「田中館秀三」の版間の差分
(追記) |
|||
1行目: | 1行目: | ||
− | '''田中館(下斗米)秀三'''(たなかだて(しもとまい)ひでぞう、[[1884年]]-[[1951年]])は、日本の[[地理学者 | + | {{先編集権主張}} |
+ | '''田中館(下斗米)秀三'''(たなかだて(しもとまい)ひでぞう、[[1884年]]-[[1951年]])は、日本の[[地理学者]]。[[火山学|火山]]・[[湖沼学]]、[[地質学]]、[[人文地理学]]、[[軍事地理学|兵要地誌(軍事地理学)]]など広範な分野で業績を残し、揺籃期の[[東北帝国大学]]理学部地理学教室を主催し後進を指導した。 | ||
[[東京帝国大学]]理学部を卒業後、東北帝国大学農科大学・[[北海道帝国大学]]で地質学の講師を務めながら、1910-1914年に[[イタリア]]で[[ヴェスヴィオ山]]の調査を行い、1919-1920年に[[青島]]で鉱物資源などの兵要(軍事地理)調査を行なった。1930年代には[[東北地方]]から南方への拓殖移民推進政策に関連した調査・研究を行ない、1941-1942年には[[仏印]]や[[英領マラヤ]]<!--、[[フィリピン]]-->などで鉱物資源の兵要調査を行った。 | [[東京帝国大学]]理学部を卒業後、東北帝国大学農科大学・[[北海道帝国大学]]で地質学の講師を務めながら、1910-1914年に[[イタリア]]で[[ヴェスヴィオ山]]の調査を行い、1919-1920年に[[青島]]で鉱物資源などの兵要(軍事地理)調査を行なった。1930年代には[[東北地方]]から南方への拓殖移民推進政策に関連した調査・研究を行ない、1941-1942年には[[仏印]]や[[英領マラヤ]]<!--、[[フィリピン]]-->などで鉱物資源の兵要調査を行った。 | ||
10行目: | 11行目: | ||
1884年、岩手県生まれ<ref name="加藤(1998)pp.55-56">加藤(1998)pp.55-56</ref>。二戸郡福岡町出身<ref>田中館秀三業績刊行会(1975)。1975年当時の二戸市(同)。</ref>。 | 1884年、岩手県生まれ<ref name="加藤(1998)pp.55-56">加藤(1998)pp.55-56</ref>。二戸郡福岡町出身<ref>田中館秀三業績刊行会(1975)。1975年当時の二戸市(同)。</ref>。 | ||
− | + | (いつ?)東京帝国大学理学部地質学科卒<ref name="加藤(1998)pp.55-56" />。 | |
− | + | ||
現在の[[北海道大学]]の前身にあたる、東北帝国大学農科大学・北海道帝国大学の講師となり<ref name="加藤(1998)pp.55-56" />、1909,1915,1917年に札幌の東北帝国大学農科大学の学部で「岩石学(ないし海洋学)」の担当教官、1922,1924,1926-1928年に北海道帝国大学で学部の[[地質学]]の担当教官を務めている<ref>湊(1982)pp.897-899</ref>。 | 現在の[[北海道大学]]の前身にあたる、東北帝国大学農科大学・北海道帝国大学の講師となり<ref name="加藤(1998)pp.55-56" />、1909,1915,1917年に札幌の東北帝国大学農科大学の学部で「岩石学(ないし海洋学)」の担当教官、1922,1924,1926-1928年に北海道帝国大学で学部の[[地質学]]の担当教官を務めている<ref>湊(1982)pp.897-899</ref>。 | ||
47行目: | 48行目: | ||
戦中から戦後にかけて[[昭和新山]]の調査に関わり、命名を行った<ref name="土肥(2008)p.13" />。1948年に[[オスロ]]で開催された[[万国火山会議]]に昭和新山が隆起する様子を図示した[[ミマツダイヤグラム]]を提出した<ref>左巻(2012)要頁番号</ref>。 | 戦中から戦後にかけて[[昭和新山]]の調査に関わり、命名を行った<ref name="土肥(2008)p.13" />。1948年に[[オスロ]]で開催された[[万国火山会議]]に昭和新山が隆起する様子を図示した[[ミマツダイヤグラム]]を提出した<ref>左巻(2012)要頁番号</ref>。 | ||
− | + | 戦後、東北大学で教鞭をとり、退官後の晩年は法政大学で講義をした<ref>田中館秀三業績刊行会(1975)</ref>。 | |
