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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-04-05T13:28:49Z</updated>
		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>柴崎浩二</title>
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				<updated>2015-09-23T13:36:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成:「'''柴崎 浩二'''(しばさき こうじ)、また'''DDDE'''とは、アンサイクロペディアを追放されユアペディアに逃げ込んだ荒らし...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''柴崎 浩二'''(しばさき こうじ)、また'''DDDE'''とは、[[アンサイクロペディア]]を追放され[[ユアペディア]]に逃げ込んだ荒らしの畜生であり、現在Yourpediaでは[[利用者:アンサイと喧嘩中]]と名乗っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アンサイクロペディア]]では「差し戻し戦争」などと銘打ってアカウントを作って荒らしてはブロックされ、この点から学習能力の欠如が疑われる。差し戻されるたびに「差し戻される理由が分からない！」などと書き込んでリバートするが要するにクソ面白くない荒らしがゴミみたいな記述をしているだけであって粛々と利用者に対処されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
主に鉄道系の記事を編集しているが基本的に頭がすっからかんであるため無価値な編集しかできず、彼の書いた記事はひとつたりとも存続できていない。また、ご当地ヒーローにこだわるなど[[勇者プクリン]]同等の知能を有していると考えられ、相手にしない事が得策である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ユアペディア]]では偉そうに[[利用者:アンサイと喧嘩中]]などと名乗っているが本人が喧嘩しているつもりなだけであってじゃれてきた馬鹿を蹴っ飛ばす程度の反応しかされていない事を本人は未だに気づいていない、やはり知遅れか何かなのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[アンコモンズ]]にもアカウントを複数作成しており、皮肉屋や恐竜帝国など色々な靴下を持っている、馬鹿だから気づいていないのであろうが周囲にはバレバレである。この記事を見て急いでトークページに引退マークを貼って逃げるかもしれないが、何度作っても本人が馬鹿なのですぐばれる。一生涯何故バレるのか理解できずに終わると思われ、するだけの脳みそがあればそもそもそんなものを作らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どこまでも残念な脳みそであるため、投稿ブロックの意味を一切理解していない事で有名であり「投稿ブロックされたユーザーの靴下が編集しちゃいけないだなんて決まりはない」と頭のおかしい事を言っている。わかるかい坊や、投稿ブロックっていうのはアカウントじゃなくてその編集してる中の人にかかってるんだぜ。理解できるわけないけど。そんな決まり作る意味無いんだからあるわけがない、まともな人間ならそんな決まりが無くても理解している。'''こいつみたいなキチガイがいるから世の中めんどくさい分かり切った決まり事を増やさなきゃいけなくなるんだ'''、アメリカの州法みたいにいっぱい作らなきゃいけないだろ。馬鹿に合わせた社会作りなんてやってられっかアホらし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ユアペディアでの活動==&lt;br /&gt;
基本的にアンサイクロペディアと喧嘩していることを自称しているくせに転載で他人のふんどしでしか相撲をとれず、無能をさらけ出し続けている。考えるおつむが無かったのか天才した[[テンプレート:USERLINK]]はまともに機能していない、仕様が違うから当たり前なのだが本人は仕様を理解できる頭が無いので満足している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
唯一と言っても良いほど自分で書いた記事として[[アンサイクロペディアの怖さ]]が存在するが、これは本人の自伝である。'''ぼくはばかなのでぶろっくされました'''と書いているようなものなのだが、痴態を晒して満足しているようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最近ではTTEFFAというWikipedeliaで荒らしに使ったアカウントと同名のものを取得して徘徊している。Wikipediaで[[123.217.~]]なるIPユーザーに追撃され、ユアペディアにIP氏に対して記事を書いたが'''自分で荒らした本人でしかも俺がDDDEだって宣言してるようなもんじゃねーか馬鹿じゃねぇの。馬鹿だけど。'''以下のやり取りは[[利用者・トーク:TTEFFA]]で行われたやり取りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
Harumikoさんへ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いい度胸していますね(笑)。反省のかけらもなく、こんなところで馬鹿やっているんだから。忙しいでしょう？千葉県中駆け回って写真撮って、2chにWikipediaにTwitterに知恵袋、掲示板と迷惑行為を繰り返して。いったいどれだけの人があなたの迷惑をこうむっていることか。でもほどほどにしたらいかがですか。あなたはいつ警察のお世話になってもおかしくないですからね。--[[特別:投稿記録/123.217.140.147|123.217.140.147]] 2015年2月12日 (木) 16:24 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あと、あなた男のくせに意気地がないのね。[[123.217.~|こんな]]下品な記事作っておきながら、[[DDDE|自分]]の記事を作られたら白紙化ですか(笑)他人の嘲笑はするくせに、自分が嘲笑されたら大騒ぎ、なんとまあ子供じみた性格をしていることか。やっぱりアレですか？--[[特別:投稿記録/123.217.140.147|123.217.140.147]] 2015年2月12日 (木) 16:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あの、私はHarumikoでもないし（これはWikipediaでCU調査済み）、2chにTwitterに知恵袋もやっていないんですけど。まぁ、あなたにそれを言っても無意味でしょうけどね。しかもWikipediaでは可変IPなのか、アカウントを作らず色々とIPアドレスを変えていますね。どう見ても明らかに改悪などによる荒らしでもないのに、私が編集した記事を差し戻しまくっていますからね。私はこれまで画像の型のアレンジや情報源の追加をしていただけでしたけどね。有用な情報源なのか判断せずに、単にブロック破りが編集したものだから除去するというやり方に私は怒っています（逆に言えば、あなたは度重なるブロック破りに怒っているでしょうけど）。しかも、あなたは私に対して過干渉じゃありません？こっちは敢えて無視しているのに。というのも、普通[[123.217.~|こんな]]記事ぐらいで、どうこう言う人は誰もいません。大抵の人は無視か、ここの管理者に削除を依頼します。有用な情報源を入れたいところですが、現状[[123.217.~|あなた]]が[[差し戻し|このような]]ことをしまっくている以上、しばらくの間は無理でしょう。あともうひとつ、あなたはもしかして[http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/bus/1413097868/l50 この]2chの運営者ですか？--[[利用者:TTEFFA|TTEFFA]] 2015年2月12日 (木) 18:11 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[DDDE|こんな]]記事くらいでどうこう言っていたのはどこのどなたでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いいえ、あなたはHarumikoですよ。事実あなたは認めたじゃないの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブロック破りは禁止行為ですから、それを許すことはできません。これからも発見次第差し戻すのみです。いい加減に、あなたの行為は何の意味も持たないということを自覚なさい。有用な情報源はあなた以外のユーザーが行いますから、あなたは手を付けなくて結構です。--[[特別:投稿記録/123.217.140.147|123.217.140.147]] 2015年2月12日 (木) 18:29 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに、[[DDDE|こんな]]記事くらいでどうこう言っていたけど、今ではどうでもいいやと思っています。&lt;br /&gt;
「いいえ、あなたはHarumikoですよ。事実あなたは認めたじゃないの。」→頑なあなたの態度では、反論しても無駄と思ったので認めざるを得なかったのです。しかし、Wikipedia管理者がCU調査で判明した以上、これ以上、このことで嘘を言うのも無理があると思います。そこまで信じられないのであればCU調査に関わった管理者に質問すればよいではないでしょうか？--[[利用者:TTEFFA|TTEFFA]] 2015年2月13日 (金) 03:06 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなたは、[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:%E6%8F%96%E4%BF%9D%E9%83%A1%E6%B0%91 嘘]をついています。手を引くとか言っていて、いつまでたっても手を引かない。あと、[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%BF%E3%81%93 これ]はどう説明しますか？[http://commons.wikimedia.org/wiki/User:%E9%8A%9A%E9%9B%BB%E7%A5%9E 居住地・学歴]はどう説明しますか？あなたの言っていることは二転三転していてまるで信用に値しません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=123.217.%7E&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=275880 こんなこと]を書いていることからして、あなたは自分の行為が何も間違っていないという大きな勘違いをしているようですが、そのような勘違いをしている以上いつまでたっても解決しません。&lt;br /&gt;
あなたは本アカウント「TTEFFA」の行為によって無期限ブロックされているのです。そして、そのブロックはTTEFFAアカウントではなく、あなたに対してなされているのです。あなたがWikipediaに参加することが禁止されているのです。正しい情報であろうと間違っている情報であろうと関係ない、あなたの編集がいけないのです。あなたがすべき行為は、今すぐそのブロック破りをやめ、本アカウントTTEFFAとして、ブロック解除依頼を働きかけることです。それが認められれば、あなたの編集は歓迎されます。--[[特別:投稿記録/123.217.152.50|123.217.152.50]] 2015年2月13日 (金) 06:03 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
まぁ待てよ123.217氏。無理だって、更生しない。チンパンジーは人間になれない。そんな奇跡が起きるなら世の中ハッピー、万々歳。この調子でDDDEは千葉県民が馬鹿だと宣伝して回るのである、千葉県民はこいつを早く房総沖の海にでも沈めてエビの収穫量でも上げろ、人肉が沈むといい餌になって大量に採れるらしいぞ。まぁ海の生き物だって食べたかないだろうが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 対策 ==&lt;br /&gt;
粛々と殺す。発狂してるチンパンジーと話合う余地なんてない。'''話合えるような知能がある奴は荒らしなんてしない。'''ウィキペディアで追放されチャクウィキで追放されアンサイクロペディアで追放されユアペディアでも靴下がブロックされた奴なんてなかなかいない。こりゃ立派な大物キチガイだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
柴崎浩二&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[袖ヶ浦市]]在住・[[清和大学]]卒・無職の20代男&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*①知恵袋　cojp4839future&amp;amp;happy102890として[http://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/cojp4839future][http://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/happy102890]&lt;br /&gt;
*②Wikipedia　Harumiko&amp;amp;TTEFFAとして[http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E4%BE%9D%E9%A0%BC/Harumiko][http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA/%E9%95%B7%E6%9C%9F/TTEFFA]&lt;br /&gt;
*③Twitter　cojp4839futureとして[https://twitter.com/cojp4839future]&lt;br /&gt;
*④Youtube　cojp4839として（閲覧注意）[https://www.youtube.com/channel/UC5gQTY3z1c6snZFvMv2bi-A]&lt;br /&gt;
*⑤習志野原の掲示板　happy102890として[http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs/?page=4&amp;amp;]&lt;br /&gt;
*⑥2ch&lt;br /&gt;
**バス板「袖ヶ浦」[http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/bus/1413097868/]など&lt;br /&gt;
**地域板「館山市」[http://mastiff.2ch.net/test/read.cgi/kanto/1423555581/]など&lt;br /&gt;
**鉄道板　房総各線など&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[図書館]]での偽計業務妨害（Wikipediaでの荒らし）&lt;br /&gt;
*市原鶴舞BTでの不審行為（理由もなしに徘徊、バス車内をのぞき込み、その後警察による警備強化）&lt;br /&gt;
*[[大原駅]]での不法侵入（鉄道写真を撮るために、立ち入り禁止区域に侵入し、柱によじ登る）&lt;br /&gt;
*[[茂原駅]]前での[[盗撮]]（通行人を激写し、通報される）&lt;br /&gt;
*[[東京駅]]八重洲口バス停での乗客への妨害（バスの宣伝演説を乗客に吹きかける）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しはさき こうし}}&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%A6%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BC%9D%E8%AA%AC1%EF%BD%9E%E5%BD%BC%E3%82%89%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%EF%BD%9E&amp;diff=268850</id>
		<title>ユアペディアンの都市伝説1～彼らの正体はいかに～</title>
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				<updated>2015-01-12T13:28:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: 玉結び TaMa-MuSuBi（トーク）による第268837版を取り消し&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ユアペディアンの都市伝説1～彼らの正体はいかに～'''（ゆあぺでぃあんのとしでんせついち～かれらのしょうたいはいかに～）&lt;br /&gt;
:元は[[利用者:都市伝説マン|都市伝説マン]]の著書。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==まえがき==&lt;br /&gt;
[[ユアペディア]]で活動している姿は、言うまでもなく表の顔です。皆は、彼らの正体を気になったことはないでしょうか。ある人も多いでしょう。中には、正体を暴かれている人もいますが、ほとんどは謎に包まれたままです。ではこの際、彼らにまつわる[[都市伝説]]を暴こうじゃないですか。ただ書くだけではつまらない、そう思う人のために、50点満点で点数をつけてみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:YUu|YUu]]（ゆう、49点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[1996年]]生、[[愛知県]][[名古屋市]]在住。&lt;br /&gt;
*正義感が強いため、[[荒らし]]には容赦しない。&lt;br /&gt;
*[[愛知県立旭丘高等学校]]の2年で、その中でも成績上位である。&lt;br /&gt;
*将来は[[東京大学]]に入学する予定である。&lt;br /&gt;
*それに加え、[[イケメン]]で優しいため、老若男女問わずモテる。&lt;br /&gt;
*本当は「50点」でも良いのだが、「今後も期待する」という意味合いで、「49点」となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:泊優稀撲滅委員会|泊優稀撲滅委員会]]（とまりまさきぼくめついいんかい、48点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[1994年]]生、[[埼玉県]][[さいたま市]]在住。&lt;br /&gt;
*泊優稀による荒らしから、ユアペディアを守るために立ち上がった正義の味方。&lt;br /&gt;
*[[埼玉県立浦和高等学校]]在学中は、常に成績が学年トップクラスだった。&lt;br /&gt;
*[[2013年]][[4月]]から、東京大学に入学した。&lt;br /&gt;
*勉強ができるだけでなく、[[スポーツ]]も出来て、[[サッカー]]が上手である。&lt;br /&gt;
*それに加え、[[イケメン]]で優しいため、老若男女問わずモテる。&lt;br /&gt;
*美形の家族であるため、父は医師兼真面目な[[ロック]][[バンド]]の[[ボーカル]]、母は元[[女優]]、妹は[[モデル]]をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:ようｒぺぢあ|ようｒぺぢあ]]（ようあーるぺぢあ、47点）==&lt;br /&gt;
;女性、[[1995年]]生、埼玉県[[新座市]]在住。&lt;br /&gt;
*アカウント名の由来は、「[[Yourpedia]]」をローマ字入力したものである。&lt;br /&gt;
*[[埼玉県立浦和第一女子高等学校]]の3年で、その中でも成績上位である。&lt;br /&gt;
*将来は[[東京医科歯科大学]]に入学する予定である。&lt;br /&gt;
*文武両道であり、[[バスケットボール]]の腕前も上々である。&lt;br /&gt;
*両親共に[[歯科医師]]であり、自身も目指していて、「将来の美人女医」としての期待が高まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:Fromm|Fromm]]（ふろーむ、46点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[1975年]]生、[[大阪府]][[大阪市]]在住。&lt;br /&gt;
*ファンの間から、「Fromm王子様」と呼ばれている。&lt;br /&gt;
*[[京都大学]]を卒業して[[弁護士]]になり、イケメンでもあることから、「法曹界の若き[[プリンス]]」として有名である。&lt;br /&gt;
*非常に知識が豊富で、様々な分野において、博識ぶりを発揮している。&lt;br /&gt;
*非常に忙しいが、妻と3人の息子との触れ合いの時間を忘れない、「良き夫兼パパ」である。&lt;br /&gt;
* [[利用者:防人|防人]]アカウントで管理者としての仕事もこなしている。&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
* [[利用者:防人|防人]]&lt;br /&gt;
* [[利用者:スイポ|スイポ]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:YANCHARIKA|YANCHARIKA]]（やんちゃりか、45点）==&lt;br /&gt;
;女性、[[1990年]]生、[[東京都]][[武蔵野市]]在住。&lt;br /&gt;
*[[社長令嬢]]であるため、育ちが良い。&lt;br /&gt;
*[[明治大学]]を卒業して、[[小学校]]の[[教師]]となった。&lt;br /&gt;
*ファンの間から、「YANCHARIKA王女様」と呼ばれている。&lt;br /&gt;
*非常に[[べっぴん]]であるため、「[[美人過ぎる]]ユアペディアン」とも言われ、ファンも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:Sysop|Sysop]]（しそっぷ、43点）==&lt;br /&gt;
;本名[[吉本敏洋]]、男性、[[1976年]]生、[[東京都]][[立川市]]在住。&lt;br /&gt;
*ユアペディアや[[悪徳商法？マニアックス]]の創設者。&lt;br /&gt;
*ユアペディアの総管理者として、奮闘している。&lt;br /&gt;
*たくさんの資格を取得している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:Beyond|Beyond]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:Bebot|Bebot]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:ワンポイント|ワンポイント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:織田信長|織田信長]]（おだのぶなが、37点）==&lt;br /&gt;
;本名[[織田信長]]、男性、[[1982年]]生、愛知県名古屋市在住。&lt;br /&gt;
*その名の通り、織田信長の生まれ変わりである。&lt;br /&gt;
*[[防人]]氏の助け役で、置き換えや白紙化の被害にあった記事の復活に貢献している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:堀秀政|堀秀政]]（ほりひでまさ、35点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[2001年]]生、[[東京都]][[OO区]]在住。&lt;br /&gt;
*元々は [[利用者:Super Lemon|Super Lemon]] で活動していて、&lt;br /&gt;
アカウントを作成した頃から、[[アイザール]]や[[Mikomaid]]のソックパペット扱いされた&lt;br /&gt;
可哀想なユーザー。&lt;br /&gt;
*最近久しぶりにユアペディアを思い出し、活動しようとしたが、パスワードを忘れて今のアカウントを作成した。&lt;br /&gt;
*ユアペディアで良識者になる事を目指している様子である。&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
* [[利用者:Super Lemon|Super Lemon]]&lt;br /&gt;
* [[利用者:エルモア|エルモア]]&lt;br /&gt;
* [[利用者:Jesudonbay|Jesudonbay]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]（えーびーしーでぃーえふじーえいち、33点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[1977年]]生、[[群馬県]][[富岡市]]在住。&lt;br /&gt;
*[[管理者]]としての仕事を務め、荒らし[[記事]]の削除と荒らし[[ユーザー]]の[[投稿ブロック]]を行う。&lt;br /&gt;
*子煩悩なので、まだ小さい一人息子を溺愛している。&lt;br /&gt;
* [[利用者:Mikomaid|Mikomaid]]とは家族であるが、今はMikomaidとは別の家で暮らしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:アイザール|アイザール]]（あいざーる、30点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[1984年]]生、埼玉県[[所沢市]]在住。&lt;br /&gt;
*[[Mikomaid の真実|Mikomaid]]とは、永遠の[[ライバル]]である。&lt;br /&gt;
*正義感が強すぎる反面、それが裏目に出る事もしばしばある。&lt;br /&gt;
*[[東日本大震災]]が原因で一度は解雇されたものの、現在は別の会社に勤めている。&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:Mikomade|Mikomade]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:大野晋吾|大野晋吾]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:どんとだるま|どんとだるま]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:勇者プクリン|勇者プクリン]]（ゆうしゃぷくりん、27点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[1977年]]生、[[岡山県]][[岡山市]]在住。&lt;br /&gt;
*[[妹尾あいこ]]が大好きである。&lt;br /&gt;
*30代後半でありながらも、嗜好が幼稚である。&lt;br /&gt;
*近年、[[コメットさん]]と[[キャロ・ル・ルシエ]]が好きになったことが確認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:あいこ好きの勇者プクリン|あいこ好きの勇者プクリン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]]（けのーかべ、18点）==&lt;br /&gt;
;本名[[岡部健 (荒らし)|岡部健]]、男性、[[1971年]]生、[[兵庫県]][[神戸市]]在住。&lt;br /&gt;
*[[ニート]]の中では、高齢の部類である。&lt;br /&gt;
*[[アメリカ]]での居住経験があるものの、[[英語]]は苦手である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:岡部健|岡部健]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:岡部健一|岡部健一]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]]（このあかうんとをぶろっくしたかんりにんはしにます、14点）==&lt;br /&gt;
;女性、[[1997年]]生、[[滋賀県]][[大津市]]在住。&lt;br /&gt;
*陰気な性格で、[[いじめ]]の的となっている。&lt;br /&gt;
*肥満体型であるため、腰痛を起こす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:Mumbly|Mumbly]]（まんぶりー、12点）==&lt;br /&gt;
;男性、1996年生、[[和歌山県]][[和歌山市]]在住。&lt;br /&gt;
*唐突に管理者立候補した[[DQN]]である。&lt;br /&gt;
*頭が悪いにも関わらず、親のコネで[[智辯学園和歌山高等学校]]に裏口入学した。&lt;br /&gt;
*[[被差別部落]]住民を、異常なまでに擁護している。&lt;br /&gt;
*父親は、[[暴力団]]と関係のある歯科医師である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]]（いぼがわのすいへいさん、9点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[1983年]]生、兵庫県[[たつの市]]在住。&lt;br /&gt;
*「[[DQN兄貴]]」の異名を持つほどのDQNである。&lt;br /&gt;
*ずる賢い性格の[[プログラマ]]である。&lt;br /&gt;
*「[[中江龍生]]担当」である。&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:Nodakenta|Nodakenta]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:3代目泉水|3代目泉水]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:あんだあすろう|あんだあすろう]]（あんだあすろう、8点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[2004年]]生、大阪府[[豊中市]]在住。&lt;br /&gt;
*DQNな小学生である。&lt;br /&gt;
*少年[[野球]]で、[[アンダースロー]]投手をしている。&lt;br /&gt;
*みんなから「[[泊優稀のソックパペット]]」と言われている。&lt;br /&gt;
*「[[松村晶史]]担当」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:サブマリン2号|サブマリン2号]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:白憂希|白憂希]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:黒猫|黒猫]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:Noda,Kentaro|Noda,Kentaro]]（のだけんたろう、7点）==&lt;br /&gt;
;本名[[野田憲太郎]]、男性、1976年生、[[三重県]][[四日市市]]在住。&lt;br /&gt;
*自称、[[音楽家]]の肩書も持つ、マルチユアペディアンである。&lt;br /&gt;
*本来、音楽家と言えば、頭が悪いと思われているが、彼は頭が悪く、中学時代は学年ビリだった。&lt;br /&gt;
*詳細は[[野田憲太郎]]を参照のこと。&lt;br /&gt;
==[[利用者:藤原朝臣二川藤太郎光綱|藤原朝臣二川藤太郎光綱]]（ふじわらのあそんふたがわとうたろうみつつな、6点）==&lt;br /&gt;
;本名[[藤原光綱]]、男性、1978年生、[[香川県]][[高松市]]在住。&lt;br /&gt;
*自称「[[中臣鎌足]]の末裔」のDQN。&lt;br /&gt;
*古い漢字ばかり使用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:泊優稀|泊優稀]]（とまりまさき、5点）==&lt;br /&gt;
;本名[[泊雅希]]、男性、1996年生、[[埼玉県]][[川越市]]在住。&lt;br /&gt;
*女問題ばかり起こすDQN。&lt;br /&gt;
*川越市にある家は、東日本大震災で半壊して、[[首都直下地震]]で全壊するのではないかと危惧されている。&lt;br /&gt;
*埼玉県内から一度も出たことがないため、[[武蔵野弁]]を話している。&lt;br /&gt;
*[[埼玉県立川越高等学校]]が不合格になって、中卒ニートとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:蒲須坂|蒲須坂]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:熊谷県|熊谷県]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:在埼玉人‎|在埼玉人‎]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:南央先輩|南央先輩]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:ゆーら|ゆーら]]&lt;br /&gt;
など多数。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:Robert wells|Robert wells]]（ろばーとうぇるず、4点）==&lt;br /&gt;
;本名[[ロバート・アレン・ウェルズ]]、男性、[[1953年]]生、住所不定。&lt;br /&gt;
*[[アイドル]]にしか興味を持てないDQN。&lt;br /&gt;
*数少ない外国人のユアペディアンである。&lt;br /&gt;
*既に60歳を超えていて、なぜコンピュータを使用できるかが不思議である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:Robert allen|Robert allen]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:スパイ撲滅委員会|スパイ撲滅委員会]]（すぱいぼくめついいんかい、3点）==&lt;br /&gt;
;男性、1977年生、[[山形県]][[西置賜郡]][[小国町]]在住。&lt;br /&gt;
*貧しい農家で育ったため、育ちが悪く、典型的な[[カッペ]]DQNである。&lt;br /&gt;
*家に電化製品はないため、[[米沢市]]の[[インターネットカフェ]]でコンピュータを借りている。&lt;br /&gt;
*[[山形県立米沢興譲館高等学校]]が不合格になって、中卒ニートとなった。&lt;br /&gt;
*結婚していて、娘と息子がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:池田製麺|池田製麺]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:都市伝説マン|都市伝説マン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:国道559号線|国道559号線]]（こくどうごひゃくごじゅうきゅうごうせん、2点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[1992年]]生、[[鳥取県]][[境港市]]在住。&lt;br /&gt;
*貧しい農家で育ったため、育ちが悪く、典型的なカッペDQNである。&lt;br /&gt;
*YUu氏やFromm氏に[[ハエ]]の如く付き纏っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:誹謗中傷は嫌いです|誹謗中傷は嫌いです]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:誹謗中傷撲滅委員会|誹謗中傷撲滅委員会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[特別:投稿記録/180.197.196.165|萩原遼]]（はぎはらりょう、1点）==&lt;br /&gt;
;本名[[萩原遼]]、男性、[[1998年]]生、愛知県[[豊橋市]]在住。&lt;br /&gt;
*救いようのないDQNである。&lt;br /&gt;
*重度の[[中二病]]患者であり、ユアペディアで問題投稿をした。&lt;br /&gt;
*[[母子家庭]]で生活が苦しく、[[生活保護]]を受給している。&lt;br /&gt;
*母親は1980年生まれで、遼が生まれたときには17歳か18歳だったことから、DQNであることがわかる。&lt;br /&gt;
*小学2年までは、「[[優等生]]」とみんなが認めていたが、小学3年の時に、副担任のことを殴ってこっ酷く怒られたがきっかけで、非行に走るようになった。&lt;br /&gt;
*小学校高学年の頃に、[[喫煙]]と[[飲酒]]を覚えた。&lt;br /&gt;
*[[豊橋市立豊橋高等学校]]が不合格になって、中卒ニートとなった。&lt;br /&gt;
*ノータリンであるため、迂闊にも本名を暴露してしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[利用者:堀秀政|Super Lemon]]（すーぱーれもん、0点）==&lt;br /&gt;
;男性、[[2001年]]生、[[埼玉県]][[新座市]]在住。&lt;br /&gt;
*ユアペディア史上最悪の荒らしである。&lt;br /&gt;
*ただ単に頭が悪いDQNである。&lt;br /&gt;
*元々高校受験をパスして、中卒ニートとなったが、2012年から大阪府の工事現場で働いている。&lt;br /&gt;
*[[共産党]]の熱烈な信者であり、[[志井和夫]]が総理になれば日本は安泰だと思っている。&lt;br /&gt;
*好きな芸能人は[[吉瀬美智子]]である。&lt;br /&gt;
*豊臣軍武将、[[堀秀政]]を尊敬していると自称するが、実は堀秀政アンチであり、イメージを低下させることを企んでアカウントを堀秀政の名前にした。&lt;br /&gt;
*[[大谷吉継]]をタダのキモい奴だと思っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:星空の旅人|星空の旅人]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:松葉裕子は埼玉県さいたま市大宮区在住のDQNです。|松葉裕子は埼玉県さいたま市大宮区在住のDQNです。]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:松葉裕子撲滅委員会|松葉裕子撲滅委員会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]]（みこめいど、－37点）==&lt;br /&gt;
;本名[[大野晋吾]]、男性、[[1967年]]生、[[群馬県]][[富岡市]]在住。&lt;br /&gt;
*「[[DQN親父]]」の異名を持つほどのDQNである。&lt;br /&gt;
*[[精神異常者]]で、[[星椎水精]]を中傷して、晒し者になっている。&lt;br /&gt;
*平日の昼間から、[[パチンコ]]をしていて、台パンばかりしている。&lt;br /&gt;
*[[2012年]]の[[第46回衆議院議員総選挙|衆議院議員総選挙]]に立候補しようとしたが、猛反対されて断念した。&lt;br /&gt;
*「[[中江美則]]担当」である。&lt;br /&gt;
*ただ単に頭が悪いDQNである。&lt;br /&gt;
* [[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]とは別人。&lt;br /&gt;
;ソックパペット&lt;br /&gt;
*[[利用者:アイサール|アイサール]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:大野普吾|大野普吾]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:みんなで使おう公開アカウント|みんなで使おう公開アカウント]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:マックス|マックス]]&lt;br /&gt;
など多数。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==あとがき==&lt;br /&gt;
ここに書いてあることは、すべてが事実とは限りません。なぜなら、都市伝説だからです。しかし、「都市伝説は[[娯楽]]」なのです。笑ってくれてナンボなのです。'''信じるか信じないかは、貴様次第です。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==姉妹著書==&lt;br /&gt;
'''これも併せて読むとより良い著書を紹介！'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[ユアペディアンの都市伝説0～都市伝説マンの自己紹介～]]&lt;br /&gt;
:著者の都市伝説マンは一体何者なのか・・・。&lt;br /&gt;
*[[ユアペディアンの都市伝説2～ユアぺディアンはバカじゃない～]]&lt;br /&gt;
:荒らしユーザーの陰に隠れる頭の良いユアペディアンとは・・・。&lt;br /&gt;
*[[ユアペディアンの都市伝説3～似て非なる泊優稀とスパイ撲滅委員会～]]&lt;br /&gt;
:共通点の多い二大荒らしユーザーの違いとは・・・。&lt;br /&gt;
*[[ユアペディアンの都市伝説4～ユアペディアに殴り込む亀岡のDQN～]]&lt;br /&gt;
:亀岡事故で話題となったあのDQN家族がユアペディアに殴り込んでいる・・・。&lt;br /&gt;
*[[ユアペディアンの都市伝説5～あんだあすろうという名のDQN～]]&lt;br /&gt;
:ユアペディア屈指の荒らしユーザー・あんだあすろうとは・・・。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:ユアペディア|としてんせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユアペディアン|としてんせつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:都市伝説|ゆあへていあん]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユアペディアンの都市伝説|1]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%95%E5%BA%9C&amp;diff=264536</id>
		<title>幕府</title>
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				<updated>2014-12-13T14:26:03Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''幕府'''は、征夷大将軍を頂点とする全国規模の武家政権、あるいはその武家政治の政庁を指す名称。通常、政庁...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''幕府'''は、[[征夷大将軍]]を頂点とする全国規模の[[武家政権]]、あるいはその[[武家]][[政治]]の政庁を指す名称。通常、政庁は征夷大将軍の居館・居城に置かれていた。中世及び近世における[[日本]]の[[軍事政権]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 語義 ==&lt;br /&gt;
「幕」は「帳幕」・「[[天幕]]」を意味し、「府」は王室等の財宝や文書を収める場所、転じて[[役所]]を意味する。[[戦国時代 (中国)|中国の戦国時代]]、[[王]]に代わって指揮を取る出先の将軍が張った陣地を「幕府」と呼んだことに由来する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それが日本に来て、[[近衛大将]]の[[唐名]]となり、[[幕下]]あるいは「柳営」ともいった。その後、前[[右近衛大将]][[源頼朝]]が征夷大将軍に任ぜられたことから、転じて征夷大将軍の別称ともなった。そして征夷大将軍の遠征時の[[本陣]]（本営）を指した。戦時の司令部であった場所を平定後も政策発信地とし、実質的に武家政権の政庁となっていった。征夷大将軍を中国風に[[覇者]]とみなし、覇者の政庁の所在地として「覇府」とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「幕府」の名称がすなわち武家政権の政庁を表すようになったのは、[[藩]]と同じく江戸時代中期以降で、[[朱子学]]の普及に伴い、中国の戦国時代を研究する[[儒学者]]によって唱えられた。よって、「鎌倉幕府」や「室町幕府」という言葉はこの時代以降に考案されたもので、当時の人々は鎌倉や室町の中央政庁を「幕府」と呼んだことはなく、それぞれの初代将軍が「幕府を開く」という宣言を出したこともない。ただし、将軍の居所を「幕府」と呼んではいる。つまり、所在地としての意味合いであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[鎌倉幕府]]は[[1192年]]に[[源頼朝]]が征夷大将軍に[[補任]]された時をもって成立したというのが、従来の説である。しかしながらこれには異論がある。源頼朝は征夷大将軍補任以前の段階で既に守護・地頭などの設置などを通じて、日本国内における軍事権・警察権を把握しつつあり、逆に日本全国に軍事警察権が行き届くのは[[承久の乱]]以降である。一方で[[室町幕府]]は[[1573年]]に[[足利義昭]]が[[織田信長]]によって京都を追放された時をもって終焉したとされるが、足利義昭は[[1588年]]まで征夷大将軍の地位を保持していた。そのため冒頭で述べた「征夷大将軍を頂点とする全国規模の武家政権を幕府とする」というのは厳密な定義とは言い難く、現実には何をもって幕府と定義するのかは諸説あり、曖昧さを残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 一覧 ==&lt;br /&gt;
歴史学上日本には、幕府は[[鎌倉幕府]]と[[室町幕府]]と[[江戸幕府]]がある。どの幕府も形式上は将軍の[[家政機関]]の形態をとっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;margin:0 0 0.5em 1.5em;text-align: center;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!名称!!時代!!政庁!!創設者!!将軍家!!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[鎌倉幕府]]||[[鎌倉時代]]||[[相模国]][[鎌倉]]||[[源頼朝]]||[[源家]]・[[摂家将軍|摂家]]・[[宮将軍|宮家]]||源家将軍断絶後は、[[執権]]・[[北条氏]]が実権を握る&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[室町幕府]]||[[室町時代]]||[[山城国]][[京都]]||[[足利尊氏]]||[[足利氏]]||有力[[守護大名]]の連合政権／[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には権威が低下&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[江戸幕府]]||[[江戸時代]]||[[武蔵国]][[江戸]]||[[徳川家康]]||[[徳川氏]]||将軍自らが政治を主導した時期と、徳川家[[譜代]]の幕閣が政治を主導した時期があり&lt;br /&gt;
／江戸時代末期には権威が低下&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[政権]]&lt;br /&gt;
** [[軍事政権]]&lt;br /&gt;
** [[武家政権]]&lt;br /&gt;
* [[武士]]&lt;br /&gt;
* [[朝廷]]&lt;br /&gt;
* [[征夷大将軍]]&lt;br /&gt;
* [[政庁]]&lt;br /&gt;
* [[消滅した政権一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はくふ}}&lt;br /&gt;
[[Category:鎌倉時代]]&lt;br /&gt;
[[Category:室町時代]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代]]&lt;br /&gt;
[[Category:幕府|*はくふ]]&lt;br /&gt;
[[Category:武士|*はくふ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E7%86%8A%E9%87%8E%E9%80%9F%E7%8E%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE&amp;diff=264533</id>
		<title>熊野速玉大社</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E7%86%8A%E9%87%8E%E9%80%9F%E7%8E%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE&amp;diff=264533"/>
				<updated>2014-12-13T14:23:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''熊野速玉大社'''（くまのはやたまたいしゃ）は、和歌山県新宮市新宮1にある神社。熊野三山の...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊野速玉大社'''（くまのはやたまたいしゃ）は、[[和歌山県]][[新宮市]][[新宮 (新宮市)|新宮]]1にある[[神社]]。[[熊野三山]]の一つ。熊野速玉大神（くまのはやたまのおおかみ）と熊野夫須美大神（くまのふすみのおおかみ）を主祭神とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
境内地は国の[[史跡]]「熊野三山」の一部。2002年（平成14年）12月19日、熊野三山が史跡「熊野参詣道」から分離・名称変更された際に、御船島を含む熊野速玉大社境内が追加指定された。[[2004年]]（平成16年）7月に登録された[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]『[[紀伊山地の霊場と参詣道]]』の構成資産・[[大峯奥駈道]]の一部。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
創建年代は不詳である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊野速玉大神は、熊野速玉大社では[[伊邪那岐神]]とされ、[[熊野本宮大社]]では同じ神名で日本書紀に登場する[[速玉之男]]（はやたまのを）とされる。また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれる。[[熊野夫須美大神]]は[[伊邪那美神]]とされる。もともとは近隣の神倉山の[[磐座]]に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を'''新宮'''とも呼ぶ。古代、穂積忍麻呂が初めて禰宜に任じられてからは、[[熊野三党]]のひとつ・[[穂積氏]]（[[藤白鈴木氏]]）が代々神職を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[1871年]] - [[近代社格制度]]のもとで'''熊野速玉神社'''として県社に列格。&lt;br /&gt;
* [[1883年]]（明治16年） - 打ち上げ花火が原因で社殿が全焼。&lt;br /&gt;
* [[1915年]]（大正4年） - 官幣大社に昇格。&lt;br /&gt;
* [[1967年]]（昭和42年） - 社殿を再建。&lt;br /&gt;
* [[2004年]]（平成16年）[[7月1日]] - 「[[紀伊山地の霊場と参詣道]]」の一部として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 祭神 ==&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+'''表 熊野速玉大社の社殿・祭神・[[本地垂迹説|本地仏]]'''&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;3&amp;quot;|社殿&lt;br /&gt;
!sytle=&amp;quot;15em&amp;quot;|祭神&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;6em&amp;quot;|本地仏&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;5&amp;quot; sytle=&amp;quot;3em&amp;quot;|上四社&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第一殿 結宮&lt;br /&gt;
|'''熊野夫須美大神'''（熊野結大神）&lt;br /&gt;
|[[千手観音]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第二殿 速玉宮&lt;br /&gt;
|'''熊野速玉大神'''&lt;br /&gt;
|[[薬師如来]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第三殿 証誠殿&lt;br /&gt;
|家津美御子大神・[[国之常立神|国常立尊]]&lt;br /&gt;
|[[阿弥陀如来]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; sytle=&amp;quot;3em&amp;quot;|第四殿&lt;br /&gt;
! sytle=&amp;quot;6em&amp;quot;|若宮&lt;br /&gt;
|[[アマテラス|天照大神]]&lt;br /&gt;
|[[十一面観音]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!神倉宮&lt;br /&gt;
|高倉下命&lt;br /&gt;
|（本地仏なし）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;4&amp;quot;|中四社&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第五殿 禅児宮&lt;br /&gt;
|[[アメノオシホミミ|天忍穂耳尊]]&lt;br /&gt;
|[[地蔵菩薩]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第六殿 聖宮&lt;br /&gt;
|[[ニニギ|瓊々杵尊]]&lt;br /&gt;
|[[龍樹|龍樹菩薩]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第七殿 児宮&lt;br /&gt;
|彦火火出見尊&lt;br /&gt;
|[[如意輪観音]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第八殿 子守宮&lt;br /&gt;
|[[ウガヤフキアエズ|鵜葺草葺不合命]]&lt;br /&gt;
|[[聖観音]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;5&amp;quot;|下四社&lt;br /&gt;
!rowspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第九殿&lt;br /&gt;
!一万宮&lt;br /&gt;
|国狭槌尊&lt;br /&gt;
|[[文殊菩薩]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!十万宮&lt;br /&gt;
|豊斟渟尊&lt;br /&gt;
|[[普賢菩薩]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第十殿 勧請宮&lt;br /&gt;
|泥土煮尊&lt;br /&gt;
|[[釈迦如来]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第十一殿 飛行宮&lt;br /&gt;
|大戸道尊&lt;br /&gt;
|[[不動明王]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|第十二殿 米持宮&lt;br /&gt;
|面足尊&lt;br /&gt;
|[[毘沙門天|多聞天]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 摂末社 - [[神倉神社]]、熊野稲荷神社、手力男神社、新宮神社、熊野恵比寿神社、八咫烏神社、奥御前三神殿&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化財 ==&lt;br /&gt;
=== 国宝 ===&lt;br /&gt;
* 古神宝類（細目は[[#古神宝類|後述]]）&lt;br /&gt;
* 木造熊野速玉大神坐像・木造夫須美大神坐像・木造家津御子大神坐像・木造国常立命坐像（2005年〈平成17年〉6月9日指定）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 重要文化財 ===&lt;br /&gt;
* 木造伊邪那岐神坐像（1899年〈明治32年〉8月1日指定）&lt;br /&gt;
* 木造伊邪那美神坐像（1897年〈明治30年〉12月28日指定）&lt;br /&gt;
* 木造皇太神坐像（1899年〈明治32年〉8月1日指定）&lt;br /&gt;
* 髹漆金銅装神輿（髹〈きゅう〉は「髟」に「休」、きゅうしつこんどうそうしんよ）（1897年〈明治30年〉12月28日指定）&lt;br /&gt;
* 髹漆金銅装神幸用船（きゅうしつこんどうそうしんこうようふね）（1897年〈明治30年〉12月28日指定）&lt;br /&gt;
* 太刀 銘正恒（附・糸巻太刀拵）（1913年〈大正2年〉4月14日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 史跡 ===&lt;br /&gt;
* 熊野三山 - 熊野速玉大社境内（[[神倉神社]]境内地および[[千穂ヶ峯]]の一部含む）および[[御船島]]（速玉大社社地）は史跡「熊野三山」の一部である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 天然記念物 ===&lt;br /&gt;
* [[ナギ|梛]]の大樹 - 国指定名は「熊野速玉神社のナギ」（1940年〈昭和15年〉2月10日指定）。高さ20m（17.6m）、幹周り6m（5m〉）、推定樹齢1,000年（850年）、[[ナギ]]としては国内最大であるとされる。ナギは[[マキ科]]の常緑高木であり、よく[[神木]]として植樹された。本樹は雄株であるが、幹に分岐が見られることからもとは数株であったともされ、1159年（平治元年）社殿の落成において熊野三山造営奉行であった[[平重盛]]の手植と伝えられる。ナギは[[凪]]に通じることから、ナギの実を束ねたものやナギの枝を[[お守り|護符]]にする。ナギの木は、熊野杉や天台烏薬とともに新宮市の「市の木」に指定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 市指定文化財 ===&lt;br /&gt;
* 熊野懐紙模本（書籍・典籍、1989年〈平成元年〉3月25日指定）&lt;br /&gt;
* 速玉大社の棟札（書籍・典籍、1989年〈平成元年〉3月25日指定）&lt;br /&gt;
* 紙本著色新宮本社末社図 附新宮末社図（書籍・典籍、1989年〈平成元年〉3月25日指定）&lt;br /&gt;
* 速玉大社の[[オガタマノキ]]（天然記念物、1964年〈昭和39年〉6月8日指定）&lt;br /&gt;
* 速玉大社のボウラン（天然記念物、1964年〈昭和39年〉6月8日指定）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 古神宝類 ==&lt;br /&gt;
当神社所蔵の総数1,000点を超える'''古神宝類'''は、1955年（昭和30年）6月22日、一括して国宝に指定された。ここで言う「神宝」とは、祭神の所用具として製作・奉納された服飾・調度類のことで、上述の第一殿から第十二殿に祀られる祭神のために作られた神服、蒔絵手箱、銅鏡、弓矢、染織用具などが含まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神宝'''は「しんぽう」「じんぽう」「かむだから」などと読み、広狭いくつかの意味合いがある。最広義には神社所蔵の宝物全般を指す場合もあるが、狭義では祭神の御料、すなわち祭神の所用品として神殿に奉献された神服、調度、武器武具、紡績具などの品々を指す。古文献には「神宝」と「装束」を分けて記載している例もあり、その場合は武器武具、紡績具などがより厳密な意味での「神宝」となる。現代の文化財用語としては、厳密な意味の「神宝」と装束類などを併せて「神宝類」と呼称している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊野新宮では平安時代以来、33年に一度の遷宮を例とし、遷宮のたびに新たな神宝が調進されていた。しかし、徳治2年（1307年）の社殿焼失後は、朝廷の援助が得られなかったこともあり、仮殿が建てられたのみで、復旧は遅々として進んでいなかった。ようやく明徳元年（1390年）に至って遷宮が行われ、現存する神宝の大部分は、この時に時の幕府（[[足利義満]]）が中心となって製作・奉納したものである（ただし、一部に時代の下る遺品も混在する）。熊野三所と称される結宮（中御前）、速玉宮（西御前）、証誠殿への神宝奉納は、それぞれ禁裏（天皇）、仙洞（上皇）、室町殿（将軍）によって行われた。速玉大社には『熊野山新宮神宝目録』（明徳元年の本奥書）、『熊野山新宮御神宝内外御装束之事御調進造替之文目録』（年紀なし）という2種類の神宝目録が伝存する（いずれの目録も、現存するものは江戸時代の写本）。これらの目録には、各祭神に奉献された神宝の名称、材質、文様等が詳細に記載されており、現存の神宝類とも符合するので、貴重な資料となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現存の古神宝類は、男神用、女神用それぞれの神服、各祭神に奉納された蒔絵の手箱（化粧道具を納める蓋付の箱）、太刀などの武器武具類、紡績具などに分類される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''神服類'''は、男神所用のものとして[[袍]]（ほう）1領、[[直衣]]（のうし）1領、表袴（うえのはかま）2腰、指貫（さしぬき）1腰のほか、冠、石帯、笏、玉佩（ぎょくはい）、挿鞋（そうかい）などがあり、女神所用のものとしては衵（あこめ）18領、単（ひとえ）12領、唐衣（からぎぬ）9領、海賦裳（かいぶのも）8腰などがある。なお、以上のうち、「単」については、国宝指定名称では「薄衣」（うすぎぬ）となっている。彩絵の檜扇10握も女神用のものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''武器武具類'''は、男神である速玉神に奉納されたもので、鳥頸太刀（とりくびたち）2口のほか、弓、平胡籙（ひらやなぐい）とこれに盛る箭（や）と鏑箭（かぶらや）、唐鞍などがある。鳥頸太刀は柄頭（つかがしら）に鳳凰の頭部を飾り、柄は銀鮫、鞘は銀板包みの上に透彫金具を施した豪華なものである。以上の武器武具類はいずれも実戦用ではなく儀仗用のものである。現存する鳥頸太刀2口は外装のみが残っていて、中身の刀身は1口は明治時代に紛失、もう1口は第二次大戦後に連合軍により接収されて所在不明となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''紡績具'''は女神用のもので、鏄（つむ、金偏に「專」）、苧笥（おけ）、桛（かせ）、などがある。鏄は糸に撚りをかける道具、苧笥は糸に撚りをかける際に付ける水を入れておく容器、桛は紡いだ糸を巻いておくものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''蒔絵の手箱'''は新宮の祭神十二所（上四社、中四社、下四社）と旧摂社の[[阿須賀神社]]用に計13合調進された。うち、阿須賀神社への奉納分は第二次大戦後国有化され、現在は京都国立博物館所蔵となっている。また手箱のうちの1合（橘蒔絵手箱）は民間の所有となっており、速玉大社に現存する手箱は11合である。各手箱には白銅鏡、鏡箱、歯黒箱、白粉箱（おしろいばこ）、薫物箱（たきものばこ）、鑷（けぬき）、鋏、蒔絵などの内用品が残されている。手箱11合のうち8合は地を梨子地とするのに対し、桐蒔絵手箱（2合）、桐唐草蒔絵1合の計3合は地を沃懸地（いかけじ）とし、より格の高い作りとなっている。これらは桐蒔絵手箱2合が結宮（中御前）と速玉宮（西御前）に、桐唐草蒔絵が証誠殿に、それぞれ奉納されたものである。これらの手箱の主文様として本来天皇家の紋である桐が使用されているのは、足利家が禁裏から桐紋の使用を許されていたためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらの古神宝類は、制作年代と由緒が明らかであり、南北朝時代の染織、漆工、金工などの工芸品の基準作例として重要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;NavFrame&amp;quot; style=&amp;quot;width:100%;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
 &amp;lt;div class=&amp;quot;NavHead&amp;quot; style=&amp;quot;padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;&amp;quot;&amp;gt;国宝「古神宝類」の明細&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
 &amp;lt;div class=&amp;quot;NavContent&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:left;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''古神宝類'''&lt;br /&gt;
* 袍 萌黄浮線綾丸文固綾 1領&lt;br /&gt;
* 直衣 白龍膽文綾 1領&lt;br /&gt;
* 衵 蘇芳小花文銀襴 1領&lt;br /&gt;
* 衵 香雲立涌文固綾 3領&lt;br /&gt;
* 衵 萌黄小葵浮線綾丸文二重織 2領&lt;br /&gt;
* 衵 経縹緯白小葵文固綾 1領&lt;br /&gt;
* 衵 淡紅小葵文固綾 3領&lt;br /&gt;
* 衵 萌黄小葵文固綾 7領&lt;br /&gt;
* 衵 淡香小葵文綾 1領&lt;br /&gt;
* 薄衣 萌黄幸菱文固綾 8領&lt;br /&gt;
* 薄衣 白遠菱文固綾 1領&lt;br /&gt;
* 薄衣 白幸菱文固綾 1領&lt;br /&gt;
* 薄衣 淡紅幸菱文固綾 1領&lt;br /&gt;
* 薄衣 白小葵文固綾 1領&lt;br /&gt;
* 唐衣 緯白小葵文浮織 7領&lt;br /&gt;
* 唐衣 萌黄小葵文固綾 1領、&lt;br /&gt;
* 唐衣 蘇芳蓮唐草文銀襴 1領&lt;br /&gt;
* 表袴 白窠霰文二重織 1腰&lt;br /&gt;
* 表袴 緯白椿唐草文固綾 1腰&lt;br /&gt;
* 指貫 濃香雲立涌文固綾 1腰&lt;br /&gt;
* 海賦裳 白小葵文固綾 8腰&lt;br /&gt;
* 衾 朽葉人物花唐草文繻珍 1帖&lt;br /&gt;
* 衾 白小葵文固綾 1帖&lt;br /&gt;
* 衾 黄地浮線綾丸文唐織物 6帖&lt;br /&gt;
* 平裹 黄地浮線綾丸文唐織物 1帖&lt;br /&gt;
* 衣 濃香小葵文綾 残欠 1口、衣 白遠菱文綾 残欠 1口&lt;br /&gt;
* 衣 香小葵文綾 残欠 1口&lt;br /&gt;
* 袴 紅平絹 残欠 3口&lt;br /&gt;
* 袴 紅平絹 残欠 5口&lt;br /&gt;
* 袴 紅精好 残欠 一括&lt;br /&gt;
* 両面打組紐残欠 6条&lt;br /&gt;
* 冠 1頭・松喰鶴蒔絵冠箱 1合&lt;br /&gt;
* 挿頭華30枝&lt;br /&gt;
* 木笏 1握・梛蒔絵笏箱 2合&lt;br /&gt;
* 玉佩2旒・桐蒔絵玉佩箱 1合&lt;br /&gt;
* 義髻 28条&lt;br /&gt;
* 彩絵檜扇 10握&lt;br /&gt;
* 紅帖紙 21帖 附:懐紙 3帖&lt;br /&gt;
* 錦包挿鞋2双・唐花蒔絵挿鞋箱 2合&lt;br /&gt;
* 松喰鶴蒔絵御衣箱4合&lt;br /&gt;
* 赤地小葵文錦包木枕 1箇 附:赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 銀蒔絵衣架 12具&lt;br /&gt;
* 金銀装鳥頸太刀 2口 附:平緒残片1枚、赤地錦袋2口、朱塗太刀唐櫃1合&lt;br /&gt;
* 朱塗弓 2張 附:赤地錦弓袋 1口、朱塗弓唐櫃 1合&lt;br /&gt;
* 桐文蒔絵平胡籙1具・金銅鏑箭 2隻・金銅箭 28隻&lt;br /&gt;
* 桐文蒔絵平胡籙 1具・金銅鏑箭 2隻・金銅箭 28隻、附:赤地錦袋1口、朱塗平胡籙櫃1合&lt;br /&gt;
* 鉄桙2口&lt;br /&gt;
* 鉄桙 2口&lt;br /&gt;
* 桐樹双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 桐唐草双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 桐唐草双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 籬菊双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 籬菊双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 牡丹双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 菊唐草双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 梛双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 梛双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 松楓双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 松楓双鶴文鏡 1面 附:黒漆平文鏡箱 1合、赤地錦袋 1口&lt;br /&gt;
* 松竹双鶴文鏡1面 附:黒漆平文鏡箱 1合&lt;br /&gt;
* 桐蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀歯黒箱2合、銀白粉箱2合、銀薫物箱2合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作1本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿3口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、桐蒔絵櫛箱1合、附:赤地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 桐蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀歯黒箱2合、銀白粉箱2合、銀薫物箱2合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作1本、銀歯黒筆1本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿3口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、桐蒔絵櫛箱 1合、附:黄地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 桐唐草蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀歯黒箱2合、銀白粉箱2合、銀薫物箱2合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作2本、銀歯黒筆1本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿3口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、桐唐草蒔絵櫛箱 1合）&lt;br /&gt;
* 籬菊蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀歯黒箱2合、銀白粉箱2合、銀薫物箱2合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作2本、眉刷毛1本、銀歯黒筆2本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿3口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、籬菊蒔絵櫛箱 1合、附:赤地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 牡丹蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作2本、銀歯黒筆2本、銀櫛払1箇、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、附:黄地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 橘蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀歯黒箱2合、銀白粉箱2合、銀薫物箱2合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作1本、銀歯黒筆2本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿3口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、附:赤地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 菊唐草蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀歯黒箱2合、銀白粉箱2合、銀薫物箱2合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作1本、銀歯黒筆2本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿3口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、附:赤地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 唐花唐草蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作2本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿2口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛27枚、附:赤地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 唐花唐草蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作2本、銀歯黒筆2本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿2口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、附:赤地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 梛蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀歯黒箱2合、銀白粉箱2合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作2本、銀歯黒筆1本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿3口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、附:赤地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 松楓蒔絵手箱 1具（内容品:白銅鏡1面、蒔絵鏡箱1合、銀歯黒箱2合、銀薫物箱2合、銀鑷1箇、銀鋏1箇、銀耳掻1本、銀髪掻2本、銀眉作2本、銀歯黒筆1本、銀櫛払1箇、銀菊花形皿3口、白磁皿1口、銀解櫛1枚、蒔絵櫛29枚、附:赤地錦袋1口）&lt;br /&gt;
* 手箱内容品&lt;br /&gt;
** 銀鑷1箇&lt;br /&gt;
** 銀鋏 1箇&lt;br /&gt;
** 銀耳掻 1本&lt;br /&gt;
** 銀髪掻 1本&lt;br /&gt;
** 銀解櫛3枚&lt;br /&gt;
** 銀覆輪櫛4枚&lt;br /&gt;
** 蒔絵櫛 28枚&lt;br /&gt;
* 白銅鏡 6面&lt;br /&gt;
* 桐蒔絵硯箱 1合&lt;br /&gt;
* 水晶玉 4顆 附:赤地錦袋4口&lt;br /&gt;
* 松鶴蒔絵苧笥2合&lt;br /&gt;
* 松喰鶴蒔絵桛2枚&lt;br /&gt;
* 金銅鏄（金偏に「專」）1双&lt;br /&gt;
* 銀縫針 7本&lt;br /&gt;
* 朱塗唐櫃 12合&lt;br /&gt;
* 金銅鏁（金偏に「巣」）1箇&lt;br /&gt;
* 朱塗案 12基&lt;br /&gt;
* 金銅装唐鞍 1具&lt;br /&gt;
** 金銅壺鐙1双&lt;br /&gt;
** 金銅轡1双&lt;br /&gt;
** 金銅杏葉 17箇&lt;br /&gt;
* 朱塗鞭 1本 附:赤地錦袋1口&lt;br /&gt;
* 金銅装錦包懸守 1懸&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
* [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]・[[東海旅客鉄道|JR東海]] [[紀勢本線]] [[新宮駅]]から車で約5分、徒歩約15分。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 関根俊一『日本の美術511 古神宝』、至文堂、2008&lt;br /&gt;
* 近藤好和「文献にみる古神宝 - 六国史・摂関期古記録を中心にして - 」『日本の美術511 古神宝』、至文堂、2008&lt;br /&gt;
* 『週刊朝日百科 日本の美術』39号、朝日新聞社、1997（熊野速玉大社古神宝類の解説は河上繁樹・小川幹生）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 周辺施設 ==&lt;br /&gt;
* [[佐藤春夫記念館]]&lt;br /&gt;
* [[川原家横丁]]&lt;br /&gt;
* [[新宮城]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[熊野速玉祭]]&lt;br /&gt;
* [[熊野三山]]&lt;br /&gt;
* [[神倉神社]] - 速玉大社の元宮で、例祭「[[御燈祭]]」で知られる。[[千穂ヶ峯]]と併せて境内地の一部である。&lt;br /&gt;
* [[紀伊山地の霊場と参詣道]]&lt;br /&gt;
** [[熊野川]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://kumanohayatama.jp/ 熊野速玉大社公式サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまのはやたまたいしや}}&lt;br /&gt;
[[Category:和歌山県の神社]]&lt;br /&gt;
[[Category:新宮市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:式内大社]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀伊国の式内社|大くまのはやたまたいしや]]&lt;br /&gt;
[[Category:大社]]&lt;br /&gt;
[[Category:官幣大社]]&lt;br /&gt;
[[Category:別表神社]]&lt;br /&gt;
[[Category:熊野三山|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の国宝 (工芸品)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の国宝 (彫刻)]]&lt;br /&gt;
[[Category:和歌山県の重要文化財]]&lt;br /&gt;
[[Category:和歌山県にある国指定の史跡]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E9%98%BF%E9%97%8D%E6%A2%A8&amp;diff=264531</id>
		<title>阿闍梨</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E9%98%BF%E9%97%8D%E6%A2%A8&amp;diff=264531"/>
				<updated>2014-12-13T14:16:02Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''阿闍梨'''（あじゃり、あざり、サンスクリット：{{Lang|sa|&amp;amp;#257;c&amp;amp;#257;rya}} アーチャーリヤ、阿舎梨・阿闍梨耶とも音写）とは...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''阿闍梨'''（あじゃり、あざり、[[サンスクリット]]：{{Lang|sa|&amp;amp;#257;c&amp;amp;#257;rya}} アーチャーリヤ、阿舎梨・阿闍梨耶とも音写）とは、サンスクリットで「軌範」を意味し、漢語では師範・軌師範・正行とも表記するが、その意味は本来、正しく諸[[戒律]]を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠や[[僧]]侶のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
[[ヴェーダの宗教]]では[[ヴェーダ]]における規範を伝授する指導者を意味していて、これが仏教においても転用されるようになった。[[部派仏教]]においては修行僧たちの規律を指導し教義を伝授する高僧を阿闍梨といい、教団によって種類は異なるが、指導内容ごとに複数の阿闍梨がいた。[[四分律]]には、出家・受戒・教授・受経・依止の五種類の阿闍梨が説かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、現在の日本密教では阿闍梨は職業上の「習得資格」の名称であり、伝統的な仏教上の名称と「四度加行」という行道を一応は踏襲してはいるが、実質的な内容を伴うものではなく、例えば、[[高野山真言宗]]では一般の僧侶が持つべき最低限の資格ともされている。いわゆる日本で[[事相]]面での教師としての阿闍梨となると、伝法灌頂を終えて各本山に3年ほど残り、その期間を含めて流派や人によるが、最短で約10年ほどで「[[一流伝授]]」の資格を得て初めて、弟子にものを教えることのできる伝灯の阿闍梨ということが出来る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、伝統における共通の認識として知っておきたいことは、日本密教・中国密教・チベット密教において、基本的に[[戒律]]を守ることも出来ず、あるいは各宗派において得度もせず、長期にわたる正式な「加行」（四度加行や閉関修行）を終了することも出来ないような[[在家]]の人が、各伝統が定める正規の阿闍梨になることはあり得ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==密教==&lt;br /&gt;
初期の天台[[密教]]においては[[大日如来]]等の諸仏を指すことがあるが、南伝の上座部仏教や、北伝の大乗仏教をはじめ、中世の日本密教や、現在の中国密教・チベット密教では衆僧の模範となるべき特別な資格を有する高位の[[僧侶]]の称号であり、[[日本]]では主に[[天台宗]]と[[真言宗]]において、歴史上では[[天皇]]の関わる儀式において[[修法]]を行う僧に特に与えられた職位であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、現代では一定期間の修行を経て「[[伝法灌頂]]」を授かった、宗派の認定する資格を有する職業としての僧侶を意味する。従って、現在の真言宗や天台宗では、阿闍梨は普通に密教を学んだ僧侶一般を指し、特別な高僧の称号ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本来、阿闍梨の称号を得るためには「阿闍梨の五明」といわれる教養と学問と、実技や修行とを身に付けなければならないため、現在でも、中国密教やチベット密教では厳しい基準や、[[三昧耶戒]]の「阿闍梨戒」があり、衆僧や一般信者の尊敬を一身に受ける立場となる。また、中国密教の[[唐密]]（タンミィ）や[[西密]]（シーミィ）、チベット密教においては、密教の阿闍梨を[[金剛乗]]の阿闍梨という意味で、「金剛阿闍梨」（チベット語；ドルジェ・ロプン）ともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、例外としてチベット密教でも亡命の状態によるチベット文化の理解と普及を含め、大檀家獲得と資金調達を目的として、阿闍梨灌頂の儀式のみを一般の在家に対しても行なうことがある、これは柔道や空手等のスポーツ振興において「名誉何段」というのと同様で、灌頂の儀式を授ける側も参加する側も、あくまでも「'''参加することが名誉'''」であって実質的な内容を伴うものではない事を知った上で行なうものである。他方、日本においても各寺院ごと等では、宣伝を兼ねて阿闍梨の称号を大檀家や有名人に対して授けることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==阿闍梨の種類==&lt;br /&gt;
歴史上、日本で阿闍梨と称される僧には以下のような者がいる。&lt;br /&gt;
;教授阿闍梨&lt;br /&gt;
:法を教授する。&lt;br /&gt;
;伝法阿闍梨（でんぽうあじゃり）&lt;br /&gt;
:[[伝法]]（術・経文など維持発展に必要な総ての要素）の[[灌頂]]を受けた者がなる。&lt;br /&gt;
;七高山阿闍梨（しちこうざんあじゃり）&lt;br /&gt;
:[[延暦寺|比叡山]]・[[伊吹山]]・[[愛宕神社|愛宕山]]など特に[[朝廷]]から指定を受けて五穀豊穣を祈る儀式を行う[[寺院]]において祈願の[[勅命]]を与えられて導師を務める者がなる。&lt;br /&gt;
;一身阿闍梨（いっしんあじゃり）&lt;br /&gt;
:[[皇族]]や[[摂関家]]の子弟から仏門に入り、貴種のゆえをもって若いうちに阿闍梨の称号を許された者がなる。&lt;br /&gt;
:また、伝法阿闍梨のうち特に徳の高いものを「大阿闍梨」（だいあじゃり）といった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==阿闍梨の五明==&lt;br /&gt;
密教の阿闍梨になるための学問である「阿闍梨の五明」について、中国密教とチベット密教では差異があるが、その簡単な内容は以下のようになる。&lt;br /&gt;
#声明（しょうみょう、sabda-vyakara）：真言学（マントラの発音と表記の特殊理論、音響法）、梵語（サンスクリット）の真言表記、発声学、[[声明]]（節付きのお経・梵語の讃嘆文や、真言の詠い方）。&lt;br /&gt;
#工巧明（くぎょうみょう、silpa-karma-sthana-vidya）：図像学、数学、仏教天文学、暦学、実星による密教占星術、工芸、冶金学、仏教彫刻、建築学。&lt;br /&gt;
#医方明（いほうみょう、cikitsa-vidya）：医学、薬学、錬金術、呪術、密教生理学、各タントラ経典等を含む密教ヨーガ（瑜伽）の技法大系。&lt;br /&gt;
#因明（いんみょう、vetu-vidya）：仏教論理学、論蔵、国語学（日本語・中国語・チベット語等）、梵語学、[[訓詁学]]（くんこがく）。&lt;br /&gt;
#内明（ないみょう、adhyatma-vidya）：仏教学、律蔵、経蔵、典籍学、儀軌を含む密教学、[[事相]]、法舞（チャム）、吹奏楽（儀式用の楽器演奏）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チベット密教では阿闍梨一人は図書館一つに匹敵するといわれ、古い世代のラマや伝統教育の恩恵を受けているトゥルク（転生者）たちには、「阿闍梨の五明」の伝統が今も生きている。ただし、今日的な様々な理由によってチベット密教の伝統も変化しつつあり、1959年の[[チベット動乱]]以降にチベット自治区や海外に設立された、西洋式のプログラムに基づく仏教大学の密教学部を卒業することで阿闍梨の資格を得た若い世代の一般のチベット僧は、阿闍梨の資格はあっても亡命先などの特殊な事情や時間的な制約もあって、「阿闍梨の五明」を完全には学んではいない。また、チベット密教で通過儀礼となった約3年の閉関修行に基づく阿闍梨も同様である。一方、日本密教では、[[元暦]]２年に京都を中心とする一帯を襲った[[文治地震]]によって首都機能が完全に麻痺し、時の貴族政権が倒れただけでなく、国家仏教でもあった真言宗と天台宗は共に施設や人材に甚大な被害を受けて平安密教の終焉を迎えた。それ故、上記の学問である「阿闍梨の五明」のほとんどは[[鎌倉時代]]に失伝してしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、日本密教で伝承されていると言えるものは、鎌倉時代に復興された詠いに基づく[[声明]]と、梵字の書道。更には、[[江戸時代]]に復興し大成された内容を主とする[[事相]]や内明の一部である。律蔵や因明については、近代の仏教学に基づく文献上の学問だけで、実際の[[戒律]]についての伝承は『[[出家]]戒』や『[[三昧耶戒]]』を含め、[[廃仏毀釈]]と[[世界大戦]]以降は失われてしまっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==阿闍梨戒==&lt;br /&gt;
ここでいう『阿闍梨戒』は[[三昧耶戒]]の一つであり、文字通り阿闍梨灌頂の際に授かる、密教を伝授する資格を伴う戒律のことを指す。『[[大日経]]』の第二巻・具縁品には、[[灌頂]]の導師である阿闍梨は次の「十三種類の徳」を具えていなければならないと説かれている。&lt;br /&gt;
#[[菩提心]]を発し、&lt;br /&gt;
#妙慧と[[慈悲]]とがあり、&lt;br /&gt;
#諸芸（阿闍梨の五明）を兼ねて統べている。&lt;br /&gt;
#善巧に般若波羅蜜を実修し、&lt;br /&gt;
#三乗（小乗・大乗・金剛乗の全て）に通達し、&lt;br /&gt;
#よく真言（マントラ）の実義を理解し、&lt;br /&gt;
#衆生の心を知り、&lt;br /&gt;
#諸仏・菩薩を信じ、&lt;br /&gt;
#伝法灌頂を得ていて、妙に（自ら興味をもって）曼荼羅の図像を理解し、&lt;br /&gt;
#その性格は、調柔（柔和）にして、我執を離れ、&lt;br /&gt;
#真言行において善く決定することを得て、&lt;br /&gt;
#瑜伽（各種の密教ヨーガや瞑想法）を究習して、&lt;br /&gt;
#勇健（勇猛で健全）な（勝義の）菩提心に安住すること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『阿闍梨戒』は、日本密教では今は伝承されていないが、現在の中国密教では、段階的に「準阿闍梨灌頂」と「阿闍梨灌頂」とがあり、後者の「阿闍梨灌頂」において授かる。チベット密教では別尊の大法や、『大[[幻化網タントラ]]』をはじめとする主要な五タントラの灌頂の際には、「瓶灌頂」等の後に「阿闍梨灌頂」を挟み、その際に授かる戒律である。また、中国密教では別名を『随従阿闍梨戒』ともいい、チベット密教では、これ以前に必ず「四帰依」の『上師戒』の解説や、『師事法五十頌』を授かることになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;『阿闍梨戒』&lt;br /&gt;
