福岡県立修猷館高等学校
福岡県立修猷館高等学校(ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこう)は、福岡県福岡市早良区西新六丁目1番10号にある男女共学の公立高等学校である。略称「修猷館(しゅうゆうかん)」、「修猷(しゅうゆう)」。
偏差値は72。 全国偏差値ランキングは35位 / 4347校、福岡県偏差値ランキングは2位 / 109校、福岡県公立偏差値ランクは1位 / 68校の名門進学校である。
目次
概観
修猷館の名は尚書「微子之命」の章句、「踐脩厥猷」(湯王の道を踏み修む)から取られた。自由な校風であり、生徒に学校運営をほぼ委ねる自治を認めている。生徒を「館生」、校長を「館長」、校歌を「館歌」、校旗を「館旗」と称する。アイザック・ニュートンのリンゴの木の子孫が敷地内に植えられている。
福岡県立福岡高等学校とは旧制福岡中学が修猷館の寄宿舎の一部を借りて開校したことや、福岡中学での火災時の復興支援を行ったことなどを背景に両校の関係は深く、特にラグビー部では定期戦を行っている。その他、バスケット部、バレ-ボ-ル部、剣道部も福岡高校とOBを交えた定期戦を行っている。。
沿革
- 1783年(天明3年)6月24日(旧暦) - 福岡藩第9代藩主黒田斉隆(江戸幕府第11代将軍徳川家斉の実弟)が藩儒竹田定良、儒医亀井南冥に藩校創建を命じる
- 1784年(天明4年)2月1日(旧暦) - 福岡藩の藩校として甘棠館(西学問稽古所)開館[1] 初代館長は亀井南冥
- 1784年(天明4年)2月6日(旧暦) - 同じく福岡藩の藩校として修猷館(東学問稽古所)開館。初代館長は竹田定良
- 1798年(寛政10年)1月29日(旧暦) - 唐人町より発した大火により甘棠館焼失。生徒は皆修猷館に編入し以後福岡藩の藩校は修猷館のみとなる。
- 1871年(明治4年)10月25日 -廃藩置県により、福岡県が成立。(後の1874年 福岡県はこの地に診療所を設置、これが九州大学の起源となる)
- 1879年(明治12年)1月5日 - 向陽社(後の玄洋社)により向陽義塾設立
- 1881年(明治14年)1月7日 - 向陽義塾閉塾
- 1881年(明治14年)1月7日 - 向陽義塾を引き継ぎ、旧福岡藩主黒田家により藤雲館設立
- 1885年(明治18年)侯爵黒田長溥、金子堅太郎と福岡の旧藩士の尽力により、廃止から十四年振りに修猷館を再興することが決定。
- 1885年(明治18年)5月30日 - 福岡県令より、英語専修学校である福岡県立修猷館[2]の設置が告示される(同日を創立記念日としている)
- 1885年(明治18年)9月10日 - 福岡県立修猷館を開館[3] 開館式を行う 黒田家の寄付により藤雲館の校舎・什器一切を引き継ぐ
- 1887年(明治20年)3月26日 - 原因不明の出火により全焼。一時的に旧警固小学校跡に移転
- 1889年(明治22年)3月13日 - 福岡県立尋常中学修猷館と改称
- 1889年(明治22年)3月15日 - 隈本有尚館長、金子堅太郎、栗野慎一郎らの尽力により旧藩校修猷館跡である大名町堀端(現・中央区赤坂1丁目)に再建・移転
- 1891年(明治24年)3月24日 - 投石事件[4]
- 1894年(明治27年)12月 - 六光星の徽章を制定
- 1899年(明治32年)4月1日 - 中学校令改正に伴い、新年度より福岡県中学修猷館と改称
- 1900年(明治33年)7月17日 - 大名町から西新町(現在の場所)へ移転
- 1901年(明治34年)5月4日 - 福岡県立中学修猷館と改称
- 1923年(大正12年)3月5日 - 館歌制定
- 1925年(大正14年)4月1日 - 福岡県中学修猷館と改称
- 1927年(昭和2年)6月22日 - 福岡中学校舎火災に伴い修猷館の一部を仮校舎として貸す
- 1945年(昭和20年)6月19日 - 福岡大空襲により大きな被害を受ける
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革に伴い、新年度より福岡県立高等学校修猷館と改称[5]
- 1949年(昭和24年)4月20日 - 新年度より男女共学となり、初めての男女共同入学式実施
- 1949年(昭和24年)8月31日 - 福岡県立修猷館高等学校(現校名)と改称
- 1985年(昭和60年) - 創立200周年記念事業開始( - 1987年) 同年3月26日、菁莪堂(正しくは菁莪記念館[6])竣工
- 1998年(平成10年)3月 - 新校舎建設事業開始 (卒業式を待ち、まず最初に講堂が解体)
- 2000年(平成12年) - 第一期工事(教室棟)完成
- 2002年(平成14年)4月 - 文科省よりスーパーサイエンスハイスクールの指定を受ける(2006年度を以て終了)
