかった、事前に参謀部を通して許可を得ていた、脅迫して命令書を書かせた、など関係者の証言は分かれている。</ref><ref>同月17日深夜には、機関本部を爆破して機関員が自決爆死したことを装い、爆発に驚いた第7方面軍・[[板垣征四郎]]司令官の面前に茨木少佐が連行されたとされる(篠崎(1981) 52頁)。本田(1988)・中西(1994)には爆発の記述はないが、中西(1994)144頁に「爆薬班のあった[[オーチャード・ロード]]の建物等機関の主な施設は、爆薬を仕掛け、夜中に爆破出来るように」した、とある。また篠崎(1981) 52頁では、その際に板垣は機関員のスマトラ脱出の意図を諒承したとしているが、本田(1988)・中西(1994)にはこの話はない。</ref>、同月19,20日、ジョホール州の各地に展開していた機関員のシンガポール帰還を待って<ref>本田(1988)78-79頁、中西(1994)144頁。共産軍のゲリラに捕まっていた、入院していたなどの事情で出発に間に合わず、他の部隊に転属した機関員もいた(中西(1994)145頁、本田(1988)81-89頁)。</ref>、機関員約160名が2隻の船に分乗してシンガポールを脱出した<ref>中西(1994)144頁、本田(1988)90-94頁。1945年8月19日夜10時に茨木少佐・近藤大尉と茨木機関の機関員が「パカンバル丸」で、翌20日午後4時に安達大尉と総軍班が「暁丸」でシンガポールを出航した(本田(1988)93頁)。約160名のうち特操出身者は茨木機関の者が約40名、総軍班約80名の計約120名だった(本田(1988)90頁)。篠崎(1981)52頁では「サフラン丸以下3,000トン級汽船3隻に分乗」としている。</ref>。
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同月16日に機関幹部がジョホール・バルの新本部やインスティテューション・ヒルの総軍班で、機関員や特操出身者に日本の無条件降伏を伝え、スマトラへの同行を呼びかけた{{Sfn|本田|1988|pp=60-66}}{{Sfn|中西|1994|pp=140-141}}。
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{{Quotation|「日本は連合国に無条件降伏した」
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「隊長、そらあ本当ですか?」
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「本当だ。きのう陛下が、ラジオで放送された。」
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「大本営からも南方軍に知らせてきた。間違いはない」
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「残念だ!」
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誰かが叫ぶと、それに唱和するように「畜生!」「何で降伏したんだ」「口惜しい」などの声が入り乱れた。
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「しかし、だ」
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「これは、だ。陛下のそばにいる腰抜け野郎共が、陛下をだまして、勝手にやったんだ」
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「そういう意気地なし共の決定に従う必要はないんだ」
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「一体全体、この遠いところまで、われわれは、何のためにやってきたんだべ?へえ?」
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「アジア民族を、鬼畜米英の支配から解放し、大東亜共栄圏を打ち立てるためである」
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「われわれは、断じてやめんぞ!あくまで戦うのだ」
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「な、そうだろう?」
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「へえ」
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「それは、はァ、へっへっへ」
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「笑っているときじゃない。木野はしょうがねえ奴だ」
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「われわれは、泥水をすすり、草を嚙んでも聖戦の目的はカンツイしたい」
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「このまま、べんべんと敵の上陸を待ち、捕虜になったら、われわれ特務機関の者は、戦争犯罪者として皆殺されるだろう。殺されなくても、一生労役に服さねばならんだろう。それは、ドイツの例を見れば分かる」
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「大東亜戦争の目的が、アジアの解放にあるのならば、アジアの民族と力を合わせて、死ぬまで、やろうじゃないか」
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「機関は、これよりスマトラへ移動する。インドネシアの独立闘争に力を貸すんだ」
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 ――やれやれだ。私は気が重くなった。|1945年8月16日、ジョホール・バルの茨木機関新本部での茨木少佐の講話より抜粋|{{Harv|本田|1988|pp=62-66}} }}
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特操出身者はほぼ全数の約120名がスマトラへ同行することになった{{Sfn|本田|1988|pp=61,90}}
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*{{Harvtxt|茨木|1953|pp=3,11}}によると、同月17日深夜、茨木少佐は、スマトラへ同行予定の機関員が爆死したことを装うため機関員に命令してシンガポールの[[パール・バル路]]27号にあった部下の宿舎に爆薬20トンを積んで爆破させた。翌日(18日){{Sfn|茨木|1953|p=10}}、茨木少佐は、憲兵隊を通じて第7方面軍司令部に呼び出され、[[板垣征四郎|板垣司令官]]に約200人の部下が爆発の巻き添えになって死んだと虚偽の報告をしたという{{Sfn|茨木|1953|pp=14-17}}。更にその翌日(19日){{Sfn|茨木|1953|p=23}}、茨木少佐は参謀部の会議の場で、機関員が[[マラヤ共産党]]に命を狙われており、引揚げ中に襲撃され死傷者が出ていると虚偽の報告をして、板垣司令官からスマトラ潜行の承諾を得たという{{Sfn|茨木|1953|pp=22-25}}。<ref>{{Harvtxt|篠崎|1981|p=52}}は、爆発の件で茨木少佐が第7方面軍司令部に呼び出された際に、板垣司令官は機関員のスマトラ脱出の意図を諒承したとしている。</ref>
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*{{Harvtxt|本田|1988}}および{{Harvtxt|中西|1994}}には爆発の記述はなく、{{Harvtxt|中西|1994|p=144}}には、「爆薬班のあった[[オーチャード・ロード]]の建物等機関の主な施設は、爆薬を仕掛け、夜中に爆破出来るように」した、とある。
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同月16-18日にかけて、機関員はシンガポールの各所から武器・弾薬、食糧、宣撫物資(衣料品など)、[[海峡ドル]]、[[金塊]]、[[アヘン]]等の物資を調達して船に積み込んだ{{Sfn|本田|1988|pp=68-71}}{{Sfn|中西|1994|pp=142-143}}。
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*茨木少佐は、茨木機関の本部の機関員には同行を命令したが{{Sfn|本田|1988|pp=65-66}}、総軍班では「ついて来たい者だけついて来い」と話し{{Sfn|本田|1988|pp=60-61}}{{Sfn|中西|1994|pp=140-141}}、埠頭で膨大な物資と総軍班の特操ほぼ全員が集合したのを見て、「"貴様等、ようこんなに集めたのう"と呟くように言いながら、終始不機嫌な面をしていた」という{{Sfn|中西|1994|p=145}}
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*{{Harvtxt|本田|1988|pp=91-92}}によると、物資調達にあたって方面軍司令部から命令が出ていたかどうかに関しては、許可していなかった、事前に参謀部を通して許可を得ていた、脅迫して命令書を書かせた、など関係者の証言が分かれている。
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*{{Harvtxt|茨木|1953|pp=28-33}}は、茨木少佐は参謀部の会議で板垣司令官の諒解を得た日(19日)の夜に参謀宿舎で、稲田(仮)参謀、岡倉(仮)参謀、K参謀、Y参謀らを[[手榴弾]]で脅して船、兵器、弾薬、被服、自動車などの持ち出しについての許可(命令書)を得、その翌日(20日)機関員に物資を集めさせた、としているが、同書 p.35は、出帆を19日の夜または20日早朝に決めた、としている。<ref>編注:日付が前後している。出航の日付は後述の{{Harvtxt|本田|1988|pp=78-79,90-94}}および{{Harvtxt|中西|1994|p=144}}と一致しているため、{{Harvtxt|茨木|1953|pp=3-33}}に記載の、爆発や会議での諒承が(もし本当にそのような経緯があったとして)18日以前の出来事だった可能性が高い。</ref>
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同月19-20日に、ジョホール州の各地に展開していた機関員のシンガポール帰還を待って{{Sfn|本田|1988|pp=78-79}}{{Sfn|中西|1994|p=144}}、機関員約160名が2隻の船に分乗してシンガポールを脱出した{{Sfn|中西|1994|p=144}}{{Sfn|本田|1988|pp=90-94}}。
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*19日夜10時に茨木少佐・近藤大尉と茨木機関の機関員が「パカンバル丸」で、翌20日午後4時に安達大尉と総軍班が「暁丸」でシンガポールを出航した{{Sfn|本田|1988|p=93}}。約160名のうち特操出身者は茨木機関の者が約40名、総軍班約80名の計約120名だった{{Sfn|本田|1988|p=90}}。<ref>{{Harvtxt|茨木|1953|p=39}}および{{Harvtxt|篠崎|1981|p=52}}は、「サフラン丸以下3,000トン級貨物船(汽船)3隻」に分乗し(19日夜に出航し)たとしている。</ref>
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*これに先立ち、同月16日に先遣隊として島崎・今野両少尉と機関員のナジャムデンらインドネシア人40人が[[ジャンク]]3隻で{{仮リンク|パシル・パンジャン|en|Pasir Panjang}}からスマトラ島へ出発していた{{Sfn|茨木|1953|pp=35-37}}。
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*共産軍のゲリラに捕まっていた、入院していたなどの事情で出発に間に合わず、他の部隊に転属した機関員もいた{{Sfn|中西|1994|p=145}}{{Sfn|本田|1988|pp=81-89}}
  
