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2018年2月16日 (金) 23:34時点における版
鶴見 憲(つるみ けん、1895年4月7日 - 1984年8月18日)は、日本の外交官。太平洋戦争開戦前の1940年11月から在シンガポール日本総領事を務め、宣伝工作・民族工作を積極的に推進したことで知られる。日本軍による占領時期にマラッカ州の州長官を務めた。[1]
経歴
生い立ち
1895年4月7日、群馬県多野郡新町で、官営・新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の7男(10人きょうだいの末子)として生まれる[2]。一家は1895年9月に東京・赤坂、1896年1月に父の郷里・岡山、1899年夏に名古屋舎人町26へ転居[3]。
1900年4月、鶴見が5歳のときに母・琴子が病死[4]。一家は1901年に小田原市十字町4丁目へ転居したが、この頃父・良憲の事業は行き詰まり、家計は次第に逼迫していった[5]。
1906年に父・良憲が小田原で死去[6]。鶴見は東京へ転居し、伯父の本尾家と長姉・敏子の嫁ぎ先の廣田家の支援を受け、学業を継続した[7]。
外交官
1922年に天津へ赴任[10]。ロサンゼルス、ワシントンD.C.勤務を経て東京の外務省本省へ帰任[11]。1925年秋には、米国を遊説旅行中の兄・祐輔がロサンゼルス領事館の鶴見夫妻を訪問した[12]。
1932年、満州に赴任、駐満州国日本大使館1等書記官[11]。
シンガポール日本総領事時代には、外務機密費を支出して、同盟記者飼手誉四を通じてマレー青年同盟(Kesatuan Melayu Mudaのイブラヒム・ヤコブらにマレー語新聞『ワルタ・マラユ(Warta Malaya)』(のちの『マライ・ニュース』)を買収させ反英運動を助長するなど、大東亜共栄圏の理念の宣伝工作とインドネシア独立に関する民族工作を積極的に展開した[14]。
司政長官
1942年3月7日 マラッカ州長官(-1944年5月5日)[15]。
1945年4月、空襲で東京の自宅が焼損[16]。
戦後
1945年10月、熱海市長に就任し、1947年4月まで在任[17]。
1984年8月18日に死去[18]。
家族
参考文献
- 石塚(2010) 石塚義夫『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、2010年、ISBN 9784876019120
- フォーラム(1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 : 1941~45年 : インタビュー記録』龍溪書舎〈南方軍政関係史料33〉、1998年、ISBN 4844794809
- 鶴見(1986) 鶴見良行『マラッカ物語』時事通信社、1986年、ISBN 4788781247
- 篠崎(1981) 篠崎護(述)「篠崎護氏インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室(編)『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、1981年、pp.169-213
- 中沢(1981) 中沢欽一郎(述)「中沢欽一郎氏インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室|title = 『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、1981年、pp.365-385
- The Straits Times(1940-11-03) 'New Japanese Consul Arrives - MR. K. TSURUMI ON JAPAN'S AIM,' The Straits Times、p.9、1940年11月3日、2017年9月18日閲覧。
関連文献
- 北岡(1975) 北岡寿逸『友情の人‐鶴見祐輔先生』私家版、1975年
- 東京朝日新聞(1942) 「シンガポール座談会(1~8)」『東京朝日新聞』1942.1.24-1942.2.1、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア諸国(10-024)
脚注
- ↑ この記事の主な出典は、石塚(2010)各頁、フォーラム(1998)pp.664,672、篠崎(1981)pp.173-174、中沢(1981)pp.372およびThe Straits Times(1940-11-03)
- ↑ 石塚(2010)pp.17,20,23。父の先祖は岡山県備中松山城の家老・鶴見内蔵助(同)。母は大阪の商人の娘で、名前は「古都」とも(同)。
- ↑ 石塚(2010)pp.20-22
- ↑ 石塚(2010)p.23
- ↑ 石塚(2010)p.24
- ↑ 石塚(2010)pp.11,12
- ↑ 石塚(2010)pp.12,31
- ↑ 石塚(2010)p.107
- ↑ 石塚(2010)p.97
- ↑ The Straits Times(1940-11-03)。石塚(2010)p.97では、1924年に大学を卒業し外交官となった、としている。
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 The Straits Times(1940-11-03)
- ↑ 石塚(2010)p.103
- ↑ The Straits Times(1940-11-03)。同月2日に上海からシンガポールに着任(同)。
- ↑ フォーラム(1998)p.672、篠崎(1981)pp.173-174、鶴見(1986)p.292。鶴見(1986)p.292によると、鶴見は息子の鶴見良行に対して、新聞社買収資金の支出は記憶になく、担当したのは総領事館員を装っていた陸軍少佐だろう、と述べている。篠崎(1981)p.174には、鶴見が総領事の時代に陸軍参謀・鹿子島隆少佐が総領事館に入ってきた旨の記述がある。
- ↑ フォーラム(1998)p.664、中沢(1981)p.372。石塚(2010)p.221では、1944年頃に司政長官に就任した、としている。
- ↑ 石塚(2010)p.226
- ↑ 石塚(2010)pp.224,229
- ↑ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、823頁
- ↑ 石塚(2010)p.17
- ↑ 鶴見(1986)p.292