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		<title>瀬島龍三 - 変更履歴</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;新しいページ: &amp;#039;{{Infobox 軍人 |name=瀬島 龍三 |lived=&lt;a href=&quot;/wiki/1911%E5%B9%B4&quot; title=&quot;1911年&quot;&gt;1911年&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;/wiki/12%E6%9C%889%E6%97%A5&quot; title=&quot;12月9日&quot;&gt;12月9日&lt;/a&gt;  - &lt;a href=&quot;/wiki/2007%E5%B9%B4&quot; title=&quot;2007年&quot;&gt;2007年&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=9%E6%9C%884%E6%97%A5&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;9月4日 (存在しないページ)&quot;&gt;9月4日&lt;/a&gt; |placeofbirth=&lt;a href=&quot;/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C&quot; title=&quot;富山県&quot;&gt;富山県&lt;/a&gt;&lt;a href=&quot;/mediawiki/index.php?title=%E8%A5%BF%E7%A0%BA%E6%B3%A2%E9%83%A1&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1&quot; class=&quot;new&quot; title=&quot;西砺波郡 (存在しないページ)&quot;&gt;西砺波郡&lt;/a&gt;松沢村&amp;lt;br&amp;gt;（現在の[[小矢部...&amp;#039;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;{{Infobox 軍人&lt;br /&gt;
|name=瀬島 龍三&lt;br /&gt;
|lived=[[1911年]][[12月9日]]  - [[2007年]][[9月4日]]&lt;br /&gt;
|placeofbirth=[[富山県]][[西砺波郡]]松沢村&amp;lt;br&amp;gt;（現在の[[小矢部市]]）&lt;br /&gt;
|placeofdeath=[[東京都]][[調布市]]&lt;br /&gt;
|image=[[画像:Sejimaryuzo01.jpg|200px]]&lt;br /&gt;
|caption=写真は[[1939年]]関東軍司令部参謀時のもの。&lt;br /&gt;
|nickname=&lt;br /&gt;
|allegiance=[[大日本帝国陸軍]]&lt;br /&gt;
|serviceyears=&lt;br /&gt;
|rank=[[陸軍中佐]]&lt;br /&gt;
|commands=大本営陸海軍兼任[[参謀]]&lt;br /&gt;
|unit=[[大本営]]及び[[関東軍]]&lt;br /&gt;
|battles=[[マレー作戦|マレー上陸作戦]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|M作戦]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル撤収作戦]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ニューギニアの戦い|ニューギニア作戦]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[インパール作戦]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[台湾沖航空戦]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[捷一号作戦]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[菊水作戦]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[ソ連対日参戦|対ソ防衛戦]]&lt;br /&gt;
|awards=従三位勲一等瑞宝章&lt;br /&gt;
|laterwork=実業家&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''瀬島 龍三'''（せじま りゅうぞう、[[1911年]][[12月9日]] - [[2007年]][[9月4日]]）は、[[大日本帝国]][[大本営]]作戦参謀、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]44期（[[1932年]]）卒。[[陸軍大学校]]51期（[[1938年]]）首席。[[実業家]]。号は「立峰」。戦後は[[伊藤忠商事]]会長。岳父は、[[岡田啓介]]政権で[[内閣総理大臣秘書官|内閣総理大臣筆頭秘書官]]を務めた[[松尾伝蔵]]（陸軍[[大佐]]）である（松尾の長女清子が妻）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 初期 ===&lt;br /&gt;
