シュメール
シュメール(Sumer, Shumer, Sumeria, Shinar)は、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。シュメールの楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃とされており、書かれた物としては最も初期のものだと思われる。
目次
シュメルかシュメールか
第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇呼称の古語「すめらみこと」を「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行したためシュメル学の先達、中原与茂九郎京都大学名誉教授が混同されないように「シュメール」と長音記号をいれて表記した。シュメルの方がアッカド語の原音に近い表記[1]。
初期シュメール
「シュメール」という用語はアッカド人により用いられた異称で、このことはアッカドやその北東のスバル人へと知覚された関係を示す。シュメール人自身は自らを「黒い頭の人々」(saa-gi-ga)と呼び、その土地を「キエンギ」(Ki-en-gi、「君主たちの地」の意)と呼んでいた。アッカド語の「シュメール」はおそらくこの名前を方言で表したものであろう。彼らが「カンガ」あるいは「キエンガ」と自称する言語学的グループの異称のままであった。
シュメールの言語、文化、おそらく外見は周囲のセム系の民族とは異なっていた。しかしシュメールの男子像を見る限り大きく彫りの深い目、高い鼻、巻き毛で髭が多いなどセム系と変わりないような容貌した像もあるので未だ謎である。シュメール人は広範に征服民か移住民であると信じられている。しかしそのような移住がいつ行われたのか、またシュメール人の地理的な起源がどこなのかを正確に決定することは難しい。一部の考古学者はシュメール人が実際にはメソポタミア平原に出自をもつとの観点にいたっている。他の学者はシュメール人とはたんに言語学的な概念であり、シュメール語についてのみ適用され、民族集団としてのシュメール人を分離して示すことはできないということを示唆している。その場合、シュメール人は正確には「言語学的シュメール人」ないし「カンガ人」と呼ばれるべきであろう。スバル人による異称は、メソポタミアやレバントにおけるセム語を話すさまざまな言語グループと結びついていて、シュメール語の言語的基盤とは関係がなかった。
一部の学者は、シュメール語と、エラム語やドラヴィダ語との言語学的結びつきを考慮している。しかし言語学においてより一般的に受け入れられている説では、シュメール語は孤立した言語であり、たとえばアッカド語がセム語族に属するような形での近縁関係にある言語をもっていない。
ウバイド文化
ティグリス・ユーフラテスに囲まれた”肥沃な三角地帯”において、これまでの狩猟と採集の生活から、牧畜と農耕(麦類)の生活が行われるようになったのは紀元前8000年頃だった。当初は天水農耕に頼っていた彼らであったが、のちに灌漑農法を導入するようになり、年間降水量200mmの限界線を超えて周辺地帯にまで農耕文化は拡大、穀物の収穫は大幅に増加した。 最初期の紀元前8000年頃に、この地域に初めて入植したものが誰だったのか、それはシュメル人だったのか、などの問題には未だに不明な点が多く、一括して「シュメル人問題」と呼ばれている。 このようにウルク期以前のこの地方の動静には謎が多いが、その中で、小規模の農業をもつ組織化されたウバイド文化は、この地域において現在確認されている最古の文化層である。ウバイドは、ウル市から西6キロメートルに位置する遺跡名である。ウバイド文化は、ザグロス高原北西部付近に文化的根拠地をもち、ウバイド人(セム語系?)が主体となった。ウバイド人の民族系統は不明で、シュメル人が短頭であるのに対してウバイド人は長頭であり、地名などの文字の綴りがシュメル語では説明不可能なものあることから、シュメル人ではないだろうと考えられている。彼らは紀元前5千年紀にはシュメル地方に存在していたと思われる。彼らはウバイド文化中期には灌漑農法を考案し、これまでの天水農法とは比較にならないほどの農業能率と農業収益を実現した。これによって、ウバイド文化は他の文化を圧倒し、西アジア全域に影響を与えた。
