板垣与一
板垣 与一(いたがき よいち、1908年10月15日 - 2003年8月28日)は日本の国際政治学者。1932年に旧制東京商科大学を卒業。以後同大学(のち一橋大学)を研究拠点とし、1938年に国家的な文化事業として企画されたナチス・ドイツの体制紹介本『ナチス国家の基礎・構成・経済秩序』の翻訳に参画。フリードリッヒ・リスト やゴットル など、ドイツ歴史学派の研究を行った。植民地政策を研究領域とし、1942年に南方軍軍政総監部調査部付となって南方占領地に赴任すると、軍政(マレー人を対象とした民族工作)に積極的に関与した。戦後はアジア政治経済を研究領域とし、1957年に当時の総理大臣・岸信介にアジア経済研究所の設立を提言、翌年設立された同研究所の理事となった。1957年同大学経済学部長、1968年同大学附属図書館長。1972年に停年退職し、1973年に亜細亜大学教授、経済学部長。1986年八千代国際大学初代学長。
目次
経歴
生い立ち
1908年(明治41)10月15日に、富山県射水郡新湊町放生津2037に、父・外次郎、母・さのの長男として生れる。家は漁業を営んでいた。[1]
1915年(大正4)4月、新湊町立尋常小学校に入学。同年10月に父母とともに樺太泊居町山下町1番地に移り、泊居尋常小学校に転校した。家は酒造業を営んでいた。[1]
1920年(大正9)10月、新湊町立二の丸尋常小学校に転校。六条粂太郞訓導のもと、受験勉強をし、翌年(1921・大正10)4月、富山県立高岡甲種商業学校に入学。[1]
1926年(大正15)4月、小樽高等商業学校に無試験入学。正気寮で3年間寮生活を送る。大西猪之介『囚はれたる経済学』、福田徳三『社会政策と階級闘争』を読む。第2外国語としてロシア語を履修。[1]
2年生のとき、手塚寿郎のゼミナールに入り、ピグー を読む[1]。
1927年(昭和2)の夏休みに「海外学生見学団」に参加し、アメリカ合衆国を旅行[1]。
1929年(昭和4)4月、東京商科大学に入学。福田徳三の「経済原論」「経済政策」の講義を聴講。ドイツ語を履修。同年10月、中山伊知郎の特別講義「数理経済学の基礎理論」を聴講。[1]
1930年(昭和5)5月、福田徳三が死去。中山伊知郎のゼミナール第1期生として、経済政策を専攻。哲学史、経済哲学、(英独仏の)社会学、政治学に関心を持つ。[2]
1932年(昭和7)3月、卒業論文「経済政策の方法原理」により同大学を卒業。同年4月に東京商科大学研究科に進学し、中山伊知郎の指導を受ける。同年10月まで在籍。[3][4]
1933年(昭和8)10月 同研究科中退、同月同大学「補手」[3][4]。
東京商科大学時代
1935年(昭和10)5月、瓜谷聿子(大連市、瓜谷長造・むめの長女)と結婚。杉並区高円寺3丁目273番地に新居をかまえる。[4]
1937年(昭和12)1月、長女・瑛子誕生[4]。
1938年(昭和13)1月、『一橋論叢』創刊、増田四郎と2人で2年間編集幹事を務めた。同年3月、助手を免ぜられ、予科講師嘱託。同年7月、次女・慶子誕生。[4]
1938年に、日独防共協定を背景として日本で国家的な文化事業として企画された、ナチス・ドイツの体制紹介本『ナチス国家の基礎・構成・経済秩序』(全3巻)の日本語への翻訳事業に参画。訳本は『新独逸国家体系』全12巻として、1939年から1941年にかけて刊行され、板垣はエルンスト・ルドルフ・フーバー 「国家と経済」を翻訳した(板垣 1939 )。[5]
1939年(昭和14)6月、一橋大学助手に再任される。予科講師兼任。同年8月、父・外次郎が死去。[4]
1940年(昭和15)2月、同大学助教授(植民地政策、商業政策担当)[6][3][4]。同年3月、神戸商科大学・金田近二教授の研究室に1ヶ月間内地留学し、指導を受ける。[4]
同年5月の日本経済政策学会創立以来、幹事・理事・常務理事を歴任[7]。
同年6月、同大学附属商学専門部教授を兼任。同年7月、海軍省調査課嘱託。同年10月、文部省から中華民国、香港、フィリピン、泰国、英領マレー、蘭領東印度への出張を命じられ、11月8日に神戸を出帆し、南洋海運のくらいど丸で蘭印、泰国、仏印、海南島、台湾を歴遊し、翌年5月3日に帰国。[4][8]
