「浜田剛史 (2)」の版間の差分

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'''浜田 剛史'''(はまだ つよし、[[1960年]][[11月29日]] - )は、[[日本]]の元[[プロボクサー]]。旧名は'''浜田 剛'''(読み同じ)。[[沖縄県]][[中城村]]出身。元[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界[[スーパーライト級]]王者。[[沖縄県立沖縄水産高等学校]]卒業。[[帝拳プロモーション|帝拳ボクシングジム]]所属。現在はプロボクシング解説者、健康食品会社社長。帝拳プロモーション代表。入場曲は『[[ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO]]』。
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[[Image:浜田剛史 2.jpg|300px|thumb|left|浜田剛史]]
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== 人物 ==
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「ボクサーは目が命」と(ボクシングの試合のVTR以外)テレビを見ることもなく、ストイックにボクシングに打ち込み、拳の骨折による2年間ものブランクを乗り越え世界王座奪取を果たした執念から「サムライ・ファイター」と呼ばれた。「15試合連続KO勝ち」の日本記録保持者でもある。
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6歳上の兄の影響で小学生の頃からプロボクサーを志し中学時代から[[那覇市]]内のボクシングジムに通い[[小坂照男]]の指導を受けた。またライバル校たる[[興南中学校・高等学校|興南高校]]の[[金城真吉]]監督からも指導を受けたという。
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現役引退後は、後進の指導のほか、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]「[[ワールドプレミアムボクシング]]」、[[WOWOW]]「[[エキサイトマッチ〜世界プロボクシング|エキサイトマッチ]]」などでプロボクシング中継の解説者として活躍。なお、日本テレビでの解説はほとんどが[[ファイティング原田]]とのコンビとなっている。2007年3月、帝拳プロモーション代表に就任。
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* [[1984年]] 日本ライト級王者
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* [[1985年]] 東洋太平洋ライト級王者(1度防衛)
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* [[1986年]] WBC世界スーパーライト級王者(1度防衛)
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[[Image:浜田剛史 3.jpg|300px|thumb|浜田剛史]]
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[[Image:浜田剛史 4.jpg|300px|thumb|left|浜田─アルレドンド 1回終了直前、浜田の猛攻でアルレドンド、マットに沈む=両国国技館。WBC世界Jウエルター級タイトルマッチで、浜田剛史がメキシコのレネ・アルレドンドに1回KO勝ち。世界チャンピオンに。1986年7月24日]]
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[[Image:浜田剛史 6.jpg|300px|thumb|浜田剛史 vs. [[レネ・アルレドンド]]]]
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[[Image:浜田剛史 5.jpg|300px|浜田剛史]]
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== 主な戦績 ==
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* [[1978年]][[全国高等学校総合体育大会ボクシング競技大会|全日本高校]][[フェザー級]]チャンピオン、アマチュア通算43戦37勝28KO6敗。
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* [[1979年]]5月21日、プロデビュー。小坂から紹介され[[帝拳ボクシングジム]]に所属し、[[桑田勇]]の指導を受けた。[[大場政夫]]が生前暮らしていた部屋に居住し、[[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]]に勤務していた。[[全日本新人王決定戦|東日本新人王]]スーパーフェザー級にエントリーしたが予選で[[今井房男]]に敗北。
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* [[1981年]]7月18日、ノンタイトル10回戦でデオ・ラバゴに9回TKO勝ちするも、左拳を骨折し[[日本大学医学部附属板橋病院|板橋日大病院]]で手術。この試合の前後に高校の3年後輩[[新垣諭]]と面会し激励。以後4度の骨折を繰り返し2年間ものブランクを余儀なくされる。
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* [[1983年]]8月5日、2年振りの復帰戦で[[リングネーム]]も浜田剛史に改め登場、マックスボーイ・ドヨゴンに2回KO勝ち。
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* [[1984年]]12月2日、王者[[友成光]]に7回TKO勝ちし、日本[[ライト級]]王座を獲得した。
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* [[1985年]]4月4日、ノンタイトル10回戦で2回KO勝ちし、1980年からの15連続KOという日本記録を樹立。
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* 1985年7月7日、超満員の[[後楽園ホール]]での[[ダイナミックグローブ]]、王者ジョンジョン・パクインに判定勝ちし、東洋太平洋ライト級王座を獲得した。しかし、この試合で今度は右膝を痛める。
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* [[1986年]]7月24日、[[両国国技館]]にて世界初挑戦。[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界スーパーライト級王者[[レネ・アルレドンド]](メキシコ)に1回3分9秒KO勝ちを収め、念願の世界王座奪取に成功。同年12月2日にはロニー・シールズ(アメリカ)を2-1の12回判定で下して初防衛に成功。(浜田の兄はレネの兄[[リカルド・アルレドンド]]と[[スパーリング]]経験を有した)
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* [[1987年]]7月22日、2度目の防衛戦で前王者たるアルレドンドと[[指名試合]]として再戦。6回TKOで敗れて王座陥落(この時のドタバタで浜田自身の所有物たる[[チャンピオンベルト]]紛失。しかし6年後にWBCから改めて贈呈された)。陥落後、(1勝1敗となった)アルレドンドとの完全決着([[ラバーマッチ]])を期し、一時は再起に向け始動。翌[[1988年]]3月に[[東京ドーム]]([[世界ボクシング協会|WBA]]・WBC・[[国際ボクシング連盟|IBF]]統一世界ヘビー級タイトルマッチ「[[マイク・タイソン]]対[[トニー・タッブス]]」戦の前座)で再起戦が組まれたものの、負傷を抱える右膝の回復が思わしくなく、またアルレドンドが初防衛戦で王座を手放したことも重なり、再起戦をキャンセルし、そのまま[[引退]]。
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戦績24戦21勝 (19KO) 2敗1無効試合。
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== 関連項目 ==
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* [[男子ボクサー一覧]]
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* [[日本のボクシング世界王者一覧]]
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== 外部リンク ==
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* [http://www.champ-hamada.com/ 浜田産業] - 浜田が代表を務める栄養補助食品の製造・販売会社。
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*[http://www.youtube.com/watch?v=53pPtUSQdWg 1986 Rene] / [http://www.youtube.com/watch?v=2ggvNEU58Vs 1986 Ronnie] / [http://www.youtube.com/watch?v=E7jevyyT0yo 1987-0] / [http://www.youtube.com/watch?v=75ERAnOy8TY 1987-1], [http://www.youtube.com/watch?v=Nsj-bzqr1ak 1987-2], [http://www.youtube.com/watch?v=Gd9OcgdyVXA 1987-3], [http://www.youtube.com/watch?v=7PheIWyWehY 1987-4]
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{{Championshiptitle|第18代|[[世界ボクシング評議会|WBC]]|世界[[スーパーライト級]]|レネ・アルレドンド|レネ・アルレドンド|1986年7月24日 - 1987年7月22日}}
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{{DEFAULTSORT:はまた つよし}}
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[[Category:日本のボクサー]]
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[[Category:日本の実業家]]
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[[Category:スーパーライト級世界王者]]
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[[Category:世界ボクシング評議会世界王者]]
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[[Category:日本のボクシング世界王者]]
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[[Category:ボクシング解説者]]
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[[Category:沖縄県出身の人物]]
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[[Category:1960年生]]
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[[Category:存命人物]]
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2010年8月10日 (火) 20:26時点における最新版

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