シュメル都市文明の成立
ウバイド期に続く次の時期をウルク期(BC3500~3100)と呼び、この時期は都市文明の開始期である。都市文明の担い手はシュメル人だった。ウルク文化期後期には支配階級や専門職人や商人が現れ、ウバイド文化期には認められなかった円筒印章やプラノ・コンヴェクス煉瓦が登場した。紀元前3200年頃に世界最古の文字は、このウルクで絵文字として生まれた。これをウルク古拙文字と呼ぶ。楔形文字に整理され完全な文字体系になったのは紀元前2500年頃である。 ウルク期につづくジェムデト・ナスル期(BC3100~2900)にウルクの市域は最大に達し、ジェムデト・ナスル文化はペルシャ湾岸まで達した。 ジェムデト・ナスル期のあとが初期王朝時代であり、ウル、ラガシュ、ウルクのような多くのシュメル都市国家が成立し、王朝が成立した。都市王朝時代後期にはシュメル地方の覇権をめぐって都市国家間の合従連衡の動きが活発になった。このうちウルクが優勢な地位を占め、ウルクの王、エンシャクシュアンナが「国土の王」を初めて名乗り、のちにウルクの王ルガルザゲシがシュメル地方を統一した。
アッカド王朝の成立
アッカドとは、本来バビロニアの北にある都市の名称だが、シュメル語と異なるセム系言語であるアッカド語を話す人々をアッカドと呼んだ。アッカドの王サルゴンは当時では特殊であった常備軍を有することでシュメルに対する軍事的優位性を確保し、シュメル統一後のガルザゲシを破り、シュメル地方とアッカド地方からなるメソポタミアの統一を果たした。アッカド王朝の第4代の王、ナラム・シンは新たな王号として「四方世界の王」を採用し、シリア、アナトリアへ積極的に軍事遠征を行った。このときアッカド王朝の版図は最大になった。彼のあとシャル・カリ・シャリの時代には比較的安定した支配を維持し得たが、その後には「誰が王で、誰が王でなかったか」と称される無政府状態に陥った。この混乱期にアッカド王朝の支配力は弱体化し、被支配下にあったシュメル諸都市国家が離反、割拠した。また、マルトゥ、エラム、グティなどの異民族の侵入にもさらされた。この混乱をおさめたのがウルクの王であったウトゥへガルである。さらにウトゥへガル配下の将軍であったウルナンムがウル第3王朝を創始した。アッカド王朝以降、アッカドの文化はオリエント全域に影響を与え、アッカド語はこの地域の共通語として使用されるようになった。
ウル第3王朝
ウル第3王朝はシュメル人によって建国された最後の王朝である。政治的には中央集権制度を整備した。初代ウルナンム王、あるいは2代目シュルギ王の時代には、世界最古の法典である「ウルナンム法典」が記された。この法典は後に遊牧民系民族であるアモリ人の国家で制定された「ハムラビ法典」とは異なり、「同害復讐法」を採用していないのが特徴である。ウル第3王朝は、マルトゥ、エラム、グティなどの異民族の侵入によって弱体化し、支配下の諸都市が離反、最終的には東方のエラムによるウル市占領によってシュメル人国家は滅亡した。
行政
シュメール人はさまざまな都市国家に居住し、それぞれジッグラトと呼ばれる神殿の周囲に集住していた。彼らは神がそれぞれの都市を所有すると信じていた。主だった大きな都市は、エリドゥ・キシュ・ウルク・ウルなどである。王たちは、軍隊や商業を支配し、都市を統治した。 初期王朝時代からウル第3王朝までの期間は、王権が拡大され、都市国家が領域国家、さらに統一国家へと発展する時期でもある。初期王朝時代には都市の王たちは、それぞれの都市の習慣に従って、「エン」「ルガル」「エンシ」などの称号を用いていた。初期王朝末期になりエンシャクシュアンナが初めて「国土の王」という称号を使用する。これは、王権が都市国家の限定された地区にとどまらず、より広い領域に及んでいることを表したものである。さらにアッカド王朝第4代ナラム・シン王が「四方世界の王」の称号を用いたことは、メソポタミア地域にかかわらず、周辺諸国をも支配下におさめた統一国家を形成したことの指標であると考えられる。
農業と狩猟