1942年(昭和17)1月、三女・浩子誕生。同年2月、『政治経済学の方法』(板垣 1942 )出版。[4]
同年4月、東京・神田の学士会館および如水会館で開催された大日本拓殖学会創立大会で、「旧蘭印における労働政策」と題して研究報告をした[10]。
南方調査団
1942年(昭和17)4月、東京商科大学東亜経済研究所研究員[11][12][13]。
同年11月10日、南方軍軍政総監部調査部付となり[6]、同年12月18日に赤松要を団長とする東京商科大学の教職員、学生ら30数名で神戸港を出発。同月28日にシンガポールに上陸した。[11][14][13]
1943年(昭和18)3月から1ヶ月半、山中篤太郎教授と共にジャワの農村調査のためジャワ全土を旅行。同年4月にハッタと会見[13]。
同年9月10日、秋学期の講義のため赤松と共に帰国。同年12月17日、再びシンガポールに帰着。[13]
マラヤの民族工作
1944年(昭和19)5月、長男・哲史誕生。同年9月、馬来軍政監部調査部員となり、クアラルンプールへ移駐[13][15]。事実上の軍政監部総務部長・浜田弘大佐直属の政策機関として民族工作を担当した[11][16]。
1944年12月、全マラヤ最高宗教会議設立準備に携わった[13]。
1945年(昭和20)5月(3日)に開催された第1回情報主任参謀会同ないし同年7月(29日)に開催された第2回の同会同の後、第7方面軍の某情報主任参謀(少佐か中佐)と、インドネシアにおける独立問題準備の動きへの反響がマラヤに波及することを予想して、マラヤにおいても将来の自治や独立に希望を持たせるような施策をとることになり、昭南防衛軍司令部の参謀長と会って、当時義勇軍中佐だったイブラヒム・ヤーコブを「民衆の指導者」として「活用」するために「もらい下げ」、マライ軍政監部の梅津少将と相談してジャワにおけるプートラ運動のマラヤ版としてクリス運動を発足させることにした[17][18]。
同年8月10日になって第7方面軍参謀部から正式な運動推進の許可が下り、同月17-18日にインドネシアの独立宣言に合わせてクアラルンプールでクリス協会の発会式開催を予定したが、同月15日に日本が降伏。板垣はイポーでイブラヒムとともに終戦を迎え、イブラヒムはジャワへ逃亡。他の協会関係者はクアラルンプールのカンポン・バル で発足前に解散式をした。[19][20]。
終戦、復員
同年9月、クアラ・カンサル 郊外のサラノースキャンプに入所[21][22][13]。マラリアに罹患し、入院して治療を受けた[13]。
1946年(昭和21)1月、三女・浩子が死去[4]。
同年7月、ジュロンの抑留所を出発し、シンガポールからリバティ船に乗船して8月5日に浦賀に上陸し、従軍解除、復員帰還した[6][13]。
同年11月、教育教員適格審査委員会において適格と判定された[13]。
1947年(昭和22)3月、品川駅で大連に疎開していた家族を出迎え。同年4月、樺太から引揚げた母を青森駅で出迎えた[13]。
- 1946年に大学が自主的に行った適格審査での不合格者は少なかったが、研究所では、嘱託職員からの批判を受けて、1947年に上原専禄学長・大塚金之助研究所長の指示により、小田橋貞寿以下の教授・助教授・助手が辞職・降格処分を受け、嘱託職員も多くが辞職した[23]。
- 板垣もこのときに解任されたと思われるが(一橋論叢 1972 600)、山田勇の回想録(山田 1987 53-54)中、研究所から去った教員の名前を列挙している中に板垣への言及がない。板垣は同書の編集委員だったため、山田の回想録から自身に関する記述を除去した可能性がある。
一橋大学時代
1948年(昭和23)4月に創刊された『産業と産業人』の編集・執筆に携わった[13]。
同年7月、ミネソタ大学のラッセル・クーバー博士、CIE顧問・マックグレール博士(Thomas H. McGrail)と共同で、新制大学における一般教育の理念や制度に関する研究会を持った[13]。
1949年10月、一橋大学・東京商科大学(1951年4月より一橋大学経済学部)教授となり、経済政策・世界経済論を担当[3][24]。