:*金剛乗（密教）の諸戒律に違反することがあってはならない。&lt;br /&gt;
:*身口意の三業をもって、[[師僧]]（ツァエラマ：根本ラマ）に供養せよ。&lt;br /&gt;
:*密教における「法」の伝統を軽視することがあってはならない。&lt;br /&gt;
:*伝法と真言の伝授には、必ず師僧の許可を得ること。&lt;br /&gt;
:*師僧が当地を離れた時は、力の限り道場（寺）を守ること。&lt;br /&gt;
:*伝法に際しては敬虔であり、名利を求めてはならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、以上の条項に大きく違反した場合には、密教における阿闍梨の資格を失うことにもなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 阿闍梨から派生した言葉 ==&lt;br /&gt;
[[京都]]名産の菓子「阿闍梨餅」は、比叡山の[[延暦寺#千日回峰行|千日回峰行]]の阿闍梨がかぶる網代笠を模したことからこの名がついたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
*『金剛乗殊勝心要寶蔵』、ドゥジョム・リンポチェ2世監修、劉鋭之編著、香港金剛乘學會刊。&lt;br /&gt;
*『帰依之証明書』、ギェーパ・ドルジェ・リンポチェ伝戒、岡坂勝芳編著、蓮華堂出版部、2005年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[密教]]&lt;br /&gt;
*[[灌頂]]&lt;br /&gt;
*[[三昧耶戒]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:あしやり}}&lt;br /&gt;
[[Category:僧]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヒンドゥー教]]&lt;br /&gt;
[[Category:宗教の称号・役職]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E9%98%BF%E9%97%8D%E6%A2%A8&amp;diff=264530</id>
		<title>大阿闍梨</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E9%98%BF%E9%97%8D%E6%A2%A8&amp;diff=264530"/>
				<updated>2014-12-13T14:12:04Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: 阿闍梨へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[阿闍梨]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E7%A5%9E_(%E7%A5%9E%E9%81%93)&amp;diff=239260</id>
		<title>神 (神道)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E7%A5%9E_(%E7%A5%9E%E9%81%93)&amp;diff=239260"/>
				<updated>2014-07-21T15:37:20Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「神道における'''神'''（かみ）とは、信仰や畏怖の対象である。「'''八百万の神'''」（やおよろずのかみ）と言う場合の...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[神道]]における'''[[神]]'''（かみ）とは、[[信仰]]や畏怖の対象である。「'''八百万の神'''」（やおよろずのかみ）と言う場合の「八百万」（やおよろず）は、数が多いことの例えである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 側面 ==&lt;br /&gt;
[[神道]]の神々は人と同じような姿や人格を有する記紀神話に見られるような「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「[[守護神]]」であるが、祟る性格も持っている。祟るからこそ、神は畏れられたのである。神道の神は、この'''祟り'''と密接な関係にある。&lt;br /&gt;
{{see|祟り}}&lt;br /&gt;
神々は、いろいろな種類があり、発展の段階もさまざまなものが並んで存在している。神には大別して以下のような側面がある。&lt;br /&gt;
#自然物や[[自然現象]]を神格化した神&lt;br /&gt;
#思考・災いといった抽象的なものを神格化した観念神&lt;br /&gt;
#古代の指導者・有力者などを神格化したと思われる神（[[エウヘメリズム]]）、氏の集団や村里の守り神とされるようになる神々&lt;br /&gt;
#万物の[[創造主]]としての神（ここにおいてはthe Godである）&lt;br /&gt;
#万物の創造主・主宰者としての全能の[[天皇]]&lt;br /&gt;
#[[王権神授説]] (Theory of the '''divine''' right of kings) における '''divine''' としての神（天皇）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自然物や自然現象を神格化した神 ===&lt;br /&gt;
この中で最も古いのは 1 の自然物や自然現象を神格化した神である。古代の日本人は、山、川、海中の島、巨石、巨木、神の顕現と思われるような動物、植物などといった自然物、鏡や剣のような神聖な物体、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取った。この感覚は今日でも神道の根本として残るものであり、[[小泉八雲]]はこれを「神道の感覚」と呼んでいる。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼす。古代人はこれを神々しい「何か」の怒り（祟り）と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになった。これが後に「カミ（神）」と呼ばれるようになる。このように神の観念の発展とともに、岩や器物は神霊の憑依するものと見なされるようになり、鳥や獣も神の使いとして考えられるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山に関しては神の鎮まるところ、神の住むところと見るようになり、山そのものを神体として「神体山」と呼ぶようになった。[[大場磐雄]]は、神体山を浅間型と神南備（かんなび）型の二つに分けている。まず浅間型は山谷が秀麗で周囲の山々からひときわ高く目立つ形をしており、神南備型は人里に近い比較的低い山で、傘を置いたようななだらかな形をしている。地名としてはカンナビ、ミムロ・ミモロというものが多い。前者に属する山は[[富士山]]とか[[白山]]（加賀）で、後者は奈良の三輪山・春日山がその典型。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、川や沼、池などにも水の神がいるという信仰もたくさんある。農業用水や生活用水との神と結びつくことが多い。神聖な山から水が流れ出し川となり、その川の上流から何か流れくるものが、神の世界から来たものと結びつけられることが多く、桃太郎や瓜子姫の話が成立し、神の子が誕生する物語に発展していく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 思考・災いといった抽象的なものを神格化した観念神 ===&lt;br /&gt;
貧乏神、[[疫神]]等があげられる。また、腸チフスをもたらす「ボニの神」が恐れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古代の指導者・有力者の神格化 ===&lt;br /&gt;
3 については、日本において天皇のことを戦前・戦中は[[現人神]]と呼び、神道上の概念としてだけでなく、政治上においても神とされていたことが挙げられる。現在では、[[昭和天皇]]によるいわゆる[[人間宣言]]により政治との関わり、国民との関係は変わった。だが、神道においては[[天照大御神]]の血を引くとされる天皇の存在は現在も大きな位置を占め、信仰活動の頂点として位置付けられている。また、その時代の有力者を死後に神として祭る例（[[豊臣秀吉]]＝[[豊国大明神]]、[[徳川家康]]＝[[東照大権現]]など）や、権力闘争に敗れまた逆賊として処刑された者を、後世において「怒りを鎮める」という意味で神として祭る例（[[菅原道真]]、[[平将門]]など）もこの分類に含まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
様々な部族が個々に固有の神を信仰していた。それらの部族が交流するにしたがって各部族の神が習合し、それによって変容するようになった。さらに、北方系の[[シャーマニズム]]なども影響を与えた。これを「[[神神習合]]」と呼ぶ学者もいる。この神神習合が、後に[[仏教]]を初めとする他宗教の神々を受け入れる素地となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 万物の創造主 ===&lt;br /&gt;
4 は[[平田篤胤]]が禁書であった[[キリスト教]]関係の書の影響を受け、[[天御中主神]]（アメノミナカヌシノカミ）を万物の創造主として位置づけたものである。[[尊王攘夷]]思想の基盤を形成し、近代の[[教派神道]]各派にも強い影響を与えている。[[国家神道]]の基盤ともなったが、[[神道事務局祭神論争]]（[[1880年]] - [[1881年]]）での出雲派の敗退により表舞台からは消えて潜勢力となった。[[天御中主神]]・[[高皇産霊神]]・[[神皇産霊神]]は[[造化三神]]とされた。[[造化三神]]は、多くの[[復古神道]]において現在でも究極神とされている。中でも[[天御中主神]]（アメノミナカヌシノカミ）は最高位に位置づけられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 万物の創造主・主宰者としての全能の天皇 ===&lt;br /&gt;
5 は[[明治]]の初期に[[祭政一致]]の国家体制を企図した[[神祇事務局]]の[[亀井茲監]]らが「天皇」と「天」とが同体しているという神儒合一的な観念によって全能の存在としたもの。「天皇ハ万物ノ主宰ニシテ、剖判（ほうはん・「宇宙創造時」の意）以来天統間断無ク天地ト与（とも）ニ化育ヲ同シ玉ヒ……」（『勤斎公奉務要書残編』）などとされる。[[石原莞爾]]は『[http://www.aozora.gr.jp/cards/000230/files/1154_23278.html 最終戦争論・戦争史大観]』（原型は1929年7月の中国の長春での「講話要領」）の中で、&lt;br /&gt;
:人類が心から現人神（あらひとがみ）の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。と述べている。[[関東軍]]参謀であった石原はこのようなイデオロギーから[[満州事変]]を勃発させた。前項および次項参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 王権神授説（Theory of the divine right of kings）における「divine」としての神（天皇） ===&lt;br /&gt;
{{see|人間宣言}}&lt;br /&gt;
6 は「[[現人神]]」の対訳として[[昭和天皇]]の[[人間宣言]] (1946年) の英文詔書において用いられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 神名 ==&lt;br /&gt;
神道の神の名前である神名は、大きく3つの部分に分けられる。例えば[[アメノウズメ|アメノウズメノミコト]]の場合&lt;br /&gt;
#「アメ」ノ&lt;br /&gt;
#「ウズメ」ノ&lt;br /&gt;
#「ミコト」&lt;br /&gt;
となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この他に、その神の神得を賛える様々な文言が付けられることがある。例えば、通常「[[ニニギ]]」と呼ばれる神の正式な神名は「アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神名は、1.の部分を省略して呼ぶことがある。また、[[民俗学]]・[[神話学]]など学術的な場面では神号（3.の部分）を略すことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「アメ」ノ（神の属性） ===&lt;br /&gt;
1.はその神の属性を示すものである。最も多い「アメ」「アマ」（天）は天津神であること、または天・[[高天原]]に関係のあることを示す。「クニ」（国）は国津神を表すこともあるが、多くは天を表す「アメ」のつく神と対になって地面もしくは国に関係のあることを示す。「ヨモ」（黄泉）は黄泉の国の神、「ホ」（穂）は稲穂に関係のあることを示す。この部分が神名にない神も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「ウズメ」ノ（神の名前） ===&lt;br /&gt;
2.はその神の名前に当たる。これもよく見ると、末尾が同じ音である神が多くいることが分かる。例えば「チ」「ミ」「ヒ」「ムス」「ムツ」「ムチ」「ヌシ」「ウシ」「ヲ」「メ」「ヒコ」「ヒメ」などである。これらは、神神習合が起こる前の各部族での「カミ」あるいは[[マナ]]を指す呼び名であったとも考えられる。「チ」「ミ」「ヒ」（霊）は自然神によく付けられ、精霊を表す（[[カグツチ]]、[[オオヤマツミ]]など。ツは「の」の意味）。「チ」より「ミ」の方が神格が高いとされている。「ウシ」（大人）と「〜の大人」の略称である主（ヌシ）は位の高い神につけられる（オオヒルメノムチ（[[アマテラス]]の別名）、[[大国主]]など。ムジナ、ミチ等動物と関連する可能性のある「ムス」（産）「ムツ」（親）「ムチ」（祖）は何かを産み出した祖神を表し「キ」「ヲ」（男）「シ」「コ」（子）「ヒコ」（彦・比古・毘古）は男神、「メ」（女）「ヒメ」（媛・姫・比売・毘売）は女神に付けられるものである。特に「メ」のつく神は、[[巫女]]を神格化した神であるとされることが多い。「コ」は[[国造]]（ミヤツコ）[[小野妹子]]など、元は男性を表したが、藤原氏が女性名として独占し、近世までは皇后など一部の身分の高い女性しか名乗れなかった事から、現代では女性名として定着した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「ミコト」（神号） ===&lt;br /&gt;
3.は神号と呼ばれる。いわば尊称である。代表的なのは「カミ」（神）と「ミコト」（命・尊）である。「ミコト」は「御事」すなわち命令のことで、何かの命令を受けた神につけられるものである。例えば[[イザナギ]]・[[イザナミ]]は、現れた時の神号は「神」である。別天津神より「国を固めよ」との命令を受けてから「命」に神号が変わっている。ただし、『[[日本書紀]]』では全て「ミコト」で統一している。特に貴い神に「尊」、それ以外の神に「命」の字を用いている。特に貴い神には大神（おおかみ）・大御神（おおみかみ）の神号がつけられる。また、後の時代には[[明神]]（みょうじん）、[[権現]]（ごんげん）などの神号も表れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「神」という言葉 ==&lt;br /&gt;
=== 外国語との関係 ===&lt;br /&gt;
日本語における「神」という言葉は、元々は神道の神を指すものであった。ただし『日本書紀』にはすでに仏教の尊格を「[[蕃神]]」とする記述が見られる。16世紀に[[キリスト教]]が日本に入ってきた時、キリスト教で信仰の対象となるものは「デウス」「天主」などと呼ばれ、神道の神とは（仏教の仏とも）別のものとされた。しかし、明治時代になってそれが「神」と訳された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、神道の神と比較的性質の近い、[[ギリシア神話|ギリシア]]・[[ローマ神話|ローマ]]のθεός/Deus(デウス)も神と訳される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 語源 ===&lt;br /&gt;
現代日本語では「神」と同音の言葉に「[[上]]」がある。「神」と「上」の関連性は一見する限りでは明らかであり、この2つが同語源だとする説は古くからあった。しかし江戸時代に[[上代特殊仮名遣]]が発見されると、「神」はミが乙類 (kam&amp;amp;iuml;) 、「上」はミが甲類 (kami) と音が異なっていたことがわかり、昭和50年代に反論がなされるまでは俗説として扱われていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに「身分の高い人間」を意味する「長官」「守」「皇」「卿」「頭」「伯」等（現代語でいう「オカミ」）、「龗」（神の名）、「狼」も、「上」と同じくミが甲類（kami）であり、「髪」「紙」も、「上」と同じくミが甲類（kami）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神 (kam&amp;amp;iuml;)」と「上 (kami)」音の類似は確かであり、何らかの母音変化が起こったとする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[カムヤマトイワレヒコ]]、[[カムアタツヒメ]]などの[[複合語]]で「神」が「カム」となっていることから、「神」は古くは「カム」かそれに近い音だったことが推定される。[[大野晋]]や[[森重敏 (国語学者)|森重敏]]などは、&amp;amp;iuml; の古い形として [[内的再構|*]]&amp;lt;nowiki/&amp;gt;ui と *oi を推定しており、これによれば kam&amp;amp;iuml; は古くは *kamui となる。これらから、「神」は[[アイヌ語]]の「[[カムイ]] (kamui)」と同語源だという説もある。また、古代[[トルコ語]] ([[テュルク]] 語)の「[[カム]] (Kam)」と同語源だという説もある。ドイツのハンブルクで出てくるように、地域によって「[[ハム]] (Ham)」という読み方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「カム」には「交む」「組む」「絡む」「懸かる」「係わる」「案山子」「影」「鍵、鉤」「嗅ぐ」「輝く」「翳す」「首」「株」「黴（かび）」「賀茂、鴨」「醸す」「食む（はむ）」「生む」「這う」「蛇（ハブ、はふむし）」「土生、埴生（はぶ）」「祝（はふる）」「屠る（ほふる）」「放る」などの派生語がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 八百万の神 ===&lt;br /&gt;
自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、欧米の辞書にはShintoとして紹介されている。日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様(厠神　かわやがみ)、台所の神様など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから八百万の神と言われるようになったと考えられる。八百万とは無限に近い神がいることを表しており、数ある多神教の中でも、数が多い考え方であると言える。&lt;br /&gt;
またこういった性格から、特定能力が著しく秀でた、もしくは特定分野で認められた人物への敬称として「神」が使われることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 神と霊 ===&lt;br /&gt;
神道において、特に有力な人物や恨みを残して亡くなった人物を『神』として祀り、祟りを避けようとした例は数多い。中でも[[菅原道真]]を祀る[[天満宮]]は亡くなった人間を神として扱う顕著な例である。&lt;br /&gt;
これに対して近代に興った[[靖国神社]]は国家のために戦死した不特定多数を神として祀っており、特定単数を神として祀る先述の例と一線を画している。&lt;br /&gt;
これらのことから、神社から慰霊碑、（[[神仏習合]]における）墓に至るまで規模は違えど本質的に同じものであり、『神』（祀れば恩恵をもたらし、ないがしろにすれば祟るもの）と『霊』（人間が死んだ後に残るとされる[[霊魂]]）とは明確に区別されていないといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 岡田精司著 『 新編　神社の古代史 』 学生社 2011年 ISBN 978-4-311-20302-2&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本の神の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[ダイモーン]]&lt;br /&gt;
* [[ゲニウス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かみ}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の神|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A9%E5%B9%B3%E5%AE%9D%E5%AD%97&amp;diff=239257</id>
		<title>天平宝字</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''天平宝字'''（てんぴょうほうじ、正字体：'''天平寶字'''）は、日本の元号の一つ。天平勝宝の後、天平神護の前。[[7...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''天平宝字'''（てんぴょうほうじ、正字体：'''天平寶字'''）は、日本の[[元号]]の一つ。[[天平勝宝]]の後、[[天平神護]]の前。[[757年]]から[[765年]]までの期間を指す。この時代の天皇は[[孝謙天皇]]、[[淳仁天皇]]、[[孝謙天皇|称徳天皇]]（孝謙天皇[[重祚]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==改元==&lt;br /&gt;
*天平勝宝9歳[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]（[[ユリウス暦]]757年[[9月6日]]） 蚕が「五月八日開下帝釋標知天皇命百年息」の文字を成したことにより改元&lt;br /&gt;
*天平宝字9年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]（ユリウス暦[[765年]][[2月1日]]） 天平神護に改元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 天平宝字期におきた出来事 ==&lt;br /&gt;
* 天平宝字元(757)年 - [[能登国|能登]]・[[阿波国|阿波]]・[[和泉国|和泉]]を再び分立。[[藤原仲麻呂]]を紫微内相に任ずる。[[養老律令|養老令]]を施行。仲麻呂の殺害謀議発覚し、多数処刑される。右大臣藤原豊成を[[大宰府]]に左遷する。大宰府の[[防人]]に板東諸国の兵士の充当をやめ、[[西海道]]7国の兵士を当てる。&lt;br /&gt;
* 天平宝字2(758)年 - [[孝謙天皇]]が大炊王に譲位。[[淳仁天皇]]が即位&lt;br /&gt;
* 天平宝字3(759)年 - [[大伴家持]]が『[[万葉集]]』を編纂。&lt;br /&gt;
* 天平宝字7(763)年 - [[鑑真和上]]が死去。　&lt;br /&gt;
* 天平宝字8(764)年 - [[藤原仲麻呂の乱|恵美押勝の乱]]。淳仁天皇を廃して[[淡路国|淡路]]に配流し、孝謙上皇は重祚し、称徳天皇となる。&lt;br /&gt;
* 天平宝字8年 - [[儀鳳暦]]から[[大衍暦]]に改暦。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 西暦との対照表 ==&lt;br /&gt;
※は小の月を示す。&lt;br /&gt;
{|class=wikitable&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|天平宝字元年（[[丁酉]]）!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月※!!nowrap|四月!!nowrap|五月※!!nowrap|六月!!nowrap|七月!!nowrap|八月※!!nowrap|閏八月!!nowrap|九月※!!nowrap|十月!!nowrap|十一月※!!nowrap|十二月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ユリウス暦||[[757年|757]]/1/25||2/23||3/25||4/23||5/23||6/21||7/21||8/20||9/18||10/18||11/16||12/16||[[758年|758]]/1/14&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|天平宝字二年（[[戊戌]]）!!nowrap|一月※!!nowrap|二月※!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月!!nowrap|六月!!nowrap|七月※!!nowrap|八月!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月※!!&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ユリウス暦||[[758年|758]]/2/13||3/14||4/12||5/12||6/10||7/10||8/9||9/7||10/7||11/6||12/5||[[759年|759]]/1/4||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|天平宝字三年（[[己亥]]）!!nowrap|一月!!nowrap|二月※!!nowrap|三月※!!nowrap|四月!!nowrap|五月※!!nowrap|六月!!nowrap|七月※!!nowrap|八月!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月!!&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ユリウス暦||[[759年|759]]/2/2||3/4||4/2||5/1||5/31||6/29||7/29||8/27||9/26||10/26||11/24||12/24||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|天平宝字四年（[[庚子]]）!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月※!!nowrap|四月※!!nowrap|閏四月!!nowrap|五月※!!nowrap|六月※!!nowrap|七月!!nowrap|八月!!nowrap|九月※!!nowrap|十月!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ユリウス暦||[[760年|760]]/1/23||2/21||3/22||4/20||5/19||6/18||7/17||8/15||9/14||10/14||11/12||12/12||[[761年|761]]/1/11&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|天平宝字五年（[[辛丑]]）!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月※!!nowrap|四月※!!nowrap|五月!!nowrap|六月※!!nowrap|七月!!nowrap|八月※!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月※!!&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ユリウス暦||[[761年|761]]/2/10||3/11||4/10||5/9||6/7||7/7||8/5||9/4||10/3||11/2||12/1||12/31||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|天平宝字六年（[[壬寅]]）!!nowrap|一月!!nowrap|二月!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月※!!nowrap|六月!!nowrap|七月※!!nowrap|八月※!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月!!nowrap|閏十二月※&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ユリウス暦||[[762年|762]]/1/29||2/28||3/30||4/29||5/28||6/26||7/26||8/24||9/22||10/22||11/20||12/20||[[763年|763]]/1/19&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|天平宝字七年（[[癸卯]]）!!nowrap|一月!!nowrap|二月!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月※!!nowrap|六月!!nowrap|七月※!!nowrap|八月※!!nowrap|九月!!nowrap|十月※!!nowrap|十一月!!nowrap|十二月!!&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ユリウス暦||[[763年|763]]/2/17||3/19||4/18||5/18||6/16||7/15||8/14||9/12||10/11||11/10||12/9||[[764年|764]]/1/8||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|天平宝字八年（[[甲辰]]）!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月!!nowrap|六月※!!nowrap|七月!!nowrap|八月※!!nowrap|九月※!!nowrap|十月!!nowrap|十一月※!!nowrap|十二月!!&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ユリウス暦||[[764年|764]]/2/7||3/7||4/6||5/6||6/4||7/4||8/2||9/1||9/30||10/29||11/28||12/27||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!nowrap|天平宝字九年（[[乙巳]]）!!nowrap|一月※!!nowrap|二月!!nowrap|三月!!nowrap|四月※!!nowrap|五月!!nowrap|六月!!nowrap|七月※!!nowrap|八月!!nowrap|九月※!!nowrap|十月!!nowrap|閏十月※!!nowrap|十一月※!!nowrap|十二月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ユリウス暦||[[765年|765]]/1/26||2/24||3/26||4/25||5/24||6/23||7/23||8/21||9/20||10/19||11/18||12/17||[[766年|766]]/1/15&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{日本の元号}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:てんひようほうし}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の元号]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良時代|元てんひようほうし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%9B%86%E6%AE%BF&amp;diff=239254</id>
		<title>朝集殿</title>
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				<updated>2014-07-21T15:32:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''朝集殿'''（ちょうしゅうでん）または'''朝集堂'''（ちょうしゅうどう）とは、大極殿、朝堂とともに朝堂院を構成す...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朝集殿'''（ちょうしゅうでん）または'''朝集堂'''（ちょうしゅうどう）とは、[[大極殿]]、[[朝堂]]とともに[[朝堂院]]を構成する殿舎の1種。[[朝廷]]の臣下や[[官人]]が出仕する際の控えとなった[[建物]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
朝集殿は、[[朝政]]など朝廷の庶務一般、[[即位の礼|天皇即位儀]]、[[朝賀|元日朝賀]]、[[任官]]、[[叙位]]、[[改元]]の[[宣詔]]、[[告朔]]、[[節会]]、外国使への[[饗宴]]など[[儀式]]一般（[[朝儀]]）がおこなわれた朝堂の南に位置し、[[朝参]]の際などに参集した朝廷の臣下が開門の時刻まで待機した殿舎である。ここで官人たちは、身づくろいするなどして朝堂の南門（平安宮では会昌門と呼んだ）がひらくのを待った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝集殿の[[遺構]]として確認される最古は[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]の朝集殿であり、[[難波宮|難波宮跡]]の[[発掘調査]]において検出している。以後、朝集殿は[[藤原京|藤原宮]]、[[平城宮]]、[[長岡京|長岡宮]]、平安宮（[[大内裏]]）でも設けられている。いずれも、朝堂南門の前方左右に2堂1対が設けられた。それぞれ、「東朝集殿」「西朝集殿」のように呼ばれた。建物は、東朝集殿・西朝集殿ともに南北方向を長軸として互いに向き合うかたちで配置され、[[回廊]]を通じて大極殿や朝堂の一郭と通じていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朝参 ==&lt;br /&gt;
『[[日本書紀]]』には[[大化]]3年（[[647年]]）、[[孝徳天皇]]が[[難波]]の小郡宮で「礼法」を定めたということが記されている。冠位を有する官人は、毎朝午前4時ころまでに朝庭南門の外にならび、[[日の出]]とともに庭にはいって天皇に再拝し、そのあと[[正午]]まで朝堂で政務を執ることとした。遅刻した者は入ることができず、また、正午の[[鐘]]を聞いたら退庁すべし、としている。[[鐘]]は中庭につるしておき、鐘をつく者は赤い[[頭巾]]をかぶるべきことも定められた。鐘つき役人が赤い頭巾をかぶるのは、中国の古典にみえる「[[鶏人]]（けいじん）」の[[風習]]を真似たものと考えられる。これは、[[鶏]]が時を告げることに由来するものと推測されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遺構・再現建物 ==&lt;br /&gt;
[[唐招提寺]]の[[講堂]]は、平城宮の改修にともなって、[[天平宝字]]4年（[[760年]]）ころに平城宮の東朝集殿を移築したものである。[[瓦葺]]で梁行9間、桁行4間。[[壁]]や[[建具]]のほとんどない開放的な建物であった。朝集殿として用いられていたときは[[切妻造]]であったが、移築の際、[[入母屋造]]に改造され、建具を入れている。[[鎌倉時代]]の[[建治]]元年（[[1275年]]）にも改修されているが、平城宮の建物のなかで現存する唯一の[[遺構]]としてきわめて貴重であり、[[国宝]]に指定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[平安神宮]]の拝殿は平安宮の[[大極殿]]、正面の神門は[[応天門]]、神門の左右の殿舎は朝集殿を再現して建築されたものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
*[[吉田孝]]『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』[[小学館]]&amp;amp;lt;小学館ライブラリー&amp;amp;gt;、1992年10月。ISBN 4-09-461003-0&lt;br /&gt;
* [[吉村武彦]]『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』[[集英社]]、1991年8月。ISBN 4-08-195003-2&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[朝廷]]&lt;br /&gt;
* [[朝堂院]]&lt;br /&gt;
* [[朝堂]]&lt;br /&gt;
* [[朝庭]]&lt;br /&gt;
* [[朝儀]]&lt;br /&gt;
* [[朝政]]&lt;br /&gt;
* [[唐招提寺]]&lt;br /&gt;
* [[平安神宮]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://tukineko.pekori.jp/heian/daidai/tyoudou.html 平安京大内裏「朝堂院」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちようしゆうてん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の宮殿]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の庁舎|旧ちようしゆうてん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=14%E4%B8%96%E7%B4%80&amp;diff=239251</id>
		<title>14世紀</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=14%E4%B8%96%E7%B4%80&amp;diff=239251"/>
				<updated>2014-07-21T15:30:06Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''14世紀'''（じゅうよんせいき）は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す。  == 14世紀の歴史 == === 世界 === 14世...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''14世紀'''（じゅうよんせいき）は、[[西暦]][[1301年]]から西暦[[1400年]]までの100年間を指す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 14世紀の歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 世界 ===&lt;br /&gt;
14世紀の[[ヨーロッパ]]では[[ペスト]]により人口が大きく減少（詳細は後述）した後、'''[[ルネサンス|イタリアルネサンス]]'''により、新しい時代へと大きく転換した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
13世紀に[[ユーラシア大陸]]を覆っていた[[モンゴル帝国]]は弱体化し、[[アジア]]各地に'''[[明|明王朝]]'''や'''[[ティムール朝]]'''など地域的な新しい国家が誕生、モンゴル帝国の[[元 (王朝)|元王朝]]は明王朝の脅威から逃れるため、[[大都]]を捨て北部[[モンゴル高原]]へ退去した（以後、[[北元]]と呼ばれる）。一方、13世紀末に成立した'''[[オスマン帝国]]'''も勢力を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ペスト（黒死病）の大流行 ====&lt;br /&gt;
正確な統計はないが、全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に[[農奴制|農奴]]不足が続いていた[[荘園|荘園制]]に大きな影響を及ぼした。モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが、この大流行の背景にあると考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
14世紀の日本は、時代区分上では[[中世]]、[[鎌倉時代]]後期から[[室町時代]]の初期（[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の全期間を含む）にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 鎌倉時代 ====&lt;br /&gt;
2度に渡る[[元寇]]を撃退し、[[得宗]]権力を強めた鎌倉[[北条氏|北条]]政権であったが、[[武士]]たちに募る恩賞の不満や[[徳政令]]の発布、[[霜月騒動]]、[[平禅門の乱]]などによる政治的混乱で政権への不満を招いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 南北朝時代・室町時代 ====&lt;br /&gt;
[[後醍醐天皇]]の討幕運動に[[足利尊氏]]・[[新田義貞]]らの活躍で[[鎌倉幕府]]は滅亡し、後醍醐天皇は'''[[建武の新政]]'''と呼ばれる[[親政|天皇親政]]を開始する。新政は唐突な改革による混乱と恩賞などに対する武士層を中心とする不満を招き、離反した尊氏が[[京都]]に[[室町幕府]]を開いて'''[[北朝 (日本)|北朝]]'''を立てると、[[吉野]]に逃れた後醍醐天皇の'''[[南朝 (日本)|南朝]]'''と対立する（南北朝時代）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後南朝の勢力は衰亡するが、尊氏と弟[[足利直義|直義]]が対立する内紛（[[観応の擾乱]]）が起き、南朝は混乱に乗じて息を吹き返す。幕府内部での政治抗争は3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の時代まで続き、抗争により有力[[守護大名]]が南朝に奔るといった状態が繰り返される。[[今川貞世]]が九州へ派遣されて平定を完了すると、室町幕府の権力は確立され、1392年に義満により'''南北朝の合一'''が行われる。これより前の1379年には室町幕府の政治事件「[[康暦の政変]]」も起こっており、以後義満は1391年に[[明徳の乱]]、1399年に[[応永の乱]]を自らの主導により誘発して対抗勢力を駆逐し、やがて[[天皇]]の権威にせまる将軍権力を確立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 近隣諸国との関係・琉球の情勢 ====&lt;br /&gt;
元寇により日本と元朝の公式の通商は途絶えたが、[[天龍寺船]]などの寺社造営資金の調達のための貿易船（[[寺社造営料唐船]]）の派遣や、留学僧の渡来など、ある程度の交流は続いていた。14世紀の東アジアには[[倭寇]]と呼ばれる海上勢力が活動しており（14世紀の倭寇は「前期倭寇」と呼ばれる）、中国で1368年に成立した明王朝では、日本に倭寇鎮圧を求めており、この頃九州に割拠していた南朝勢力である[[懐良親王]]は明の使節を迎えて[[冊封]]を受ける。15世紀に入って足利義満が冊封を受けなおして「[[日本国王]]」となり、大陸との交流は絶頂を迎える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、当時の[[朝鮮半島]]でも倭寇征伐が行われており、その過程で名声を得た[[李成桂]]が[[高麗]]王朝を倒し[[李氏朝鮮]]が成立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[琉球]]では中山・南山・北山の[[三山時代]]を迎えて、いずれも明王朝に[[朝貢]]をし、高麗にも使節を送っていた。三山のうち中山が勢力を拡大し、15世紀に[[琉球王国]]の成立にいたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== できごと ==&lt;br /&gt;
* [[中国]]では元朝の衰退により、明朝成立。&lt;br /&gt;
* 1300年頃に[[スウェーデン]]による[[フィンランド]]遠征（[[北方十字軍]]の完了）。&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
* 1301年 &lt;br /&gt;
** オゴタイ家のカイドゥが没し、30年にわたるカイドゥの乱が終わる。&lt;br /&gt;
** [[後伏見天皇]]が譲位し、第94代[[後二条天皇]]が即位。&lt;br /&gt;
** [[北条師時]]が鎌倉幕府第10代[[執権]]に就任。&lt;br /&gt;
* 1302年  &lt;br /&gt;
** フランス王フィリップ4世による[[三部会]]の招集。&lt;br /&gt;
** [[ブリュージュ]]の朝課事件と、続く[[金拍車の戦い]]（コルトレイクの戦い）で[[フランドル]]がフランスから独立。&lt;br /&gt;
* 1303年 - [[アナーニ事件]]。&lt;br /&gt;
* 1305年 - 元のテムル（成宗）にオゴタイ家とチャガタイ家が服属しモンゴルが再統一される。&lt;br /&gt;
* 1308年 &lt;br /&gt;
**神聖ローマ皇帝[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]が甥[[ヨーハン・パリツィーダ|ヨーハン]]に暗殺される。&lt;br /&gt;
** 後二条天皇が没し、第95代[[花園天皇]]が即位。&lt;br /&gt;
* 1308年 - [[守邦親王]]が鎌倉幕府第9代将軍となる。&lt;br /&gt;
* 1308年 - [[ルーム・セルジューク朝]]滅亡。&lt;br /&gt;
* 1309年 - [[アヴィニョン捕囚]]（教皇のバビロン捕囚）。&lt;br /&gt;
* 1311年 - [[北条宗宣]]が鎌倉幕府第11代執権に就任。&lt;br /&gt;
* 1312年 - [[北条煕時]]が鎌倉幕府第12代執権に就任。&lt;br /&gt;
* 1314年&lt;br /&gt;
** [[バノックバーンの戦い]]で、イングランド軍がスコットランド軍に大敗し支配権を喪失。&lt;br /&gt;
** フランスで「ネールの塔」事件が発覚する。国王フィリップ4世が死去。&lt;br /&gt;
* 1315年 &lt;br /&gt;
** [[北条基時]]が鎌倉幕府第13代執権に就任。&lt;br /&gt;
** モルガルテンの戦いでスイス軍がハプスブルク軍に勝利。&lt;br /&gt;
* 1315年〜1321年頃 - ヨーロッパで激しい[[飢饉]]。→ [[小氷期]]。&lt;br /&gt;
* 1316年 - [[北条高時]]が鎌倉幕府第14代執権に就任。&lt;br /&gt;
* 1317年&lt;br /&gt;
** 鎌倉幕府が持明院・大覚寺両統の迭立を提案するが不調に終わる（[[文保の和談]]）。&lt;br /&gt;
** アヴィニョン教皇ヨハネス22世の回勅「クォルムダム・エクスィギト」により清貧論争が激化。&lt;br /&gt;
* 1318年&lt;br /&gt;
** 花園天皇が譲位し、第96代後醍醐天皇が即位。&lt;br /&gt;
** イル・ハン国宰相であった[[ラシードゥッディーン]]が処刑される。&lt;br /&gt;
* 1320年&lt;br /&gt;
** [[デリー]]で[[トゥグルク朝]]が成立。&lt;br /&gt;
** [[スコットランド王国|スコットランド]]で[[アーブロース宣言]]を採択、イングランドからの独立が決定的に。&lt;br /&gt;
* 1323年&lt;br /&gt;
** 南坡の変で、元の皇帝[[シデバラ]]（英宗）が御史大夫[[テクシ]]に暗殺される。 &lt;br /&gt;
** この頃、元から日本へ向かう[[寺社造営料唐船|東福寺造営料唐船]]が現在の韓国全羅南道新安郡沖で沈没（新安沈船）。&lt;br /&gt;
* 1324年&lt;br /&gt;
** 後醍醐天皇の挙兵計画である [[正中の変]]が発覚。&lt;br /&gt;
** マリ王国のマンサ・ムーサのメッカ巡礼。&lt;br /&gt;
* 1326年 &lt;br /&gt;
** [[北条貞顕]]が鎌倉幕府第15代執権に就任。わずか10日で辞職。&lt;br /&gt;
** [[北条守時]]が鎌倉幕府第16代執権に就任。この一連の政変を[[嘉暦の騒動]]という。&lt;br /&gt;
** [[チャガタイ・ハン国]]の東西分裂。&lt;br /&gt;
* 1327年 &lt;br /&gt;
** 王妃[[イザベラ・オブ・フランス|イザベラ]]によりイングランド王エドワード2世が廃位され、息子エドワード3世が即位。&lt;br /&gt;
** ジェーラムの戦いで、[[ムハンマド・ビン・トゥグルク]]がチャガタイ・ハン国を撃破。&lt;br /&gt;
* 1328年&lt;br /&gt;
** 元で天暦の内乱。&lt;br /&gt;
** フランスで[[カペー朝]]が断絶。[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]が即位し[[ヴァロワ朝]]が始まる。&lt;br /&gt;
* 1330年 - イングランド王エドワード3世が母后イザベラとマーチ伯を失脚させる。&lt;br /&gt;
* 1331年 - [[元弘の変]]&lt;br /&gt;
** 8月 後醍醐天皇、[[三種の神器]]を持って[[笠置山 (京都府)|笠置山]]に入る。&lt;br /&gt;
** 9月 幕府の奏請により、量仁親王が即位して、北朝初代[[光厳天皇]]となる。笠置落ちの後醍醐天皇が捕らえられる。&lt;br /&gt;
** 10月　後醍醐天皇、神器を光厳天皇に渡す。&lt;br /&gt;
* 1332年 - 幕府、後醍醐天皇を[[隠岐島]]に流す。&lt;br /&gt;
* 1333年 - 足利尊氏・新田義貞らにより鎌倉幕府が滅亡。&lt;br /&gt;
** 5月 後醍醐天皇、光厳天皇と[[正慶]]の年号を廃止する。新田義貞、[[鎌倉]]を陥落させる。建武の新政はじまる。&lt;br /&gt;
** 6月、後醍醐天皇が京都に入る。&lt;br /&gt;
** 7月、[[記録荘園券契所|記録所]]を復置する。&lt;br /&gt;
** 9月、[[雑訴決断所]]を設置する。&lt;br /&gt;
* 1334年&lt;br /&gt;
** [[南禅寺]]を五山の第一とする。&lt;br /&gt;
** スコットランド王[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]]がフランスに亡命。&lt;br /&gt;
* 1335年 &lt;br /&gt;
** [[北条氏]]の遺臣が[[中先代の乱]]を起す。足利直義が鎌倉脱出の際に[[護良親王]]を殺害。&lt;br /&gt;
** ハンガリー王カーロイ1世、ポーランド王カジミェシュ3世、ボヘミア王ヨハンによるヴィシェグラード会議。&lt;br /&gt;
* 1336年 &lt;br /&gt;
** 3月 [[筑前国]]の[[多々良浜の戦い]]で足利尊氏が多々良浜に[[菊池武敏]]を破る。&lt;br /&gt;
** 5月 [[湊川の戦い]]で足利尊氏、新田義貞・[[楠木正成]]を[[湊川 (兵庫県)|湊川]]で破る。&lt;br /&gt;
** 11月 後醍醐天皇、北朝に三種の神器を渡す。足利尊氏が「[[建武式目]]」を定める（[[室町幕府]]の成立）。&lt;br /&gt;
** 12月 後醍醐天皇、吉野へ逃れる。（南北朝分立、1336年 - 1392年）&lt;br /&gt;
** ハリハラとブッカがトゥグルク朝から独立を宣言し、[[ヴィジャヤナガル王国]]を建国。&lt;br /&gt;
* 1337年 - [[イングランド王国|イングランド]]と[[フランス王国|フランス]]の間で[[百年戦争]]が始まる（-[[1453年]]）。&lt;br /&gt;
* 1338年 - [[四條畷の戦い]]　&lt;br /&gt;
** 5月 [[北畠顕家]]、[[高師直]]らと堺浦・石津に闘い、死ぬ。&lt;br /&gt;
** 8月 北朝が足利尊氏を征夷大将軍とする。足利尊氏[[室町幕府]]初代将軍となる。&lt;br /&gt;
** レンゼ選帝侯会議により、神聖ローマ皇帝の選出にローマ教皇の承認は不必要だと決定される。&lt;br /&gt;
* 1339年&lt;br /&gt;
** [[8月15日 (旧暦)|8月15日]]、後醍醐天皇が譲位し、第97代[[後村上天皇]]が即位。翌16日、後醍醐天皇、52歳で没する。&lt;br /&gt;
* 1340年&lt;br /&gt;
** サラードの戦いにて、カスティーリャ軍が勝利し、マリーン朝はイベリア半島から撤退。&lt;br /&gt;
** [[ハールィチ・ヴォルィーニ戦争]]始まる（ - [[1392年]]）。&lt;br /&gt;
* 1341年&lt;br /&gt;
** [[塩冶高貞]]が高師直の讒言により討たれる。&lt;br /&gt;
** 東ローマ帝国で[[ヨハネス5世パレオロゴス|ヨハネス5世]]と[[ヨハネス6世カンタクゼノス|ヨハネス6世]]の帝位争い。この混乱で帝国はバルカン半島の領土の多くを喪失。&lt;br /&gt;
* 1344年 - [[アラゴン連合王国|アラゴン王国]]が[[バレアレス諸島]]の[[マヨルカ王国]]を併合。&lt;br /&gt;
* 1346年&lt;br /&gt;
** [[クレシーの戦い]]。&lt;br /&gt;
** [[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]が「セルビア人とローマ人の皇帝」となる。&lt;br /&gt;
* 1347年&lt;br /&gt;
** ペストが流行し、ヨーロッパや[[北アフリカ]]の人口が激減（ - 1351年）。&lt;br /&gt;
** [[カレー包囲戦]]により[[カレー (フランス)|カレー市]]がイングランド軍に降伏（「[[カレーの市民]]」）。&lt;br /&gt;
* 1348年 - イングランド国王エドワード3世によりガーター騎士団が設置される。[[ガーター勲章]]も制定。&lt;br /&gt;
* 1350年 - [[タイ王国|タイ]]で[[アユタヤ王朝]]成立。&lt;br /&gt;
* 1350年 - 観応の擾乱と呼ばれる室町幕府の内部抗争が勃発。&lt;br /&gt;
* 1351年 - [[紅巾の乱]]。&lt;br /&gt;
* 1352年 - [[寺社本所領事|応安の半済令]]施行。&lt;br /&gt;
* 1353年 - [[イルハン朝]]の滅亡。&lt;br /&gt;
* 1356年 &lt;br /&gt;
** [[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]によって、帝国の基本的な体制を規定する[[金印勅書]]が発布される。&lt;br /&gt;
** [[ポワティエの戦い]] 。フランス国王ジャン2世がイングランド軍の捕虜になる。&lt;br /&gt;
** 元朝で[[中国の貨幣制度史|交鈔]]が廃止になる。&lt;br /&gt;
* 1357年 - ポルトガル国王[[ペドロ1世 (ポルトガル王)|ペドロ1世]]の即位。惨殺された愛妾[[イネス・デ・カストロ]]を王妃として復権させる。&lt;br /&gt;
* 1358年&lt;br /&gt;
** [[足利義詮]]が室町幕府第2代将軍となる。&lt;br /&gt;
** 商人ハンザと都市ハンザの統合で[[ハンザ同盟|ハンザ都市同盟]]が正式に発足。&lt;br /&gt;
* 1359年 - [[ジョチ・ウルス|キプチャク・ハン国（ジョチ・ウルス）]]、君主（[[ハーン]]）乱立時代に入る（ - 1378年）。&lt;br /&gt;
* 1360年 - 5月、幕府執事の[[細川清氏]]が[[佐々木道誉]]の讒言で失脚する。&lt;br /&gt;
* 1362年 - デンマークとハンザ同盟との戦争が始まる（ - 1370年）&lt;br /&gt;
* 1368年&lt;br /&gt;
** 後村上天皇が没し、第98代[[長慶天皇]]が即位。&lt;br /&gt;
** [[朱元璋]]が明を建国。&lt;br /&gt;
** 足利義満が室町幕府第3代将軍となる。&lt;br /&gt;
* 1369年 - トラスタマラ伯エンリケがカスティリア王[[ペドロ1世]]を殺害し王位に就く（[[エンリケ4世]]）。トラスタマラ朝の成立。&lt;br /&gt;
* 1370年 - ティムール朝の成立。&lt;br /&gt;
* 1375年 - [[アステカ王国]]の成立。&lt;br /&gt;
* 1376年&lt;br /&gt;
** イングランドで「善良議会」が召集され、ランカスター公らが弾劾される。同年、エドワード黒太子が死去。&lt;br /&gt;
** [[空印事件|空印の案]]。&lt;br /&gt;
* 1378年&lt;br /&gt;
** [[花の御所]]の造営開始。&lt;br /&gt;
** [[教会大分裂]]（[[シスマ]]）。&lt;br /&gt;
** [[フィレンツェ]]で[[チョンピの乱]]が起きる。&lt;br /&gt;
* 1379年 - [[斯波氏]]の[[クーデター]]である康暦の政変で[[管領]]の[[細川頼之]]が失脚する。&lt;br /&gt;
* 1380年&lt;br /&gt;
** [[クリコヴォの戦い]]で[[ルーシ]]諸侯連合軍がキプチャク・ハン国に勝利。&lt;br /&gt;
** [[胡惟庸の獄]]。 &lt;br /&gt;
* 1381年 - イングランドで[[ワット・タイラー]]に率いられた[[農民]]・[[労働者]]が[[暴動]]を起こす（[[ワット・タイラーの乱]]）。&lt;br /&gt;
* 1383年 - 長慶天皇が譲位し、第99代[[後亀山天皇]]が即位。&lt;br /&gt;
* 1385年&lt;br /&gt;
** [[ポーランド王国]]と[[リトアニア大公国]]が[[クレヴォの合同]]を結ぶ。&lt;br /&gt;
** [[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]が[[アヴィス王朝]]を創始。[[アルジュバロタの戦い]]で[[カスティーリャ王国]]軍撃破。&lt;br /&gt;
* 1386年 &lt;br /&gt;
** [[ポーランド・リトアニア合同|ポーランド・リトアニア連合王国]]成立（[[ヤギェウォ朝]]）。&lt;br /&gt;
** ゼンパッハの戦いでスイス軍がハプスブルク軍に勝利し事実上の独立を果たす。&lt;br /&gt;
* 1388年 &lt;br /&gt;
** [[ブイル・ノール]]湖畔の戦いで明が北元に勝利。逃亡した[[トグス・テムル]]も殺害され北元で[[クビライ]]家の皇帝（ハーン）が断絶。&lt;br /&gt;
** イングランドで「無慈悲議会」が召集され、国王リチャード2世の寵臣らが弾劾される。&lt;br /&gt;
** [[威化島回軍]]により、李成桂が政変を起こし高麗の実権を握る。&lt;br /&gt;
* 1389年 - [[コソヴォの戦い]]。オスマン帝国が[[セルビア]]を従属させる。 &lt;br /&gt;
* 1390年 - &lt;br /&gt;
** 明朝の朱元璋が[[梁王国]]を滅ぼし、[[雲南省|雲南地方]]を中国に併合 。&lt;br /&gt;
** [[李善長の獄]]。 &lt;br /&gt;
* 1391年 - 明徳の乱&lt;br /&gt;
* 1392年&lt;br /&gt;
** 李成桂が高麗を滅ぼし李氏朝鮮建国。&lt;br /&gt;
** 南北朝の合一。後亀山天皇が京都に帰り、神器を第100代[[後小松天皇]]に渡す。&lt;br /&gt;
** フランス国王シャルル6世が発狂する。&lt;br /&gt;
* 1393年 &lt;br /&gt;
** オスマン帝国の[[タルノヴォ]]征服により[[第二次ブルガリア帝国]]が滅亡する。&lt;br /&gt;
** [[藍玉の獄]]。&lt;br /&gt;
* 1394年 - 足利義満が将軍職を第4代[[足利義持]]に譲り、[[太政大臣]]となる。&lt;br /&gt;
* 1396年 - [[ニコポリスの戦い]]。オスマン帝国、欧州連合撃破。&lt;br /&gt;
* 1397年&lt;br /&gt;
** [[カルマル同盟]]成立。[[デンマーク]]が盟主。&lt;br /&gt;
** [[鹿苑寺]]金閣の建造。&lt;br /&gt;
*[[1398年]] - [[ティムール]]の[[ティムールの征服戦争#インド遠征|インド北部侵攻]]。&lt;br /&gt;
* 1399年&lt;br /&gt;
** 6月 足利義満の命により[[大内義弘]]の兵が[[朝鮮]]に渡って倭寇を討つ。&lt;br /&gt;
** 7月 [[靖難の変]]。&lt;br /&gt;
** 12月 応永の乱、首謀者大内義弘戦死、義弘の弟[[大内弘茂]]降伏。&lt;br /&gt;
** イングランド王リチャード2世が廃位され、ヘンリー4世が即位して[[ランカスター朝]]が成立。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== キリスト教世界 ===&lt;br /&gt;
==== ローマ教皇 ====&lt;br /&gt;
* [[ボニファティウス8世 (ローマ教皇)|ボニファティウス8世]]（[[1235年]] - [[1303年]]） - ローマ教皇（在位[[1294年]] - [[1303年]]）・フランス王と争いアナーニ事件後に憤死&lt;br /&gt;
* [[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]（[[1264年]] - [[1314年]]） - ローマ教皇（在位[[1305年]] - [[1314年]]）・教皇庁を[[アヴィニョン]]に移転する&lt;br /&gt;
* [[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]（[[1244年]]？ - [[1334年]]） - ローマ教皇（在位[[1316年]] - [[1334年]]）・清貧論争や聖職禄問題に介入&lt;br /&gt;
* [[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]（[[1318年]] - [[1389年]]） - ローマ教皇（在位[[1378年]] - [[1389年]]）・教会大分裂のローマ派初代 &lt;br /&gt;
* [[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]]（[[1342年]] - [[1394年]]） - ローマ教皇（対立教皇）（在位[[1378年]] - [[1394年]]）・教会大分裂のアヴィニョン派初代&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== フランス・フランドル ====&lt;br /&gt;
* [[ジャック・ド・モレー]]（[[1244年]]? - [[1314年]]） - [[テンプル騎士団]]の最後の総長・[[ヴィエンヌ公会議]]の決定で処刑される&lt;br /&gt;
* [[ベルナール・ギー]]（[[1261年]]/[[1262年]] - [[1331年]]） - フランスのドミニコ会士・[[異端審問]]官・『異端審問の実務』の他に多くの教会文書を編纂&lt;br /&gt;
* [[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]（端麗王）（[[1268年]] - [[1314年]]） - フランス王（在位[[1285年]] - [[1314年]]）・アナーニ事件で教皇権を抑える&lt;br /&gt;
* [[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]（[[1293年]] - [[1350年]]） - [[ヴァロワ朝]]初代のフランス王（在位[[1328年]] - [[1350年]]）・百年戦争では[[クレシーの戦い]]で敗北&lt;br /&gt;
* [[ジャン・ビュリダン]]（[[1295年]]頃 - [[1358年]]） - フランスの聖職者・哲学者として「[[インペトゥス理論]]」を展開・「[[ビュリダンのロバ]]」でも有名&lt;br /&gt;
* [[ギヨーム・ド・マショー]]（[[1300年]]頃 - [[1377年]]） - フランスの[[アルス・ノーヴァ]]の作曲家・詩人・「[[ノートルダム・ミサ曲]]」が有名&lt;br /&gt;
* [[エティエンヌ・マルセル]]（[[1315年]] - [[1358年]]） - パリ市長・王太子シャルルと対立し百年戦争の間にパリを支配・ジャックリーの乱とも合流&lt;br /&gt;
* ギョーム・カルル（? - [[1358年]]） - フランスの農民・[[ジャックリーの乱]]の指導者・ナバラ王シャルルに敗れ処刑される &lt;br /&gt;
* [[ベルトラン・デュ・ゲクラン]]（[[1320年]] - [[1380年]]） - フランスの軍人・国王シャルル5世に仕え百年戦争初期に活躍・フランスの劣勢を挽回&lt;br /&gt;
* [[ニコル・オレーム]]（[[1323年]] - [[1382年]]） - フランスの聖職者・科学者として『天体地体論』を執筆・国王側近として貨幣改革の理論家として活躍&lt;br /&gt;
* [[ジャン・フロワサール]]（[[1337年]]頃 - [[1405年]]頃） - [[フランドル]]出身の年代記作家・『年代記』は百年戦争前半における重要な史料&lt;br /&gt;
* [[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]（賢明王）（[[1338年]] - [[1380年]]） - ヴァロワ朝のフランス王（在位[[1364年]] - [[1380年]]）・ブレティニ・カレー条約で領土奪回&lt;br /&gt;
* [[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ2世]]（豪胆公）（[[1342年]] - [[1404年]]） - [[ヴァロワ家]]の初代[[ブルゴーニュ公]]（在位[[1363年]] - [[1404年]]）・婚姻によりフランドルを継承&lt;br /&gt;
* [[ロクス]]（[[1348年]] - [[1376年]]（[[1295年]] - [[1327年]]説もあり）） - フランス南部[[モンペリエ]]出身の信仰者・[[黒死病]]に対する守護聖人として崇敬される&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イタリア ====&lt;br /&gt;
* [[ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ]]（[[1246年]] - [[1328年]]） - イタリア生まれの宣教師・インドを経て中国で宣教を行い[[大都]]大司教となる&lt;br /&gt;
* [[ダンテ・アリギエーリ]]（[[1265年]] - [[1321年]]） - フィレンツェの政治家・哲学者・詩人・『[[神曲]]』や『[[新生 (詩集)|新生]]』の著者&lt;br /&gt;
* [[ジョット・ディ・ボンドーネ]]（[[1267年]]頃 - [[1337年]]） - フィレンツェの[[ゴシック]]期の画家・彫刻家・建築家・[[ルネサンス]]の先駆者とされる&lt;br /&gt;
* [[パドヴァのマルシリウス]]（[[1275年]]/[[1280年]]/[[1290年]] - [[1342年]]/[[1343年]]） - イタリアの哲学者・神学者・『平和の擁護者』の著者&lt;br /&gt;
* [[シモーネ・マルティーニ]]（[[1284年]]頃 - [[1344年]]） - シエナのゴシック期の画家・アヴィニョンでも活躍し[[国際ゴシック]]の先駆者とされる&lt;br /&gt;
* [[オドリコ|ポルデノーネのオドリコ]]（[[1286年]] - [[1331年]]） - イタリア出身のフランシスコ会士・インドから中国まで歴訪し『東洋旅行記』を残す&lt;br /&gt;
* [[ジョヴァンニ・デ・マリニョーリ]]（[[1290年]]？ - [[1357年]]） - イタリア出身のフランシスコ会士・宣教師として元朝に赴き順帝に会見&lt;br /&gt;
* [[フランチェスコ・ペトラルカ]]（[[1304年]] - [[1374年]]） - イタリアの人文主義者・古典学者・詩人・『アフリカ』『凱旋』の著者&lt;br /&gt;
* ジル・デ・アルボルノス（[[1310年]] - [[1367年]]） - スペイン出身の枢機卿・アヴィニヨン教皇に従いイタリア各地の僭主を平定し教皇領を回復&lt;br /&gt;
* [[ジョバンニ・ボッカチオ]]（[[1313年]] - [[1375年]]） - フィレンツェの古典学者・[[作家]]・『[[デカメロン]]』の著者&lt;br /&gt;
* コーラ・ディ・リエンツォ（[[1313年]]？ - [[1354年]]） - ローマの政治家・護民官を名乗り教皇不在のローマ復興を唱えるが処刑される&lt;br /&gt;
* [[シエナのカタリナ]]（[[1347年]] - [[1380年]]） - ドミニコ会第三会員の在俗修道女・教皇のアヴィニョンからローマへの帰還を促す・後に列聖&lt;br /&gt;
* [[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ]]（[[1351年]] - [[1402年]]） - [[ヴィスコンティ家]]の初代ミラノ公（在位[[1395年]] - [[1402年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 神聖ローマ帝国 ====&lt;br /&gt;
* [[マイスター・エックハルト]]（[[1260年]]頃 - [[1328年]]頃） - ドイツの神学者・[[神秘主義]]者・異端宣告を受ける・著作に『神の慰めの書』など&lt;br /&gt;
* [[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]（[[1282年]] - [[1347年]]） - [[ヴィッテルスバッハ朝]]の神聖ローマ皇帝（在位[[1314年]] - [[1347年]]）・レンゼ選帝侯会議を開催&lt;br /&gt;
* [[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]（[[1316年]] - [[1378年]]） - [[ルクセンブルク朝]]の神聖ローマ皇帝（在位[[1355年]] - [[1378年]]）・「金印勅書」を発布&lt;br /&gt;
* [[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]]（建設公）（[[1339年]] - [[1365年]]） - [[ハプスブルク家]]のオーストリア公・「大公」の詐称やウィーンの整備で有名&lt;br /&gt;
* [[ティル・オイレンシュピーゲル]]（[[1300年]]？ - [[1350年]]？） - ドイツのクナイトリンゲン出身の[[トリックスター]]・民衆本の伝説で有名&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イングランド ====&lt;br /&gt;
* [[オッカムのウィリアム]]（[[1285年]] - [[1347年]]） - イングランドのフランシスコ会士・後期スコラ学（唯名論）の神学者・哲学者&lt;br /&gt;
* [[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]（[[1312年]] - [[1377年]]） - イングランド王（在位[[1327年]] - [[1377年]]）・百年戦争を引き起こす&lt;br /&gt;
* [[ジョン・ウィクリフ]]（[[1320年]]頃 - [[1384年]]） - [[オックスフォード大学]]教授・その教説から[[ロラード派]]が展開し[[宗教改革]]の先駆者となる&lt;br /&gt;
* [[エドワード黒太子]]（[[1330年]] - [[1376年]]） - イングランドの[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の王太子・[[クレシーの戦い]]やポワティエの戦いで勝利&lt;br /&gt;
* [[ワット・タイラー]]（? - [[1381年]]） - イングランドの農民・[[ワット・タイラーの乱]]の指導者・ロンドン市長により暗殺される&lt;br /&gt;
* [[ジョン・ボール]]（[[1338年]]頃 - [[1381年]]） - イングランドの神父・ウィクリフの影響を受けワット・タイラーの乱では精神的指導者となる&lt;br /&gt;
* [[ジェフリー・チョーサー]]（[[1343年]]頃 - [[1400年]]） - イングランドの[[詩人]]・『[[カンタベリー物語]]』の著者&lt;br /&gt;
* ジョン・マンデヴィル（生没年不詳） - イングランドの著作家・幻想と奇談で知られる『東方旅行記』を書く・架空人物説もある&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== スコットランド ====&lt;br /&gt;
* [[ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス]]（[[1266年]]? - [[1308年]]） - スコットランドの[[フランシスコ会]]士・後期[[スコラ学]]（実在論）の[[神学者]]・精妙博士&lt;br /&gt;
* [[ウィリアム・ウォレス]]（[[1272年]]頃 - [[1305年]]） - スコットランドの愛国者・イングランドによるスコットランド支配に抵抗&lt;br /&gt;
* [[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]（[[1274年]] - [[1329年]]） - スコットランド国王（在位[[1306年]] - [[1329年]]）・[[スコットランド独立戦争|独立戦争]]に勝利・[[アーブロース宣言]]を採択&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 東ローマ帝国 ====&lt;br /&gt;
* テオドロス・メトキテス（[[1270年]] - [[1332年]]） - 東ローマ帝国宰相・[[パレオロゴス朝ルネサンス|パレオロゴス時代]]の建築を代表する[[カーリエ博物館|コーラ修道院]]の増改築を行う&lt;br /&gt;
* ヨハンネス・ククゼレス（[[1280年]]頃 - [[1360年]]） - 東ローマ帝国の音楽家・カロフォニーと呼ばれる詠唱法を大成・「光栄讃詞」などの作品がある&lt;br /&gt;
* [[ヨハネス6世カンタクゼノス]]（[[1295年]] - [[1383年]]） - 東ローマ皇帝（在位[[1347年]] - [[1354年]]）・帝位継承争いで国土を消耗・『歴史』を残す&lt;br /&gt;
* [[グレゴリオス・パラマス]]（[[1296年]] - [[1359年]]） - [[アトス山]]の修道士・[[テッサロニキ|テサロニケ]]大主教・神学者として[[静寂主義]]（ヘシカズム）を提唱&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 東欧 ====&lt;br /&gt;
* [[ゲディミナス]]（[[1275年]] - [[1341年]]） - [[リトアニア大公国]]の君主（在位[[1316年]] - [[1341年]]）・キリスト教化に苦慮しつつ東方に領土拡大&lt;br /&gt;
* [[イヴァン1世]]（カリター）（[[1288年]] - [[1340年]]） - [[モスクワ大公]]（在位[[1325年]] - [[1340年]]）・モンゴルの徴税制度を利用しモスクワの支配を拡大&lt;br /&gt;
* [[ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン]]（[[1308年]] - [[1355年]]） - ネマニッチ朝の[[セルビア帝国]]の君主（在位[[1346年]] - [[1355年]]）・[[バルカン半島]]に覇を唱える&lt;br /&gt;
* [[カジミェシュ3世]]（大王）（[[1310年]] - [[1370年]]） - [[ピャスト朝]]のポーランド王（在位[[1333年]] - [[1370年]]）・ウクライナに領土拡大&lt;br /&gt;
* [[ラヨシュ1世]]（大王）（[[1326年]] - [[1382年]]） - [[アンジュー朝]]のハンガリー王（在位[[1342年]] - [[1382年]]）、ポーランド王（在位[[1370年]] - [[1382年]]）&lt;br /&gt;
* [[ドミートリー・ドンスコイ]]（[[1350年]] - [[1389年]]） - 第4代[[モスクワ大公]]（在位[[1359年]] - [[1389年]]）・クリコヴォの戦いで[[モンゴル人]]に勝利&lt;br /&gt;
* [[ラドネジのセルギイ]]（[[1321年]]/[[1322年]]頃 - [[1392年]]） - ロシアの修道士・[[至聖三者聖セルギイ大修道院]]の創設者&lt;br /&gt;
* [[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]（[[1351年]] - [[1434年]]） - ヤギェウォ朝創始者（ポーランド王位[[1386年]] - [[1434年]]、リトアニア大公位[[1377年]] - [[1401年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 北欧 ====&lt;br /&gt;
* [[スウェーデンのビルギッタ|ビルギッタ]]（[[1303年]] - [[1373年]]） - スウェーデンの修道女・ビルギッタ会をまとめ[[ヴァドステーナ修道院]]を建設・晩年はローマに定住&lt;br /&gt;
* [[マルグレーテ1世]]（[[1353年]] - [[1412年]]） - 北欧連合王国の事実上の支配者（[[1397年]] - [[1412年]]）・カルマル同盟を締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== イベリア半島 ====&lt;br /&gt;
* [[ペドロ1世 (カスティーリャ王)|ペドロ1世]]（残酷王）（[[1334年]] - [[1369年]]） - カスティーリャ国王（在位[[1350年]] - [[1369年]]）・庶兄のエンリケ2世に殺害される&lt;br /&gt;
* [[エンリケ2世 (カスティーリャ王)|エンリケ2世]]（恩寵王）（[[1333年]] - [[1379年]]） - [[カスティーリャ]]国王（在位[[1369年]] - [[1379年]]）・ペドロ1世を倒し[[トラスタマラ朝]]を興す&lt;br /&gt;
* [[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]（大王）（[[1357年]] - [[1433年]]） - [[アヴィス朝]]の創始者・[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王（在位[[1385年]] - [[1433年]]）&lt;br /&gt;
* [[ラモン・リュイ|ライムンドゥス・ルルス]]（[[1232年]] - [[1315年]]） - [[マジョルカ島]]出身のフランシスコ会士・文字結合術の[[アルス・マグナ]]を理論化する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イスラム世界 ===&lt;br /&gt;
* [[ドゥア]]（ ? - [[1307年]]頃）- チャガタイ・ハン国（チャガタイ・ウルス）の君主（在位[[1283年]] - [[1307年]]）・最盛期の君主 &lt;br /&gt;
* [[ラシードゥッディーン]]（[[1249年]] - [[1318年]]） - [[イル・ハン国]]の政治家・[[ガザン・ハン|ガザン]]と[[オルジェイトゥ]]に仕える・歴史家として『[[集史]]』を編纂&lt;br /&gt;
* [[サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリー]]（[[1252年]] - [[1334年]]） - ペルシアのサファヴィー教団教主・[[サファヴィー朝]]の遠祖&lt;br /&gt;
* [[オスマン1世]]（[[1258年]] - [[1326年]]） - [[オスマン朝]]の初代スルタン（在位[[1299年]] - [[1326年]]）・コユンヒサルの戦いで東ローマ帝国に勝利&lt;br /&gt;
* [[ムハンマド・イブン＝アリー・イブン＝タバータバー|イブン・アッティクタカー]]（[[1262年]]頃 - ？） - イラクのシーア派指導者・帝王学の書『[[アルファフリー]]』を残す&lt;br /&gt;
* [[ワッサーフ]]（生没年不詳） - イル・ハン国の歴史家・『[[世界征服者の歴史]]』の続編『領土の分割と年月の推移（ワッサーフ史）』を執筆&lt;br /&gt;
* [[アラーウッディーン・ハルジー|アラーウッディーン]]（[[1266年]]？ - [[1316年]]） - [[ハルジー朝]]の第3代スルタン（在位[[1296年]] - [[1316年]]）・最大領土を実現&lt;br /&gt;
* [[マンサ・ムーサ]]（カンカン・ムーサ）（？ - [[1337年]]？） - [[マリ帝国]]の第10代君主（マンサ）（在位[[1312年]] - [[1337年]]）・壮麗な[[メッカ]]巡礼で有名&lt;br /&gt;
* [[ギャースッディーン・トゥグルク]]（？ - [[1325年]]） - トゥグルク朝の初代スルタン（在位[[1320年]] - [[1325年]]）&lt;br /&gt;
* ハージュー・ケルマーニー（[[1280年]] - [[1352年]]） - ペルシャの詩人・ペルシャの「四大詩人」の一人&lt;br /&gt;
* [[オルジェイトゥ]]（[[1281年]] - [[1316年]]） - イル・ハン国の第8代君主（在位[[1304年]] - [[1316年]]）・[[ソルターニーイェ]]に遷都&lt;br /&gt;
* [[ナースィル・ムハンマド]]（[[1285年]] - [[1341年]]） - [[マムルーク朝]]の第10・13・15代スルタン（在位[[1293年]] - [[1341年]]まで断続的）&lt;br /&gt;
* [[ウズベク・ハン]]（? - [[1340年]]） - キプチャク・ハン国（ジョチ・ウルス）の第10代君主（在位[[1312年]] - [[1342年]]）・最盛期の君主&lt;br /&gt;
* [[ケベク]]（? - [[1326年]]）- チャガタイ・ハン国（チャガタイ・ウルス）の君主（在位[[1320年]] - [[1326年]]）・その死後に国が東西分裂&lt;br /&gt;
* [[ムハンマド・ビン・トゥグルク]]（? - [[1351年]]） - トゥグルグ朝の君主(在位[[1325年]] - [[1351年]]）・度重なる遠征で「天才か狂人か」と評される&lt;br /&gt;
* [[イブン・バットゥータ]]（[[1304年]]頃 - [[1368年]]頃） - [[モロッコ]]生まれの旅行家・『[[三大陸周遊記]]』の著者&lt;br /&gt;
* [[イブン・アル＝ハティーブ]]（[[1313年]] - [[1375年]]） - ナスル朝の政治家（宰相）・詩人・歴史家としては『グラナダ史』を残す&lt;br /&gt;
* [[ムラト1世]]（[[1319年]]/[[1326年]] - [[1389年]]） - オスマン朝の第3代スルタン（在位[[1359年]] - [[1389年]]）・コソヴォの戦いで勝利&lt;br /&gt;
* [[ハーフェズ]]（[[1325年]] - [[1389年]]） - ペルシャの詩人・ペルシャの「四大詩人」の一人&lt;br /&gt;
* [[イブン・ハルドゥーン]]（[[1332年]] - [[1406年]]） - [[チュニス]]生まれの政治家・歴史家として『[[歴史序説]]』の著者&lt;br /&gt;
* [[ティムール]]（[[1336年]] - [[1405年]]） - 中央アジアの征服者でティムール朝の建設者（在位[[1370年]] - [[1405年]]）&lt;br /&gt;
* [[トクタミシュ]]（? - [[1406年]]） - キプチャク・ハン国（ジョチ・ウルス）の君主（在位[[1378年]] - [[1395年]]）・キプチャク・ハン国を再統一&lt;br /&gt;
* [[バヤズィト1世]]（[[1360年]] - [[1403年]]） - オスマン朝の第4代スルタン（在位[[1389年]] - [[1402年]]）・ニコポリスの戦いで勝利&lt;br /&gt;
* [[バルクーク]]（[[1366年]] - [[1399年]]） - マムルーク朝のスルタン（在位[[1382年]] - [[1399年]]まで断続的）・バフリー系からブルジー系へ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 南アジア・東南アジア ===&lt;br /&gt;
* ハリハラ1世（？ - [[1356年]]） - 南インドの[[ヴィジャヤナガル朝|ヴィジャヤナガル王国]]サンガマ朝の初代国王（在位[[1336年]] - [[1356年]]）&lt;br /&gt;
* [[ガジャ・マダ]]（？- [[1364年]]） - ジャワ島の[[マジャパヒト朝]]の宰相・トリブワナー女王からハヤム・ウルク王を補佐し王国の全盛期を築く&lt;br /&gt;
* [[ラーマーティボーディー1世]]（[[1314年]]？ - [[1369年]]） - タイのアユタヤ朝の初代国王（在位[[1351年]] - [[1369年]]）・アユタヤを都とする&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 東アジア ===&lt;br /&gt;
==== 元・明 ====&lt;br /&gt;
* [[テムル]]（[[1265年]] - [[1307年]]） - 元の第2代皇帝（成宗）（在位[[1294年]] - [[1307年]]）・[[カイドゥ]]の乱を鎮圧し西方ハン国と和平を結ぶ&lt;br /&gt;
* [[黄公望]]（[[1269年]] - [[1354年]]） - 元の[[水墨画]]家・[[元末四大家]]の一人・「[[富春山居図]]」が代表作で画論『写山水訣』もある&lt;br /&gt;
* [[呉鎮]]（[[1280]] - [[1354年]]） - 元の水墨画家・元末四大家の一人・孤高清貧の生涯を送る・代表作に「洞庭漁隠図」がある&lt;br /&gt;
* [[アユルバルワダ]]（[[1285年]] - [[1320年]]） - 元の第4代皇帝（仁宗）（在位[[1311年]] - [[1320年]]）・廃止されていた[[科挙]]を復活&lt;br /&gt;
* 康里&amp;amp;#x5dce;&amp;amp;#x5dce;（[[1295年]] - [[1345年]]） - 元の[[色目人]]の官僚・書家として「李白詩巻」がある&lt;br /&gt;
* [[楊維テイ|楊維&amp;amp;#x6968;]]（[[1296年]] - [[1370年]]） - 元の官僚・詩人として『東維子集』がある&lt;br /&gt;
* [[倪サン|倪瓉]]（[[1301年]] - [[1374年]]） - 元の水墨画家・元末四大家の一人・各地を放浪し「漁荘秋霽図」などの作品を残す&lt;br /&gt;
* [[王蒙]]（[[1308年]] - [[1385年]]） - 元の水墨画家・元末四大家の一人・官吏でもあったが胡惟庸の獄に連座し獄死・「青卞隠居図」がある&lt;br /&gt;
* 薩都刺（[[1308年]] - ?） - 元のモンゴル系イスラム教徒の官吏・詩人として『雁門集』がある&lt;br /&gt;
* [[宋濂]]（[[1310年]] - [[1381年]]） - 元末明初の政治家・儒学者・明の礼楽制度を整備・『[[元史]]』の編者・[[方孝孺]]の師&lt;br /&gt;
* [[劉基]]（劉伯温）（[[1311年]] - [[1375年]]） - 元末明初の軍人・政治家・詩人・軍師として小説や講談の主役として名高い&lt;br /&gt;
* [[李善長]]（[[1314年]] - [[1390年]]） - 明初の政治家（左丞相）・明の行政財政の基礎をなす・胡惟庸の獄に連座して誅殺される&lt;br /&gt;
* [[トゴン・テムル]]（[[1320年]] - [[1370年]]） - 元朝の最後の皇帝（順帝）（在位[[1333年]] - [[1370年]]）・大都を捨て北元の初代となる&lt;br /&gt;
* [[韓山童]]（? - [[1351年]]） - 元末の反乱指導者・[[白蓮教]]を組織し紅巾の乱を引き起こす&lt;br /&gt;
* [[韓林児]]（? - [[1366年]]） - 元末の反乱指導者・[[韓山童]]の子・宋朝の復興を唱える&lt;br /&gt;
* [[方国珍]]（[[1319年]] - [[1374年]]） - 元末の群雄・塩の密売人から[[浙江]]で海賊と結んで自立・朱元璋と敵対するが屈服&lt;br /&gt;
* [[陳友諒]]（[[1320年]] - [[1363年]]） - 元末の群雄・紅巾の乱から[[湖北]]を根拠地として自立・[[鄱陽湖の戦い]]で朱元璋に敗北&lt;br /&gt;
* [[張士誠]]（[[1321年]] - [[1367年]]） - 元末の群雄・塩の密売人から[[蘇州]]を根拠地として自立・朱元璋に敗北する&lt;br /&gt;
* [[朱元璋]]（[[1328年]] - [[1398年]]） - 明の初代皇帝（太祖洪武帝）（在位[[1368年]] - [[1398年]]）&lt;br /&gt;
* [[徐達]]（[[1332年]] - [[1385年]]） - 明初の[[大将軍]]・左[[相国]]・大都を元一族から奪回し占領・第一の功臣とされる&lt;br /&gt;
* [[胡惟庸]]（? - [[1380年]]） - 明初の政治家（左丞相）・北元や日本と内通したとして[[胡藍の獄#胡惟庸の獄|胡惟庸の獄]]にて粛清される&lt;br /&gt;
* [[藍玉 (明)|藍玉]]（? - [[1393年]]） - 明初の将軍・[[ブイル・ノール]]湖畔の戦いで北元に勝利・[[胡藍の獄#藍玉の獄|藍玉の獄]]にて粛清される&lt;br /&gt;
* [[施耐庵]]（生没年不明） - 元末明初の作家・『[[水滸伝]]』の編者? [[羅貫中]]の師か?（→[[水滸伝の成立史]]）&lt;br /&gt;
* [[羅貫中]]（生没年不明） - 元末明初の作家・『[[三国志演義]]』『[[平妖伝|三遂平妖伝]]』の編者? [[施耐庵]]の門人か?（→[[三国志演義の成立史]]）&lt;br /&gt;
* [[高啓]]（[[1336年]] - [[1374年]]） - 明初の詩人・『[[元史]]』の編者・「宮女図」の詩文がもとで腰斬の刑に処される&lt;br /&gt;
* [[方孝孺]]（[[1357年]] - [[1402年]]） - 明初の儒学者・建文帝の側近として翰林侍講学士となる・靖難の変に連座して虐殺される&lt;br /&gt;
* [[建文帝]]（[[1377年]] - [[1402年]]?） - 明の第2代皇帝（在位[[1398年]] - [[1402年]]）・靖難の変により叔父[[永楽帝|燕王]]に帝位を簒奪される&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== チベット ====&lt;br /&gt;
* カルマ・リンパ（[[1326年]] - [[1386年]]） - チベット仏教[[ニンマ派]]のテルトン（埋蔵経発掘者）・『[[チベット死者の書]]』を発掘したか&lt;br /&gt;
* [[ツォンカパ]]（[[1357年]] - [[1419年]]） - [[チベット仏教]]最大の学僧・歴代[[ダライ・ラマ]]の所属する[[ゲルク派]]（黄帽派）の開祖&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 朝鮮 ====&lt;br /&gt;
* [[李成桂]]（[[1335年]] - [[1408年]]） - 李氏朝鮮の初代国王（在位[[1392年]] - [[1398年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
* [[京極為兼]]（[[1254年]] - [[1332年]]） - 公卿（権大納言）・歌人として『[[玉葉和歌集]]』を選集・両統迭立にからみ二度流罪にされる&lt;br /&gt;
* [[度会家行]]（[[1256年]] - [[1351年]]） - [[伊勢神宮]]（外宮）の神官・[[反本地垂迹説]]を大成し[[伊勢神道]]を提唱・南朝を支援し影響を与える&lt;br /&gt;
* [[後深草院二条]]（[[1258年]] - ？） - [[後深草天皇|後深草院]]付きの女房・[[日記]]であり[[紀行文]]でもある『[[とはずがたり]]』を残す&lt;br /&gt;
* [[北条貞時]]（[[1271年]] - [[1311年]]） - 鎌倉幕府第9代執権（在任[[1284年]] - [[1301年]]）&lt;br /&gt;