シュメール人は、大麦・ヒヨコマメ・ヒラマメ・雑穀・ナツメヤシ・タマネギ・ニンニク・レタス・ニラ・辛子を栽培した。さらに彼らは、ウシ・ヒツジ・ヤギ・ブタを飼育した。 また、主要な役畜として雄牛を、主要な輸送用動物としてロバを使役した。シュメール人は魚や家禽を狩った。
シュメール人の農業は、灌漑にかなり依存した。灌漑は、羽根つるべ・運河・水路・堤防・堰・貯蔵庫を使って行われた。運河には、たびたびの修復作業と沈泥の除去が要求された。政府は個人に運河で働くことを求めたが、富裕な者は免除されることができた。
農民は、運河を使うことによって、彼らの畑を水で満たし、さらに排水した。次に、農民は雄牛に地面を踏みつけさせ、雑草を枯れさせた。その後で、彼らはつるはしで畑を引きずった。畑土が乾いた後で、彼らは鋤ですき、馬鍬でならし、熊手で掻き、根掘り鍬で土を砕いた。乾燥した秋には、刈り取る者・束ねる者・束を整理する者の3人1チームで収穫した。
農民は、穀物の上部を茎から分離するために脱穀用車を用い、穀粒を引き離すために脱穀用のそりを用いた。穀物と殻はふるいわけられた。
建築
シュメール人は、控え壁(補強壁の一種)・イーワーン・半円柱・粘土釘などを用いた。
美術と工芸
シュメールの陶工は、陶器を杉油の油絵で飾り立てた。陶工は、陶器を焼くために必要な火を起こすために弓ぎりを用いた。石細工や宝石細工には、象牙・金・銀・方鉛鉱が使われた。
文化
シュメールでは、女性は他の文明よりも高い地位を達成したが、文化は主として男性により支配され続けた。史家アラン・I・マーカス曰く「シュメール人は、個人の人生においてやや厳しい展望を持っていた」。
あるシュメール人は次のように書いている。「私は、涙、悲嘆、激痛、憂鬱とともにある。苦痛が私を圧倒する。邪悪な運命が私を捕らえ、私の人生を取り払う。悪性の病気が私を侵す」
別のシュメール人はこう書いている。「なぜ、私が無作法な者として数えられるのか? 食べ物はすべてあるのに、私の食べ物は飢餓だ。分け前が割り当てられた日に、私に割り当てられた分け前が損失をこうむったのだ」
経済
シュメール人は、奴隷を使役した。女性の奴隷は、織物・圧搾・製粉・運搬などで働いた。
石材・銀・銅・木材が、インドやアフリカから来た。ラクダの隊商が、雄牛に引かれた荷車やそりとともに、品物をシュメールへと運んで来た。
医術
シュメール人は、尿・酸化カルシウム・灰・塩から硝石を生産した。彼らは、ミルク・ヘビの皮・カメの甲羅・カシア桂皮・ギンバイカ・タイム・ヤナギ・イチジク・洋ナシ・モミ・ナツメヤシなどを組み合わせた。彼らは、これらとワインを混ぜ合わせて、その生成物を軟膏として塗った。あるいはビールと混ぜ合わせて、口から服用した。
シュメール人は、病気を魔物の征服とし、体内に罠を仕掛けられるようになると説明した。薬は、身体内に継続的に住むことが不快であることを、魔物に納得させることを目標とした。彼らはしばしば病人のそばに子羊を置き、そこに魔物を誘い込んで屠殺することを期待した。利用可能な子羊でうまくいかなかったときは、彫像を使ったかもしれない。万一、魔物が彫像へ入り込めば、彼らは像を瀝青で覆うこともした。
軍事
城壁は、シュメールの都市を防御した。シュメール人は、彼らの都市間の包囲戦に従事した。日干しれんがの壁は、れんがを引きずり出す時間的余裕のある敵を防ぎきれなかった。
シュメール人の軍隊は、ほとんどが歩兵で構成されていた。そのうち軽装歩兵は、戦斧・短剣・槍を運搬した。正規の歩兵は、さらに銅製の兜・フェルト製の外套・革製のキルトなどを着用した。シュメールの軍隊は、古代ギリシャ同様の重装歩兵を主力とし、都市防衛に適したファランクスを編成していたことで知られる。
シュメール人は戦車を発明し、オナガー(ロバの一種)を牽引に利用した。彼らの初期の戦車は、後世の設計の物に比べて、戦闘時においてあまり有効に機能しなかった。幾人かが示唆するところによれば、搭乗員は戦斧や槍を運び、戦車はおもに輸送手段として役だった。シュメール人の戦車は、二人の搭乗員が乗り込んだ四輪の装置で、4頭のオナガーを牽引に利用していた。台車は、一つの織られた籠と頑丈な三片設計の車輪から構成されていた。
シュメール人は、投石器や単純な弓を使用した(後世に、人類は合成の弓を発明する)。
宗教