1911年12月9日、[[富山県]][[西砺波郡]]松沢村鷲島（現在の[[小矢部市]]鷲島）の[[農家]]に三男として生まれた。[[富山県立砺波高等学校|旧制富山県立砺波中学校]]、[[陸軍幼年学校]]を経て、[[1932年]]に[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を次席（首席は原四郎）で卒業し、[[昭和天皇]]から[[恩賜]]の[[銀時計]]を受けた。その後、富山三十五連隊付将校として中国戦線に従軍。そして師団長の推薦により[[陸軍大学校]]に入学し、[[1938年]][[12月8日]]、首席で卒業した。その折、[[昭和天皇]]から[[恩賜の軍刀]]を受けた。御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[1939年]][[1月15日]]に[[関東軍]]第四師団参謀として[[満州]]へ赴任し、同年5月15日には第五軍軍(司令官[[土肥原賢二]]中将)参謀となり、同年11月22日に大本営陸軍部幕僚付関東軍参謀本部部員となる。そして、翌[[1940年]]、大本営陸軍部作戦課に配属される。なお、この関東軍参謀時代に彼は対ソ示威演習である[[関東軍特種演習]]（関特演）の作戦担当として作戦立案にあたった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 太平洋戦争時 ===&lt;br /&gt;
[[1941年]]7月に大本営陸軍部第一部第二課作戦班班長補佐となり、同年[[12月8日]]の[[太平洋戦争]]開戦以降、陸軍のほぼ全ての軍事作戦を作戦参謀として指導した。主任として担当したものを含めて、主なものは[[マレー作戦|マレー上陸作戦]]、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|M作戦]]、[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル撤収作戦]]、[[ニューギニアの戦い|ニューギニア作戦]]、[[インパール作戦]]、[[台湾沖航空戦]]、[[捷一号作戦]]、[[菊水作戦]]、[[決号作戦]]、[[ソ連対日参戦|対ソ防衛戦]]などであった。また、1945年2月25日には、連合艦隊参謀兼務となり、最終階級は[[陸軍中佐]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1945年]][[7月1日]]、関東軍参謀に任命され、満州へ赴任。同年[[8月15日]]の日本の降伏後、極東[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]総司令官[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー]]元帥との停戦交渉に赴くも、同年[[9月5日]]、関東軍司令官の山田乙三や秦総参謀長らとともに[[捕虜]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== シベリア抑留 ===&lt;br /&gt;
その後、瀬島は[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[シベリア]]へ11年間抑留されることとなる&amp;lt;ref&amp;gt;このとき高級将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ（本来将校には労働の義務はない）、建築作業に従事した。このときのことを諧謔として｢佐官が左官になった｣と述懐している。ただし瀬島は当時ソ連側に優遇されており、他の抑留者ほどの強制労働には従事していない（詐称している）、との指摘が保阪や抑留協などによってなされている）&amp;lt;/ref&amp;gt;。この間、連合国側から[[極東国際軍事裁判]]に証人として出廷することを命じられ、[[1946年]]9月17日に[[草場辰巳]]・[[松村知勝]]とともに[[ウラジオストク]]から空路[[東京]]へ護送され、訴追側証人として出廷した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年瀬島は[[シベリア抑留]]について、「日本の軍人や民間人の帰国を規定した[[ポツダム宣言]]（9条）違反であり、[[日ソ中立条約]]を破っての対日参戦とともに、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の犯罪であった」と述べている。また、[[日独伊三国同盟]]の締結についても、断じて実施すべきではなかったと述懐している&amp;lt;ref&amp;gt;『産経新聞』2007年9月5日8時3分配信 &amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、神風特攻作戦については、「特攻は自発的なものであった」と自著で述べている。なお、瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、陸軍第五航空軍の作戦参謀として南九州の陸軍基地で勤務した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 伊藤忠商事時代 ===&lt;br /&gt;