1951年に死去、享年67<ref name="加藤(1998)pp.55-56" />。 | 1951年に死去、享年67<ref name="加藤(1998)pp.55-56" />。 |
2017年9月15日 (金) 01:25時点における版
田中館(下斗米)秀三(たなかだて(しもとまい)ひでぞう、1884年-1951年)は、日本の地理学者。火山・湖沼学、地質学、人文地理学、兵要地誌(軍事地理学)など広範な分野で業績を残し、揺籃期の東北帝国大学理学部地理学教室を主催し後進を指導した。
東京帝国大学理学部を卒業後、東北帝国大学農科大学・北海道帝国大学で地質学の講師を務めながら、1910-1914年にイタリアでヴェスヴィオ山の調査を行い、1919-1920年に青島で鉱物資源などの兵要(軍事地理)調査を行なった。1930年代には東北地方から南方への拓殖移民推進政策に関連した調査・研究を行ない、1941-1942年には仏印や英領マラヤなどで鉱物資源の兵要調査を行った。
日本軍によるシンガポール占領直後にラッフルズ博物館・植物園の接収を担当し、博物館の収蔵品の掠奪や散逸を防止したことがよく知られているが、同時に博物館による資料の収集(掠奪)や日本への移送、資料の軍事活用を担当していたことはあまり知られていない。
戦後は東北大学や法政大学で教鞭をとった。1945年9月に大本営から外邦図などの兵要地図を譲り受け、東北大学など各地の大学に保管した。[1]
目次
経歴
(いつ?)東京帝国大学理学部地質学科卒[2]。
現在の北海道大学の前身にあたる、東北帝国大学農科大学・北海道帝国大学の講師となり[2]、1909,1915,1917年に札幌の東北帝国大学農科大学の学部で「岩石学(ないし海洋学)」の担当教官、1922,1924,1926-1928年に北海道帝国大学で学部の地質学の担当教官を務めている[4]。
この間、1910年から、ナポリでヴェスヴィオ火山の調査を行なう[5]。
1914年には、ナポリで火山学を講じていたジュゼッペ・デ・ロレンツォの紹介により、ナポリの王立東洋学院 Reale Istituto Orientale(ナポリ東洋大学 Universita degli Studi di Napoli "L'Orientale" の前身)の教師となる[5]。ナポリでは下斗米(しもとまい)の姓で知られていた[5]。
1915年、日本政府の命令により、日本に帰国[5]。
1919年から2,3年の間、青島民政部に関係[6]。1922年に青島民政部の報告書『山東省ノ地質鉱山』を編じている[7]。
1922年に[2]、東京帝国大学教授・田中舘愛橘の養子となる[8]。
(いつから?)国際火山学会で活躍[2]。
1927年から欧州各地へ留学[2]。
1934年頃には東北帝国大学法文学部(経済地理学研究室)講師となっていた[10]。
1941年4月、仏印と雲南省の境界付近に賦存する燐灰石鉱床の調査・研究を行う[11]。同年12月、東北帝国大学から学術研究(同年4月からの研究の継続)のため仏印出張を命じられる[12]。
1942年1月12日『東京日日新聞』には、仏印への農業移民を提唱する談話が掲載された[13]。
1942年2月中旬、ハノイの南方軍総司令部で塚田参謀長から「シンガポール攻略後の資源調査」を現地で軍と打合せて実施するよう指示を受け、同月16日にサイゴンから日本軍占領直後のシンガポールに入る[14]。占領直後、昭南特別市長のような立場にあった豊田薫からの指示で、ラッフルズ博物館・植物園の接収にあたり、同年8月末まで博物館長・植物園長のような立場にあった[15]。
1942年3月20日-4月15日にはジャワ、同年5月28日-6月14日にはスマトラ、同年6月26日-7月14日にはマライへ出張し研究機関や文化施設を巡回した[16]。
同年9月に徳川義親が昭南博物館長・植物園長となり、佐藤瞕が植物園長代理となった後も博物館での「資源調査」を支援していたが、同年11月中旬に日本に一時帰国し、翌1943年1月16日に再び昭南入りした後、同年2月にクアラ・ルンプールやタイピンの研究機関・博物館等の事務をし、2ヶ月ほど「軍の仕事」を手伝い、同年4月29日に日本に帰国した[17]。このときの「資源調査」の成果と思しき稿に田中館(1942a,b)がある。
戦中から戦後にかけて昭和新山の調査に関わり、命名を行った[5]。1948年にオスロで開催された万国火山会議に昭和新山が隆起する様子を図示したミマツダイヤグラムを提出した[18]。
