関光彦
関 光彦(せき てるひこ、1973年1月30日 -2017年12月19日 )は、市川一家4人殺人事件の犯人である。
生い立ち
関光彦は1973年1月30日に生まれた。
祖父は戦後、一代で鰻屋チェーン店「関昇商店」のオーナーとなった成功者であったが、その愛娘と駆け落ち同然に結婚した男は、絵に書いたようなろくでなしであった。光彦が生まれたため祖父も二人の仲を許さざるを得なかったのだが、飲む・打つ・買うの悪癖を備えた男の所業のせいで結婚生活はじきに破綻した。
光彦は幼い頃から、父に殴られ、蹴られる母の姿をみて育った。父は光彦をもしばしば折檻した。折檻された光彦は家を飛び出し、そのたび祖父のもとへ逃げ込んだ。祖父は光彦には甘かったのである。彼が9歳になったとき、家庭は決定的に崩壊した。父の借金が億を超えたのだった。この返済のため、祖父は血の滲むような思いをして一代で築き上げた資産のほとんどすべてを失わなければならなかった。祖父もさすがにもう彼ら一家の面倒はみきれず、縁を切ると言い渡した。両親は離婚し、頼みの祖父にも絶縁を宣告された光彦は、すべてに見放されたような気がしたという。
一転して極貧生活へ落ちた光彦は、転校先でもいじめられ、次第に鬱屈していった。だが中学へ上がる頃には祖父の態度も軟化しており、ふたたび母親と祖父は親子関係を修復した。光彦は所属した少年野球のチームではエースの4番となり、恵まれた体格と腕力で他を圧倒した。しかし、一度ねじれた性質はもうもとへは戻らなかった。父親の性格を強く引き継いでいた、とも言えるだろう。学校では真面目な生徒を演じていたが、放課後ともなれば窃盗と飲酒にふけり、母親と弟を殴った。高校へは進学したものの、2年生の5月で自主退学。
しばらくは祖父の鰻屋で働くが、暴力癖はおさまらずむしろ悪化していく一方であった。結局、鰻屋は「きついばかりでちっとも面白くない」と言って半年足らずでやめ、その後は夜の街でのバイトを転々として暮らすようになる。しかし遊ぶ金はいくらあっても足りない。祖父の店へ侵入し、売上金の120万を盗み、その1ヶ月後、また6万円を盗んだ。これを咎められ、光彦は祖父の顔面を蹴った。足の親指が左目に突き刺さり、眼球破裂で祖父は片目を失明した。
18歳の時(平成3年3月)千葉県船橋市内で一人暮らしを始める。同年10月25日、市川市内のフィリピンパブでホステスをしていたエリザベスという女性とフィリピンで結婚するが、彼女は3ヶ月足らずで母国へ帰ってしまった。不満を溜め込んだ関はフィリピンパブで働く女性を店には無断で連れ出し、アパートへ無理に泊めた。これに怒った経営者がヤクザに依頼し、関は200万円の慰謝料を請求される。
市川一家4人殺人事件
市川一家4人殺人事件は、1992年3月5日に千葉県市川市で発生した当時19歳の関光彦による殺人事件である。
元々の事件の発端は、2月6日、光彦が市川市のフィリピンパブの顔なじみのホステスを連れ出し、自宅に2日間監禁したことに始まる。翌々日の8日、2人のホステスは泣きながら店に戻り、光彦に監禁されたことを経営者に報告する。怒ったパブの経営者は、知り合いのヤクザに光彦の落とし前をつけてくれるように頼んだ。この日から光彦はヤクザに追われることとなる。
11日、光彦はイライラしての行動か、東京都中野区の路上を歩いていた24歳の女性を襲い、鼻の骨を折るなどの怪我を追わせ、車に連れ込んで自宅に監禁し、強姦する。そしてその翌日の12日。後に自分の家族4人を惨殺されてしまう、柳沢功二さんの長女(15歳)はこの日、関光彦に出会ってしまう。
光彦は買い物帰りの少女の自転車にわざと車をぶつけ、車で病院に連れて行った後、自宅に送ってあげるふりをして自分の家に少女を連れ込み、監禁して強姦した。その際、少女の生徒手帳から名前と住所を書き写し、誰にもしゃべるな、と脅しをかけた。くしくもこの日の夜、光彦は暴力団組長から呼び出しをくらい、先の、ホステスを監禁した件で売上損失分と慰謝料として200万円払うように強制された。もちろん断ることも出来ないし、そのような金を持っているはずもない。
月は変わって3月5日。連日ヤクザに激しい追い込みをかけられていた光彦は、すでに家に帰ることも出来なくなっていた。ここで光彦は、先日住所を書き留めておいた少女の家に押し入り、金を強奪することを思いつく。
平成4年3月5日午後5時ごろ。光彦はその柳沢功二さん一家が住むマンション「行徳南スカイハイツC棟」8階に押し入る。その時マンションにいたのは少女の祖母・柳沢順子さん(83)一人だけであった。光彦は通帳を出すように迫ったが、拒否されたため祖母の首を電気コードで絞めて殺害した。光彦はそのままマンションに居座り、他の家族が帰って来るのを待った。そして約2時間後、少女(15)と母親・照夜さん(36)が一緒に帰ってきた。
包丁をつきつけ「騒ぐと殺す」と脅し、母・照夜さんの首を後ろからつかみ、「黙ってうつぶせになれ」とうつぶせを強要。照夜さんが背中を見せたところを容赦なく包丁でメッタ刺しにして殺害した。光彦は床に流れた血を少女に掃除するように命じる。恐怖で凍りつきながら少女は黙々と掃除を行った。間もなく4歳の妹・宇海ちゃんが保母さんに連れられて帰ってきた。光彦はこの時点で2人殺しておきながら、少女に命じて食事を作らせ、光彦と少女と宇海ちゃんの3人で夕食を食べた。
