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2014年5月27日 (火) 20:34時点における最新版
キング・クリムゾン (King Crimson) は英国のロックバンド。プログレッシヴ・ロックというジャンルを確立したバンドとされている。
目次
概要[編集]
フラワームーブメント真っ盛りの1969年に衝撃的アルバム「クリムゾン・キングの宮殿」でデビューを飾り、ジャズの即興性やロックの暴力性、クラシックの和声進行やその当時ロックであまり用いられなかったフルートやメロトロンを大々的にフィーチャーしたその音楽性はのちにプログレッシヴ・ロックと呼ばれる風潮となり70年代前半のロックシーンを席巻した。ファーストアルバム以降メンバーが次々に脱退し苦戦を強いられるものの、様々なメンバーを迎え74年に解散するまで商業性ガン無視の優れたアルバムを数々残したバンドである。
80年代にメンバーを再編し突如再結成すると、ポリリズムと複雑なギターのアルペジオを中心とした難解なニューウェーブ的路線で三枚アルバムを発表、90年代にもギター、ドラム、ベースを二人ずつメンバーに据えたダブルトリオ編成でヘヴィーでメタリックな音楽性を前面に打ち出しツアー、アルバムを発表するもまたもやメンバーの脱退が続き2000年代を迎えた。また90年代から「プロジェクト(ProjeKct)」という兄弟バンドも活動している。2011年にリーダーのロバート・フリップが音楽業界から引退することを発表しバンドも解散状態となるが、2013年再びフリップが復帰を宣言。トリプルドラムという変則的編成でのメンバーが発表された。2014年以降の活動を目的としたリハーサルが行われているとのことである。
経歴[編集]
40年以上にわたる彼らの経歴はいくつかの時期に分けることができるが、区分方法に諸説あり、特に明記する必要もないため以下の通りとする。
オリジナル・クリムゾンからリザードまで[編集]
- メンバー
- マイケル・ジャイルズ(ドラム、コーラス)
- イアン・マクドナルド(サキソフォン、メロトロン、フルート、チェンバロ、ヴォーカル)
- ロバート・フリップ(エレクトリックギター、アコースティックギター)
- グレッグ・レイク(ベース、リードヴォーカル)
- ピート・シンフィールド(作詞、ステージライティング)
ロバート・フリップとマイケル・ジャイルズ、彼の弟ピーター・ジャイルズのトリオバンド「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」を前身とし、1968年にまずイアン・マクドナルドと彼とコンビを組んでいた詩人、ピート・シンフィールドが加入、そこにフリップの旧友でボーンマス出身のグレック・レイク(元々ギターを弾いていたが加入に伴いベースに転向)がベースヴォーカルとして加入してベース担当だったピーター・ジャイルズは体調面等もあり脱退しオリジナル・メンバーの布陣が整った。1969年に彼らはロンドンのカフェの地下室で数ヶ月間にわたる楽曲製作とライヴ・リハーサルを整えると、自身らの曲「In The Court Of Crimson King」からバンド名を「King Crimson」として英国内をツアーし始めた。
アルバム作りも並行して行い、ムーディー・ブルースなどを手掛けたプロデューサーの元で録音を始めるも、ドラムの音を大きくしたいバンド側とプロデューサー側の意見が衝突、録音はいったん破棄されることになった。そんな中ローリング・ストーンズのハイド・パーク・フリー・コンサート(50万人が来場し、キング・クリムゾンとしてもこれ以上の規模のライヴは行っていない)の前座として演奏する機会に恵まれ、ブライアン・ジョンソンを数日前に失い動揺を隠せないストーンズの前で堂々たる演奏を行いたちまち評判となった。結局アルバム作りはアトランティック・レコードの事で行われ、1969年10月10日に発売。英国のチャート5位まで浮上した。