1951年4月、小樽商科大学講師を委嘱される(1957年3月まで在任)[24]。
同年12月、教科用図書検定調査審議会調査員委嘱[24]。
1952年、河出書房『経済学新大系』の企画・編集に関与[24]。
1953年4月以来、5年間、『日本経済政策学会年報』の編集担当。同年7月、『アジア問題』創刊、編集担当。編集同人:藤崎信幸、川野重任、山本登、原覚天、栗本弘、石沢芳次郎。[24]
1955年4月、一橋大学評議員(1958年4月、1960年4月、1961年4月、1968年4月に再任)[25]。同年6月、東洋経済新報社『経済学大辞典』編集幹事担当[24]。
1956年10月、新国民外交調査会『外交季刊』編集委員[24]。
同年12月の日本国際政治学会創立(以来、理事を歴任)[7]。
1957年4月、一橋大学経済学部長(兼大学院経済学研究科長)[3][24]。同月より長崎大学経済学部講師を併任(同年10月20日まで)[24]。
同年8月26日朝、箱根宮ノ下の奈良屋ホテルで静養中だった岸信介総理大臣を川野、山本、原、藤崎とともに訪問し、アジア研究所(仮称)の設立を進言[24]。
同月に一橋大学経済学部長の併任を解かれ、同年9月からロックフェラー財団のフェローシップにより「アジアの経済的近代化」研究のため、東南アジア・中近東・欧州諸国および米国へ1年間海外留学[3]ないし出張[26]。
1958年4月、米国滞在中にニューヨークで「アジア研究学会年次大会」に出席[26]。同年9月1日に日本に帰国した[3][26]。
同年12月に発足した財団法人アジア経済研究所の調査担当理事となり、資料蒐集班・インド調査班・インドネシア調査班を組織し、現地に派遣した[26]。
1959年5月、アジア経済研究所の理事を辞任[26]。
1960年9月、財団法人日本国際問題研究所創立以来、理事を歴任(1986年当時、在任中)[7]。
同年10月、慶應義塾大学主催の「アジア教育者会議」に出席し、報告[26]。同年12月、琉球大学の創立10周年記念式典に出席し、記念講演[26]。
1961年1月13日から、シンガポールで開催された東南アジア歴史家国際会議に日本学術会議代表として派遣され、報告。帰途マレーシア各地を視察し、鉄道でバンコクに至り、香港を経由して2月4日に帰国した。[26]
同年12月、日本経済学会連合評議員兼理事(1963年4月再任)および(日本学術会議)経済学研究連絡委員会委員(-1972年1月)を委嘱される[7][27]。
1962年3月 『アジアの民主主義と経済発展』(板垣 1962 )により一橋大学経済学博士[3][26]。
同年7月1日、テオドル・ケルナー財団主催の開発協力国際会議に出席のため、欧州へ出張(8月5日帰国)[26]。
同年12月、英国文化振興会の奨学金候補者選考委員会の委員となる(以後8年間歴任)[26]。
1963年1月、財団法人アジア政経学会代表理事に選任(-1967年1月)[7][28]。
同年9月、(文部省)教材等調査研究会(中学校高等学校社会小委員会)委員に任命される(1年間在任)[28]。
1964年3月、アメリカン・ユニヴァーシティーズ・フィールド・スタッフ(American Universities Field Staff)主催のべラジオ国際会議(「ナショナリズムと開発の政治的選択」)に出席し、報告[28]。
帰国後に、十二指腸潰瘍の出血で日大板橋病院に入院し、手術を受ける。同年6月20日に退院。[28]
1965年2月、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所運営委員会委員(1972年当時、在任中)[28]。
同年3月、(文部省初等中等教育局)視学委員に任命(任期2年、-1969年)[29][28]。
同月、教育職員養成審議会臨時委員に任命(同年8月31日まで)[28]。
同年6月、高麗大学主催の「アジアにおける近代化問題に関する国際会議」出席・報告のため、2週間韓国へ出張[28]。
同年7月、一橋大学インドネシア社会経済調査隊を引率し、2ヶ月間、ジャワ東部バレ(Bale?)の農村調査を行う。滞在中の9月初旬にスカルノ大統領と会見。[28]
