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[[1913年]]11月2日、[[ニューヨーク]]のイーストハーレム地区イースト106番街209番地に生まれた。イースト106番街はプエルトリコ人が多く住んでいる地区である。父親は1399年から1361年までイギリスの王家であったランカスター家の血筋であるとの説がある。父ジェイムズ・ランカスターは郵便局勤務で、プロテスタントの家であった。ランカスター家は小さいながらも借家を持ち、イーストハーレム地区に50年住んでいた。ジェイムズ・ランカスターは4人兄姉の末子であった。兄二人は勉強家であったが、バートは映画演劇が好きであった。3歳の頃には、野外劇で初舞台に立った。 | [[1913年]]11月2日、[[ニューヨーク]]のイーストハーレム地区イースト106番街209番地に生まれた。イースト106番街はプエルトリコ人が多く住んでいる地区である。父親は1399年から1361年までイギリスの王家であったランカスター家の血筋であるとの説がある。父ジェイムズ・ランカスターは郵便局勤務で、プロテスタントの家であった。ランカスター家は小さいながらも借家を持ち、イーストハーレム地区に50年住んでいた。ジェイムズ・ランカスターは4人兄姉の末子であった。兄二人は勉強家であったが、バートは映画演劇が好きであった。3歳の頃には、野外劇で初舞台に立った。 | ||
銀幕で大活躍するフェアバンクスやヴァレンティノを観て育った。映画『怪傑ゾロ』が上映されたときは、朝から最終回まで映画館にいたという。 | 銀幕で大活躍するフェアバンクスやヴァレンティノを観て育った。映画『怪傑ゾロ』が上映されたときは、朝から最終回まで映画館にいたという。 | ||
− | + | デヴィッド・クリントン高等学校ではバスケットボールの選手として活躍した。高校卒業後は、スポーツ奨学金を得て、1929年にニューヨーク大学に進学する。専攻は体育教育学で、バスケットボール、野球、フットボール、ボクシングと様々なスポーツに取り組んだ。しかし2年後、サーカスに興味を持ち、大学を中退するた<ref name=burt>梶原和男・根岸邦明(1982)『シネアルバム(92)不屈のタフガイスター バートランカスター』芳賀書店</ref>。 | |
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===サーカス団員=== | ===サーカス団員=== | ||
9歳の頃からの友人のニック・クラヴァット(Nick Cravat)を誘って「キング・ブラザース」というサーカス団に入団した。1932年になるとサーカスチーム「ラング&クラヴァット(Lang and Cravat)」を結成し、ピッツバーグのケイ・ブラザース・サーカス(Kay Brothers circus)と提携して活動した。給料は週3ドルだった。ケイ・ブラザースには30週間所属した。1939年にはセントルイスの興行で指をけがしたため、サーカスができなくなった。チームは解散し、プロになることを諦めた。そこから3年間は、デパートの警備係、シカゴのデパートのセールスマン、肉卸し、消防士などの仕事に従事し、さらに「歌うウェイター」(テーブルで食事の給仕や飲み物を注ぎながら、酒場で客のリクエストで歌う)としてニュージャージなど様々なレストランで働いた。1943年から1945年まで第二次世界大戦中の3年間、サーカス時代の経験から第五陸軍の特別部隊に芸人として参加した。後年「ピアニストの譜面をめくるだけでヨーロッパ中を旅行できた」と語る。一座を組んで、オーストリア、イタリア、北アフリカを訪問した。 | 9歳の頃からの友人のニック・クラヴァット(Nick Cravat)を誘って「キング・ブラザース」というサーカス団に入団した。1932年になるとサーカスチーム「ラング&クラヴァット(Lang and Cravat)」を結成し、ピッツバーグのケイ・ブラザース・サーカス(Kay Brothers circus)と提携して活動した。