内田文三郎
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内田 文三郎(うちだ ぶんざぶろう、生年不詳 - 没年不詳)は、北海道・八雲村の農業指導者。札幌農学校を中退した後、八雲村で青年会活動に取り組んだが、会は一時解散。その後、村内の字・鷲巣の部落で産業組合を組織し、農業の機械化や産品の価格交渉力の向上などをはかったが、共同事業の運営に失敗し、土地や家を手放した。その後、郡農会の技術員となり、管轄地区の農場で農業指導を続けた。
経歴
青年会の活動を熱心にしていたが、会の活動は永く続かず、一時解散した[1]。
その後、内務省で盛んに地方青年会や産業組合の組織を奨励していた頃、八雲村の字・鷲巣の部落で産業組合を組織[2]。
比較的資本に乏しい農家が組合を作ることで、産業化(機械化)を促進し、また仲買人との交渉力の向上を企図し、組合事務所で組合員に日用品を配布したり、組合倉庫に農産物を集積するなどした。また事務所で夜学を開いた。[2]
しかし共同事業の運営に失敗して開墾地や家を手放すことになり、郡農会の技術員をして、人の家を借りて暮らした[3]。
その後も郡農会の技術員として管轄地区の農場を廻って農事の改良を説いて廻った[4]。
評価
- 都築 (1917 310)は、内田は思想の人であり、人格の人だった、とし、しかし思想と人格の下に村の青年会を永く繋ぐことはできなかった、としている。
- 1年中、綿の飛び出したみすぼらしい袖の無い泥土に汚れた農衣を着ていて、朝早くから夜遅くまでよく働いた[1]。
付録
脚注
参考文献
- 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、1917年、NDLJP 955971