シュメールの神殿は、中央の本殿と一方の側に沿った側廊から成っていた。側廊は、神官の部屋の側面に立っていたであろう。一つの端には、演壇、および動物や野菜を生贄に捧げる日干しれんがのテーブルがあったであろう。穀物倉や倉庫は通常は神殿の近くにあったろう。後にシュメール人は、人工的な多層段丘「ジッグラト」の頂上に神殿を置き始めた。
シュメール人の宗教は、現代宗教の多くにとって、インスピレーションの根拠・源であると考えられる。シュメール人は、地母神であるナンム、愛の女神であるイナンナまたはイシュタル、風神であるエンリル、雷神であるマルドゥクなどを崇拝した。
シュメール人が崇拝するディンギル、すなわち神々は、それぞれ異なる都市からの関連を持っていた。神々の信仰的重要性は、関連する諸都市の政治的権力に伴って、しばしば増大したり減少したりした。言い伝えによれば、ディンギル(神)たちは、彼らに奉仕させる目的で、粘土から人間を創造した。ディンギルたちは、しばしば彼らの怒りや欲求不満を地震によって表現した。シュメール人の宗教の要点が強調しているのは、人間性のすべては神々のなすがままにあるということである。
シュメール人は、宇宙がスズ製のドームに囲まれた平らな円盤から構成されると信じていた。シュメール人の「来世」は、悲惨な生活で永遠に過ごすためのひどい地獄へ降下することを含んでいた。
技術
シュメール人の技術には、のこぎり・革・のみ・ハンマー(つち)・留め金・刃・釘・留針・宝石の指輪・鍬・斧・ナイフ・槍・矢・剣・にかわ・短剣・水袋・バッグ・馬具・ボート・甲冑・矢筒・さや・ブーツ・サンダル・もりなどが含まれていた。
チグリス・ユーフラテス両河の平原には、鉱物や樹木が不足していた。シュメールの構造物は、平らまたは凸の日干しれんがから成っていて、モルタルあるいはセメントで固定されてはいなかった。平凸のれんがは(丸みを帯びて)多少不安定に振舞うため、シュメール人のれんが工は、れんがの列を残りの列に対して垂直に置くだろう。彼らは、その隙間を瀝青・穀物の茎・沼地のアシ・雑草などで埋めるだろう。
シュメール人は、三つの主要なボートの型を持っていた。
- 革製のボートは、アシや動物の皮膚から成っていた。
- 帆掛け舟は、瀝青で防水をした特徴がある。
- 木製オールの付いた船は、ときには近くの岸を歩く人や動物によって上流に引かれた。
没落
地方の諸国家が強さを増すとともに、シュメール人はメソポタミアの多くの部分で政治的な覇権を失い始めた。アモリ人がシュメールを征服してバビロンを建設した。紀元前2000年頃、バビロニア人が南部を支配する間に、アルメニアのフルリ人がミタンニ帝国を打ち立てた。両者とも、古代エジプトとヒッタイトに対抗して自らを守った。ヒッタイトはミタンニを破ったが、バビロニア人によって撃退された。紀元前1460年頃、カッシート人がバビロニア人を破った。紀元前1150年頃、エラム人がカッシートを打ち負かした。
遺産
シュメール人は、おそらく彼らの多くの発明のために思い起こされるであろう。多くの権威者が、車輪や陶工ろくろの発明を彼らに帰す。彼らの楔形文字は、私たちが証拠を持っている最古の文字体系であり、古代エジプトのヒエログリフより少なくとも50年は早い。彼らは、最初の公式な天文学者であった。彼らは戦車を発明し、ひょっとしたら軍の隊形を発明したかも知れない。おそらく重要なことには、シュメール人は最初に植物と動物の両方を育てていたと、多くの学者が信じている。前者の場合は、突然変異の草を系統的に栽培・収穫することであり、一粒小麦や二粒小麦として今日知られている。後者の場合は、原種のヒツジ(ムフロンに似る)やウシ(ヨーロッパヤギュウ)をお産させて飼育することである。これらの発明や革新は、容易にシュメール人を先史や歴史の中で最も創造的な文化に位置付けるものである。
おもなシュメールの都市国家
関連項目
脚注
出典
- ↑ 小林登志子 『シュメル---人類最古の文明』 中公新書、2005年、viii頁。ISBN 4-12-101818-4
外部へのリンク
- The History of the Ancient Near East
- Sumerian texts with partial translations