ロックンロール
ロックンロール(Rock and Roll, Rock ’n’Roll)は、1950年代半ばに現れたアメリカの大衆音楽スタイルの呼称である。語源については、古くからアメリカ英語の黒人スラングで「性交」及び「交合」の意味であり[1][2][3]、1950年代はじめには「バカ騒ぎ」や「ダンス」という意味もあった[4]。これを一般的に広め定着させたのは、DJのアラン・フリードであった[5]。
1960年代後半には「ロック」という呼び方が一般化し、「ロックンロール」と呼ぶことは少なくなった[6]。
一方で、「ロックンロール」と「ロック」は別の物として使われることもある。1960年代後半、ロックンロールが進化してその枠を壊し、新たなサウンドが生まれ、それらのサウンドの総称として「ロック」という言葉が使われている[6]。
音楽的特徴
ロックンロールの音楽的特徴としては、リズム・アンド・ブルースのほぼ均等なエイト・ビートや、ブルース・ジャズのシャッフル/スイングしたビート、ブルースのコード進行や音階(スケール)を応用した楽曲構成を挙げることができる。それらを基に、カントリー・アンド・ウェスタンを体得した白人ミュージシャンが、双方のスタイルを混じり合わせた音楽であるとされる。
楽器編成としては、エレクトリックギター、エレクトリックベース、ドラムスという構成が代表的だが、エレクトリックギターの代わりにアコースティック・ギターを使う例、ピアノを主体にする例、エレクトリックベースの代わりにアコースティック・ベースを使う例、ドラムスを使わない例、サックスやオルガンを加える例など多彩である。楽器編成の多彩さは、ロックンロールという音楽が様々な音楽スタイルをそのルーツとしていることを示しているとも言える。
尚、白人ミュージシャンによるロックンロールの中でも、特にカントリー・アンド・ウェスタンの要素が強いものをロカビリーと呼ぶ。実際には1950年代のロックンロールのうち、白人の演奏したものの大部分がロカビリーである為、“ロカビリー”と“1950年代のロックンロール”がほぼ同義語として使われることも多い。
由来と変遷
元々はパーティのダンスミュージックとして、リトル・リチャード、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノ、アイク・ターナーなどの音楽を指した。ロックンロールとR&Bとの間には明確な境界線があるわけではないので、ロックンロールがいつ頃から始まったかについては諸説がある。一説として「ロックンロール」という語は1951年前後にディスクジョッキーのアラン・フリードが「マイ・ベイビー・ロックス・ミー・ウィズ・ワン・ステディ・ロール」(トリキシー・スミス)という曲の歌詞から思いつき、「ムーンドッグロックンロール・パーティ」というラジオ番組をはじめた、というものもある。[7]
ブルースが黒人、カントリーが中西部の白人、ポップスが中産階級、ラップが被抑圧階級の音楽と「乗り越え不能な仕方で切り刻んで」いたが、唯一ロックンロールだけは「『ヒップ』なアメリカ人であると自己申告しさえすれば誰もが『自分のための音楽』として認知しることができる『開かれた音楽』だった」[8]。
その後、白人であるビル・ヘイリー、エルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイスらの稀に見る商業的な成功によってロックンロールは「白人の音楽」として定着する。くねくねと腰を振り、挑発的にパフォーマンスするエルヴィスの登場により、白人音楽は黒人音楽に固有の熱狂と肉体性を手に入れることとなる。
初期のロックンロールの楽曲はアーティスト自身による自作か、ブルース、カントリー、R&Bのカヴァーだった。しかし、カヴァーの中にもロックンロールに適した曲が無限にあるわけではない。そこで、ロックンロールがポピュラー音楽の中に占める位置が大きくなるにつれて、ロックンロール向きの新曲を大量に生み出す仕組みが求められるようになった。
こうした需要に応えたのが1958年頃から続々と登場したアルドン・ミュージック (Aldon Music)、ヒル・アンド・レインジ・ソングス(Hill & Range)などの新興の音楽出版社だった。これらの会社はキャロル・キング&ジェリー・ゴフィン、ジェフ・バリー (Jeff Barry) &エリー・グリニッチ (Ellie Greenwich) などの若手作曲家チームを抱え、ロックンロール向きの新曲を次々と送り出した。
このような動きがもたらしたロックンロールの変化は、第一に一握りの天才的なアーティストが主導する時代から、企業によってシステム的にロックンロール作品が作られる時代に入ったことである。これは、音楽出版社の抱える楽曲ストックの中から優れた楽曲を見出すA&Rマン(プロデューサー)の重要性が増すことによってもたらされた変化である。このようにマクロな経済構造に組み込まれ、商業的にならざるを得なかったロックンロールだが、そのような商業支配の構図に対してときにその経済構造に組み込まれたアーティスト自らが異議を唱える、といった自己矛盾を底流に持ち続けてきたのもまた、ロックンロールの類稀な特性といえる。
第二の変化として、初期のロックンロールがテネシー州メンフィスやニューメキシコ州クローヴィスなどの南部の地方都市からニューヨークに移ったことである。前述の音楽出版社がニューヨークに設立された為である。
これらの音楽出版社の多くが、ブロードウェイのブリル・ビルディングという建物に入居していた為、この動きを“ブリル・ビルディング・サウンド”と呼ぶ。ブリル・ビルディング・サウンドの主なアーティストは、ニール・セダカ、ジーン・ピットニー、ボー・ヴィーなどである。
尚、スナッフ・ギャレット (Snuff Garrett) やフィル・スペクターなどのロサンゼルスのプロデューサーも活動していた。
終焉