* [[長崎円喜]]（？ - [[1333年]]） - 武将・[[内管領]]（得宗家執事）・息子[[長崎高資|高資]]ととも幕府末期の実権を握る&lt;br /&gt;
* [[正宗|岡崎正宗]]（生没年不詳） - 刀工・相模国鎌倉で活動し「相州伝」と呼ばれる作風を確立・刀剣史上もっとも著名な刀工の一人&lt;br /&gt;
* [[夢窓疎石]]（[[1275年]] - [[1351年]]） - 禅僧・京都[[天竜寺]]開山・七朝帝師（歴代天皇から国師号を七度賜る）&lt;br /&gt;
* [[赤松則村]]（[[1277年]] - [[1350年]]） - 武将・守護大名・後醍醐天皇を支持し六波羅攻略で活躍・建武政権の後は足利尊氏に従う &lt;br /&gt;
* [[虎関師錬]]（[[1278年]] - [[1346年]]） - 禅僧・日本最初の仏教通史『[[元亨釈書]]』の著者&lt;br /&gt;
* [[文観]]（[[1278年]] - [[1357年]]） - 真言宗の僧・醍醐座主・東寺長者・[[立川流 (密教)|立川流]]を大成したとされ後醍醐天皇に信任され南朝につく&lt;br /&gt;
* [[円観]]（[[1281年]] - [[1356年]]） - 天台宗の僧・法勝寺勧進職・後醍醐天皇に近侍するが後に北朝につく・『[[太平記]]』の編纂を行ったか&lt;br /&gt;
* [[宗峰妙超]]（大燈国師）（[[1282年]] - [[1338年]]） - 禅僧・京都[[大徳寺]]開山・弟子の[[関山慧玄]]を[[妙心寺]]開山に推薦&lt;br /&gt;
* [[吉田兼好]]（[[1283年]]頃 - [[1352年]]以後） - 官人・遁世者・歌人・随筆家で『[[徒然草]]』の著者・[[和歌四天王]]の一人&lt;br /&gt;
* [[後醍醐天皇]]（[[1288年]] - [[1339年]]） - 第96代天皇（在位[[1318年]] - [[1339年]]）・建武の新政を行う・南朝の初代&lt;br /&gt;
* [[日野資朝]]（[[1290年]] - [[1332年]]） - 公卿（権中納言）・[[日野俊基]]らとともに後醍醐天皇に近侍・[[正中の変]]で[[佐渡国|佐渡]]に流罪となる&lt;br /&gt;
* [[雪村友梅]]（[[1290年]] - [[1347年]]） - 禅僧・[[一山一寧]]の門人で元に渡航・帰国後は京都[[万寿寺]]住持・[[五山文学]]の先駆け&lt;br /&gt;
* [[北畠親房]]（[[1293年]] - [[1354年]]） - 公卿（[[大納言]]）・[[准三后]]・南朝の指導者として[[正平の一統]]を指揮・『[[神皇正統記]]』の著者&lt;br /&gt;
* [[楠木正成]]（[[1294年]] - [[1336年]]） - 武将・赤坂城や千早城で討幕運動を行う・建武政権から続いて南朝側に与す・「[[三木一草]]」の一人&lt;br /&gt;
* [[名和長年]]（？ - [[1336年]]） - 武将・後醍醐天皇の隠岐脱出を援助・建武政権から続いて南朝側に与す・「三木一草」の一人&lt;br /&gt;
* [[佐々木道誉]]（[[1296年]] - [[1373年]]） - 武将・室町幕府で[[政所]]執事などを歴任・[[ばさら|婆沙羅大名]]として有名&lt;br /&gt;
* [[尊円法親王]]（[[1298年]] - [[1356年]]） - 天台座主・青蓮院門跡・後代に公式文書として用いられた書流[[尊円流|御家流]]の祖&lt;br /&gt;
* [[守邦親王]]（[[1301年]] - [[1333年]]） - 鎌倉幕府第9代将軍（在任[[1308年]] - [[1333年]]）・[[鎌倉の戦い (元弘の乱)|鎌倉幕府の滅亡]]の後に将軍を辞す &lt;br /&gt;
* [[新田義貞]]（[[1301年]] - [[1338年]]） - 武将・北条氏を滅ぼし鎌倉を占拠・建武政権から続いて南朝側に与す&lt;br /&gt;
* [[北条高時]]（[[1303年]] - [[1333年]]） - 鎌倉幕府第14代執権（在任[[1316年]] - [[1326年]]）・鎌倉幕府滅亡時の得宗&lt;br /&gt;
* [[足利尊氏]]（[[1305年]] - [[1358年]]） - [[室町幕府]]初代将軍（在任[[1338年]] - [[1358年]]）・北朝の[[光明天皇]]を擁立し幕府を開く&lt;br /&gt;
* [[足利直義]]（[[1306年]] - [[1352年]]） - 足利尊氏の弟・観応の擾乱で高師直一派を倒すが正平の一統の後に兄尊氏に追われ急逝&lt;br /&gt;
* [[高師直]]（? - [[1351年]]） - 武将・室町幕府[[執事]]・[[四条畷の戦い]]などで活躍するが観応の擾乱で足利直義と対立し殺害される&lt;br /&gt;
* [[護良親王]]（[[1308年]] - [[1335年]]） - 後醍醐天皇の皇子（大塔宮）・[[天台座主]]（尊雲法親王）・征夷大将軍・足利尊氏と争い殺害される&lt;br /&gt;
* [[春屋妙葩]]（[[1312年]] - [[1388年]]） - 禅僧・[[相国寺]]第二世（事実上の開山）・[[五山十刹]]の制度を定め[[五山版]]などの出版を行う&lt;br /&gt;
* [[光厳天皇]]（[[1313年]] - [[1364年]]） - 北朝第1代天皇（在位[[1331年]] - [[1333年]]）・鎌倉幕府滅亡で退位する・光明天皇は弟&lt;br /&gt;
* [[北畠顕家]]（[[1318年]] - [[1338年]]） - 公卿（権中納言）・[[鎮守府将軍]]・南朝方として活躍するが[[石津の戦い]]で戦死・父は北畠親房&lt;br /&gt;
* [[二条良基]]（[[1320年]] - [[1388年]]） - 公卿（[[摂政]]・[[関白]]・太政大臣）・歌人・[[連歌]]の大成者で『[[菟玖波集]]』の撰者&lt;br /&gt;
* [[今川貞世]]（了俊）（[[1326年]] - [[1420年]]?） - 武将・守護大名・[[九州探題]]として九州の南朝勢力を鎮圧・著作に『[[難太平記]]』がある&lt;br /&gt;
* [[細川頼之]]（[[1329年]] - [[1392年]]） - 室町幕府[[管領]]・[[貞治の変]]で幕政を掌握・康暦の政変で失脚するも再び幕政に復帰&lt;br /&gt;
* [[懐良親王]]（[[1329年]]? - [[1383年]]） - 後醍醐天皇の皇子・征西大将軍（征西将軍宮）・「日本国王」として明と通交&lt;br /&gt;
* [[足利義詮]]（[[1330年]] - [[1367年]]） - 室町幕府第2代将軍（在任[[1358年]] - [[1367年]]）・貞治の変以後は北朝の優位を固める&lt;br /&gt;
* [[楠木正儀]]（[[1330年]]? - [[1389年]]?） - 武将・楠木正成の三男・南朝方を支え北朝方と戦うがやがて帰順・最晩年は南朝に復帰か&lt;br /&gt;
* [[観阿弥]]（[[1333年]] - [[1384年]]） - 猿楽師・大和猿楽座の出身で観世家の祖となる・子に[[世阿弥]]がいる&lt;br /&gt;
* [[足利基氏]]（[[1340年]] - [[1367年]]） - 室町幕府の初代[[鎌倉公方]]・足利尊氏の子・足利義詮の弟&lt;br /&gt;
* [[土岐康行]]（?  - [[1404年]]） - 武将・守護大名・[[土岐康行の乱]]（美濃の乱）を起こすが幕府に鎮圧される&lt;br /&gt;
* [[山名氏清]]（[[1344年]] - [[1392年]]） - 武将・「六分の一殿」と称される[[守護大名]]・明徳の乱で敗死&lt;br /&gt;
* [[後亀山天皇]]（[[1350年]]? - [[1424年]]） - 第99代天皇（在位[[1383年]] - [[1392年]]）・[[明徳の和約|南北朝合一]]のときの南朝の天皇&lt;br /&gt;
* [[大内義弘]]（[[1356年]] - [[1400年]]） - 武将・守護大名・南北朝合一を斡旋・応永の乱で敗死&lt;br /&gt;
* [[足利義満]]（[[1358年]] - [[1408年]]） - 室町幕府第3代将軍（在任[[1368年]] - [[1394年]]）・[[花の御所]]を造営・出家後は[[北山第]]を造営&lt;br /&gt;
* [[世阿弥]]（[[1363年]]? - [[1443年]]?） - 猿楽師・能楽の大成者・『[[風姿花伝]]』などの著作でも知られる・父は[[観阿弥]]&lt;br /&gt;
* [[後小松天皇]]（[[1377年]] - [[1433年]]） - 第100代天皇（在位[[1382年]] - [[1412年]]）・[[明徳の和約|南北朝合一]]のときの北朝の天皇&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== フィクションのできごと ==&lt;br /&gt;
* 1300年 - 聖金曜日に詩人ダンテが人生の半ばで暗い森に迷い込み、地獄・煉獄・天国遍歴が始まる（[[ダンテ・アリギエーリ]]『[[神曲]]』）。&lt;br /&gt;
* 1307年 - [[ウィルヘルム・テル]]（ウィリアム・テル）が息子の頭上のリンゴを射抜き、余勢をかって[[ハプスブルク家]]の代官[[ヘルマン・ゲスラー]]を倒し、[[スイス]]独立の端緒となる（スイスの伝説）。&lt;br /&gt;
* 1327年 - 北イタリアのカトリック修道院にて怪事件が連続して発生。その謎をバスカヴィルのウィリアムとその弟子のメルクのアドソが解き明かしていく（[[ウンベルト・エーコ]]『[[薔薇の名前]]』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 10年紀と各年 ==&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
{|&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| '''[[1300年代]]''' || [[1300年|1300]] || [[1301年|1301]]&lt;br /&gt;
| [[1302年|1302]] || [[1303年|1303]]&lt;br /&gt;
| [[1304年|1304]] || [[1305年|1305]] || [[1306年|1306]]&lt;br /&gt;
| [[1307年|1307]] || [[1308年|1308]] || [[1309年|1309]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| '''[[1310年代]]''' || [[1310年|1310]] || [[1311年|1311]]&lt;br /&gt;
| [[1312年|1312]] || [[1313年|1313]]&lt;br /&gt;
| [[1314年|1314]] || [[1315年|1315]] || [[1316年|1316]]&lt;br /&gt;
| [[1317年|1317]] || [[1318年|1318]] || [[1319年|1319]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| '''[[1320年代]]''' || [[1320年|1320]] || [[1321年|1321]]&lt;br /&gt;
| [[1322年|1322]] || [[1323年|1323]]&lt;br /&gt;
| [[1324年|1324]] || [[1325年|1325]] || [[1326年|1326]]&lt;br /&gt;
| [[1327年|1327]] || [[1328年|1328]] || [[1329年|1329]]&lt;br /&gt;
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| '''[[1330年代]]''' || [[1330年|1330]] || [[1331年|1331]]&lt;br /&gt;
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|-&lt;br /&gt;
| '''[[1340年代]]''' || [[1340年|1340]] || [[1341年|1341]]&lt;br /&gt;
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|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:14世紀|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%86%85%E8%A3%8F&amp;diff=239250</id>
		<title>大内裏</title>
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				<updated>2014-07-21T15:29:04Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''大内裏'''（だいだいり）とは、平安京の宮城である。12世紀以降、宮城内の天皇在所である内裏を「大内裏」と表...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大内裏'''（だいだいり）とは、[[平安京]]の宮城である。[[12世紀]]以降、宮城内の[[天皇]]在所である[[内裏]]を「大内裏」と表記することがあったが、[[14世紀]]になると宮城全体を「大内裏」と称するようになり、この用例が一般化した。[[平安京]]の北辺中央に位置する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政変や失火のためたびたび焼失し、平安末期頃から再建されておらず、1227年（[[安貞]]元年）にはついに大内裏のほとんどを焼失する火災が発生し、これ以後再建されることはなく、跡地は内野と呼ばれる荒れ地になってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構造 ==&lt;br /&gt;
東西約1.2km、南北約1.4kmの、行政施設・国家儀式や年中行事を行う殿舎、天皇の居住する内裏が設置されている区域であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大内裏の周囲は[[築地塀|築地]]の大垣が張り巡らされており、この築地を「宮城垣」または「外の重（とのえ）」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 門 ==&lt;br /&gt;
門は最も外側に宮城門（きゅうじょうもん）が位置し、内裏外郭の門を宮門（きゅうもん）、内郭の門を閤門（こうもん）という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大内裏の宮城門は&lt;br /&gt;
* 南面に[[朱雀門]]、[[皇嘉門]]、[[美福門]]&lt;br /&gt;
* 北面に[[安嘉門]]、[[偉鑒門]]、[[達智門]]&lt;br /&gt;
* 東面に[[上東門]]、[[陽明門]]、[[待賢門]]、[[郁芳門]]&lt;br /&gt;
* 西面に[[上西門]]、[[殷富門]]、[[藻壁門]]、[[談天門]]&lt;br /&gt;
が構えられていた。このうち上東門と上西門は大蔵通用門として「屋根を設けず築地を開いただけ」の門であったため、「土の門」＝「土御門」と呼ばれた。この門を出た通りが「土御門大路」であり、姓氏の[[土御門家]]や[[藤原氏]]邸宅[[土御門殿]]はこの地名に由来している。上東門と上西門を除く12門は「宮城十二門」と総称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大内裏の主な施設 ==&lt;br /&gt;
*[[朝堂院]]:大内裏の正庁。政務や儀式の際に官吏が着座する場。&lt;br /&gt;
**[[大極殿]]:朝堂院の正殿。天皇が政務や国家的儀式を行う場。&lt;br /&gt;
*[[豊楽院]]：朝堂院の西にあり、節会の宴や外国使節歓待などが行われた。&lt;br /&gt;
*[[近衛府|左近衛府・右近衛府]]&lt;br /&gt;
*[[内裏]]：天皇の居住の場。平城京では[[朝堂院]]の真北に位置していたが、平安京では東北に位置する。天皇の御所である[[紫宸殿]]や後宮がある。&lt;br /&gt;
**[[紫宸殿]]：内裏の正殿。平安中期以降は大極殿に変わり、儀式、公務、謁見の間として使われた。&lt;br /&gt;
**[[清涼殿]]：天皇の住居&lt;br /&gt;
**[[後涼殿]]&lt;br /&gt;
**[[仁寿殿]]：[[相撲]]観戦、元服の儀式など天皇の私的な行事に使われる。&lt;br /&gt;
**[[蔵人所]]詰所&lt;br /&gt;
**[[春興殿]]：[[小姓]]の詰所。&lt;br /&gt;
**[[東宮御所|東宮]]&lt;br /&gt;
**[[後宮]]&lt;br /&gt;
***[[常寧殿]]:[[皇后]]の住居&lt;br /&gt;
***[[弘徽殿]]&lt;br /&gt;
***[[承香殿]]&lt;br /&gt;
***[[飛香舎]]&lt;br /&gt;
***[[昭陽舎]]&lt;br /&gt;
*[[宴の松原]]：内裏の西に位置する空閑地で、もとは内裏の建て替え用地だったと言われる。&lt;br /&gt;
*[[太政官|太政官府]]&lt;br /&gt;
*[[神祇官|神祇官府]]&lt;br /&gt;
*八省庁：[[中務省|中務]]、[[式部省|式部]]、[[治部省|治部]]、[[民部省|民部]]、[[兵部省|兵部]]、[[刑部省|刑部]]、[[大蔵省|大蔵]]、[[宮内省|宮内]]の各省。&lt;br /&gt;
*[[令外官|令外官府]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== のちの施設との関係 ==&lt;br /&gt;
幕末まで天皇が住んだ[[京都御所]]は、[[1331年]]に[[光厳天皇]]が[[里内裏]]だった[[土御門東洞院殿]]を皇居として定めたものである。[[1855年]]に松平定信（[[寛政の改革]]で有名な[[老中]]とは別人）を総奉行として律令制の形式に則って改築された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1895年]]（[[明治]]28年）には[[平安神宮]]が建立され、内部に[[大極殿]]、[[応天門]]など大内裏[[朝堂院]]の施設が縮尺復元された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[宮城]]&lt;br /&gt;
*[[信西]]（平安末期に大内裏を再建した）&lt;br /&gt;
*[[裏松光世]]（江戸後期に大内裏の考証を行った）&lt;br /&gt;
*[[御所]]・[[大御所]]&lt;br /&gt;
*[[公方]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいたいり}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の宮殿]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安京]]&lt;br /&gt;
[[Category:上京区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:中京区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:現存しない京都府の建築物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%AE%AE%E5%9F%8E&amp;diff=239247</id>
		<title>宮城</title>
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				<updated>2014-07-21T15:27:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''宮城'''（みやぎ、みやぐすく、きゅうじょう）  *日本の地名 **宮城県のこと。 **宮城郡 - 宮城県にある郡。 **宮城町...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''宮城'''（みやぎ、みやぐすく、きゅうじょう）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*日本の地名&lt;br /&gt;
**[[宮城県]]のこと。&lt;br /&gt;
**[[宮城郡]] - 宮城県にある郡。&lt;br /&gt;
**[[宮城町]] - 宮城県宮城郡にあった自治体。1988年3月以降は仙台市青葉区の一部。&lt;br /&gt;
**[[宮城郷]] - 平安時代の陸奥国宮城郡にあった郷。&lt;br /&gt;
**[[宮城村]]（曖昧さ回避）&lt;br /&gt;
**[[宮城島]]（曖昧さ回避）&lt;br /&gt;
**[[宮城山]]（曖昧さ回避） - 鹿児島県徳之島の山。&lt;br /&gt;
**宮城&lt;br /&gt;
***宮城 - 東京府（後に東京都）[[麹町区]]の町名。現在の[[千代田区]][[千代田 (千代田区)|千代田]]。&lt;br /&gt;
***[[宮城 (足立区)]] - 東京都足立区の町名。&lt;br /&gt;
***[[宮城 (沖縄県)]] - 沖縄県内の7市町村にみられる地名。&lt;br /&gt;
*日本人の人名&lt;br /&gt;
**日本の氏族 - [[大江氏]]族宮城氏。異表記に「宮木」。[[宮城豊盛]]など。&lt;br /&gt;
**日本人の姓の一つ。なお、宮城県には少なく、沖縄県などに多い。戦前は「'''みやぐすく'''」などそれぞれの島の方言で読まれていた。&lt;br /&gt;
**日本のイラストレーター。主にライトノベルの挿絵を担当。別ペンネームに[[テルイ]]・照井葉月。&lt;br /&gt;
*[[宮城 (小惑星)]] - [[宮城県]]に因む[[小惑星]]の名前。&lt;br /&gt;
*仙台市を除く宮城県で使用される自動車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]の国土交通省運輸局記号。宮城ナンバーのこと。&lt;br /&gt;
*[[宮城球場]]の略。宮城県仙台市にある野球場。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''宮城'''（きゅうじょう）&lt;br /&gt;
*[[平城京]]や[[平安京]]など、古代の都城において天皇の住居とその周囲の官庁一帯を指す用語。平安京の宮城を特に[[大内裏]]という。&lt;br /&gt;
*[[東京奠都]]に東京の江戸城跡に設けられた[[皇居]]の1888年（明治21年）から1948年（昭和23年）までの通称。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[宮城野]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本語の姓|みやき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239245</id>
		<title>パリ講和会議</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239245"/>
				<updated>2014-07-21T15:25:31Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]のプリンスィズ諸島プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節としてウィリアム・ブリットらを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官やヴァンス・マコーミック[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求しており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなったとされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた。またメソポタミア戦線において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（シナイ半島・パレスチナ戦線、コーカサス戦線、ペルシャ戦線、メソポタミア戦線）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月のサンレーモ会議によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（イラクの反英蜂起）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年のカイロ会議 (1921年)、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあったチェシン・シレジア（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（ポーランド・チェコスロバキア戦争）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領トランスダニューブ、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（チェコ回廊）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「骨抜きにされた勝利、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、自由都市フィウーメを経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（ギリシャとトルコ間での住民交換）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:21:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]のプリンスィズ諸島プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節としてウィリアム・ブリットらを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官やヴァンス・マコーミック[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた。またメソポタミア戦線において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（シナイ半島・パレスチナ戦線、コーカサス戦線、ペルシャ戦線、メソポタミア戦線）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月のサンレーモ会議によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（イラクの反英蜂起）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年のカイロ会議 (1921年)、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあったチェシン・シレジア（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（ポーランド・チェコスロバキア戦争）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領トランスダニューブ、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（チェコ回廊）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「骨抜きにされた勝利、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、自由都市フィウーメを経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（ギリシャとトルコ間での住民交換）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:21:21Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]のプリンスィズ諸島プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節としてウィリアム・ブリットらを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官やヴァンス・マコーミック[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた。またメソポタミア戦線において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（シナイ半島・パレスチナ戦線、コーカサス戦線、ペルシャ戦線、メソポタミア戦線）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月のサンレーモ会議によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（イラクの反英蜂起）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年のカイロ会議 (1921年)、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあったチェシン・シレジア（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（ポーランド・チェコスロバキア戦争）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領トランスダニューブ、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（チェコ回廊）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「骨抜きにされた勝利、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、自由都市フィウーメを経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（ギリシャとトルコ間での住民交換）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239237</id>
		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:17:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]のプリンスィズ諸島プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節としてウィリアム・ブリットらを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官やヴァンス・マコーミック[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあったチェシン・シレジア（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（ポーランド・チェコスロバキア戦争）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領トランスダニューブ、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（チェコ回廊）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「骨抜きにされた勝利、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、自由都市フィウーメを経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（ギリシャとトルコ間での住民交換）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあったチェシン・シレジア（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（ポーランド・チェコスロバキア戦争）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領トランスダニューブ、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（チェコ回廊）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「骨抜きにされた勝利、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、自由都市フィウーメを経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（ギリシャとトルコ間での住民交換）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:12:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあったチェシン・シレジア（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（ポーランド・チェコスロバキア戦争）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領トランスダニューブ、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（チェコ回廊）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「骨抜きにされた勝利、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、自由都市フィウーメを経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（ギリシャとトルコ間での住民交換）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:10:25Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「骨抜きにされた勝利、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、自由都市フィウーメを経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（ギリシャとトルコ間での住民交換）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239226</id>
		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:09:21Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「骨抜きにされた勝利、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、自由都市フィウーメを経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（ギリシャとトルコ間での住民交換）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239225</id>
		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:08:09Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺公望。1919年、パリ。]]&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。スマッツは1918年12月16日付のパンフレット『国際連盟 --実践的な提言』国際連盟を主導するべき大国はイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本、そして将来的にはドイツを加えるべきとしており{{sfn|篠原初枝|2010|pp=34-36}}、これはイギリスの同盟国である点や、地理的なバランスの点が考慮されたものであり、ランシングのように疑問を持つ者もいた{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、28p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、29p&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、エドワード・ハウスといった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「骨抜きにされた勝利、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、自由都市フィウーメを経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（ギリシャとトルコ間での住民交換）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に中独平和回復協定を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239224</id>
		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:05:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺公望。1919年、パリ。]]&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。スマッツは1918年12月16日付のパンフレット『国際連盟 --実践的な提言』国際連盟を主導するべき大国はイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本、そして将来的にはドイツを加えるべきとしており{{sfn|篠原初枝|2010|pp=34-36}}、これはイギリスの同盟国である点や、地理的なバランスの点が考慮されたものであり、ランシングのように疑問を持つ者もいた{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、28p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、29p&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}といった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「{{仮リンク|骨抜きにされた勝利|it|Vittoria mutilata}}（{{lang-it|Vittoria Mutilata}}、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、{{仮リンク|自由都市フィウーメ|en|Free State of Fiume}}を経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（{{仮リンク|ギリシャとトルコ間での住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}}）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に{{仮リンク|中独平和回復協定|en|Agreement Regarding the Restoration of the State of Peace between Germany and China (1921)}}を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239223</id>
		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:04:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nesvobodni rajoni Italija.png|thumb|right|イタリアとその要求地域]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] ([[:en:Antonio Salandra]])が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、548-550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、550-551p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525-529p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺公望。1919年、パリ。]]&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。スマッツは1918年12月16日付のパンフレット『国際連盟 --実践的な提言』国際連盟を主導するべき大国はイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本、そして将来的にはドイツを加えるべきとしており{{sfn|篠原初枝|2010|pp=34-36}}、これはイギリスの同盟国である点や、地理的なバランスの点が考慮されたものであり、ランシングのように疑問を持つ者もいた{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、28p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、29p&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}といった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「{{仮リンク|骨抜きにされた勝利|it|Vittoria mutilata}}（{{lang-it|Vittoria Mutilata}}、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、{{仮リンク|自由都市フィウーメ|en|Free State of Fiume}}を経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（{{仮リンク|ギリシャとトルコ間での住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}}）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に{{仮リンク|中独平和回復協定|en|Agreement Regarding the Restoration of the State of Peace between Germany and China (1921)}}を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239222</id>
		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T15:03:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評されたフランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した。4月24日にはフィウメ、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が231条 (ヴェルサイユ条約)（戦争責任条項）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で少数民族保護条約が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、490-491p&amp;lt;/ref&amp;gt;。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、493p&amp;lt;/ref&amp;gt;。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、498p&amp;lt;/ref&amp;gt;。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]（[[:en:Sir_Henry_Wilson,_1st_Baronet]]）の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された{{sfn|武田昌之|1991|pp=111}}。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nesvobodni rajoni Italija.png|thumb|right|イタリアとその要求地域]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] ([[:en:Antonio Salandra]])が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、548-550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、550-551p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525-529p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺公望。1919年、パリ。]]&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。スマッツは1918年12月16日付のパンフレット『国際連盟 --実践的な提言』国際連盟を主導するべき大国はイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本、そして将来的にはドイツを加えるべきとしており{{sfn|篠原初枝|2010|pp=34-36}}、これはイギリスの同盟国である点や、地理的なバランスの点が考慮されたものであり、ランシングのように疑問を持つ者もいた{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、28p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、29p&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}といった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「{{仮リンク|骨抜きにされた勝利|it|Vittoria mutilata}}（{{lang-it|Vittoria Mutilata}}、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、{{仮リンク|自由都市フィウーメ|en|Free State of Fiume}}を経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（{{仮リンク|ギリシャとトルコ間での住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}}）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に{{仮リンク|中独平和回復協定|en|Agreement Regarding the Restoration of the State of Peace between Germany and China (1921)}}を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239221</id>
		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T14:58:33Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Salon de l'Horloge 2.jpg|thumb|right|フランス外務省の時計の間]]&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた{{Sfn|細谷千博|1959|p.69}}。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.273}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、330-331p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=667}}。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、510p&amp;lt;/ref&amp;gt;。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、348p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、477p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評された&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;フランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、537-539p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、100p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、4、215p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;&amp;gt;吉川宏、2、543-544p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.179}}。4月24日にはフィウメ（{{lang-it-short|Fiume}}、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された{{sfn|山越裕太|2011|pp=73-74p}}。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が{{仮リンク|231条 (ヴェルサイユ条約)|en|Article 231 of the Treaty of Versailles|label=231条}}（戦争責任条項、{{lang-en-short|War Guilt Clause}}）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.192}}。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.197-198}}。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]&amp;lt;ref&amp;gt;サン＝ジェルマン条約締結により「オーストリア共和国」に&amp;lt;/ref&amp;gt;に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した{{Sfn|加来浩|2003|p.45-46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.201-202}}。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.221}}。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で{{仮リンク|少数民族保護条約|en|Minority Treaties}}が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた{{Sfn|加来浩|2003|p.46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする戦争責任委員会が検討を行い、3月19日に報告書を提出した。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、490-491p&amp;lt;/ref&amp;gt;。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、493p&amp;lt;/ref&amp;gt;。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、498p&amp;lt;/ref&amp;gt;。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]（[[:en:Sir_Henry_Wilson,_1st_Baronet]]）の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された{{sfn|武田昌之|1991|pp=111}}。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nesvobodni rajoni Italija.png|thumb|right|イタリアとその要求地域]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] ([[:en:Antonio Salandra]])が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、548-550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、550-551p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525-529p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺公望。1919年、パリ。]]&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。スマッツは1918年12月16日付のパンフレット『国際連盟 --実践的な提言』国際連盟を主導するべき大国はイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本、そして将来的にはドイツを加えるべきとしており{{sfn|篠原初枝|2010|pp=34-36}}、これはイギリスの同盟国である点や、地理的なバランスの点が考慮されたものであり、ランシングのように疑問を持つ者もいた{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、28p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、29p&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}といった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「{{仮リンク|骨抜きにされた勝利|it|Vittoria mutilata}}（{{lang-it|Vittoria Mutilata}}、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、{{仮リンク|自由都市フィウーメ|en|Free State of Fiume}}を経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（{{仮リンク|ギリシャとトルコ間での住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}}）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に{{仮リンク|中独平和回復協定|en|Agreement Regarding the Restoration of the State of Peace between Germany and China (1921)}}を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

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		<title>パリ講和会議</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239219"/>
				<updated>2014-07-21T14:57:09Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Salon de l'Horloge 2.jpg|thumb|right|フランス外務省の時計の間]]&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた{{Sfn|細谷千博|1959|p.69}}。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.273}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、330-331p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=667}}。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、510p&amp;lt;/ref&amp;gt;。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、348p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、477p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評された&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;フランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、537-539p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、100p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、4、215p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;&amp;gt;吉川宏、2、543-544p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.179}}。4月24日にはフィウメ（{{lang-it-short|Fiume}}、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された{{sfn|山越裕太|2011|pp=73-74p}}。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が{{仮リンク|231条 (ヴェルサイユ条約)|en|Article 231 of the Treaty of Versailles|label=231条}}（戦争責任条項、{{lang-en-short|War Guilt Clause}}）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.192}}。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.197-198}}。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]&amp;lt;ref&amp;gt;サン＝ジェルマン条約締結により「オーストリア共和国」に&amp;lt;/ref&amp;gt;に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した{{Sfn|加来浩|2003|p.45-46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.201-202}}。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.221}}。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で{{仮リンク|少数民族保護条約|en|Minority Treaties}}が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた{{Sfn|加来浩|2003|p.46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする{{仮リンク|戦争責任委員会|en|Commission of Responsibilities}}が検討を行い、3月19日に報告書を提出した&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、144p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、145p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した&amp;lt;ref&amp;gt;アジア歴史資料センター「独逸前皇帝処分問題」[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02130278300?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2006090417300494163&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;] &amp;lt;/ref&amp;gt;。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった&amp;lt;ref&amp;gt;独逸前帝の審問（一・二）[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10124808&amp;amp;TYPE=IMAGE_FILE&amp;amp;POS=1]大正日日新聞1920.2.2-1920.2.3&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.245}}。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、151p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていたが、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士セシル・ハーストとアメリカの弁護士デビッド・ハンター・ミラーの執筆による「ハースト＝ミラー草案」が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、490-491p&amp;lt;/ref&amp;gt;。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、493p&amp;lt;/ref&amp;gt;。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、498p&amp;lt;/ref&amp;gt;。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]（[[:en:Sir_Henry_Wilson,_1st_Baronet]]）の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された{{sfn|武田昌之|1991|pp=111}}。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nesvobodni rajoni Italija.png|thumb|right|イタリアとその要求地域]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] ([[:en:Antonio Salandra]])が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、548-550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、550-551p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525-529p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺公望。1919年、パリ。]]&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。スマッツは1918年12月16日付のパンフレット『国際連盟 --実践的な提言』国際連盟を主導するべき大国はイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本、そして将来的にはドイツを加えるべきとしており{{sfn|篠原初枝|2010|pp=34-36}}、これはイギリスの同盟国である点や、地理的なバランスの点が考慮されたものであり、ランシングのように疑問を持つ者もいた{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、28p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、29p&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}といった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「{{仮リンク|骨抜きにされた勝利|it|Vittoria mutilata}}（{{lang-it|Vittoria Mutilata}}、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、{{仮リンク|自由都市フィウーメ|en|Free State of Fiume}}を経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（{{仮リンク|ギリシャとトルコ間での住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}}）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に{{仮リンク|中独平和回復協定|en|Agreement Regarding the Restoration of the State of Peace between Germany and China (1921)}}を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239218</id>
		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T14:51:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*[[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*[[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、エドワード・ハウス名誉大佐&lt;br /&gt;
*[[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**[[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**[[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**ウィリアム・マッセー首相・労働相&lt;br /&gt;
*[[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*[[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*[[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*アフォンソ・コスタ前内閣議長&lt;br /&gt;
*ペトレ・カプ前首相&lt;br /&gt;
*ニコラ・パシッチ前内閣議長&lt;br /&gt;
*[[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*[[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*ポリカルポ・ボニージャ元大統領&lt;br /&gt;
*エピタシオ・ペソア上院議員&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Salon de l'Horloge 2.jpg|thumb|right|フランス外務省の時計の間]]&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた{{Sfn|細谷千博|1959|p.69}}。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.273}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、330-331p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=667}}。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、510p&amp;lt;/ref&amp;gt;。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、348p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、477p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評された&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;フランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、537-539p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、100p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、4、215p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;&amp;gt;吉川宏、2、543-544p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.179}}。4月24日にはフィウメ（{{lang-it-short|Fiume}}、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された{{sfn|山越裕太|2011|pp=73-74p}}。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が{{仮リンク|231条 (ヴェルサイユ条約)|en|Article 231 of the Treaty of Versailles|label=231条}}（戦争責任条項、{{lang-en-short|War Guilt Clause}}）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.192}}。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.197-198}}。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]&amp;lt;ref&amp;gt;サン＝ジェルマン条約締結により「オーストリア共和国」に&amp;lt;/ref&amp;gt;に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した{{Sfn|加来浩|2003|p.45-46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.201-202}}。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.221}}。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で{{仮リンク|少数民族保護条約|en|Minority Treaties}}が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた{{Sfn|加来浩|2003|p.46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする{{仮リンク|戦争責任委員会|en|Commission of Responsibilities}}が検討を行い、3月19日に報告書を提出した&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、144p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、145p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した&amp;lt;ref&amp;gt;アジア歴史資料センター「独逸前皇帝処分問題」[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02130278300?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2006090417300494163&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;] &amp;lt;/ref&amp;gt;。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった&amp;lt;ref&amp;gt;独逸前帝の審問（一・二）[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10124808&amp;amp;TYPE=IMAGE_FILE&amp;amp;POS=1]大正日日新聞1920.2.2-1920.2.3&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.245}}。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、151p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:League of Nations Commission.jpg|thumb|300px|right|国際連盟委員会。委員はウィルソン、オルランド、ハウス、珍田、牧野、顧維鈞、[[レオン・ブルジョワ]]など]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、461p&amp;lt;/ref&amp;gt;が、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、473p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた&amp;lt;ref&amp;gt;。吉川宏、2、474-475p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた{{sfn|山越裕太|2011|pp=79}}。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.272}}。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士{{仮リンク|セシル・ハースト|en|Cecil Hurst}}とアメリカの弁護士{{仮リンク|デビッド・ハンター・ミラー|en|David Hunter Miller|label=デビッド・ミラー}}の執筆による「ハースト＝ミラー草案」&amp;lt;ref&amp;gt;ミラーは当初パリでウィルソンが提示した草案が原案になると考えていたが、第一回会議直前にハウスから「ハースト＝ミラー案」を草案とすると知らされ、前日まで作成に当たった{{harv|山越裕太|2011|pp=66}}。&amp;lt;/ref&amp;gt;が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした{{sfn|山越裕太|2011|pp=72}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した{{sfn|山越裕太|2011|pp=72-73}}。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された{{sfn|山越裕太|2011|pp=73-74p}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった&amp;lt;ref&amp;gt;。吉川宏、2、476-477p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、481-482p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた{{sfn|山越裕太|2011|pp=74p}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、26-27p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、200p&amp;lt;/ref&amp;gt;。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、33p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、203-204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、213p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、205p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、207p&amp;lt;/ref&amp;gt;。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」&amp;lt;ref&amp;gt;南アフリカのボータ首相が、ヒューズを評して牧野に告げた言葉。八丁由比、2011、19p&amp;lt;/ref&amp;gt;と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、208p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった&amp;lt;ref&amp;gt;八丁由比、2011、17p&amp;lt;/ref&amp;gt;。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、211-212p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、220p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、213-214p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、229-230p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、490-491p&amp;lt;/ref&amp;gt;。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、493p&amp;lt;/ref&amp;gt;。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、498p&amp;lt;/ref&amp;gt;。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]（[[:en:Sir_Henry_Wilson,_1st_Baronet]]）の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された{{sfn|武田昌之|1991|pp=111}}。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nesvobodni rajoni Italija.png|thumb|right|イタリアとその要求地域]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] ([[:en:Antonio Salandra]])が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、548-550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、550-551p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525-529p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺公望。1919年、パリ。]]&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。スマッツは1918年12月16日付のパンフレット『国際連盟 --実践的な提言』国際連盟を主導するべき大国はイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本、そして将来的にはドイツを加えるべきとしており{{sfn|篠原初枝|2010|pp=34-36}}、これはイギリスの同盟国である点や、地理的なバランスの点が考慮されたものであり、ランシングのように疑問を持つ者もいた{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、28p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、29p&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}といった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「{{仮リンク|骨抜きにされた勝利|it|Vittoria mutilata}}（{{lang-it|Vittoria Mutilata}}、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、{{仮リンク|自由都市フィウーメ|en|Free State of Fiume}}を経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（{{仮リンク|ギリシャとトルコ間での住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}}）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に{{仮リンク|中独平和回復協定|en|Agreement Regarding the Restoration of the State of Peace between Germany and China (1921)}}を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=239215</id>
		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T14:48:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
[[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア王国]]、[[日本]]、[[USA]]&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
[[ベルギー]]、[[ユーゴスラビア王国]]、[[セルブ・クロアート・スロヴェーン王国]]、[[ブラジル]] &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
[[中華民国]]、[[北京政府|中華民国]]、[[ギリシャ]]、[[ポルトガル]]、[[ルーマニア王国]]、[[タイ]]、[[ヒジャーズ王国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[インド]]、[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[南アフリカ共和国]]、[[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
[[キューバ]]、、[[ニカラグア]]、[[パナマ]]、、[[ボリビア]]、[[エクアドル]]、[[グアテマラ]]、[[ハイチ]]、[[ホンジュラス]]、[[リベリア]]、[[ペルー]]、[[ウルグアイ]]、[[アルメニア]]、[[ニュージーランド]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている。&lt;br /&gt;
*コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった。&lt;br /&gt;
*フランスとスペインの[[共同主権]]地域であったアンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」と指摘されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Council of Four Versailles.jpg|thumb|240px|right|パリ講和会議における「四巨頭」。写真左から[[デビッド・ロイド・ジョージ]]（イギリス）、[[ジョルジュ・クレマンソー]]（フランス）、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]（イタリア）、[[ウッドロウ・ウィルソン]]（アメリカ）]]&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*{{USA}} - [[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*{{GBR}} - [[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*{{FRA}} - [[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*{{ITA}} - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*{{flagicon|Japan}} [[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*{{USA}} - [[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}名誉大佐&lt;br /&gt;
*{{GBR}} - [[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**{{AUS}} - [[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**{{ZAF1912}} - [[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**{{NZL}} - {{仮リンク|ウィリアム・マッセー|en|William Massey}}首相・労働相&lt;br /&gt;
*{{FRA}} - [[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*{{GRC}} -  [[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*{{POL}} -  [[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*{{PRT}} -  {{仮リンク|アフォンソ・コスタ|en|Afonso Costa}}前内閣議長&lt;br /&gt;
*{{ROM1881}} - {{仮リンク|ペトレ・カプ|en|Petre P. Carp}}前首相&lt;br /&gt;
*{{YUG1918}} - {{仮リンク|ニコラ・パシッチ|en|Nikola Pašić}}前内閣議長&lt;br /&gt;
*{{CSK}} -  [[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*{{ROC}} - [[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*{{HND}} - {{仮リンク|ポリカルポ・ボニージャ|en|Policarpo Bonilla}}元大統領&lt;br /&gt;