シベリア抑留から帰還後、1958年に大手[[商社]]の[[伊藤忠商事]]に入社する。入社3年目の1961年には業務部長に抜擢され、翌年に[[取締役]]業務本部長、半年後に常務となる。その後も、1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会長に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帝国陸軍の[[参謀本部]]の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて、伊藤忠商事の総合商社化などに辣腕をふるった&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、瀬島自身は晩年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の番組『[[新・平成日本のよふけ]]』の中で「瀬島機関」の存在そのものを否定、マスコミの作り話と語っていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1981年に[[相談役]]、1987年に特別顧問に就く。この間、[[中曽根康弘]]政権（1982年～1987年）のブレーンとして、[[第二次臨時行政調査会|第二次臨時行政調査会（土光臨調）]]委員などを務め政治の世界でも活躍した。84年に[[勲一等]][[瑞宝章]]を受章。他にも[[亜細亜大学]]理事長、財団法人[[千鳥ケ淵戦没者墓苑]]奉仕会会長、[[財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会]]名誉会長などの公職を歴任した。2000年、伊藤忠商事特別顧問を退任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===晩年===&lt;br /&gt;
晩年は、フジテレビの番組『[[平成日本のよふけ|新・平成日本のよふけ]]』に出演し、[[笑福亭鶴瓶]]と[[南原清隆]]を前に自らの人生や日本のこれからについて滔々と語った。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]][[9月4日]]午前0時55分、老衰のため[[東京都]][[調布市]]の私邸において死去した。享年95。逝去後、[[従三位]]が贈られた。同年[[10月17日]]には、[[築地本願寺]]において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執り行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
[[山崎豊子]]の小説『[[不毛地帯]]』の主人公・壱岐正中佐、『[[沈まぬ太陽]]』の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれ、『[[二つの祖国]]』では実名の記述が見られる。支持者も多いが、一部に証言が誠実でないとして批判をする人間も存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[半藤一利]]は、太平洋戦争中に瀬島龍三が行った行為について、一貫して否定的な評価をしており、その著書において、繰り返し非難している。また、そのいくつかの著書の中で、[[司馬遼太郎]]との間に確執があったことを記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
肯定的な立場は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]スタッフ『瀬島龍三 日本の証言―新・平成日本のよふけスペシャル』や[[綱淵昭三]]『瀬島龍三の魅力―ビジネス・ステーツマン』などに見られ、[[保阪正康]]『参謀の昭和史』、共同通信社社会部『沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか』などに否定的な見解がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約（日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという）が結ばれたとの疑惑が[[斎藤六郎]]（[[全国抑留者補償協議会]]会長）、[[保阪正康]]らにより主張されているが、本人は停戦協定の際の極東ソ連軍総司令官[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー]]と関東軍総参謀長[[秦彦三郎]]にはこのような密約を結ぶ権限がなかったことを用いながら反論している&amp;lt;ref&amp;gt;『日本の証言』フジテレビ出版。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
なお、[[ロシア]]政府からそのような懐疑を証明できる証拠はペレストロイカの情報開示後も何ら発見されてはいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコはジャーナリスト加藤昭の取材に対し、「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒！日本共産党万歳！』と拳を突き上げながら絶叫していた」 と証言し、「瀬島氏はソ連のスパイではないのか」との問いには「それはトップシークレット」とのみ回答している&amp;lt;ref&amp;gt;「瀬島龍三・シベリアの真実」『文藝春秋』1992年2月号（創刊70周年記念2月特別号）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1979年]]、昭和天皇の孫・[[東久邇優子]]（[[東久邇宮稔彦王]]第一王子[[盛厚王]]の子）が伊藤忠商事社員と結婚する事となり、その結婚式が瀬島龍三夫妻を媒酌人として執り行われることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを受けて、[[スリランカ|スリランカ民主社会主義共和国]]大統領が来日しその歓迎晩餐会が宮中において催された際、宮殿の別室に於いて同じく招待を受けた瀬島龍三夫妻は昭和天皇に拝謁した。