 
=== スマトラ潜行 ===
 
=== スマトラ潜行 ===
一行は1945年8月21,22日にスマトラ島[[プカンバル|パカンバル]]<ref>{{Coord|0.507590|N|101.447117|E|name=パカンバル}}</ref>に到着した<ref>本田(1988)96-98頁。パカンバル丸は8月21日午後4時頃に、暁丸は1日遅れて翌22日午後4時頃にパカンバルに到着した(同)。</ref>。パカンバルから、現地部隊のトラックを借り、少人数のグループに分かれてそれぞれアチェ州に向かう計画だったが、{{仮リンク|バンキナン|en|Bangkinang (kota)}}<ref>{{Coord|0.341241|N|101.027534|E|name=バンキナン}}</ref>にあった輸送大隊は連合軍への引渡しを理由にトラックの貸出しを渋り、移動に十分な台数を確保できなかった<ref>本田(1988) 94-97頁</ref>。このため物資を現地住民に投げ売りするなどして減らし<ref>本田(1988)97-98頁</ref>、更に茨木少佐は後から到着した総軍班の機関員にパカンバル近くの{{仮リンク|ロカン河|en|Rokan River}}の周辺に展開することを指示した(リオー班)<ref>本田(1988)98頁</ref>
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一行は1945年8月21,22日にスマトラ島パカンバル<ref group="map">{{Coord|0.507590|N|101.447117|E|name=パカンバル}}</ref>に到着した{{Sfn|本田|1988|pp=96-98。パカンバル丸は8月21日午後4時頃に、暁丸は1日遅れて翌22日午後4時頃にパカンバルに到着した(同)。}}。パカンバルから、現地部隊のトラックを借り、少人数のグループに分かれてそれぞれアチェ州に向かう計画だったが、{{仮リンク|バンキナン|en|Bangkinang (kota)}}<ref group="map">{{Coord|0.341241|N|101.027534|E|name=バンキナン}}</ref>にあった輸送大隊は連合軍への引渡しを理由にトラックの貸出しを渋り、移動に十分な台数を確保できなかった{{Sfn|本田|1988|pp=94-97}}。このため現地住民に投げ売りするなどして物資を減らし{{Sfn|本田|1988|pp=97-98}}、更に茨木少佐は後から到着した総軍班の機関員にパカンバル近くの{{仮リンク|ロカン河|en|Rokan River}}の周辺に展開することを指示した(リオー班){{Sfn|本田|1988|p=98}}
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*{{Harvtxt|茨木|1953|pp=54}}は、パカンバル上陸直後に現地部隊にトラックを借りに行った機関員から、現地歩兵部隊は「特務機関が叛乱を起こし、スマトラ島に上陸し北上しようとしているから第25軍は逮捕し、機関長を逮捕したらシンガポールに護送せよ」と第7方面軍から指示を受けていたとの報告を受けた、としている。
  
機関幹部は第25軍司令部が置かれていた[[ブキティンギ|ブキチンギ]]<ref>{{Coord|0.303507|N|100.382460|E|name=ブキチンギ}}</ref>へ移動し、近藤大尉らが同司令部の参謀・池田少佐を訪ねて動静を伺うと、同少佐は既にシンガポールの第7方面軍司令部から連絡を受けていて、行動を中止して方面軍の指示があるまでブキチンギに止まるよう説得、指示に従わないなら反乱軍として逮捕する、と迫った<ref>本田(1988)99-102頁</ref>
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機関幹部は第25軍司令部が置かれていた[[ブキティンギ|ブキチンギ]]<ref group="map">{{Coord|0.303507|N|100.382460|E|name=ブキチンギ}}</ref>へ移動し、近藤大尉らが同司令部の参謀・池田少佐を訪ねて動静を伺うと、同少佐は既にシンガポールの第7方面軍司令部から連絡を受けていて、行動を中止して方面軍の指示があるまでブキチンギに止まるよう説得、指示に従わないなら反乱軍として逮捕する、と迫った{{Sfn|本田|1988|pp=99-102}}
  
第25軍司令部は、茨木機関のトラック隊のブキチンギ通過を見送った後に、隷下の部隊に逮捕命令を出し、北部スマトラに駐屯する近衛第2師団(本部・[[メダン]]<ref>{{Coord|3.595688|N|98.671963|E|name=メダン}}</ref>)に機関員を逮捕するよう連絡<ref>本田(1988)102-107頁</ref>、トラック隊は、シボルガ<ref>{{Coord|1.737047|N|98.785015|E|name=シボルガ}}</ref>、タルトン<ref>{{Coord|2.012438|N|98.979357|E|name=タルトン}}</ref>、シボロンボロン<ref>{{Coord|2.202218|N|98.981907|E|name=シボロンボロン}}</ref>、バリゲ<ref>{{Coord|2.333862|N|99.083252|E|name=バリゲ}}</ref>、プラパット<ref>{{Coord|2.656985|N|98.939006|E|name=プラパット}}</ref>、ペマタン・シアンタル<ref>{{Coord|2.965286|N|99.062296|E|name=ペマタン・シアンタル}}</ref>と縦走した後、ほとんどのグループが近衛第2師団の守備区域内で拘束され、メダンの収容所に抑留された<ref>本田(1988)102-107,119-120頁</ref>。メダンを通過したグループも、クアラシンパン<ref>{{Coord|4.279147|N|98.064120|E|name=クアラシンパン}}</ref>、パンカラン・ブランダン<ref>{{Coord|4.019339|N|98.282027|E|name=パンカラン・ブランダン}}</ref>、ビルン<ref>{{Coord|5.221974|N|96.717159|E|name=ビルン}}</ref>、ムラボー<ref>{{Coord|4.143823|N|96.127657|E|name=ムラボー}}</ref>など各地で現地部隊によって保護・拘束され、連絡を受けてやってきた機関幹部らから計画中止の命令を聞いて、メダンの収容所に合流した<ref>本田(1988)108-119頁</ref>。茨木少佐はじめ機関幹部は、機関員の大部分が近衛第2師団に捕えられた後にメダンに入り、同師団の参謀部やブキチンギの第25軍司令部とその後の展開や特操の扱いどうするか話合っていた<ref>本田(1988)118-119,120-123頁</ref>
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第25軍司令部は、茨木機関のトラック隊のブキチンギ通過を見送った後で、隷下の部隊に逮捕命令を出し、北部スマトラに駐屯する近衛第2師団(本部・[[メダン]]<ref group="map">{{Coord|3.595688|N|98.671963|E|name=メダン}}</ref>)に機関員を逮捕するよう連絡{{Sfn|本田|1988|pp=102-107}}、トラック隊は、シボルガ<ref group="map">{{Coord|1.737047|N|98.785015|E|name=シボルガ}}</ref>、タルトン<ref group="map">{{Coord|2.012438|N|98.979357|E|name=タルトン}}</ref>、シボロンボロン<ref group="map">{{Coord|2.202218|N|98.981907|E|name=シボロンボロン}}</ref>、バリゲ<ref group="map">{{Coord|2.333862|N|99.083252|E|name=バリゲ}}</ref>、プラパット<ref group="map">{{Coord|2.656985|N|98.939006|E|name=プラパット}}</ref>、ペマタン・シアンタル<ref group="map">{{Coord|2.965286|N|99.062296|E|name=ペマタン・シアンタル}}</ref>と縦走した後、ほとんどのグループが近衛第2師団の守備区域内で拘束され、メダンの収容所に抑留された{{Sfn|本田|1988|pp=102-107,119-120}}。メダンを通過したグループも、クアラシンパン<ref group="map">{{Coord|4.279147|N|98.064120|E|name=クアラシンパン}}</ref>、パンカラン・ブランダン<ref group="map">{{Coord|4.019339|N|98.282027|E|name=パンカラン・ブランダン}}</ref>、ビルン<ref group="map">{{Coord|5.221974|N|96.717159|E|name=ビルン}}</ref>、ムラボー<ref group="map">{{Coord|4.143823|N|96.127657|E|name=ムラボー}}</ref>など各地で現地部隊によって保護・拘束され、連絡を受けてやってきた機関幹部らから計画中止の命令を聞いて、メダンの収容所に合流した{{Sfn|本田|1988|pp=108-119}}。茨木少佐はじめ機関幹部は、機関員の大部分が近衛第2師団に捕えられた後にメダンに入り、同師団の参謀部やブキチンギの第25軍司令部とその後の展開や特操の扱いについて話し合った{{Sfn|本田|1988|pp=118-119,120-123}}
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*{{Harvtxt|茨木|1953|pp=66-67}}は、第25軍司令部は、(茨木機関の行動を看過する意図はなく、)「スマトラ軍は第7方面軍ほど敏活でなく、(…)万事のんびりして」おり、茨木機関が展開を急いだため、ブキチンギ通過を許した、としている。
  
 
=== リオー班 ===
 
=== リオー班 ===
総軍班のうち、リオー班の特操出身者35名は、茨木少佐から「無線や武器を使わず、10年を目標に自活し、独立運動は側面から支援するように」との指示を受けて、ロカン河畔のウジャンバト<ref>{{Coord|0.714198|N|100.527161|E|name=ウジャンバト}}</ref>一帯を展開地点に選定し、これより下流のコタインタン<ref>{{Coord|0.801864|N|100.587539|E|name=コタインタン}}</ref>、ラントベルギアン<ref>所在地不明<!-- {{Coord|????????|N|????????|E|name=ラントベルギアン}}--></ref>周辺で数名ずつ分かれて付近の住民の許可を得て住み着き、物々交換で食料を得るなどして自活することになった<ref>本田(1988) 155-160頁</ref>
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総軍班のうち、リオー班の特操出身者35名は、茨木少佐から「無線や武器を使わず、10年を目標に自活し、独立運動は側面から支援するように」との指示を受けて、ロカン河畔のウジャンバト<ref group="map">{{Coord|0.714198|N|100.527161|E|name=ウジャンバト}}</ref>一帯を展開地点に選定し、これより下流のコタインタン<ref group="map">{{Coord|0.801864|N|100.587539|E|name=コタインタン}}</ref>、ラントベルギアン<ref group="map">所在地不明</ref>周辺で数名ずつ分かれて付近の住民の許可を得て住み着き、物々交換で食料を得るなどして自活することになった{{Sfn|本田|1988|pp=155-160}}。
  