バンドは意気揚々と初の米国ツアーを行い着実にファンを増やしていったが、最終公演地フィルモア・ウェストに向かう車内でイアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは突如フリップに脱退の意思を伝える。イアンは自らの音楽が次第に恐怖や狂気の感情に突き動かされることへの嫌悪や恋人と過ごすことができなくなることを理由に脱退、ジャイルズは大のツアー嫌いかつイアンと共に情緒的で優しい音楽をやりたいと考え始めていた。フリップは自分が脱退するから考え直してほしいと懇願するも結局決意は固く、グレッグ・レイクもツアー中に知り合ったナイスというバンドのキース・エマーソンと新規バンドを結成する意思を固めていた。こうしてアルバム一枚の発表と一回のツアーを行っただけでオリジナルメンバーによるキング・クリムゾンは7ヶ月で空中分解した。
ポセイドン・セッション[編集]
かくしてバンドは早くも解散状態となるが、レコード会社との契約やアルバムに収録しなかったがライヴで披露していた曲もあり、何よりフリップにはまだ音楽的探究心が強く残っていたため次のアルバム作りに取り掛かった。まずはピーター・ジャイルズを呼び戻し、マイケル・ジャイルズとグレッグ・レイクの既に脱退したメンバーにも頼み込んで曲作りのセッションに持ち込んだ。イアンが抜けた穴はフリップ自身がキーボードを練習し、サックスにメル・コリンズを迎えることでカバーし、前衛ジャズ・ピアニストのキース・ティペットもゲスト参加することでフリー・ジャズの要素がバンドにもたらされた。完成したアルバム「ポセイドンのめざめ」は前作の構成を踏襲しつつも確実にサウンド面の変化を見出したものとなった。そしてレイク、ジャイルズ兄弟、ティペット、フリップの5人はBBCのTV番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に初出演し「キャット・フード」を披露する。(出演時の写真は知られているが肝心の映像は未発掘)
リザード[編集]
前作から7ヶ月、フリップとシンフィールドは再びバンドを再編すべく前作で少し登場していたフリップの郷友ゴードン・ハスケルをベースヴォーカルとして招聘。メルを正式なメンバーとして加入させ、技巧派ドラマーのアンディ・マカロックを加えある程度バンドとしてまとまりを持たせようとした。しかしフリップはこれでは心もとないと思ったのかキース・ティペット・グループに大胆な参加を求め、アルバムの収録曲も彼らの演奏に比重が寄ったジャズ・ロックテイストなものとなった。また数ヶ月前にイエス加入を打診され断っていたフリップは逆にジョン・アンダーソンをゲストとして歌わせるなどした。
そしてバンドはアルバム「リザード」を発表、ライヴ用のリハーサルを行うがハスケルとフリップが衝突しハスケルが出奔したためツアーは中止になってしまう。しかしアルバム収録曲はライヴ再現が不可能な曲が多く、過去の曲をハスケルがどこまで歌えるのか疑問も残るため、やはりこの編成ではツアーは不可能であると考える方が自然という向きもある。ともかく、フリップとシンフィールドは再び路頭に迷うことになるのだった。
アイランズ・クリムゾン[編集]
- メンバー
- ロバート・フリップ
- メル・コリンズ(サキソフォン、フルート、メロトロン)
- ボズ・バレル(リードヴォーカル、ベース)
- イアン・ウォーレス(ドラム、コーラス)
- ピート・シンフィールド(このツアーではPAなども担当)
1969年からろくにツアーが行えていない状況に焦りを覚えたフリップとシンフィールドは再びメンバーを募集。メル・コリンズとアンディ・マカロックを継続してメンバーとする予定だったが、ヴォーカル希望としてイアン・ウォーレスがオーディションに参加、ヴォーカルに関してはともかくドラムが叩けるとのことでなぜかアンディを解雇してイアンをドラムとして加入させた。結局ヴォーカルはボズ・バレルに決定し、ベース奏者としてフリップと旧知の仲であるジョン・ウェットンが加入する可能性もあったが、ベースに興味を示したボズにフリップが二ヵ月間ベースをみっちり教え込み、晴れてボズはベースヴォーカルとして録音とツアーに参加することになった。そして1971年3月からリハーサルを開始し、4月に新生キング・クリムゾンはフランクフルトのズーム・クラブから始まる欧州、英国、北米ツアーへと望むことになる。