*{{BRA}} - {{仮リンク|エピタシオ・ペソア|en|Epitácio Pessoa}}上院議員&amp;lt;ref&amp;gt;1919年11月15日に[[ブラジル連邦共和国大統領|大統領]]就任&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Salon de l'Horloge 2.jpg|thumb|right|フランス外務省の時計の間]]&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた{{Sfn|細谷千博|1959|p.69}}。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.273}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、330-331p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=667}}。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、510p&amp;lt;/ref&amp;gt;。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、348p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、477p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評された&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;フランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、537-539p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、100p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、4、215p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;&amp;gt;吉川宏、2、543-544p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.179}}。4月24日にはフィウメ（{{lang-it-short|Fiume}}、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された{{sfn|山越裕太|2011|pp=73-74p}}。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が{{仮リンク|231条 (ヴェルサイユ条約)|en|Article 231 of the Treaty of Versailles|label=231条}}（戦争責任条項、{{lang-en-short|War Guilt Clause}}）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.192}}。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.197-198}}。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]&amp;lt;ref&amp;gt;サン＝ジェルマン条約締結により「オーストリア共和国」に&amp;lt;/ref&amp;gt;に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した{{Sfn|加来浩|2003|p.45-46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.201-202}}。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.221}}。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で{{仮リンク|少数民族保護条約|en|Minority Treaties}}が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた{{Sfn|加来浩|2003|p.46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする{{仮リンク|戦争責任委員会|en|Commission of Responsibilities}}が検討を行い、3月19日に報告書を提出した&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、144p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、145p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した&amp;lt;ref&amp;gt;アジア歴史資料センター「独逸前皇帝処分問題」[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02130278300?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2006090417300494163&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;] &amp;lt;/ref&amp;gt;。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった&amp;lt;ref&amp;gt;独逸前帝の審問（一・二）[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10124808&amp;amp;TYPE=IMAGE_FILE&amp;amp;POS=1]大正日日新聞1920.2.2-1920.2.3&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.245}}。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、151p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:League of Nations Commission.jpg|thumb|300px|right|国際連盟委員会。委員はウィルソン、オルランド、ハウス、珍田、牧野、顧維鈞、[[レオン・ブルジョワ]]など]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、461p&amp;lt;/ref&amp;gt;が、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、473p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた&amp;lt;ref&amp;gt;。吉川宏、2、474-475p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた{{sfn|山越裕太|2011|pp=79}}。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.272}}。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士{{仮リンク|セシル・ハースト|en|Cecil Hurst}}とアメリカの弁護士{{仮リンク|デビッド・ハンター・ミラー|en|David Hunter Miller|label=デビッド・ミラー}}の執筆による「ハースト＝ミラー草案」&amp;lt;ref&amp;gt;ミラーは当初パリでウィルソンが提示した草案が原案になると考えていたが、第一回会議直前にハウスから「ハースト＝ミラー案」を草案とすると知らされ、前日まで作成に当たった{{harv|山越裕太|2011|pp=66}}。&amp;lt;/ref&amp;gt;が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした{{sfn|山越裕太|2011|pp=72}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した{{sfn|山越裕太|2011|pp=72-73}}。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された{{sfn|山越裕太|2011|pp=73-74p}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった&amp;lt;ref&amp;gt;。吉川宏、2、476-477p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、481-482p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた{{sfn|山越裕太|2011|pp=74p}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、26-27p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、200p&amp;lt;/ref&amp;gt;。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、33p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、203-204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、213p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、205p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、207p&amp;lt;/ref&amp;gt;。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」&amp;lt;ref&amp;gt;南アフリカのボータ首相が、ヒューズを評して牧野に告げた言葉。八丁由比、2011、19p&amp;lt;/ref&amp;gt;と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、208p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった&amp;lt;ref&amp;gt;八丁由比、2011、17p&amp;lt;/ref&amp;gt;。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、211-212p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、220p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、213-214p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、229-230p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、490-491p&amp;lt;/ref&amp;gt;。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、493p&amp;lt;/ref&amp;gt;。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、498p&amp;lt;/ref&amp;gt;。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]（[[:en:Sir_Henry_Wilson,_1st_Baronet]]）の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された{{sfn|武田昌之|1991|pp=111}}。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nesvobodni rajoni Italija.png|thumb|right|イタリアとその要求地域]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] ([[:en:Antonio Salandra]])が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、548-550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、550-551p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525-529p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺公望。1919年、パリ。]]&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。スマッツは1918年12月16日付のパンフレット『国際連盟 --実践的な提言』国際連盟を主導するべき大国はイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本、そして将来的にはドイツを加えるべきとしており{{sfn|篠原初枝|2010|pp=34-36}}、これはイギリスの同盟国である点や、地理的なバランスの点が考慮されたものであり、ランシングのように疑問を持つ者もいた{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、28p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、29p&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}といった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「{{仮リンク|骨抜きにされた勝利|it|Vittoria mutilata}}（{{lang-it|Vittoria Mutilata}}、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、{{仮リンク|自由都市フィウーメ|en|Free State of Fiume}}を経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（{{仮リンク|ギリシャとトルコ間での住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}}）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に{{仮リンク|中独平和回復協定|en|Agreement Regarding the Restoration of the State of Peace between Germany and China (1921)}}を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>パリ講和会議</title>
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				<updated>2014-07-21T14:38:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''パリ講和会議'''は、1919年1月18日から開会され、第一次世界大戦における連合国が[[中央同...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''パリ講和会議'''は、[[1919年]]1月18日から開会され、[[第一次世界大戦]]における[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]が[[中央同盟国]]の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、[[国際連盟]]を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどは[[パリ]]のフランス外務省内で行われており、[[ヴェルサイユ宮殿]]を会場に使ったのは対独平和条約（[[ヴェルサイユ条約]]）と、対ハンガリー平和条約（[[トリアノン条約]]）、関連する諸条約の調印式のみであるため正確ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議設置の前提 ==&lt;br /&gt;
{{see also|ウッドロウ・ウィルソン}}&lt;br /&gt;
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は[[アメリカ合衆国]]の参戦前にも「勝利なき講和」を訴え、参戦後は「和解の平和」を唱えた。ウィルソンは懲罰的賠償や[[秘密外交]]を基本とする欧州の「旧外交」が今次の大戦を招いたと考え、その払拭を訴えた。これがいわゆる[[理想主義]]的なウィルソンの「[[新外交]]」と呼ばれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密外交に対する批判に答えた[[イギリス]]の[[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相は、戦争遂行のために「会議による外交」を唱えた。「私は外交官を必要としない」「自分の国を代表する者として語る権限のない者達に（重要な問題を）論じさせることは単に時間の浪費である。」と語った大衆的政治家であったロイド・ジョージは、全面戦争という状況には国民世論の支持が不可欠と考えていたためである。また、当時イギリスの大新聞を支配していた[[ノースクリフ子爵アルフレッド・ハームズワース|ノースクリフ子爵]]は、講和会議代表に選ばれなかったことからロイド・ジョージと不和になり、政府方針以上の過酷な条件を求める記事を連日掲載した。このため講和会議直前の[[1918年イギリス総選挙]]では講和条件自体が選挙の争点となり、ドイツに対する賠償要求世論が高まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1918年]][[1月8日]]、ウィルソンは議会で「秘密外交の撤廃」「[[民族自決]]」などを含めた[[十四か条の平和原則]]を公表した。以降2月11日には「4原則」、9月25日には5原則を提示しこれを補強している。11月5日、アメリカ政府は十四か条と、それ以降の和平演説、さらに二つの留保事項を加えた和平勧告をドイツに行った（ランシング通牒）。ドイツ首相[[マクシミリアン・フォン・バーデン|バーデン大公子]]はこれを受け入れ、ドイツと連合国間で[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]が結ばれた。しかしイギリスはウィルソンの原則に同意しておらず、14か条が講和の原則でないとドイツに伝達することを考えていた。しかし折からの[[ドイツ革命]]の進展で、ドイツに[[共産主義]]政権が成立することを危惧したイギリスは、早急な講和のために不服ながらウィルソンの方針に同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはこれらの新外交理念により、連合諸国の国民はもとより、ドイツなど中央同盟国の国民からも高い期待を持たれており、また彼自身もこれらの理念を信じていた。一方で連合国が戦時中から唱えていた「ドイツ[[軍国主義]]の破壊」自体は、[[内政不干渉の原則|内政干渉]]に反対する保守勢力の反対によってほとんど放擲され、ドイツの政治制度について干渉することはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし第一次世界大戦で最も大きな負担を負った[[フランス]]の[[ジョルジュ・クレマンソー]]首相は、ドイツ人に対する徹底的な不信感を抱いており、交渉や理念ではなく、実力でしかドイツ人を抑制できないと考えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これら思惑の異なる諸首脳がパリに集まり、同時に行われるドイツ軍の武装・動員解除や[[ロシア内戦]]等の世界情勢を念頭に諸問題が話し合われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の構成 ==&lt;br /&gt;
大戦中から連合国は最高戦争会議 (第一次世界大戦)を結成して協議を行っていた。1918年の10月ごろから会議開催地の選定が開始された。[[スイス]]の[[ローザンヌ]]、フランスの[[ヴェルサイユ]]が候補地としてあがり、最終的にパリが会議の場と決定された。ウィルソンはスイスで開催する案を持っていたが、当時スイスは労働争議や経済問題が悪化しており、鉄道も寸断されていたため会議を開ける状況ではなかった。フランス側はパリを会議場とするため以前から準備をしており、ウィルソンも同意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会議には世界から33ヶ国（イギリス自治領含む）70人の全権と1000人以上の随員が集まったが、連合国側での協議を優先するべきと言うイギリスやフランスの意見や、中央やロシアでは政治的混乱が続いていたこともあり、ロシアの代表は招請されず、敗戦国は講和条約案がまとまるまで招請されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最重要問題については五大国（[[大英帝国|イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、[[イタリア王国|イタリア]]、[[日本]]）の全権で構成された十人委員会（The Council of Ten）で行われることになった。しかし3月頃にロイド・ジョージの発言が外部に漏洩する事件が起きたため、3月25日から三大国の首脳とイタリアの[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相、通訳官の[[ポール・マントゥー]]で構成された四人会議（The Council of Four）で重要事項は討議されることになった。また三首脳が必要に応じて開催した少人数の秘密会でも協議されるようになった。四人会議は正式な会議ではないとされたが、協議の詳細な内容はウィルソン以外のアメリカ代表団にすら伝えられなかった。その他の重要な問題については、小国の代表も参加した5つの分野別委員会（国際連盟、労働立法、戦争責任、運輸（港湾・水路・鉄道）、賠償）によって討議された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参加国 ==&lt;br /&gt;
;主要国（代表五名）&lt;br /&gt;
{{Flag2|イギリス}}  {{Flag2|フランス}}  {{Flag2|イタリア王国}}  {{Flag2|日本}}  {{USA}}&lt;br /&gt;
;代表三名&lt;br /&gt;
{{Flag2|ベルギー}}　{{Flag2|ユーゴスラビア王国}}（セルブ・クロアート・スロヴェーン王国）　{{Flag2|ブラジル}} &lt;br /&gt;
;代表二名&lt;br /&gt;
{{flagicon2|中華民国|1912}} [[北京政府|中華民国]]　{{Flag2|ギリシャ|old}} {{Flag2|ポルトガル}} {{Flag2|ルーマニア王国}} {{Flag2|タイ}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Flag of Hejaz 1917.svg|border|25px]] [[ヒジャーズ王国]]  {{Flag2|ポーランド}} {{Flag2|チェコスロバキア}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{flagicon2|インド|British}} [[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]　{{Flag2|カナダ|1868}}　{{Flag2|オーストラリア}} {{flagicon2|南アフリカ共和国|1912}} [[南アフリカ連邦]]&lt;br /&gt;
;代表一名&lt;br /&gt;
{{Flag2|キューバ}}　{{Flag2|ニカラグア}}　{{Flag2|パナマ}}　{{Flag2|ボリビア}}　{{Flag2|エクアドル}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Flag2|グアテマラ}}　{{Flag2|ハイチ}} {{Flag2|ホンジュラス}} {{Flag2|リベリア}} {{Flag2|ペルー}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Flag2|ウルグアイ}} {{Flag2|アルメニア}} {{Flag2|ニュージーランド}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[モンテネグロ王国]] - 連合国の一つであったが、セルビアによる併合により実体としては消滅。これを認めない王国亡命政府首相アント・グヴォズデノヴィッチ将軍が3月6日に十人委員会に出席した。この時にセルビアに抗議し、モンテネグロの主権が残っているとする国王[[ニコラ1世 (モンテネグロ王)|ニコラ1世]]の書簡を読み上げている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.montenet.org/2001/jk.html General Gvozdenovic statement on Paris Peace Conference]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*{{Flag2|コスタリカ}} -コスタリカは1918年5月23日にドイツに宣戦しているが、アメリカが国家承認していなかったため、会議に招請されなかった{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
*{{Flag2|アンドラ}} - フランスとスペインの[[共同主権]]地域であった{{要出典範囲|アンドラ公国は全11人という小規模な国軍をもつのみであったが、第一次世界大戦に参戦した|date=2012年5月|title=できれば参戦対象国と宣戦の日時等が明確になっているものを。}}。アンドラは当時独立国家ではなく、イギリス連邦内の自治領のように条約参加国となることもなかった。このためアンドラ公国は形式的に「1950年代まで第一次世界大戦を継続した」&amp;lt;ref&amp;gt;アンドラは第二次世界大戦では中立であったが、スペイン兵が駐留して[[ヴィシー政権]]との密輸ルートになった。[http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-17028396 Andorra profile] -BBCによるアンドラのプロフィール、[http://www.andorramania.com/histoire_gb.htm History of the Principality of Andorra]-andorramania.com 。&amp;lt;/ref&amp;gt;と指摘されることもある&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nytimes.com/2006/09/22/nyregion/22andorra.html?_r=0 From Tiny Andorra to the U.N. Center Stage - New York Timese]-[[ニューヨーク・タイムズ]]2006年9月22日&amp;lt;/ref&amp;gt;(参考:{{仮リンク|技術上の問題で戦争状態が延びてしまった戦争のリスト|en|List of wars extended by diplomatic irregularity}})。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な出席者 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Council of Four Versailles.jpg|thumb|240px|right|パリ講和会議における「四巨頭」。写真左から[[デビッド・ロイド・ジョージ]]（イギリス）、[[ジョルジュ・クレマンソー]]（フランス）、[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]（イタリア）、[[ウッドロウ・ウィルソン]]（アメリカ）]]&lt;br /&gt;
=== 三巨頭 ===&lt;br /&gt;
*{{USA}} - [[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領&lt;br /&gt;
*{{GBR}} - [[デビッド・ロイド・ジョージ]]首相&lt;br /&gt;
*{{FRA}} - [[ジョルジュ・クレマンソー]]首相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他の首脳 ===&lt;br /&gt;
*{{ITA}} - [[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド]]首相&lt;br /&gt;
*{{flagicon|Japan}} [[日本]] - [[西園寺公望]]元首相、[[牧野伸顕]]元外相、[[珍田捨巳]]駐英大使、[[松井慶四郎]]駐仏大使&lt;br /&gt;
*{{USA}} - [[ロバート・ランシング]]国務長官、[[ニュートン・ディール・ベイカー]]陸軍長官、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}名誉大佐&lt;br /&gt;
*{{GBR}} - [[アーサー・バルフォア]]外相、[[アンドルー・ボナー・ロー]]国璽尚書、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]元封鎖相、[[ウィンストン・チャーチル]]戦争相・航空相&lt;br /&gt;
**{{AUS}} - [[ビリー・ヒューズ]]首相&lt;br /&gt;
**{{ZAF1912}} - [[ルイス・ボータ]]首相、[[ヤン・スマッツ]]国防大臣&lt;br /&gt;
**{{NZL}} - {{仮リンク|ウィリアム・マッセー|en|William Massey}}首相・労働相&lt;br /&gt;
*{{FRA}} - [[ステファン・ピション]]外相、[[フェルディナン・フォッシュ]]連合軍最高司令官、陸軍総司令官&lt;br /&gt;
*{{GRC}} -  [[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]内閣議長&lt;br /&gt;
*{{POL}} -  [[イグナツィ・パデレフスキ]]首相&lt;br /&gt;
*{{PRT}} -  {{仮リンク|アフォンソ・コスタ|en|Afonso Costa}}前内閣議長&lt;br /&gt;
*{{ROM1881}} - {{仮リンク|ペトレ・カプ|en|Petre P. Carp}}前首相&lt;br /&gt;
*{{YUG1918}} - {{仮リンク|ニコラ・パシッチ|en|Nikola Pašić}}前内閣議長&lt;br /&gt;
*{{CSK}} -  [[カレル・クラマーシュ]]内閣議長、[[エドヴァルド・ベネシュ]]外相&lt;br /&gt;
*{{ROC}} - [[陸徴祥]]外交総長、[[王正廷]]外交次長、[[顧維鈞]]駐米公使&lt;br /&gt;
*{{HND}} - {{仮リンク|ポリカルポ・ボニージャ|en|Policarpo Bonilla}}元大統領&lt;br /&gt;
*{{BRA}} - {{仮リンク|エピタシオ・ペソア|en|Epitácio Pessoa}}上院議員&amp;lt;ref&amp;gt;1919年11月15日に[[ブラジル連邦共和国大統領|大統領]]就任&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中央同盟国代表 ===&lt;br /&gt;
*{{DEU1919}} - [[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相&amp;lt;ref&amp;gt;条約受諾に反対して辞任&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[ヘルマン・ミュラー]]外相&lt;br /&gt;
*{{AUT}} - [[オットー・バウアー]]外相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 著名な関係者 ===&lt;br /&gt;
* [[ジョン・メイナード・ケインズ]] - 賠償委員会の委員&lt;br /&gt;
* [[近衛文麿]]、[[吉田茂]]、[[芦田均]] - 代表の随員、後の首相&lt;br /&gt;
*[[ホー・チ・ミン|グエン・アイ・クオック（阮愛國）]] - [[安南愛国者協会]]代表として出席。後の[[ベトナム民主共和国]]国家主席ホー・チ・ミン&lt;br /&gt;
*[[トーマス・エドワード・ロレンス]]、[[ガートルード・ベル]] - [[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル1世]]の代表として出席。&lt;br /&gt;
*[[マックス・ウェーバー]] - 講和条約手交後に、ドイツ側の抗議文書「教授意見書」を提出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 会議の流れ ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Salon de l'Horloge 2.jpg|thumb|right|フランス外務省の時計の間]]&lt;br /&gt;
1918年12月26日、ウィルソンは「We Want Wilson!」の歓呼の中ロンドンに到着した。彼はイギリスやフランスでも「正義なる人ウィルソン」と讃えられ、熱狂的な歓迎を受けた{{Sfn|細谷千博|1959|p.69}}。1月12日にはウィルソンとロイド・ジョージがパリに入った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.273}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月12日には休戦後最初の十人委員会がフランス外務省で行われた。翌13日にはフランスのピション外相が講和会議の進行方法や、十四原則を加味した原則を提示している。この日には講和会議で「国際連盟」「賠償問題」「新国家」「国境線変更」「植民地」の五つの論点について協議するという決定が行われた{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。17日にはピションが五つの論点を総会で検討する提案を行ったが、ウィルソンはこれらが総会で検討するのは不適切であるとし、小委員会を設置し、その委員会が総会に提案するかどうかを決定するよう主張した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月18日に講和会議の開会が時計の間で宣言され、そのまま講和会議総会が開かれた。開催後の会議でまず検討されたのは会議の形式であった。ウィルソンは会議を公開し、会議内容の自由な報道を許すよう主張した。しかし過去の秘密外交の暴露や世論に左右されることを恐れたロイド・ジョージやフランスの[[ステファン・ピション]]外相の猛反対にあった。このため会議公開は断念され、旧来の秘密会議形式が取られることになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、330-331p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月25日には総会においてウィルソン提案の委員会設置が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=667}}。2月14日には三度目の総会が行われ、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。2月中旬から3月中旬まではロイド・ジョージとウィルソンが帰国しており、さらに2月19日にクレマンソー暗殺未遂事件が発生して不在であったため、外相達が会議を取り仕切った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、510p&amp;lt;/ref&amp;gt;。3月中旬になってようやく平和条約の具体内容が討議の中心となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、348p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの提示した諸原則そのものは他の首脳の反対を受けなかったものの、彼らは「原則では賛成、細目では反対」の交渉でウィルソンに抵抗した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、477p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランスが最も強く要求したのは[[ザール地方]]の領有、戦費と賠償金の全面的な履行、ライン川左岸の永久占領であった。この3案は四人会議を紛糾させる最大の争点となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの「一種の心理的な飢餓状態」「戦争性精神異常」と評された&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;フランス側の対独警戒心を緩和するため、イギリスはフランスが侵攻された際に援助する保障条約の締結でこれに代えようとしたが、合意は見られなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月25日、ロイド・ジョージは「フォンテーヌブロー覚書」を発表し、「新しい戦闘を挑発することのない講和」を目指すために、ドイツに過度の屈辱を与えず、履行可能な講和条件を与えるべきとした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、537-539p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この覚書はアメリカに賛意を持って迎えられたが、フランス首脳達は激怒した。フランスと英米の間隙はより大きくなり、4月2日にはフォッシュが「一週間以内に平和会議は潰れる」と予言し、4月7日には体調を崩していたウィルソンが帰国準備を命令する事態となった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またイギリスの世論や議会ではロイド・ジョージが賠償金問題や[[ボリシェヴィキ]]に対して弱腰であるという批判が続発し、4月15日から4月17日に議会対策のため一時帰国し、「厳格な講和」を約束することとなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、543p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、100p&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、4、215p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロイド・ジョージが一時帰国した隙に、クレマンソーはハウス大佐を通じてウィルソンを説得し、連合国軍による15年のライン川右岸とザールの占領を行うという妥協案に合意させた。イギリスは抵抗したが4月22日に三国の合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;&amp;gt;吉川宏、2、543-544p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この合意を受けて4月20日に米仏間、5月6日に英仏間での軍事保障条約が締結された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 会議の終了 ===&lt;br /&gt;
4月18日、ドイツ側代表の招請状がドイツに到着した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.179}}。4月24日にはフィウメ（{{lang-it-short|Fiume}}、現[[リエカ]]）及び[[ダルマチア]]の帰属に関する問題に抗議して[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド|オルランド]]が帰国し、5月5日になって会議に復帰した。4月28日の総会で国際連盟規約案が第5条修正を行った後に採択された{{sfn|山越裕太|2011|pp=73-74p}}。5月7日に[[ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ＝ランツァウ|ブロックドルフ＝ランツァウ]]外相を首席とするドイツ代表が{{仮リンク|231条 (ヴェルサイユ条約)|en|Article 231 of the Treaty of Versailles|label=231条}}（戦争責任条項、{{lang-en-short|War Guilt Clause}}）を含む講和条約案を受け取り、5月29日に反対提案を行った{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.192}}。ロイド・ジョージはいくつかの点で修正に応じようとしたが、クレマンソーやウィルソンは断固として修正を拒否した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.197-198}}。6月2日には[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]&amp;lt;ref&amp;gt;サン＝ジェルマン条約締結により「オーストリア共和国」に&amp;lt;/ref&amp;gt;に対して講和条約案提示が行われたが、[[ズデーテン地方]]の割譲などを定めた「恐るべき文書」に対してオーストリア政府も受諾を拒否した{{Sfn|加来浩|2003|p.45-46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月3日、7日、10日には賠償問題をめぐって最後の四人会議が開催されたが、賠償総額についての結論は出なかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.201-202}}。連合国側の回答期限当日の6月23日にドイツは条約受諾を発表し、6月28日に[[ヴェルサイユ条約]]の調印が行われた{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.221}}。7月にウィルソンが帰国し、講和会議自体は終了した。7月20日にオーストリアに対して第二次草案が提示され、9月2日には最終案が提示された。オーストリアは受諾し、9月10日に[[サン＝ジェルマン条約]]が締結された。同日、チェコスロバキアと主たる連合国（五大国）間で{{仮リンク|少数民族保護条約|en|Minority Treaties}}が締結され、チェコスロバキア内のドイツ人保護が義務づけられた{{Sfn|加来浩|2003|p.46}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦争責任問題 ==&lt;br /&gt;
{{See also|ヴェルサイユ条約#制裁裁判}}&lt;br /&gt;
中央同盟国の戦争責任問題については[[ロバート・ランシング]]を議長とする{{仮リンク|戦争責任委員会|en|Commission of Responsibilities}}が検討を行い、3月19日に報告書を提出した&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、144p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この中で戦争責任は第一にドイツとオーストリア＝ハンガリー帝国、第二にトルコとブルガリアにあるとした上で、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した」元首を含むすべての国民が訴追の可能性があるとしたが、戦争を引き起こした責任については訴追を断念した&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、145p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴィルヘルム2世の訴追にはアメリカおよび日本は当初から反対の立場を表明していた。国際慣習や[[戦時国際法]]により国家元首の罪を国際法廷で裁くという前例がなく、実定国際法上の根拠が脆弱とするのが反対論の主張であった。また日本はこの問題について日本の[[国体論]]を非常に慎重に意識していた。一方で英仏は皇帝訴追論の最右翼であり、結局は[[戦時国際法]]違反や人道上の罪を問うのではなく「国際道徳及び条約の尊厳に対する重大な犯罪」という曖昧な文言によりアメリカと日本は妥協した。戦争責任審査委員会の報告書はアメリカと日本による附属留保が付されて本会議に提出された。日本は「前独帝処分問題に対する日本の覚書」を講和会議に提出し、元首の交戦法規違反に対する刑事責任を容認することに留保を表明した&amp;lt;ref&amp;gt;アジア歴史資料センター「独逸前皇帝処分問題」[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02130278300?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2006090417300494163&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;] &amp;lt;/ref&amp;gt;。またヴィルヘルム2世がすでにドイツ帝国皇帝位を退位し元首の地位ではなく、「前皇帝」いち個人として国際法廷で審問される点については同意した。米国の国務長官であり戦争責任審査委員会の議長もつとめた[[ロバート・ランシング]]は政治上の制裁は政治家の処理すべき問題であり裁判官の関与すべき問題ではないとの立場であった&amp;lt;ref&amp;gt;独逸前帝の審問（一・二）[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10124808&amp;amp;TYPE=IMAGE_FILE&amp;amp;POS=1]大正日日新聞1920.2.2-1920.2.3&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議の最中から、中立国オランダに亡命していた[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の身柄引き渡し交渉が続けられていた。しかしオランダ政府は国内法に違反していないとして拒否した。英仏の強硬論も世論に配慮した面が強く、フランス政府は裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.245}}。そのため連合国も再度の引き渡し要求や欠席裁判を行うこともなかった&amp;lt;ref&amp;gt;清水正義、2003、151p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国際連盟問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:League of Nations Commission.jpg|thumb|300px|right|国際連盟委員会。委員はウィルソン、オルランド、ハウス、珍田、牧野、顧維鈞、[[レオン・ブルジョワ]]など]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|国際連盟}}&lt;br /&gt;
ウィルソンは新外交の中心と位置づけた国際連盟を平和条約と不可分であると考えており、熱心な主導者となっていた。国際連盟創設自体はイギリスも戦争目的の一つとしていた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、461p&amp;lt;/ref&amp;gt;が、[[ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)|ロバート・セシル]]や[[ウィンストン・チャーチル]]のようにその構想を非現実的と見なす政治家が多く存在していた。イギリスは連盟を大国間の継続的共働を保障する骨組みとして考え、フランスはドイツの加入を出来るだけ遅らせるなど、現状維持の道具として考えていた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、473p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンは連盟の協議を十人委員会で行おうとしたが、ロイド・ジョージやクレマンソーは分科会であり、小国も加えた連盟委員会で協議することを求めた。ウィルソンは小国の協議参加に難色を示したが、結局はロイド・ジョージらの案が通った。ロイド・ジョージらの意図は実質的な講和協議を十人委員会で進めることにあったが、ウィルソンが自ら連盟委員会アメリカ代表となったことでその目論見は外れた&amp;lt;ref&amp;gt;。吉川宏、2、474-475p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連盟規約策定 ===&lt;br /&gt;
1月20日にはウィルソンが国際連盟規約の第三次草案を完成させた{{sfn|山越裕太|2011|pp=79}}。1月25日には国際連盟の原則が講和会議で承認された{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.272}}。2月3日には国際連盟委員会の第一回会合が行われ、2月8日まで連続して行われた。委員長にはウィルソンが自ら就任した{{sfn|山越裕太|2011|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一回委員会では連盟規約の草案として、イギリスの弁護士{{仮リンク|セシル・ハースト|en|Cecil Hurst}}とアメリカの弁護士{{仮リンク|デビッド・ハンター・ミラー|en|David Hunter Miller|label=デビッド・ミラー}}の執筆による「ハースト＝ミラー草案」&amp;lt;ref&amp;gt;ミラーは当初パリでウィルソンが提示した草案が原案になると考えていたが、第一回会議直前にハウスから「ハースト＝ミラー案」を草案とすると知らされ、前日まで作成に当たった{{harv|山越裕太|2011|pp=66}}。&amp;lt;/ref&amp;gt;が提示されたが、この草案は前日に完成してフランス語版も未完成であったため、以降の委員会で条文毎に協議されることとなった。2月14日の総会において、委員会で策定された国際連盟規約の草案が承認された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。3月18日にはウィルソンとセシル元封鎖相、ハウス大佐、ミラーの4人で協議が行われた。イギリス側は草案を独自に検討して修正案を提示し、これに沿って終日検討が加えられた。これらの協議の結果、3月20日には「ウィルソン＝セシル草案」が完成した。また3月20日と3月21日には中立国の意見を聴取する委員会が開かれ、スペインとスイスが修正案を提議した。3月22日の第11回委員会からは2月14日草案、「ウィルソン＝セシル草案」、「中立国修正案」が検討された。1条から18条までは2月14日草案がそのまま承認され、19条については「ウィルソン＝セシル草案」による、対象を拡大した案が討議された{{sfn|山越裕太|2011|pp=70}}。3月27日からハーストとミラーは再度草案の練り直しを行い、30日には「新ハースト＝ミラー草案」が完成した。ミラーは草案の修正が最終段階にさしかかっていたため、日本側提案の「人種差別撤廃提案」（後述）や、各国への[[赤十字]]機関設立などの新たな追加は行わないつもりであったが、ハウスの強いすすめによって19条に赤十字に関する記述を盛り込むことにした{{sfn|山越裕太|2011|pp=72}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日からは最終草起委員会が開催され、全体的な草案の組み直しが行われた。これらの意見を受けて4月3日にハーストとミラーは最終草案を策定した{{sfn|山越裕太|2011|pp=72-73}}。4月10日の第14回国際連盟委員会と4月11日の最後の国際連盟委員会で最終草案が検討され、4月21日にはこれらの意見を受けた規約案をミラーがまとめた。22日にはこの案をウィルソンも承認し、4月28日の総会において討議された。この会では日本による人種差別撤廃提案に関する説明と、ウィルソンによる第5条の修正提案が行われた。規約案は第5条修正を行った後に承認され、採択された{{sfn|山越裕太|2011|pp=73-74p}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 委任統治問題 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンが原則として「無併合」を唱えていたが、ドイツ旧植民地や[[オスマン帝国]]領が独立国としてやっていけるとは考えていなかった。「[[委任統治]]」はそのために考え出されたシステムであり、国際連盟からの委任を受けた国が、その地域を統治するというものであった&amp;lt;ref&amp;gt;。吉川宏、2、476-477p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスやオーストラリア、ニュージーランドは旧植民地の併合を強く要求した。委員会は紛糾し、裏面での交渉が活発に行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月30日の十人委員会でロイド・ジョージは八項目からなる決議案を提出した。東アフリカのドイツ植民地は潜水艦基地となったため、ドイツ統治継続は世界平和に有害であるために没収が定められ、旧トルコ領の[[アルメニア]]、[[シリア]]、[[メソポタミア]]、[[パレスチナ]]、[[アラビア半島]]はトルコの悪政から切り離す必要があるとされた。2月になってこの方針で妥協が成立し、ドイツの植民地全面放棄とシリアのフランス委任統治領化、パレスチナ、イラク、トランスヨルダンのイギリス委任統治領化が決定した。こうして[[サイクス・ピコ協定]]は実質的に承認された&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、481-482p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際保健 ===&lt;br /&gt;
当時[[スペインかぜ]]（[[インフルエンザ]]）が世界規模で猛威を奮っており、ウィルソンやハウスが罹患しただけでなく、アメリカ代表団の一部からは死者も出た。このため国境を越えた公衆衛生に対する動きが求められ、国際連盟規約23条と25条には国際保健条項が盛り込まれた{{sfn|山越裕太|2011|pp=74p}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人種差別撤廃案 ===&lt;br /&gt;
{{main|人種的差別撤廃提案}}&lt;br /&gt;
当時アメリカ・カナダ・オーストラリアでは日本人[[移民]]、及び[[日系アメリカ人]]に対する排斥運動が起こっていたこともあり（のちに[[排日移民法]]までもが成立）、国際連盟構想が明らかになると日本のマスコミや[[黒龍会]]等の団体が[[人種差別]]撤廃を講和条件に盛り込むよう強く主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、26-27p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただしこの意見が政治家を動かしたということはなく、政府が人種差別撤廃提案を取り入れることになった経緯はいまだに明確になっていない&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、200p&amp;lt;/ref&amp;gt;。当時の外務省には[[石井菊次郎]]駐米大使のように国際正義が主張される講和会議で移民排斥不当を「表明」すること自体に意味があるという考えと、[[小村欣一]]アジア課長のように人種平等の提案を成すことで、国際組織で平等の立場を勝ち取り、日本の印象を平和的なものとし、対中融和をスムーズに行うという考えもあった。最終的に外務省がまとめた案では、人種平等の要求明確化よりも、国際的時流に乗ることを重要とする物となっていた&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、33p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本代表団はまずアメリカに働きかけることとし、ランシング国務長官とウィルソン側近のハウス大佐に、連盟規約に挿入する人種差別撤廃条項として甲案と乙案の二案を提示した。ランシングは乙案に賛意を示し、ハウス大佐の感触も上々であった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、203-204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。次に接触したイギリスでは、オーストラリア、ニュージーランドの自治領、特に[[白豪主義]]を国是とし、労働問題を抱えるオーストラリアが強硬に反発したため、合意は得られなかった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後イギリスのセシル元封鎖相やバルフォア外相とも協議を行ったが、本国の諒解が得られないとして消極的であった。会議の状況を聞いた原首相も「この事元来成功するや否や覚束なき事柄」と、提案の成功には悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、213p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は2月13日に国際連盟委員会で「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り（中略）、連盟員たる一切の外国人に対し均等公正の待遇を与え人種或は国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」という条文を、宗教の平等を唱えた連盟規約21条に付け加えるよう提案した&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、205p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この日の提案ではチェコスロバキア、ルーマニア、ブラジルのみが賛成であり、さらに宗教規定自体が取り除かれることが多数決で決まり、人種差別撤廃提案は別の形で提出することとなった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この提案が報道されると、日本では提案に対する期待が高まり、アメリカでは内政干渉であるとして反発が高まった。アメリカ上院は人種差別撤廃提案が採用されれば条約を批准しないという決議を行い、ウィルソンもこれに従わざるを得なくなった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、207p&amp;lt;/ref&amp;gt;。オーストラリアのヒューズ首相も会議中に退席するほど強硬であり、日本の主張が入れられれば署名を拒否して帰国すると発言した。ヒューズの態度は[[イギリス帝国]]の首脳からも「狂人と評するほかない」&amp;lt;ref&amp;gt;南アフリカのボータ首相が、ヒューズを評して牧野に告げた言葉。八丁由比、2011、19p&amp;lt;/ref&amp;gt;と評されるほどであった。イギリス、カナダ、ニュージーランドは牧野の接触で日本支持に傾きつつあったが、ヒューズの強硬姿勢をみて反対の立場に戻っていった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、208p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イギリスは英帝国内の団結を維持する必要があり、総選挙を控えて譲歩ができないヒューズの強硬姿勢に従わざるを得なかった&amp;lt;ref&amp;gt;八丁由比、2011、17p&amp;lt;/ref&amp;gt;。日本政府も提案成立は困難であると見るようになり、[[犬養毅]]や[[伊東巳代治]]のように連盟脱退を唱える者も現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月11日、日本は再度提案を行い、連盟規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」という一文を挿入するように求めた。イギリス、オーストラリアが反対する中、議長ウィルソンは「本件は平静に取り扱うべき問題」であるとして、提案自体の撤回を求めた。牧野は採決を求め、イギリス、アメリカ、ポーランド、ブラジル、ルーマニアが反対したものの、フランス、イタリア、ギリシャ、中華民国、ポルトガル、チェコスロバキアが賛成に回り、出席者16名中11名の賛成多数を得た。しかしウィルソンは「全会一致でない」としてこの採決を不採択とした。牧野は「会議の問題につきては多数決に依りて決定したことあり」として、多数決による採択を求めたが、ウィルソンは「本件の如き重大なる事件の決定については、従来とも全会一致、少なくとも反対者なきことを要するの趣旨によりて議事を取り扱い来たれる」と重大案件は全会一致で行ってきたと反論し、牧野もこれを受け入れた。牧野は議案を撤回するかわりに、提案を行ったという事実と採決記録を議事録に残すことを要請し、受け入れられた&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、211-212p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本国内では失望の意見や連盟脱退を叫ぶ声が高まり、伊東ら強硬派は牧野の欧米協調的な言動を軟弱であると非難した。また山東問題の解決と人種差別撤廃提案の撤回が同時期であったため、各国から「人種差別撤廃提案を取引材料に使った」「そもそも提案自体が煙幕であった」という非難もあびることになった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、220p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし原首相は牧野を擁護し、日本は国際連盟参加、講和会議成立の協調路線を維持することになった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、213-214p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で欧米に対する不信感は[[大川周明]]などの[[国家主義]]者や[[アジア主義]]者に根付き、対米協調に反発する政治団体が多数生まれることとなった&amp;lt;ref&amp;gt;永田幸久、2003、229-230p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軍縮問題 ==&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは国際連盟と、ヨーロッパにおける軍縮を平和構想の柱として考えており、1918年12月11日にはヨーロッパ大陸における徴兵軍廃止を平和会議のテーマとしてあげた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、490-491p&amp;lt;/ref&amp;gt;。元々イギリスは志願軍制が伝統であり、徴兵制廃止については多くの賛同が得られていた。しかしロイド・ジョージはイギリスによる海上の覇権を渡すつもりはなく「イギリスはアメリカあるいは他の強国の海軍より優越した海軍を維持するために最後の1[[ギニー]]まで費す」つもりであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、493p&amp;lt;/ref&amp;gt;。1月21日、イギリスのバルフォア外相は軍縮委員会の設置を十人委員会に提議した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍縮委員会は軍縮の前提となるドイツの武装解除と動員解除を扱うことになったが、最初の案は受け入れられず、2月12日に連合軍最高司令官[[フェルディナン・フォッシュ]]元帥を委員長とする新たな軍縮専門委員会が設置された。フォッシュは[[ラインラント]]への永久的な駐兵と、[[ロシア内戦]]における白軍への援助を主張したが、ドイツ軍武装解除には積極的ではなく、ロイド・ジョージの唱える軍縮には否定的であった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、498p&amp;lt;/ref&amp;gt;。フォッシュ委員会はドイツに20万人の陸軍兵力保持と、徴兵制を認める草案を提出した。ロイド・ジョージはこの案に猛反発し、バルフォア外相と[[ヘンリー・ウィルソン (イギリスの軍人)|ウィルソン陸軍参謀総長]]（[[:en:Sir_Henry_Wilson,_1st_Baronet]]）の同意を得た、陸海空を含めた全兵力20万人で志願軍制とする案を提出した。十人委員会でこの案は反対もなく採用されたが、軍縮委員会の軍人達は猛反発した。そこでフランス陸軍参謀本部がドイツ兵力を10万人に制限する案を策定し、フォッシュがこの案を3月10日の十人委員会に提出した。さらにドイツが軍備を調達する際には事前通告が必須であるという案も付属させた。イギリスはこれらの案があまりにドイツを無力化しすぎるとして反発したが、フランスは強硬であった。結果としてこの案が通り、戦後のドイツ軍は陸軍10万人規模となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方国際連盟委員会では、フランスが常備軍としての国際連盟軍を提案したものの否決され、憲章では加盟国に対する必要最低限の軍備制限と、連盟理事会が加盟国から連盟規約保護のための軍隊派遣要請を行えることが明文化された{{sfn|武田昌之|1991|pp=111}}。しかし国際連盟による軍事制裁はその後十数年に渡って論議されたが決着が出ず、一度も実行されなかった。また軍備制限条項はその後の[[ジュネーブ軍縮会議]]や[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後ドイツの国家構想 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリアとの合邦問題 ===&lt;br /&gt;
当時オーストリアに発足した[[第一共和国 (オーストリア)|ドイツ＝オーストリア共和国]]の[[カール・レンナー]]首相は、経済混乱を収拾するためにドイツとの合邦（[[アンシュルス]]）を要求していた。またドイツも民俗自決の観点から合邦を要求していた。ランシング国務長官は同じく[[カトリック教会|カトリック]]の多いバイエルン州との合併を考慮したが、ウィルソンはあまり興味を持っていなかった。レンナーとしても合併実現は最後の手段であり、実行するとしてもアメリカの受諾が不可欠と考えていた。フランスは合邦には反対していたが、強硬な反対はかえって反発を招くことも危惧していた。{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.164-165}}。結局フランスの意見が通り、条約には合邦禁止が明文化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ザール帰属問題 ===&lt;br /&gt;
フランスは1814年に領有を認められていたが、その後の[[ウィーン会議]]で[[プロイセン王国]]の一部となったザール地方の領有を主張した。フランスは歴史的に根拠があり、住民もフランスへの統合を望んでいると主張し、さらにザール地方の炭鉱は賠償やフランス工業の再建のためにも重要であると主張した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、518-519p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロイド・ジョージは民族自決の概念に反すると併合には反対したが、ザールに自治国を建設して、炭鉱を賠償としてフランスに譲渡する折衷案を提案した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、526-527p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしフランスの強硬姿勢に反発し、「フォンテーヌブロー覚書」発表後にこの意見を撤回した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、542p&amp;lt;/ref&amp;gt;。会議決裂寸前の状況でフランスはザールを15年占領するという妥協案を出すことでアメリカと合意した。イギリス反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラインラント問題 ===&lt;br /&gt;
[[ライン川]]左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、519-520p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、536p&amp;lt;/ref&amp;gt;。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した&amp;lt;ref name=&amp;quot;yoshikawa543544&amp;quot;/&amp;gt;。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、545p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ロシア問題 ==&lt;br /&gt;
{{see also|10月革命|ロシア内戦}}&lt;br /&gt;
会議開催中も、革命後のロシアに対する連合国軍の干渉はなお続いていた。連合国は[[共産主義]]に対する警戒だけではなく、帝政時代の外債不払い宣言を行ったこともあり、[[ボリシェヴィキ]]政府を容認できなかった。クレマンソーやフォッシュ、チャーチルやウィルソン参謀総長といった軍首脳、ランシングはその急先鋒であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.60}}。彼らの一部は軍事力でボリシェヴィキを打倒する方針をも支持した。一方でロイド・ジョージとウィルソンは軍事干渉に反対し、ボリシェヴィキ政府、つまり[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との交渉も考慮に入れていた。12月にはソビエト政権の[[マクシム・リトヴィノフ]]が[[ストックホルム]]に入り、連合国への「平和アピール」を開始した{{Sfn|細谷千博|1959|p.66}}。リトヴィノフはウィルソン宛書簡でロシア内戦に対する干渉の中止を訴え、これに答えてウィルソンとロイド・ジョージはリトヴィノフとの交渉を開始するが、この決定はランシングとその国務省が全く知らないところで行われた{{Sfn|細谷千博|1959|p.70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1月14日から3日間、ウィルソンの使者ウィリアム・バクラー（William.H.Buckler）とリトヴィノフがストックホルムで会談した。リトヴィノフは「旧政府債務と外国権益の承認、連合国内へのボリシェヴィズム宣伝禁止、反対派への恩赦、[[ポーランド]]・[[フィンランド]]・[[ウクライナ]]への野心の否定と民族自決の尊重」の4点で譲歩できるとした{{Sfn|細谷千博|1959|p.72-73}}。またこの他にも連合国の要求に応じる準備があるとし、連合国の要求リストの提示を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.73}}。バクラーはこの提案を持ち帰り、ウィルソンに伝えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反ボリシェヴィキ感情が強いフランスは、講和会議に[[ゲオルギー・リヴォフ]]ら帝国側の人物を招請するべきと主張したが、1月3日、ロイド・ジョージはロシアにあるすべての勢力を招請するべきという閣議決定を行った{{Sfn|細谷千博|1959|p.75-76}}。1月16日、十人会議の席でロイド・ジョージはロシアに成立した各政府に休戦を行わせ、代表をパリに招聘する提案を行った&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、78p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この提案にウィルソンは同意したが、フランス代表やフランス議会は猛反発した。1月21日にウィルソンはバクラーの報告を十人会議の席で読み上げた上で、妥協案として、各政府が休戦した上で、[[マルマラ海]]の{{仮リンク|プリンスィズ諸島|en|Büyükada}}プリンキポ島に各政府代表を招集することを提案した{{Sfn|細谷千博|1959|p.77-79}}。しかしボリシェヴィキ以外のロシア政府は招請を拒否し&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、84p&amp;lt;/ref&amp;gt;、休戦も行われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この会議開催は強硬派を勢いづかせ、2月15日にロイド・ジョージの代理として十人会議に出席したチャーチルは。「ロシア問題に関する連合国委員会」（Allied Council for Russian Affairs）の設立を提案した。この委員会は反ボリシェヴィキ政府と協調した軍事行動の可能性検討を目的とするものであった{{Sfn|細谷千博|1959|p.90}}。フランスとイタリアは賛同したが、アメリカ代表は全権委員が出席する会議での決定を求めた{{Sfn|細谷千博|1959|p.91}}。イギリス本国の閣議では積極的な軍事干渉に反対することが決定されており、チャーチルの行動はロイド・ジョージと閣僚を驚愕させた。2月17日に開催された十人会議でアメリカは委員会参加を明確に拒否し、チャーチル案は結局成立しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.91-92}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月には[[赤軍]]が[[アルハンゲリスク]]付近まで進撃し、同地に駐屯していたアメリカ軍4000人との接触・暴発の危険性が高まっていた。2月18日にランシングは非公式の使節として{{仮リンク|ウィリアム・ブリット|en|William Christian Bullitt, Jr.}}らを[[モスクワ]]に派遣することとした。ブリットらは3月9日に[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]でリトヴィノフ、外務人民委員[[ゲオルギー・チチェーリン]]と会談し、3月11日から3月13日にかけては[[ウラジーミル・レーニン]]と会談した。ブリットはこの席で連合国とソビエト政権の承認条件である「連合国条件」を提示した。&lt;br /&gt;
;連合国条件&lt;br /&gt;
3月25日付の休戦後、4月10日からプリンキポ島で各派の代表会議を開く。この会議では次の条件を前提とする&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府は、現在ロシアに存在するすべての政府を武力で打倒しない&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府の通商関係の復活&lt;br /&gt;
*ソビエト政府のロシアから港湾への通路と港に関する権利の承認&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府両国民の相互往来・通商の自由&lt;br /&gt;
*連合国とソビエト政府双方の政治犯釈放&lt;br /&gt;
*ソビエト政府がこの条件遵守や軍縮が確認され次第、連合国はロシアから撤退する&lt;br /&gt;
*過去の債務等と関連するすべての問題は平和条約締結後、個別に協議する&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レーニン派は和平に乗り気であったが、連合国との休戦に反対する[[レフ・トロツキー]]らはブリットの資格に懐疑的であった{{Sfn|細谷千博|1959|p.99}}。レーニン派は若干の修正を加えた「対案」を出し、連合国が「対案」の線に沿って平和提議を発した場合に、ソビエト政府がこれを受け入れることでブリットと合意した{{Sfn|細谷千博|1959|p.100}}。ブリットはこの合意についてランシングに報告した。ところがブリットは交渉の最初に自らが「連合国条件」を提示し、レーニン側がこれに答える形で「対案」を出したという経緯を報告しなかった{{Sfn|細谷千博|1959|p.107}}。帰国したブリットはイタリアのオルランド首相等に「対案」の承認を求めて運動したが、ウィルソンは現状でのロシア問題解決には乗り気ではなかった。ウィルソンがブリットの交渉を無視した背景には、3月末頃から[[アレクサンドル・コルチャーク]]軍の進撃が快調となり、モスクワ陥落の可能性が出てきたことや、後述する救済委員会案に傾いていたことがあげられる。ウィルソンは国際連盟実現のためにクレマンソーの同意を得る必要があり、ロシア問題でもクレマンソーの同意が見込まれる救済委員会案を採用しようとしていた。またブリット案に賛同していたハウス名誉大佐との関係が冷却化していたことも背景にあった{{Sfn|細谷千博|1959|p.109-110}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以降アメリカにおけるロシア問題の主導権は、[[ハーバート・フーヴァー]]食糧庁長官や{{仮リンク|ヴァンス・マコーミック|en|Vance C. McCormick}}[[アメリカ合衆国商務長官|商務省長官]]といった経済グループに移ることになる。救済委員会案とは、休戦の実現と同時に中立国の人物が指導する救済委員会を通じてロシアに食糧を提供するというものであった。この中立国の人物として候補となったのが高名な探検家であり、外交活動も行っていた[[フリチョフ・ナンセン]]であった。フーヴァーやマコーミックらは、ナンセンが連合国元首に救済委員会設立の書簡を送り、連合国元首がナンセンに構想を承認する返書を送る、という筋書きを立て、その際の返書案も作成した。フランスは当初難色を示したが、アメリカが直接援助を行わないと言うことで承認した{{Sfn|細谷千博|1959|p.115-116}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしソヴィエト政府は、休戦等の政治的意図があるとして、ナンセンの救済委員会入国を拒否した。コルチャーク軍の進撃が伝えられ、救済委員会案に対する世論も悪化しつつあった。またイギリスの新聞もロイド・ジョージをボリシェヴィキ寄りであると攻撃しはじめ、ロシアへの介入を主張するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、3、101p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月26日、ウィルソン、ロイド・ジョージ、クレマンソー、オルランドは連名でコルチャークのもとに通告を送り、はコルチャーク政府をロシア政府として事実上承認し、白軍への援助を通じての干渉継続を決定した{{Sfn|細谷千博|1959|p.119}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ軍団とシベリア出兵 ===&lt;br /&gt;
{{main|チェコ軍団|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
一方で、[[シベリア]]には5万人のチェコスロバキア軍（[[チェコ軍団]]）が残留しており、チェコスロバキア首相[[カレル・クラマーシュ]]はチェコ軍団の干渉戦争への参加を構想していたが、本国の反対により断念した{{Sfn|林忠行1982|p.84-85}}。コルチャーク軍が敗退しつつあった6月22日、チャーチルはチェコスロバキアのベネシュ外相に、チェコ軍団を2分して、アルハンゲリスクと[[ウラジオストック]]から帰国させる計画を告げた。この計画は表面は撤退であったが、チェコ軍団を用いて日本とアメリカのロシア派遣軍を連結させ、シベリアと北ロシアをソビエト政権から切り離し、コルチャーク軍を援助するという壮大な計画であった{{Sfn|林忠行1982|p.86}}。ベネシュは本国の不関与政策にもかかわらずチャーチル提案を了承したが、北ロシア派遣のイギリス軍は冬前に撤退することになり、ベネシュも軍団の早期帰国に方針を切り替えた。さらに西シベリアへの日米の出兵も両国に拒否された{{Sfn|林忠行1982|p.87}}。ロシア問題はこの会議の後も継続して連合国の課題となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 賠償問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|第一次世界大戦の賠償}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 未回収のイタリア問題 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Nesvobodni rajoni Italija.png|thumb|right|イタリアとその要求地域]]&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
{{see also|未回収のイタリア}}&lt;br /&gt;
イタリアは参戦当時の首相[[アントーニオ・サランドラ]] ([[:en:Antonio Salandra]])が 外交目的を「神聖なるエゴイズム」と称するように、[[イタリア統一運動]]で統一されなかったイタリア人居住地、すなわち「[[未回収のイタリア]]」の獲得のみを目標としていた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、548-550p&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリアはこの目的のために英仏露と交渉し、1915年4月26日に[[ロンドン条約 (1915年)|ロンドン秘密条約]]を締結した。これによりイタリアは連合国側に立って参戦する代償として、オーストリア＝ハンガリーから[[トレンティーノ＝アルト・アディジェ州|トレンティーノ＝アルト・アディジェ]]、[[ヴェネツィア・ジュリア]]、北部[[ダルマチア]]と付近の島嶼、ヴァローナ（Valona, 現在の[[ヴロラ]]）を獲得し、さらに[[アルバニア]]を[[保護国]]とすることが決められた。またイタリア人が多く居住していた[[フィウーメ]]に関しては[[クロアチア]]、[[セルビア]]、[[モンテネグロ]]に与えることになった&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1965、550-551p&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしイタリア議会では参戦反対派が圧倒的優勢であり&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525p&amp;lt;/ref&amp;gt;、サランドラは[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]や新聞を扇動して参戦世論を高めさせ、「未回収のイタリアのための民族戦争」と位置づけることでようやく参戦にこぎつけた&amp;lt;ref&amp;gt;岡俊孝、1967、525-529p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イタリアのオルランド首相は4人会議の一人を占める扱いを受けたが、イタリアの要求は全てが通ったわけではなかった。秘密外交を排斥するウィルソンはロンドン秘密条約を認めず、フィウーメのイタリア領有を拒否した。オルランドは抗議のため4月24日に帰国し、5月5日まで会議に出席しなかった。この結果に激怒したダンヌンツィオは9月12日にフィウーメを武力占領し、一時独立国[[カルナーロ＝イタリア執政府]]を建設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 山東問題 ==&lt;br /&gt;
{{main|山東問題|膠州湾租借地}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、251-252p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの[[膠州湾租借地|山東省青島基地]]を攻略（[[青島の戦い]]）した後、中華民国に対して[[対華21カ条要求|21か条の要求]]をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;&amp;gt;中谷直司、2004、260p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また[[本野一郎]]外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらに[[シベリア出兵]]において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続し[[白軍|コルチャーク政権]]に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、253p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地（青島）の全部を支那国（中華民国）に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求し&amp;lt;ref&amp;gt;山東問題ニ関スル条約公文書集 [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B10070117700?IS_STYLE=default&amp;amp;IS_KEY_S1=F2010073015303267699&amp;amp;IS_KIND=MetaFolder&amp;amp;IS_TAG_S1=FolderId&amp;amp;]P.4（アジア歴史資料センター）&amp;lt;/ref&amp;gt;ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの規定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく&amp;lt;ref&amp;gt;白井勝美「日本と中国-大正時代」、近代日本外交史叢書７、原書房1972年、P.45。直接は[[#胆紅|胆紅2007.03、PDF-P.2]]&amp;lt;/ref&amp;gt;日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人（日本人）居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、[[膠済線|膠済鉄道]]運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた（→[[対華21カ条要求]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;nakatani260&amp;quot;/&amp;gt;。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使[[ポール・ラインシュ]]の意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、262-263p&amp;lt;/ref&amp;gt;。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や[[治外法権]]等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使[[顧維鈞]]をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、264-265p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この状況を見た日本の[[内田康哉]]外相は、12月に[[陸徴祥]]外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、266-267p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し（青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする）、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の日華交渉（→[[対華21カ条要求]]）により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、269-271p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島（青島）は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、274-275p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、276p&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、278p&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、279p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、280-281p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、286-287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、287p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、284p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、296-297p&amp;lt;/ref&amp;gt;。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカは[[ヴェルサイユ条約]]に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった&amp;lt;ref&amp;gt;中谷直司、2004、299-300p&amp;lt;/ref&amp;gt;とされる。この結果に中国では激しい反発が起き（[[五・四運動]]）、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のち[[サン＝ジェルマン条約]]に署名したことで国際連盟に参加することになった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、204p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、[[顧維鈞]]など海外公使の意見は悲観的であった&amp;lt;ref&amp;gt;申春野、2005、205-206p&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局山東問題の解決は1922年の[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]まで持ち越されることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== トルコ問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
[[オスマン帝国]]領であった中東については委任統治による解決が行われたが、コーカサス地域問題やギリシャの領土要求、[[ボスポラス海峡]]・[[ダーダネルス海峡]]の[[海峡問題]]など多数の問題には結論が出ず、1920年のロンドン最高会議等で検討が行われ、8月の[[セーヴル条約]]締結まで講和は持ち越された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ギリシャの領土要求 ===&lt;br /&gt;
対トルコ講和で大きな問題となったのが[[ギリシャ王国]]による[[オスマン帝国]]領[[トラキア]]・[[小アジア]]の要求であった。この問題は2月4日に設置されたイギリス・フランス・アメリカ・イタリアの四国委員で構成されるギリシャ委員会で討議が行われた。イギリスとフランスはトラキア要求についてはギリシャの側についたが、アメリカとイタリアは難色を示した。さらに小アジアの割譲については米伊が強く反対した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。このためギリシャ委員会では結論が出ず、3月17日の中央領土委員会で検討が行われた。イギリスとフランスがギリシャを支持する一方でアメリカとイタリアはなおも反発し、日本は直接の利害がないとして意見を留保した{{sfn|渡邉通弘|1993|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== メソポタミア・シリア ===&lt;br /&gt;
大戦初期、イギリス本国政府はオスマン帝国支配下の中東に対して深い関心を持っていなかったが、[[ペルシャ湾]]の要衝である[[バスラ]]の掌握を希望していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=67}}。また{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}において主導的な役割を果たした[[インド帝国]]政府は、[[メソポタミア]]は当然の報酬としてインド帝国に与えられるべきと主張していた{{sfn|渡辺正志|1992|pp=66}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし中東戦線の重要性が増大すると、イギリス政府もオスマン帝国解体へと踏み切った。この動きの中で[[ハーシム家]]の[[ヒジャーズ王国]]などの現地勢力との取引（[[フサイン＝マクマホン協定]]など）を行う一方で、[[サイクス・ピコ協定]]によるロシア・フランスとの勢力範囲劃定も行った。しかし大戦末期にはフランスの勢力範囲となっていた[[モスル]]にイギリスが侵攻し、中東問題はいよいよ混沌化していった{{sfn|渡辺正志|1992|pp=70-71}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十四か条の平和原則」により、オスマン帝国支配下諸民族の安全保障が唱えられ、戦時中の[[中東戦線 (第一次世界大戦)|中東戦線]]（{{仮リンク|シナイ半島・パレスチナ戦線|en|Sinai and Palestine Campaign}}、{{仮リンク|コーカサス戦線|en|Caucasus Campaign}}、{{仮リンク|ペルシャ戦線|en|Persian Campaign}}、{{仮リンク|メソポタミア戦線|en|Mesopotamian campaign}}）で連合国はアルメニアやハーシム家等に独立の保障を行っていた。しかし講和会議ではこれらの地域の大半は委任統治が決まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1919年1月30日にウィルソンは「ヨーロッパ外に存在するドイツおよびトルコ領の取り扱いについて満足のいく暫定協定に達した」と発表し、2月3日にはイギリス政府も委任統治を承認した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=81}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次の問題は委任統治受任国であったが、フランスはイギリスが[[シリア]]も支配するのではないかと懸念していた。当時シリアはフランスの勢力範囲であったが、フサイン＝マクマホン協定によればシリアはイギリスの支持下にある[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の統治範囲であり、フランスはシリア現地民の支持も得られていなかった。フランスはウィルソンが提案したシリアの実態調査をも拒否した{{sfn|渡辺正志|1992|pp=82-83}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ファイサルは委任統治による中東支配に傾いたイギリスに不信感を抱いたが、後ろ盾がイギリスしかない状態の講和会議ではほとんど実績を上げられなかった。9月、イギリスは[[パレスチナ]]を除くシリアから撤退し、シリア問題をファイサルとフランスの直接交渉にゆだねた。1920年4月の{{仮リンク|サンレーモ会議|en|San Remo conference}}によってシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。サンレーモの決定に反対したイラクでは大規模な反乱が起き（{{仮リンク|イラクの反英蜂起|en|Iraqi revolt against the British}}）、イギリスに衝撃を与えた。チャーチルをはじめとする政府の一部はファイサルを通じた間接統治を選択するようになり、1921年の{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)}}、[[イラク王国]]の成立へとつながった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アルメニア ===&lt;br /&gt;