間もなく宇海ちゃんは「おばあちゃんが寝てるから私も、もう寝る。」と言っておばあちゃんの部屋に入った。宇海ちゃんは、おばあちゃんが殺されているとも気づかず、遺体のそばで眠りについた。通帳と印鑑の場所は父親しか分からない。光彦は父親の功二さんが帰ってくるのを待つ間、少女に襲いかかり、強姦を始めた。
間もなくして父親の功二さん(42)が帰ってきた。いつもより早い帰宅だった。強姦の途中ではあったが、光彦は包丁を持って功二さんを待ち伏せ、いきなり左肩の辺りに包丁を突き刺した。悲鳴を上げて功二さんが床に倒れる。
「現金でも通帳でもいいから200万出せ!」
倒れた功二さんを足蹴にしながら光彦が叫ぶ。功二さんは家族を守るため、通帳と印鑑の入った引き出しを教えた。口座に入っていたのは、銀行と郵便局を合わせて約360万。
「もっとあるだろう!」欲にまみれた光彦は更に上を要求した。
「(会社の)事務所に通帳と印鑑がある・・。」重症を負いながらも功二さんは答えた。
「取りに行くぞ! 親父の会社に電話しろ!」
もはや抵抗する気力の失せていた少女は、言われるままに功二さんの勤務先である編集プロダクションに電話し、これから通帳を取りに行くことを告げた。会社に着くと功二さんの同僚たちが心配そうに事情を聞いてきたが、喋っては家に残っている功二さんと宇海ちゃんが殺されると思い、
「ヤクザがお父さんの記事が悪いと言ってお金を取りに来てるんです。通帳と印鑑があれば何とかなるからって・・。」とだけ言い、光彦のことは喋らなかった。
「大丈夫?」と聞かれたが「大丈夫です。」と答え、通帳と印鑑を受け取って会社を出た。
しかし少女が家に帰ってみると、無情にも功二さんはすでに殺されていた。一足先に帰った光彦がとどめを刺していたのだ。朝になり、少女の家の電話が鳴った。昨日行った事務所の人が心配して電話をかけてきてくれたのだ。電話にはいったん出たものの、光彦に強引に切られてしまった。
「余計なこと話すんじゃねえ!」と、少女を怒鳴る。
怖がった妹の宇海ちゃんが泣き始めた。
「うるせえ!黙れ!」光彦は、泣いている宇海ちゃんに腹を立て、身体をつかんで背中から包丁を突き刺した。包丁は胸まで貫通した。
「痛い・・痛い・・」と苦しんでいる宇海ちゃんに対して、光彦は少女に「お前がとどめを刺してやれ!」と命令する。しかし少女が硬直して動けないでいたため、光彦が首を絞めて殺した。
妹まで殺されて、少女はここで初めて光彦に抵抗したが、「お前も殺されてーか!」と、逆に包丁で腕や背中を切りつけられてしまった。
「殺される・・」
そう思った瞬間、突然家のドアがバーンと開き、警官隊が突入してきた。さっきの事務所からの電話が不自然に切られたこともあって、事務所のスタッフが「様子がおかしい」と感じ、警察に通報していたのだ。現場に急行した警察官が外から様子を伺い、犯行を目撃した。そして事件と判断し、一気に室内に突入したのだ。
平成4年3月6日午前7時ごろ、ついに関光彦は現行犯で逮捕された。14時間における凶行は終わりを告げた。少女には毛布がかけられ救出されたが、祖母・順子さん、母・照夜さん、父・功二さん、妹・宇海ちゃんは惨殺された。
逮捕された後も光彦は、平成元年の綾瀬女子高生コンクリート詰め事件で誰も死刑になっていないことを引き合いに出し、「俺なんか楽勝でしょ。」などと語っていた。「未成年が死刑になるはずがない。」、「とうとう少年院行きか。」ぐらいにしか思っていなかったというが、平成6年8月、千葉地裁が下した判決は死刑であった。
裁判
関光彦
- 拘置先:東京
- 一 審:94. 8. 8 東京地裁
- 控訴審:96. 7. 2 東京高裁
- 上告審:01.12. 3 最高裁
- 事件名:市川一家四人殺害事件 92. 3. 5
1994年8月8日、千葉地方裁判所で関に死刑判決が言い渡された。関は控訴したが、1996年7月2日に東京高等裁判所は控訴を棄却。更に上告するが、2001年12月3日に最高裁判所で上告が棄却され、死刑が確定した。
過去に暴行事件や強姦事件(事件実行当日にも別の被害者への強姦事件を起こしている)を起こしていた点、逮捕されてから裁判中まで、被疑者の当時の関には事件を起こしたことに対して全く反省した態度が見られない点、少女の目の前で少女の肉親を殺害したという残虐性、警察が踏み込んだ際に少女に包丁を持たせ自分が被害者を演じた計画性などが裁判で重く見られた。
未成年者に死刑が言い渡され、刑が確定するに至ったのは、永山則夫連続射殺事件の永山則夫以来であった。
関連
関連書籍
- 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』永瀬隼介・著(角川文庫)ISBN 978-4043759019
- 『19歳の結末 一家4人惨殺事件』祝康成(永瀬隼介)・著(新潮社)ISBN 978-4104398010