坂田山心中事件
坂田山心中事件(さかたやましんじゅうじけん)とは、1932年(昭和7年)5月に神奈川県中郡大磯町の坂田山で起きた心中事件及び心中女性死体盗難事件。
事件の概要[編集]
男女の心中[編集]
1932年5月9日午前10時、地元の青年が岩崎家所有の松林の中で若い男女の心中死体を発見した。男性は慶應義塾大学の制服姿で、女性は錦紗の和服姿の美人であった。前日の5月8日夜に現場に到着、昇汞水を飲んで服毒自殺を図ったものと思われた。
高貴な身なりであったため、神奈川県警察部は直ちに捜査を開始し、まもなく身元が判明した。男性は東京府出身の慶應義塾大学理財科の学生(24歳)で、華族調所広丈の孫であった[1]。女性は静岡県の素封家の娘の湯山八重子(22歳)で、2年前まで頌栄高等女学校に通学していた。
2人はキリスト教の祈祷会で知り合い、交際を始めた。男性の両親は交際に賛成していたが、湯山八重子の両親は反対し、別の縁談を進めようとしていた。そのため2人は家から出て、「永遠の愛」を誓って心中を決行したものと思われた。
2人の死体は、遺族が引き取りに来るまで、町内の寺に仮埋葬されることになった。
心中女性の死体消失[編集]
記事には、2人は多磨霊園に永遠に葬られることになったと報じている。
翌日5月10日朝、寺の職員が線香をあげようとしたところ、湯山八重子を葬った土饅頭が低くなっているのを発見、掘り起こしたところ、湯山八重子の死体が消えていることが判明した。辺りには湯山八重子が身に付けていた衣服が散乱していた。これにより、単なる心中事件から一転して「女性の死体が持ち去られる」猟奇事件へと発展した。
警察は変質者による犯行と断定し、大磯町の消防組も協力して一斉捜索が行われた。その結果、翌日5月11日朝、湯山八重子の全裸死体は墓地から300m離れた海岸の船小屋の砂地から発見された。
かき乱された二昼夜の死の床にあった人ともおぼえず安らかに眠っていたものの、盗みだされた当時着ていた錦しゃの着物や長じゅばんは跡形もなく、全身素裸体の無残な姿であった。
急報により大磯署から千葉署長、金子巡査等が駆けつけ検視したが、意外に安らかに眠ると見えた八重子さんの左の頬に生々しいすり傷があった。千葉署長以下は検視を終ると同時に倉庫内の再検査にかかったが、乱雑に置かれた一隻の船の中にはぎ取られた錦しゃの派手な長じゅばんと、おなじく錦しゃのあわせ着物を発見、砂地に眠る八重子さんの死体に着せてやり、署長以下合掌して判検事の再検視を得たのであった。
– 『東京朝日新聞』 1932年5月12日
後に町の火葬場職員の橋本長吉(当時65歳)が犯人として逮捕され、「女の死体を船小屋まで運び出し、全裸にしてから愛撫したり局部を見たりした」と供述した。た。
おぼろ月夜に物凄い死体愛撫
美人と聞いて尖った猟奇心 火葬も彼の手で
大磯の素晴らしい美人の心中事件恋の亡骸が仮埋葬された宝善寺の墓地に行った。墓地に着くと彼は昼間大評判だったという美しいお嬢さんの顔を一目見たいという気になり、両手でまだ柔かい土を夢中で掘りだした。土の中からまるで白ろうのような八重子さんの水々しい顔が時しも灰色のおぼろ月に照しだされた時、彼の猟奇心は刃のように磨ぎすまされた。死体を引ずりだすと彼はまず帯やズロースを現場に剥いで捨て、六十五歳の老人とも考えられぬ力で死体を小わきに抱え、松林に囲まれた砂地を走りだした。途中或いは担ぎ変えたり引ずったり、その間静寂の松林を利用して彼の異様の怪腕が物いわぬ死体に働きかけた。約三丁離れたぶり船倉庫に来た時、悪鬼となった彼はまず人形の様な八重子さんの死体から晴れ着を脱がせ、愛撫の手を加えること八時半から十時半頃まで約二時間、やがてさすがの彼も「気の毒だ」と思ったらしい。其まま死体を砂地に埋め尽すと、彼は倉庫を出て帰宅の途についたが、途中松林の中にある井戸の傍で両手や足を洗い、何食わぬ顔で同十一時半頃自宅に帰って寝た。
– 『東京朝日新聞』 1932年5月19日
しかし、警察は湯山八重子の死体の検視を行い、「死体はなんら傷つけられていなかった」と発表した。
反響[編集]
亡くなった湯山八重子の死体はきれいだったという警察の発表により、新聞各紙は2人がプラトニック・ラブを貫いて心中したことを盛んに報じた。特に東京日日新聞は「純潔の香高く 天国に結ぶ恋」の見出しを掲載した。
この「天国に結ぶ恋」は坂田山心中を象徴する名文句となり、事件からまもなくロマンチックに美化された同名の映画や歌が製作公開され人気を博した。より事実に近い映画も作られたが、そちらは人気が出なかった[2]。以後坂田山で心中する男女が後を絶たず、同じ年だけで20組が心中、1935年(昭和10年)までの自殺者(未遂も含む)は約200人にものぼった。中には、映画を見ながら昇汞水を飲んで心中するカップルまで現れたため、映画の上映を禁止する県もあった[2]。
そのほか、事件の翌々月には勝海舟の養嗣子で徳川慶喜の十男である子爵勝精が愛妾と心中するなど、この時期は名士の心中事件も続出した。この坂田山心中事件と映画のヒットをきっかけとして、マスメディアに「心中」「情死」「天国」などの言葉が溢れ、翌年の三原山女学生心中事件など、多くの自殺騒ぎを誘引した[2]。
「坂田山」の由来[編集]
元々現場となった山の名前は「八郎山」であったが、心中事件の第一報を報じた東京日日新聞の記者が「詩情に欠ける山名」ということで、大磯駅近辺の小字名「坂田」を冠して、勝手に「坂田山」と命名した。この心中が後にセンセーションを巻き起こしたことで、「坂田山」の名が定着することになった。
参考文献[編集]
- 神奈川県警察史編さん委員会編 『神奈川県警察史 中巻』神奈川県警察本部、1972年
- 大江志乃夫責任編集『昭和の歴史 第5巻』集英社、1980年