戦後、東北大学で教鞭をとり、退官後の晩年は法政大学で講義をした[19]。
1951年に死去、享年67[2]。
兵要地誌
青島民政部時代の経験
田中館は、1919年から数年間、青島民政部に関与していたが、このとき同部はドイツ時代に作られた図書館を全部解散して、書籍を日本の各中等学校に数冊ずつ配布することを決定、また諸調査機関の書庫を解放して重要な文書を離散させていた[20]。
青島民政部の報告書『山東省ノ地質鉱山』(田中館,1922)は、現地の図書館や諸調査機関の書庫中で発見した「重要書類」を参考にして、地下資源の調査資料としてまとめたものとされている[21]。
シンガポール占領後の資源調査
田中館は、シンガポール陥落前に植物園の園長・副園長だったR.E.ホルタム、E.J.H.コーナー博士、市庁水産局長だったW.バートウイッスルら当時「敵性外国人」とされていた英国人を捕虜の身分で協力させ、1942年2月中旬から、「軍参謀」の許可を得て、コーナーとともに外出して市内の行政機関事務所や要人宅から図書や備品などを収集(掠奪)して博物館附属図書館に集め、整理・仕分け作業を行った[22]。
3月中旬に「或要務」を帯びて仏印・サイゴンから昭南博物館に出張して来た南方総軍獣医部の古賀忠道少尉や、3月26日にサイゴンから昭南入りした昆虫学者の江崎悌三・九州帝国大学教授、植物学者の本田正次東京帝国大学助教授、地質学の大塚弥之助・東京帝国大学助教授ら3人も資料収集に参加し、田中館が3月20日から4月15日にかけてジャワ出張で不在の間も作業は続けられた[23]。
略奪を行った事務所や個人宅の詳細は、田中館(1944)pp.58-63,66-67,72に記載があり、また加藤(1998)p.61によると、コーナーの回顧録の原著の付録に略奪を行った場所と内容の記録がある。
田中館(1944)pp.62-63には1942年3月中に約4万の図書を集め、5月頃にもまだ図書を収集していたとの記載があり、加藤(1998)p.61によるとコーナーの原著には活動により集められた資料は4万冊超、その後、倍の8万冊になったとの記載がある。
集めた図書は博物館付属図書館で整理されたが、このうちの相当数が日本へ送られたとみられている。1946年3月に設置された占領軍の民間財産管理局(CPC)は、1947年4月30日に指令第000.3号「シンガポールのラッフルズ博物館図書館より持ち去られた財物について」を発しており、図書の移入先となり、戦後図書の返還作業を行なった帝国図書館員の回想の中に「ラッフルズ」に送り返したものが「万という数」「数え切れない」ほどあった、との叙述がみられる[24]。
また田中館はジャワ・スマトラ・マレー各地を出張した際に各地の文化施設・研究機関を見て廻り、スマトラ島・メダンでは学術研究機関が占領当時のまま放置されていたため、当時の軍政部長・黒川大佐に図書館設立の必要を説き、場所を決めて市内各所に散在していた図書約2万冊を集め、元アプロス農業研究所員のオランダ人・シュリーケを図書係にして図書を整理させ、整理作業中にシンガポールに戻ったが、後で「大変役に立った」と感謝され、却って恐縮した、としている[25]。
大本営の兵要地図の譲受と保管
1945年9月に、東北大学理学部地理学講座の教授をしていたとき、東京・市ヶ谷にあって、閉鎖に向けて業務処理中だった大本営陸軍部を訪問し、旧知の間柄で、部下と共に執務にあたっていた渡辺正参謀に兵要地図の寄贈を求めた[26]。
渡辺参謀の承諾を受け、同本部や神田の明治大学地下にあった参謀本部分室から大量の外邦図や国内の地形図を、応急整理の上、リヤカーで搬出[26]。神保町のスズラン通り裏手にあった貸事務所の一室を借り、岡本次郎と三田亮一が参謀本部との間片道約4キロメートルを何度も往復して地図を運んだ[26]。
地図は、仙台へ運ばれ、東北大学理学部地理学教室に収蔵されたほか、当時資源科学研究所地理部門主任と東京大学理学部地理学教室の助教授を兼務していた多田文男らにより、数ヶ所を経て大久保の資源科学研究所に収蔵されたものなど、複数の保管先に収蔵された[26]。
評価
- 徳川(1973)pp.186-187は、「田中館くんは不思議な人で、専門は何だかさっぱりわからない。なににでも食いつくが、学位論文などは出さない。親爺が著名な学者だったので、便乗して学者らしく振舞っていたとだけしか考えられない。」とし、また「学者は多く集まったが、だれも彼を信用していなかった」としながら、「こうはいうが、ぼくは彼を高く買っている。戦いのあと、博物館、図書館、試験所、研究所などの文化施設を押さえ、憲兵をつけて、破壊と掠奪から護ったのは田中館くんである。これこそ大きな功績といってよかろう。」と評している。[27]