1966年2月の経済社会学会創立以来、理事・常務理事を歴任(1986年当時、在任中)[7]。 1967年6月、国立大学協会第5常置委員会委員[28]。
同年7月、大学設置審議会大学設置分科会(経済学)専門委員(1968年7月、1969年5月、1971年8月に再任)[30][31]。
同年9月、経済協力運動協議会主催のシンポジウム「日本の経済協力に何を望むか」に討論者として参加[28]。
同年12月、貿易研修センター運営協議会委員、教科目委員会委員(副委員長)[28]。
1968年2月、毎日新聞社アジア調査会理事(-1970年)[28]。
同年4月、一橋大学附属図書館長(-1971年3月)[3][28]。
同年6月、国立大学図書館協議会理事(-1971年6月)[7][31]。
1969年1月、日本学術会議第8期会員(-1972年1月)[7][32]。
同月、日本経済学会連合理事、経済学研究連絡委員会委員[32]。
同月、財団法人大学基準協会基準委員会委員(-1971年3月)[33]。
同月、日米大学図書館会議組織委員会委員、実行委員会委員、募金委員会委員長[32]。
同月、日本図書館協会常務理事、大学図書館部会長(-1971年3月)[32]。
同年10月、貿易研修センター客員教授[32]。
同年11月 社団法人世界経済研究協会(会長・水上達三、理事長・赤松要)の常務理事として「1985年世界貿易長期展望プロジェクト」に参加、資源問題部会(部会長・中山素平)の研究会を主宰[32]。
1970年1月、文部省日本研究講座連絡会委員[32]。
同月と翌2月の2回にわたり、皇太子夫妻のマレーシア・シンガポール親善訪問旅行に際し、山本達郎らとマラヤの歴史・文学・宗教等に関して進講[32]。
同年6月、アジア政経学会代表理事代理(-1971年6月)[32]。
1971年1月、篠原三代平、荒憲治郎とともに『中山伊知郎全集』の編集代表となり、刊行を準備。翌年2月に第1回配本。[32]
同年6月、日本シオス協会参与。同年10月の同協会国際経営協力委員会主催の「経営協力を通ずるアジアの繁栄」国際会議に参加し、基調講演を行った。[32]
同年10月、日本学術振興会流動研究員等審査会委員(副委員長)[32]。
同年11月、通産省産業構造審議会委員(任期2年)[30][32]。
1972年1月、文部省日本研究講座連絡会委員会委員委嘱[32]。
亜細亜大学時代
1972年(昭和47)4月、特殊法人貿易研修センター理事・教学長(-1973年3月)[32][3]。
1973年4月、亜細亜大学経済学部教授、経済政策・国際関係概論担当。1974年4月から同大学大学院経済学研究科委員長(-1977年9月)、1977年10月から同大学経済学部長(-1979年9月)、1979年10月から同大学経済学部経済社会研究所長(-1981年9月)を歴任し、1986年3月に同大学を定年退職[7]。
1986年4月から同大学経済学部及び大学院経済学研究科に非常勤講師として勤務した[7]。
ほかにこの頃、以下の役職に就いた[34]。
- 1973年9月、昭和48年度文部省文化勲章受章者選考委員、文化功労者選考審査会委員
- 1974年2月、(財)放送文化基金審査委員会委員(-1980年2月)
- 1975年4月、(財)ユネスコアジア文化センター評議員(-1979年4月)
- 同年6月、中東経済研究所理事(1986年当時、在任中)
- 1977年2月、アジア経済研究所参与(1986年当時、在任中)
- 1978年6月、日本経済学会連合理事(-1984年5月。同月より同連合顧問)[30]
- 1982年3月、国際大学理事(1986年当時、在任中)
- 1983年11月、比較文明学会理事(1986年当時、在任中)
- 1984年3月、金子教育団理事・評議員、同年11月より(財)金子国際文化交流財団専務理事、評議員(1986年当時、在任中)
- 同月、経済社会学会会長(1986年当時、在任中)
八千代国際大学時代
晩年
晩年は東京都練馬区在住。2003年膵癌のため東京都中央区の病院で死去。享年94。要出典
著作物