早々にイスラム教に改宗し、割礼を受けた隊員もいたが、言葉が通じないため住民との意思疎通は難しく、暑さのため体調を崩し感染症に罹るなど、生活は過酷で<ref>本田(1988) 160-166頁</ref>、8月下旬にメダンで展開中止が決まった後、茨木少佐の指示で機関員が2度ウジャンバトに来て復帰を促し、9月下旬にはブキチンギの第25軍司令部の情報将校・松岡大尉が各班の代表者を集めて説得<ref>このとき多くの隊員は生活に疲れて潜伏を中止し、10人を残してメダンへ引揚げた(本田(1988)167-170頁)</ref>、その後も何度か潜伏を続ける隊員の捜索が行われ<ref>1人が帰隊したが、他の隊員は他所へ移動していて見つからなかったり、遭遇しても警戒して説得に応じなかったりした(本田(1988)171-177頁)</ref>、1946年の夏までに、27人はメダンに合流し<ref>1946年1月に1人が自ら潜伏を中止してブキチンギの第25軍司令部に帰着し、メダンに合流した(本田(1988)177-184頁)</ref>、2人は日本に帰国した<ref>2人はロカン河の下流バガン・シアピアピ({{Coord|2.158999|N|100.816114|E|name=バガン・シアピアピ}})に出てブギス人の警察署長に保護されていたが、日本軍の逃亡兵がいるという噂が町に広まったため、ブキチンギに出頭し、1946年夏にメダンの本隊より先に復員した(本田(1988)189-201頁)。</ref>。残る6名の隊員は行方不明となった<ref>うち1人は早い時期に手榴弾により自殺(本田(1988)177-184頁)、2人は{{仮リンク|青年隊 (インドネシア)|label=プムーダ(青年隊)|en|People's Youth (Indonesia)}}に殺害され(本田(1988)188頁)、3人は1947年9月から年末にかけてパダン、ブキチンギ地区のインドネシア軍が日本軍の脱走兵を一斉に拘禁、殺害した際に殺害されたとみられている(本田(1988)187-188頁、中西(1994) 187頁)</ref>
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早々にイスラム教に改宗し、割礼を受けた隊員もいたが、言葉が通じないため住民との意思疎通は難しく、暑さのため体調を崩し感染症に罹るなど、生活は過酷だった{{Sfn|本田|1988|pp=160-166}}。
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その後、8月下旬にメダンで展開中止が決まった後に、茨木少佐の指示で機関員が2度ウジャンバトに来て復帰を促し、9月下旬にはブキチンギの第25軍司令部の情報将校・松岡大尉が各班の代表者を集めて説得にあたった。このとき多くの隊員は潜伏を中止し、10人を残してメダンへ引揚げた。{{Sfn|本田|1988|pp=167-170}}
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その後も何度か潜伏を続ける隊員の捜索が行われ、1人が帰隊したが、他の隊員は他所へ移動していて見つからなかったり、遭遇しても警戒して説得に応じなかったりした{{Sfn|本田|1988|pp=171-177}}。
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1946年の夏までに、リオ―班35人のうち、27人はメダンに合流し、2人は原隊に復帰せずに直接日本に帰国した。
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*1946年1月に1人が自ら潜伏を中止してブキチンギの第25軍司令部に帰着し、メダンに合流した{{Sfn|本田|1988|pp=177-184}}。
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*日本に帰国した2人は、ロカン河の下流バガン・シアピアピ<ref group="map">{{Coord|2.158999|N|100.816114|E|name=バガン・シアピアピ}}</ref>に出て[[ブギス人]]の警察署長に保護されていたが、日本軍の逃亡兵がいるという噂が町に広まったため、ブキチンギに出頭し、1946年夏にメダンの本隊より先に日本に復員していた{{Sfn|本田|1988|pp=189-201}}。
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残る6名の隊員は行方不明となった。
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*うち1人は早い時期に手榴弾により自殺{{Sfn|本田|1988|pp=177-184}}、2人は{{仮リンク|青年隊 (インドネシア)|label=プムーダ(青年隊)|en|People's Youth (Indonesia)}}に殺害され{{Sfn|本田|1988|p=188}}、3人は1947年9月から年末にかけてパダン、ブキチンギ地区のインドネシア軍が日本軍の脱走兵を一斉に拘禁、殺害した際に殺害されたとみられている{{Sfn|本田|1988|pp=187-188}}{{Sfn|中西|1994|p=187}}
  
 
=== 抑留生活 ===
 
=== 抑留生活 ===
メダンに集結した茨木機関の特操出身者は、近衛第2師団の野砲兵連隊に預けられ、1ヵ月余をシアンタル近くの茶園シダマニック<ref>{{Coord|2.849163|N|98.922141|E|name=シダマニック}}</ref>の製茶工場の施設で過ごした後<ref>本田(1988)202-205頁、中西(1994)157-161頁。無為に過ごし、野砲兵連隊の慰安所やシアンタルへ遊びに行く者が多かったため、性病を患う者が続出した(同)。</ref>、インドネシアの独立運動が高揚して連合軍がスマトラの内陸に入り込むことができず、師団司令部が特操の存在を気にしなくなってきたこともあり、他の日本軍部隊との摩擦を避けるために<ref>特操が野砲兵連隊の慰安所に通ったことで同連隊と揉めるなど、特操出身者の放埓な行動が摩擦の原因となっていたとされる(本田(1988)206-207頁、中西(1994)174-175頁)</ref>、師団司令部を離れて[[トバ湖]]の東北岸近くのチガルング<ref>{{Coord|2.896429|N|98.722660|E|name=チガルング}}</ref>村に移った(諸菱隊)<ref>本田(1988)206-211頁、中西(1994)161-165頁。このとき、特操出身の機関員1人が、安達大尉の了解を得て脱走し、西アチェへ潜行した(本田(1990) 53-60頁)</ref>
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メダンに集結した茨木機関の特操出身者は、近衛第2師団の野砲兵連隊に預けられ、1ヵ月余をシアンタル近くの茶園シダマニック<ref group="map">{{Coord|2.849163|N|98.922141|E|name=シダマニック}}</ref>の製茶工場の施設で過ごした後{{Sfn|本田|1988|pp=202-205}}{{Sfn|中西|1994|pp=157-161。無為に過ごし、野砲兵連隊の慰安所やシアンタルへ遊びに行く者が多かったため、性病を患う者が続出した(同)。}}、インドネシアの独立運動が高揚して連合軍がスマトラの内陸に入り込むことができず、師団司令部が特操の存在を気にしなくなってきたこともあり、他の日本軍部隊との摩擦を避けるために、師団司令部を離れて[[トバ湖]]の東北岸近くのチガルング<ref group="map">{{Coord|2.896429|N|98.722660|E|name=チガルング}}</ref>村に移った(諸菱隊){{Sfn|本田|1988|pp=206-211}}{{Sfn|中西|1994|pp=161-165}}。
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*特操が野砲兵連隊の[[慰安所]]に通ったことで同連隊と揉めるなど、特操出身者の放埓な行動が摩擦の原因となっていたという{{Sfn|本田|1988|pp=206-207}}{{Sfn|中西|1994|pp=174-175}}。
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*この頃、特操出身の機関員1人が、安達大尉の了解を得て脱走し、西アチェへ潜行した{{Sfn|本田|1990|pp=53-60}}
  
この間、機関の古参の機関員は大集団の特操を隠れ蓑にして別に7箇所に分かれて展開していたが<ref>本田(1988)205頁</ref>、第7方面軍参謀部2課の桑原中佐が英軍の飛行機でメダン入りして展開の中止とシンガポールへの機関幹部の同行を求めた際に、これに応じて近藤大尉らがシンガポールへ戻った<ref>本田(1988)205-206頁。近藤大尉はその後、日本に帰国したが、オランダから戦犯容疑者の指名を受けて逮捕・連行され、1946年末から1947年初頃、メダンの刑務所に収監されていた(本田(1990)134頁)。アチェ州に潜行していた元機関員たちが近藤大尉の奪還を計画したが、諦めたとされる(同)。篠崎(1981)52-53頁では、茨木少佐は第7方面軍司令部の桑'''田'''参謀の説得に応じてシンガポールに戻り、英軍に捕まってチャンギー刑務所に送られたとしている。</ref>。茨木少佐は桑原中佐には会わず、諸菱隊のチガルング移住後もシアンタルに留まっていた<ref>本田(1988)211頁。シアンタルの機関員は中国人の家に下宿して中国語の勉強を命ぜられており、茨木少佐は中国人社会に紛れ込んで戦犯追及を逃れるつもりだったとみられている(本田(1988)232頁)。</ref>。
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この間、機関の古参の機関員は、大集団の特操を隠れ蓑にして別に7箇所に分かれて展開していたが{{Sfn|本田|1988|p=205}}、1945年9月20日に{{Sfn|茨木|1953|p=107}}第7方面軍参謀部2課の桑原中佐が英軍の飛行機でメダン入りして、部隊の展開の中止とシンガポールへの機関幹部の同行を求めた際に、これに応じて近藤大尉らがシンガポールへ戻った{{Sfn|本田|1988|pp=205-206}}。<ref>{{Harvtxt|篠崎|1981|pp=52-53}}は、茨木少佐が第7方面軍司令部の桑田参謀の説得に応じてシンガポールに戻り、英軍に捕まってチャンギー刑務所に送られた、としている。</ref>
  
また、師団からの指示により、機関員が個別にメダンに進駐した連合軍の翻訳・通訳を務めたり、オランダ人の住民を護送してインドへ送るのを支援したりしていた<ref>本田(1988)211-221頁</ref>。1946年の1月頃には、独立運動の激化を受けて、茨木少佐の命令で、親しくしていた[[ラジャ]]<ref>戦前のインドネシアでオランダの支配体制に組み込まれていたため、独立闘争の標的となっていた(本田(1988)252頁)。</ref>の護衛を交代で行っていた<ref>本田(1988)241-242,252-253頁。独立運動の支援とは相容れない活動だったが、引揚げが決まったため1週間程度で終わりになった(本田(1988)252-253頁)。終戦に伴い、連合軍がスマトラ島に進駐し、抑留されていたオランダ人が解放されると、戦前の所有地等に復帰しようとしたオランダ人とインドネシア人の間で摩擦が起きて独立運動が急激に盛り上がり、連合軍に協力して連合国人の保護を命じられていた日本軍もインドネシア軍の標的になりつつあったため、脱走してインドネシア軍に投じる者が出る一方で、復員が急がれた(中西(1994)180頁)</ref>
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茨木少佐は桑原中佐には会わず、諸菱隊のチガルング移住後もシアンタルに留まっていた{{Sfn|本田|1988|p=211}}。
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*シアンタルの機関員は、中国人の家に下宿して[[中国語]]の勉強を命ぜられており、茨木少佐は中国人社会に紛れ込んで戦犯追及を逃れるつもりだったとみられている{{Sfn|本田|1988|p=232}}。
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*{{Harvtxt|茨木|1953|pp=108-111}}は、茨木少佐が自分で桑田(仮名、桑原)中佐に会いに行き、話しをしたが物別れに終わった、としている。また、その後も桑田中佐は機関員をシンガポールに連れ帰ろうとして近衛師団司令部に留まっており、同所を訪れた茨木少佐と言い合いになった、としている{{Sfn|茨木|1953|pp=122-125}}。
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また、師団からの指示により、機関員が個別にメダンに進駐した連合軍の翻訳・通訳を務めたり、オランダ人の住民を護送してインドへ送るのを支援したりしていた{{Sfn|本田|1988|pp=211-221}}。1946年の1月頃には、独立運動の激化を受けて、茨木少佐の命令で、親しくしていた[[ラジャ]]<ref>戦前のインドネシアでオランダの支配体制に組み込まれていたため、独立闘争の標的となっていた{{Harv|本田|1988|p=252}}。</ref>の護衛を交代で行っていた{{Sfn|本田|1988|pp=241-242,252-253}}。
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{{Quotation|例のラジャが[[ムルデカ]]青年の反感を買っていたかどうか知る由もないが、これを護衛するのはどう考えても妥当ではないと私は思った。独立運動の支援を決意し、いったんは止めたものの、心の中では、その気持ちを持ち続けているものが、独立に批判的とみなされている階級の護衛を買って出るのは矛盾した行動ではないか。茨木少佐は事大主義というか、軍隊的というか、権威に盲従する気持ちがあるのではないか。ラジャを頼りにしていけばいいと思っているらしい。新しい時代の動きがわからないのだろうか。|茨木少佐の指示でしていた、チガルングの[[ラジャ]]をインドネシア独立勢力から護衛する仕事について|{{Harv|本田|1988|p=252}} }}
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まもなく引揚げが決まったため、1週間程度で護衛は終わりになった{{Sfn|本田|1988|pp=252-253}}。
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終戦に伴い、連合軍がスマトラ島に進駐し、抑留されていたオランダ人が解放されると、戦前の所有地等に復帰しようとしたオランダ人とインドネシア人の間で摩擦が起きて独立運動が急激に盛り上がり、連合軍に協力して連合国人の保護を命じられていた日本軍もインドネシア軍の標的になりつつあったため、脱走してインドネシア軍に投じる者が出る一方で、復員が急がれた{{Sfn|中西|1994|p=180}}
  