- 2002年(平成14年) - 第二期工事(管理棟)完成 校舎建て替え・福岡県立博多青松高等学校の開校により定時制課程を閉課
- 2003年(平成15年) - 第三期工事(新体育館)完成
- 2005年(平成17年) - 第四期工事(プール、弓道場、ヨット部艇庫)完成
- 2008年(平成20年) - 第五期工事(新講堂、新正門)完成 これにより10年に亘る新校舎建設事業完了
- ↑ 藩校修猷館が上級武士を対象に幕藩体制を支える理論重視の朱子学を講じたのに対し、藩校甘棠館は下級武士や町人等を対象に朱子学に批判的な実践重視の徂徠学を講じており、前者の系譜は東学、後者の系譜は西学と呼ばれた。1790年(寛政2年)、江戸幕府老中松平定信が寛政の改革で行った学問の統制(寛政異学の禁)による、朱子学以外の学問に対する厳しい圧迫が地方にも及び、藩の上層部は1792年(寛政4年)に亀井南冥を甘棠館館長から罷免し、長男の亀井昭陽が家督を継ぐも、1798年(寛政10年)、唐人町の商家から発した大火の中に甘棠館校舎が焼失し、遂には甘棠館の再興もならず閉校が決定された。その後、西学は亀井昭陽が開いた私塾「亀井塾」としてその命脈を保ち、日田の広瀬淡窓や秋月の原古処、そして博多の興志塾を開いた高場乱などを輩出した。興志塾は後に玄洋社を興す頭山満、箱田六輔などを輩出している。
- ↑ 再興に際し、文部大臣から、「旧藩校時代の校名は不適切」との理由で校名の変更を迫られたが、旧福岡藩主黒田長溥が、「学校経費はすべて黒田家で出すから館名を残せ」とまで決意し反対したことにより館名は守られた。実際に館の財政は1893年まで黒田家が全額負担しており、黒田家の援助から離れ完全に県費負担となるのは1900年のことである(青木秀『修猷山脈』西日本新聞社、1971年、4,29,30頁より引用)。
- ↑ 再興された修猷館の初代館長である隈本有尚は、夏目漱石の小説「坊つちやん」に出てくる数学教師・山嵐(堀田)のモデルとされており、1897年(明治30年)には、当時旧制第五高等学校教授であった漱石が英語授業の視察で修猷館を訪れ隈本館長に面会している。
- ↑ 修猷館の校庭から何者かによって投げられた瓦の破片が、通りを進んでいた福岡歩兵二十四連隊の隊列の兵士の小銃に当たったことに端を発し、ついには陸軍省と文部省の対立にまで発展した事件。当時の尾崎臻館長が辞任、佐藤正連隊長が更迭されるに至った。
- ↑ GHQから「修猷館」という名が封建的であるとして改名を示唆されたが、修猷館OBの粘り強い努力によって館名は守られた。
- ↑ 菁莪記念館3階を菁莪堂と呼ぶが、菁莪堂はあまり使用されないため区別は曖昧である。
徽章
六光星と呼ばれている。1894年(明治27年)12月、当時の館長隈本有尚によって、日清戦争直後の興隆する国運を背景に制定された。由来は朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」によるものであり、日月と輝きを同じくする星の光に将来を荷う若き青年の希望を託したものである。なお、この星の形は北極星をかたどったものであり、永久にゆるがぬ人生の指針をこの星に仰ぐという意味がこめられているとも言われている[1]。
館歌
応援歌等
- 長い歴史の中で数々の応援歌等が受け継がれている。代表的なものに、”彼の群小”、”玄南の海”、”輿望は重し”など。
組織
- かつては定時制と通信制も存在したが、現在は全日制普通科のみ。
- かつては修猷学館という補習科(福岡県立校におかれた既卒生のためのクラス)由来の予備校(他校卒も入学可)が存在した。学校裏にあり、教員はこの学校の教員であり模試も高校と共通であった。九大や国立大医学部へ多数配した。
- 2年次から文系・理系のクラスに分かれる。文系・理系普通クラスのほかに、文系英数クラス・理系英数クラス・理系医学部進学クラス(通称医進)が存在する。
学校生活
特に校訓・校則を定めず、自由闊達な校風が醸成され、自主独立の精神を受け継ついできていることを背景として、生徒による大幅な自治が認められている。そのため校則は存在しないが、生徒心得という明文化されたルールが存在する。風紀検査は行われない。生徒手帳は存在せず、そのかわりに在学証明書が発行されている。校内での携帯電話の所持・使用が認められていることなど大変規則は緩やかであるが、私服登校やオートバイ通学は認められていない(昭和60年頃まではオートバイの通学は許可されていたが、PTAによるオートバイの三ない運動の影響によって廃止)。また、部活動への入部率が高く、ほとんどの文化部で兼部が可能である。
時制
- 朝補習 - 7:35-8:25
- HR - 8:40-9:00
- 1限目 - 9:00-9:50
- 2限目 - 10:00-10:50
- 3限目 - 11:00-11:50