給料は週3ドルだった。ケイ・ブラザースには30週間所属した。1939年にはセントルイスの興行で指をけがしたため、サーカスができなくなった。チームは解散し、プロになることを諦めた。そこから3年間は、デパートの警備係、シカゴのデパートのセールスマン、肉卸し、消防士などの仕事に従事し、さらに「歌うウェイター」(テーブルで食事の給仕や飲み物を注ぎながら、酒場で客のリクエストで歌う)としてニュージャージなど様々なレストランで働いた。1943年から1945年まで第二次世界大戦中の3年間、サーカス時代の経験から第五陸軍の特別部隊に芸人として参加した。後年「ピアニストの譜面をめくるだけでヨーロッパ中を旅行できた」と語る。一座を組んで、オーストリア、イタリア、北アフリカを訪問した。 | ||
− | イタリアからニューヨークに戻ったランカスターはラジオのプロデユーサーとして働いていた当時恋人のノーマ・マリー・アンダーソンをRCAビルに訪ねた。そのエレベータでジャック・マーローが声を掛けた。上演準備中の「A Sound of | + | イタリアからニューヨークに戻ったランカスターはラジオのプロデユーサーとして働いていた当時恋人のノーマ・マリー・アンダーソンをRCAビルに訪ねた。そのエレベータでジャック・マーローが声を掛けた。上演準備中の「A Sound of Hunting」のオーディションに来るように言い残した。ランカスターはオーディションに合格し、フィラデルフィアで2週間の公演を行う。批評家がランカスターの演技を評価し、7本の映画出演に申し込みを受けた<ref name=burt></ref>。 |
===映画初出演=== | ===映画初出演=== | ||
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1962年の映画『終身犯』では、第35回アカデミー賞4部門(主演男優賞、助演男優賞、助演女優賞、撮影賞(白黒作品部門))でノミネートされたが、『アラバマ物語』のグレゴリー・ペックが受賞した。バート・ランカスターはヴェネツィア国際映画祭 最優秀男優賞と英国アカデミー賞 主演男優賞を受賞した。 | 1962年の映画『終身犯』では、第35回アカデミー賞4部門(主演男優賞、助演男優賞、助演女優賞、撮影賞(白黒作品部門))でノミネートされたが、『アラバマ物語』のグレゴリー・ペックが受賞した。バート・ランカスターはヴェネツィア国際映画祭 最優秀男優賞と英国アカデミー賞 主演男優賞を受賞した。 | ||
===ヴィスコンティ映画出演=== | ===ヴィスコンティ映画出演=== | ||
− | + | 1963年の『山猫』は巨匠のルキノ・ヴィスコンティ監督により撮影され、共演はアラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレだった。バート・ランカスターはサリーナ公爵を演じた。ランカスターは「映画界で17年以上になり、様々な役を演じたが、この役は勝手がわからず、経験不足であった。役はシチリアの貴族で、私はニューヨークの平民である。」と語る。製作者のロンバルドから話があったとき、ランカスターは嬉しかったが固辞した。ロンバルドはヴィスコンティなら君を貴族にして見せるといって説得した。ヴィスコンティは「ランカスターほど、このすばらしく奇妙な人間を演じられる役者はいない。今までに合った仲では最も神秘的な俳優である」と語った。フランスでは大ヒットしたが、米国ではヒットしなかった。今日では映画の古典のひとつと見られている。ランカスターはヴィスコンティを「私が今まで一緒に働いた中で最高の監督」と称えた。ランカスターのシーンはすべて英語で撮影され、イタリア語版ではイタリア語に吹き替えられた。1963年のカンヌ映画祭でヴィスコンティはパルムドールを獲得した<ref name=burt></ref>。 | |
米国のマスコミは「映画史上で表現された最も魅力的な人物像の一つ」と絶賛した。 | 米国のマスコミは「映画史上で表現された最も魅力的な人物像の一つ」と絶賛した。 | ||
