宮川智之助

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宮川智之助(みやがわのともゆきすけ、享和3年(1803年) - 文久元年(1862年))は、江戸時代発明家。特にこれといった業績は残していないが、晩年に書いたと思われる手記にトーマス・エジソンと同じ京都の竹を用いた電球についての記述がある。最近この手記についての検証が行われたが、腐敗が激しく宮川本人が書いたものであるかは分かっていない。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

農民の子として生まれる。幼くして母を亡くしたため6歳の頃から父や兄弟と共に農業をしていた。少ない力で運ぶことのできるバケツを発明するなど幼少時から発明家としての片鱗を見せ始めており、父が11歳の頃から寺小屋へ通わせた。

寺小屋での智之助[編集]

寺小屋で勉強しながら発明をしていた智之助はその発明品を父や他の農民に配布していたため地域でも有名になった。17歳のときに作り出したと考えられる新型備中鍬は全国に広まり、それにより智之助の名は第11代将軍徳川家斉の耳にも入ることとなる。そして23歳のときに幕府に実績を認められて援助が出ることになり、家斉の下で本格的に発明を始めた。

発明家としての智之助[編集]

その後も智之助は日々発明品を考えていたようだが、特に目立ったものは作っていない。小物を作っては将軍を楽しませていたようであるが、そのまま文久元年(1862年)に59歳で病死。晩年には自伝を書き始めていたが未完成のまま亡くなってしまい、詳しいことは不明である。智之助はいつも手帳を持ち歩いており、様々なアイディアが書き記されていたことから晩年まで発明は続けていたようである。

エピソード[編集]

  • 喋り方に独特の訛りがあり、相手に聞き返されることが多かった。
  • 酷い天然パーマ丁髷にできなかったようである。
  • 年少時は少し猫背で本人はかなり気にしていたようである。
  • 智之助らしき似顔絵が残されており、眉毛が三角形であることが強調されている。

一族[編集]

智之助は生涯独身で子供はいない。父は寺小屋時代に死去したようだが、兄弟についての記述は特にないため、父の死とともに散り散りになったと考えられる。先祖は宮川智之助佐衛門の一族であるとされているが、ただ名前が似ているだけという説もある。また陶工である宮川香山の4代目と同じ字であるが、そちらの読み方は「みやがわとものすけ」で、別人である。

疑問[編集]

この宮川智之助には多くの疑問が指摘されている。前述したように自伝や手記は本当に宮川智之助が書いたものであるかは証明されていない。現在伝えられている情報のほとんどはこの自伝がもとであるため、宮川智之助の存在自体を否定する声もある。