 
=== 引揚げ、潜行、逮捕 ===
 
=== 引揚げ、潜行、逮捕 ===
 
==== 諸菱隊の引揚げ ====
 
==== 諸菱隊の引揚げ ====
1946年2月2日、諸菱隊はメダンの外港{{仮リンク|ベラワン港|label=ベラワン|en|Port of Belawan}}<ref>{{Coord|3.784587|N|98.694060|E|name=ベラワン}}</ref>に集結し、武装解除されてマレー半島へ送られた<ref>本田(1988)254頁、中西(1994)183-187頁</ref>。{{仮リンク|バトゥパハ|label=バトパハ|en|Batu Pahat}}<ref>{{Coord|1.848805|N|102.928919|E|name=バトパハ}}</ref>に約1ヶ月滞在した後、[[レンガム]]<ref>終戦後、南方軍総司令部や第7方面軍司令部が置かれていた(本田(1988)254頁)。{{Coord|1.884655|N|103.399917|E|name=レンガム}}</ref>東方の山村アイルマニス<ref>所在地不明<!-- {{Coord|????????|N|????????|E|name=アイルマニス}}--></ref>で1ヵ月ほど開墾に従事した後レンガムに移動<ref>中西(1994)190-195頁。当地では麻雀が流行した(中西(1994)194頁)。本田(1988)254頁では帰国までの3カ月間アイルマニスに滞在したとしている。本田ら2人の機関員はアイルマニスへ行く前にレンガムの南馬来軍司令所に転属になっており、その後1947年10-12月にかけて復員帰国した(本田(1988)254-255頁)</ref>、1946年6月12日に一部の残留者を除いて<ref>中西(1994)の著者である中西淳は、4月頃[[デング熱]]でシンガポールの陸軍病院に入院し、治癒後も病院に居座っている間に本隊が帰国したため残留し、シンガポールの捕虜収容所に移された(中西(1994)201-202頁)。ほかに3名が残留した(本田(1988)254-255頁)</ref>帰国の途につき、6月15日にシンガポールの[[セレタ軍港]]から[[リバティ船]]で日本に向かった<ref>本田(1988)254-255頁</ref>
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1946年2月2日、諸菱隊はメダンの外港・{{仮リンク|ベラワン港|label=ベラワン|en|Port of Belawan}}<ref group="map">{{Coord|3.784587|N|98.694060|E|name=ベラワン}}</ref>に集結し、武装解除されてマレー半島へ送られた{{Sfn|本田|1988|p=254}}{{Sfn|中西|1994|pp=183-187}}
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マレー半島の{{仮リンク|バトゥパハ|label=バトパハ|en|Batu Pahat}}<ref group="map">{{Coord|1.848805|N|102.928919|E|name=バトパハ}}</ref>に約1ヶ月滞在した後、終戦後に南方軍総司令部や第7方面軍司令部が移置されていた[[レンガム]]<ref group="map">{{Coord|1.884655|N|103.399917|E|name=レンガム}}</ref>の東方の山村・アイルマニス<ref group="map">所在地不明</ref>で1ヵ月ほど開墾に従事し、その後レンガムに移動{{Sfn|中西|1994|pp=190-195}}
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*当地では[[麻雀]]が流行したという{{Sfn|中西|1994|p=194}}。
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*{{Harvtxt|本田|1988|p=254}}は、帰国までの3カ月間アイルマニスに滞在した、としている。本田ら2人の機関員は、アイルマニスへ行く前にレンガムの南馬来軍司令所に転属になっており、その後1947年10-12月にかけて復員帰国した{{Sfn|本田|1988|pp=254-255}}
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1946年6月12日に諸菱隊は一部の残留者を除いて帰国の途につき、6月15日にシンガポールの[[セレタ軍港]]から[[リバティ船]]で日本に向かった{{Sfn|本田|1988|pp=254-255}}。
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*総軍班にいた中西淳は、同年4月頃、[[デング熱]]でシンガポールの陸軍病院に入院し、治癒後も病院に居座っている間に本隊が帰国したため残留し、シンガポールの捕虜収容所に移された{{Sfn|中西|1994|pp=201-202}}。
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*中西のほか3名が残留した{{Sfn|本田|1988|pp=254-255頁}}
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==== 戦犯容疑者のアチェ潜行 ====
 
==== 戦犯容疑者のアチェ潜行 ====
1946年2月頃、シアンタルに留まっていた岸山勇次曹長ら古参の機関員で、前歴から戦犯に問われる可能性のあった者数名は、茨木少佐の承認を得て脱走し、クアラ・シンパンに潜伏した<ref>本田(1990)85-90頁</ref>。のちにアチェ州に入り、岸山は「[[島小太郎]]」を名乗り、他の日本人脱走兵とともにアチェのインドネシア軍に協力し、破壊工作員の育成や破壊工作に携わった<ref>本田(1990)85頁-。詳細は同書を参照。</ref>
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1946年2月頃、シアンタルに留まっていた岸山勇次曹長ら古参の機関員で、前歴から戦犯に問われる可能性のあった者数名は、茨木少佐の承認を得て脱走し、クアラ・シンパンに潜伏した{{Sfn|本田|1990|pp=85-90}}。のちに岸山はアチェ州に入って「[[島小太郎]]」を名乗り、他の日本人脱走兵とともにアチェのインドネシア軍に協力し、破壊工作員の育成や破壊工作に携わった{{Sfn|本田|1990|pp=85-}}
==== 機関長逮捕 ====
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1946年3月頃、シアンタルに留まっていた茨木少佐、安達大尉と特操14人は引揚げのため近衛第2師団の野砲兵連隊の将兵とともにベラワン港へ移動したが、乗船の際に茨木少佐と安達大尉は戦犯容疑でオランダ軍憲兵に拘引され、特操14人だけがマレー半島へ渡り、諸菱隊よりも早く、同年5月に帰国した<ref>本田(1988)254頁。本田(1988)254頁では機関幹部と特操14名(中西を含む)が3月まで残留していた、としているが、中西(1994)183-187頁では中西は1月末頃に仲間とともにスマトラを離れたとしており、また同書190頁では、その船上で茨木少佐が英軍に拘束されたとの情報があって仲間は騒然となった、としている。</ref>
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==== 機関幹部の逮捕 ====
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{{Harvtxt|本田|1988|p=254}}によると、茨木少佐、安達大尉と特操14名(中西を含む)はシアンタルに残留していたが、1946年3月に引揚げのため近衛第2師団の野砲兵連隊の将兵とともにベラワンへ移動。乗船の際に茨木少佐と安達大尉がオランダ軍の憲兵に戦犯容疑で拘引され、特操14人だけがマレー半島へ渡り、諸菱隊よりも早く、同年5月に帰国した。
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*{{Harvtxt|中西|1994|pp=183-187}}によると、中西らがスマトラを離れたのは1946年1月末頃だったという。また同書 p.190によると、その船上で、茨木少佐が英軍に拘束されたとの情報に接し、仲間は騒然となった。
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*{{Harvtxt|茨木|1953|pp=140-143}}によると、茨木少佐は、1946年3月にシンガポールの桑田(仮名、桑原)中佐から「連合軍の取調べが始まっているが、情報関係、特に共産党対策関係で不明な点が多い。絶対に逮捕しないから出頭してほしい」旨の電報があり、メダンの飛行場まで行ったところ、英軍に拘束され、べラワンの英軍管理の戦犯収容所に入れられた。
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==== 機関長の脱走 ====
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茨木少佐は、逮捕から1ヶ月ほどしてからシンガポールの[[チャンギー刑務所]]に移され、のち[[ジョホール・バル]]の[[英軍情報部]]に監禁されて、英軍から[[マラヤ共産党]]対策について訊問を受け、報告書の執筆を求められた{{Sfn|中西|1994|pp=202-206}}{{Sfn|茨木|1953|pp=147-167}}。
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シンガポールの捕虜収容所にいた総軍班の中西淳は、[[蔡和安]]の手配で解放され、英軍情報部でジョンゴス(召使い)として働き、茨木少佐と蔡の連絡役をしていた。茨木少佐は当初、自身が戦犯に問われるのか、情報提供後に釈放されるのか分からないため、脱走すべきか判断がつかない様子だったという{{Sfn|中西|1994|pp=202-206}}
  