- 大石(1995)pp.30-31は、「徳川義親「田中館秀三『南方文化施設の接収』に対する評」昭和19年」からの引用として、義親が田中館から同書を受贈されたときに、田中館を「精神異常者であって、知人は誰も相手にしなかった。著書として残ると記事となって、すべての人々は甚だ迷惑である。記事は全部、彼の夢想したことで事実ではない。軍の嘱託でも何でもない。戦争のどさくさに乗じて戦地の各場をまわり、自称嘱託にすぎない。戦地は順序も秩序も厳しいもので、自由に人の任免は出来ないのである。私の博物館長になった理由など彼は全々知らず彼は自分の手柄のやうに書いてあるが全々のでたらめである。此位全部捏造であることも珍しい。併しこれは人を騙さうとしたのではなく夢想した記事といった方がよい。悪意のものではないと思ふ。」と評していたことを紹介している。[28]
著作物
単著
- 田中館(1975) 田中館秀三(著)田中館秀三業績刊行会(山口弥一郎ほか)(編)『田中舘秀三‐業績と追憶』世界文庫、1975年、全国書誌番号:73012802
- 田中館秀三業績刊行会(1975)「紹介 田中館秀三業績刊行会:"田中館秀三"」『地質学雑誌』vol.81 no.8、1975年8月、p.528、NAID:110003024712
- 矢沢(1976) 矢沢大二「書評と紹介 田中館秀三業績刊行会編:田中館秀三‐業績と追憶」『地学雑誌』vol.85 no.1、1976年、p.61、DOI 10.5026/jgeography.85.61
- 田中館(1944) 田中館秀三『南方文化施設の接収』時代社、1944年、NDLJP:1267166
- 田中館(1942b) 田中館秀三「マレー半島の鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第4巻 マレー・ビルマ』ダイヤモンド社、1942年、NDLJP:1875520 (閉)
- 田中館(1942a) 田中館秀三「フィリッピンの鉱業」飯本信之・佐藤弘(編)『南洋地理大系 第2巻 海南島・フィリッピン・内南洋』ダイヤモンド社、1942年、NDLJP:1875520 (閉)
- 田中館(1941) 田中館秀三(述)『佛印燐灰石の鑛床に就て』海外鑛業協会、1941年
- 田中館(1937b) 田中館秀三「地理学上より見たる東北地方の開拓」『地理学』vol.5 no.4 別刷、1937年
- 田中館(1934a) 田中館秀三(述)『東北地方の凶作に就て』東北帝国大学法文学部経済地理学研究室、1934年、NDLJP:1100396
- 田中館(1931b) 田中館秀三「湖沼学」『地理学講座 第11回』、地人書館、1931年、pp.129-206、NDLJP:1876798/82 (閉)
- 田中館(1931a) 田中館秀三「海洋第3」『地理学講座 第4回』、地人書館、1931年、pp.145-190、NDLJP:1876737/95 (閉)
- 田中館(1930b) 田中館秀三「海洋第2」『地理学講座 第2回』、地人書館、1930年、pp.171-232、NDLJP:1876720/102 (閉)
- 田中館(1930a) 田中館秀三「海洋第1」『地理学講座 第1回』、地人書館、1930年、pp.83-126、NDLJP:1876710/59 (閉)
- 下斗米(1911) 下斗米秀三「回航日誌 ケープベルデ諸島及カナリー諸島の部」日本地質学会『地質学雜誌』vol.18 no.208、1911年1月、DOI 10.5575/geosoc.18.16、pp.16-29
- 下斗米(1910c) 下斗米秀三「回航日誌 ブラジルの部」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.207、1910年12月、DOI 10.5575/geosoc.17.207_508、pp.508-521
- 下斗米(1910b) 下斗米秀三「ケープ・タウンの四日間」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.204、1910年9月、DOI 10.5575/geosoc.17.389、pp.389-400