その席で「瀬島は戦前戦後と大変御苦労であった。これからも体に気をつけて国家、社会のために尽くすように。それから、今度お世話になる東久邇の優子は私の孫である。小さいときに母（[[東久邇成子]]）と死に別れ、大変かわいそうな孫である。自分はこういう立場にいるので十分な面倒が見られず、長く心に懸かっていた。このたび立派に結婚することができ、自分も[[香淳皇后|良子]]も大変喜んでいる。どうか宜しくお願い申し上げたい」という言葉を発し、瀬島夫妻に孫娘の結婚に際し御礼を述べた、と瀬島自身が証言している。昭和天皇の謦咳に接した瀬島は「陛下よりお言葉を賜ったことで、積年の苦労が全て吹き飛んだ」と周囲の関係者に漏らしていたという&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、このやりとりを証言している者は瀬島自身しかいないため、信憑性を疑う意見も存在する。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その一方で、昭和天皇は「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」と発言した、とする証言も存在する&amp;lt;ref&amp;gt;田中清玄自伝、文芸春秋、1993年。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
瀬島は[[東映]]の[[岡田茂]]に頼んで「昭和天皇」の映画を製作しようとしたことがある。これは当時、東映が『[[二百三高地]]』や『[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]』『零戦燃ゆ』といった戦争大作を次々製作していたため、その仕上げとしての意味で、[[笠原和夫]]の力を入れた脚本は書き上がっていた。しかし[[宮内庁]]の反対を喰らって頓挫したという&amp;lt;ref&amp;gt;『映画はやくざなり』笠原和夫、p102&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、笠原和夫他、p422-424、454、455、489-491、506&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生前の公職 ==&lt;br /&gt;
* [[亜細亜大学]]理事長&lt;br /&gt;
* [[千鳥ケ淵戦没者墓苑|財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会]]会長&lt;br /&gt;
* [[財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会]]名誉会長&lt;br /&gt;
* [[財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会]]名誉会長&lt;br /&gt;
* サーチファーム・ジャパン株式会社 名誉顧問&lt;br /&gt;
* 地域伝統芸能活用センター会長&lt;br /&gt;
* 日本戦略研究フォーラム会長&lt;br /&gt;
* 財団法人花と緑の農芸財団会長&lt;br /&gt;
* 日本美術協会会長&lt;br /&gt;
* 昭和聖徳記念財団理事&lt;br /&gt;
* 全国旅行業協会理事&lt;br /&gt;
* [[日本会議]]顧問&lt;br /&gt;
* 日本電信電話株式会社顧問&lt;br /&gt;
* 日本ツーリズム産業団体連合会顧問&lt;br /&gt;
* 稲盛財団相談役&lt;br /&gt;
* 日本国際フォーラム顧問&lt;br /&gt;
* 理想教育財団理事&lt;br /&gt;
* 五島記念文化財団理事&lt;br /&gt;
* 伊藤謝恩育英財団会長&lt;br /&gt;
* 同台経済懇話会会長&lt;br /&gt;
* 軍事史学会特別顧問&lt;br /&gt;
* [[日本テレビ放送網]]監査役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍歴 ==&lt;br /&gt;
*[[1932年]]（昭和7年）7月11日 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]卒業（44期次席）。&lt;br /&gt;
**10月25日 - [[少尉]]に昇進。[[歩兵]]第35[[歩兵連隊|連隊]]附。&lt;br /&gt;
*[[1934年]]（昭和9年）7月 - [[中尉]]に昇進。&lt;br /&gt;
*[[1935年]]（昭和10年）1月 - [[陸軍歩兵学校]]通信学生。&lt;br /&gt;
**12月 - [[第9師団 (日本軍)|第9師団]]通信隊附。&lt;br /&gt;
*[[1936年]]（昭和11年）8月 - 陸軍士官学校予科生徒隊附。&lt;br /&gt;
**12月14日 - 陸軍大学校入学。&lt;br /&gt;
*[[1937年]]（昭和12年）11月 - [[大尉]]に昇進。&lt;br /&gt;
*[[1938年]]（昭和13年）12月8日 - [[陸軍大学校]]卒業（51期首席）。&lt;br /&gt;
*[[1939年]]（昭和14年）1月 - [[第4師団 (日本軍)|第4師団]]参謀。&lt;br /&gt;
**5月 - [[第5軍 (日本軍)|第5軍]]参謀。&lt;br /&gt;
**11月22日 - [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員。&lt;br /&gt;
**12月27日 - 兼[[大本営]]参謀。&lt;br /&gt;
*[[1941年]]（昭和16年）10月 - [[少佐]]に昇進。&lt;br /&gt;