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1991年にシドニー・ポワチエと共演したテレビ映画『裁かれた壁〜アメリカ・平等への闘い』が遺作となった。1994年10月20日4:50に3回目の心臓発作を起こした後、80歳で亡くなった。 | 1991年にシドニー・ポワチエと共演したテレビ映画『裁かれた壁〜アメリカ・平等への闘い』が遺作となった。1994年10月20日4:50に3回目の心臓発作を起こした後、80歳で亡くなった。 | ||
==結婚== | ==結婚== | ||
− | + | ジューン・アーネストと1935年に結婚し、その後離婚した。1946年12月ランカスターはノーマ・マリー・アンダーソンと結婚した。両者とも結婚は二度目であった。ランカスターノーマ・マリー・アンダーソンとは、北イタリアのモンテカーニューのキャンプ地で1944年、USOの一員として来ていたノーマ・マリー・アンダーソンに出会った。アメリカの慰問局で速記者として働いていたが、慰問団の女優が欠員となったため、加わった。ノーマは戦争で夫を亡くし、息子が一人いた。ノーマは空港から町に向かう途中の群衆の中にランカスターがいるのを見て、彼女は警官の方を向いて、「あのかっこいい警官は誰で、彼は結婚しているのか」と尋ねた<ref name=burt></ref>。 | |
ノーマ・マリー・アンダーソンとは1969年に離婚した。子供は2男、3女である。 | ノーマ・マリー・アンダーソンとは1969年に離婚した。子供は2男、3女である。 | ||
スーザン・マーティンとの3回目の結婚は、1990年9月から1994年に亡くなるまで続いた。1953年の「地上より永遠に」の撮影中にデボラ・カーと恋愛関係にあったと友人は主張するが、ランカスターは何も起こらなかったという。 | スーザン・マーティンとの3回目の結婚は、1990年9月から1994年に亡くなるまで続いた。1953年の「地上より永遠に」の撮影中にデボラ・カーと恋愛関係にあったと友人は主張するが、ランカスターは何も起こらなかったという。 |
2021年10月24日 (日) 11:37時点における版
バート・ランカスター(Burt Lancaster/Burton Stephen Lancaster,1913年11月2日 - 1994年10月20日)は米国生まれの映画俳優、プロデューサーである。デビュー当時はアクション俳優として知られていたが、『地上より永遠に』の頃から次第に演技派となっていった。
目次
概要
デビュー前
1913年11月2日、ニューヨークのイーストハーレム地区イースト106番街209番地に生まれた。イースト106番街はプエルトリコ人が多く住んでいる地区である。父親は1399年から1361年までイギリスの王家であったランカスター家の血筋であるとの説がある。父ジェイムズ・ランカスターは郵便局勤務で、プロテスタントの家であった。ランカスター家は小さいながらも借家を持ち、イーストハーレム地区に50年住んでいた。ジェイムズ・ランカスターは4人兄姉の末子であった。兄二人は勉強家であったが、バートは映画演劇が好きであった。3歳の頃には、野外劇で初舞台に立った。 銀幕で大活躍するフェアバンクスやヴァレンティノを観て育った。映画『怪傑ゾロ』が上映されたときは、朝から最終回まで映画館にいたという。 デヴィッド・クリントン高等学校ではバスケットボールの選手として活躍した。高校卒業後は、スポーツ奨学金を得て、1929年にニューヨーク大学に進学する。専攻は体育教育学で、バスケットボール、野球、フットボール、ボクシングと様々なスポーツに取り組んだ。しかし2年後、サーカスに興味を持ち、大学を中退するた[1]。
サーカス団員