アルメニアを含む[[コーカサス]]地域では、北のロシア臨時政府やソビエト政府、南のトルコ政府の圧迫があり、独立を宣言した[[アルメニア民主共和国]]政府も著しく弱体であった。このためアルメニアについては国際連盟による統治が当初検討され、後に単独の国による委任統治が決まった。トルコの一部では受任国をイギリスにする動きがあったが、当のイギリスやその他の連合国はアメリカによるアルメニア委任統治を提案した。ウィルソンはこの方針の下、アルメニアに調査団を派遣したが、孤立主義の高まるアメリカ本国では、アルメニア介入に積極的な動きは起きなかった{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=33-34}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルメニアの領域については代表団が人口の点から要求した[[キリキア]]四州の所属をめぐって英仏とアルメニアは対立した。未だ独立がおぼつかないアルメニア代表団も統制がとれず、[[セーヴル条約]]では新生アルメニアの領土は大アルメニア（[[アルメニア王国]]の領域）に限定された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=31-32}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
委任統治が決まらぬまま、1920年1月にイギリスがアルメニア・[[アゼルバイジャン民主共和国]]・[[グルジア民主共和国]]のコーカサス三国を承認した。4月、国際連盟はアメリカに委任統治の受諾を求めたが、上院派これを否決した{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=34}}。8月10日にセーヴル条約が締結され、トルコとアルメニアの国境はウィルソンが仲裁するということになったが、この条約はほとんど実効を持たなかった。アルメニアに駐屯していた連合軍は[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]の新生トルコ軍によって撃退され、さらにソビエト軍の圧迫によってアルメニアはソビエト連邦に併合された{{sfn|高篠平太郎|1991|pp=35-36}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の問題 ==&lt;br /&gt;
{{節スタブ}}&lt;br /&gt;
=== ハンガリー問題 ===&lt;br /&gt;
{{see also|ハンガリー評議会共和国|ハンガリー・ルーマニア戦争|トリアノン条約}}&lt;br /&gt;
1918年10月にハンガリーでは反オーストリア暴動が起こり、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]もハンガリーに対する支配権を放棄した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、3p&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ハンガリーには[[カーロイ・ミハーイ]]を首相とする共和政府が樹立されたが、旧ロシア帝国軍の捕虜となり、収容所で訓練を受けた共産主義者達が帰国したため、急速に左傾化を強めていた。カーロイ首相は親連合国感情の持ち主であったが、連合国は3月20日にルーマニアに[[トランシルヴァニア]]全土の占領を認める旨を通告した。この通告をうけたカーロイは辞職して新たな政権作りを模索したが、政権内の一部が共産党と連合し、3月21日に共産主義政権、[[ハンガリー評議会共和国]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;矢田俊隆、1977、4p&amp;lt;/ref&amp;gt;。革命の動きがハンガリーからオーストリア、南ドイツに波及することを恐れた連合国首脳は、[[ヤン・スマッツ]][[南アフリカ]]国防相をブダペスト・ウィーン・プラハに派遣して革命政権を牽制した。4月からは評議会政権とルーマニア・チェコスロバキアは戦争状態に陥り、8月に評議会政権は崩壊した。このためハンガリーとの講和は1920年まで遅れることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェシン問題 ===&lt;br /&gt;
チェコスロバキア・ポーランド間にあった{{仮リンク|チェシン・シレジア|en|Cieszyn Silesia}}（現在の[[チェシン]]と[[チェスキー・チェシーン]]、ドイツ名テッシェン）は、両国から領有権主張があり（{{仮リンク|ポーランドとチェコスロバキアの国境紛争|en|Polish–Czechoslovak border conflicts}}）、1919年1月には両国間で戦闘が発生している（{{仮リンク|ポーランド・チェコスロバキア戦争|en|Polish–Czechoslovak War}}）。両国は十人委員会に裁定を求めたが、両国間で決着するべきと回答された。7月の両国間協議でポーランドは住民投票を提案したが、チェコスロバキア側は拒否した。9月11日、十人委員会は住民投票を命令したが、現地は暴動状態となり投票は中止された{{Sfn|林忠行|1982|p.81}}。1920年7月の{{仮リンク|スパ会議|en|Spa Conference}}後の7月28日に行われた合意により、チェシン中央部を流れる川を境界にチェシンを分割することで妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 領土要求 ===&lt;br /&gt;
;チェコ回廊&lt;br /&gt;
チェコスロヴァキアは海への出口として、[[ブラティスラヴァ]]からオーストリアの[[ブルゲンラント州]]とハンガリー領{{仮リンク|トランスダニューブ|en|Transdanubia}}、を経て、[[クロアチア]]の[[ザグレブ]]に至る[[回廊地帯]]を要求した（{{仮リンク|チェコ回廊|en|Czech Corridor}}）。しかしセルブ・クロアート・スロヴェーン（ユーゴスラビア）の拒否によって提案は却下された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ズデーテン地方&lt;br /&gt;
{{see also|ズデーテン地方}}&lt;br /&gt;
ドイツ＝オーストリア共和国は、[[ボヘミア]]と[[モラビア]]の一部でかねてから独立運動も発生していたドイツ人が多数居住する地域、いわゆる[[ズデーテン地方]]の帰属を求めていた。一方でボヘミアとモラビアを歴史的領土と主張するチェコスロヴァキアは、ズデーテンのドイツ人は政治的に一体ではなく、民族自決の主体とはならないとした。結果チェコスロバキアの要求が通ったが、チェコスロバキアは少数民族保護条約によってドイツ人保護を約束させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 独立要求 ===&lt;br /&gt;
ウィルソンの「民族自決」論は、当時他国の統治下にあった諸民族や分離主義者に独立への希望を抱かせた。ベトナムの[[安南愛国者協会]]（[[ホー・チ・ミン]]）、[[朝鮮]]の[[新韓青年党]]（[[金奎植]]）、ラインラント共和国、[[アイルランド共和国暫定政府]]（[[ショーン・オケリー]]、[[マイケル・コリンズ (政治家)|マイケル・コリンズ]]）、[[ウクライナ人民共和国]]などは独自に代表を送ったが、多くの場合独立は達成されなかった。[[コーカサス]]のアルメニアや[[アゼルバイジャン民主共和国]]は独立国としてロシア・トルコ問題の協議に参加したが、この地方に対する連合国の確固とした支援はついに実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 墓地 ===&lt;br /&gt;
第一次世界大戦では合計100万人にもおよぶ戦死者が出た。普仏戦争の講和条約であるフランクフルト条約では、戦争中に作られた戦死者の墳墓を埋葬地の国が管理・維持する規定があり、パリ講和会議の一連の講和条約でも蹈襲された{{Sfn|原田敬一|2007|p.46-47}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要国家の姿勢と対応 ==&lt;br /&gt;
===イギリス ===&lt;br /&gt;
ロイド・ジョージは1918年12月20日に選挙の最終綱領として、カイザー（[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]）の裁判、残虐行為責任者の処罰、ドイツからの最も完全な償金、戦争で破壊されたものの再建を訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、341p&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、裏面では海上におけるイギリスの優位確保のため、ドイツ艦隊の解体とドイツ植民地獲得を希望していた。さらに伝統的な勢力均衡政策に基づき、ドイツ・オーストリア＝ハンガリー、ロシアの三帝国崩壊により均衡を失った欧州でフランスの覇権が確立するのを防ぐため、過度なドイツ制裁には反対していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、343-345p&amp;lt;/ref&amp;gt;。ケインズが「ヨーロッパの声なき身震いはイギリスには達しない」と評したように、イギリスは海を隔てているため対独警戒心が弱く、フランスの対独強硬姿勢を十分に理解していなかった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、532p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
クレマンソー首相の唯一の関心はフランスの安全保障であり、「武力は失敗である」とするウィルソンの理想主義とは全く相容れないものであった&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、1、351p&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にフランスはドイツと地続きであり、イギリスやアメリカとは対独警戒心に大きな開きがあった。フランスは安全保障の目的のため次の数点を強く要求していた&amp;lt;ref&amp;gt;吉川宏、2、517-518p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* フランスによる[[ラインラント]]の軍事管理&lt;br /&gt;
* この管理を維持するための大国間の永久同盟&lt;br /&gt;
* ドイツを牽制する東部における小国同盟&lt;br /&gt;
* ドイツの領土縮小&lt;br /&gt;
* ドイツ政治組織の弱体化&lt;br /&gt;
* ドイツのみの軍縮&lt;br /&gt;
* 履行不能な賠償金&lt;br /&gt;
* ドイツ経済資源の収奪&lt;br /&gt;
* フランスに有利でドイツに不利な経済協定の締結&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kinmochi Saionji 1919.jpg|thumb|right|200px|牧野伸顕と西園寺公望。1919年、パリ。]]&lt;br /&gt;
当初ウィルソンは四大国によって会議を主導する案を考えており、日本を主要国の列に加えることになったのはスマッツの覚え書きによるものであった{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。スマッツは1918年12月16日付のパンフレット『国際連盟 --実践的な提言』国際連盟を主導するべき大国はイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・日本、そして将来的にはドイツを加えるべきとしており{{sfn|篠原初枝|2010|pp=34-36}}、これはイギリスの同盟国である点や、地理的なバランスの点が考慮されたものであり、ランシングのように疑問を持つ者もいた{{sfn|篠原初枝|2010|pp=63-64}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本政府は参戦間もない1914年10月から講和に対する準備を開始した。この外務省講和委員会ではドイツからの権益獲得、賠償金など日本に実利のあることについては検討が加えられたが、利害のないことに口を出せば、列強による極東への介入を招く危険があるため、「容喙せざること」が基本方針であり、手続き論については大勢に順応するという方針であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、28p&amp;lt;/ref&amp;gt;。この方針は政府にそのまま採用され、その後の連合国会議でも蹈襲されたが、1918年のウィルソンの十四か条発表と国際連盟を講和の不可欠の基礎とした休戦発表は、日本政府と外務省の検討・研究不足をあらわにした。特に国際連盟については「皆目分からず、多いに手を焼いた」状況であった&amp;lt;ref&amp;gt;船尾章子、1995、29p&amp;lt;/ref&amp;gt;。このため[[原敬]]首相は11月13日に[[臨時外交調査会]]を設置し、国際連盟などについて研究と討議を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国際連盟案については[[枢密顧問官]]である[[伊東巳代治]]と[[平田東助]]は懐疑的であり、牧野伸顕前外相のみ積極的であった。原首相は牧野案に理解を示したが、特に強い関心を示したわけではなかった。対中強硬策をとってきた[[大隈重信]]・[[寺内正毅]]内閣と異なり、原首相は対米融和を志向しており、牧野や外務省も同様であった。また当時の日本では陸軍出先機関が独走し、[[袁世凱]]打倒工作や実業家[[西原亀三]]を利用した工作を外務省の頭越しに行うという二重外交問題が発生しており、ウィルソンの「新外交」は外交一元化を唱える外務省にも有利であった。12月22日に外交調査会は[[山東省|山東]]および[[南洋諸島]]のドイツ権益獲得を核心問題とし、その他の問題には「大勢の帰向を省察し、なるべく連合与国（大国）と歩調を一にする」という最終的な講和方針を確定した。外務次官[[幣原喜重郎]]が懸念したように、日本は多国間の会議外交には慣れていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本の全権は政権[[与党]]である[[立憲政友会]]前総裁で元[[首相]]、[[元老]]でもある[[西園寺公望]][[侯爵]]（個人的にもクレマンソーとは留学時代の親友であった）及び牧野伸顕元外相らが任命され64人の代表団を送った。代表団には随員として、[[近衛文麿]]・[[吉田茂]]・[[芦田均]]・[[松岡洋右]]・[[重光葵]]など後の日本政界で活躍する人物が参加している。しかし西園寺は健康上の理由から出発を遅らせ、パリに着いたときにはすでに3月2日になっていた。このため実質的な日本代表を務めたのは、[[牧野伸顕]]前外相と[[珍田捨巳]]駐英大使であった。しかし現役首脳を派遣できなかったために会議で直接賛否を著わすことが出来ず、採決では留保した後に本国に問い合わせる有様であった。また体制順応を基本方針としていた日本代表は、直接利害が関係しない案件では発言数が少なく、国際協調に消極的な「サイレント・パートナー」と揶揄され、他国の新聞では「張り子の虎」や単に「薄気味悪い」と報道された。外交調査会は2月3日に日本と関係のない問題にも発言するよう指示を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 影響 ==&lt;br /&gt;
{{see also|第一次世界大戦の影響|ヴェルサイユ条約#影響}}&lt;br /&gt;
この会議で制定された一連の講和条約が結ばれ第一次世界大戦は終戦することになる。これ以降[[ヨーロッパ]]においては「ヴェルサイユ体制」と呼ばれる秩序が、[[ロカルノ条約]]で修正されながらも、[[世界恐慌]]期後の[[ファシズム]]勢力台頭まで続くことになる。また講和会議の結果成立した国際連盟や[[国際労働機関]]の設立、[[国際河川]]制度の確立などの国際協力の動きは現代にも大きな影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また会議で提起された軍縮問題は、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]等で協議され、[[極東]]と[[太平洋]]には「ワシントン体制」と呼ばれる体制が成立した。しかし連合国間の均衡ある軍縮は達成できず、ドイツの武装解除によって大きな力の空白地が生まれたため、秩序維持のための連合国負担が増加することにもなった。また軍縮問題の協議は、やがて日本とその他の国の軋轢を生むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにこの講和会議の原則として提唱されながら、しばしばないがしろにされた「民族自決」・「民主主義」の概念は、世界において脱植民地化や民主化の動きを促進することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===アメリカ===&lt;br /&gt;
講和会議の中でウィルソンとランシング、{{仮リンク|エドワード・ハウス|en|Edward M. House}}といった閣僚・側近との溝は広がり、条約批准という山場を迎える中ウィルソンは孤立を深めていくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
講和会議で成立した三条約に内包されている国際連盟規約10条には、加盟国が侵略を受けた際、アメリカを含む国際連盟理事会が問題解決に義務を負うと言う規定が存在し、[[アメリカ合衆国上院]]の外交問題委員会はこの条項に留保条件を付けることを主張した。しかしウィルソンは妥協に応じず、上院での批准は成立しなかった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.251-252}}。さらにウィルソンが脳梗塞で病身となったこともあり、[[1920年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[ウォレン・ハーディング]]が[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ジェイムズ・コックス]]を大差で破った。ハーディングは国際連盟不加盟を決め、独自の講和条約（1921年8月11日の米独平和条約、8月24日に米墺平和条約、8月29日に米洪平和条約）を結んだアメリカは再び[[モンロー主義]]に回帰していくことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陸軍・海軍・国務省では、山東問題や南洋諸島を獲得した日本への警戒が増加し、1920～1921年の建鑑競争を招くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イギリス ===&lt;br /&gt;
戦争に勝利したものの、膨大な戦費によってイギリス経済は深刻な不況を迎えることになる。また膨大な人員を提供した[[イギリス帝国]]内の自治領の発言力が増大し、帝国は緩やかな連合である[[イギリス連邦]]へと変化していくこととなった（バルフォア報告から[[ウェストミンスター憲章]]）。イギリスは19世紀末から20世紀にかけ帝国の大衆化が進展し、1911年には議会の庶民院を貴族院に優越させる重要な取決めが合意されたばかりであった（[[議会法]]）。その直後に発生した第一次大戦による膨大な人的損失は貴族院の世襲議員の権威をさらに弱めた。ロンドンの大衆はウィルソンの理想主義に熱狂したが彼の掲げた民族自決や内政不干渉原則、秘密条約の廃止といった「新外交」の理念はイギリスの帝国維持に重大な脅威をもたらした。とくに民族自決という観点は、[[アイルランド独立戦争|アイルランド自治問題]]や[[アフガン戦争|アフガニスタン問題]]に直ちにつながり、インドの独立運動派に大きな影響をもたらすこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス===&lt;br /&gt;
講和条約の結果、フランスはドイツの賠償支払いの大半を手に入れることとなったが、ドイツの支払いはスムーズに行われず、また賠償として流入するドイツの産品がかえってフランス国内の産業を圧迫することに繋がった。フランスは賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日に[[ルール占領|ルール地方を占領した]]。この国家実行はドイツ国民の受動的ボイコット運動と[[インフレーション|ハイパーインフレ]]をまねきドイツ経済を破綻の淵に追いやったばかりでなく、ドイツの民族主義者を刺激しのちの大戦の重要な契機となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。フランの下落はフランスの輸出産業を刺激し大戦後の好景気をもたらした。一方で大戦の教訓からフランス政府は金塊の備蓄政策を採用したため、このフランスの金塊の吸収がドイツ諸邦およびロンドンへの圧力となり1929年から始まる世界恐慌を悪化させる要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パリ講和会議で一応成立したフランスの安全保障構想は、アメリカの連盟不参加により、早くも見直しを迫られることとなった。フランスはポーランドやルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア間の連合[[小協商]]に接近し、東からドイツを牽制した。また[[不戦条約]]を国際社会に提案し集団安全保障体制を強化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドイツ ===&lt;br /&gt;
{{main|ヴェルサイユ条約#ドイツへの影響}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イタリア ===&lt;br /&gt;
フィウーメを得られなかったイタリアでは、講和に対する反感が次第に強まり、 大戦の戦勝も「{{仮リンク|骨抜きにされた勝利|it|Vittoria mutilata}}（{{lang-it|Vittoria Mutilata}}、不具の勝利）」であると認識された。1919年9月12日、愛国派詩人[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ]]らのグループがフィウーメを占拠し、イタリアへの併合を訴えた。国際関係悪化を恐れたイタリア政府は投降を求めたが、ダンヌンツィオらはフィウーメの独立を宣言した。その後イタリア政府の攻撃により、{{仮リンク|自由都市フィウーメ|en|Free State of Fiume}}を経てイタリアに併合された。この動きは[[ベニート・ムッソリーニ]]らの[[ファシズム]]運動にも影響を与え、イタリアとユーゴスラビア間での領土問題はこの地域の不安定要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、100年ぶりの独立を回復したポーランドだったが、住民投票で帰属を決定する地域ではドイツとの間で熾烈なプロパガンダ合戦や、武力抗争が頻発した（[[シレジア蜂起]]）。住民投票の結果、ポーランドは[[シレジア]]の工業地帯を手に入れ、ドイツにおける領土回復運動の目標となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧オーストリア＝ハンガリー帝国 ===&lt;br /&gt;
膨大な領土を失ったオーストリアは、深刻な経済不況に見舞われた。このため国際連盟による援助がいち早く行われ、賠償も免除されている。講和会議終了後の8月になってハンガリー・ルーマニア戦争は終結し、トランシルヴァニアの帰属はルーマニアに確定した。1920年3月に成立した[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]では失地回復を願う声が高まり、政権の右傾化が強まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独立を果たしたチェコスロバキアであったが、ドイツ・オーストリアとの[[ズデーテン地方]]問題、ポーランドとのチェシン問題は後々まで紛争の原因となり、[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]]の遠因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バルカン半島 ===&lt;br /&gt;
[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]主導の[[ユーゴスラビア王国]]樹立は列強によって事実上承認され、[[汎スラヴ主義]]者の念願が達成された。しかし[[クロアチア]]、[[モンテネグロ]]、[[マケドニア]]等ではセルビア人と王家[[カラジョルジェヴィチ家]]への反感が高まり、反政府蜂起や暗殺事件が頻発した。この地域の民族問題は第二次世界大戦とその後の不安定要因となり、[[ユーゴスラビア紛争]]が終結する21世紀まで尾を引くこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 旧ロシア帝国 ===&lt;br /&gt;
{{see also|干渉戦争|シベリア出兵}}&lt;br /&gt;
内戦が続くロシアに対する列強の足並みはそろわず、[[シベリア出兵]]が行われたものの、ボリシェヴィキ政権の[[ソビエト連邦]]成立を防ぐことは出来なかった。また旧[[ロシア帝国]]からの[[アルメニア民主共和国]]、[[フィンランド]]、[[バルト三国]]の独立は承認されたものの、連合国がこれらに積極的な支援をすることはなく、アルメニアやバルト三国はソビエト連邦の圧迫を受け、独立を失うこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== トルコ・中東 ===&lt;br /&gt;
{{see also|トルコ革命}}&lt;br /&gt;
敗戦によって[[統一と進歩委員会]]政権は瓦解し、[[スルタン]][[メフメト6世]]は連合国軍を利用して皇帝専制の復活を目論んだ。しかし[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らは1920年4月23日、[[アンカラ]]に[[トルコ大国民議会|大国民議会]]を設置し、帝国政府に対抗した。帝国政府は8月10日にパリ講和会議の結果をふまえた[[セーヴル条約]]を締結したが、この過酷な内容は講和条約を受諾した皇帝に対するトルコ国内の反発を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1921年1月6日、[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]率いる[[ギリシャ軍]]は、さらなる領土を狙って進軍を開始した（[[希土戦争 (1919年-1922年)]]）。ムスタファ・ケマルらの大国民議会軍はギリシャ軍を圧倒し、1922年11月1日にはスルタン制が廃止され、[[トルコ共和国]]が成立した。連合国は新たな講和条約締結する必要に迫られ、1923年7月24日に[[ローザンヌ条約]]を締結した。トルコはセーヴル条約で失った領土の内東[[トラキア]]を回復し、ギリシャとの住民交換を行われ、民族問題が緩和された（{{仮リンク|ギリシャとトルコ間での住民交換|en|Population exchange between Greece and Turkey}}）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またオスマン帝国の支配地であったシリア・レバノン・メソポタミアは[[サイクス・ピコ協定]]通り英仏に分割され、その治下で民族主義者が新たな政権樹立をめぐって争うこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本 ===&lt;br /&gt;
パリ講和会議の結果、日本は正式な[[列強]]の一つと数えられるようになった。しかし山東問題での対応は、アメリカの警戒を招くことになった。[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]ではアメリカの主張で日英同盟は廃止された。国際外交の理念や手段が激変する1920年代から30年代にかけて、国内与論や大衆、軍隊や官僚組織への指導力に欠けた日本の内閣及び議会政治は国際連盟での協調に失敗し孤立化の道を歩むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中華民国 ===&lt;br /&gt;
中華民国は山東問題の扱いを不服としてヴェルサイユ条約を調印せず、1922年5月15日に{{仮リンク|中独平和回復協定|en|Agreement Regarding the Restoration of the State of Peace between Germany and China (1921)}}を締結してドイツと講和した。またヴェルサイユ条約を不服とする民衆が大規模な抗議運動（[[五四運動]]）を起こし、[[日貨排斥]]を訴える動きが広がった。対日感情は山東還付の後も改善されず、日本問題が中国における[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]の主要な目標とみなされるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* NHK取材班 編『&amp;lt;small&amp;gt;日本の選択1&amp;lt;/small&amp;gt; 理念なき外交 「パリ講和会議」』（[[角川文庫]]、1995年） ISBN 4-04-195403-7&lt;br /&gt;
* マーガレット・マクミラン 著＼稲村美貴子 訳『ピースメイカーズ &amp;lt;small&amp;gt;1919年パリ講和会議の群像&amp;lt;/small&amp;gt;』上、下（芙蓉書房出版、2007年）&lt;br /&gt;
: 上 ISBN 978-4-8295-0403-1、下 ISBN 978-4-8295-0404-8&lt;br /&gt;
* [[下斗米伸夫]]・[[五百旗頭真]] 編『二十世紀世界の誕生 &amp;lt;small&amp;gt;両大戦間の巨人たち&amp;lt;/small&amp;gt;』（情報文化研究所、2000年） ISBN 4-7952-8238-2&lt;br /&gt;
* [[イアン・ニッシュ]] 著＼[[関静雄]] 訳『戦間期の日本外交 &amp;lt;small&amp;gt;パリ講和会議から[[大東亜会議]]まで&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[ミネルヴァ書房]]日本史ライブラリー、2004年） ISBN 4-623-04074-7&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[第一次世界大戦]]の[[講和条約]]&lt;br /&gt;
** [[ブレスト＝リトフスク条約]] - [[中央同盟国]]対[[ロシア帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヴェルサイユ条約]] - 対[[ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ヌイイ条約]] - [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]]&lt;br /&gt;
** [[サン＝ジェルマン条約]] - 対[[オーストリア第一共和国]]（[[オーストリア・ハンガリー帝国]]）&lt;br /&gt;
** [[トリアノン条約]] - 対[[ハンガリー王国]]（オーストリア・ハンガリー帝国）&lt;br /&gt;
** [[セーヴル条約]] - 対[[オスマン帝国]]&lt;br /&gt;
** [[ローザンヌ条約]] - 対[[トルコ|トルコ共和国]]&lt;br /&gt;
* [[国際連盟]]&lt;br /&gt;
* [[国際労働機関]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーロッパにおける民族自決 (1920年)]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/mr/lib/lib/j/collection/gid-j.html パリ講和会議資料データベース] - [[立命館大学図書館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{第一次世界大戦}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はりこうわかいき}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦直後のフランス]]&lt;br /&gt;
[[Category:パリの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:国際会議]]&lt;br /&gt;
[[Category:1919年のフランス]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

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		<title>ベルサイユ会議</title>
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				<updated>2014-07-21T14:26:05Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: パリ講和会議へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
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		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

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		<title>松葉裕子のソックパペットの一覧</title>
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				<updated>2014-06-20T10:18:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''松葉裕子のソックパペットの一覧'''（まつばゆうこのそっくぱぺっとのいちらん）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== か行 ==&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== さ行 ==&lt;br /&gt;
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* {{User2|スハイ撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
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* {{User2|スパイ撲滅委員会駆除隊}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E9%A7%86%E9%99%A4%E9%9A%8A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会絶滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E7%B5%B6%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会追放委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E8%BF%BD%E6%94%BE%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
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* {{User2|スパイ撲滅委員会は山形県西置賜郡小国町在住のDQNです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AF%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%9C%8C%E8%A5%BF%E7%BD%AE%E8%B3%9C%E9%83%A1%E5%B0%8F%E5%9B%BD%E7%94%BA%E5%9C%A8%E4%BD%8F%E3%81%AEDQN%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会滅亡委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%BB%85%E4%BA%A1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会を追い出す会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%99%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会を潰す会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E6%BD%B0%E3%81%99%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅協会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%8D%94%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|09092756110}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|泊優稀菜}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E8%8F%9C 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|千ック隊長}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%8D%83%E3%83%83%E3%82%AF%E9%9A%8A%E9%95%B7 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|長良族}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%95%B7%E8%89%AF%E6%97%8F 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ニートキカスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|日本共産党撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* {{User2|日本国総理大臣}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|野田バター憲太郎は福井利器とホモセックスをしている}}&lt;br /&gt;
* {{User2|野田マスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%87%8E%E7%94%B0%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|白憂希撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E7%99%BD%E6%86%82%E5%B8%8C%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の族人}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%8F%E4%BA%BA 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の旅人撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%85%E4%BA%BA%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の旅入}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%85%E5%85%A5 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|負け犬・野田犬太郎}}&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子にチンポをフェラチオされて喜ぶ野田憲太郎}}&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子レボリューション}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%83%AC%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|マルヤ死ね}}&lt;br /&gt;
* {{User2|みんなで使おう公開アカウント}} - その後、{{User2|Mikomaid}}のソックパペットになる。現在は[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%A7%E4%BD%BF%E3%81%8A%E3%81%86%E5%85%AC%E9%96%8B%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|みんなのお父さん}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%88%B6%E3%81%95%E3%82%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|めんだめすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%81%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|ユアペディア撲滅委}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%A6%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ユアペディア撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%A6%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達者撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E8%80%85%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達人}}&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達也}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E4%B9%9F 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達磨}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E7%A3%A8 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|ワイマール}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== IPアドレス ==&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|49.98.153.4}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|59.159.36.18}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.18}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.18 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.229}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.229 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.149.133}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.149.133 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|116.80.59.221}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A116.80.59.221 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|122.217.227.106}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A122.217.227.106 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|218.228.176.73}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A218.228.176.73 無期限ブロック済] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[松葉裕子 (荒らし)|松葉裕子]]&lt;br /&gt;
* [[おかやまりゅうせいのソックパペットの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[泊優稀のソックパペットの一覧]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{松葉裕子の関連項目}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:松葉裕子|そつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|まつはゆうこのそつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:ソックパペット|まつはゆうこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし|まつはゆうこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90_(%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97)&amp;diff=232540</id>
		<title>松葉裕子 (荒らし)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90_(%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97)&amp;diff=232540"/>
				<updated>2014-06-20T10:08:44Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''松葉裕子'''（まつばゆうこ、[[1963年]][[1月20日]] - ）は、[[ユアペディア]]の長期間にわたる[[荒らし]]ユーザー。本名は松葉裕（ソン・ヨプニュ、朝鮮語：송잎유）。[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]在住の50歳代の[[フリーター]]。埼玉県立川越養護学校（現・[[埼玉県立川越特別支援学校]]）卒業。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==人物==&lt;br /&gt;
*ユアペディア史上最悪のユーザーである。&lt;br /&gt;
*[[ネカマ]]のおじさんである。&lt;br /&gt;
**[[野田憲太郎]]の[[ユア妻]]である。&lt;br /&gt;
*自称「[[オウム真理教]]信者」である。&lt;br /&gt;
*人間の価値は、[[DQN]]以下である。&lt;br /&gt;
*ユアペディアで最も[[ソックパペット]]の数が多く、最も迷惑なユーザー。&lt;br /&gt;
*人などを愚弄するばかりで、産み出す物は不快感のみ。松葉と比べれば迷惑ユーザーである[[泊優稀]]、[[スパイ撲滅委員会]]、[[夢見る達者]]、[[萩原遼]]なども可愛く見えるほどである。&lt;br /&gt;
*大好きな[[AV女優]]と[[キノコ]]の画像ばかりアップロードしている。&lt;br /&gt;
**白紙化されたテンプレートに、それらの画像を貼り付けている。&lt;br /&gt;
*[[Fromm]]を嫌っていて、[[サーバー]]が落ちるたびに、Frommのせいにしている。&lt;br /&gt;
**ただし、Frommが活動している最中は、多少サーバーが重くなる。&lt;br /&gt;
**Frommの前の[[ターゲット]]は、[[エクレロ孫法師]]だった。&lt;br /&gt;
*人の真似をすることしかできない。&lt;br /&gt;
*自分の犯した罪を棚に上げ、他人に罪をなすりつける卑怯者である。&lt;br /&gt;
*[[あんだあすろう]]と[[泊優稀]]、[[揖保川の水兵さん]]と[[中江美則]]の区別が付かないほどの[[基地外]]である。&lt;br /&gt;
*時代遅れの知恵遅れである。&lt;br /&gt;
*[[脳]]の容量がたったの1pB（ピコバイト）であり、とっくに腐り果てている。&lt;br /&gt;
*アカウント名の傾向は、既存のアカウントの真似か「○○撲滅委員会」がほとんどである。&lt;br /&gt;
**松葉のソックパペットではない「○○撲滅委員会」も存在する。&lt;br /&gt;
*[[マンボー (インターネットカフェ)|マンボー]]大宮店の夜勤店員である。&lt;br /&gt;
*移動機能を悪用した荒らしを行っている。&lt;br /&gt;
*自作自演を覚えて、「反松葉キャラ」を演じている。&lt;br /&gt;
*既存利用者名と一見同じに見えるアカウントを作ることを最近覚えて夢中になっている。&lt;br /&gt;
*「編集合戦がうざいので」というコメントで荒らしており、1番うざいのが松葉自身であることに全く気付かない。&lt;br /&gt;
*実年齢は50歳だが、精神年齢は0歳の赤ん坊レベルである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*{{User2|松葉裕子}}&lt;br /&gt;
*[[松葉裕子]]&lt;br /&gt;
*[[松葉裕子のソックパペットの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{松葉裕子の関連項目}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{オウム真理教}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{反エクレロ勢力}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まつはゆうこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:松葉裕子|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:野田憲太郎|妻]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本のAV女優|趣味]]&lt;br /&gt;
[[Category:クソジジイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ソックパペッター]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユアペディアの利用者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユアペディアン]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユアペディア]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユアペディアで無期限投稿ブロック処分となったユーザー]]&lt;br /&gt;
[[Category:長期荒らしメンバー]]&lt;br /&gt;
[[Category:無期限ブロックを受けたユーザー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネット弁慶]]&lt;br /&gt;
[[Category:引きこもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:ジャンキー]]&lt;br /&gt;
[[Category:決め付け厨]]&lt;br /&gt;
[[Category:ストーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:パラサイト]]&lt;br /&gt;
[[Category:マゾヒスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:幸福の科学]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネットビースト]]&lt;br /&gt;
[[Category:2ちゃんねらー]]&lt;br /&gt;
[[Category:マルチポスター]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネットストーカー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヘイトクライマー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ＪＣＮ関東のユーザー]]&lt;br /&gt;
[[Category:DQN]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪の組織デビルシャドウ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ネット中毒者]]&lt;br /&gt;
[[Category:社会不適応者]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日コリアン]]&lt;br /&gt;
[[Category:オウム真理教]]&lt;br /&gt;
[[Category:権力志向者]]&lt;br /&gt;
[[Category:対話不能者]]&lt;br /&gt;
[[Category:犯罪予備軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:自宅警備員]]&lt;br /&gt;
[[Category:死刑囚候補]]&lt;br /&gt;
[[Category:引きこもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:チンカス]]&lt;br /&gt;
[[Category:役立たず]]&lt;br /&gt;
[[Category:同性愛者]]&lt;br /&gt;
[[Category:嫌われ者]]&lt;br /&gt;
[[Category:少年愛者]]&lt;br /&gt;
[[Category:創価学会]]&lt;br /&gt;
[[Category:日蓮正宗]]&lt;br /&gt;
[[Category:利用者]]&lt;br /&gt;
[[Category:売国奴]]&lt;br /&gt;
[[Category:犯罪者]]&lt;br /&gt;
[[Category:顕正会]]&lt;br /&gt;
[[Category:前科者]]&lt;br /&gt;
[[Category:中二病]]&lt;br /&gt;
[[Category:転落者]]&lt;br /&gt;
[[Category:卑怯者]]&lt;br /&gt;
[[Category:偽善者]]&lt;br /&gt;
[[Category:二枚舌]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヒール]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニート]]&lt;br /&gt;
[[Category:人殺し]]&lt;br /&gt;
[[Category:ガキ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ホモ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ひも]]&lt;br /&gt;
[[Category:無職]]&lt;br /&gt;
[[Category:狂人]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪魔]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:鬼畜]]&lt;br /&gt;
[[Category:粘着]]&lt;br /&gt;
[[Category:公害]]&lt;br /&gt;
[[Category:死ね]]&lt;br /&gt;
[[Category:誣告マニア]]&lt;br /&gt;
[[Category:歪曲マニア]]&lt;br /&gt;
[[Category:粘着マニア]]&lt;br /&gt;
[[Category:烙印マニア]]&lt;br /&gt;
[[Category:根比べマニア]]&lt;br /&gt;
[[Category:肥大化マニア]]&lt;br /&gt;
[[Category:誹謗中傷マニア]]&lt;br /&gt;
[[Category:個人攻撃マニア]]&lt;br /&gt;
[[Category:編集合戦マニア]]&lt;br /&gt;
[[Category:躁病の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ADHDの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:LGBTの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:傲慢な人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:我儘な人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:無責任な人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:懲りない人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:偏執狂の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:依存症の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:非協調的な人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:被害妄想の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:学習障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:人格障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:発達障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:被害妄想の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:引籠もりの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:虚言癖を持つ人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:統合失調症の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:社会復帰途上の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:人の反感を買う人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:人から恨まれる人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:反省ができない人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:信頼の置けない人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:自己主張の強い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:インターネットの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:解離性統一障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:自己顕示欲の強い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:インターネット依存症の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:戸塚宏に扱いてもらうべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神障害者福祉手帳を持つ人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:島田紳助に本当に潰されるべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:辻井伸行の爪の垢を飲ませたい人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:星椎水精に浄霊をしてもらうべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:長谷川穂積に一遍どつき回された方がいい人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:木村束麻呂･山田晃也･小網健智に自殺の練習をさせられるべき人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=232539</id>
		<title>松葉裕子のソックパペットの一覧</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=232539"/>
				<updated>2014-06-20T10:05:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''松葉裕子のソックパペットの一覧'''（まつばゆうこのそっくぱぺっとのいちらん）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メインアカウント ==&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキカス}} - 準メインアカウント、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 数字とアルファベットのアカウント ==&lt;br /&gt;
* {{User2|1q1q1q}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Azaz}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAzaz 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Allen wells}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAllen+wells 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Asdf}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAsdf 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Froｏm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Frｏmm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Fronm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|H}}&lt;br /&gt;
* {{User2|H2}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Kenokabeが考える岡部健 (荒らし)}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AKenokabe%E3%81%8C%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%81%A5+%28%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%29 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Lolo}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Qwqw}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Roma}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Ugly Person}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUgly+Person 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Ugly person 001.}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUgly+person+001. 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|麻原彰晃}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%BA%BB%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E6%99%83 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|アヘアヘェ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|アンダースロー}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんたあすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%9F%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうこと泊優稀は埼玉県川越市在住のDQNです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AF%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E5%B8%82%E5%9C%A8%E4%BD%8F%E3%81%AEDQN%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうこと泊優稀は変態基地外蛆虫腐れ外道}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AF%E5%A4%89%E6%85%8B%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%A4%96%E8%9B%86%E8%99%AB%E8%85%90%E3%82%8C%E5%A4%96%E9%81%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうは泊優稀のソックパペットです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%AF%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろう撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
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* {{User2|スパイ撲滅委員会撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会滅亡委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%BB%85%E4%BA%A1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会を追い出す会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%99%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会を潰す会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E6%BD%B0%E3%81%99%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅協会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%8D%94%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|09092756110}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|泊優稀菜}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E8%8F%9C 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|千ック隊長}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%8D%83%E3%83%83%E3%82%AF%E9%9A%8A%E9%95%B7 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|長良族}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%95%B7%E8%89%AF%E6%97%8F 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ニートキカスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|日本共産党撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* {{User2|日本国総理大臣}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|野田バター憲太郎は福井利器とホモセックスをしている}}&lt;br /&gt;
* {{User2|野田マスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%87%8E%E7%94%B0%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|白憂希撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E7%99%BD%E6%86%82%E5%B8%8C%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Here}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AHere 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Flomm}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AFlomm 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Froom}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Frommは変態基地外蛆虫腐れ外道}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AFromm%E3%81%AF%E5%A4%89%E6%85%8B%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%A4%96%E8%9B%86%E8%99%AB%E8%85%90%E3%82%8C%E5%A4%96%E9%81%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Fromm撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の族人}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%8F%E4%BA%BA 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の旅人撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%85%E4%BA%BA%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の旅入}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%85%E5%85%A5 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Bob allen}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|負け犬・野田犬太郎}}&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子にチンポをフェラチオされて喜ぶ野田憲太郎}}&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子レボリューション}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%83%AC%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|マルヤ死ね}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Miku}}&lt;br /&gt;
* {{User2|みんなで使おう公開アカウント}} - その後、{{User2|Mikomaid}}のソックパペットになる。現在は[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%A7%E4%BD%BF%E3%81%8A%E3%81%86%E5%85%AC%E9%96%8B%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|みんなのお父さん}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%88%B6%E3%81%95%E3%82%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|めんだめすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%81%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|!yourpedia}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%21yourpedia 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ユアペディア撲滅委}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%A6%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ユアペディア撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%A6%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|User02}} - 無期限ブロック済&lt;br /&gt;
* {{User2|User112}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUser112 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達者撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E8%80%85%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達人}}&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達也}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E4%B9%9F 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達磨}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E7%A3%A8 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|Riggle}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ARiggle 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Luna‎}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ALuna 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Robert allen wells}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ARobert+allen+wells 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Loan‎}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ALoan 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|ワイマール}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== IPアドレス ==&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|49.98.153.4}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|59.159.36.18}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.18}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.18 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.229}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.229 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.149.133}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.149.133 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|116.80.59.221}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A116.80.59.221 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|122.217.227.106}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A122.217.227.106 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|218.228.176.73}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A218.228.176.73 無期限ブロック済] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[松葉裕子 (荒らし)|松葉裕子]]&lt;br /&gt;
* [[おかやまりゅうせいのソックパペットの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[泊優稀のソックパペットの一覧]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{松葉裕子の関連項目}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:松葉裕子|そつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|まつはゆうこのそつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:ソックパペット|まつはゆうこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし|まつはゆうこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=232537</id>
		<title>松葉裕子のソックパペットの一覧</title>
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				<updated>2014-06-20T10:02:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''松葉裕子のソックパペットの一覧'''（まつばゆうこのそっくぱぺっとのいちらん）&lt;br /&gt;
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* {{User2|スパイ撲滅委員会滅亡委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%BB%85%E4%BA%A1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会を追い出す会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%99%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
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* {{User2|スパイ撲滅協会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%8D%94%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
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== な行 ==&lt;br /&gt;
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* {{User2|夢見る達人}}&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達也}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E4%B9%9F 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達磨}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E7%A3%A8 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|Riggle}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ARiggle 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Luna‎}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ALuna 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Robert allen wells}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ARobert+allen+wells 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Loan‎}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ALoan 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|ワイマール}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== IPアドレス ==&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|49.98.153.4}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|59.159.36.18}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.18}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.18 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.229}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.229 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.149.133}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.149.133 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|116.80.59.221}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A116.80.59.221 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
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* {{IPUser2|218.228.176.73}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A218.228.176.73 無期限ブロック済] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[松葉裕子 (荒らし)|松葉裕子]]&lt;br /&gt;
* [[おかやまりゅうせいのソックパペットの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[泊優稀のソックパペットの一覧]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{松葉裕子の関連項目}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:松葉裕子|そつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|まつはゆうこのそつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:ソックパペット|まつはゆうこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし|まつはゆうこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

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		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=232536</id>
		<title>松葉裕子のソックパペットの一覧</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''松葉裕子のソックパペットの一覧'''（まつばゆうこのそっくぱぺっとのいちらん）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メインアカウント ==&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキカス}} - 準メインアカウント、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 数字とアルファベットのアカウント ==&lt;br /&gt;
* {{User2|1q1q1q}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Azaz}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAzaz 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Allen wells}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAllen+wells 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Asdf}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAsdf 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Froｏm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Frｏmm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Fronm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|H}}&lt;br /&gt;