== 機関長の脱走 ==
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3ヵ月ほど経過してから、身柄を[[オランダ軍]]に引渡される予定であることが分かったといい{{Sfn|茨木|1953|pp=246-249}}、蔡の手引きを受けて、脱走を計画{{Sfn|中西|1994|pp=202-206}}。中西は脱走の実行前に、巻き添えにならないように職を辞してシンガポールの渉外部に移った{{Sfn|中西|1994|pp=202-206}}。<ref>{{Harvtxt|篠崎|1981|p=53}}は、保安隊に抑留されていた茨木少佐を蔡がたびたび訪ねてきて、脱走の相談をしていた、としている。</ref>
英軍に拘束された後、ジョホールバルにあった英軍情報部に監禁されていた<ref>篠崎(1981) 53頁では、茨木少佐は英軍によってシンガポールのチャンギー刑務所に収容された後、篠崎が翻訳・通訳として働いていた東南アジア軍の保安隊(篠崎(1978)17頁によると、英東南アジア軍情報部直属の野戦保安隊(フィールド・セキュリティー・フォース)は1946年末頃にはシンガポールのバルモーラル路(Balmoral road)にあった)に引き取られてきたとされている</ref>茨木少佐は、蔡和安の手引きを受けて脱走を計画していた<ref>中西(1994)202-206頁。シンガポールの捕虜収容所に入った中西は、蔡の手引によってイギリス情報部にジョンゴス(召使い)として住み込んで茨木少佐と蔡の連絡役をつとめ、脱走の実行前に巻き添えにならないように職を辞してシンガポールの渉外部に移った(同)。英軍情報部の取調べはマレー共産軍の動向に関する情報の提供が主で、戦犯事件の取り調べではなかったため、茨木少佐は戦犯に問われるのか、情報提供後釈放されるのか分からず、判断に迷っている様子だった(中西(1994)205-206頁)。篠崎(1981) 53頁では保安隊に抑留されていた茨木少佐を蔡がたびたび訪ねてきて、脱走の相談をしていた、としている。</ref>。
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その後、茨木少佐は、仮病を使って便所の窓から逃走し、2カ月ほどジョホール州のジャングルに潜伏した後、東海岸の[[メルシン]]<ref>{{Coord|2.433333|N|103.833333|E|name=メルシン}}</ref>に出て1948年3月にかつて浪機関に所属していた[[林樹森]]<ref>[[南洋聖教総会]]の主席で、孔子の教えを奉ずる一派だった(篠崎(1981)54頁)</ref>という華僑の所有するジャンクでメルシンを出帆、ベトナムの海岸線を北上して2カ月後に[[香港]]<ref>{{Coord|22.267|N|114.188|E|name=香港}}</ref>に到着<ref>篠崎(1981) 54頁</ref>、香港では広東人に成りすまして「林景山」を名乗り、中国招商局の汽船で[[北九州港|門司]]<ref>{{Coord|33.945979|N|130.961235|E|name=門司}}</ref>に上陸した<ref>篠崎(1981) 54頁。篠崎は、1951年に日本を訪問した蔡の依頼で浪機関の吉永大尉を通じて茨木少佐と連絡をとり、東京・八重洲で4人で顔を合わせたとしている(篠崎(1981)54頁)。中野校友会(1978)840,843頁には、生存者として石島唯一、安達孝の名があり、死亡者(戦死者とは別)として近藤次男の名がある。</ref>
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茨木少佐は、1947年2月ないし5-6月頃{{Sfn|茨木|1953|pp=261には脱走前に書き留めた遺書の日付が1947年(昭和22)2月とあり、同書 p.275には「今日」は「9月14日」で「脱走してからもう4ヶ月近くなっていた」とある。}}、英軍情報部から脱走し{{Sfn|茨木|1953|pp=261-267}}、{{仮リンク|クルアン|en|Kluang (town)}}<ref group="map">{{Coord|2.028264|N|103.319551|E|name=クルアン}}</ref>西北の山中に潜伏{{Sfn|茨木|1953|pp=270-271}}{{Sfn|茨木|1953|pp=251-253に、茨木少佐が、「最も信頼している華僑の有力者K氏(蔡和安?)」に脱走の相談をすると、K氏はそれを予期して或る島の山中にバラックを建てておいた、と答え、脱走を手引きした、とあるが、同書 pp.253-260は、茨木少佐がK氏の申し出を断り、自力で逃走した経緯を記している。{{Harvtxt|篠崎|1981|p=54}}にある脱走の経緯は、同書 pp.253-291の大意とほぼ同じ内容。}}。1948年(昭和23)3月に[[メルシン]]<ref group="map">{{Coord|2.433333|N|103.833333|E|name=メルシン}}</ref>から[[ジャンク]]に乗船し、[[香港]]に半年ほど滞在した後、同年11月17日に日本に帰国{{Sfn|茨木|1953|pp=291-292}}。帰国後も[[東京]]に潜伏し{{Sfn|茨木|1953|pp=292-293}}、日本の独立後の1952年12月に[[千葉県]]の[[復員局]]に出頭した{{Sfn|茨木|1953|p=290}}。
  
== 脚注 ==
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==付録==
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=== 座標 ===
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== 参考文献 ==
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=== 脚注 ===
* ブラッドリー(2001): ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド-泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』[[明石書店]]、2001年8月。
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* 中西(1994): 中西淳『諜報部員脱出せよ-実りなき青春の彷徨い』浪速社、1994年8月。 :ISBN 4888541523
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* 本田(1990): 本田忠尚『パランと爆薬-スマトラ残留兵記』西田書店、1990年10月。
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* 本田(1988): 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、1988年2月。
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* 南洋商報(1986): [http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/nysp19470712-1.2.146.aspx 『南洋商報』1947年7月12日付記事「5 浪機関の秘密」 ] 許雲樵・蔡史君(原編)、田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年5月、134-143頁。 :ISBN 4250860280
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* 中野校友会(1978): 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会(非売品)、1978年3月。
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* 篠崎(1981): [[篠崎護]]「大東亜戦争と華僑-ある特務機関長の脱走-」現代史懇話会『史』第45巻、1981年4月、50-54頁。
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* 篠崎(1978): 篠崎護「友情の中の3人」現代史懇話会『史』第38巻、1978年3月、17-24頁。
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* 大西(1977): [[大西覚]]『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、1977年4月。
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* 篠崎(1976): 篠崎護『シンガポール占領秘録―戦争とその人間像』原書房、1976年。
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=== 参考文献 ===
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*{{Aya|ブラッドリー|year=2001}} ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド - 泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』[[明石書店]]、ISBN 4750314501
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*{{Aya|中西|year=1994}} 中西淳『諜報部員脱出せよ - 実りなき青春の彷徨い』浪速社、ISBN 4888541523
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*{{Aya|本田|year=1990}} 本田忠尚『パランと爆薬 - スマトラ残留兵記』西田書店、ISBN 4888661200
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*{{Aya|本田|year=1988}} 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、{{JPNO|88020883}}
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*{{Aya|中野校友会|year=1978}} 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、{{JPNO|78015730}}
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*{{Aya|篠崎|year=1981}} [[篠崎護]]「大東亜戦争と華僑 - ある特務機関長の脱走」現代史懇話会『史』第45巻、1981年4月、50-54頁、{{NDLJP|7925922/27}}{{閉}}
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*{{Aya|篠崎|year=1978}} 篠崎護「友情の中の3人」現代史懇話会『史』第38巻、1978年3月、17-24頁、{{NDLJP|7925915/10}}{{閉}}
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*{{Aya|大西|year=1977}} [[大西覚]]『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、{{JPNO|77032906}}
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*{{Aya|篠崎|year=1976}} 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、{{JPNO|73016313}}
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**同書には{{Harvtxt|茨木|1953}}が用いている実名と異なる仮名が見えるため、同書が原典とみられるが、{{Harvtxt|茨木|1953}}にない事実関係に言及があるため、注意を要する。
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*{{Aya|茨木|year=1953}} 茨木誠一『メラティの花のごとく』毎日新聞社、{{NDLJP|1660537}}{{閉}}
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*{{Aya|南洋商報|year=1947}} [https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/nysp19470712-1.2.146 昭南時代 組織之秘密 浪機關]『南洋商報』1947年7月12日12面
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**日本語訳:「5 浪機関の秘密」許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年、ISBN 4250860280、134-143頁
  
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2020年5月9日 (土) 18:10時点における最新版

茨木機関(いばらぎきかん)は、1944年シンガポール(当時の昭南特別市)で、第7方面軍参謀部2課の石島少佐(通称:茨木少佐)が立ち上げた特務機関。シンガポール周辺とジョホール州の内陸の防諜謀略を担当し、戦争末期には連合軍上陸後のゲリラ戦に備えて元特別操縦見習士官を受け入れ、ゲリラ要員の訓練を行うなどした。終戦直後にスマトラ治安工作による戦犯追及をおそれた機関幹部の意向で「インドネシア独立を支援する」として集団でスマトラ島へ脱出しアチェ州へ向かったが、北スマトラに展開していた第25軍近衛第2師団によって拘束され計画を中止。機関員の多くは英軍によってマレー半島に抑留され、1946年に日本に帰国したが、一部隊員はスマトラ島で潜伏中に死亡・行方不明となった。

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設置の経緯[編集]

1943年9月に昭南港爆破事件が起きると、シンガポールの日本軍は、マレー半島に潜伏する連合軍のスパイや抗日分子がシンガポールに残った連合国人と連絡して事件を起こしたとみて[1]、内陸の防諜謀略の強化をはかった[2][3]

この頃、連合軍の反攻の本格化を受けて南方軍麾下の各軍団の参謀部2課(情報部)には陸軍中野学校出の諜報要員が多数配属され、連合軍の諜報活動の防止や動静の探索などの諜報工作に携わった[5]。戦争が破局に近付くと、現地の抗日勢力の攻撃や連合軍上陸への対処が課題となり[6]、各兵団が連合軍の進攻に備えて遊撃戦の準備に入る中で、中野学校の出身者はゲリラ要員の教育訓練にあたった[7]

1944年初には、当時シンガポールにあった南方軍総司令部直属の特殊機関としてシンガポール周辺の海上防諜を行う浪機関が設置されていたが、同年春または暮頃[8]第7方面軍の下に、シンガポールの反日分子や、ジョホール州に潜伏する共産軍の動向に関する情報収集などの防諜謀略と、連合軍進攻の際のゲリラ活動展開を目的として、茨木機関(機関長:石島少佐、通称:茨木少佐)が設置されることになった[2][9][10][11]

組織・人員[編集]

機関本部[編集]

茨木機関の本部はシンガポール市内のリバー・バレー路English版[map 1]沿いにあり、国際運輸昭南事務所の看板を掲げいて、外見は小さな会社の事務所兼住宅のようだった[12][13]。本部は通信網の中心・謀略資材の集積場所になっており、准尉以下の下士官兵や民間人が通信、庶務、給養、兵器などの業務を分担していた[14][15]

本部には、捕えられて機関に協力していた中国人スパイや、運搬係、炊事夫、マレー人の女中やボーイ、インド人庭師なども含めて、20人以上が住み込みで働いていた[16][17]

本部から歩いて15分程の場所に、無線機を製造する通信班と、爆薬を製造する爆薬班の、住宅を利用した工場があり[16][18]、爆薬班では徴用された女性5人が缶詰椰子の実に火薬を詰める作業をしていた[19]

その他に昭南市内に2カ所、ジョホール州内に3カ所のゲリラ要員養成拠点があって、軍属たちがインドネシア青年にゲリラ戦の訓練をしていた[20]