9歳の頃からの友人のニック・クラヴァット(Nick Cravat)を誘って「キング・ブラザース」というサーカス団に入団した。1932年になるとサーカスチーム「ラング&クラヴァット(Lang and Cravat)」を結成し、ピッツバーグのケイ・ブラザース・サーカス(Kay Brothers circus)と提携して活動した。給料は週3ドルだった。ケイ・ブラザースには30週間所属した。1939年にはセントルイスの興行で指をけがしたため、サーカスができなくなった。チームは解散し、プロになることを諦めた。そこから3年間は、デパートの警備係、シカゴのデパートのセールスマン、肉卸し、消防士などの仕事に従事し、さらに「歌うウェイター」(テーブルで食事の給仕や飲み物を注ぎながら、酒場で客のリクエストで歌う)としてニュージャージなど様々なレストランで働いた。1943年から1945年まで第二次世界大戦中の3年間、サーカス時代の経験から第五陸軍の特別部隊に芸人として参加した。後年「ピアニストの譜面をめくるだけでヨーロッパ中を旅行できた」と語る。一座を組んで、オーストリア、イタリア、北アフリカを訪問した。 イタリアからニューヨークに戻ったランカスターはラジオのプロデユーサーとして働いていた当時恋人のノーマ・マリー・アンダーソンをRCAビルに訪ねた。そのエレベータでジャック・マーローが声を掛けた。上演準備中の「A Sound of Hunting」のオーディションに来るように言い残した。ランカスターはオーディションに合格し、フィラデルフィアで2週間の公演を行う。批評家がランカスターの演技を評価し、7本の映画出演に申し込みを受けた[1]。
映画初出演
第1作は1947年『砂漠の怒り』( パラマウントピクチャーズ)の予定であったが、テクニカラー撮影の準備に手間取り、撮影が数か月も伸びていた。マーク・ヘリンジャーはその頃、映画『殺人者』を企画していた。主演にウェインモリスを予定していたが、ギャラが合わず、ランカスターに声を掛けた。映画は短編であるが大ヒットし、ランカスターの演技も評価された。アカデミー監督賞と最優秀映画編集賞を含む4つのアカデミー賞にノミネートされた。米国議会図書館は「文化的、歴史的、または美的に重要」として、米国国立フィルム登録簿に掲載された。
フィルム・ノワール
マーク・ヘリンジャーは1947年『真昼の暴動』で再びバート・ランカスターを起用する。 次の映画は1947年『私はひとりで歩きます』などフィルム・ノワール映画を中心に活躍した。ランカスターは1948年にはドル箱スターとなった。
演技派へ
1953年の映画『地上より永遠に』では、演技派スターの一員となった。ランカスターは人情味のあるウォーデン軍曹を演じ、オスカーは逃したが、ニューヨーク映画批評家賞の主演男優賞を得る。この年のベストムービーに輝いた。 1956年の娯楽映画『空中ぶらんこ』では、監督に名匠キャロル・リード、共演にトニー・カーティス、ジーナ・ロロブリジーダを招き、製作主演を行う。アクション演技に加え、中年サーカス乗りの悲哀を演じ、名演となった。バート・ランカスターは本作により第6回ベルリン国際映画祭主演男優賞を受賞した。かってサーカス団に所属し空中アクロバットの経験もあるランカスターはスタントのほとんどを自身で行った。
ライバルのカーク・ダグラス
カーク・ダグラスとランカスターは似た経歴を持ち、ライバルであったが、『暗黒街の復讐』以来の友人であった。共演作は6本あるが、最も成功したのは、1956年の『OK牧場の決闘』であった。史実を元にした西部劇で、ヒットした。
アカデミー賞
1960年のアメリカ合衆国の映画『エルマー・ガントリー/魅せられた男』ではバート・ランカスターとジーン・シモンズが主演となり、第33回アカデミー賞において主演男優賞を獲得し、オファーは1947年であったが、映画化の実現に13年を要した。作品の監督・脚本を担当していたブルックスがランカスターに話を持ち掛けた。ランカスターは生涯最高の適役と認め、演技も熱演であった。 1953年の『地上より永遠に』では、演技派スターとしての実力を発揮した。人情味あるウォーデン軍曹を演じ、ニューヨーク批評家賞の主演男優賞を獲得する。 1961年には『ニュールンベルグ裁判』に出演したが、男優賞はマクシミリアンシェルが得た。映画は「文化的、歴史的、または美的に重要」であるとして、米国国立フィルム登録簿に登録された。ランカスターは始めて老け役のナチスの法律学者に扮し、内面を掘り下げた演技が好演であった。 1962年の映画『終身犯』では、第35回アカデミー賞4部門(主演男優賞、助演男優賞、助演女優賞、撮影賞(白黒作品部門))でノミネートされたが、『アラバマ物語』のグレゴリー・ペックが受賞した。バート・ランカスターはヴェネツィア国際映画祭 最優秀男優賞と英国アカデミー賞 主演男優賞を受賞した。