* {{User2|H2}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Kenokabeが考える岡部健 (荒らし)}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AKenokabe%E3%81%8C%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%81%A5+%28%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%29 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Lolo}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Qwqw}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Roma}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Ugly Person}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUgly+Person 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Ugly person 001.}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUgly+person+001. 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|麻原彰晃}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%BA%BB%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E6%99%83 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|アヘアヘェ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|アンダースロー}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんたあすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%9F%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうこと泊優稀は埼玉県川越市在住のDQNです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AF%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E5%B8%82%E5%9C%A8%E4%BD%8F%E3%81%AEDQN%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうこと泊優稀は変態基地外蛆虫腐れ外道}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AF%E5%A4%89%E6%85%8B%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%A4%96%E8%9B%86%E8%99%AB%E8%85%90%E3%82%8C%E5%A4%96%E9%81%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうは泊優稀のソックパペットです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%AF%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろう撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだかすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんですたろう}}&lt;br /&gt;
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* {{User2|ウーソキカスラの絵はやっぱり幼稚園で書くべきだと思うが}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%81%AE%E7%B5%B5%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%8A%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%92%E3%81%A7%E6%9B%B8%E3%81%8F%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A8%E6%80%9D%E3%81%86%E3%81%8C 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキカセ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキマスラの戯言}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキマラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウ―ソキマスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E2%80%95%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウ－ソキマスラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウ一ソキマスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E4%B8%80%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキマスラ撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキマスヲ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%B2 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソツキマスヨ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーリキマスラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーンキマスラ}}&lt;br /&gt;
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* {{User2|スパイ撲滅協会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%8D%94%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
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== は行 ==&lt;br /&gt;
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* {{User2|Frommは変態基地外蛆虫腐れ外道}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AFromm%E3%81%AF%E5%A4%89%E6%85%8B%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%A4%96%E8%9B%86%E8%99%AB%E8%85%90%E3%82%8C%E5%A4%96%E9%81%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Fromm撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の族人}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%8F%E4%BA%BA 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の旅人撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%85%E4%BA%BA%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の旅入}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%85%E5%85%A5 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Bob allen}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|負け犬・野田犬太郎}}&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子にチンポをフェラチオされて喜ぶ野田憲太郎}}&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子レボリューション}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%83%AC%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|マルヤ死ね}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Miku}}&lt;br /&gt;
* {{User2|みんなで使おう公開アカウント}} - その後、{{User2|Mikomaid}}のソックパペットになる。現在は[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%A7%E4%BD%BF%E3%81%8A%E3%81%86%E5%85%AC%E9%96%8B%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|みんなのお父さん}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%88%B6%E3%81%95%E3%82%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|めんだめすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%81%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|!yourpedia}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%21yourpedia 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ユアペディア撲滅委}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%A6%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ユアペディア撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%A6%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|User02}} - 無期限ブロック済&lt;br /&gt;
* {{User2|User112}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUser112 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達者撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E8%80%85%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達人}}&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達也}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E4%B9%9F 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達磨}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E7%A3%A8 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|Riggle}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ARiggle 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Luna‎}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ALuna 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Robert allen wells}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ARobert+allen+wells 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Loan‎}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ALoan 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
該当アカウントなし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== IPアドレス ==&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|49.98.153.4}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|59.159.36.18}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.18}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.18 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.229}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.229 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.149.133}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.149.133 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|116.80.59.221}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A116.80.59.221 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|122.217.227.106}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A122.217.227.106 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|218.228.176.73}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A218.228.176.73 無期限ブロック済] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[松葉裕子 (荒らし)|松葉裕子]]&lt;br /&gt;
* [[おかやまりゅうせいのソックパペットの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[泊優稀のソックパペットの一覧]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{松葉裕子の関連項目}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:松葉裕子|そつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|まつはゆうこのそつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:ソックパペット|まつはゆうこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし|まつはゆうこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=232535</id>
		<title>松葉裕子のソックパペットの一覧</title>
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				<updated>2014-06-20T10:01:00Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''松葉裕子のソックパペットの一覧'''（まつばゆうこのそっくぱぺっとのいちらん）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メインアカウント ==&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキカス}} - 準メインアカウント、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 数字とアルファベットのアカウント ==&lt;br /&gt;
* {{User2|1q1q1q}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Azaz}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAzaz 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Allen wells}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAllen+wells 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Asdf}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAsdf 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Froｏm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Frｏmm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Fronm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|H}}&lt;br /&gt;
* {{User2|H2}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Kenokabeが考える岡部健 (荒らし)}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AKenokabe%E3%81%8C%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%81%A5+%28%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%29 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Lolo}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Qwqw}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Roma}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Ugly Person}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUgly+Person 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Ugly person 001.}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUgly+person+001. 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|麻原彰晃}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%BA%BB%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E6%99%83 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|アヘアヘェ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|アンダースロー}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんたあすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%9F%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうこと泊優稀は埼玉県川越市在住のDQNです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AF%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E5%B8%82%E5%9C%A8%E4%BD%8F%E3%81%AEDQN%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうこと泊優稀は変態基地外蛆虫腐れ外道}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AF%E5%A4%89%E6%85%8B%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%A4%96%E8%9B%86%E8%99%AB%E8%85%90%E3%82%8C%E5%A4%96%E9%81%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
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* {{User2|スパイ撲滅委員会は亀岡事故にしか興味を持てないDQNです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AF%E4%BA%80%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%8B%E8%88%88%E5%91%B3%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%81%84DQN%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会は変態基地外蛆虫腐れ外道}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AF%E5%A4%89%E6%85%8B%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%A4%96%E8%9B%86%E8%99%AB%E8%85%90%E3%82%8C%E5%A4%96%E9%81%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会は山形県西置賜郡小国町在住のDQNです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AF%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%9C%8C%E8%A5%BF%E7%BD%AE%E8%B3%9C%E9%83%A1%E5%B0%8F%E5%9B%BD%E7%94%BA%E5%9C%A8%E4%BD%8F%E3%81%AEDQN%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会滅亡委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%BB%85%E4%BA%A1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会を追い出す会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%99%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会を潰す会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E6%BD%B0%E3%81%99%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅協会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%8D%94%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|09092756110}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|泊優稀菜}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E8%8F%9C 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|千ック隊長}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%8D%83%E3%83%83%E3%82%AF%E9%9A%8A%E9%95%B7 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|長良族}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%95%B7%E8%89%AF%E6%97%8F 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ニートキカスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|日本共産党撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* {{User2|日本国総理大臣}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|野田バター憲太郎は福井利器とホモセックスをしている}}&lt;br /&gt;
* {{User2|野田マスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%87%8E%E7%94%B0%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|白憂希撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E7%99%BD%E6%86%82%E5%B8%8C%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Here}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AHere 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Flomm}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AFlomm 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Froom}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Frommは変態基地外蛆虫腐れ外道}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AFromm%E3%81%AF%E5%A4%89%E6%85%8B%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%A4%96%E8%9B%86%E8%99%AB%E8%85%90%E3%82%8C%E5%A4%96%E9%81%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Fromm撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の族人}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%8F%E4%BA%BA 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の旅人撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%85%E4%BA%BA%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|星空の旅入}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%85%E5%85%A5 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Bob allen}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|負け犬・野田犬太郎}}&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子にチンポをフェラチオされて喜ぶ野田憲太郎}}&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子レボリューション}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%83%AC%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|マルヤ死ね}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Miku}}&lt;br /&gt;
* {{User2|みんなで使おう公開アカウント}} - その後、{{User2|Mikomaid}}のソックパペットになる。現在は[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%A7%E4%BD%BF%E3%81%8A%E3%81%86%E5%85%AC%E9%96%8B%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|みんなのお父さん}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%88%B6%E3%81%95%E3%82%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|めんだめすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%81%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|!yourpedia}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%21yourpedia 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ユアペディア撲滅委}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%A6%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ユアペディア撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%83%A6%E3%82%A2%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|User02}} - 無期限ブロック済&lt;br /&gt;
* {{User2|User112}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUser112 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達者撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E8%80%85%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達人}}&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達也}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E4%B9%9F 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|夢見る達磨}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%A4%A2%E8%A6%8B%E3%82%8B%E9%81%94%E7%A3%A8 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|Riggle}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ARiggle 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Luna‎}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ALuna 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Robert allen wells}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ARobert+allen+wells 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Loan‎}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ALoan 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
該当アカウントなし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== IPアドレス ==&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|49.98.153.4}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|59.159.36.18}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.18}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.18 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.136.229}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.136.229 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|110.165.149.133}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A110.165.149.133 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|116.80.59.221}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A116.80.59.221 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|122.217.227.106}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A122.217.227.106 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|218.228.176.73}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A218.228.176.73 無期限ブロック済] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[松葉裕子 (荒らし)|松葉裕子]]&lt;br /&gt;
* [[おかやまりゅうせいのソックパペットの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[泊優稀のソックパペットの一覧]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{松葉裕子の関連項目}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:松葉裕子|そつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|まつはゆうこのそつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:ソックパペット|まつはゆうこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし|まつはゆうこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=232534</id>
		<title>松葉裕子のソックパペットの一覧</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=232534"/>
				<updated>2014-06-20T09:59:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''松葉裕子のソックパペットの一覧'''（まつばゆうこのそっくぱぺっとのいちらん）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メインアカウント ==&lt;br /&gt;
* {{User2|松葉裕子}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%9D%BE%E8%91%89%E8%A3%95%E5%AD%90 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキカス}} - 準メインアカウント、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 数字とアルファベットのアカウント ==&lt;br /&gt;
* {{User2|1q1q1q}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Azaz}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAzaz 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Allen wells}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAllen+wells 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Asdf}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AAsdf 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Froｏm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Frｏmm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Fronm}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Kenokabeが考える岡部健 (荒らし)}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AKenokabe%E3%81%8C%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%81%A5+%28%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%29 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Lolo}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Qwqw}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Roma}}&lt;br /&gt;
* {{User2|Ugly Person}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUgly+Person 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|Ugly person 001.}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3AUgly+person+001. 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|麻原彰晃}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E9%BA%BB%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E6%99%83 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|アヘアヘェ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|アンダースロー}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんたあすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%9F%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうこと泊優稀は埼玉県川越市在住のDQNです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AF%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C%E5%B7%9D%E8%B6%8A%E5%B8%82%E5%9C%A8%E4%BD%8F%E3%81%AEDQN%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうこと泊優稀は変態基地外蛆虫腐れ外道}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AF%E5%A4%89%E6%85%8B%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%A4%96%E8%9B%86%E8%99%AB%E8%85%90%E3%82%8C%E5%A4%96%E9%81%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろうは泊優稀のソックパペットです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%AF%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%91%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだあすろう撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
* {{User2|あんだかすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|あんですたろう}}&lt;br /&gt;
* {{User2|池上製麺}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E8%A3%BD%E9%BA%BA 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|逝け惰性面}}&lt;br /&gt;
* {{User2|揖保川の氷兵さん}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%8F%96%E4%BF%9D%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%B0%B7%E5%85%B5%E3%81%95%E3%82%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーキスマトヲ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキカスラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキカスラ絵はガチ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%A9%E7%B5%B5%E3%81%AF%E3%82%AC%E3%83%81 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキカスラの絵はやっぱり幼稚園で書くべきだと思うが}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%81%AE%E7%B5%B5%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%82%8A%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%92%E3%81%A7%E6%9B%B8%E3%81%8F%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A8%E6%80%9D%E3%81%86%E3%81%8C 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキカセ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキマスラの戯言}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキマラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウ―ソキマスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E2%80%95%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウ－ソキマスラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウ一ソキマスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E4%B8%80%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキマスラ撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソキマスヲ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%B2 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーソツキマスヨ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーリキマスラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウーンキマスラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウソーキマスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウソツキマスラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウソツキマラ}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%83%A9 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウソツキ魔羅}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%83%84%E3%82%AD%E9%AD%94%E7%BE%85 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|ウソマラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウソマラ万歳}}&lt;br /&gt;
* {{User2|ウマスラ}}&lt;br /&gt;
* {{User2|おおばあすろう}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%B0%E3%81%82%E3%81%99%E3%82%8D%E3%81%86 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|岡部健}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%B2%A1%E9%83%A8%E5%81%A5 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|岡田健}}&lt;br /&gt;
* {{User2|おかやまりゅうせい撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%81%8A%E3%81%8B%E3%82%84%E3%81%BE%E3%82%8A%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%9B%E3%81%84%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|小国11歳小学生}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E5%B0%8F%E5%9B%BD11%E6%AD%B3%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E7%94%9F 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== か行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|割烹の大将}}&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== さ行 ==&lt;br /&gt;
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* {{User2|スパイ撲滅委員会絶滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E7%B5%B6%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会追放委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E8%BF%BD%E6%94%BE%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会排除委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%8E%92%E9%99%A4%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会は亀岡事故にしか興味を持てないDQNです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AF%E4%BA%80%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%8B%E8%88%88%E5%91%B3%E3%82%92%E6%8C%81%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%81%84DQN%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会は変態基地外蛆虫腐れ外道}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AF%E5%A4%89%E6%85%8B%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E5%A4%96%E8%9B%86%E8%99%AB%E8%85%90%E3%82%8C%E5%A4%96%E9%81%93 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会は山形県西置賜郡小国町在住のDQNです。}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%81%AF%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%9C%8C%E8%A5%BF%E7%BD%AE%E8%B3%9C%E9%83%A1%E5%B0%8F%E5%9B%BD%E7%94%BA%E5%9C%A8%E4%BD%8F%E3%81%AEDQN%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会滅亡委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E6%BB%85%E4%BA%A1%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会を追い出す会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%99%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅委員会を潰す会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E3%82%92%E6%BD%B0%E3%81%99%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|スパイ撲滅協会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%8D%94%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
* {{User2|09092756110}}&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
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* {{User2|星空の旅人撲滅委員会}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3A%E6%98%9F%E7%A9%BA%E3%81%AE%E6%97%85%E4%BA%BA%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
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* {{User2|Miku}}&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
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* {{User2|User02}} - 無期限ブロック済&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* {{User2|Riggle}} - [http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;type=block&amp;amp;page=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%3ARiggle 無期限ブロック済]&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
該当アカウントなし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== IPアドレス ==&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|49.98.153.4}}&lt;br /&gt;
* {{IPUser2|59.159.36.18}}&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[松葉裕子 (荒らし)|松葉裕子]]&lt;br /&gt;
* [[おかやまりゅうせいのソックパペットの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[泊優稀のソックパペットの一覧]] &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{松葉裕子の関連項目}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:松葉裕子|そつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|まつはゆうこのそつくはへつと]]&lt;br /&gt;
[[Category:ソックパペット|まつはゆうこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒らし|まつはゆうこ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=227525</id>
		<title>ベルサイユ会議</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E4%BC%9A%E8%AD%B0&amp;diff=227525"/>
				<updated>2014-05-06T13:09:13Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: パリ講和会議へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT[[パリ講和会議]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%99%82%E4%BB%A3&amp;diff=227524</id>
		<title>大航海時代</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%99%82%E4%BB%A3&amp;diff=227524"/>
				<updated>2014-05-06T13:07:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''大航海時代'''（だいこうかいじだい）は、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・[[...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大航海時代'''（だいこうかいじだい）は、[[15世紀]]中ばから[[17世紀]]中ばまで続いた、[[ヨーロッパ]]人による[[インド]]・[[アジア大陸]]・[[アメリカ大陸]]などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「大航海時代」の名称は[[岩波書店]]にて「[[大航海時代叢書]]」を企画していた1963年、それまでの「'''地理上の発見'''」、「'''大発見時代'''」といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、[[増田義郎]]により命名された。増田は、大航海時代の時間的範囲について、議論があると前置きした上で、具体的な始まりと終わりの年を提案している。増田によれば、大航海時代の始まりは、[[1415年]]におけるポルトガルの[[セウタ]]攻略。終わりの年は、[[三十年戦争]]が終結し、ロシア人の探検家[[セミョン・デジニョフ]]が[[チュクチ半島]]の[[デジニョフ岬]]に到達した[[1648年]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 前史 ==&lt;br /&gt;
=== 文化・文明の伝播 ===&lt;br /&gt;
[[人類]]出現以来、隣り合う文化文明は互いに交流し影響を及ぼしあってきた。'''文化交流'''は人類に限られたことではなく、[[道具]]の使用をも文化と認めるなら、[[チンパンジー]]や一部の鳥獣についても、個体間や隣り合う地域を介して文化交流が行われている。人類は[[言葉]]や[[文字]]を使用するので、より円滑に文化文明を伝播することが可能であるが、極東と西ヨーロッパのように遠隔地に住む人々が直接交流するためには、試行錯誤を経た知識の蓄積や[[科学技術]]の進歩が必要であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 古代の国際交流 ===&lt;br /&gt;
強大な国家が成立した場合、当然のように遠隔地間交流が加速する。そのことは[[四大文明]]の発祥地をはじめ[[インカ帝国]]や[[アステカ帝国]]の例を見るまでもなく明らかである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[古代ギリシャ]]人は、[[地中海]]周辺と[[エジプト]]さらに[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]]が支配する[[オリエント]]の一部を'''[[世界]]'''として認識していた。[[アレクサンドロス3世]]（大王）の東方遠征によって、ギリシャ人の世界観はインド・[[中国]]までに一気に広がった。アレキサンドロス3世がペルシャの皇女を娶ったことに象徴されるように、アレキサンドロス3世の帝国では[[コスモポリタニズム]]が標榜され、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統は[[ディアドコイ]]達が建国した国々やギリシャ文化の影響を強く受けた[[古代ローマ]]にも受け継がれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[パックス・ロマーナ]]の下、整備された[[航路]]や[[道路]]を使って盛んに遠隔地交易が行われ、地中海地域や中東地域をはじめ遠く[[極東]]からも珍しい商品がローマにもたらされた。多様な[[人種]]・[[民族]]が[[奴隷]]となり或いは[[傭兵]]となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、国際間の交流は益々増加して行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[中東]]・インド・中国でも強力な世界帝国が成立し、その影響下にある国々の間で盛んに交易が行われ、多数の交易路や航路が開拓整備された。[[アフリカ]]地域でも[[古代エジプト]]のほか、大陸奥部にも[[王国]]が成立し、[[塩]]や[[金]]が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易[[ネットワーク]]が徐々に構築されていった。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヨーロッパの停滞と復興 ===&lt;br /&gt;
ローマ帝国が衰退すると、未開人といわれた[[ゲルマン人]]や[[ノルマン人]]が相次いでヨーロッパを侵し、また[[イスラム]]勢力が[[イベリア半島]]に侵入し、ヨーロッパは混乱と停滞の時代を迎える。やがて[[西ローマ帝国]]領土であった現在の[[イタリア]]・[[フランス]]・[[ドイツ]]では、[[カトリック教会|カトリック]]を精神的支柱とする[[フランク王国]]が出現した。フランク王国はゲルマンの伝統を色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。ようやく安定がもたらされた西ヨーロッパの[[経済]]が活性化し富が蓄積され、フランク王国は[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]でイスラムの北進を阻んだ。[[ペスト]]の流行や気候寒冷化による混乱の中で[[暗黒時代]]を経験した[[中世]]ヨーロッパであったが、数世紀を経てゲルマン人やノルマン人の国家が淘汰･洗練され、徐々に力をつけていった。西暦[[1000年]]頃、[[ヴァイキング]]と呼ばれていた[[ノース人]]が[[ヴィンランド]]（[[ニューファンドランド島]]）の[[ランス・オ・メドー]]に到達した記録が『[[赤毛のエイリークのサガ]]』や『[[グリーンランド人のサガ]]』に記録されている。しかし、先住民[[スクレリング]]の激しい抵抗に遭い、10年ほどで放棄した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 十字軍 ===&lt;br /&gt;
[[11世紀]]後半[[セルジューク朝|セルジューク朝トルコ]]が[[パレスチナ]]を[[占領]]する。セルジューク朝トルコの脅威を受けて[[東ローマ帝国]][[皇帝]][[アレクシオス1世コムネノス]]は[[聖地]]回復を大義名分に、[[ローマ教皇]]・[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]に支援を求めた。ヨーロッパ各地に[[十字軍]]の結成が呼びかけられ多数の王侯貴族や民衆がこれに応じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの者が[[殉教]]精神から十字軍に参加したが、教皇は[[東方教会]]への影響力拡大を望み、王侯貴族はイスラムの領土や富の収奪、さらに交易が盛んな文化国家東ローマ帝国への影響力行使を望んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
狂信者や野心家、無頼漢までも含む十字軍は、[[1096年]]、[[聖戦]]の名の下に東方へ進軍した。利害対立によって抗争をくり返していたイスラム勢力を撃破しながら、パレスチナやその周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設したが、寄せ集め勢力の十字軍もまた主導権争いに明け暮れ、ローマ法王や東ローマ帝国との対立も深まり、混迷の様相を呈した。利権をめぐって『敵の敵は味方』とばかり、十字軍勢力とイスラム勢力が同盟する事態さえ発生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また十字軍による[[イスラム教徒]]・[[ユダヤ教徒]]など[[異教徒]]への激しい弾圧が民衆の抵抗を招き、長引く戦争によって十字軍内の士気は低下し、堕落と厭戦気分が蔓延した。さらに十字軍遠征による戦費調達は重くヨーロッパ各国民衆にのしかかり、熱狂的殉教精神も次第に沈静化していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[サラーフッディーン|サラディーン]]、サラーフ・アッ＝ディーン、による反撃から約1世紀、1291年、十字軍は最後の拠点であった[[アッコン]]を失い、聖地から[[地中海]]に追い落とされてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際交流の発展 ===&lt;br /&gt;
軍事的に失敗した十字軍遠征ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した。ヨーロッパから[[鉱物資源]]や[[毛織物]]等が、イスラムから[[香辛料]]や[[絹]]等が、今まで以上に東西間で交易されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間に位置する東ローマ帝国や[[イタリア]]諸都市国家の経済成長が顕著になる。ことにイタリアでは東西交易に伴い、東ローマ帝国の保存していた古代ギリシアの哲学・科学や、イスラム諸国からの当時世界最高水準にあったイスラム文化やイスラム科学が紹介され、しかも十字軍失敗によってローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中から[[ルネサンス|ルネッサンス]]運動が開始されて[[近代]]への扉が開けられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[モンゴル帝国]]が興ったころ、東方のキリスト教徒[[プレスター・ジョン]]が大軍を率いてイスラムを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。プレスター・ジョン確認のためにローマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして[[プラノ・カルピニ]]の使節は[[カラコルム]]に達し、[[1245年]]、[[グユク]]ハーンと謁見を果たした。そこはプレスター・ジョンの国ではなかったが、宗教や異民族に比較的寛容な[[モンゴル人]]はヨーロッパ人を受け入れ、[[パックスモンゴリカ]]の下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に[[東アジア]]を訪れるようになり、カラコルムや[[大都]]などの主要都市に長期滞在する者さえ現れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中でも[[マルコ・ポーロ]]は約20年にわたって行われた旅行体験を[[ルスティケロ・ダ・ピサ]]へ口述し、ピサが『[[東方見聞録]]』として著しヨーロッパに広まった。イスラム諸国、インド、中国、[[ジパング]]についての記述が、[[プレスター・ジョン]]伝説とともにヨーロッパ人の'''世界'''への好奇心を掻き立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大航海時代の変遷 ==&lt;br /&gt;
=== 海外侵略 ===&lt;br /&gt;
15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもった[[オスマン帝国|オスマン朝トルコ]]が[[1453年]]ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の[[制海権]]を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い[[関税]]をかけた。旧来の経済秩序が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、[[ポルトガル]]と[[スペイン]]両国では[[国王]]を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた（[[レコンキスタ]]）。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは[[民族主義]]が沸騰し、強力な国王を中心とした[[中央集権制度]]が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、このころ頑丈な[[キャラック船]]や[[キャラベル船]]が建造されるようになり、[[方位磁針|羅針盤]]がイスラムを介して伝わったことから[[外洋]][[航海]]が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北[[アフリカ]]沿岸に進出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして[[航海技術]]の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初期の航海では[[遭難]]や[[難破]]、敵からの襲撃、[[壊血病]]や[[疫病]]感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした'''早い者勝ち''' の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またローマ教皇も海外侵略を強力に後援した。16世紀初頭から[[宗教改革]]の嵐に晒されていた[[カトリック教会]]は相次いで成立した[[プロテスタント]]諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる[[宣教師]]を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への[[布教]]活動を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アフリカ・アジア大陸侵略 ===&lt;br /&gt;
いち早くレコンキスタを達成したポルトガルは北アフリカへの侵略を確固とし[[1415年]]、[[ジョアン1世 (ポルトガル王)|ジョアン1世]]のとき命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。エンリケ王子は西[[アフリカ]]に留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。ポルトガルは[[1460年]]ごろまでに[[カナリア諸島]]・[[マデイラ諸島]]を探検し[[シエラレオネ]]付近まで進出し、さらに[[象牙海岸]]・[[ゴールド・コースト|黄金海岸]]を経て[[1482年]]、[[ガーナ]]の地に城塞を築いて[[金]]や[[奴隷]]の交易を行った。[[1485年]]、[[ディオゴ・カン]]が[[ジョアン2世 (ポルトガル王)|ジョアン2世]]に命じられて[[ナミビア]]の[[クロス岬]]に到達した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1488年]]、[[バルトロメウ・ディアス]]は船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を[[喜望峰]]と改名させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1497年]][[7月8日]]、[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]は[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]に命じられ、船団を率いて[[リスボン]]を旅立つとインドを目指した。目的はインドとの直接交易。先人達の知識をもとに4ヶ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回って[[モザンビーク]]海峡に至りイスラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。[[1498年]][[5月20日]]、ついにヨーロッパ人として初めてインドの[[カリカット]]に到着したガマは、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1509年]]2月、[[フランシスコ・デ・アルメイダ]]は国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と戦い（ディーウの戦い (1509年)）、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調に[[マレー半島]]・[[セイロン島]]にも侵略、[[1557年]]には[[マカオ]]に要塞を築いて[[極東]]の拠点とした。その間、[[1543年]]に[[ジャンク船]]に乗ったポルトガル人が日本の[[種子島]]に漂着して[[鉄砲]]を伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異的な発展に寄与したのである。しかしイスラム商人は古くからインドや中国さらに[[モルッカ諸島]]などと盛んに交易していたし、[[アフリカ]]大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していた[[マリ王国]]はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。また中国の[[鄭和]]艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカの[[ジンバブエ]]の遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。このように[[14世紀]]から15世紀までに[[旧世界]]における世界航路は、様々な国家・地域の民族によって、開拓されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言うならば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アメリカ大陸侵略 ===&lt;br /&gt;
同じころ、[[ジェノヴァ]]商人の[[クリストファー・コロンブス]]は西周りインド航路を開拓しようと[[1484年]]、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは[[1486年]]、[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド5世]]（[[アラゴン王国|アラゴン]]王としてはフェルナンド2世）と、その妻[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]がコロンブスの計画を採用し[[1492年]]、旗艦[[サンタ・マリア号]]に率いられた船団が[[バルセロナ]]港から西に出港した。1492年[[10月12日]]、[[西インド諸島]]に属する[[バハマ諸島]]に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけた。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、[[1500年]]、[[ペドロ・アルヴァレス・カブラル|カブラル]]が[[ブラジル]]&amp;lt;ref&amp;gt;ヨーロッパから喜望峰に至る航海は風向きの関係から大西洋をブラジル沿岸近海まで大きく西に迂回するのが効率的である。このことからポルトガルは[[1490年代]]までにブラジルを発見していた可能性が高いと推定されている。アメリカ大陸発見を公表しなかった理由について、他のライバル国に迂回航路の存在を悟られないよう国家機密にしていたとされる。&amp;lt;/ref&amp;gt;に到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界周航 ===&lt;br /&gt;
スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出た[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]（マガリャンイス）はスペイン王・[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カルロス1世]]の援助を得て[[1519年]]8月、[[セビリャ]]から5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。[[1520年]]10月、南アメリカ大陸南端の[[マゼラン海峡]]を通過して[[太平洋]]を横断し、[[グァム島]]に立ち寄り、[[1521年]]に[[フィリピン]]諸島に到着した。マゼランはフィリピン中部の[[マクタン島]]で住民の争いに加担し、同年[[4月27日]]に酋長[[ラプ・ラプ]]によって殺された。その後、部下[[フアン・セバスティアン・エルカーノ|エルカーノ]]率いる[[ビクトリア号]]1隻が航海をつづけ、[[1522年]]にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スペインはこの後も[[メキシコ]]（[[ノビスパン]]）から[[太平洋]]を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは[[1571年]]メキシコを出発した[[ミゲル・ロペス・デ・レガスピ]]によって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は[[1542年]]、フィリピン諸島を探検した[[ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス|ビリャロボス]]が、当時スペイン王子であったフェリペ（のちの[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]）にちなみ、これらの諸島を「フィリピナス諸島」と呼んだことに由来する。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポルトガル・スペイン間の条約締結 ===&lt;br /&gt;
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介を[[ローマ教皇]]に依頼して[[1494年]]に[[トルデシリャス条約]]、[[1529年]]に[[サラゴサ条約]]を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヨーロッパ北部諸国による探検 ===&lt;br /&gt;
ポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させ、ようやく航海や探検の後押しをする用意が整った[[イギリス]]や[[フランス]]、スペインからの独立を果たした[[オランダ]]といった後発諸国も盛んに海外進出し、次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。こうした後発海運国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。後発海運国は、ポルトガルやスペインが広大な領土を獲得したにもかかわらず急速に没落していった経験から学んで、慎重かつ綿密な植民地経営を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後発海運国の最初の探検は、イタリア人[[ジョン・カボット]]（ジョヴァンニ・カボート）を雇ったイギリスによる北米探検（[[1497年]]）であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。[[1525年]]には、フランスによって派遣されたイタリア人[[ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ]]が現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人[[ジャック・カルティエ]]は[[1534年]]にカナダへの最初の航海を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カボット、ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国やインドに至る最短の[[大圏航路]]（[[北西航路]]）を探すことが目的だった。この航路は19世紀まで見つかることはなかったが、北西航路探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らかとなってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちは17世紀に東海岸に植民地を築き始めた。イギリスやオランダは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北を迂回して中国に至る[[北東航路]]の探検も行い、[[ロシア・ツァーリ国]]との北海交易を始めたり、[[捕鯨]]の拠点となる北極海の島を多く発見したりしたが、やはり氷の海に阻まれアジアへの航路を見つけることはできなかった。ロシアでは[[セミョン・デジニョフ|セミョン・イワノヴィチ・デジニョフ]]が1648年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア最東端となる岬（後にデジニョフ岬と命名された）を発見した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。ポルトガルの最も利益の大きい拠点である[[ゴア]]や[[マカオ]]を、新興諸国の拠点（[[香港]]や[[バタヴィア]]など）が包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として[[香料諸島]]からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
新興諸国は、残る未知の地域（北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域）もスペインより先に探検した。[[1606年]]には[[ウィレム・ヤンツ]]（Willem Jansz）が、[[1642年]]には[[アベル・タスマン]]（Abel Tasman）などオランダの探検家が[[オーストラリア]]を探検している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロッパ各国は、いち早く[[近代化]]を達成し世界に覇を唱えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 原典 ==&lt;br /&gt;
''詳細は[[大航海時代叢書]]・[[アンソロジー新世界の挑戦]]を参照。''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[岩波書店]] 『[[大航海時代叢書]]』　[[会田由]]、[[増田義郎]]、[[生田滋]]等の訳注で刊行。下記が[[岩波文庫]]で再刊。&lt;br /&gt;
*『大航海時代叢書．第1期』　全11巻別巻1、1965－70年&lt;br /&gt;
**[[ルイス・フロイス]]『ヨーロッパ文化と日本文化』 [[岡田章雄]]訳　&lt;br /&gt;
**『コロンブス航海誌』　[[林屋永吉]]訳&lt;br /&gt;
*『大航海時代叢書. 第2期』　全25巻、1979－92年&lt;br /&gt;
**[[ラス・カサス]]　『インディアス史』全7巻　[[長南実]]訳、[[石原保徳]]編&lt;br /&gt;
**[[シエサ・デ・レオン]]　『[[インカ帝国]]史』、『インカ帝国地誌』　[[増田義郎]]訳&lt;br /&gt;
*大航海時代叢書＜エクストラ・シリーズ＞全5巻　1985－87年&lt;br /&gt;
**インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ　『インカ皇統記』全4巻　[[牛島信明]]訳　&lt;br /&gt;
*『[[アンソロジー新世界の挑戦]]』全13巻　1992－95年　[[染田秀藤]]、[[青木康征]]等による訳注。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化]]&lt;br /&gt;
* [[スペインによるアメリカ大陸の植民地化]]&lt;br /&gt;
* [[探検家]]&lt;br /&gt;
* [[コンキスタドール]]&lt;br /&gt;
* [[南蛮貿易]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいこうかいしたい}}&lt;br /&gt;
[[Category:大航海時代|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヨーロッパ史]]&lt;br /&gt;
[[Category:ポルトガル王国]]&lt;br /&gt;
[[Category:スペインの歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (-1776)]]&lt;br /&gt;
[[Category:探検]]&lt;br /&gt;
[[Category:海洋国家]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>人類</title>
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				<updated>2014-05-06T13:01:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''人類'''とは、個々の[[人間]]や[[民族]]などの相違点を越える《[[類]]》としての[[人間]]のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概説 ==&lt;br /&gt;
主としてhumanity、Menschheitなどの西欧語の訳語として「人類」という語は用いられているわけであるが、例えば英語のhumanity という語の構成は　human + ityであり、あえて日本語にすれば、human（[[人]]、[[人間]]）であること、と表現されるような抽象概念であり、そもそもhumanであることとはどういうことか？　といったことを、話者や聞き手に多かれ少なかれ意識させる語である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人に関する説は西欧では様々な変遷や議論を経て来ており、重要な説としては例えば人類単元説、人類多元説、人類性の概念などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 単元説と多元説 ===&lt;br /&gt;
（[[ヨーロッパ世界]]は[[キリスト教]]の[[世界]]であったわけであるが）キリスト教世界では、人類はすべて[[アダム]]の子孫だ、とする人類単元説が説得力を持ち続けていた。だが、ヨーロッパが[[大航海時代]]を迎え、ヨーロッパ外の人々に接し、その情報がヨーロッパにもたらされるにつれ、彼らに「人間の変種」あるいは「人種」と見えたものをどう考えるか、ということがひとつの大きな問題として西欧人の間で浮上してきた。こうした問題に関して、[[ビュフォン]]ほか多くの人々は、人類間の差異というのは風土・食物・習俗の違いから生じているのであり人類はひとつの種だ、とする人類単元説を採用したが、それに対して[[ヴォルテール]]は人類多元説を唱え、単元説と多元説の対立は19世紀でも継続し、1859年にパリ人類学会を創設した[[ブローカ]]もそうした問題に言及することになり、人種間の差は動物種間の差よりも大きい、と述べた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、「進化した人種が原始的な人種を支配するのだ」などとする[[社会ダーウィニズム]]が登場し、こうした考え方は[[帝国主義]]によって好都合のものとして利用されることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 《人類性》と共同性の概念 ===&lt;br /&gt;