しかし、1958年頃から白人中産階級により黒人音楽をルーツに持つロックンロールが一般向けのラジオ放送で演奏される事を嫌悪したロックンロール追放運動が起こり、一方で保守的な黒人キリスト教徒からも神聖であるべきゴスペルが教会から持ち出され商業的に味付けされる事への反発が起き、不買、不売、焚盤など一種迫害にも近い「ロックンロール狩り」が全米各地で発生する。同時に音楽産業の変化に伴う「ロックンロール産業」の商業化とあわせ、主要ミュージシャンが徴兵・死亡・懲役などで次々とシーンを去ったことからアメリカでのロックンロールは次第にその勢いを失い、残った主なミュージシャンもヨーロッパにその活動の舞台を移してゆく。この時期に起きた出来事をいくつか示す。
- 1957年末 - オーストラリアでのツアーに向かっていたリトル・リチャードは、移動中の太平洋上で、乗っていた飛行機のエンジンが火を噴くのを窓から目撃し、「願いがかなったら神職につきます」と、搭乗機の無事を祈った。無事シドニーに到着したリチャードは突如引退し、神学校に入学して牧師となった[9](後に復帰)。
- 1958年3月 - エルヴィス・プレスリー陸軍に召集[10](1960年3月満期除隊)
- 1958年5月 - イギリスツアーを予定していたジェリー・リー・ルイスの妻が13歳だった事が現地で問題化してツアーはキャンセル、当時の米国では合法であったものの、問題を掘り起こすうちに前妻との離婚が未成立だった事が発覚し重婚罪として本国でも問題化、事実上追放[10](後に復帰)。
- 1958年末 - それまで合法的な慣例とされていた「宣伝料を支払ってオン・エアしてもらう」ペイオラが、突如不道徳・反倫理的として糾弾され翌年には非合法化、遡及的にアラン・フリードら人気DJが追放される。
- 1959年2月 - バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーが飛行機事故で死亡(音楽が死んだ日)[11]。
- 1959年12月 - 14歳の少女を不法に州境を越えて連れ回したとしてチャック・ベリーが逮捕される(後に、1962年から2年間服役)[9]。
- 1960年4月 - イギリスツアー中だったエディ・コクランが移動中の自動車事故で死亡、同乗のジーン・ヴィンセントも重傷を負い後遺症が残る[9]。
ペイオラ・スキャンダルで大物DJが大量にマイクの前から消える中、駆出しのDJとして関与していたディック・クラークらは当局やレコード会社との取引によって追放を免れ、これを機に大人からも容認される比較的健全な曲を掛ける方向に転向[12]、ポール・アンカ、ニール・セダカといった毒気の少ないソングライター系の音楽、ガールグループ黒人コーラスグループ等もともと自主規制的に毒気を抜いてあった音楽を積極的に紹介、ブリティッシュ・インヴェイジョン襲来までの空白期間若者の音楽欲を満たし、いわゆるバブルガムポップ全盛の数年が花開く。
一方イギリスでは、これらのロックンロールやブルース、R&Bに影響を受けたミュージシャンが登場し始め、ロックンロール/ロックの主要な舞台はイギリスに移り、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクスに受け継がれていくこととなる。
追記
一般的には、1950年代半ばに発表された、ビル・ヘイリーの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』、エルヴィス・プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』などが、こういった音楽の成立例として挙げられることが多い[13]。しかし、これは演奏形態自体が確立される前のことであった。
また、通常、黒人ミュージシャンがこの種の音楽を演奏している場合は、「リズム・アンド・ブルース」と呼ばれることが多い。しかしながら、前段落とほぼ同時期に、エレキギターを弾きながら歌っていたチャック・ベリーの、『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』や『ジョニー・B.グッド』等は、主にロックンロールとして分類されている。
起源における社会背景
19世紀後半におきたジャガイモ飢饉により、アメリカ移住を余儀なくされたアイルランド人は、自由の国アメリカにおいて黒人奴隷と同じような扱いをうけた。つまり、ロックンロールは根本的に「自由の国アメリカ」における自由獲得運動という面が指摘されることもある。要出典
主なアーティスト
- チャック・ベリー
- エルヴィス・プレスリー
- ジェリー・リー・ルイス
- ビル・ヘイリー
- ロイ・オービソン
- ボ・ディドリー
- リトル・リチャード
- バディ・ホリー
- ジーン・ヴィンセント
- エディ・コクラン
- カール・パーキンス
- オーティス・ブラックウェル
- ディオン&ベルモンツ
- リッチー・バレンス
- ソニー・バージェス
- ダニー&ザ・ジュニアーズ
- ジーン・ピットニー
- ボビー・ヴィー
- フレディ・キャノン
出典・脚注
- ↑ Jeffrey Peter Hart"When the Going Was Good: American Life in the Fifties"p.130, Crown Publishers, Incorporated, 1982.
- ↑ Francesco Bonami, Raf Simons, Maria Luisa Frisa "The fourth sex: adolescent extremes"p.434, Charta, 2003.
- ↑ 『キャロル・キング自伝』p.61
- ↑ 北中,1985,p.13.
- ↑ 北中,1985,p.47f.
- ↑ 6.0 6.1 北中,1985,pp.113-115.
- ↑ 『ロックの歴史』、中山康樹、講談社、2014年6月(P5)。ただしここでの「ロックンロール」は「ロック」の起源となるような音楽ではない。
- ↑ 内田樹『うほほいシネクラブ―街場の映画論』(文春新書 2011年)p.73f.
- ↑ 9.0 9.1 9.2 北中,1985,p.64.
- ↑ 10.0 10.1 北中,1985,p.62.
- ↑ 北中,1985,p.62f.
- ↑ 北中,1985,p.64f.
- ↑ 北中,1985,pp.9-32.
参考文献
- 北中正和『ロック』、講談社現代新書、1985年 4-06-145776-4