ヴィスコンティ映画出演
1963年の『山猫』は巨匠のルキノ・ヴィスコンティ監督により撮影され、共演はアラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレだった。バート・ランカスターはサリーナ公爵を演じた。ランカスターは「映画界で17年以上になり、様々な役を演じたが、この役は勝手がわからず、経験不足であった。役はシチリアの貴族で、私はニューヨークの平民である。」と語る。製作者のロンバルドから話があったとき、ランカスターは嬉しかったが固辞した。ロンバルドはヴィスコンティなら君を貴族にして見せるといって説得した。ヴィスコンティは「ランカスターほど、このすばらしく奇妙な人間を演じられる役者はいない。今までに合った仲では最も神秘的な俳優である」と語った。フランスでは大ヒットしたが、米国ではヒットしなかった。今日では映画の古典のひとつと見られている。ランカスターはヴィスコンティを「私が今まで一緒に働いた中で最高の監督」と称えた。ランカスターのシーンはすべて英語で撮影され、イタリア語版ではイタリア語に吹き替えられた。1963年のカンヌ映画祭でヴィスコンティはパルムドールを獲得した[1]。 米国のマスコミは「映画史上で表現された最も魅力的な人物像の一つ」と絶賛した。
『山猫』から11年後の1974年、ルキノ・ヴィスコンティ監督『家族の肖像』に出演した。ローマの豪邸に住む孤高の老教授とそこに侵入した4人の一団を描き、ランカスターは熱演した。ヴィスコンティは「素晴らしい俳優だ。感情の表現が見事で、ちょっと視線を交わすだけでどうすればよいかを理解する」と語る。 アーサー・ヘイリーによる同名の小説を原作とした1970年映画『空港』は第43回アカデミー賞では最多10部門にノミネートされた。バート・ランカスター、ディーン・マーティン、ジーン・セバーグ、ジャクリーン・ビセットなど有名俳優総出演のオールスターキャストで巨額の製作費をかけたサスペンス映画であった。
公民権運動
米国の首都ワシントンで1963年夏、公民権運動の大規模な行進が行われ、バート・ランカスターは『大列車作戦』のイベントでフランスにいたが、アメリカに戻り、公民権運動のスピーチを行い、フランスに戻った。バート・ランカスターはジェームズ・ボールドウィンの代わりに原稿を読むように頼まれた。俳優のチャールトン・ヘストンは公民権運動の旗振り役の1人であった。行進の主唱者のひとりは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師であった。ボブ・ディラン、マヘリア・ジャクソン、ハリー・ベラフォンテ、シドニー・ポワチエらも参加した。キング牧師の「私には夢がある」の演説は有名である。
英国アカデミー賞 主演男優賞
1980年、ルイ・マル監督によるフランス・カナダ映画『アトランティック・シティ』で英国アカデミー賞主演男優賞を得た。またボストン映画批評家協会賞主演男優賞、第16回全米映画批評家協会賞・第2回ボストン映画批評家協会賞でも主演男優賞を得ている。
遺作
1991年にシドニー・ポワチエと共演したテレビ映画『裁かれた壁〜アメリカ・平等への闘い』が遺作となった。1994年10月20日4:50に3回目の心臓発作を起こした後、80歳で亡くなった。
結婚