- 第1昼休み - 11:50-12:30
- 4限目 - 12:30-13:20
- 第2昼休み - 13:20-13:40
- 5限目 - 13:40-14:30
- 6限目 - 14:40-15:30
- 7限目 - 15:40-16:30(火・木のみ)
普段はほとんどの生徒は第1昼休み(通称「1昼」)に昼ご飯を食べるが、生徒集会などがあるときには第1昼休みと第2昼休みが入れ替わるため、20分で昼ご飯を食べなければならない。そのため売店では第1昼休みと第2昼休みが入れ替わる日のみテイクアウトの弁当を販売している。
学校行事
修猷2大行事
外部に広く公開される大規模な学校行事は年に2回存在する。いずれも企画立案段階から各行事における運営委員会が設置され、生徒主体の運営が行われる。また、これらの行事の前は授業が50分から40分になり、6限から4限になり、午後は作業・練習の時間となる。
- 修猷大文化祭
- 毎年6月上旬頃の土曜・日曜の連日に開催されていたが、近年学校全体が変革の風潮にあり、平成20年度から、3月下旬ごろに移行された。また、3年生は参加しない。例年、一般公開されている。内容は大別すると各クラスが一体となって展示を行うクラス展示、文化部が部活動の内容を紹介する、あるいは部活動に関連した内容の展示を行う文化部展示、バンド・歌・ダンスなど有志が中心となっておこなわれる文化祭有志という3形態がある。
- 秀逸だったクラス企画には「館長賞」、「六光賞」が与えられる。
- 2008年度から、6月に文化部を中心とした文化祭『春のフェスト』(クラス展示なし)という行事が開催されることになったが、2009年度から『春のフェスト』は廃止され、代わりに『文化部発表会』となった。
- 修猷大運動会
- 毎年9月上旬の日曜日に単日開催。例年、一般公開されている。全校生徒を4ブロックに分け各競技を競う。
- 1964年東京オリンピックにおいて国立競技場に翻っていた五輪旗は、その見事な大会運営に感動したアベリー・ブランデージIOC会長から同校出身の組織委員会会長の安川第五郎に寄贈され、その後安川から母校である修猷館高校に寄贈された。この五輪旗は長らくこの運動会の入場行進に使用されていたが、現在は劣化したためレプリカを使用し、本物は額に入れられ体育館に飾られている。
その他
- クラスマッチ - いわゆる球技大会である。夏休み直前に2日間行われる。
- 十里踏破遠足 - 十里行軍とも呼ばれる。糸島半島十里(約40km)を歩き抜く行事(強歩大会)である。毎年2月上旬ごろに開催されていたが、2008年度から12月中旬に引き上げられた。
部活動
事業部
- 執行部
- 新聞部
- 応援部
- 議長団
運動部
- 野球部 2009年県大会ベスト4
- ラグビー部 第4回国体優勝, 2014年福岡県大会優勝(前年全国制覇の東福岡高等学校を下しての優勝)
- 陸上部 2009年インターハイ出場
- 山岳部 2011年インターハイ出場
- 卓球部
- 水泳部
- バスケットボール部
- バレーボール部
- ヨット部
- サッカー部
- 硬式テニス部
- 軟式テニス部
- 柔道部 金鷲旗9回優勝
- 剣道部 玉竜旗6回優勝
- 弓道部
- バドミントン部
文化部
- ディベート部 2011年、ディベート甲子園にて全国ベスト16
- JRC部 Junior Red Crossの略、ボランティア活動を行う。
- 吹奏楽部
- 生物研究部
- 化学部
- 物理部
- 数学研究部
- 茶道部
- 華道部
- 演劇部
- 美術部
- 文芸部
- 書道部
- パソコン部
- コーラス部
- 映画制作部
- 写真部
- 放送部
- ESS部
制服
男子は一般的な黒色の学生服。襟に校章をつける。学生服を脱ぐ場合はカッターシャツ着用。
女子は後の襟の両側に六光星の模様が入ったセーラー服。夏服は上が白のセーラー服で、六光星が青で刺繍されている。襟に校章をつける。スカートは冬服はジャンパースカート、夏服は吊りスカート。
男女とも靴、カバン、靴下は自由。また、体操服の指定はない。
アクセス
高校関係者一覧
- 福岡県立修猷館高等学校の人物一覧を参照。
参考文献
- 大塚覚『修猷館物語』(修猷通信、1962年(昭和37年))
- 青木秀『修猷山脈』(西日本新聞社、1971年(昭和46年))
- 修猷館二百年史編集委員会『修猷館二百年史』(修猷館200年記念事業委員会、1985年(昭和60年))
脚注
関連項目
- 福岡県高等学校一覧
- 旧制中学校
- 福岡藩
- 玄洋社
- 福岡県立育徳館中学校・高等学校 - 小倉藩の藩校「育徳館」の流れをくむ。
- 福岡県立明善高等学校 - 久留米藩の藩校「明善堂」の流れをくむ。
- 福岡県立伝習館高等学校 - 直接流れをくむものではないが、柳川藩の藩校「伝習館」の名を受け継いでいる。