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上野彦馬 - 陽一の伯父に当たる(陽一の父・幸馬の実兄)。日本における最初期の写真家であり、「日本写真の開祖」として知られる。幸馬が早くに亡くなったため、陽一は少年時代の一時期を長崎の彦馬の下で過ごした。上野彦馬<ref>[http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0306/]上野彦馬</ref>。 | 上野彦馬 - 陽一の伯父に当たる(陽一の父・幸馬の実兄)。日本における最初期の写真家であり、「日本写真の開祖」として知られる。幸馬が早くに亡くなったため、陽一は少年時代の一時期を長崎の彦馬の下で過ごした。上野彦馬<ref>[http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0306/]上野彦馬</ref>。 | ||
− | + | 上野誠治の師、上野一郎産能大学長の師である父産能短期大学創始者上野陽一<ref>[https://blog.goo.ne.jp/tomitomi111/e/fa9c93ecc946181ced163a3048189628]産能短期大学創始者上野陽一</ref>が最初に1921年(大正10年)化粧品最大手「中山太陽堂」<ref>[https://www.clubcosmetics.co.jp/pdf/history.pdf?cache=new]「中山太陽堂」</ref>の工場を能率指導した。 | |
創業者 中山太一<ref>[https://www.clubcosmetics.co.jp/history/創業者-中山太一/]創業者中山太一</ref> | 創業者 中山太一<ref>[https://www.clubcosmetics.co.jp/history/創業者-中山太一/]創業者中山太一</ref> | ||
の「中山太」と師の上野一郎の「郎」を授かる。ペンネームを中山太郎とするところを上野一郎<ref>[https://bakumatsu.org/posterities/view/170]上野一郎</ref>から中山孝太郎として授かっている。 | の「中山太」と師の上野一郎の「郎」を授かる。ペンネームを中山太郎とするところを上野一郎<ref>[https://bakumatsu.org/posterities/view/170]上野一郎</ref>から中山孝太郎として授かっている。 |
2019年12月28日 (土) 03:10時点における版
なかやま こうたろう 中山 孝太郎
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[[ファイル:|0|]] | |
本名 | 上野誠治 |
---|---|
別名 | - |
生年月日 | 1949年12月16日 |
没年月日 | 年月日 |
出生地 | 広島在住 |
死没地 | |
国籍 | |
民族 | - |
身長 | |
血液型 | |
職業 | 小説家、フリーライター |
ジャンル | 純文学 |
活動期間 | 1985年 |
活動内容 | |
配偶者 | |
家族 | |
公式サイト | |
主な作品 | |
『争点』
『藪を這う』 『気になる紐と首』 | |
受賞 | |
コスモス文学新人賞 | |
備考 | |
中山 孝太郎(なかやま こうたろう、本名:上野誠治、1949年 - )は、日本の小説家である。
来歴
広島市在住。広島県立広島国泰寺高等学校。法政大学文学部卒。文学士。安芸文学同人。[1]産能大学長上野一郎に能率経営学を教わる。
「広島西飛行場[2]存続の危機脱出変遷史」96年12月16日東洋図書出版発行。広島市教育委員会から教育用として採用され、県と市や市内の各図書館[3]へ納品。一部書店では売り上が上位になった。 1998年「第68回コスモス文学新人賞」(長崎市のコスモス文学の会主催)小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。 1998年「第68回コスモス文学新人賞」ノンフイクション部門に「揺れる灯」が佳作に選ばれ、受賞。 2001年1月31日に「脳裏を刳る映像(2)」が愛知県土地家屋調査士会の「地図読み人」に採用され、全文が掲載された。 1998年9月彩図社[4]のぶんりき賞で小説「魚うお」が雑誌に全文が掲載された。 2000年4月同文書院[5]のまとりた賞で小説「現れた情景」が雑誌に全文が掲載された。
本名「上野誠治」ペンネーム「中山孝太郎」の命名は下記の複合的要因による。
