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ミック・フォーリー(1965年6月7日ー)はニューヨーク州出身のプロレスラー、カラーコメンテーター、作家。ハードコア・レジェンドとして知られるハードコア・レスリングの名手である。
概要[編集]
大学生の時にマディソン・スクエア・ガーデンで金網最上段からのスーパーフライ・スプラッシュに魅了されプロレスラーになることを志す。1986年6月師匠ドミニク・デヌーチの下で、徹底的に受身等のレスラー技術を叩き込まれ、ハードバンプを身につけた。プロレスラーになって以後、WCW、ECW、WWEに渡り、多くのレスラーと死闘を演じ、ハードコア・レジェンドの異名を欲しいままにする。
レスラー活動をした間、マンカインド、デュード・ラブ、カクタス・ジャックのリングネームと多重人格ギミックを演じている。それぞれのキャラクターに違いがあるものの、共通項としていづれも凶暴で異常であることが挙げられる。
2000年以降は、レスラー活動をセミリタイアしているが、今もWWEに於いて圧倒的な存在感を出している。2013年にWWE殿堂入りを果たす。
またレスラー活動以外に、作家として自身の自伝「Have a Nice Day!」を執筆。全米で大ヒットとなった。ちなみに自身の決めゼリフでもある。その他、絵本や小説の執筆活動に精を出している。2007年に自叙伝「Hardcore Diary」を発表した。
プロフィール[編集]
デビューからWWEでの活動[編集]
1986年にレスラーデビュー。CWAやWCCWに参戦。1991年3月に全日本プロレスに参戦する。チャンピオン・カーニバルに参戦するも無得点に終わった。
1991年にWCWに参戦。ロン・シモンズやスティングと抗争した。1994年ドイツで行われたビッグ・バン・ベイダーと戦った際、ロープが頭に絡まり無理に抜け出そうとした結果、右耳がちぎれるアクシデントに見舞われる。それ以降、ハードコア・ファイターとして場外への自爆ダイブを行うなど過激な試合展開を多く織り込むようになりハードコア戦を自身のファイトスタイルとした。
その後WCWと提携関係にあったECWにも参戦した。そこでも過激な試合を行った。1995年にIWAジャパンに登場。同団体開催のキング・オブ・ザ・デスマッチ・トーナメントに参戦し、決勝でテリー・ファンクを破り、優勝した。
1996年にWWFに登場、マンカインドに変身して活動した。もっとも正体がミック・フォーリーであることが観客にわかっているため、後に多重人格という設定でカクタス・ジャック、デュード・ラブのリング・ネームを状況によって使い分けるが主にマンカインドとしての活動がメインである。1998年のロイヤル・ランブルではこの設定を利用してランブル戦に出場したことがある。
ECWやIWAで見せたようなハードコアスタイルはWWFでも変わらなかった。特に有名なのは1998年のキング・オブ・ザ・リングで行われたジ・アンダーテイカーとのヘル・イン・ア・セル戦で約6mの高さの金網から実況席のテーブルに向かって落下したハードバンプである。一度担架で運ばれるも試合続行し、同じ試合で今度は金網天井貫通のチョークスラムを喰らいリングに落下している。
こうしたハードコア路線がカルト的人気を獲得し、1998年の末から1999年の初頭までザ・ロックとWWE王座を巡っての抗争が展開された。ザ・ロックとは異色のタッグチーム「ロックン・ソッコ・コネクション」でも活躍した。
長年のハードバンプにより身体が限界に達したため引退を決意。1999年冬頃から試合数を減らし、2000年のレッスルマニアのメイン戦を以て現役を引退。2001年にWWFのに就任し現場に復帰。同年WWFコミッショナーを退いたあとはプロレス界を離れ、作家活動に専念した。
2003年にトリプルHとケビン・ナッシュの抗争の最終決戦のスペシャル・レフェリーとして再登場。また、ビンス・マクマホンからハードコアベルトを贈呈された。
2004年に本格的に復帰。レッスルマニアではザ・ロックとタッグを一夜限りの復活させる。バックラッシュではランディ・オートンとハードコアマッチを行った。また、ハッスルにも参戦し、三冠ヘビー級王座に挑戦した。それ以後、ROHなど各地のインディー団体に登場してサイン会の開催や特別レフェリーを努めた。