- 「名誉教授板垣与一著述目録」『一橋論叢』v.68 n.5、1972年11月、pp.605-629、DOI 10.15057/2081
単行本
- 板垣 (1985) 板垣与一『現代ナショナリズム - 視点と方法』論創社、JPNO 87018524
- 書評:池本清「板垣與一著『現代ナショナリズム』」統計研究会『Eco-forum』v.4 n.4、1986年1月、pp.27-28、NDLJP 2857416/16
- ― (1968) ―『アジアとの対話』新紀元社、NDLJP 2981281
- ― (1962) ―『アジアの民族主義と経済発展 ‐ 東南アジア近代化の起点』東洋経済新報社、NDLJP 3009277
- 書評:高瀬浄「書評 アジアの民族主義と経済発展」経済往来社『経済往来』v.14 n.7、1962年7月、pp.232-239、NDLJP 1411957/117
- 書評:松本三郎「板垣与一著『アジアの民族主義と経済発展』」慶応義塾大学法学研究会『法学研究』 、v.35 n.9、1962年9月、pp.97-103
- 書評:宮下忠雄「板垣与一著『アジアの民族主義と経済発展』」神戸大学経済経営学会『国民経済雑誌』v.106 n.6、1962年12月、pp.86-92、DOI 10.24546/00167884
- ― (1951) ―『世界政治経済論』新紀元社、NDLJP 2993755
- 書評:(著者不詳)「板垣与一著『世界政治経済論』」世界経済調査会『世界経済』v.6 n.9、1951年9月、p.60、NDLJP 2283949/32
- 改題[35]:『国際関係論の基本問題』新紀元社、1963年、NDLJP 2993840
- ― (1942) ―『政治経済学の方法』日本評論社、NDLJP 1276202
論文
- ― (1943) 板垣与一「(書評)平野義太郎著『民族政治学の理論』」『一橋論叢』v.12 n.6、1943年12月、pp.614-618、DOI 10.15057/4795
- ― (1942-4) ―「大日本拓植学会創立大会記」『一橋論叢』v.9 n.4、1942年4月、pp.456-457、DOI 10.15057/4934
- ― (1942-1) ―「政治経済学の問題情況 - 最近の日本経済学界」『一橋論叢』v.9 n.1、1942年1月、pp.67-86、DOI 10.15057/4956
- ― (1941) ―「(書評)大熊信行著『経済本質論』(配分原理第一巻) 『政治経済学の問題』」『一橋論叢』v.8 n.5、1941年11月、pp.520-530、DOI 10.15057/4970
- ― (1940-8) ―「政治経済学の復興と課題 - リストとゴットルとの統一問題」『一橋論叢』v.6 n.2、1940年8月、pp.153-175、DOI 10.15057/5093
- ― (1940-5) ―「(書評)ゴットル『経済政策と理論』」『一橋論叢』v.5 n.5、1940年5月、pp.537-542、DOI 10.15057/5117
- ― (1939-12) ―「(書評)ワイペルト『価値判断論争より政治的理論へ』」『一橋論叢』v.4 n.6、1939年12月、pp.632-637、DOI 10.15057/5158
- ― (1939-4) ―「経済段階理論の問題とその展開 - フリードリッヒ・リスト経済発展段階説への序説」『一橋論叢』v.3 n.4、1939年4月、pp.426-446、DOI 10.15057/5234
- ― (1938-9) ―「新しき『価値判断論争』の展開 - 政治経済学の問題情況」『一橋論叢』v.2 n.3、1938年9月、pp.365-396、DOI 10.15057/5298
- ― (1938-5) ―「(書評)大熊信行著『経済本質論』」『一橋論叢』v.1 n.5、1938年5月、pp.739-744、DOI 10.15057/5347
- ― (1938-3) ―「(書評)ゴットル『民族・国家・経済・法律』」『一橋論叢』v.1 n.3、1938年3月、pp.446-452、DOI 10.15057/5366