ジョホール州への展開[編集]

機関の幹部である安達孝大尉と近藤次男大尉[21]は、機関の工作隊の展開を担当し、機関員約50名がジョホール州内で商社の駐在員や警察分署長を装って展開、共産軍や地元の抗日分子と接触して動向把握・宥和工作を行っていた[22][23]

  • 占領後期になると、日本軍は、憲兵隊による共産党員の検挙・弾圧を続ける一方で[24]、共産軍の討伐が不可能なことを悟り、連合軍反攻の場合に腹背に敵を受けないよう、特務機関を使って共産軍に接近し、アジア人の団結を強調し、ある程度の自治権を認めるなど譲歩することで、協力関係を打ち立てることを目標にしていた[25]。しかし、共産軍はそれ以前から英軍と手を結び、136部隊English版の指導と武器、食糧等の供給を受けていたため、仮に日本軍が大幅に譲歩したとしても、妥協は困難だったとみられている[25]

また機関は、スマトラ北端のアチェ州にも展開を予定していた[22][26]

ジョホール・バル[map 2]には機関のジョホール州で最大の拠点となる要員訓練所兼通信基地があった[22]。連合軍が攻めてきた場合、シンガポール島は土地が狭く住民の大半が中国系であるためゲリラ戦は困難とみた茨木少佐は、ジョホールの山中で長期間抵抗する計画を立て、終戦直前の1945年8月初旬に機関本部をジョホール州に移転し、謀略機材や食糧を送り込もうとしたが、その途中で終戦となった[27]

特操転用と総軍班[編集]

1945年6月には、情報要員に転用されることになった陸軍の特別操縦見習士官(特操)[28]のうち、第7方面軍の参謀部に配属された約40名全員を機関員として受け入れ[29][30]、また南方軍総司令部参謀部付となった特操のうち80名をゲリラ要員として訓練することになり、リバー・バレー路の本部近くのインスティテシューション・ヒル[map 3]にあった訓練所で現地語[31]や無線通信などの講義を受けさせた(総軍班、通称「ヤマ」)[32][33]

中国人協力者[編集]

このほかに、元中華民国の軍人で、日本軍の占領地域でスパイ活動をしていて捕えられ、助命されて逆スパイとして日本軍に協力していた陳奇山王桐傑や、陳嘉庚系の華僑の有力者・蔡和安をはじめとして、素性のはっきりしない中国人の機関員・協力者が多数いた[34][35]

終戦・スマトラ潜行[編集]

シンガポール脱出[編集]

1945年8月15日の玉音放送の数日前に日本のポツダム宣言受諾を察知した[36]茨木少佐らは、スマトラ治安工作を実行していたことからオランダからの戦犯訴追は免れないと考え、連合軍が進駐してくるとの情報があった同月20日以前にシンガポールを脱出することにした[37][38]

茨木少佐は、機関の各拠点に現地住民の職員・工員の全員解雇を指示し[39][40][41]、女子機関員を元の所属か病院の看護婦に転属させ、通訳を各部隊に転属させ、機関員の将校・下士官をその希望と戦犯関係を考慮して一般科に転属させ、連合軍の取り調べや証拠になりそうな書類や資材を焼却させた[42]

同月16日に機関幹部がジョホール・バルの新本部やインスティテューション・ヒルの総軍班で、機関員や特操出身者に日本の無条件降伏を伝え、スマトラへの同行を呼びかけた[43][38]

「日本は連合国に無条件降伏した」

「隊長、そらあ本当ですか?」

「本当だ。きのう陛下が、ラジオで放送された。」

「大本営からも南方軍に知らせてきた。間違いはない」

「残念だ!」

誰かが叫ぶと、それに唱和するように「畜生!」「何で降伏したんだ」「口惜しい」などの声が入り乱れた。

「しかし、だ」

「これは、だ。陛下のそばにいる腰抜け野郎共が、陛下をだまして、勝手にやったんだ」

「そういう意気地なし共の決定に従う必要はないんだ」

「一体全体、この遠いところまで、われわれは、何のためにやってきたんだべ?へえ?」

「アジア民族を、鬼畜米英の支配から解放し、大東亜共栄圏を打ち立てるためである」

「われわれは、断じてやめんぞ!あくまで戦うのだ」

「な、そうだろう?」

「へえ」

「それは、はァ、へっへっへ」

「笑っているときじゃない。木野はしょうがねえ奴だ」

「われわれは、泥水をすすり、草を嚙んでも聖戦の目的はカンツイしたい」

「このまま、べんべんと敵の上陸を待ち、捕虜になったら、われわれ特務機関の者は、戦争犯罪者として皆殺されるだろう。殺されなくても、一生労役に服さねばならんだろう。それは、ドイツの例を見れば分かる」

「大東亜戦争の目的が、アジアの解放にあるのならば、アジアの民族と力を合わせて、死ぬまで、やろうじゃないか」 「機関は、これよりスマトラへ移動する。インドネシアの独立闘争に力を貸すんだ」

 ――やれやれだ。私は気が重くなった。

1945年8月16日、ジョホール・バルの茨木機関新本部での茨木少佐の講話より抜粋 (本田 1988 62-66)

特操出身者はほぼ全数の約120名がスマトラへ同行することになった[44]

  • 茨木 (1953 3,11)によると、同月17日深夜、茨木少佐は、スマトラへ同行予定の機関員が爆死したことを装うため機関員に命令してシンガポールのパール・バル路27号にあった部下の宿舎に爆薬20トンを積んで爆破させた。翌日(18日)[45]、茨木少佐は、憲兵隊を通じて第7方面軍司令部に呼び出され、板垣司令官に約200人の部下が爆発の巻き添えになって死んだと虚偽の報告をしたという[46]。更にその翌日(19日)[47]、茨木少佐は参謀部の会議の場で、機関員がマラヤ共産党に命を狙われており、引揚げ中に襲撃され死傷者が出ていると虚偽の報告をして、板垣司令官からスマトラ潜行の承諾を得たという[48][49]
  • 本田 (1988 )および中西 (1994 )には爆発の記述はなく、中西 (1994 144)には、「爆薬班のあったオーチャード・ロードの建物等機関の主な施設は、爆薬を仕掛け、夜中に爆破出来るように」した、とある。

同月16-18日にかけて、機関員はシンガポールの各所から武器・弾薬、食糧、宣撫物資(衣料品など)、海峡ドル金塊アヘン等の物資を調達して船に積み込んだ[50][51]

  • 茨木少佐は、茨木機関の本部の機関員には同行を命令したが[52]、総軍班では「ついて来たい者だけついて来い」と話し[53][38]、埠頭で膨大な物資と総軍班の特操ほぼ全員が集合したのを見て、「"貴様等、ようこんなに集めたのう"と呟くように言いながら、終始不機嫌な面をしていた」という[54]
  • 本田 (1988 91-92)によると、物資調達にあたって方面軍司令部から命令が出ていたかどうかに関しては、許可していなかった、事前に参謀部を通して許可を得ていた、脅迫して命令書を書かせた、など関係者の証言が分かれている。
  • 茨木 (1953 28-33)は、茨木少佐は参謀部の会議で板垣司令官の諒解を得た日(19日)の夜に参謀宿舎で、稲田(仮)参謀、岡倉(仮)参謀、K参謀、Y参謀らを手榴弾で脅して船、兵器、弾薬、被服、自動車などの持ち出しについての許可(命令書)を得、その翌日(20日)機関員に物資を集めさせた、としているが、同書 p.35は、出帆を19日の夜または20日早朝に決めた、としている。[55]

同月19-20日に、ジョホール州の各地に展開していた機関員のシンガポール帰還を待って[56][39]、機関員約160名が2隻の船に分乗してシンガポールを脱出した[39][57]

  • 19日夜10時に茨木少佐・近藤大尉と茨木機関の機関員が「パカンバル丸」で、翌20日午後4時に安達大尉と総軍班が「暁丸」でシンガポールを出航した[58]。約160名のうち特操出身者は茨木機関の者が約40名、総軍班約80名の計約120名だった[59][60]
  • これに先立ち、同月16日に先遣隊として島崎・今野両少尉と機関員のナジャムデンらインドネシア人40人がジャンク3隻でパシル・パンジャンEnglish版からスマトラ島へ出発していた[61]
  • 共産軍のゲリラに捕まっていた、入院していたなどの事情で出発に間に合わず、他の部隊に転属した機関員もいた[54][62]

スマトラ潜行[編集]

一行は1945年8月21,22日にスマトラ島パカンバル[map 4]に到着した[63]。パカンバルから、現地部隊のトラックを借り、少人数のグループに分かれてそれぞれアチェ州に向かう計画だったが、バンキナンEnglish版[map 5]にあった輸送大隊は連合軍への引渡しを理由にトラックの貸出しを渋り、移動に十分な台数を確保できなかった[64]。このため現地住民に投げ売りするなどして物資を減らし[65]、更に茨木少佐は後から到着した総軍班の機関員にパカンバル近くのロカン河English版の周辺に展開することを指示した(リオー班)[66]

  • 茨木 (1953 54)は、パカンバル上陸直後に現地部隊にトラックを借りに行った機関員から、現地歩兵部隊は「特務機関が叛乱を起こし、スマトラ島に上陸し北上しようとしているから第25軍は逮捕し、機関長を逮捕したらシンガポールに護送せよ」と第7方面軍から指示を受けていたとの報告を受けた、としている。

機関幹部は第25軍司令部が置かれていたブキチンギ[map 6]へ移動し、近藤大尉らが同司令部の参謀・池田少佐を訪ねて動静を伺うと、同少佐は既にシンガポールの第7方面軍司令部から連絡を受けていて、行動を中止して方面軍の指示があるまでブキチンギに止まるよう説得、指示に従わないなら反乱軍として逮捕する、と迫った[67]

第25軍司令部は、茨木機関のトラック隊のブキチンギ通過を見送った後で、隷下の部隊に逮捕命令を出し、北部スマトラに駐屯する近衛第2師団(本部・メダン[map 7])に機関員を逮捕するよう連絡[68]、トラック隊は、シボルガ[map 8]、タルトン[map 9]、シボロンボロン[map 10]、バリゲ[map 11]、プラパット[map 12]、ペマタン・シアンタル[map 13]と縦走した後、ほとんどのグループが近衛第2師団の守備区域内で拘束され、メダンの収容所に抑留された[69]。メダンを通過したグループも、クアラシンパン[map 14]、パンカラン・ブランダン[map 15]、ビルン[map 16]、ムラボー[map 17]など各地で現地部隊によって保護・拘束され、連絡を受けてやってきた機関幹部らから計画中止の命令を聞いて、メダンの収容所に合流した[70]。茨木少佐はじめ機関幹部は、機関員の大部分が近衛第2師団に捕えられた後にメダンに入り、同師団の参謀部やブキチンギの第25軍司令部とその後の展開や特操の扱いについて話し合った[71]