上野彦馬 - 陽一の伯父に当たる(陽一の父・幸馬の実兄)。日本における最初期の写真家であり、「日本写真の開祖」として知られる。幸馬が早くに亡くなったため、陽一は少年時代の一時期を長崎の彦馬の下で過ごした。上野彦馬[6]。 上野誠治の師、上野一郎産能大学長の師である父産能短期大学創始者上野陽一[7]が最初に1921年(大正10年)化粧品最大手「中山太陽堂」[8]の工場を能率指導した。 創業者 中山太一[9] の「中山太」と師の上野一郎の「郎」を授かる。ペンネームを中山太郎とするところを上野一郎[10]から中山孝太郎として授かっている。 また、彼自身はカメラ愛好家で、ウエノスタジオのカメラマンでもある。
後に中山孝太郎が長崎市のコスモス文学の会主催(平成10年/1998年)第68回小説部門に「憔悴した点」でコスモス文学新人賞を受賞した。
作風
往時
幾多の困難があった。そんな中、短編、中篇の純文学小説を書き続け、数多くの作品がたまるが、中々日の目を見なかったが、1998年、人間の煩悩や心の葛藤を描きぬいた僅か「1センチ4ミリ」を争う世界の作品が、やっと芽生えた。98年、第68回コスモス文学新人賞(長崎市のコスモス文学の会主催)の小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。[11]
近作
これまでになかったモノ、バーチャルの世界と現世とが融合しており、他人とは違う世界が見えている小説が主。現実と妄想の境界が入り乱れ、引き込まれる。因って読み手の頭が混乱するであろう。この作者は、ここまでも書くのかというクレイジーな感じで「藪を這う」なんかはまるで映画を観ているようで、少し気が違う面には動揺するが、中々変わっていて、近頃は珍しい。「藪を這う」[12]と「争点」[13]は、ここに掲載されている代表作品。
文体
初期の小説は一つひとつの文字を書く筆にいきおいを感じながら、それなりのモチベーションで書きあげ、同人会で発表するが中々馴染めない面があった。この時期にある程度の量を書き上げていたが、自暴自棄になっていた。因ってかなりのブランクが発生し、まだ初期の段階で、もう筆を折ろうかと思っていたという。しかし、周りの連中から、これからが良くなると言われ、思いとどまった。自称の作家が言った。「お前の小説を読んだが、吐き気がした。小説の体(てい)を知らないのだろう。勿体ないが、俺の100作のうち1作だけを参考に見せてやる」理不尽で失礼千万だ。小説の体を言う前に手前はどうか、支離滅裂な説教でうんざりとしたという。こいつは小説の書き方が一つしか無いのだと確信していた様だという。小説の中にも絵や図などが入っているのもある。文章間に詳しい説明の文章が入っているのも沢山あるようだ。こいつは本を読んでいないのだろうかとも思ったという。1人称(私小説)や3人称の書き方もあれば、まだ書き方は沢山ある。箇条書きもある。ひらがなやカタカナだけのものもある。また横書きもある。つまり何でも良いという。主題やテーマがハッキリとしていて、それに沿って書き上げていれば問題はないようだ。水の如くいっきに流れるように書いてあるのもある。途中でいきなり回想しているのもある。彼は誹謗中傷侮辱された。しかし、批判は批判として真摯(しんし)に受けとめる。こういう意見もあるのだと感じたという。彼はいろんな作家の小説を読んでいて、どの小説のテーマもまちまちで、出現の仕方も違うという。もちろん文体も違うだろう。かなり自由に書いていて、これらはすべて「小説の体」を成しているという点では共通しているのであろう。もちろんテーマがあってストーリーがあって描写があるのだ。支離滅裂になってはもちろん良くない。質はもちろん大事で、数を書いて会得していくことも大事なのであろう。書き続けることで、なんだ、こんなことで悩んでいたのかはままある。因って小説の体をなしていないとは、そもそも文章自体に乱れ、稚拙で支離滅裂などで破綻(はたん)していることであるという。
賞歴
など
- 1996年12月に「広島西飛行場存続の危機脱出変遷史」[14][15]を発行。
- 広島市教育委員会から教育用として採用され、県と市へ謹呈した。
- 1998年、「第68回コスモス文学新人賞」(長崎市のコスモス文学の会主催)小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞。
- 1998年、「第68回コスモス文学新人賞ノンフイクション部門」に「揺れる灯」が佳作に決定し、受賞。