- 下斗米(1910a) 下斗米秀三「モウリチアス島見聞記」日本地質学会『地質学雜誌』vol.17 no.203、1910年8月、DOI 10.5575/geosoc.17.360、pp.360-366
共編著
- 田中館・山口(1953) 田中館秀三・山口弥一郎『東北地方の経済地理研究』古今書院、1953年、NDLJP:3017935 (閉)
- 田中館(1939) 田中館秀三(編)「阿武隈川水路図」『文化』vol.6 no.7、1939年
- 田中館・山口(1938) 田中館秀三・山口弥一郎「三陸地方の津浪に依る聚落移動」『斎藤報恩会時報』no.141-143 別刷、1938年9-11月
- 田中館(1937a) 田中館秀三(編)『市町村名の読方及び市町村面積人口密度表』日本書房、1937年、NDLJP:1219990
- 地学雑誌(1937)「(書評)田中館秀三編 市町村名の読方及び市町村面積人口密度表」『地学雑誌』vol.49 no.12、1937年、DOI 10.5026/jgeography.49.600a、p.600
- 田中館・山口(1936) 田中館秀三・山口弥一郎『東北地方に於ける出作及び出稼聚落の経済地理 : 福島県南会津郡桧枝岐村の出作,岩手県二戸郡田山村の出稼』『地理学評論』vol.12 no.3 別刷、pp.218-247、1936年3月
- 田中館(1934b) 田中館秀三(編)『東北地方市町村別人口密度表:昭和5年』斎藤報恩会,1934年
- 田中館・猪鹿倉(1932) 田中館秀三・猪鹿倉忠俊『日本の水力・石炭・石油』〈岩波講座 地理学7〉岩波書店、1932年、NDLJP:1240716 (閉)
- 田中館・猪鹿倉(1932) 田中館秀三・猪鹿倉忠俊『水力・石炭・石油』〈岩波講座 地理学5〉岩波書店、1932年、NDLJP:1240674
- 田中館(1926) 田中館秀三(編)『十勝岳爆発概報 大正15年6月25日』田中館秀三、1926年、NDLJP:981513
- 田中館(1922) 田中館秀三(編)『山東省ノ地質鉱山』青島守備軍民政部、1922年、NDLJP:960500
- 神保(1923) 神保小虎「解題 田中館秀三 山東省の地質鉱山」日本地質学会『地質学雑誌』vol.30 no.355、1923年4月、pp.180-181、NAID:110003011645
新聞記事
- 田中館(1942-1-12) 「農業も仏印進駐だ 東北帝大講師 田中館秀三氏談」神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 東南アジア経済事情(11-009) 『東京日日新聞』1942.1.12 2017年9月12日閲覧
脚注
- ↑ この記事の主な出典は、松岡(2010)、土肥(2008)、石井(1982)、湊(1982)および田中館(1944)。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 加藤(1998)pp.55-56
- ↑ 田中館秀三業績刊行会(1975)。1975年当時の二戸市(同)。
- ↑ 湊(1982)pp.897-899
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 土肥(2008)p.13
- ↑ 田中館(1944)p.5
- ↑ 田中館(1944)pp.5-6
- ↑ 土肥(2008)p.13、加藤(1998)pp.55-56、徳川(1973)pp.186-187
- ↑ 田中館(1926)
- ↑ 加藤(1998)pp.55-56、田中館(1934a)表題・奥書。
- ↑ 田中館(1944)p.3
- ↑ 田中館(1944)p.3
- ↑ 田中館(1942)
- ↑ 田中館(1944)pp.序2,3-9
- ↑ 田中館(1944)pp.24-27,50-53
- ↑ 田中館(1944)pp.38-40,44,47-48,56
- ↑ 田中館(1944)pp.50-53,76-80
- ↑ 左巻(2012)要頁番号
- ↑ 田中館秀三業績刊行会(1975)
- ↑ 田中館(1944)p.5。田中館は、図書館を廃止して図書を離散せしめるのは文化の破壊、ドイツに対する怨みを国民に植え付けることにもなる、として当時の秋山民政長官に反対を申し入れ、お叱りを被った、という(同)。
- ↑ 田中館(1944)pp.5-6
- ↑ 加藤(1998)pp.60-61、田中館(1944)pp.58-63。