- ― (1938-2) ―「政治的・経済的国民統一の理念 - フリードリヒ・リストに於ける政治経済学の問題」『一橋論叢』v.1 n.2、1938年2月、pp.213-234、DOI 10.15057/5385
- ― (1937) ―「フリードリッヒ・リストの国家論研究」『東京商科大学研究年報 経済学研究』n.5、1937年7月、pp.201-243、DOI 10.15057/7239
- ― (1936) ―「政治経済学の根本問題 - 実践的状況に於ける価値判断」小樽高等商業学校研究室『商学討究』v.10 n.3、1936年2月、pp.173-202
- ― (1934) ―「政策的認識の問題」『東京商科大学研究年報 経済学研究』n.3、1934年7月、pp.227-285、DOI 10.15057/7256
共著・編著
- 板垣 (1939) ライプチッヒ大学教授エルンスト・ルドルフ・フーバー(著)板垣与一(訳)「国家と経済」新独逸国家大系刊行会(編)『新独逸国家大系 第3巻』日本評論社、pp.1-52、NDLJP 1689785/12
- アジア協会『アジア問題』NDLJP 11007324
栄典
- 1940年2月、従七位[4]
- 1942年6月、正七位[13]
- 1944年10月、従六位[13]
- 1962年11月 『アジアの民族主義と経済発展』(板垣 1962 )で日経・経済図書文化賞受賞[30][26]。
- 1972年4月、一橋大学名誉教授[3][32]。
- 1978年10月、アジア政経学会名誉会員[30]。
- 1980年4月 勲二等瑞宝章受章。同年5月、日本経済政策学会名誉会員。同年10月、日本国際政治学会名誉理事。[30]
家族
- 妻・聿子は瓜谷長造・むめの長女[4]。妻の妹瓜谷圭子は板垣の紹介で小島清(一橋大学名誉教授)と結婚要出典。
- ディーラーの板垣哲史(元シティバンク、エヌ・エイ東京支店ヴァイス・プレジデント)は長男、実業家の菊川曉は孫要出典。
門弟
ゼミ生
付録
関連文献
- 辛島 (2015) 辛島理人『帝国日本のアジア研究:総力戦体制・経済リアリズム・民主社会主義』明石書店、ISBN 978-4750341286
- 追想集 (2005) 板垣與一先生追想集出版・編集委員会(編)『今が大切、努めて熄むな - 追想集板垣與一先生の思い出』日本文学館、ISBN 4776504960
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 一橋論叢 1972 598
- ↑ 一橋論叢 1972 598-599
- ↑ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 亜大紀要 1986 150
- ↑ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 4.13 一橋論叢 1972 599
- ↑ 柳沢 2003 67-72
- ↑ 6.0 6.1 6.2 フォーラム 1998 19
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 7.7 7.8 7.9 亜大紀要 1986 151
- ↑ フォーラム 1998 19は、外遊の時期を1940年12月から、としている。
- ↑ 板垣 1968 125-127
- ↑ 板垣 1942 456
- ↑ 11.0 11.1 11.2 フォーラム 1998 20
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 119-120
- ↑ 13.00 13.01 13.02 13.03 13.04 13.05 13.06 13.07 13.08 13.09 13.10 13.11 13.12 13.13 13.14 13.15 一橋論叢 1972 600
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 120
- ↑ フォーラム 1998 19は、同年4月のこととしている。
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 129-130