同年の夏から新アルバム「アイランズ」はキース・ティペット・グループ(ツアー参加も打診されていたがティペットは断った)を迎えてレコーディングされ、ピートの詩的世界がこれまで以上に反映された当アルバムは同年12月に発売された。しかしツアー中にメンバー同士の音楽的見解、素養の違いが浮き彫りとなり1972年1月ピートはバンドを追い出される形で脱退する。またフリップと他の三名の間にも溝が広がり、「アースバウンド」に顕著な新加入三名のブルース的演奏はフリップの意図するものとかけ離れていった。結局三名はツアー終了後の脱退が内定する形で4月までのツアーを終えると脱退し、そのまま北米に留まり新バンドを結成。バンドが再び空中分解したためフリップは英国に一人戻った。
太陽と戦慄からレッドまでの道[編集]
- メンバー
- ロバート・フリップ
- ビル・ブルーフォード(ドラム、ミューア脱退後はパーカッションも兼任)
- ジョン・ウェットン(ベース、ヴォーカル)
- デヴィッド・クロス(ヴァイオリン、ヴィオラ、メロトロン、フルート)
- ジェイミー・ミューア(パーカッションとその他全部)
ディシプリン・クリムゾン[編集]
- メンバー
- ロバート・フリップ
- ビル・ブルーフォード
- トニー・レヴィン(ベース、チャップマンスティック、コーラス)
- エイドリアン・ブリュー(エレクトリックギター、リードヴォーカル、たまにドラム)
ダブルトリオ・クリムゾン[編集]
- メンバー
ディシプリンの面々に加え以下の二名が加入。
- パット・マステロット(ドラム)
- トレイ・ガン(チャップマンスティック、ウォーギター)
ミレニアム・クリムゾン以降[編集]
音楽性の変遷[編集]
「クリムゾン・キングの宮殿」から「アイランズ」まではピート・シンフィールドの詩的世界と近代クラシック的和声アンサンブル+ジャズロック的な即興演奏が音楽の主軸だったが、「太陽と戦慄」以降はパーカッションとメタリックなギターを中心とした技巧的な即興を拡大しロックの枠を超えた現代音楽的なアプローチを見せた。この編成も後半になるにつれメタリックで凶暴性を増し、後世のメタルやグランジに影響を与えた。
80年代はギターシンセなどを多用しまるでトーキング・ヘッズのようなポリリズムとパーカッシヴなドラムが絡み合う全く異なるスタイルとなり、90年代以降はそれらすべてを含有した暗くインストゥルメンタル寄りのメタルのような曲調が増えた。2014年以降のクリムゾンは過去曲の再構築が中心になるとフリップは述べている。
逸話[編集]
- 彼らのデビュー公演をイエスのピーター・バンクスが見ており、数日後のライヴをビルが見て感銘を受けたという。またジミ・ヘンドリックスがフリップのギターに感銘を覚え心臓に近い左手で握手してくれと頼んだ話は有名である。それからフリップは左手で握手をするようになったとか。
- 1970年ごろエルトン・ジョンが加入しようとオーディションを受けにきたが、歌唱力にケチをつけられ落ちた。
ディスコグラフィー[編集]
スタジオアルバム[編集]
- ディシプリン(1981)
- ビート(1982)
- スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー(1984)
- スラック(1995)
- ザ・コンストラクション・オブ・ライト(2000)
- ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ(2003)
- しょうがない(2002)
ライヴアルバム[編集]
- アースバウンド(1972) - アイランズ・クリムゾンの演奏を歪んだ音像でとらえた怪盤。
- USA(1975) - 1974年のツアー音源から少々編集されている。
- B・ブーム - ライヴ・イン・アルゼンチン(1995) - ダブルトリオ期の演奏。
- エピタフ~1969年の追憶(1997) - オリジナル編成でのライヴ演奏。
- ザ・ナイトウォッチ -夜を支配した人々-(1997) - 1973年のアムステルダム公演の音源。
- ヘヴィ・コンストラクション(2000)
- ヴルーム・ヴルーム(2001) - 1995年、1996年のライヴ音源。
- エレクトリック(2003) - 東京厚生年金会館のライヴ音源。
コレクターズ・クラブ[編集]
キング・クリムゾンを骨までしゃぶりつくしたいコレクターたちのために用意された文字通りコレクター向きなシリーズ。音質、内容等様々である。
外部リンク[編集]
キング・クリムゾン