ヨーロッパの人々の概念としては「[[市民]] / [[野蛮人|蛮人]]」という区別や「[[キリスト教徒]] / [[異教徒]]」という区別が基本的にあったが、[[啓蒙時代]]になるとそれらの差別を越える「humanity 人類性」という[[観念]]が登場し、人類史が「人間の自己完成能力による進歩の歴史」として提示されるようになったが、そうした中で人類という概念は、実現すべき[[共同性]]、として強く意識されるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ディドロ]]、[[オーギュスト・コント|コント]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]らが、人類性に関して重要な説を唱えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[人間]] （社会科学、人文科学）&lt;br /&gt;
* [[ヒト]] （生物学）&lt;br /&gt;
* [[人]] （法的な人格）&lt;br /&gt;
* [[人間性]]&lt;br /&gt;
* [[人類学]]&lt;br /&gt;
* [[地球人]]&lt;br /&gt;
* [[地球市民]]&lt;br /&gt;
* [[宇宙船地球号]]&lt;br /&gt;
* [[ヒューマノイド]]&lt;br /&gt;
* [[コスモポリタニズム]]&lt;br /&gt;
* [[グローバリズム]]&lt;br /&gt;
* [[人類の進化]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:しんるい}}&lt;br /&gt;
[[Category:人間|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:人類学]]&lt;br /&gt;
[[Category:人権]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E7%B4%80%E5%B7%9E%E8%97%A9&amp;diff=214165</id>
		<title>紀州藩</title>
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				<updated>2013-12-22T17:33:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''紀州藩'''は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部（現在の和歌山県と三重県南部）を治めた藩。'''紀伊藩...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''紀州藩'''は、[[江戸時代]]に[[紀伊国]]一国と[[伊勢国]]の南部（現在の[[和歌山県]]と[[三重県]]南部）を治めた[[藩]]。'''紀伊藩'''（きいはん）とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[版籍奉還]]後に定められた正式名称は'''和歌山藩'''（わかやまはん）。藩庁は[[和歌山城]]（和歌山県[[和歌山市]]）。藩主は[[紀州徳川家]]。紀州家は[[徳川御三家]]の一つで、[[石高]]は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢南部3郡18万石、大和に約1千石の所領があった（石高には[[附家老|御附家老]]の水野家[[紀伊新宮藩|新宮領]]と安藤家[[紀伊田辺藩|田辺領]]を含む）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 藩史 ==&lt;br /&gt;
紀伊国は[[関ヶ原の戦い]]の後[[浅野幸長]]に与えられ、[[外様大名|外様]]の[[浅野氏|浅野家]]の治める紀州藩が成立した。[[元和 (日本)|元和]]5年（1619年）の[[福島正則]]改易に伴い浅野家が[[安芸国]][[広島藩]]に移されると、それまで[[駿府藩]]主だった[[徳川家康]]の十男・[[徳川頼宣]]が浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で入部、紀州徳川家の治める[[親藩]]の紀州藩が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼宣は[[浪人]]を多く召抱え、[[慶安の変]]ではその首謀者・[[由井正雪]]との関係を[[江戸幕府|幕府]]に疑われたこともあった。頼宣の孫である第3代藩主の[[徳川綱教|綱教]]は第5代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川綱吉]]の長女・[[鶴姫 (徳川綱吉長女)|鶴姫]]を娶ると子のない綱吉の後継者に擬せられるようになったが早世した。その後紆余曲折を経て、綱教の弟で第5代藩主の[[徳川吉宗|吉宗]]が[[徳川将軍家|将軍家]]を相続して第8代将軍となると、200名を超える紀州藩士が吉宗に供奉して江戸に上り幕臣に組み込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吉宗を出した後に支藩から宗家を相続した第6代藩主の[[徳川宗直|宗直]]は、石高の57%を損失した享保飢饉による財政難を2万両の公金拝借で切り抜けたが、以後はこの財政赤字を公金で繕うやりくりが踏襲された。和歌山藩は将軍家に近いことから財政的に幕府への依存を深め、これが一方で幕府財政を圧迫する要因となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第11代藩主の[[徳川斉順|斉順]]は天明年間の拝借金が棄損となり、幕府の大坂蔵詰米より新たに2万俵を借用した。拝借金残金は4万5千両に達していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第13代藩主の慶福は第11代将軍[[徳川家斉]]の孫で、子のない第13代将軍[[徳川家定|家定]]の後将軍家を相続して第14代将軍[[徳川家茂|家茂]]となった。第8代将軍吉宗以後の歴代の将軍はいずれも紀州藩およびその連枝である[[一橋徳川家]]に連なる者で占められることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[廃藩置県]]により和歌山県になるが、紀伊国の東部と[[伊勢国]]の紀州藩領は[[三重県]]に編入された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴代藩主 ==&lt;br /&gt;
=== 浅野家 ===&lt;br /&gt;
外様 - 37万6千石→[[安芸国|安芸]][[広島藩]]42万石&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot;&lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 代&lt;br /&gt;
! 藩主&lt;br /&gt;
! 院号&lt;br /&gt;
! 官位&lt;br /&gt;
! 在任&lt;br /&gt;
! 享年&lt;br /&gt;
! 出自&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|1&lt;br /&gt;
|{{smaller|あさの よしなが}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[浅野幸長|浅野 幸長]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|清光院&lt;br /&gt;
|[[従四位|従四位下]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[紀伊国|紀伊守]]&lt;br /&gt;
|[[慶長]]5年 - 慶長18年&amp;lt;br /&amp;gt;1600年 - 1613年&lt;br /&gt;
|38&lt;br /&gt;
|[[浅野氏|浅野家]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|2&lt;br /&gt;
|{{smaller|あさの ながあきら}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[浅野長晟|浅野 長晟]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|自得院&lt;br /&gt;
|従四位下&amp;lt;br /&amp;gt;[[但馬国|但馬守]]&lt;br /&gt;
|慶長18年  - [[元和 (日本)|元和]]5年&amp;lt;br /&amp;gt;1613年 - 1619年&lt;br /&gt;
|48&lt;br /&gt;
|浅野家&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家（紀州徳川家） ===&lt;br /&gt;
[[親藩]] - 55万5千石&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:left&amp;quot; border=&amp;quot;1&amp;quot; frame=&amp;quot;box&amp;quot; rules=&amp;quot;all&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;3&amp;quot;&lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;&lt;br /&gt;
! 代&lt;br /&gt;
! 藩主&lt;br /&gt;
! 院号&lt;br /&gt;
! 官位&lt;br /&gt;
! 在任&lt;br /&gt;
! 享年&lt;br /&gt;
! 出自&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|1&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ よりのぶ}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川頼宣|徳川 頼宣]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|南龍大神&amp;lt;br /&amp;gt;南龍院&lt;br /&gt;
|[[従二位]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[大納言|権大納言]]&lt;br /&gt;
|[[元和 (日本)|元和]]5年 - [[寛文]]7年&amp;lt;br /&amp;gt;1619年 - 1667年&lt;br /&gt;
|70&lt;br /&gt;
|[[徳川氏|徳川家]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|2&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ みつさだ}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川光貞|徳川 光貞]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|清渓院&lt;br /&gt;
|従二位&amp;lt;br /&amp;gt;権大納言&lt;br /&gt;
|寛文7年 - [[元禄]]11年&amp;lt;br /&amp;gt;1667年 - 1698年&lt;br /&gt;
|80&lt;br /&gt;
|[[紀州徳川家]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|3&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ つなのり}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川綱教|徳川 綱教]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|高林院&lt;br /&gt;
|[[従三位]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[中納言|権中納言]]&lt;br /&gt;
|元禄11年 - [[宝永]]2年&amp;lt;br /&amp;gt;1698年 - 1705年&lt;br /&gt;
|41&lt;br /&gt;
|紀州徳川家&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|4&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ よりもと}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川頼職|徳川 頼職]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|深覚院&lt;br /&gt;
|[[従四位|従四位下]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[左近衛権少将]]&lt;br /&gt;
|宝永2年（6月 - 9月）&amp;lt;br /&amp;gt;1705年&lt;br /&gt;
|26&lt;br /&gt;
|紀州徳川家&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|5&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ よしむね}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川吉宗|徳川 吉宗]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|有徳院&lt;br /&gt;
|従三位&amp;lt;br /&amp;gt;権中納言&lt;br /&gt;
|宝永2年 - [[正徳 (日本)|正徳]]6年&amp;lt;br /&amp;gt;1705年 - 1716年&lt;br /&gt;
|68&lt;br /&gt;
|紀州徳川家&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|6&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ むねなお}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川宗直|徳川 宗直]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|大慧院&lt;br /&gt;
|従二位&amp;lt;br /&amp;gt;権大納言&lt;br /&gt;
|正徳6年 - [[宝暦]]7年&amp;lt;br /&amp;gt;1716年 - 1757年&lt;br /&gt;
|76&lt;br /&gt;
|[[西条藩|伊予西条松平家]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|7&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ むねのぶ}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川宗将|徳川 宗将]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|菩提心院&lt;br /&gt;
|従三位&amp;lt;br /&amp;gt;権中納言&lt;br /&gt;
|宝暦7年 - [[明和]]2年&amp;lt;br /&amp;gt;1757年 - 1765年&lt;br /&gt;
|46&lt;br /&gt;
|宗直流&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|8&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ しげのり}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川重倫|徳川 重倫]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|観自在院&lt;br /&gt;
|従三位&amp;lt;br /&amp;gt;権中納言&lt;br /&gt;
|明和2年 - [[安永]]4年&amp;lt;br /&amp;gt;1765年 - 1775年&lt;br /&gt;
|84&lt;br /&gt;
|宗直流&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|9&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ はるさだ}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川治貞|徳川 治貞]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|香嚴院&lt;br /&gt;
|従三位&amp;lt;br /&amp;gt;権中納言&lt;br /&gt;
|安永4年 - [[天明]]9年&amp;lt;br /&amp;gt;1775年 - 1789年&lt;br /&gt;
|62&lt;br /&gt;
|伊予西条松平家&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|10&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ はるとみ}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川治宝|徳川 治宝]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|舜恭院&lt;br /&gt;
|[[従一位]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[大納言]]&lt;br /&gt;
|天明9年 - [[文政]]7年&amp;lt;br /&amp;gt;1789年 - 1824年&lt;br /&gt;
|83&lt;br /&gt;
|宗直流&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|11&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ なりゆき}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川斉順|徳川 斉順]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|顕龍院&lt;br /&gt;
|[[正二位]]&amp;lt;br /&amp;gt;権大納言&lt;br /&gt;
|文政7年 - [[弘化]]3年&amp;lt;br /&amp;gt;1824年 - 1846年&lt;br /&gt;
|46&lt;br /&gt;
|[[清水徳川家]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|12&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ なりかつ}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川斉彊|徳川 斉彊]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|憲章院&lt;br /&gt;
|従二位&amp;lt;br /&amp;gt;大納言&lt;br /&gt;
|弘化3年 - [[嘉永]]2年&amp;lt;br /&amp;gt;1846年 - 1849年&lt;br /&gt;
|30&lt;br /&gt;
|清水徳川家&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|13&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ よしとみ}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川家茂|徳川 慶福]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|昭徳院&lt;br /&gt;
|正二位&amp;lt;br /&amp;gt;権大納言&lt;br /&gt;
|嘉永2年 - [[安政]]5年&amp;lt;br /&amp;gt;1849年 - 1858年&lt;br /&gt;
|21&lt;br /&gt;
|斉順流&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#eee&amp;quot;|14&lt;br /&gt;
|{{smaller|とくがわ もちつぐ}}&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:115%&amp;quot;&amp;gt;[[徳川茂承|徳川 茂承]]&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
|慈承院&lt;br /&gt;
|[[正三位]]&amp;lt;br /&amp;gt;権中納言&lt;br /&gt;
|安政5年 - [[明治]]2年&amp;lt;br /&amp;gt;1858年 - 1869年&lt;br /&gt;
|63&lt;br /&gt;
|伊予西条松平家&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 支藩 ==&lt;br /&gt;
* [[伊予国|伊予]][[西条藩]]3万石（[[愛媛県]][[西条市]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家老 ==&lt;br /&gt;
; [[御附家老|附家老]]&lt;br /&gt;
* [[三河安藤氏|安藤家]] - （紀伊[[田辺城 (紀伊国)|田辺城主]]3万8千石）幕末に[[紀伊田辺藩]]として独立、維新後[[男爵]]&lt;br /&gt;
* [[水野氏|水野家]] - （紀伊[[新宮城|新宮城主]]3万5千石）幕末に[[紀伊新宮藩]]として独立、維新後男爵&lt;br /&gt;
* [[安房正木氏|三浦家]] - （紀伊貴志領1万5千石・藩主外戚）維新後男爵&lt;br /&gt;
:[[正木頼忠]]（藩主・[[徳川頼宣|頼宣]]の外祖父）- [[三浦為春|為春]]－[[三浦為時|為時]]－[[三浦為隆|為隆]]＝[[三浦為恭|為恭]]＝[[三浦為脩|為脩]]－[[三浦為積|為積]]－[[三浦為章|為章]]－[[三浦権五郎|為質]]＝三七－英太郎－修－孝昭&lt;br /&gt;
* [[久野氏|久野家]] - （伊勢[[田丸城|田丸城代]]1万石）&lt;br /&gt;
:[[久野宗成]]－[[久野宗晴|宗晴]]－[[久野宗俊|宗俊]]－[[久野俊正|俊正]]－[[久野俊純|俊純]]－[[久野輝純|輝純]]－[[久野昌純|昌純]]－[[久野純固|純固]]&lt;br /&gt;
* [[水野氏|水野太郎作家]] - （7千石、正知の代に1万石格）安藤、水野、三浦、久野に水野太郎作家を加えて五家と称する。&lt;br /&gt;
:水野正重－義重＝重増＝忠知＝知義－正実=正珍－正純＝正清＝正知＝正義&lt;br /&gt;
* 渡辺主水家 - （3千石 恭綱は[[松平頼純]]の庶長子）&lt;br /&gt;
:[[渡辺恭綱]]－[[渡辺豊綱|豊綱]]＝[[渡辺則綱 (紀州藩士)|則綱]]＝[[渡辺親綱|親綱]]－[[渡辺載綱|載綱]]＝[[渡辺登綱 (紀州藩士)|登綱]]－[[渡辺沿綱|沿綱]]－[[渡辺為綱|為綱]]&lt;br /&gt;
* 村上与兵衛家 - （3千5百石）&lt;br /&gt;
* 伊達源左衛門家 - （3千石）&lt;br /&gt;
* 戸田金左衛門家 - （3千2百石）&lt;br /&gt;
* 加納平次右衛門家 - （4千石）&lt;br /&gt;
* 水野多門家 - （3千石）&lt;br /&gt;
* 朝比奈惣左衛門家 - （3千石）&lt;br /&gt;
* 岡野平太夫家 - （4千石）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 支城 ==&lt;br /&gt;
* [[松坂城]] - 松坂城代預かり（[[三重県]][[松阪市]]）&lt;br /&gt;
* [[田丸城]] - 城代久野家預かり（[[三重県]][[度会郡]][[玉城町]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 別邸など ==&lt;br /&gt;
* 巖出御殿の臨春閣は、[[慶安]]2年（1649年）の建築だが、現在は[[神奈川県]][[横浜市]]の[[三渓園]]にある。&lt;br /&gt;
* [[養翠園|西浜御殿]]は、[[文政]]4年（1821年）に建てられたもので国の[[名勝]]に指定されている。&lt;br /&gt;
* [[日光田母沢御用邸記念公園|田母沢御用邸]]（[[栃木県]][[日光市]]）は、紀州藩江戸上屋敷の一部を移築し、それを核に[[明治]]、[[大正|大正時代]]に建て増した建物である。&lt;br /&gt;
* 和歌山城二の丸御殿は[[明治]]18年（1885年）大阪城に移築されたが、[[昭和]]22年（1947年）失火により焼失した。&lt;br /&gt;
* 和歌山城本丸御殿は取り壊されたが、御台所のみが和歌山市の[[光恩寺 (和歌山市)|光恩寺]]に[[庫裏|庫裡]]として移築された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 幕末の領地 ==&lt;br /&gt;
* [[紀伊国]]&lt;br /&gt;
** [[海部郡 (和歌山県)|海部郡]] - 59村&lt;br /&gt;
** [[名草郡]]のうち - 147村&lt;br /&gt;
** [[那賀郡]]のうち - 170村&lt;br /&gt;
** [[伊都郡]]のうち - 87村&lt;br /&gt;
** [[有田郡]]のうち - 134村&lt;br /&gt;
** [[日高郡 (和歌山県)|日高郡]]のうち - 115村&lt;br /&gt;
** [[牟婁郡]]のうち - 272村（うち60村を[[度会県]]に編入）&lt;br /&gt;
* [[伊勢国]]&lt;br /&gt;
** [[飯高郡]] - 115村&lt;br /&gt;
** [[三重郡]]のうち - 1村　&lt;br /&gt;
** [[河曲郡]]のうち - 35村&lt;br /&gt;
** [[一志郡]]のうち - 58村&lt;br /&gt;
** [[多気郡]]のうち - 97村&lt;br /&gt;
** [[度会郡]]のうち - 147村&lt;br /&gt;
* [[近江国]]&lt;br /&gt;
** [[坂田郡]]のうち - 2村（[[大津県]]に編入）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[明治維新]]後に、[[大和国]][[吉野郡]]1村（[[五條代官所]]管轄の旧[[天領|幕府領]]）、[[北見国]][[紋別郡]]が加わったほか、一志郡1村（津藩領との[[相給]]）、飯野郡1村（[[津藩]]領との相給）、度会郡1村（幕府領との相給）の全域を本藩領とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[田丸藩]]&lt;br /&gt;
* [[表千家]]&lt;br /&gt;
* [[木村友重]]（木村助九郎）&lt;br /&gt;
* [[田宮流]]&lt;br /&gt;
* [[関口新心流]]（関口流）&lt;br /&gt;
* [[岩倉流泳法]]（川上流）&lt;br /&gt;
* [[柳剛流]]&lt;br /&gt;
* [[南紀重国]]&lt;br /&gt;
* [[番所庭園]]&lt;br /&gt;
* [[まりと殿様]]（作詞：[[西条八十]]、作曲：[[中山晋平]]の童謡）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.jp/kobudokenbn/kisyub.html/ 旧紀州藩の武道の流派]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{江戸時代の藩}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きしゆうはん}}&lt;br /&gt;
[[Category:紀州藩|!]]&lt;br /&gt;
[[Category:藩|きしゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀伊国]]&lt;br /&gt;
[[Category:浅野氏|藩きしゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:紀州徳川氏|藩]]&lt;br /&gt;
[[Category:和歌山県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:和歌山市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:三重県の歴史]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%A5%B5%E6%AE%BF&amp;diff=214164</id>
		<title>大極殿</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%A5%B5%E6%AE%BF&amp;diff=214164"/>
				<updated>2013-12-22T17:28:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''大極殿'''（だいごくでん）は、古代の日本における朝廷の正殿。  ==概要== 宮城（大内裏）の朝堂院の北端...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大極殿'''（だいごくでん）は、古代の[[日本]]における[[朝廷]]の[[正殿]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
[[宮城]]（[[大内裏]]）の[[朝堂院]]の北端中央にあり、殿内には[[高御座]]（たかみくら）が据えられ、[[即位の礼|即位の大礼]]や国家的儀式が行われた。中国の[[道教]]では[[天皇大帝]]の居所をいう。「大極殿」の名は、万物の根源、[[空|天空]]の中心を意味する「[[太極]]」に由来する。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、[[飛鳥浄御原宮]]説（[[福山敏男]]・[[小澤毅]]・[[渡辺晃宏]]ら）と[[藤原宮]]説（[[狩野久]]・[[鬼頭清明]]ら）に分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 原型 ==&lt;br /&gt;
大極殿の原型は、[[飛鳥]]の[[小墾田宮]]の「大殿」にあったと考えられる。小墾田宮は、[[推古天皇]]の時代、それまでの[[豊浦宮]]にかわって[[603年]]（推古11年）に造営された[[宮殿|宮]]である。『日本書紀』の記述によれば、この宮は、南に宮の正門である「南門」（宮門）を構え、その北に[[諸大夫]]の勤める「庁（まつりごとどの）」が左右に並び、その間の中央広場としてオープンスペースの「[[朝庭]]」があり、さらにその北中央に「大門」（閤門）、その奥に推古女帝の出御する「大殿」がひかえるという構造であったことが示されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような宮の構造は、[[608年]]（推古16年）に[[隋]]の使節[[裴世清]]や[[611年]]（推古19年）の[[新羅|新羅使]]、[[任那|任那使]]の来朝に関する『日本書紀』の記載からうかがわれる。なお、「庁」はのちの[[朝堂]]の起源となった建物と考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吉村武彦によれば、小墾田宮は「単純な構造ながら、のちの藤原宮や平城宮にみられるような、都宮の基本構造の原型として考え」られる。ただし、「大殿」や「庁」、「朝庭」の[[遺構]]は検出されていないので、その規模等については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[乙巳の変]]後、[[中大兄皇子|天智天皇]]や[[孝徳天皇]]らによって[[650年]]（[[白雉]]元年）に造営のはじまった[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]は、[[難波宮|難波宮跡]]の[[発掘調査]]の結果、[[難波宮#前期難波宮|前期難波宮跡]]がそれに相当するとの見方が確実である。北に[[天皇]]の居所である[[内裏]]があり、そのうち前殿がのちの大極殿に相当する殿舎である。内裏前殿をふくむ内裏空間と[[官人]]の出仕する朝堂・朝庭の空間の境には内裏南門があり、この門は桁行7間、梁行2間（32.7×12.3メートル）で平城宮の[[朱雀門]]をしのぐ規模である。内裏南門の東西入口には、他に例をみない[[遺構]]「八角殿院」があり、鐘楼のような施設の存在が考えられる。「天子南面」の思想により、内裏の南には朝堂・朝庭の区域があり、その規模は東西233.4メートル、南北263.2メートルにおよぶ。そこでは、少なくとも計14堂の朝堂（庁）があったことを確認しており、藤原宮や平安宮の12堂を上まわる。この宮に特徴的なのは、朝庭の広さであり、空前絶後の規模といってよい。また、すべての建物が[[掘立柱建物]]であり、[[瓦]]はまだ使用されていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 変遷 ==&lt;br /&gt;
===飛鳥浄御原宮「エビノコ大殿」===&lt;br /&gt;
『日本書紀』には、[[681年]]（天武10年）2月、[[天武天皇]]と皇后（のちの[[持統天皇]]）は諸臣を「大極殿」に召し、[[飛鳥浄御原令]]の制定を指示したという記事がある。ここで「大極殿」という殿舎の名があることに注目するのが、冒頭に掲げた福田・小澤・渡辺らである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飛鳥浄御原宮の所在地は、近年の調査成果では、[[飛鳥京]]跡の上層遺構をあてるのが通説となっており、浄御原宮は、後飛鳥岡本宮の内郭に東南郭を加えて完成したとされている。東南郭は所在する字名より通称「エビノコ郭」と呼ばれる一郭であり、そのなかから大規模な正殿の跡を発見している。これが通称「エビノコ大殿」である。渡辺晃宏は、この大殿こそ、『日本書紀』記載の大極殿の可能性が高いとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、飛鳥京跡上層遺構からは「前殿」と称される東西建物跡2棟が検出されており、これが飛鳥浄御原宮にともなう朝堂相当施設ではないかとされている。ただし、「エビノコ郭」南側には[[飛鳥川 (奈良県)|飛鳥川]]が間近に迫っていることから、広大な朝庭を確保することは困難であったろうと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===藤原宮の大極殿===&lt;br /&gt;
規模や内部の殿堂配置の明確な宮城としては、[[条坊制]]の採られた初の本格的[[都城]]として建設された[[藤原京|新益京]]（藤原京）の藤原宮が最古である。藤原宮は、周辺京域の建設が進められたあと、北の[[耳成山]]、西の[[畝傍山]]、東の[[天香具山]]のいわゆる「[[大和三山]]」のなかに造営され、[[694年]]（持統8年）に正式に遷された宮である。発掘調査によれば、藤原宮造営は天武天皇の時代に着手されており、その造営にあたっては、南北大溝や条坊にともなう[[側溝]]が埋め立てられたのちに大極殿院の北面回廊が建設されていることから、藤原宮の大極殿造営以前に条坊道路が造成されていることが判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藤原宮の大極殿は大極殿院の一郭のほぼ中央に位置している。また、大極殿院の南面にあって太政官院（のちの朝堂院）との境界をなす門（大極殿閤門（こうもん））は、藤原宮のちょうど中心に位置する。藤原宮は新益京（藤原京）のほぼ中央に位置することから、大極殿閤門は京域全体からみてその中心にあたる。ここに『[[周礼]]』考工記など[[漢籍]]にみえる都城のあるべき姿にもとづいて設計された「理念先行型の都城」をみることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれにせよ、朝堂院（太政官院）の正殿としての大極殿が藤原宮をもって成立した点については、飛鳥浄御原宮説に立つ研究者も共通の認識に立っており、小澤毅も、原則としては、天皇の独占的な空間としての大極殿およびそれを取り囲む一郭は藤原宮において成立したとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、天武・持統の代にあっても辺境の民を[[飛鳥寺]]の西の広場で饗応していたことが『日本書紀』より明らかであるが、文武朝にあってようやく、藤原宮の大極殿や太政官院へ移動したものと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===平城京・恭仁京の大極殿===&lt;br /&gt;
[[恭仁京]]（くにきょう）遷都までの大極殿を第一次大極殿、[[奈良]]に都が戻ってからの大極殿を第二次大極殿という。第一次大極殿は[[平城宮]]の正門である[[朱雀門]]の真北に位置し、第二次大極殿は平城宮東寄りの[[壬生門]]北に位置している。第二次大極殿跡は近世まで「大黒（ダイコク）の芝」と呼ばれた基壇が残っていた。この命名は、平城京遷都当初は朱雀門北の地域に大極殿が設けられたものの、恭仁京大極殿の規模と一致するところから[[745年]]（[[天平]]15年）に壬生門北に移動したものと考えられたためであったが、第二次大極殿跡の下層から掘立柱建物の遺構が検出され、それが大極殿・朝堂院と同じ建物配置をとることから、結局、奈良時代の前半には朱雀門北の広大な前庭をもち朝堂2堂をともなう第一次大極殿（中央の大極殿）と壬生門北の朝堂12堂よりなる太政官院のさらに北にある内裏南面の大極殿（東側の大極殿）の2棟あることがわかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中央の第一次大極殿の周囲は[[築地塀|築地]][[回廊]]で囲まれ、南の朝堂区域とつながる「閤門」があった。この区域は「大極殿院」と呼ばれる。広い前庭をともない、前庭から1段高い位置に大極殿が建設されているが、これは平安宮の龍尾壇（竜尾壇 りゅうびだん）の原型と考えられる。[[正月]]の[[元日]]には大極殿前庭に七本の宝幢（ほうどう）が立てられ諸臣の[[朝賀]]が行われた。他に、[[即位の礼|即位式]]や外国使節謁見などの[[朝儀]]の空間として使用されていたと考えられる。[[元正天皇]]や[[聖武天皇]]の即位も大極殿院でおこなわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それに対し、第二次大極殿下層の東側大極殿は、日常の[[朝政]]にあたる空間だったと考えられ、このような機能分化は、[[唐]][[長安|長安城]]の[[太極宮]]太極殿と[[大明宮]]含元殿の影響を受けたものと指摘される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奈良時代の後半は、中央の第一次大極殿院の跡地は朝儀の場としては使われなくなり、儀式の機能は東側、壬生門北の第二次大極殿に集約されたものと考えられる。したがって、壬生門北は、北より＜内裏、大極殿、12堂の朝堂よりなる太政官院（朝堂院）、2堂の[[朝集殿]]、壬生門＞が一直線に建ち並ぶ形態となり、壬生門を入ってすぐ北の両側には東に式部省、西に兵部省の建物があるという配置となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一次大極殿地区に関しては、仁藤敦史が[[木簡]]や[[史料]]にみられる「西宮」を第一次大極殿地区に想定している。すなわち、[[饗宴]]などに用いられてきた第一次大極殿地区が居住区画に改造されたとみる。その改造は、発掘調査の成果からは、平城京への還都（[[745年]]）直後ではなく、早くとも[[天平勝宝]]年間（[[749年]]-[[757年]]）以降と考えられており、[[天平神護]]（[[765年]]-[[767年]]）のころには積極的な改造がなされた形跡がない。仁藤は、このことを天平勝宝元年の[[聖武天皇]]の[[孝謙天皇]]への譲位、すなわち「聖武上皇」の成立と深い連関があるのではないかと推測している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、奈良建都1300年に当たる[[2010年]]に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物大で復元された。（→[[平城遷都1300年記念事業]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大棟中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金具の出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を通じ、この金具の意匠設計を進めたという。&lt;br /&gt;
宝珠形の大棟中央飾りの類例として、初唐の敦煌莫高窟第338窟壁画の邸宅（宮殿?）、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===難波京の大極殿===&lt;br /&gt;
[[難波京]]の[[難波宮]]（後期難波宮）は、[[723年]]（[[養老]]7年）、[[複都制]]により平城京の副都として造営された宮である。[[聖武天皇]]治下の[[744年]]（[[天平]]16年）、天皇が突如、難波宮への遷都を表明し、諸臣はそのとき[[恭仁京]]遷都を推す人が多かったというが、天皇は難波への行幸を決行したといわれる。難波に着いてほどなく、天皇は[[紫香楽宮]]へ移り、結局、留守司の[[橘諸兄]]より難波を皇都とする旨の[[詔勅|勅]]が出された。しかし、紫香楽宮で震災に遭遇した聖武朝は群臣そろって平城京への還都を決め、745年（天平17年）の還都後は、再び、長岡遷都直前の[[793年]]（[[延暦]]12年）まで平城京の副都の地位にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
難波宮は、[[1961年]]（[[昭和]]36年）、[[山根徳太郎]]により発見されそののち[[発掘調査]]がなされたが、この宮の下層から検出されたのが上述した前期難波宮である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後期難波宮は、北より[[内裏]]、大極殿、[[朝堂]]8堂よりなる朝堂区域（[[朝庭]]ふくむ）、[[朝集殿]]2堂が一直線にならぶ形態をとっており、建物数、構造配置のうえで長岡宮に類似しており、長岡宮は難波宮の建物を移築して営まれたことが判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は、[[難波宮|難波宮史跡公園]]に土台が復元されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===長岡京・平安京の大極殿===&lt;br /&gt;
[[長岡京]]段階から、朝堂院と内裏の分離がはじまっている。これは、天皇が大極殿に出御しておこなわれていた[[朝政]]が、内裏で行われるようになったためである。そのいっぽうで大極殿は朝堂区域との一体化を強め、大極殿・朝堂・朝集殿をまとめて朝堂院とする呼称は、[[桓武天皇]]の[[792年]]（[[延暦]]11年）に生まれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[794年]]（延暦13年）に遷都された[[平安京]]の大極殿はそれ以前のものが築地回廊で囲まれ、閤門を持っていたのと異なり、南の朝堂と直接つながる構造となった。すなわち、朝堂院は長岡京の時代にくらべ、いっそう一体化を深めた。ただし大極殿は龍尾壇上に建っており、その境界には朱欄（朱色の手すり）が設けられ、朝堂と大極殿とは「龍尾道」と呼ばれる階段で往来した。龍尾壇は今日の[[平安神宮]]でも見ることが出来る。大極殿の後背には「小安殿」（こあどの）と呼ばれる殿舎が軒廊（こんろう）でつながり、天皇出御の際に休憩所として利用された。また、龍尾壇を昇った左右には「白虎楼」「蒼龍楼」という小[[楼閣]]が対置されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9世紀]]中ごろになると、天皇が宮城（大内裏）から出かけることは、[[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]、臣下の邸宅、[[太上天皇|上皇]]の居所などごく一部に限られるようになり、はなはだしくは「大極院行幸」の表現さえ生まれたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平安時代|平安末期]]、[[後白河天皇|後白河法皇]]の命で作られた『[[年中行事絵巻]]』には東西11[[間]]、南北4間で、[[朱]]塗りの柱と[[瓦葺屋根|瓦葺き]][[入母屋造]]の[[屋根]]に金色の[[鴟尾]]を戴く大極殿が鮮やかに描かれており、平安神宮大極殿や平城宮跡の大極殿復元事業でも参考とされた。なお、『年中行事絵巻』や、[[1895年]]（[[明治]]28年）京都市参事会によって編纂された『平安通志』には、単層の大極殿が描かれているが、大極殿殿舎は火災により2度も建て替えられており、[[970年]]（[[天禄]]元年）成立の『[[口遊]]（くちずさみ）』に「雲太、和二、京三」と見えるように、当初は[[出雲大社]]や[[奈良]]の[[東大寺]]大仏殿に匹敵する大建築であり、『年中行事絵巻』所載のものは[[1072年]]（[[延久]]4年）に建て替えられた姿で、本来は重層（2階建て）であったとも推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平安時代]]中後期から焼亡と再建を繰り返し、朝廷の儀式の中心が[[内裏]]の[[紫宸殿]]へ移行していくのに従い衰微していった。[[1177年]]（[[安元]]3年）に起きた[[安元の大火]]による焼失ののちは再建されることなく廃絶した。[[京都市]][[中京区]][[千本通|千本]][[丸太町通|丸太町]]の旧跡には、1895年（明治28年）に平安奠都1100年を記念して建てられた[[石碑]]を見ることが出来る。ただし、その跡は石碑の付近ではなく、千本丸太町の[[交差点]]付近であったことが明らかとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[平安神宮]]は平安宮朝堂院を模して建立されたものであり、[[拝殿|外拝殿]]として大極殿が8分の5の規模で模して建設された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
* [[難波宮]]&lt;br /&gt;
* [[難波京]]&lt;br /&gt;
* [[平城京]]&lt;br /&gt;
* [[平安京]]&lt;br /&gt;
* [[大内裏]]&lt;br /&gt;
* [[内裏]]&lt;br /&gt;
* [[朝堂院]]&lt;br /&gt;
* [[朝堂]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
* [[京都市]]編纂・発行『平安建都1200年記念 甦る平安京』&lt;br /&gt;
* [[渡辺晃宏]]『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』[[講談社]]、2001年2月。ISBN 4-06-268904-9&lt;br /&gt;
* [[坂上康俊]]『日本の歴史05 律令国家の転換と「日本」』講談社、2001年3月。ISBN 4-06-268905-7&lt;br /&gt;
* [[吉村武彦]]『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』[[集英社]]、1991年8月。ISBN 4-08-195003-2&lt;br /&gt;
* [[仁藤敦史]]『古代王権と都城』[[吉川弘文館]]、1998年2月。ISBN 4-642-02324-0&lt;br /&gt;
* [[古市晃]]「難波宮発掘」[[森公章]]『日本の時代史3 倭国から日本へ』吉川弘文館、2002年8月。ISBN 4-642-00803-9&lt;br /&gt;
* [[小澤毅]]「都城の誕生-藤原京-」森公章『日本の時代史3 倭国から日本へ』吉川弘文館、2002年8月。ISBN 4-642-00803-9&lt;br /&gt;
* 山田 宏・窪寺　茂・清水重敦「古代建築の大棟中央飾り －平城宮大極殿の復元研究－」『奈良文化財研究所紀要』[[奈良文化財研究所]]、2006年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連文献==&lt;br /&gt;
* [[福山敏男]]『住宅建築の研究』（『福山敏男著作集5』）[[中央公論美術出版]]、1984年8月。ISBN 4-80-551405-1 &lt;br /&gt;
* [[狩野久]]『日本古代の国家と都城』[[東京大学出版会]]、1990年9月。ISBN 4-13-020094-1 &lt;br /&gt;
* 小澤毅「飛鳥浄御原宮の構造」『堅田直先生古希記念論文集』[[真陽社]]、1997年。&lt;br /&gt;
* [[鬼頭清明]]『古代木簡と都城の研究』[[塙書房]]、2000年3月。ISBN 48-27-31165-X &lt;br /&gt;
* [[鈴木圭二]]「日本古代の行幸」『ヒストリア』125、1989年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいこくてん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の宮殿]]&lt;br /&gt;
[[Category:飛鳥時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安京]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良県の建築物|廃たいこくてん]]&lt;br /&gt;
[[Category:現存しない大阪府の建築物]]&lt;br /&gt;
[[Category:現存しない京都府の建築物]]&lt;br /&gt;
[[Category:上京区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:中京区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:神社建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の庁舎|旧たいこくてん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE&amp;diff=214163</id>
		<title>熊野権現</title>
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				<updated>2013-12-22T17:23:52Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''熊野権現'''は、熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。熊...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊野権現'''は、[[熊野三山]]に祀られる[[神 (神道)|神]]であり、[[本地垂迹]]思想のもとで[[権現]]と呼ばれるようになった。熊野神は各地の神社に勧請されており、熊野神を祀る[[熊野神社]]・[[十二所神社]]は日本全国に約3千社ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 縁起 ==&lt;br /&gt;
熊野権現とは熊野三山の祭神である神々をいい、特に主祭神である家津美御子（けつみみこ）・速玉・牟須美（ふすび、むすび、または「結」とも表記）のみを指して'''熊野三所権現'''、熊野三所権現以外の神々も含めて'''熊野十二所権現'''ともいう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊野三山は[[熊野本宮大社]]・[[熊野速玉大社]]・[[熊野那智大社]]の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は[[崇神天皇]]代、速玉は[[景行天皇]]代（『扶桑略記』）、那智は[[孝昭天皇]]代に裸行が開基した（『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』）したとするが定かではない。正史において、神名が確実に確認できるのは大同元年（806年）の史料中にある記述で、天平神護2年（766年）付で速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の神封を施入したとあるもので、これら2柱の神は今日の[[新宮市|新宮]]に比定される熊野神邑（くまのしんそん）に一緒に祀られていたと見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9世紀]]中ごろになると、単に熊野坐神（くまのにますかみ）とだけ呼ばれ、神名が明確でなかった本宮の神が家津美御子ないし証誠菩薩と呼ばれるようになり、新宮の牟須美・速玉とともに家津美御子が古くからの熊野神であるとの伝承が成立した（「熊野権現垂迹縁起」、『長寛勘文』所収））。さらに、『[[中右記]]』[[天仁]]2年（1109年）10月26日条にはこれら3柱の神名のみならず、五所王子、一万眷属、十万金剛童子、勧請十五所、飛行夜叉、米持（めいじ）金剛童子の名が挙げられ、[[鳥羽天皇|鳥羽院]]・[[藤原璋子|待賢門院]]の参詣記（『[[長秋記]]』所収）[[長承]]3年2月1日条には『中右記』に挙げられていた十二所権現とその本地仏が挙げられており、この頃までに熊野三所権現および熊野十二所権現が確立していたことが分かる。那智は本宮・速玉とは性格を異にし、古くは滝篭行の聖地として知られ、当初は結神を主祭神としていたが、鎌倉時代初期に成立した『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』には熊野十二所権現の祭祀に関する縁起譚が記されており、この頃までに本宮・速玉の祭神をもあわせ祀っていたことが分かる。以上のように、12世紀末までに三山が互いの祭神を祀りあうことにより、三山は一体化を遂げたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 熊野権現 ==&lt;br /&gt;
各神社の主祭神は以下の通りであるが、相互に祭神を[[勧請]]しあい、前述のように三山では三神を一緒に祀っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊野本宮大社の主祭神の'''家都御子神'''（けつみこのかみ）または家都美御子神（けつみこのかみ）は[[阿弥陀如来]]、新宮の熊野速玉大社の'''熊野速玉男神'''（くまのはやたまおのかみ）または速玉神（はやたまのかみ）は[[薬師如来]]、熊野那智大社の'''熊野牟須美神'''（くまのむすみのかみ）または夫須美神（ふすみのかみ）は[[千手観音]]とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三山はそれぞれ、本宮は西方[[極楽浄土]]、新宮は東方[[浄瑠璃浄土]]、那智は南方[[補陀落浄土]]の地であると考えられ、[[平安時代]]以降には熊野全体が[[浄土]]の地であるとみなされるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊野本宮大社・熊野速玉大社では十二柱の神が以下のように祀られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|+'''熊野十二所権現&amp;lt;ref&amp;gt;宮家[1992: 60]の表による&amp;lt;/ref&amp;gt;'''&lt;br /&gt;
!colspan=5|社殿!!祭神!!本地仏!!神像&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=4|上四社&lt;br /&gt;
|rowspan=3|三所権現&lt;br /&gt;
|rowspan=2|両所権現&lt;br /&gt;
|第一殿||西宮（結宮）||[[イザナミ|伊邪那美尊]]・熊野牟須美大神・事解之男神||[[千手観音]]||女形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第二殿||中宮（早玉明神）||[[イザナギ|伊邪那岐大神]]・速玉之男神||[[薬師如来]]||俗形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|證証&lt;br /&gt;
|第三殿||丞相（家津王子）||国常立命・家津美御子大神||[[阿弥陀如来]]||法形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=5 colspan=2|五所王子&lt;br /&gt;
|第四殿||若宮||[[天照大神|天照大神]]（[[若一王子|若女一王子]]）||[[十一面観音]]||女形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=4|中四社&lt;br /&gt;
|第五殿||禅児宮||[[アメノオシホミミ|天忍穂耳命]]||[[地蔵菩薩]]||法形（または俗形）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第六殿||聖宮||[[ニニギ|瓊々杵尊命]]||[[龍樹菩薩]]||法形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第七殿||児宮||[[ホオリ|彦火々出見尊]]||[[如意輪観音]]||法形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第八殿||子守宮||[[ウガヤフキアエズ|鸕鶿草葺不合命]]||[[聖観音]]||女形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|rowspan=4|下四社&lt;br /&gt;
|rowspan=4 colspan=2|四所明神&lt;br /&gt;
|第九殿||一万宮・&amp;lt;br/&amp;gt;十万宮||[[カグツチ|軻遇突智命]]・&amp;lt;br/&amp;gt;||[[文殊菩薩]]・[[普賢菩薩]]||俗形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十殿||米持金剛||[[ハニヤス|埴山姫命]]||[[毘沙門天]]||俗形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十一殿||飛行夜叉||[[ミヅハノメ|彌都波能賣命]]||[[不動明王]]||夜叉形&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|第十二殿||勧請十五所||[[ワクムスビ|稚産霊命]]||[[釈迦如来]]||俗形&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
熊野那智大社では「瀧宮」（祭神 [[大己貴命]]（飛瀧権現）、本地仏 千手観音）を第一殿として、以下一殿ずつ繰り下げとなり、中四社・下四社の八神を第六殿（八社殿）に祀り、あわせて「十三所権現」となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
* 宮家 準、1992、『熊野修験』、吉川弘文館（日本歴史叢書48） ISBN 4-642-06649-7&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[熊野三山]]&lt;br /&gt;
* [[鈴木氏]]&lt;br /&gt;
* 熊野権現縁起絵巻&lt;br /&gt;
* [[本地垂迹]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www2.ocn.ne.jp/~sanzan/NTTcontents/hongu/ 熊野本宮大社]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまのこんけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:熊野信仰|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:修験道の神]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE&amp;diff=214162</id>
		<title>熊野神社</title>
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				<updated>2013-12-22T17:20:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''熊野神社'''は、熊野三山の祭神の勧請を受けた神社である。同名または'''熊野社'''・'''十二所神社'''など類似の社名...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''熊野神社'''は、[[熊野三山]]の祭神の勧請を受けた[[神社]]である。同名または'''熊野社'''・'''[[十二所神社]]'''など類似の社名の神社が全国各地にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 熊野神社とは ==&lt;br /&gt;
熊野神社は[[熊野三山]]（[[熊野本宮大社]]、[[熊野速玉大社]]、[[熊野那智大社]]）の祭神を勧請された神社のことである。[[熊野詣]]の盛行や有力者による[[荘園]]の寄進、熊野先達の活動により全国に熊野信仰がひろまったことにより、全国に熊野三山の祭神を勧請した神社が全国に成立した。熊野三山の祭神たる[[熊野権現]]は、その主祭神である熊野三所権現だけでなく、十二所権現をも含んでいる。熊野三山の祭神を勧請するといった場合、三所権現のいずれかひとつの神ないし三神の全て、または十二所権現の全てないし若宮のみを勧請する場合や、九十九王子の中でも重要な五体王子を勧請するものもあり、それら全てを含めて熊野神社とした場合、その数は三千余に達するという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野（[[紀伊国]][[牟婁郡]]）に成立した熊野三山は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。しかしながら、中世熊野詣を担った[[京都|京]]からの参詣者は、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した[[熊野別当|熊野別当家]]が[[承久の乱]]において没落したことによって、[[太上天皇|院]]の参詣は実質的に終焉し、貴族による参詣も13世紀過ぎまでのことであった。かわって、承久の乱以後の鎌倉時代には新たな参詣者層として地方の武士が登場し、15世紀ごろには一般民衆が最盛期を迎えた。[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけて熊野山領の荘園からの収入が減退したことが熊野先達・御師の発達を促し、熊野先達の活動が全国に及んだことで熊野信仰の伝播はいっそう促進された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 分布 ==&lt;br /&gt;
熊野神社の全国的な分布を知る基礎資料となる研究は数点が知られている。広く用いられているのは那智山宮司の松井美幸が調査したもので熊野那智大社編纂の『熊野三山とその信仰』に「熊野三山御分祀」として収められたもので、各社の社格・社名・祭神・鎮座地といった基礎情報を集成したものである。これに次ぐのは堀一郎が『明治神社誌料』『神社大観』をもとに郷社以上の社格を持つ社を都道府県別に集計したもの、神社本庁の岡田米夫が1963年（昭和38年）に編纂した神社名簿をもとに池上らが試みた研究がある。調査の精粗や合祀社の扱いにより、3078社（松井）または2442社（岡田）と総数に相違はあるものの、池上らが指摘するように、熊野神社は、[[八幡神社]]・[[神明神社]]・[[稲荷神社]]と並んで全国的な分布を示していることが確認されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要な熊野神社 ==&lt;br /&gt;
* [[熊野三山]]&lt;br /&gt;
** [[熊野速玉大社]]&lt;br /&gt;
** [[熊野本宮大社]]&lt;br /&gt;
** [[熊野那智大社]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (南陽市)]] ： [[山形県]][[南陽市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野皇大神社]] ： [[長野県]][[北佐久郡]][[軽井沢町]]&lt;br /&gt;
以上の神社は「日本三熊野」と総称され、熊野信仰の中心となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 各地の熊野神社 ==&lt;br /&gt;
以下は、単独名で熊野神社を名乗っている3000社ほどある神社のうちの一例である。この他数多くの熊野社が地方の神社に合祀されている。&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (中泊町)]] ： [[青森県]][[北津軽郡]][[中泊町]]&lt;br /&gt;
* [[三熊野神社 (花巻市)]] ： [[岩手県]][[花巻市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (白鷹町)]] ： [[山形県]][[西置賜郡]][[白鷹町]]大字中山&lt;br /&gt;
* [[新宮熊野神社]] ： [[福島県]][[喜多方市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (和光市)]] ： [[埼玉県]][[和光市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (入間市)]] ： 埼玉県[[入間市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (船橋市)]] ： [[千葉県]][[船橋市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (四街道市内黒田)]] ： 千葉県[[四街道市]]内黒田&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (四街道市亀崎)]] ： 千葉県四街道市亀崎&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (匝瑳市)]] ： 千葉県[[匝瑳市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (旭市)]] ： 千葉県[[旭市]]&lt;br /&gt;
* [[高田熊野神社 (柏市)]] ： 千葉県[[柏市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (横芝光町)]] ： 千葉県[[山武郡]][[横芝光町]]&lt;br /&gt;
* [http://kumanojinja.net/ 前野熊野神社] ： [[東京都]][[板橋区]][[前野町]]&lt;br /&gt;
* [[志村熊野神社]] ： 東京都板橋区[[志村 (板橋区)|志村]]2丁目&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (新宿区)]] ： 東京都[[新宿区]][[西新宿]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (目黒区)]] ： 東京都[[目黒区]][[自由が丘]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (葛飾区)]][http://www.tesshow.jp/katsushika/shrine_tateishi_kumano.shtml] ： 東京都[[葛飾区]][[立石 (葛飾区)|立石]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (東村山市)]] ： 東京都[[東村山市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (八王子市)]] ： 東京都[[八王子市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (国分寺市)]] ： 東京都[[国分寺市]]&lt;br /&gt;
* [[師岡熊野神社]] ：  [[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (横浜市瀬谷区)]] ： 神奈川県横浜市[[瀬谷区]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (鎌倉市)]] ： 神奈川県[[鎌倉市]]&lt;br /&gt;
* [[高田熊野神社 (茅ヶ崎市)]] ： 神奈川県[[茅ヶ崎市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (富山市)]] ： [[富山県]][[富山市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (富士宮市)]] ： [[静岡県]][[富士宮市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (名古屋市)]] ： [[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]権現通&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (西尾市)]] ： 愛知県[[西尾市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (小牧市岩崎)]] ： 愛知県[[小牧市]]岩崎&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (小牧市久保一色)]] ： 愛知県小牧市久保一色&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (北名古屋市)]] ： 愛知県[[北名古屋市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (豊根村)]] ： 愛知県[[北設楽郡]][[豊根村]]&lt;br /&gt;
* [[新熊野神社]] ： [[京都府]][[京都市]][[東山区]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (京都市)]] ： 京都府京都市[[左京区]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (京丹後市)]] ： 京都府[[京丹後市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (神戸市中央区)]] ： [[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]&lt;br /&gt;
* [[鹿塩熊野神社]] ： 兵庫県[[宝塚市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (西宮市)]] ： 兵庫県[[西宮市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (御坊市)]] ： [[和歌山県]][[御坊市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (倉敷市林)]] ： [[岡山県]][[倉敷市]]林&lt;br /&gt;
* 熊野本宮社 ： [[広島県]][[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[熊野町]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (山陽小野田市)]] ： [[山口県]][[山陽小野田市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (安来市)]] ： [[島根県]][[安来市]]（別名；比婆山久米神社）&lt;br /&gt;
* [[熊野権現桃太郎神社]] ： [[香川県]][[高松市]][[鬼無]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (四国中央市)]] ： [[愛媛県]][[四国中央市]]&lt;br /&gt;
* [[魚梁瀬熊野神社]] ： [[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[馬路村]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (馬路村)]] ： 高知県安芸郡馬路村&lt;br /&gt;
* [[松橋神社]] ： [[熊本県]][[宇城市]]&lt;br /&gt;
* [[高塚熊野座神社]] ： 熊本県[[八代郡]][[氷川町]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (出水市)]] ： [[鹿児島県]][[出水市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (三島村)]] ： 鹿児島県[[鹿児島郡]][[三島村]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[紀伊国|紀伊]]の[[熊野三山]]同様に、熊野三社が地理的・方角的に全く同じセット状態になっているのは、日本全国で3000社以上ある熊野神社のなかでも[[宮城県]][[名取市]]の熊野三社だけである。&lt;br /&gt;
*[[名取熊野三社]]&lt;br /&gt;
** [[熊野本宮社 (名取市)|熊野本宮社]] ： [[宮城県]][[名取市]]&lt;br /&gt;
** [[熊野那智神社 (名取市)|熊野那智神社]] ： 宮城県名取市&lt;br /&gt;
** [[熊野神社 (名取市)|熊野神社]] ： 宮城県名取市&lt;br /&gt;
* [[遠州]]の熊野三山&lt;br /&gt;
** [[三熊野神社 (掛川市)]] ： 静岡県[[掛川市]]&lt;br /&gt;
** [[小笠神社]] ： 静岡県掛川市&lt;br /&gt;
** [[高松神社]] ： 静岡県[[御前崎市]]&lt;br /&gt;
* [[熊野神社 (掛川市)]] ： 静岡県掛川市&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
島根県松江市の[[熊野大社]]は、熊野三山とは別の神を祀る神社とされるが、この神社から和歌山の熊野三山に勧請されたとする説もある。[[御坊市]]にある熊野神社（いやじんじゃ）はこの説に基づいている。島根県（旧出雲国）安来市に古事記に記された伊邪那美神の神陵地があり、久米神社となっているが、別名は熊野神社とも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
* 池上 広正・藤井 正雄・宮家 準ほか、1963、「諸宗教の全国分布」、『人類科学』15&lt;br /&gt;
* 小山 靖憲、2000、『熊野古道』、岩波書店（岩波新書）&lt;br /&gt;
* 宮家 準、1992、『熊野修験』、吉川弘文館&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[十二所神社]]&lt;br /&gt;
* [[鈴木氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くまのしんしや}}&lt;br /&gt;
[[Category:熊野神社|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:熊野信仰|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%8D%E5%B8%82&amp;diff=214161</id>
		<title>いわき市</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%8D%E5%B8%82&amp;diff=214161"/>
				<updated>2013-12-22T17:15:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''いわき市'''（いわきし）は、福島県浜通り南部にある市。  中核市に指定されており、福島県内で最大の面積を持...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''いわき市'''（いわきし）は、[[福島県]][[浜通り]]南部にある[[市]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[中核市]]に指定されており、福島県内で最大の面積を持つ。[[鶴岡市]]と[[宮古市]]、[[一関市]]に次いで東北地方で第4位である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[福島県]][[浜通り]]の南部に位置する市である。古代は[[石城国造]]（北部）や[[道奥菊多国造]]（南部）の領土であり、[[平安時代]]の[[12世紀]]から[[関ヶ原の戦い]]までは[[岩城氏]]の本拠地として栄えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治初期～昭和30年代までは、本州最大であり、なおかつ首都から最も近い炭鉱であった常磐炭田を有し、大いに栄えた。[[常磐線]]は常磐炭田で産出された石炭を輸送するために、国の主軸鉄道とほぼ同時期に敷設されるほどであり、磐城地方に欠かせない主幹産業であった。石油へのエネルギー転換が始まったと同時に大合併し、他の産炭地域が大衰退する中、首都圏から近い地の利を生かして工業と観光の都市に転換する事に成功した。現在は、東北地方で最も工業製造品出荷額が多い（約1兆900億円）[[工業都市]]であり、東北地方で最も集客力のあるリゾート施設[[スパリゾートハワイアンズ]]を筆頭に、[[アクアマリンふくしま]]、[[いわき湯本温泉]]など多彩な観光資源を持っており、観光客数は県内第1位の年間約1102万人であり、東北地方では[[仙台市]]に次いで第2位である&amp;lt;ref&amp;gt;黒田茂夫　「なるほど知図帳日本2009」　昭文社、2009年、16-17頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのスパリゾートハワイアンズは、炭鉱会社の1つであった常磐炭礦株式会社（現・[[常磐興産]]）が、炭鉱労働者やその家族の雇用創出、さらに炭鉱以外の収入源確保のため、豊富に湧き出るいわき湯本の温泉水を利用した施設として開業させたものである。1966年の開業当時は、あまりにも奇抜な発想で悲観論も多かったが、その後は炭鉱から観光へと転身をとげた成功例として知られ、いわき市の顔とも言える施設である。近年では映画「[[フラガール]]」で知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
福島県の東南に位置し、[[太平洋]]に面した60kmに渡る海岸線に、10箇所の[[海水浴場]]と[[小名浜港]]を初めとする11箇所の港を持つ。また、南は[[茨城県]]と接している。市の面積は広大だが、常磐道から西側は[[阿武隈高地]]の山間部であり、残る東側も丘陵地が多く、市街地と市街地が丘陵によって分断されて連続性がないのが特徴である。面積に対する可住地面積の割合は27.7％と、県内の市の中では最も低く、市の面積としては[[郡山市]]の1.6倍あるが、可住地面積で見ると同数の340km²である。JR[[常磐線]]では、[[トンネル]]と[[市街地]]が交互に現れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[東北地方]]内では年間[[日照時間]]が最も長く、1日の平均気温が最も高い。沿岸部のため、冬は内陸部よりも冷えにくく、夏は内陸部よりも暑くなりにくく、年間の寒暖の差が小さい。また、冬は日本海側から流れる雪雲が[[越後山脈]]、[[奥羽山脈]]、阿武隈高地に遮られるため、山間部を除いて[[雪]]はほとんど降らず、乾燥した快晴の日が多い。平均積雪量は東北地方の中では極端に少なく、数年に1度積もる程度、[[東京]]や[[名古屋]]などとほぼ同じ値となっているため、東北地方にありながら、市民は雪に慣れていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平県、[[磐前県]]を経て、最終的に1876年に福島県に組み込まれたものの、歴史的には[[陸前浜街道]]を介して（現在の）[[茨城県]]との繋がりが深かったため、方言や習慣は同じ福島県よりも茨城県に近い。[[明治維新]]以後も、[[常磐線]]や[[常磐自動車道]]などの交通網が茨城側から順に整備されたため、阿武隈高地を超えた[[中通り]]よりも、茨城県との交流が近密であった。ただし近年は、1995年に[[磐越自動車道]]で郡山市と結ばれ、中通りや会津地方との交流も活発になってきている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 広大な面積 ===&lt;br /&gt;
磐城地方は、基幹産業であった[[常磐炭田]]と水産業の斜陽化が進み、早急な方向転換を迫られていた。そのため、[[全国総合開発計画]]に基づく[[新産業都市]]の指定を「常磐・郡山地域」として受けるべく、県が主導となり、促進されていた市町村合併を郡山市とともに成立させた。これにより、当時としては日本一広い面積（1,231.13km²）のいわき市が誕生した（現在は15番目である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、本市は[[長野県]][[諏訪郡]][[ちの町]]（現[[茅野市]]）、[[山口県]][[阿武郡]][[むつみ村]]（現[[萩市]]）、[[青森県]][[むつ市]]についで4例目の[[ひらがな・カタカナ地名|ひらがな名]]の自治体である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「いわき」の漢字表記は「'''岩城'''」「'''磐城'''」「'''石城'''」であるが、歴史で変遷があり、[[国造]]と[[律令制]]下の郡名が「[[石城国造|石城]]」で、本市を本拠地にした戦国大名の姓が「[[岩城氏|岩城]]」で、[[幕藩体制|徳川藩政時代]]と[[戊辰戦争|明治令制国]]が「[[磐城平城|磐城]]」となっている。しかし、[[1966年]][[10月1日]]に市町村が合併する際に「磐城市」（[[小名浜]]地区）が合併する地域に含まれていたため、市町村長の政治的妥協でひらがなの「いわき」になった。なお、「いわき」を漢字で表記する場合、学校や施設、行政機関名は「磐城」を用いている例が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、福島市から遠方であることに配慮して、[[1979年]][[4月]]に、本市に[[いわき自動車検査登録事務所]]がおかれ、「いわきナンバー」が新設された。&lt;br /&gt;
これは初のひらがなナンバープレートであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 自然 ===&lt;br /&gt;
* [[川]]：[[夏井川]]、[[好間川]]、[[鮫川]]&lt;br /&gt;
* [[山]]：矢大臣山、鬼ヶ城山、屹兎屋山、猫鳴山、芝山、神楽山、朝日山、鶴石山、二ッ石山、水石山、塩見山、[[二ッ箭山]]、湯ノ岳、閼伽井嶽、石森山&lt;br /&gt;
* [[温泉]]：久之浜温泉、白岩温泉、地切温泉、[[いわき湯本温泉]]（常磐湯本温泉）、白鳥温泉、吉野谷鉱泉&lt;br /&gt;
* [[海岸]]：波立海岸、菊多浦（[[勿来海水浴場]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
* [[1889年]]（[[明治]]22年）[[4月1日]] - '''[[好間村]]'''、'''[[川前村 (福島県)|川前村]]'''、'''[[大久村]]'''が発足。&lt;br /&gt;
* [[1902年]]（明治35年）[[6月1日]] - '''[[久之浜町]]'''が発足。&lt;br /&gt;
* [[1937年]]（[[昭和]]12年）6月1日 - '''[[平 (いわき市)|平市]]'''が発足。&lt;br /&gt;
* [[1941年]]（昭和16年）4月1日 - '''[[田人村]]'''が発足。&lt;br /&gt;
* [[1954年]]（昭和29年）[[3月31日]] - '''[[常磐市]]'''、'''[[磐城市]]'''が発足。&lt;br /&gt;
** [[7月29日]] - '''[[内郷市]]'''が発足。&lt;br /&gt;
* [[1955年]]（昭和30年）[[2月11日]] - '''[[小川町 (福島県)|小川町]]'''、'''[[三和村 (福島県石城郡)|三和村]]'''が発足。&lt;br /&gt;
** [[3月10日]] - '''[[四倉町]]'''が発足。&lt;br /&gt;
** 3月31日 - '''[[遠野町 (福島県)|遠野町]]'''が発足。&lt;br /&gt;
** [[4月29日]] - '''[[勿来市]]'''が発足。&lt;br /&gt;
* [[1966年]]（昭和41年）[[10月1日]] - [[新産業都市]]建設促進法に則って上記14市町村（5市4町5村）が[[市町村合併|新設合併]]し、'''いわき市'''が成立。当時としては面積が日本一広い市となった。&lt;br /&gt;
* [[1967年]]（昭和42年）[[11月3日]] - 市章・市歌を制定。&lt;br /&gt;
* [[1968年]]（昭和43年）[[10月6日]] - [[鈴木直]]が市内大久地区で[[フタバスズキリュウ]]の化石を発見。&lt;br /&gt;
* [[1971年]]（昭和46年）10月1日 - 市の木[[クロマツ]]制定。&lt;br /&gt;
* [[1973年]]（昭和48年）[[3月20日]] - 現在の市役所本庁舎開庁。市の花[[ツツジ]]制定。&lt;br /&gt;
* [[1975年]]（昭和50年）[[4月28日]] - [[いわき市フラワーセンター]]オープン。&lt;br /&gt;
** [[5月2日]] - [[いわき市文化センター]]オープン。&lt;br /&gt;
* [[1976年]]（昭和51年）[[9月1日]] - [[常磐炭鉱]]完全閉山。&lt;br /&gt;
** 10月1日 - 市民憲章制定。&lt;br /&gt;
* [[1979年]]（昭和54年）[[4月23日]] - 「いわきナンバー」の交付開始。自動車のナンバープレートとしては初のひらがなナンバーとなる。&lt;br /&gt;
* [[1982年]]（昭和57年）[[4月15日]] - [[撫順市]]と友好都市締結。&lt;br /&gt;
* [[1984年]]（昭和59年）4月28日 - [[いわき市立美術館]]オープン。&lt;br /&gt;
** [[10月18日]] - [[いわき市石炭・化石館]]オープン。&lt;br /&gt;
* [[1985年]]（昭和60年）[[8月1日]] - [[いわきマリンタワー]]オープン。&lt;br /&gt;
* [[1986年]]（昭和61年）[[8月10日]] - [[秋田県]][[由利郡]][[岩城町]]（現[[由利本荘市]]）と親子都市締結。&lt;br /&gt;
* [[1988年]]（昭和63年）[[3月24日]] - [[常磐自動車道]]が[[日立北インターチェンジ|日立北IC]]-[[いわき中央インターチェンジ|いわき中央IC]]開通により最初の全線開通。&lt;br /&gt;
* [[1991年]]（平成3年）[[8月21日]] - [[タウンズビル|タウンズビル市]]と国際姉妹都市締結。&lt;br /&gt;
* [[1994年]]（平成6年）[[12月3日]] - 平駅が[[いわき駅]]に名称変更。&lt;br /&gt;
* [[1996年]]（平成8年）10月1日 - 市の鳥[[カモメ|かもめ]]制定。&lt;br /&gt;
* [[1997年]]（平成9年）[[5月30日]] - [[宮崎県]][[延岡市]]と兄弟都市締結。&lt;br /&gt;
** 7月25日 - [[いわき・ら・ら・ミュウ]]オープン。&lt;br /&gt;
** 10月1日 - [[磐越自動車道]]が[[西会津インターチェンジ|西会津IC]]-[[津川インターチェンジ|津川IC]]開通により全線開通。&lt;br /&gt;
* [[1999年]]（平成11年）4月1日 - [[中核市]]に指定される。&lt;br /&gt;
* [[2000年]]（平成12年）[[7月15日]] - [[アクアマリンふくしま]]オープン。&lt;br /&gt;
* [[2001年]]（平成13年）[[5月21日]] - [[浜通り]]唯一の[[百貨店]]、[[大黒屋 (いわき市)|大黒屋]]が創業100周年の年に閉店。&lt;br /&gt;
** 10月1日 - 市の魚[[アオメエソ|めひかり]]制定。&lt;br /&gt;
* [[2003年]]（平成15年）4月1日 - [[静岡市]]と[[清水市]]の合併により、いわき市が日本一広い市でなくなる。&lt;br /&gt;
* [[2006年]]（平成18年）[[5月19日]] - フタバスズキリュウが発見から38年経って新属新種の[[首長竜]]と判明。学名をフタバサウルス・スズキイとする。&lt;br /&gt;
* [[2007年]]（平成19年）[[10月25日]] - いわき駅を[[橋上駅舎]]化。&lt;br /&gt;
* [[2008年]]（平成20年）[[1月6日]] - 第1回 いわきフラオンパク開催。&lt;br /&gt;
** [[4月8日]] - [[いわき芸術文化交流館アリオス]]オープン。&lt;br /&gt;
* [[2010年]]（平成22年）[[2月14日]] - 第1回 いわきサンシャインマラソン開催。福島県内初の[[日本陸上競技連盟]]公認コースで開かれる[[フルマラソン]]大会となった。&lt;br /&gt;
** [[8月3日]] - [[小名浜港]]が[[重点港湾]]に指定される。&lt;br /&gt;
* [[2011年]]（平成23年）[[3月11日]] - [[東日本大震災]]が発生。いわき市で震度6弱を観測。&lt;br /&gt;
** [[4月11日]] - [[福島県浜通り地震]]が発生。いわき市で震度6弱を観測。翌12日にも6弱を観測。以降、震度5以上の余震が頻発する。&lt;br /&gt;
* [[2013年]]（平成25年）[[7月22日]] - 東日本大震災の復興支援試合として、[[マツダオールスターゲーム]]2013の第3戦を[[いわきグリーンスタジアム]]にて開催。福島県初の球宴開催となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 合併前の市町村の歴史 ===&lt;br /&gt;
* '''平市'''&lt;br /&gt;
{{See|平 (いわき市)}}&lt;br /&gt;
* '''[[常磐市]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - 湯本村が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1923年]] - 湯本村が町制施行し[[湯本町 (福島県)|湯本町]]に移行。&lt;br /&gt;
** [[1954年]] - 湯本町が市制施行・改称し[[常磐市]]に移行。&lt;br /&gt;
* '''[[磐城市]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - [[小名浜町]]、[[玉川村 (福島県石城郡)|玉川村]]（10村合併）、[[鹿島村 (福島県石城郡)|鹿島村]]（12村合併）、[[泉町 (福島県)|泉町]]（6村合併）、[[江名町]]（3村合併）、[[渡辺村]]（7村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1941年]] - 玉川村が小名浜町に編入。&lt;br /&gt;
** [[1953年]] - 鹿島村が小名浜町に編入。&lt;br /&gt;
** [[1954年]] - 小名浜町、泉町、江名町、渡辺村合併で磐城市が誕生。なお、小名浜町の一部は常磐市に合併した。&lt;br /&gt;
* '''[[内郷市]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - 内郷村（8村合併）、[[箕輪村 (福島県石城郡)|箕輪村]]（3村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1942年]] - 内郷村が町制施行し内郷町へ移行。&lt;br /&gt;