  • 茨木 (1953 66-67)は、第25軍司令部は、(茨木機関の行動を看過する意図はなく、)「スマトラ軍は第7方面軍ほど敏活でなく、(…)万事のんびりして」おり、茨木機関が展開を急いだため、ブキチンギ通過を許した、としている。

リオー班[編集]

総軍班のうち、リオー班の特操出身者35名は、茨木少佐から「無線や武器を使わず、10年を目標に自活し、独立運動は側面から支援するように」との指示を受けて、ロカン河畔のウジャンバト[map 18]一帯を展開地点に選定し、これより下流のコタインタン[map 19]、ラントベルギアン[map 20]周辺で数名ずつ分かれて付近の住民の許可を得て住み着き、物々交換で食料を得るなどして自活することになった[72]

早々にイスラム教に改宗し、割礼を受けた隊員もいたが、言葉が通じないため住民との意思疎通は難しく、暑さのため体調を崩し感染症に罹るなど、生活は過酷だった[73]

その後、8月下旬にメダンで展開中止が決まった後に、茨木少佐の指示で機関員が2度ウジャンバトに来て復帰を促し、9月下旬にはブキチンギの第25軍司令部の情報将校・松岡大尉が各班の代表者を集めて説得にあたった。このとき多くの隊員は潜伏を中止し、10人を残してメダンへ引揚げた。[74]

その後も何度か潜伏を続ける隊員の捜索が行われ、1人が帰隊したが、他の隊員は他所へ移動していて見つからなかったり、遭遇しても警戒して説得に応じなかったりした[75]

1946年の夏までに、リオ―班35人のうち、27人はメダンに合流し、2人は原隊に復帰せずに直接日本に帰国した。

  • 1946年1月に1人が自ら潜伏を中止してブキチンギの第25軍司令部に帰着し、メダンに合流した[76]
  • 日本に帰国した2人は、ロカン河の下流バガン・シアピアピ[map 21]に出てブギス人の警察署長に保護されていたが、日本軍の逃亡兵がいるという噂が町に広まったため、ブキチンギに出頭し、1946年夏にメダンの本隊より先に日本に復員していた[77]

残る6名の隊員は行方不明となった。

  • うち1人は早い時期に手榴弾により自殺[76]、2人はプムーダ(青年隊)English版に殺害され[78]、3人は1947年9月から年末にかけてパダン、ブキチンギ地区のインドネシア軍が日本軍の脱走兵を一斉に拘禁、殺害した際に殺害されたとみられている[79][80]

抑留生活[編集]

メダンに集結した茨木機関の特操出身者は、近衛第2師団の野砲兵連隊に預けられ、1ヵ月余をシアンタル近くの茶園シダマニック[map 22]の製茶工場の施設で過ごした後[81][82]、インドネシアの独立運動が高揚して連合軍がスマトラの内陸に入り込むことができず、師団司令部が特操の存在を気にしなくなってきたこともあり、他の日本軍部隊との摩擦を避けるために、師団司令部を離れてトバ湖の東北岸近くのチガルング[map 23]村に移った(諸菱隊)[83][84]

  • 特操が野砲兵連隊の慰安所に通ったことで同連隊と揉めるなど、特操出身者の放埓な行動が摩擦の原因となっていたという[85][86]
  • この頃、特操出身の機関員1人が、安達大尉の了解を得て脱走し、西アチェへ潜行した[87]

この間、機関の古参の機関員は、大集団の特操を隠れ蓑にして別に7箇所に分かれて展開していたが[88]、1945年9月20日に[89]第7方面軍参謀部2課の桑原中佐が英軍の飛行機でメダン入りして、部隊の展開の中止とシンガポールへの機関幹部の同行を求めた際に、これに応じて近藤大尉らがシンガポールへ戻った[90][91]

茨木少佐は桑原中佐には会わず、諸菱隊のチガルング移住後もシアンタルに留まっていた[92]

  • シアンタルの機関員は、中国人の家に下宿して中国語の勉強を命ぜられており、茨木少佐は中国人社会に紛れ込んで戦犯追及を逃れるつもりだったとみられている[93]
  • 茨木 (1953 108-111)は、茨木少佐が自分で桑田(仮名、桑原)中佐に会いに行き、話しをしたが物別れに終わった、としている。また、その後も桑田中佐は機関員をシンガポールに連れ帰ろうとして近衛師団司令部に留まっており、同所を訪れた茨木少佐と言い合いになった、としている[94]

また、師団からの指示により、機関員が個別にメダンに進駐した連合軍の翻訳・通訳を務めたり、オランダ人の住民を護送してインドへ送るのを支援したりしていた[95]。1946年の1月頃には、独立運動の激化を受けて、茨木少佐の命令で、親しくしていたラジャ[96]の護衛を交代で行っていた[97]

例のラジャがムルデカ青年の反感を買っていたかどうか知る由もないが、これを護衛するのはどう考えても妥当ではないと私は思った。独立運動の支援を決意し、いったんは止めたものの、心の中では、その気持ちを持ち続けているものが、独立に批判的とみなされている階級の護衛を買って出るのは矛盾した行動ではないか。茨木少佐は事大主義というか、軍隊的というか、権威に盲従する気持ちがあるのではないか。ラジャを頼りにしていけばいいと思っているらしい。新しい時代の動きがわからないのだろうか。

茨木少佐の指示でしていた、チガルングのラジャをインドネシア独立勢力から護衛する仕事について (本田 1988 252)

まもなく引揚げが決まったため、1週間程度で護衛は終わりになった[98]

終戦に伴い、連合軍がスマトラ島に進駐し、抑留されていたオランダ人が解放されると、戦前の所有地等に復帰しようとしたオランダ人とインドネシア人の間で摩擦が起きて独立運動が急激に盛り上がり、連合軍に協力して連合国人の保護を命じられていた日本軍もインドネシア軍の標的になりつつあったため、脱走してインドネシア軍に投じる者が出る一方で、復員が急がれた[99]

引揚げ、潜行、逮捕[編集]

諸菱隊の引揚げ[編集]

1946年2月2日、諸菱隊はメダンの外港・ベラワンEnglish版[map 24]に集結し、武装解除されてマレー半島へ送られた[100][101]

マレー半島のバトパハEnglish版[map 25]に約1ヶ月滞在した後、終戦後に南方軍総司令部や第7方面軍司令部が移置されていたレンガム[map 26]の東方の山村・アイルマニス[map 27]で1ヵ月ほど開墾に従事し、その後レンガムに移動[102]

  • 当地では麻雀が流行したという[103]
  • 本田 (1988 254)は、帰国までの3カ月間アイルマニスに滞在した、としている。本田ら2人の機関員は、アイルマニスへ行く前にレンガムの南馬来軍司令所に転属になっており、その後1947年10-12月にかけて復員帰国した[104]

1946年6月12日に諸菱隊は一部の残留者を除いて帰国の途につき、6月15日にシンガポールのセレタ軍港からリバティ船で日本に向かった[104]

  • 総軍班にいた中西淳は、同年4月頃、デング熱でシンガポールの陸軍病院に入院し、治癒後も病院に居座っている間に本隊が帰国したため残留し、シンガポールの捕虜収容所に移された[105]
  • 中西のほか3名が残留した[106]

戦犯容疑者のアチェ潜行[編集]

1946年2月頃、シアンタルに留まっていた岸山勇次曹長ら古参の機関員で、前歴から戦犯に問われる可能性のあった者数名は、茨木少佐の承認を得て脱走し、クアラ・シンパンに潜伏した[107]。のちに岸山はアチェ州に入って「島小太郎」を名乗り、他の日本人脱走兵とともにアチェのインドネシア軍に協力し、破壊工作員の育成や破壊工作に携わった[108]

機関幹部の逮捕[編集]

本田 (1988 254)によると、茨木少佐、安達大尉と特操14名(中西を含む)はシアンタルに残留していたが、1946年3月に引揚げのため近衛第2師団の野砲兵連隊の将兵とともにベラワンへ移動。乗船の際に茨木少佐と安達大尉がオランダ軍の憲兵に戦犯容疑で拘引され、特操14人だけがマレー半島へ渡り、諸菱隊よりも早く、同年5月に帰国した。

  • 中西 (1994 183-187)によると、中西らがスマトラを離れたのは1946年1月末頃だったという。また同書 p.190によると、その船上で、茨木少佐が英軍に拘束されたとの情報に接し、仲間は騒然となった。
  • 茨木 (1953 140-143)によると、茨木少佐は、1946年3月にシンガポールの桑田(仮名、桑原)中佐から「連合軍の取調べが始まっているが、情報関係、特に共産党対策関係で不明な点が多い。絶対に逮捕しないから出頭してほしい」旨の電報があり、メダンの飛行場まで行ったところ、英軍に拘束され、べラワンの英軍管理の戦犯収容所に入れられた。

機関長の脱走[編集]

茨木少佐は、逮捕から1ヶ月ほどしてからシンガポールのチャンギー刑務所に移され、のちジョホール・バル英軍情報部に監禁されて、英軍からマラヤ共産党対策について訊問を受け、報告書の執筆を求められた[109][110]

シンガポールの捕虜収容所にいた総軍班の中西淳は、蔡和安の手配で解放され、英軍情報部でジョンゴス(召使い)として働き、茨木少佐と蔡の連絡役をしていた。茨木少佐は当初、自身が戦犯に問われるのか、情報提供後に釈放されるのか分からないため、脱走すべきか判断がつかない様子だったという[109]

3ヵ月ほど経過してから、身柄をオランダ軍に引渡される予定であることが分かったといい[111]、蔡の手引きを受けて、脱走を計画[109]。中西は脱走の実行前に、巻き添えにならないように職を辞してシンガポールの渉外部に移った[109][112]

茨木少佐は、1947年2月ないし5-6月頃[113]、英軍情報部から脱走し[114]クルアンEnglish版[map 28]西北の山中に潜伏[115][116]。1948年(昭和23)3月にメルシン[map 29]からジャンクに乗船し、香港に半年ほど滞在した後、同年11月17日に日本に帰国[117]。帰国後も東京に潜伏し[118]、日本の独立後の1952年12月に千葉県復員局に出頭した[119]