*[[1944年]]（昭和19年）8月1 - 兼[[軍令部]]員。&lt;br /&gt;
*[[1945年]]（昭和20年）2月 - 兼[[連合艦隊]]参謀。&lt;br /&gt;
**3月1日 - [[中佐]]に昇進。&lt;br /&gt;
**7月1日 - [[関東軍]]参謀。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
* 『戦略なき国家に明日はない : &amp;lt;small&amp;gt;戦後50年の日本の検証と今後の行方を示唆&amp;lt;/small&amp;gt;』　[[加藤寛 (経済学者)|加藤寛]]共著、日本政経文化社、1995年、ISBN 4-89041-264-6。　　&lt;br /&gt;
* 『幾山河 : &amp;lt;small&amp;gt;瀬島龍三回想録&amp;lt;/small&amp;gt;』　産経新聞ニュースサービス、1996年、ISBN 4-594-02041-0。&lt;br /&gt;
* 『祖国再生 : &amp;lt;small&amp;gt;わが日本への提案&amp;lt;/small&amp;gt;』 PHP研究所、1997年、ISBN 4-569-55534-9。&lt;br /&gt;
* 『大東亜戦争の実相』　PHP研究所〈PHP文庫〉、2000年、ISBN 4-569-57427-0。 &lt;br /&gt;
* 『91歳の人生論 : &amp;lt;small&amp;gt;「本分」を極める生き方とは?&amp;lt;/small&amp;gt;』　[[日野原重明]]共著、扶桑社、2003年、ISBN 4-594-04200-7。　　&lt;br /&gt;
* 『瀬島龍三 日本の証言 : &amp;lt;small&amp;gt;新・平成日本のよふけスペシャル&amp;lt;/small&amp;gt;』　番組スタッフ編、フジテレビ出版、2003年、ISBN 4-594-03880-8。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[保阪正康]]　『瀬島龍三 : &amp;lt;small&amp;gt;参謀の昭和史&amp;lt;/small&amp;gt;』　文芸春秋〈文春文庫〉、1991年、ISBN 4-16-749403-5。&lt;br /&gt;
* [[イワン・コワレンコ]]　『対日工作の回想』　文藝春秋、1996年、ISBN 4-16-352260-3。&lt;br /&gt;
* [[共同通信社]]社会部編　『沈黙のファイル : &amp;lt;small&amp;gt;「瀬島龍三」とは何だったのか&amp;lt;/small&amp;gt;』（　新潮社〈新潮文庫〉、1999年、ISBN 4-10-122421-8&lt;br /&gt;
* 新井喜美夫　『転進 瀬島龍三の「遺言」』　講談社、2008年、ISBN 978-4-06-214838-2。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 瀬島龍三をモチーフとした作品 ==&lt;br /&gt;
* 山崎豊子『[[不毛地帯]]』 - 主人公が瀬島をモデルにしているといわれている。&lt;br /&gt;
* 山崎豊子『[[沈まぬ太陽]]』 - 瀬島をモデルにしたと思しき登場人物がいる。&lt;br /&gt;
* [[さいとう・たかを]]『[[ゴルゴ13]]・モスクワの記憶』 - 瀬島をモデルにしたと思しき登場人物がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[シベリア抑留]]&lt;br /&gt;
* [[富田メモ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.jabira.net/retsuden/sa/sejima.htm 瀬島龍三伊藤忠商事会長・大本営陸軍参謀兼海軍参謀]&lt;br /&gt;
*[http://kingendaikeizu.net/sezima.htm 瀬島龍三 近現代・系図ワールド]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{先代次代|亜細亜学園理事長|第4代：1983年（昭和58年） - |[[五島昇]]|[[清水仁 (東急)|清水仁]]}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:せしまりゆうそう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の陸軍軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の実業家]]&lt;br /&gt;
[[Category:冷戦に関わった人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:学校法人の理事長]]&lt;br /&gt;
[[Category:富山県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1911年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2007年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Fromm</name></author>	</entry>

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