「奨子内親王」の版間の差分

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(南北朝時代の皇族)
 
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『[[続千載和歌集]]』『[[玉葉和歌集]]』などの[[勅撰和歌集]]に多くの詠作が入集している。家集などは伝わらないが、『新千載和歌集』の詞書によれば、続千載集撰進の際に後醍醐天皇に自身の詠草をまとめて書き送ったという。
 
『[[続千載和歌集]]』『[[玉葉和歌集]]』などの[[勅撰和歌集]]に多くの詠作が入集している。家集などは伝わらないが、『新千載和歌集』の詞書によれば、続千載集撰進の際に後醍醐天皇に自身の詠草をまとめて書き送ったという。
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*''鈴鹿川八十瀬の波はわけもせでわたらぬ袖のぬるる比かな'' (玉葉和歌集2073)
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==

2011年10月13日 (木) 10:18時点における版

奨子内親王(しょうし(まさこ)ないしんのう、弘安9年9月9日1286年9月28日) - 貞和4年/正平3年11月2日1348年11月23日))は、鎌倉時代後期から室町時代初期(南北朝時代)にかけての皇族歌人。「弉子内親王」とも表記する。後宇多天皇の第1皇女。生母は参議五辻忠継の娘、典侍忠子(談天門院)。後二条天皇の異母妹で、後醍醐天皇の同母姉。伊勢斎宮、のち非妻后の皇后(尊称皇后)、女院。院号は達智門院(たっちもんいん)。

乾元元年(1302年)、内親王宣下徳治元年12月22日(1307年1月26日)、21歳で異母兄後二条天皇の斎宮に卜定される。同2年9月13日(1307年10月10日)、諸司へ初斎院入り、同月27日(10月24日)野宮へ移る。同3年8月25日(1308年9月10日)、後二条天皇崩御のため、群行には至らず退下した。

その後、文保2年2月26日(1318年3月29日)に同母弟の後醍醐天皇が即位すると、翌文保3年3月27日(1319年4月18日)に皇后(非妻后の皇后)に冊立される。同年11月16日(12月28日)、達智門院の院号宣下を受けるが、同時期に母談天門院が没したため、まもなく出家して法号を真理覚と称した。元亨3年(1323年)には、紀伊国和佐荘の田地1を荘内の高社(現和歌山県和歌山市高積神社)に寄進している。貞和4年/正平3年(1348年)、63歳で崩御

続千載和歌集』『玉葉和歌集』などの勅撰和歌集に多くの詠作が入集している。家集などは伝わらないが、『新千載和歌集』の詞書によれば、続千載集撰進の際に後醍醐天皇に自身の詠草をまとめて書き送ったという。

  • 鈴鹿川八十瀬の波はわけもせでわたらぬ袖のぬるる比かな (玉葉和歌集2073)

参考文献

  • 安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社、1990年。
  • 芳賀登他監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1993年。