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2017年9月6日 (水) 18:35時点における版
裨聖会(ひせいかい)は日本の囲碁の専門家団体。1922年(大正11年)から1924年(大正13年)まで存続した。
歴史
大正期の囲碁界には、本因坊家と方円社が並立して対抗していた。方円社は5代目社長広瀬平治郎の独断的な運営に方円社理事の鈴木為次郎、瀬越憲作が反発していた。広瀬平治郎は丸ビル移転計画を立て、募金計画を立てたが計画は挫折して病に倒れ、再起できなくなった。棋界の離合集散は、感情の対立から起こる。方円社理事の鈴木為次郎、瀬越憲作、高部道平、雁金準一、岩佐銈の5名の棋士が反旗をあげ、1922年(大正11年)11月に裨聖会を立ち上げた[1]。会名は犬養毅が考案したものである。裨は副の意味で、裨聖は聖所に次ぐ場所という意味である。岩佐銈は声明には名を連ねたが、裨聖会には参加しなかった。声明には「棋界伝統の旧習を打破し、凡ての組織を新たにし、以て新時代の趨勢に順応せねばならぬ」と書かれている[2]。主意書には「今回、下記5名が発起しまして、将来棋界の第一人者たると期するとともに、現代棋界の革新を図るために一つの会(裨聖会)を作りました。すなわち我々が勝負を争ったうえで、最も優秀の成績を挙げたものを棋界の代表者として推薦し、もしこれを認めぬものがありますれば、何時にても対等の資格をもって勝負しようとするのであります。それには従来の行きがかりを抛って新たに全て互先で手合いたします。つまり選手権競技制を採ろうとするのであります。大正11年11月」 裨聖会の役員は次の人々であった。会長として侯爵細川護立、評議員として伯爵吉川寛治、各務鎌吉、高橋錬逸、大縄久雄が参加した。
裨聖会は画期的な革命を断行した。すなわち段位制度を捨て、総互先による選手権制度をもうけたことである。互先の白のハンディを解消するため「互先四目半コミだし」を定めた。また対局時間を一人16時間の持ち時間制とした。
裨聖会は1924年(大正13年)には経済的に行き詰まり、坊門と一緒になり、方円社と合同をもちかけ、1924年(大正13年)7月17日帝国ホテルで発起人会が開催され、日本棋院が設立された。同時に裨聖会は解散した。
裨聖会での対戦は計24局で、成績は次の通り[3]。棋譜は『裨聖会棋譜』(報知新聞社)として刊行され、細川護立、犬養木堂の題辞が贈られている。
雁金準一 8勝3敗1ジゴ 瀬越憲作 6勝5敗1ジゴ 鈴木為次郎 6勝6敗 高部道平 3勝9敗