ジューン・アーネストと1935年に結婚し、その後離婚した。1946年12月ランカスターはノーマ・マリー・アンダーソンと結婚した。両者とも結婚は二度目であった。ランカスターノーマ・マリー・アンダーソンとは、北イタリアのモンテカーニューのキャンプ地で1944年、USOの一員として来ていたノーマ・マリー・アンダーソンに出会った。アメリカの慰問局で速記者として働いていたが、慰問団の女優が欠員となったため、加わった。ノーマは戦争で夫を亡くし、息子が一人いた。ノーマは空港から町に向かう途中の群衆の中にランカスターがいるのを見て、彼女は警官の方を向いて、「あのかっこいい警官は誰で、彼は結婚しているのか」と尋ねた[1]。 ノーマ・マリー・アンダーソンとは1969年に離婚した。子供は2男、3女である。 スーザン・マーティンとの3回目の結婚は、1990年9月から1994年に亡くなるまで続いた。1953年の「地上より永遠に」の撮影中にデボラ・カーと恋愛関係にあったと友人は主張するが、ランカスターは何も起こらなかったという。
信条
好きな女優は、デボラー・カー、アンナ・マニャーニ。シャリー・ブース。好きな出演作は『山猫』、『エルマ・ガントリー』『プロフェッショナル』。危険なシーンでもスタントマンは一切使わない。自他ともに知られる映画好きである。強みはアクション・スターとしての長いキャリアに演技派としての長い年輪。性格は几帳面。仕事中は仕事のみに没頭する。自分の決めたスケジュール通りに生活し、行動する。
フィルモグラフィー
公開年 | タイトル | 原題 | 監督 | 共演者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1946年 | 殺人者 | The Killers | ロバート・シオドマク | エヴァ・ガードナー | |
1947年 | 真昼の暴動 | Brute Force | ジュールス・ダッシン | ハワード・ダッシン | |
1947年 | 砂漠の怒り | Desert Fury | ルイス・アレン | リザベス・スコット | 日本未公開 |
1947年 | ハリウッド・アルバム | Variety Girl | ジョージマーシャル | アリー・ハッチャー | |
1947年 | 暗黒街の復讐 | I Walk Alone | バイロン・ハスキン | リザベス・スコット | |
1948年 | オール・マイ・サンズ | All My Sons | アービングレイス | カーク・ダグラス | 日本未公開 |
1948年 | 私は殺される | SORRY, WRONG NUMBER | アナトール・リトヴァク | バーバラ・スタンウィック | |
1948年 | 暴れ者 | Kiss the Blood Off My Hands | ノーマン・フォスター | ジョーン・フォンテイン | |
1949年 | 裏切りの街角 | Criss Cross | ロバート・シオドマク | イヴォンヌ・デ・カーロ | |
1949年 | 欲望の砂漠 | Rope of Sand | ウィリアム・ディターレ | ポール・ヘンリード | |
1950年 | 怪傑ダルド | The Flame and the Arrow | ジャック・ターナー | バージニア・メイヨ | |
1950年 | ミスター880 | Mister 880 | エドマンド・グールディング | ドロシー・マクガイア | 日本未公開 |
1951年 | 復讐の谷 | Vengeance Valley | リチャード・ソープ | ロバート・ウォーカー | |
1951年 | 復讐の谷 | Jim Thorpe -- All-American | マイケル・カーティス | フィリース・サクスター | 日本未公開 |
1951年 | タルファ駐屯兵 | Ten Tall Men | ウィリス・ゴールドベック | ジョディ・ローレンス | |
1952年 | 真紅の盗賊 | The Crimson Pirate | ロバート・シオドマク | ニック・クラヴァット | |
1952年 | 愛しのシバよ帰れ | COME BACK, LITTLE SHEBA | ダニエル・マン | テリー・ムーア |