- 1999年9月文藝春秋の雑誌に「第2回草枕文学賞」の中間発表があり、名前が載った。主催は熊本県『草枕文学賞』実行委員会。後援は文藝春秋。全国各地及び海外から総数769編の応募があり、80編が予選を通過した。文学賞の最終選考には残ったが、賞は貰えなかった。草枕文学賞を受賞すると、その作品は文学界の雑誌に掲載され、そして必然的に芥川賞にノミネートされるのだが残念だった。その小説は「藪を這う」。後に関西文學に掲載された。さらに改稿後安藝文學にも掲載された。その小説は「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。
- 1999年4月号の小説現代に「第67回小説現代新人賞」の予選発表があった。応募総数1615編で予選通過者数は114名。これに名前が載った。その作品は改稿後「争点」で安藝文學に掲載された。後に「日本ペンクラブ電子文藝館」に所蔵されている。
- 2001年1月31日に「脳裏を刳る映像(2)」が愛知県土地家屋調査士会の「地図読み人」に採用され、全文が掲載された。
- 2001年「第18回織田作之助賞」に「気になる紐と首」が応募総数503篇で第1次予選を通過し、さらに第2次予選も通過した。50篇が第2次予選を通過。
- 2002年に改稿後「第3回関西文學新人賞」で第1次予選を通過し、さらに第2次予選も通過した。応募総数190篇で第2次予選通過作は23作。2012年7月さらに改稿後安藝文學に小説「気になる紐と首」が掲載された。現在は「国立国会図書館」に所蔵されている。
- 1998年9月彩図社のぶんりき賞で小説「魚うお」が雑誌に全文が掲載された。
- 2000年4月同文書院のまとりた賞で小説「現れた情景」が雑誌に全文が掲載された。
- 2003年6月新風舎出版賞第20回、小説で出版奨励賞受賞。
その他諸々予選は通過しているが、中期はブランクがあってあまり応募はしていない。後期、最近は体調を悪くし、あまり書いていないが、作がかなりたまってきている。が、推敲校正が必要だという。しかし、近いうちに発表予定でもあるという。
著作
コラムなど
- 「予算消化工事税金無駄遣い」93.2.25中国新聞
- 「選挙の資金は国民が出資を」93.3.4 中国新聞
- 「証人喚問制度もっと厳正に」93.3.16中国新聞
- 「広島らしさを物産館に望む」96.10.6中国新聞
- 「専門学校設け広大跡地活用」96.10.20中国新聞
- 「小企業の支援に商工会議所充実を」96.11.16中国新聞
- 「運転中の通話について」96.12.19中国新聞
- 「政治や経済の勉強」97.1.30朝日新聞
- 「『毛利元就』もっと方言を望む」97.2.13読売新聞
- 「真の『上得意様』へのサービス」97.2.14毎日新聞
- 「W杯招致運動もうやめよう」97.2.18中国新聞
- 「『一人くらい』を返上し投票を」97.3.25中国新聞
- 「トンネル内の照明を整備せよ」97.12.18産経新聞
- 「納得できない可部線の廃止」98.4.19中国新聞
- 「南道路県と市協調を」04.6.19中国新聞
- 随筆など
- 「私の健康法」97.1.27中建日報
- 「地球は生命体」97.3.27川柳ひろしま
- 「さばを読む」97.4.5川柳ひろしま
- 川柳など
- 「ガラス細工」00.4.1葉文館出版
- ノンフイクションなど
- 「広島西飛行場存続の変遷史」96.12.16東洋図書出版 著書
- 「広島のデルタを歩くリベラリスト」99.9.9タニシ企画印刷 著書
- 小説など
- 「脳裏を刳る映像(1)」00.1.1ウエノ書房 著書
- 「三角関係」97.11.1ビジネスセミナー
- 「魚(うお)」98.9.1採図社
- 「藪を這う」00.2.1関西文學
- 「現れた情景」00.4.1同文書院
- 「脳裏を刳る映像(2)」01.1.31地図読み人
- 「気に為る紐と首」12.7.10安藝文學
- 「争点」15.8.10安藝文學
その他寝かせている小説などがあるが推敲校正が必要で未発表作品。
代表
「争点」 日本ペンクラブ 電子文藝館
「藪を這う」 日本ペンクラブ 電子文藝館
所属
脚注
- ↑ [1]安芸文学1958年(昭和33年)5月に設立
- ↑ [2]旧広島西飛行場の姿
- ↑ [3]『広島の交通』展示資料リスト
- ↑ [4]彩図社のぶんりき賞
- ↑ [5]同文書院のまとりた賞
- ↑ [6]上野彦馬
- ↑ [7]産能短期大学創始者上野陽一
- ↑ [8]「中山太陽堂」
- ↑ [9]創業者中山太一
- ↑ [10]上野一郎
- ↑ [11]1998年、第68回コスモス文学新人賞、小説部門に「憔悴した点」が決定し、受賞している
- ↑ [12]日本ペンクラブ電子文藝館に「藪を這う」が掲載されている
- ↑ [13]日本ペンクラブ電子文藝館に「争点」が掲載されている
- ↑ [14]旧広島西飛行場の映像
- ↑ [15]広島市 長船 おさふね 友則 と も の り 氏収集資料仮目録 ]