- ↑ フォーラム 1998 20,56
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 133,141-142,154-155
- ↑ フォーラム 1998 49,56
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 140-142,154-168
- ↑ フォーラム 1998 49-50,56
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 140-142,154-155
- ↑ 山田 1987 53-55
- ↑ 24.00 24.01 24.02 24.03 24.04 24.05 24.06 24.07 24.08 24.09 24.10 一橋論叢 1972 601
- ↑ 一橋論叢 1972 601,602,603
- ↑ 26.00 26.01 26.02 26.03 26.04 26.05 26.06 26.07 26.08 26.09 26.10 26.11 26.12 一橋論叢 1972 602
- ↑ 一橋論叢 1972 602,603
- ↑ 28.00 28.01 28.02 28.03 28.04 28.05 28.06 28.07 28.08 28.09 28.10 28.11 28.12 28.13 一橋論叢 1972 603
- ↑ 亜大紀要 1986 152は、4年間在任、としている
- ↑ 30.0 30.1 30.2 30.3 30.4 30.5 30.6 亜大紀要 1986 152
- ↑ 31.0 31.1 一橋論叢 1972 603,604
- ↑ 32.00 32.01 32.02 32.03 32.04 32.05 32.06 32.07 32.08 32.09 32.10 32.11 32.12 32.13 32.14 32.15 32.16 32.17 32.18 一橋論叢 1972 604
- ↑ 一橋論叢 1972 604。1969年4月の条に任期1年とあるが、1971年3月の条に任期満了とある。
- ↑ 亜大紀要 1986 151-152
- ↑ 間苧谷 1986 141
- ↑ 間苧谷 1986 41-42
参考文献
- 柳沢 (2003) 柳沢治「日本における『経済新体制』問題とナチス経済思想 - 公益優先原則・指導者原理・民営自主原理」明治大学政治経済研究所『政経論叢』 、v.72 n.1、2003年10月、pp.45-123
- フォーラム (1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 1941~45年 インタビュー記録』〈南方軍政関係史料 33〉龍溪書舎、ISBN 4844794809
- 山田 (1987) 山田勇「第I部 経済学と私」故山田勇先生追想文集編集世話人会(編)『理論と計量に徹して‐山田勇先生追想文集』論創社、1987年4月、NCID BN05592015、pp.9-139
- 間苧谷 (1986) 間苧谷栄「板垣與一先生のご退任を惜しんで」亜細亜大学経済学会『亜細亜大学経済学紀要』vol.11 no.2、1986年9月、pp.141-143、NAID 40000090866
- 亜大紀要 (1986) 「板垣與一先生略歴・主要著作目録」亜細亜大学経済学会『亜細亜大学経済学紀要』vol.11 no.2、1986年9月、pp.150-155、NAID 40000090867
- 板垣 山田 内田 (1981) 板垣与一・山田勇・内田直作(述)「板垣与一氏・山田勇氏・内田直作氏 インタヴュー記録」東京大学教養学部国際関係論研究室(編)『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6』東京大学教養学部国際関係論研究室、pp.115-168、NCID BN1303760X
- 一橋論叢 (1972) 「名誉教授板垣與一年譜」『一橋論叢』v.68 n.5、1972年11月、pp.598-604、DOI 10.15057/2080