- ↑ 加藤(1998)pp.60-61、田中館(1944)pp.40,65-66
- ↑ 加藤(1998)pp.65-66
- ↑ 田中館(1944)pp.229-230
- ↑ 26.0 26.1 26.2 26.3 松岡(2010)頁番号未詳
- ↑ (編注)「学位論文は出さない」とあるが、#著書に挙げたように報告書類は多数執筆していることが確認でき、「学者らしく振舞っていたとだけ」とあるが、大学の地質学講師としての職歴も長きにわたっている。また田中館(1944)に言及があるように、シンガポール占領初期の活動は、市内の旧英政府機関や要人宅から資料を収集(掠奪)し、博物館に収集したそれらの資料を盗難や掠奪から守る、という二面性があった由である。 田中館の活動は、現地で収集した資料を日本軍の軍事活動に役立てるという流れの上にあり、田中館には1919-21年の青島や1941年の仏印における実績もあったわけであるが、「兵要」という目的は明かにされず、田中館は適当に嘘をついてごまかしていたため、傍目にはいかがわしい、何をしているのかよく分からない人物と認識されていたものと思われる。或は、徳川は第25軍内で強硬派(反英色が強い)に属し、田中館(1944)には「○○○軍政部長」すなわち当時の軍政部長・馬奈木敬信の指示を受けていた旨言及があり、同書の内容からしても田中館は穏健色が強かったと思われるため、馬奈木が北ボルネオへ転出した1942年4月以降、政治的に弱い立場にあったことを背景にした評価とも考えられる。
- ↑ (編注)大石(1995)は公刊物からの引用のように記しているが、私家本ないし日記からの引用と思われる。田中館(1944)pp.52-53,76-77には、1942年9月の徳川の博物館長・植物園長就任について、情勢が落ち着いて徳川を館長・園長に迎えても問題がない状況になった、執務は代理の佐藤が担当するので心配ない。徳川を館長にしようと元図書館主事室を『マーケース・ルーム』と名付けて美麗に設え、来館を要請して画策したのが成功した、という趣旨の記述があるため、これを読んで気分を害して書いたように思われる。
参考文献
- 田中館の著書等については#著作物を参照。
- 左巻(2012) 左巻健男『面白くて眠れなくなる地学』PHP研究所、2012年。
- 松岡(2010) 松岡資明『日本の公文書: 開かれたアーカイブズが社会システムを支える』ポット出版、2010年。
- 土肥(2008) 土肥秀行「下位春吉とナポリの文芸誌『ラ・ディアーナ』-下位春吉伝(上)」イタリア書房『イタリア図書』〈特集・日伊交渉(4)〉no.39、2008年10月、p.11-17
- 加藤(1998) 加藤一夫「日本の旧海外植民地と図書館‐東南アジアの図書館接収問題を中心に(未定稿)」国立国会図書館『参考書誌研究』no.49、1998年3月、DOI 10.11501/3051416、pp.50-70
- 大石(1995) 大石勇「太平洋戦争(時)下の昭南島‐第25軍最高軍政顧問徳川義親と軍政」『徳川林政史研究所研究紀要』no.29、pp.21-51
- 石井(1982) E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、全国書誌番号:82050003
- 湊(1982) 湊正雄「北大における地質学と北海道」北海道大学『北大百年史 通説』ぎょうせい、1982年、pp.893-907
- 徳川(1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、全国書誌番号:73011083
関連文献
- 太田愛人『野村胡堂・あらえびすとその時代』教文館、2003年、pp.64-65
- 科学朝日『スキャンダルの科学史』朝日新聞社、1997年、p.293
- 荒俣宏『大東亜科学綺譚』筑摩書房、1991年。
- 岡山俊雄『日本の山地地形と氷河問題研究小史』古今書院、1974年,p.184
- 内閣官房局『職員録』印刷局、1913年、p.30。
- 日本工学会『明治工業史 第8巻』
- 『水産界』no.400-411、1916年、p.762
- 日本地質学会『地質学雑誌』vol.15-16、1908年、p.52,154,159
- 『市立函館図書館蔵 郷土資料分類目録 第4巻』市立函館図書館、1966年、p.597,598,603。
外部リンク
- 東北大学附属図書館/理学部地理学教室 外邦図デジタルアーカイブ 2017年9月14日閲覧。