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2018年6月13日 (水) 19:41時点における版
鈴木 信吉(すずき しんきち、1860年頃-没年不詳)は、日本の銀行家。名古屋の尾張藩の旧臣の家に生まれる。1898年に愛知銀行に入行し、営業部長、査業部長、常務取締役を歴任。北海道における尾張徳川家の開墾事業や北海銀行の経営、愛知物産の経営再建などに携わった。1929年に尾張徳川家の家令となり、1931年の財団法人尾張徳川黎明会設立に尽力。第2次世界大戦後、財産税の適用により尾張徳川家と黎明会が財務危機を迎えた際に、東京都豊島区目白の尾張徳川家本邸の賃貸物件化、八雲産業株式会社の設立などにより、2016年現在まで続く同家と財団の財務基盤を整備した。
経歴
1860年頃[1]、名古屋の[2]、尾張藩の旧臣の家に生まれる[3][2]。
1898(明治31)年10月10日に愛知銀行に入行[4][3]。豊橋支店、津支店を経て、本店検査役[3]。 1911(明治44)年9月29日、営業部長[4][3]、1919(大正8)年1月22日、取締役・営業部長[4][3]。1920(大正9)年3月12日に査業部長に転じた[3]。
愛知銀行時代は、尾張徳川家との関係から、北海道における同家の開墾事業や、北海銀行に関与[2]。祖父江重兵衛が経営に失敗した愛知物産の常務となり、経営を再建した[2]。
1929(昭和4)年1月25日、常務取締役、同年4月8日、営業部監督嘱託[3]。同年7月26日、尾張徳川家の家令となるため、取締役を辞任[4][5]。その後愛知銀行では、1941(昭和16)年6月[6]まで監査役を務めた[7][8]。
尾張徳川家の家令となった後は、1931年の財団法人尾張徳川黎明会設立に尽力[4]。
第2次世界大戦後、財産税の適用により尾張徳川家と黎明会が財務危機を迎える中、東京都豊島区目白の尾張徳川家本邸を賃貸物件化し、八雲産業株式会社を設立するなどして、2016年現在まで続く同財団の基盤を整備した[4]。
人物
手島 (1915 )では、当時の愛知銀行頭取・渡邊義郎が法律家然とした厳格な人物だったのに対し、鈴木は柔和な商人風の人物で、事を円満に運ぶことのできる調整役と評している。馬場 (1925 )では「温厚のうちにも何処か才走った人物」と評している。
家族
長男は上海の某会社勤務で、秀才との評判があった[2]
付録
関連文献
- 鈴木信吉(著)大口全三郎(編)『尾張藩の勤王』大口全三郎、1927年、NDLJP 1091283
- 八代六郎(著)城山会(編)鈴木信吉(編)『八代海軍大将書翰集』尾張徳川黎明会、1941年、NDLJP 1058270
脚注
参考文献
- 香山 (2016) 香山里絵 『尾張徳川美術館』設計懸賞 pdf 金鯱叢書 43 徳川美術館 2016-03 103-131
- 東海銀行 (1944) 東海銀行 [ 愛知銀行四十六年史 ] 東海銀行 1944-03-23 NDLJP 1061729
- 馬場 (1925) 馬場守次(籍生) 鈴木信吉氏 [ 続々 名古屋新百人物 ] 珊々社 1925-04-01 NDLJP 983167/39 58
- 手島 (1915) 手島益雄 愛知銀行営業部長 鈴木信吉 [ 名古屋百人物評論 続 ] 日本電報通信社名古屋支局 1915-08-05 NDLJP 954764/83 143-144