付録[編集]

座標[編集]

脚注[編集]

  1. ブラッドリー 2001 203-205
  2. 2.0 2.1 本田 1988 38-39
  3. 篠崎 1976 195
  4. 大西 1977 163-167
  5. 中野校友会 1978 348
  6. 中野校友会 1978 552
  7. 中野校友会 1978 557
  8. 本田 (1988 38)は「暮頃」としているが、南洋商報 (1947 )は、茨木機関を立ち上げ、浪機関設置(1944年初頃)の3,4ヵ月後にスパイ組織を強化した、と記述しており、この順によると茨木機関の成立は第7方面軍が編成された同年「春頃」のことであったかもしれない。もし本当に1944年の暮頃に設置されたとすると、篠崎 (1976 97,195)の昭南港爆破事件と茨木機関の発足を結び付ける見方には少し無理があり、茨木機関は設置最初から抗日勢力に対する融和工作やゲリラ戦の準備に主眼が置かれていたことになるかもしれない。ただし、本田 (1988 38)の「暮頃」が正しい、という確証もない。
  9. 本田 (1988 38,44)は、茨木機関は茨木少佐が勝手に立ち上げ、参謀部が事後承認した機関だとしている。また同書 p.25は、「正式名称は『岡機関』」としている。
  10. 中野校友会 (1978 557-558)は、第29軍定機関が浪機関・茨木機関と連絡していたことに言及しているが、同書には茨木機関の活動内容に関する記述がなく、「岡機関」という名称への言及もない。
  11. 南洋商報 (1947 )は、広東から来た「飯島大尉(のち少佐)」が特務機関員を増員し、リバー・バレーに「飯島機関」を立ち上げた、としており、経歴の類似から茨木機関に言及したものと思われる。
  12. 中西 1994 105
  13. 本田 1988 37
  14. 本田 1988 39,45-46
  15. 中西 (1994 138-139)は、無線の傍受や、暗号解読、捕まえた敵のスパイを利用して偽の情報を送る等の諜報活動を行っていた、としている。
  16. 16.0 16.1 中西 1994 139
  17. 本田 1988 39,45頁
  18. 本田 1988 40,48-49
  19. 本田 1988 48
  20. 本田 1988 40,49,50-53
  21. ともに中野学校出で茨木少佐の後輩にあたり、それぞれスマトラの東海岸州、アチェ州の特高科長としてスマトラ治安工作を実行した後(本田 1988 38、中野校友会 1978 555-557)、茨木少佐とともに茨木機関を立ち上げた(本田 1988 38)。
  22. 22.0 22.1 22.2 本田 1988 40
  23. 中西 1994 140
  24. 大西 1977 167-170
  25. 25.0 25.1 本田 1988 40,53-56
  26. 中西 (1994 138)は、安達大尉はジョホール州、近藤大尉はアチェ州に部下の工作員を展開させていた、としているが、本田 (1988 40)は、安達大尉はジョホール州南部、近藤大尉はジョホール州北部に展開しており、アチェ州への展開は準備中だったとしている。
  27. 本田 1988 40,55-58
  28. 同月1日付で、戦争末期の飛行機・ガソリン不足により、マレー・ジャワで飛行訓練を受けていた特操の南方要員約420名が訓練を中止して情報要員に転用されることになり、同月中に南方軍の各軍団の参謀部第2課に配属された(本田 1988 8-9,22-23、中西 1994 99,102)。
  29. 本田 1988 29
  30. 中西 1994 99,102
  31. 40人ずつ2班に分けてそれぞれ中国語とマレー語を教えた(中西 1994 138-140、本田 1988 29-35)。
  32. 中西 1994 138-140
  33. 本田 1988 29-35,90
  34. 中西 1994 139-140
  35. 本田 1988 41,46
  36. 本田 1988 59,66
  37. 本田 1988 71-72,92
  38. 38.0 38.1 38.2 中西 1994 140-141
  39. 39.0 39.1 39.2 中西 1994 144
  40. 本田 1988 71-72,74
  41. 篠崎 1981 52には「茨木機関の全員は、少佐と行を共にした」、「女子の機関員もこれに従った」云々とあるが、中西 (1994 144)および本田 (1988 74,90)によると、同行したのは機関幹部と特操の軍人が主で、現地職員(女性5人を含む)は希望者少数のみが同行した。
  42. 茨木 1953 19
  43. 本田 1988 60-66
  44. 本田 1988 61,90
  45. 茨木 1953 10
  46. 茨木 1953 14-17
  47. 茨木 1953 23
  48. 茨木 1953 22-25
  49. 篠崎 (1981 52)は、爆発の件で茨木少佐が第7方面軍司令部に呼び出された際に、板垣司令官は機関員のスマトラ脱出の意図を諒承したとしている。
  50. 本田 1988 68-71
  51. 中西 1994 142-143
  52. 本田 1988 65-66
  53. 本田 1988 60-61
  54. 54.0 54.1 中西 1994 145
  55. 編注:日付が前後している。出航の日付は後述の本田 (1988 78-79,90-94)および中西 (1994 144)と一致しているため、茨木 (1953 3-33)に記載の、爆発や会議での諒承が(もし本当にそのような経緯があったとして)18日以前の出来事だった可能性が高い。
  56. 本田 1988 78-79
  57. 本田 1988 90-94
  58. 本田 1988 93
  59. 本田 1988 90
  60. 茨木 (1953 39)および篠崎 (1981 52)は、「サフラン丸以下3,000トン級貨物船(汽船)3隻」に分乗し(19日夜に出航し)たとしている。
  61. 茨木 1953 35-37
  62. 本田 1988 81-89
  63. 本田 1988 96-98。パカンバル丸は8月21日午後4時頃に、暁丸は1日遅れて翌22日午後4時頃にパカンバルに到着した(同)。
  64. 本田 1988 94-97
  65. 本田 1988 97-98
  66. 本田 1988 98
  67. 本田 1988 99-102
  68. 本田 1988 102-107
  69. 本田 1988 102-107,119-120
  70. 本田 1988 108-119
  71. 本田 1988 118-119,120-123
  72. 本田 1988 155-160
  73. 本田 1988 160-166
  74. 本田 1988 167-170
  75. 本田 1988 171-177
  76. 76.0 76.1 本田 1988 177-184
  77. 本田 1988 189-201
  78. 本田 1988 188
  79. 本田 1988 187-188
  80. 中西 1994 187
  81. 本田 1988 202-205
  82. 中西 1994 157-161。無為に過ごし、野砲兵連隊の慰安所やシアンタルへ遊びに行く者が多かったため、性病を患う者が続出した(同)。
  83. 本田 1988 206-211
  84. 中西 1994 161-165
  85. 本田 1988 206-207
  86. 中西 1994 174-175
  87. 本田 1990 53-60
  88. 本田 1988 205
  89. 茨木 1953 107
  90. 本田 1988 205-206
  91. 篠崎 (1981 52-53)は、茨木少佐が第7方面軍司令部の桑田参謀の説得に応じてシンガポールに戻り、英軍に捕まってチャンギー刑務所に送られた、としている。
  92. 本田 1988 211
  93. 本田 1988 232
  94. 茨木 1953 122-125
  95. 本田 1988 211-221
  96. 戦前のインドネシアでオランダの支配体制に組み込まれていたため、独立闘争の標的となっていた(本田 1988 252)。
  97. 本田 1988 241-242,252-253
  98. 本田 1988 252-253
  99. 中西 1994 180
  100. 本田 1988 254
  101. 中西 1994 183-187
  102. 中西 1994 190-195
  103. 中西 1994 194
  104. 104.0 104.1 本田 1988 254-255
  105. 中西 1994 201-202
  106. 本田 1988 254-255頁
  107. 本田 1990 85-90
  108. 本田 1990 85-
  109. 109.0 109.1 109.2 109.3 中西 1994 202-206
  110. 茨木 1953 147-167
  111. 茨木 1953 246-249
  112. 篠崎 (1981 53)は、保安隊に抑留されていた茨木少佐を蔡がたびたび訪ねてきて、脱走の相談をしていた、としている。
  113. 茨木 1953 261には脱走前に書き留めた遺書の日付が1947年(昭和22)2月とあり、同書 p.275には「今日」は「9月14日」で「脱走してからもう4ヶ月近くなっていた」とある。
  114. 茨木 1953 261-267
  115. 茨木 1953 270-271
  116. 茨木 1953 251-253に、茨木少佐が、「最も信頼している華僑の有力者K氏(蔡和安?)」に脱走の相談をすると、K氏はそれを予期して或る島の山中にバラックを建てておいた、と答え、脱走を手引きした、とあるが、同書 pp.253-260は、茨木少佐がK氏の申し出を断り、自力で逃走した経緯を記している。篠崎 (1981 54)にある脱走の経緯は、同書 pp.253-291の大意とほぼ同じ内容。
  117. 茨木 1953 291-292
  118. 茨木 1953 292-293
  119. 茨木 1953 290

参考文献[編集]

  • ブラッドリー (2001) ジェイムズ・ブラッドリー(著)小野木祥之(訳)『知日家イギリス人将校 シリル・ワイルド - 泰緬鉄道建設・東京裁判に携わった捕虜の記録』明石書店ISBN 4750314501
  • 中西 (1994) 中西淳『諜報部員脱出せよ - 実りなき青春の彷徨い』浪速社、ISBN 4888541523
  • 本田 (1990) 本田忠尚『パランと爆薬 - スマトラ残留兵記』西田書店、ISBN 4888661200
  • 本田 (1988) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883
  • 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730
  • 篠崎 (1981) 篠崎護「大東亜戦争と華僑 - ある特務機関長の脱走」現代史懇話会『史』第45巻、1981年4月、50-54頁、NDLJP 7925922/27 (閉)
  • 篠崎 (1978) 篠崎護「友情の中の3人」現代史懇話会『史』第38巻、1978年3月、17-24頁、NDLJP 7925915/10 (閉)
  • 大西 (1977) 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、JPNO 77032906
  • 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、JPNO 73016313
    • 同書には茨木 (1953 )が用いている実名と異なる仮名が見えるため、同書が原典とみられるが、茨木 (1953 )にない事実関係に言及があるため、注意を要する。
  • 茨木 (1953) 茨木誠一『メラティの花のごとく』毎日新聞社、NDLJP 1660537 (閉)
  • 南洋商報 (1947) 昭南時代 組織之秘密 浪機關『南洋商報』1947年7月12日12面
    • 日本語訳:「5 浪機関の秘密」許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年、ISBN 4250860280、134-143頁