「大日本日蓮主義青年団」の版間の差分
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2019年6月12日 (水) 16:54時点における最新版
大日本日蓮主義青年団(だいにほんにちれんしゅぎせいねんだん)は、1918年(大正7)11月に、本多日生の統一閣で学んでいた妹尾義郎ら日蓮宗の門徒と、野沢悌吾陸軍少将らによって設立された、社会革新を目的とした仏教団体[1][2]。
設立[編集]
1919年(大正8)6月頃、本多日生に私淑し、自慶会の活動を通じて第一次世界大戦後各地で頻発していた労働争議や小作争議の問題に触れることの多かった妹尾は、現実主義的な大衆の救済を志向し、また日生の仏教統一論の影響を強く受けて日蓮宗による他宗派の折伏を企図して、新団体の結成を模索[3]。
小林智道、若林不比等、益守武雄、竹内某らとともに、野沢悌吾・陸軍少将と相談を繰返し、同年11月5日に団の発会式を行った[4]。
活動内容[編集]
団員は、団名を大書した高張提灯をかかげて、鎌倉の街頭などで辻説法を行い、他宗の邪を糾弾した[5]。
また各地の農村で講演を行い、小作争議の調停役を依頼されることもあった[5]。
1920年(大正9)9月に機関誌『若人』を創刊。1921年(大正10)頃、地方でも組織化が進んだ。[6][5]
解散[編集]
昭和期に入ると、妹尾は資本主義に対する批判色を強めて国家主義や単なる博愛主義を批判するようになり、1930年(昭和5)、妹尾が執筆した『若人』同年2月号の「巻頭言」や掲載論文の内容やその刊行をめぐって、団を財政面で支援していた実業家・上田辰卯らとの対立が決定的になり、妹尾が同団を退団する形で団体は解散。妹尾は新たに新興仏教青年同盟を結成した。[7][8][9][10]
付録[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 稲垣 (1974) 稲垣真美「解題と解説」(妹尾 1974a 431-454)
- 妹尾 (1974a) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第1巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020137
- 妹尾 (1974c) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第3巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570
- 中濃 (1974a) 中濃教篤「解説」妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020138、439-450頁
- 中濃 (1974b) 中濃教篤「解説」(妹尾 1974c 497-511)
- 林 (1974) 林霊法「解説」妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第4巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570、409-428頁