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(粟屋・小田部 1984 により加筆。)
 
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'''和知鷹二'''(わち たかじ)は日本の軍人。1937年頃、[[支那駐屯軍]]参謀、[[太原特務機関]]長をしていた<ref>小田部(1988)p.102</ref>
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'''和知鷹二'''(わち たかじ)は日本の軍人。
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[[支那駐屯軍]]では陸軍中央や関東軍の強硬分子と連絡して独自の謀略活動を展開し、日中間の紛争拡大を画策。これに困惑した支那駐屯軍の橋本群参謀長によって、一時内地に帰還させられた。{{Sfn|粟屋|小田部|1984|p=288}}
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1937年頃には、支那駐屯軍参謀、[[太原特務機関]]長をしていたといい{{Sfn|小田部|1988|p=102}}、[[冀東防共自治政府]]支援のために上京して[[渋谷三]]や[[山科敏]]を介して[[徳川義親]]と接触していたことが徳川の日記から知られている{{Sfn|粟屋|小田部|1984|pp=288-289}}
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また同年7月7日の[[盧溝橋事件]]から同月25日の日中両軍の衝突に至る経緯については、同月25日に帰国し徳川義親・[[藤田勇 (実業家)|藤田勇]]と会談した際の徳川の日記に、当所不拡大の方針で工作を行っていたが、同月11日に近衛内閣が陸軍の要求を容れて五個師団の華北派兵を決定した後、なお中央が「優柔不断で決心がついてゐない」ため「現地司令官の一存で事を起」したと語ったとされている。徳川はこの経緯について、「要するに和知君の決心如何により戦か否か、これによりすべてをよく解決なさんとするものなり」と評している。{{Sfn|粟屋|小田部|1984|pp=288-289}}
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[[Category:日本陸軍の軍人]]

2019年3月15日 (金) 20:33時点における最新版

和知鷹二(わち たかじ)は日本の軍人。

十月事件[編集]

1931年に十月事件のクーデター計画に参画し、橋本欣五郎とともに憲兵隊に保護検束された。事件後、関東軍参謀など。[1]

支那駐屯軍では陸軍中央や関東軍の強硬分子と連絡して独自の謀略活動を展開し、日中間の紛争拡大を画策。これに困惑した支那駐屯軍の橋本群参謀長によって、一時内地に帰還させられた。[1]

華北工作[編集]

1937年頃には、支那駐屯軍参謀、太原特務機関長をしていたといい[2]冀東防共自治政府支援のために上京して渋谷三山科敏を介して徳川義親と接触していたことが徳川の日記から知られている[3]

日中開戦[編集]

また同年7月7日の盧溝橋事件から同月25日の日中両軍の衝突に至る経緯については、同月25日に帰国し徳川義親・藤田勇と会談した際の徳川の日記に、当所不拡大の方針で工作を行っていたが、同月11日に近衛内閣が陸軍の要求を容れて五個師団の華北派兵を決定した後、なお中央が「優柔不断で決心がついてゐない」ため「現地司令官の一存で事を起」したと語ったとされている。徳川はこの経緯について、「要するに和知君の決心如何により戦か否か、これによりすべてをよく解決なさんとするものなり」と評している。[3]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
  • 粟屋 小田部 (1984) 粟屋憲太郎・小田部雄次「『大東亜戦争』と徳川義親」『中央公論』v.99 n.8、1984年8月、NDLJP 3365998/145 (閉)