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		<title>姉小路 (和宮の大叔母) - 変更履歴</title>
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		<title>Entoniem on: 新規</title>
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				<updated>2012-10-14T02:59:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;新規&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;'''姉小路'''（あねがこうじ、[[文化 (元号)|文化]]7年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]（[[1810年]][[3月16日]]） - [[明治]]13年（[[1880年]]）[[8月9日]]）は、[[幕末]]の[[大奥]]の[[上臈御年寄]]。名は'''勝子'''。大奥では'''いよ'''（'''伊与子'''）と称した。父は[[橋本実誠]]。兄に[[橋本実久]]、妹に[[水戸藩]]老女[[花野井]]がいる。[[和宮親子内親王|和宮]]の生母である観行院（[[橋本経子]]）の叔母にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11代将軍[[徳川家斉]]から12代将軍[[徳川家慶]]の治世の間、大奥に君臨した&amp;lt;ref&amp;gt;将軍付ではあったが、筆頭上臈御年寄ではなかった&amp;lt;/ref&amp;gt;。将軍家の縁組に関しては姉小路が独断で差配していたとされ、後の13代将軍[[徳川家定]]の正室・[[天璋院|篤姫]]の輿入れに際しても、当初は大奥側の担当者として[[島津家]]との交渉を行っていた。一方で、政敵への陰謀の画策や[[天保の改革]]の妨害を試みるなど、政権運営にも影響力を及ぼし、財政の逼迫などの幕府破綻要素を作ったとされており、稀代の悪女という評価が伝えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
姉小路は、[[文化 (元号)|文化]]元年（[[1804年]]）に将軍家継嗣・徳川家慶の御簾中として輿入れした[[喬子女王|楽宮喬子女王]]付の小上臈として西ノ丸大奥に入った。家斉の娘・[[和姫]]が[[毛利斉広]]に輿入れする際に、姉小路は大上臈として和姫に従い毛利家江戸屋敷に入るが、[[天保]]元年（[[1830年]]）に和姫が死去したため、再び大奥に戻り、天保7年（[[1836年]]）に上臈御年寄となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
妹で[[水戸藩]]老女の花野井とともに美女として有名で、一説によれば家慶と閨を共にしたとも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[幕末]]期の大奥が[[水戸徳川家]]を嫌い始めたのは、姉小路が嫌い始めたためではないかといわれている。それはまた、大奥の経費が高すぎると斉昭が批判したのが原因と言われている。しかし、姉小路は[[一橋派]]の諸大名と親しく、水戸家とも連携を取っていたことも留意される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは斉昭が謹慎処分となった折にも影響した。当時、斉昭は奥女中[[三保野]]と通じて大奥工作をし、その処分の許しを請おうと図ったが、姉小路がこれを聞きとがめて三保野は暇を出されてしまったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天保]]12年（[[1842年]]）に姉小路が食していた天ぷらが原因で火事を起こし、本丸を全焼させてしまう。この火事は、奥女中が数百人死亡するという大惨事となった。姉小路は[[広大院]]付の上臈御年寄・[[梅渓]]に罪をなすり付けた。梅渓のその後は知られていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家慶の死去後に落飾、勝光院と号して上臈御年寄を退き、大奥から毛利家江戸屋敷に居を移した。引退したとはいえ、政治的発言力は保っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[公武合体]]の一貫として14代将軍・[[徳川家茂]]の[[徳川将軍家御台所|御台所]]に兄・実久の孫娘・和宮を迎える政策で、姉小路は和宮の降嫁を橋本家や姪の[[橋本経子|観行院]]（和宮の母）に何度も要求したという。姉小路自ら京都に赴き、降嫁を要求したこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸幕府の崩壊後は京都の実家に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治13年（1880年）に70歳で死去したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その他==&lt;br /&gt;
姉小路（あねこうじ / あねがこうじ / あねのこうじ）は、[[大奥]]の[[上臈御年寄]]の名としてしばしば用いられた。上記人物の他にも、4代将軍[[徳川家綱]]時代の上臈御年寄が知られている。この人物は、[[飛鳥井局]]とともに[[徳川将軍家御台所|御台所]]となる[[伏見宮貞清親王]]の息女[[顕子女王|浅宮顕子]]に随行して[[江戸]]へ下った人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あねかこうし}}&lt;br /&gt;
[[Category:大奥関連人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の公家]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕末の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:橋本家]]&lt;br /&gt;
[[Category:1810年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1880年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Entoniem on</name></author>	</entry>

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