** [[1954年]] - 内郷町が市制施行し内郷市へ移行。&lt;br /&gt;
** [[1955年]] - 箕輪村の一部を編入。&lt;br /&gt;
* '''[[勿来市]]'''&lt;br /&gt;
** [[律令制|律令]]時代に、[[勿来関]]が築かれたとされる。&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - 窪田村（7村合併）、植田村（11村合併）、[[山田村 (福島県)|山田村]]（6村合併）、錦村（4村合併）、[[川部村 (福島県)|川部村]]（5村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1923年]] - 植田村が町制施行し[[植田町]]に移行。&lt;br /&gt;
** [[1925年]] - 窪田村が町制施行・改称し、[[勿来町]]に移行。&lt;br /&gt;
** [[1940年]] - 錦村が町制施行し[[錦町 (福島県)|錦町]]に移行。&lt;br /&gt;
** [[1955年]] - 勿来町、植田町、山田町、錦町、川部村合併で勿来市が誕生。&lt;br /&gt;
* '''[[遠野町 (福島県)|遠野町]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - [[入遠野村]]（2村合併）と[[上遠野村]]（4村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1955年]] - 入遠野村と上遠野村合併で遠野町が誕生。&lt;br /&gt;
* '''[[田人村]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - 旅人村（3村合併）、[[荷路夫|荷路夫村]]、[[貝泊|貝泊村]]、[[石住 (いわき市)|石住村]]が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1941年]] - 旅人村、荷路夫村、貝泊村、石住村合併で田人村が誕生。&lt;br /&gt;
* '''[[好間村]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - 好間村（8村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1955年]] - 箕輪村の一部を編入。&lt;br /&gt;
* '''[[小川町 (福島県)|小川町]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - [[上小川村 (福島県)|上小川村]]（2村合併）と[[下小川村 (福島県)|下小川村]]（4村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1955年]] - 上小川村と下小川村、赤井村の一部合併で小川町が誕生。&lt;br /&gt;
* '''[[三和村 (福島県石城郡)|三和村]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - [[永戸村]]（4村合併）、[[沢渡村 (福島県)|沢渡村]]（3村合併）、[[三阪村]]（4村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1955年]] - 永戸村、沢渡村、三阪村合併で三和村が誕生。&lt;br /&gt;
* '''[[四倉町]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - [[四倉町|四倉町]]と大浦村（8村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1955年]] - 四倉町と大浦村合併で四倉町が誕生。&lt;br /&gt;
* '''[[川前村 (福島県)|川前村]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - 川前村（4村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
* '''[[久之浜町]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] - 久之浜村（4村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
** [[1902年]] - 町制施行し久之浜町へ移行。&lt;br /&gt;
* '''[[大久村]]'''&lt;br /&gt;
** [[1889年]] 大久村（3村合併）が誕生。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==行政・政治==&lt;br /&gt;
=== 歴代市長 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
!代!!氏名!!就任!!退任!!期!!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|||赤津庄兵衛||1966年（昭和41年）10月1日||1966年（昭和41年）10月19日||||職務執行者（前勿来市長）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|1||大和田弥一||1966年（昭和41年）10月20日||1974年（昭和49年）10月19日||2||前平市長&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2||[[田畑金光]]||1974年（昭和49年）10月20日||1986年（昭和61年）10月19日||3||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3||[[中田武雄 (政治家)|中田武雄]]||1986年（昭和61年）10月20日||1990年（平成2年）10月19日||1||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|4||[[岩城光英]]||1990年（平成2年）10月20日||1997年（平成9年）9月27日||2||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5||[[四家啓助]]||1997年（平成9年）9月28日||2005年（平成17年）9月27日||2||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6||[[櫛田一男]]||2005年（平成17年）9月28日||2009年（平成21年）9月27日||1||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7||[[渡辺敬夫]]||2009年（平成21年）9月28日||2013年（平成25年）9月27日||1||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|8||[[清水敏男 (政治家)|清水敏男]]||2013年（平成25年）9月28日||||||現職&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 警察・消防 ===&lt;br /&gt;
'''警察'''&lt;br /&gt;
* [[いわき中央警察署]]&lt;br /&gt;
** 常磐分庁舎&lt;br /&gt;
* [[いわき南警察署]]&lt;br /&gt;
* [[いわき東警察署]]&lt;br /&gt;
'''消防'''&lt;br /&gt;
* [[いわき市消防本部]] 4課（総務課・警防課・予防課・指令課）5署1分署7分遣所&lt;br /&gt;
** 平消防署（四倉分署・中央台分遣所・小川分遣所・川前分遣所）&lt;br /&gt;
** 小名浜消防署（江名分遣所）&lt;br /&gt;
** 勿来消防署（田人分遣所）&lt;br /&gt;
** 常磐消防署（遠野分遣所）&lt;br /&gt;
** 内郷消防署（三和分遣所）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地区・地域圏 ==&lt;br /&gt;
人口（約34万人）、面積（1,231.34m²）は県内最大。市街地・[[人口集中地区]]は[[平 (いわき市)|平]]、[[四倉町|四倉]]、[[小名浜]]、[[勿来]]、[[常磐市|常磐]]などの地区に分散しており、単体の市で多極分散型となっているが、市街地と商工業地区への集約、山間部の[[過疎]]が目立つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地理的・歴史的背景から、湯本傾城（ゆもとけいせい）を境にして大きく北半分（概ね旧[[磐前郡]]。内郷～末続）と南半分（概ね旧[[菊多郡]]。勿来～湯本）に二分される。比較的大きな市街地は、行政・商業・陸上交通の中心で、[[城下町]]から発展し、いわき市中心部の'''[[平 (いわき市)|平]]'''（[[いわき駅]]・[[磐城平城]]周辺）と、工業・海上交通の中心で、[[港町]]から発展した'''[[小名浜]]'''（[[小名浜港]]周辺）、このほか常磐線駅周辺に市街地が形成されているが、[[いわきニュータウン]]を初めとする大規模開発住宅地もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主に[[南関東]]への青年層の流出（大学就学、就職）と、生活環境に富むことを背景とする[[Uターン現象|Uターン]]、[[Iターン現象|Iターン]]が拮抗しながらも、1998年をピークに緩やかな人口減少傾向にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 町名 ===&lt;br /&gt;
'''平地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 平&lt;br /&gt;
* 平上平窪&lt;br /&gt;
* 平中平窪&lt;br /&gt;
* 平下平窪&lt;br /&gt;
* 平中塩&lt;br /&gt;
* 平四ツ波&lt;br /&gt;
* 平幕ノ内&lt;br /&gt;
* 平鯨岡&lt;br /&gt;
* 平大室&lt;br /&gt;
* 平北白土&lt;br /&gt;
* 平南白土&lt;br /&gt;
* 平谷川瀬&lt;br /&gt;
* 平上荒川&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 平下荒川&lt;br /&gt;
* 平中山&lt;br /&gt;
* 平小泉&lt;br /&gt;
* 平吉野谷&lt;br /&gt;
* 平上高久&lt;br /&gt;
* 平中神谷&lt;br /&gt;
* 平塩 &lt;br /&gt;
* 平鎌田&lt;br /&gt;
* 平上神谷&lt;br /&gt;
* 平上片寄&lt;br /&gt;
* 平下片寄&lt;br /&gt;
* 平豊間&lt;br /&gt;
* 平薄磯&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 平沼ノ内&lt;br /&gt;
* 平下高久&lt;br /&gt;
* 平神谷作&lt;br /&gt;
* 平上山口&lt;br /&gt;
* 平下山口 &lt;br /&gt;
* 平山崎 &lt;br /&gt;
* 平菅波 &lt;br /&gt;
* 平荒田目 &lt;br /&gt;
* 平上大越&lt;br /&gt;
* 平下大越&lt;br /&gt;
* 平藤間&lt;br /&gt;
* 平泉崎&lt;br /&gt;
* 平下神谷&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 平原高野&lt;br /&gt;
* 平馬目&lt;br /&gt;
* 平絹谷&lt;br /&gt;
* 平北神谷 &lt;br /&gt;
* 平水品&lt;br /&gt;
* 平赤井&lt;br /&gt;
* 自由ケ丘&lt;br /&gt;
* 郷ケ丘&lt;br /&gt;
* 明治団地&lt;br /&gt;
* 平鶴ケ井&lt;br /&gt;
* 中央台&lt;br /&gt;
* 石森 &lt;br /&gt;
* 平成&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''小名浜地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 江名&lt;br /&gt;
* 折戸&lt;br /&gt;
* 中之作&lt;br /&gt;
* 永崎&lt;br /&gt;
* 小名浜上神白&lt;br /&gt;
* 小名浜下神白&lt;br /&gt;
* 小名浜&lt;br /&gt;
* 小名浜岡小名&lt;br /&gt;
* 小名浜南富岡&lt;br /&gt;
* 小名浜大原&lt;br /&gt;
* 小名浜相子島&lt;br /&gt;
* 小名浜住吉&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 小名浜島&lt;br /&gt;
* 小名浜野田&lt;br /&gt;
* 小名浜岩出 &lt;br /&gt;
* 小名浜林城 &lt;br /&gt;
* 小名浜金成&lt;br /&gt;
* 小名浜玉川町&lt;br /&gt;
* 鹿島町御代&lt;br /&gt;
* 鹿島町船戸&lt;br /&gt;
* 鹿島町久保&lt;br /&gt;
* 鹿島町下蔵持&lt;br /&gt;
* 鹿島町上蔵持&lt;br /&gt;
* 鹿島町走熊 &lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 鹿島町下矢田&lt;br /&gt;
* 鹿島町米田&lt;br /&gt;
* 鹿島町飯田&lt;br /&gt;
* 泉町本谷&lt;br /&gt;
* 泉町滝尻&lt;br /&gt;
* 泉町下川&lt;br /&gt;
* 泉町黒須野&lt;br /&gt;
* 泉町&lt;br /&gt;
* 泉町玉露&lt;br /&gt;
* 渡辺町洞&lt;br /&gt;
* 渡辺町泉田&lt;br /&gt;
* 渡辺町昼野&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 渡辺町田部&lt;br /&gt;
* 渡辺町松小屋&lt;br /&gt;
* 渡辺町中釜戸&lt;br /&gt;
* 渡辺町上釜戸&lt;br /&gt;
* 洋向台&lt;br /&gt;
* 泉ケ丘 &lt;br /&gt;
* 泉玉露 &lt;br /&gt;
* 湘南台&lt;br /&gt;
* 中部工業団地&lt;br /&gt;
* 葉山&lt;br /&gt;
* 鹿島町鹿島&lt;br /&gt;
* 泉もえぎ台&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''勿来地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 植田町&lt;br /&gt;
* 後田町&lt;br /&gt;
* 仁井田町 &lt;br /&gt;
* 高倉町&lt;br /&gt;
* 江畑町&lt;br /&gt;
* 添野町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 石塚町&lt;br /&gt;
* 東田町&lt;br /&gt;
* 佐糠町&lt;br /&gt;
* 岩間町&lt;br /&gt;
* 小浜町&lt;br /&gt;
* 錦町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 勿来町&lt;br /&gt;
* 川部町&lt;br /&gt;
* 沼部町&lt;br /&gt;
* 三沢町&lt;br /&gt;
* 山玉町&lt;br /&gt;
* 瀬戸町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 富津町&lt;br /&gt;
* 山田町&lt;br /&gt;
* 金山町 &lt;br /&gt;
* 中岡町&lt;br /&gt;
* 南台&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''常磐地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 常磐湯本町&lt;br /&gt;
* 常磐関船町&lt;br /&gt;
* 常磐水野谷町&lt;br /&gt;
* 常磐藤原町&lt;br /&gt;
* 常磐白鳥町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 常磐西郷町&lt;br /&gt;
* 常磐長孫町&lt;br /&gt;
* 常磐岩ケ岡町&lt;br /&gt;
* 常磐馬玉町 &lt;br /&gt;
* 常磐下船尾町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 常磐下湯長谷町&lt;br /&gt;
* 常磐上湯長谷町&lt;br /&gt;
* 常磐三沢町&lt;br /&gt;
* 常磐松久須根町  &lt;br /&gt;
* 常磐上矢田町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 若葉台 &lt;br /&gt;
* 桜ケ丘&lt;br /&gt;
* 常磐松が台&lt;br /&gt;
* 草木台&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''内郷地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 内郷白水町&lt;br /&gt;
* 内郷宮町&lt;br /&gt;
* 内郷内町&lt;br /&gt;
* 内郷綴町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 内郷高坂町&lt;br /&gt;
* 内郷御厩町&lt;br /&gt;
* 内郷御台境町 &lt;br /&gt;
* 内郷小島町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 内郷高野町&lt;br /&gt;
* 小島町&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''四倉地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 四倉町&lt;br /&gt;
* 四倉町上仁井田&lt;br /&gt;
* 四倉町塩木 &lt;br /&gt;
* 四倉町下仁井田&lt;br /&gt;
* 四倉町細谷&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 四倉町大森&lt;br /&gt;
* 四倉町狐塚 &lt;br /&gt;
* 四倉町名木&lt;br /&gt;
* 四倉町長友&lt;br /&gt;
* 四倉町戸田&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 四倉町白岩 &lt;br /&gt;
* 四倉町中島&lt;br /&gt;
* 四倉町玉山&lt;br /&gt;
* 四倉町山田小湊&lt;br /&gt;
* 四倉町薬王寺&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 四倉町下柳生&lt;br /&gt;
* 四倉町上柳生&lt;br /&gt;
* 四倉町駒込&lt;br /&gt;
* 四倉町八茎&lt;br /&gt;
* 四倉町上岡&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''遠野地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 遠野町深山田&lt;br /&gt;
* 遠野町上遠野&lt;br /&gt;
* 遠野町滝&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 遠野町根岸&lt;br /&gt;
* 遠野町上根本&lt;br /&gt;
* 遠野町入遠野&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 遠野町大平&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''小川地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 小川町下小川&lt;br /&gt;
* 小川町関場&lt;br /&gt;
* 小川町上平&lt;br /&gt;
* 小川町柴原&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 小川町福岡&lt;br /&gt;
* 小川町上小川&lt;br /&gt;
* 小川町塩田&lt;br /&gt;
* 小川町高萩&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 小川町三島&lt;br /&gt;
* 小川町西小川&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''好間地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 好間町榊小屋&lt;br /&gt;
* 好間町大利&lt;br /&gt;
* 好間町北好間&lt;br /&gt;
* 好間町上好間&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 好間町中好間&lt;br /&gt;
* 好間町下好間&lt;br /&gt;
* 好間町小谷作 &lt;br /&gt;
* 好間町愛谷&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 好間町今新田&lt;br /&gt;
* 好間町川中子&lt;br /&gt;
* 好間工業団地&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''三和地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 三和町上三坂&lt;br /&gt;
* 三和町中三坂&lt;br /&gt;
* 三和町下三坂&lt;br /&gt;
* 三和町差塩&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 三和町上永井&lt;br /&gt;
* 三和町下永井&lt;br /&gt;
* 三和町合戸&lt;br /&gt;
* 三和町渡戸&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 三和町中寺&lt;br /&gt;
* 三和町下市萱&lt;br /&gt;
* 三和町上市萱&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''田人地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 田人町南大平&lt;br /&gt;
* 田人町旅人&lt;br /&gt;
* 田人町黒田&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 田人町荷路夫&lt;br /&gt;
* 田人町貝泊&lt;br /&gt;
* 田人町石住&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''川前地区'''&lt;br /&gt;
* 川前町川前&lt;br /&gt;
* 川前町下桶売&lt;br /&gt;
* 川前町上桶売  &lt;br /&gt;
* 川前町小白井&lt;br /&gt;
'''久之浜・大久地区'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 久之浜町末続&lt;br /&gt;
* 久之浜町金ケ沢&lt;br /&gt;
* 久之浜町久之浜&lt;br /&gt;
* 久之浜町田之網&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 久之浜町&lt;br /&gt;
* 大久町大久&lt;br /&gt;
* 大久町小久&lt;br /&gt;
* 大久町小山田&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
※地区区分・掲載順は『いわき市内地域別データファイル2010』に従う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地区別統計 ===&lt;br /&gt;
[[2010年]]（[[平成]]22年）[[3月1日]]現在。&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!地区名!!人口（人）!! 面積（km²）!! 人口密度&amp;lt;br /&amp;gt;（人/km²）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|平&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |98,996&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |109&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |908&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|小名浜&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |77,561&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |87&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |891&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|勿来&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |50,787&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |104&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |488&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|常磐&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |35,104&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |48&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |731&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|内郷&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |27,216&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |31&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |877&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|四倉&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |15,231&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |63&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |241&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|遠野&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |6,142&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |104&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |59&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|小川&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |7,374&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |112&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |65&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[好間]]&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |13,397&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |26&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |515&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|三和&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |3,501&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |214&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |16&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|田人&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |2,008&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |158&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |12&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|川前&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |1,375&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |116&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |11&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|久之浜・大久&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |5,681&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |52&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |109&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!総数&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |344,373&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |1231&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align:right;&amp;quot; |279&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== いわき都市圏 ===&lt;br /&gt;
いわき市を中心市とする[[都市雇用圏]]（10%通勤圏）は、いわき市および隣接する[[双葉郡]][[広野町]]の1市1町で構成される。人口はいわき都市圏1市1町の合計の人口（[[国勢調査]]の人口計）&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#f96&amp;quot; | [[自治体]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;(1980-2000)&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#a4aaf9&amp;quot; | 1980年&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#a4aaf9&amp;quot; | 1990年&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#a4aaf9&amp;quot; | 1995年&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#a4aaf9&amp;quot; | 2000年&lt;br /&gt;
! style=&amp;quot;background:#f96&amp;quot; | 自治体&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;（現在）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[広野町]]&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; | 34&amp;lt;sup style=&amp;quot;font-size:smaller&amp;quot;&amp;gt;万&amp;lt;/sup&amp;gt;7408人&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; | 36&amp;lt;sup style=&amp;quot;font-size:smaller&amp;quot;&amp;gt;万&amp;lt;/sup&amp;gt;1286人&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; | 36&amp;lt;sup style=&amp;quot;font-size:smaller&amp;quot;&amp;gt;万&amp;lt;/sup&amp;gt;6207人&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot; | 36&amp;lt;sup style=&amp;quot;font-size:smaller&amp;quot;&amp;gt;万&amp;lt;/sup&amp;gt;5864人&lt;br /&gt;
|[[広野町]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''いわき市'''||'''いわき市'''&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==東日本大震災と福島第一原子力発電所事故==&lt;br /&gt;
[[2011年]][[3月11日]]の[[東日本大震災]]では当市も被災し、震度6弱を観測した。宮城沖から茨城沖の震源域の中間にあたる本市は、震度4以上の揺れが3分10秒に渡って続き、これは当震災を観測した震度計の中で最大の長さであった。また、気象庁の推計震度分布図によると、市北東部で局地的に震度7相当の揺れがあったとみられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌月4月11日には、市内南西部の井戸沢断層付近を震源とする内陸直下型地震である[[福島県浜通り地震]]が発生し、震度6弱を観測した。この地震により、井戸沢断層と塩ノ平断層、また市内中西部の湯ノ岳断層が同時多発的に数十キロに渡ってそれぞれずれ動いた。湯ノ岳断層は過去の活動が14万年前、塩ノ平断層に至っては未知の断層であり、当震災のひずみにより誘発されたものであると考えられる。これにより市内の至る所で断層（最大落差2m）や地割れ・亀裂が出現し、また土砂崩れも相次いだ。また、翌日には湯ノ岳断層付近を震源とした震度6弱の余震も発生した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この一連の地震活動と津波により、市内の全半壊戸数は[[仙台市]]に次ぐ約4万戸に上り（一部損壊も含めると9万戸）、死者は津波や土砂崩れによるものを中心に400名以上に及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、上記に含め[[大熊町]]で発生した[[福島第一原子力発電所事故]]によって市北部が屋内退避区域に指定されるなどの影響もあり、1年半後に市が無作為に抽出したアンケートによると、回答者のほぼ半数が当震災と原発事故により一時的に市外へ避難したと答えた。このため市ではおよそ15万人が避難したと推測している。3ヶ月ほどでほとんどの市民が戻ったが、半年間で約7,000人の人口が転出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福島第一原子力発電所の事故では、歴史的・経済的に繋がりの強かった[[双葉郡]]の住民を中心に約24,000人（2013年4月現在）が避難しており、いわき市を転出した住民の減少分を上回っているため、結果的に人口が増加している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いわき市に臨時の役場機能（一部を含む）を置いているのは、[[楢葉町]]と[[富岡町]][http://www.town.okuma.fukushima.jp/　いわき連絡事務所] - 大熊町である。また2013年現在、埼玉県にある[[双葉町]]役場（原発5 - 6号機所在地）も再移転先を当市に決定し、2013年6月に移転予定である。この４町は、住民避難先最多がいわき市であり、[[浪江町]]も2,000人以上の避難者がいるため出張所を置いている。[[広野町]]も臨時役場を置いていたが、緊急時避難準備区域の解除に伴い、2012年3月に帰還した。（しかし2013年5月時点で住民の9割がいわき市居住）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いわき市は被災者用として、解体予定だった[[雇用促進住宅]]630戸を急遽開放したり、市営・県営住宅を活用するなどして、市民に対する仮設住宅の建設は200戸程度であった。しかし、双葉郡の避難者向けの仮設住宅が市内各地に3,300戸以上建設された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
賃貸物件も、被災したいわき市民と[[双葉郡]]民によって多くが借り上げられているほか、東京電力3施設（[[福島第一原子力発電所]]・[[福島第二原子力発電所]]・[[広野火力発電所]]）に関わる社員や、除染作業の本格化による除染作業員や復旧作業員の居住地にもなっているために需要がひっ迫しており、2013年4月現在でも市内への転勤者・進学者が入居物件を見つけられない事例もある。賃貸物件の入居待ち予約者が100人以上という賃貸仲介会社もあり、深刻な状況が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2013年6月の双葉町役場のいわき市移転に伴い、いわきへの居住を希望する双葉町民も多く、また、現在地の避難先から故郷に近く気候の似たいわき市へ移りたいという希望は未だに多く、賃貸不足の状況はしばらく続きそうである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
住宅地の地価も上昇しており、2013年1月1日時点での公示地価は、泉もえぎ台や中央台で10パーセント以上も上昇し、住宅地上昇率がそれぞれ全国6位と8位に入るなど、住宅地の平均変動率が16年ぶりに前年比プラスになった。これも、いわき市内の需要に加え、双葉郡内の被災者が帰郷を諦めて市内の宅地を購入しているためと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
=== 主な産業 ===&lt;br /&gt;
* [[高度経済成長]]期が到来する前は、[[常磐炭砿]]など[[常磐炭田]]の石炭産業を中心に、[[小名浜港]]の漁業、林業、農業といった第一次産業で発展した。&lt;br /&gt;
* 常磐炭砿閉山後、大規模合併を期に工業化を図る。湯本地区の温泉やリゾート施設、海岸部の灯台・水族館あるいは海水浴・サーフィンを中心とした観光、市立美術館、勿来の関をはじめとする文教面での観光資源なども存在する。&lt;br /&gt;
* 労働統計（2000年）&lt;br /&gt;
** 就業人口：175,324人&lt;br /&gt;
** 総生産：12,662億円&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== いわき市に本社を置く企業 ===&lt;br /&gt;
* [[アルパイン (企業)|アルパイン]]（[[自動車]]用[[音響機器]]、情報通信機器の製造販売）&lt;br /&gt;
* [[いわき大王製紙]]（[[古紙]]再生）&lt;br /&gt;
* [[常磐興産]]（レジャーリゾート[[スパリゾート・ハワイアンズ]]、燃料事業、不動産）&lt;br /&gt;
* [[常磐開発]]（建設事業、不動産事業）&lt;br /&gt;
* [[ハニーズ]]（婦人衣料品販売）&lt;br /&gt;
* [[東洋システム]]（[[二次電池]]）&lt;br /&gt;
* [[FSK]]（旧 福島総合計算センター）（情報通信）&lt;br /&gt;
* [[東日本計算センター]]（情報通信）&lt;br /&gt;
* [[花見台自動車]]（セフテーローダ・[[トレーラー]]製造販売）&lt;br /&gt;
* [[マルト (チェーンストア)|マルト]]（[[チェーンストア]]）&lt;br /&gt;
* [[スタジオダブ]]（アニメーション制作）&lt;br /&gt;
* [[夕月 (企業)|夕月]]（魚肉ねり製品製造業・食品製造業）&lt;br /&gt;
* [[ミツエイ]]（各種石鹸・洗剤・洗濯仕上剤の製造販売）&lt;br /&gt;
* [[アド・プラン]]（各種広告企画・制作、代理店業務、WEB制作、タウン情報誌発行）&lt;br /&gt;
* [[タンガロイ]]（切削工具の製造販売）&lt;br /&gt;
* [[福浜大一建設]]（[[総合建設業]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 製造業 ===&lt;br /&gt;
==== いわき市に工場・拠点を置く主な企業 ====&lt;br /&gt;
* [[荒川化学工業]]（小名浜工場）&lt;br /&gt;
* [[アルプス電気]]（小名浜工場、平工場）&lt;br /&gt;
* [[エーピーアイコーポレーション]]（いわき工場）&lt;br /&gt;
* [[エステー]]（福島工場）&lt;br /&gt;
* [[FDK]]（いわき工場）&lt;br /&gt;
* [[オカモト]]（福島工場）&lt;br /&gt;
* [[オルガノ]]（いわき工場）&lt;br /&gt;
* [[クリナップ]]（四倉工場、湯本工場、鹿島工場、鹿島システム工場）※クリナップ創業者の井上登は、いわき市出身。&lt;br /&gt;
* [[クレハ]]（生産本部いわき事業所）※[[2005年]]（[[平成]]17年）[[9月30日]]まで、呉羽化学工業錦工場。[[2005年]]（[[平成]]17年）[[10月1日]]から、現社名に。[[2007年]]（[[平成]]19年）[[3月31日]]まで、クレハいわき工場。&lt;br /&gt;
* [[三共 (製薬会社)|第一三共]]（プロファーマ）（小名浜工場）&lt;br /&gt;
* [[あすか製薬]]（いわき工場。小名浜臨海工業団地）&lt;br /&gt;
* [[ニチハ]]（いわき工場。小名浜臨海工業団地）&lt;br /&gt;
* [[日産自動車いわき工場]]（小名浜臨海工業団地）&lt;br /&gt;
* [[日本化成]]（小名浜工場）本店所在地。&lt;br /&gt;
* [[日本製紙]]（勿来工場）&lt;br /&gt;
* [[三菱マテリアル]]（いわき製作所）&lt;br /&gt;
* [[マツダ]]（東北地区の物流拠点）&lt;br /&gt;
* [[古河電池]]（いわき事業所）&lt;br /&gt;
* [[メルク]]（小名浜工場）&lt;br /&gt;
*中越アドバンス（いわき工場）（不燃建材製造メーカー）本店所在地。&lt;br /&gt;
*ヒラボウ製網（旧[[平田紡績]]福島工場）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 流通・小売業 ===&lt;br /&gt;
'''コンビニエンスストア'''&lt;br /&gt;
* 全国チェーン&lt;br /&gt;
** [[セブン-イレブン]] 64店舗&lt;br /&gt;
** [[ファミリーマート]] 24店舗&lt;br /&gt;
** [[ローソン]] 23店舗&lt;br /&gt;
** [[ミニストップ]] 7店舗&lt;br /&gt;
** [[デイリーヤマザキ]] 3店舗&lt;br /&gt;
** [[ココストア]] 3店舗&lt;br /&gt;
* 地域チェーン&lt;br /&gt;
** コンビニエンス[[モンペリ]] 14店舗&lt;br /&gt;
** フレッシュ・チコ&lt;br /&gt;
'''スーパーストア'''&lt;br /&gt;
* [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]] 平店&lt;br /&gt;
* [[イオンいわき店]]&lt;br /&gt;
* [[長崎屋|MEGAドン・キホーテ]] ラパークいわき店&lt;br /&gt;
'''スーパーマーケット'''&lt;br /&gt;
* 広域チェーン&lt;br /&gt;
** [[ヨークベニマル]] 10店舗（いわき泉店、小名浜店、上荒川店、湯本南店、勿来江栗店、エブリア店、谷川瀬店、大原店、好間店、内郷店）&lt;br /&gt;
* 地域チェーン&lt;br /&gt;
** [[藤越]] （2008年、藤越名義での営業終了）&lt;br /&gt;
** [[マルト (チェーンストア)|マルト]] 27店舗&lt;br /&gt;
** 一二三屋 7店舗&lt;br /&gt;
'''ショッピングセンター'''&lt;br /&gt;
* [[鹿島ショッピングセンター]]&lt;br /&gt;
* [[タウンモールリスポ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 駅ビル ====&lt;br /&gt;
[[いわき駅]]の駅ビルであった[[ヤンヤン (いわき市)|ヤンヤン]]は、[[2007年]][[9月]]限りで閉店し解体された。[[2009年]][[6月19日]]、いわき駅に隣接する新駅ビル「[[いわき駅ビル]]」がオープンした。駅前再開発事業ビルである[[ラトブ]]がいわき駅改札階と[[ペデストリアンデッキ]]で結ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 映画館 ====&lt;br /&gt;
[[ポレポレいわき]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 金融機関 ===&lt;br /&gt;
==== 銀行 ====&lt;br /&gt;
* [[みずほ銀行]] 1支店&lt;br /&gt;
* [[七十七銀行]] 2支店&lt;br /&gt;
* [[秋田銀行]] 1支店&lt;br /&gt;
* [[常陽銀行]] 4支店&lt;br /&gt;
* [[東邦銀行]] 10支店2出張所&lt;br /&gt;
* [[大東銀行]] 6支店&lt;br /&gt;
* [[福島銀行]] 8支店&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 政策金融機関 ====&lt;br /&gt;
* [[日本政策金融公庫]] 1支店（「国民生活事業」取扱店舗）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 日本郵政 ====&lt;br /&gt;
* [[ゆうちょ銀行]] 1出張所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 協同組織金融機関 ====&lt;br /&gt;
* [[いわき信用組合]] 20本支店&lt;br /&gt;
* [[ひまわり信用金庫]] 17本支店&lt;br /&gt;
* [[あぶくま信用金庫]] 2支店&lt;br /&gt;
* [[相双信用組合]] 1支店&lt;br /&gt;
* [[東北労働金庫]] 3支店&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 農協・生協 ====&lt;br /&gt;
* [[いわき市農業協同組合]]&lt;br /&gt;
* [[いわき中部農業協同組合]]&lt;br /&gt;
* [[ふたば農業協同組合]]&lt;br /&gt;
* [[全国労働者共済生活協同組合連合会|全労済]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 郵便局 ====&lt;br /&gt;
[[郵便局]] 59（うち集配局11）、ゆうちょ銀行仙台支店 ATM出張所 7、[[簡易郵便局]] 24&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''郵便局'''&lt;br /&gt;
{{col|&lt;br /&gt;
* [[いわき郵便局]]（集配局）&lt;br /&gt;
* [[小名浜郵便局]]（集配局）&lt;br /&gt;
* [[植田郵便局]]（集配局）|&lt;br /&gt;
* [[江名郵便局]]（集配局）&lt;br /&gt;
* [[合戸郵便局]]（集配局）　&lt;br /&gt;
* [[三阪郵便局]]（集配局）|&lt;br /&gt;
* [[上遠野郵便局]]（集配局）&lt;br /&gt;
* [[田人郵便局]]（集配局）&lt;br /&gt;
* [[勿来郵便局]]（集配局）|&lt;br /&gt;
* [[四倉郵便局]]（集配局）&lt;br /&gt;
* [[小川郵便局 (福島県)|小川郵便局]]（集配局）}}&lt;br /&gt;
{{col|&lt;br /&gt;
* 赤井郵便局&lt;br /&gt;
* 入遠野郵便局&lt;br /&gt;
* いわき泉郵便局&lt;br /&gt;
* いわき鹿島郵便局&lt;br /&gt;
* いわき川部郵便局&lt;br /&gt;
* いわき金山郵便局&lt;br /&gt;
* 石城夏井郵便局&lt;br /&gt;
* 石城山田郵便局&lt;br /&gt;
* 磐城新地郵便局&lt;br /&gt;
* いわき中央台郵便局&lt;br /&gt;
* いわき中央台東郵便局&lt;br /&gt;
* 磐崎郵便局|&lt;br /&gt;
* 内郷宮郵便局&lt;br /&gt;
* 内郷高坂町郵便局&lt;br /&gt;
* 内郷郵便局&lt;br /&gt;
* 内郷御厩郵便局&lt;br /&gt;
* 小名浜西郵便局&lt;br /&gt;
* 小名浜北郵便局&lt;br /&gt;
* 小名浜東郵便局&lt;br /&gt;
* 神谷郵便局&lt;br /&gt;
* 上湯長谷郵便局&lt;br /&gt;
* 川前郵便局&lt;br /&gt;
* 北好間郵便局&lt;br /&gt;
* 草野郵便局|&lt;br /&gt;
* 沢渡郵便局&lt;br /&gt;
* 常磐下船尾郵便局&lt;br /&gt;
* 常磐傾城郵便局&lt;br /&gt;
* 常磐郵便局&lt;br /&gt;
* 白水郵便局&lt;br /&gt;
* 住吉郵便局&lt;br /&gt;
* 平紺屋町郵便局&lt;br /&gt;
* 平新川町郵便局&lt;br /&gt;
* 平柳町郵便局&lt;br /&gt;
* 平胡摩沢郵便局&lt;br /&gt;
* 高久郵便局&lt;br /&gt;
* 中之作郵便局|&lt;br /&gt;
* 勿来酒井郵便局&lt;br /&gt;
* 勿来駅前郵便局&lt;br /&gt;
* 西小川郵便局&lt;br /&gt;
* 錦郵便局&lt;br /&gt;
* 久ノ浜郵便局&lt;br /&gt;
* 平窪郵便局&lt;br /&gt;
* 八ツ坂郵便局&lt;br /&gt;
* 山田小湊郵便局&lt;br /&gt;
* 湯本駅前郵便局&lt;br /&gt;
* 好間郵便局&lt;br /&gt;
* 四倉新町郵便局&lt;br /&gt;
* 渡辺郵便局}}&lt;br /&gt;
'''簡易郵便局'''&lt;br /&gt;
{{col|&lt;br /&gt;
* 沼ノ内簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 下神白簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 大利簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 下好摩簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 永井簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 平四波簡易郵便局|&lt;br /&gt;
* 上荒川簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 郷ヶ丘簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 下川簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 上浅貝簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 藤原簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 水ノ出簡易郵便局|&lt;br /&gt;
* 川平簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 広畑簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 竹ノ内簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 高坂団地簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 八反田簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 東田簡易郵便局|&lt;br /&gt;
* 植田岩間簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 錦町山王簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 九面簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 大浦簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 袖玉山簡易郵便局&lt;br /&gt;
* 豊田簡易郵便局}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 水産業 ===&lt;br /&gt;
* 漁獲高 75,628t&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 輸出入 ===&lt;br /&gt;
[[小名浜港]]（2003年）&lt;br /&gt;
* 総貨物量 13,557,951t&lt;br /&gt;
* 輸出 514,045t&lt;br /&gt;
* 輸入 5,133,727t&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地域データ ==&lt;br /&gt;
=== 健康 ===&lt;br /&gt;
* 平均年齢&amp;lt;!---平均寿命ではありません---&amp;gt; 41.69歳（[[2000年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口 ===&lt;br /&gt;
{{人口統計|code=07204|name=いわき市}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 学校 ==&lt;br /&gt;
=== 大学・短期大学・高等専門学校 ===&lt;br /&gt;
* [[いわき明星大学]]&lt;br /&gt;
* [[東日本国際大学]]&lt;br /&gt;
* [[いわき短期大学]]&lt;br /&gt;
* [[福島工業高等専門学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 高等学校 ===&lt;br /&gt;
'''公立高等学校'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 5em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[福島県立磐城高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立磐城桜が丘高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立平商業高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立平工業高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立いわき光洋高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立いわき総合高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立湯本高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立小名浜高等学校]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 5em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* [[福島県立いわき海星高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立磐城農業高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立勿来高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立勿来工業高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立好間高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立遠野高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立四倉高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[福島県立いわき翠の杜高等学校]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''私立高等学校'''&lt;br /&gt;
* [[いわき秀英中学校・高等学校|いわき秀英高等学校]]（※中高併設）&lt;br /&gt;
* [[磐城緑蔭中学校・高等学校|磐城緑蔭高等学校]]（※中高併設）&lt;br /&gt;
* [[東日本国際大学附属昌平中学校・高等学校|東日本国際大学附属昌平高等学校]]（※中高併設）&lt;br /&gt;
* [[福島県磐城第一高等学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中学校 ===&lt;br /&gt;
'''市立中学校'''&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 5em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* いわき市立平第一中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立平第二中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立平第三中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立藤間中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立豊間中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立草野中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立赤井中学校&lt;br /&gt;
* [[いわき市立湯本第一中学校]]&lt;br /&gt;
* いわき市立湯本第二中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立磐崎中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立湯本第三中学校&lt;br /&gt;
* [[いわき市立小名浜第一中学校]]&lt;br /&gt;
* いわき市立小名浜第二中学校&lt;br /&gt;
* [[いわき市立泉中学校]]&lt;br /&gt;
* いわき市立江名中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立内郷第一中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立内郷第二中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立内郷第三中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立植田中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立錦中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立勿来第一中学校&lt;br /&gt;
* [[いわき市立勿来第二中学校]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 5em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* いわき市立川部中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立上遠野中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立入遠野中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立四倉中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立大野中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立小川中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立田人中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立石住中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立貝泊中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立好間中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立永井中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立三和中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立三阪中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立差塩中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立川前中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立桶売中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立小白井中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立久之浜中学校&lt;br /&gt;
* [[いわき市立玉川中学校]]&lt;br /&gt;
* いわき市立中央台北中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立植田東中学校&lt;br /&gt;
* いわき市立中央台南中学校&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''私立中学校'''&lt;br /&gt;
* [[いわき秀英中学校・高等学校|いわき秀英中学校]]（※中高併設）&lt;br /&gt;
* [[磐城緑蔭中学校・高等学校|磐城緑蔭中学校]]（※中高併設）&lt;br /&gt;
* [[東日本国際大学附属昌平中学校・高等学校|東日本国際大学附属昌平中学校]]（※中高併設）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小学校 ===&lt;br /&gt;
各学校の詳細は[http://www.iwaki-eo.fks.ed.jp/html/i-school.htm こちら]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 5em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* いわき市立平第一小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立平第二小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立平第三小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立平第四小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立平第五小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立平第六小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立夏井小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立高久小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立豊間小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立草野小学校&lt;br /&gt;
** いわき市立草野小学校絹谷分校&lt;br /&gt;
* いわき市立赤井小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立湯本第一小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立湯本第二小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立湯本第三小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立磐崎小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立長倉小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立藤原小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立小名浜第一小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立小名浜第二小学校&lt;br /&gt;
* [[いわき市立小名浜第三小学校]]&lt;br /&gt;
* いわき市立泉小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立渡辺小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立江名小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立永崎小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立鹿島小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立小名浜東小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立高坂小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立御厩小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立内町小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立宮小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立白水小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立綴小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立高野小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立植田小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立菊田小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立錦小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立勿来第一小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立勿来第二小学校&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 5em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
* いわき市立勿来第三小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立川部小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立上遠野小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立入遠野小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立四倉小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立大浦小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立大野第一小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立大野第二小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立小川小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立小玉小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立田人第一小学校&lt;br /&gt;
** いわき市立田人第一小学校荷路夫分校&lt;br /&gt;
* いわき市立田人第二小学校&lt;br /&gt;
** いわき市立田人第二小学校南大平分校&lt;br /&gt;
* いわき市立石住小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立貝泊小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立好間第一小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立好間第二小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立好間第三小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立好間第四小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立永井小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立沢渡小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立差塩小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立川前小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立三阪小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立桶売小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立小白井小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立久之浜第一小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立錦東小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立久之浜第二小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立小名浜西小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立永戸小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立汐見が丘小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立郷ケ丘小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立中央台北小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立中央台南小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立泉北小学校&lt;br /&gt;
* いわき市立中央台東小学校&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&amp;lt;br style=&amp;quot;clear: both;&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 特別支援学校 ===&lt;br /&gt;
* 福島県立平養護学校&lt;br /&gt;
* 福島県立いわき養護学校&lt;br /&gt;
* 福島県立聾学校平分校&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 施設 ==&lt;br /&gt;
=== スポーツ施設 ===&lt;br /&gt;
* [[21世紀の森公園 (いわき市)|21世紀の森公園]]&lt;br /&gt;
** [[いわきグリーンスタジアム]]&lt;br /&gt;
** [[いわきグリーンフィールド]]（サッカー、ラグビー、アメリカンフットボール）&lt;br /&gt;
* [[いわき市平野球場]]&lt;br /&gt;
* いわき市小名浜野球場&lt;br /&gt;
* [[上荒川公園]]&lt;br /&gt;
** [[いわき陸上競技場]]&lt;br /&gt;
** いわき市立総合体育館&lt;br /&gt;
** いわき市民プール&lt;br /&gt;
* [[いわき平競輪場]]&lt;br /&gt;
* いわき南の森スポーツパーク&lt;br /&gt;
** いわき市南部スタジアム&lt;br /&gt;
** 南部テニス場&lt;br /&gt;
** 南部アリーナ&lt;br /&gt;
* いわき市内郷コミュニティーセンター&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文化ホール・市民会館 ===&lt;br /&gt;
* [[いわき芸術文化交流館アリオス]]（いわきアリオス）&lt;br /&gt;
* [[いわき市小名浜市民会館]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市勿来市民会館]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市常磐市民会館]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文化施設 ===&lt;br /&gt;
* [[いわき市文化センター]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市立美術館]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市暮らしの伝承郷]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市考古資料館]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市立草野心平記念文学館]]&lt;br /&gt;
* [[草野心平生家|いわき市立草野心平生家]]&lt;br /&gt;
* [[いわき公園|福島県立いわき公園]]&lt;br /&gt;
* [[いわき総合図書館|いわき市立総合図書館]]&lt;br /&gt;
* いわき市立小名浜図書館&lt;br /&gt;
* いわき市立勿来図書館&lt;br /&gt;
* いわき市立常磐図書館&lt;br /&gt;
* いわき市立内郷図書館&lt;br /&gt;
* いわき市立四倉図書館&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
いわきが[[茨城県]]北東部との繋がりが深い要因として、[[相馬市|相馬]]や[[郡山市|郡山]]よりも、[[水戸市|水戸]]からの交通網が早く整備された事も要因の一つである。鉄道の[[常磐線]]（1897年2月開通）や高速道路の[[常磐自動車道]]（1988年3月開通）も、水戸側から整備されて開通した。。南北の交通網もいわきを境にして異なっており、南北の幹線鉄道である[[常磐線]]は、いわき以南（水戸・[[東京都|東京]]方面）は複線化されている一方で、いわき以北（相馬・[[仙台市|仙台]]方面）は複線化されていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鉄道 ===&lt;br /&gt;
市の中心駅は、'''[[いわき駅]]'''である。&lt;br /&gt;
* [[東日本旅客鉄道]]（JR東日本）&lt;br /&gt;
** [[常磐線]] : [[勿来駅]] - [[植田駅 (福島県)|植田駅]] - [[泉駅 (福島県いわき市)|泉駅]] - [[湯本駅]] - [[内郷駅]] - いわき駅 - [[草野駅 (福島県)|草野駅]] - [[四ツ倉駅]] - [[久ノ浜駅]] - [[末続駅]]&lt;br /&gt;
** [[磐越東線]] : いわき駅 - [[赤井駅]] - [[小川郷駅]] - [[江田駅 (福島県)|江田駅]] - [[川前駅]]&lt;br /&gt;
* [[福島臨海鉄道]]（[[貨物線]]） : 泉駅 - [[福島臨海鉄道|宮下駅]] - [[福島臨海鉄道|小名浜駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
====高速道路====&lt;br /&gt;
* [[常磐自動車道]] : [[いわき勿来インターチェンジ|いわき勿来IC]]・[[いわき勿来インターチェンジ#いわき勿来バスストップ|いわき勿来BS]] - [[いわき湯本インターチェンジ|いわき湯本IC]]・[[いわき湯本インターチェンジ#いわき湯本バスストップ|いわき湯本BS]] - [[湯ノ岳パーキングエリア|湯ノ岳PA]] - [[いわきジャンクション|いわきJCT]] - [[いわき中央インターチェンジ|いわき中央IC]]・[[いわき中央インターチェンジ#いわき中央バスストップ|いわき中央BS]] - [[四倉パーキングエリア|四倉PA]] - [[いわき四倉インターチェンジ|いわき四倉IC]]&lt;br /&gt;
* [[磐越自動車道]] : [[いわきジャンクション|いわきJCT]] - [[いわき三和インターチェンジ|いわき三和IC]] - [[差塩パーキングエリア|差塩PA]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====一般国道====&lt;br /&gt;
* [[国道6号]]&lt;br /&gt;
** [[常磐バイパス]]&lt;br /&gt;
** [[久ノ浜バイパス]]&lt;br /&gt;
* [[国道49号]]&lt;br /&gt;
** [[平バイパス]]&lt;br /&gt;
* [[国道289号]]&lt;br /&gt;
* [[国道349号]]&lt;br /&gt;
* [[国道399号]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====主要地方道====&lt;br /&gt;
* [[茨城県道・福島県道10号日立いわき線|福島県道10号日立いわき線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道14号いわき石川線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道15号小名浜四倉線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道20号いわき上三坂小野線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道26号小名浜平線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道35号いわき浪江線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道36号小野富岡線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道41号小野四倉線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道48号江名常磐線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道56号常磐勿来線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道66号小名浜小野線]]&lt;br /&gt;
* [[福島県道71号勿来浅川線]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====道の駅====&lt;br /&gt;
* [[道の駅よつくら港]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 路線バス ===&lt;br /&gt;
; 一般路線バス&lt;br /&gt;
* [[新常磐交通]]（旧 [[常磐交通自動車]]）&lt;br /&gt;
; [[高速バス|都市間高速バス]]&lt;br /&gt;
* 新常磐交通（[[東京駅]]、[[仙台駅]]、[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]、[[会津若松駅]]、[[福島駅 (福島県)|福島駅]]、[[福島空港]]、[[東京ディズニーランド]]・[[東京ディズニーシー]]、[[京都市|京都]]・[[大阪市|大阪]]行きを運行）&lt;br /&gt;
* [[ジェイアールバス関東]]・[[東武バスセントラル]]（[[東京駅]]行きを運行）&lt;br /&gt;
* [[福島交通]]（郡山駅・会津若松駅・福島駅行きを運行）&lt;br /&gt;
* [[会津乗合自動車]]（会津バス）（会津若松駅行きを運行）&lt;br /&gt;
* [[ジェイアールバス東北]]（仙台駅行きを運行）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 港湾 ===&lt;br /&gt;
* [[小名浜港]]（[[重要港湾]]）&lt;br /&gt;
** [[いわき小名浜みなとオアシス]]（[[海の駅]]）&lt;br /&gt;
*** いわきサンマリーナ - 小名浜港の南端に位置する[[ヨットハーバー]]。&lt;br /&gt;
* 中之作港&lt;br /&gt;
* 江名港&lt;br /&gt;
* 久之浜港&lt;br /&gt;
* 四倉港&lt;br /&gt;
* 勿来港&lt;br /&gt;
* 豊間港&lt;br /&gt;
* 沼之内港&lt;br /&gt;
* 渚港&lt;br /&gt;
* 小浜港&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 観光地・祭り ==&lt;br /&gt;
=== 観光地 ===&lt;br /&gt;
'''平地区'''&lt;br /&gt;
* [[塩屋埼灯台]] - [[日本の灯台50選]]の1つ - [[美空ひばり]]遺影碑・みだれ髪歌碑・永遠のひばり像（少女時代の美空ひばり像）&lt;br /&gt;
* [[いわき平競輪場]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市フラワーセンター|フラワーセンター]]&lt;br /&gt;
* [[松ヶ岡公園]]&lt;br /&gt;
* [[沼之内弁財天]]（[[賢沼寺]]）（大ウナギ生息池）&lt;br /&gt;
* [[閼伽井嶽薬師]]常福寺&lt;br /&gt;
* [[専称寺 (いわき市)|専称寺]]&lt;br /&gt;
* [[大國魂神社 (いわき市)|大國魂神社]]&lt;br /&gt;
* 子鍬倉神社&lt;br /&gt;
* [[飯野八幡宮]]（社殿7棟が国の重要文化財）・飯野文庫（重要文化財「飯野家文書」を保管）&lt;br /&gt;
* [[いわき市立美術館]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市暮らしの伝承郷]]&lt;br /&gt;
* 龍が城美術館&lt;br /&gt;
* [[新舞子ビーチ]]&lt;br /&gt;
* [[薄磯海水浴場]]&lt;br /&gt;
* [[豊間海水浴場]]&lt;br /&gt;
* 合磯海水浴場&lt;br /&gt;
'''小名浜地区'''&lt;br /&gt;
* [[いわき小名浜みなとオアシス]]&lt;br /&gt;
** いわきサンマリーナ&lt;br /&gt;
** アクアマリンパーク&lt;br /&gt;
*** [[アクアマリンふくしま]]（小名浜の海洋科学館）&lt;br /&gt;
*** [[いわき・ら・ら・ミュウ]]（市観光物産センター）&lt;br /&gt;
*** いわきデイクルーズ（観光遊覧船）&lt;br /&gt;
*** 小名浜美食ホテル&lt;br /&gt;
*** 小名浜潮目交流館&lt;br /&gt;
*** いわきサンマリーナ&lt;br /&gt;
* [[三崎公園 (福島県)|三崎公園]]&lt;br /&gt;
** [[いわきマリンタワー]]&lt;br /&gt;
* [[住吉神社]]&lt;br /&gt;
* 永崎海水浴場&lt;br /&gt;
'''勿来地区'''&lt;br /&gt;
* [[勿来関|勿来関跡]]&lt;br /&gt;
** 勿来の関公園体験学習施設 吹風殿&lt;br /&gt;
** いわき市勿来関文学歴史館&lt;br /&gt;
* 小浜海水浴場&lt;br /&gt;
* [[勿来海水浴場]]&lt;br /&gt;
'''常磐地区'''&lt;br /&gt;
* [[いわき湯本温泉]]&lt;br /&gt;
* [[スパリゾート・ハワイアンズ]]（旧称：常磐ハワイアンセンター）&lt;br /&gt;
* [[日本中央競馬会|JRA]][[競走馬総合研究所]]常磐支所（通称「馬の温泉」）&lt;br /&gt;
* [[いわき市石炭・化石館]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市考古資料館]]&lt;br /&gt;
* [[野口雨情]]記念湯本温泉童謡館&lt;br /&gt;
* 三函山勝行院（成田山）&lt;br /&gt;
* [[温泉神社]]&lt;br /&gt;
* [[金刀比羅神社]]&lt;br /&gt;
* 観音山公園&lt;br /&gt;
'''内郷地区'''&lt;br /&gt;
* みろく沢炭鉱資料館&lt;br /&gt;
* [[白水阿弥陀堂]]（[[国宝]]）&lt;br /&gt;
'''四倉地区'''&lt;br /&gt;
* 逢瀬の滝&lt;br /&gt;
* 四倉海水浴場&lt;br /&gt;
* 四倉温泉&lt;br /&gt;
* 玉山鉱泉&lt;br /&gt;
* 白岩鉱泉&lt;br /&gt;
* 仁井田浦キャンプ場&lt;br /&gt;
'''遠野地区'''&lt;br /&gt;
* いわき市遠野オートキャンプ場&lt;br /&gt;
* 入遠野川ヤナ場&lt;br /&gt;
* 鮫川渓谷&lt;br /&gt;
* 入川渓谷&lt;br /&gt;
* 天王川トロン温泉&lt;br /&gt;
* [[円通寺]]&lt;br /&gt;
* [[徳一]]大師御入定所&lt;br /&gt;
'''小川地区'''&lt;br /&gt;
* [[いわき市立草野心平記念文学館]]&lt;br /&gt;
* [[草野心平生家]]&lt;br /&gt;
* [[背戸峨廊]]（夏井川渓谷県立自然公園）&lt;br /&gt;
* [[小玉ダム]]キャンプ場&lt;br /&gt;
'''好間地区'''&lt;br /&gt;
* 好間川溪谷&lt;br /&gt;
'''三和地区'''&lt;br /&gt;
* 三和ふれあい館&lt;br /&gt;
* 三和町ふれあい市場&lt;br /&gt;
* 水石山公園&lt;br /&gt;
'''田人地区'''&lt;br /&gt;
* 四時川渓谷里山（[[遊歩百選]]）&lt;br /&gt;
'''川前地区'''&lt;br /&gt;
* いわきの里鬼ケ城&lt;br /&gt;
* 鹿又川渓谷&lt;br /&gt;
'''久之浜・大久地区'''&lt;br /&gt;
* いわき市海竜の里センター&lt;br /&gt;
* いわき市アンモナイトセンター&lt;br /&gt;
* [[波立薬師]]&lt;br /&gt;
* 久之浜海水浴場&lt;br /&gt;
* 波立海水浴場&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===史跡など===&lt;br /&gt;
*[[中田横穴]]（国の史跡）&lt;br /&gt;
*[[根岸官衙遺跡群]]（国の史跡）&lt;br /&gt;
*[[大館城 (陸奥国)|大館城]]&lt;br /&gt;
*[[磐城平城]]&lt;br /&gt;
*[[泉陣屋]]&lt;br /&gt;
*[[小名浜代官所]]&lt;br /&gt;
*[[湯長谷館跡]]&lt;br /&gt;
*[[窪田館]]&lt;br /&gt;
*[[差塩三十三観音]]&lt;br /&gt;
*[[いわき七福神]]&lt;br /&gt;
*[[二見ヶ浦 (福島県)|二見ヶ浦]]&lt;br /&gt;
*[[天狗の重ね岩]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 祭り・郷土芸能 ===&lt;br /&gt;
* [[平七夕まつり]]・いわきおどり&lt;br /&gt;
* いわき花火大会&lt;br /&gt;
* [[じゃんがら念仏踊り]]&lt;br /&gt;
* いわき回転櫓盆踊り大会&lt;br /&gt;
* [[御宝殿の稚児田楽・風流]]（熊野神社） 国の[[重要無形民俗文化財]]に指定&lt;br /&gt;
* [[水祝儀|沼ノ内の水祝儀]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 舞台にした作品 ==&lt;br /&gt;
;文学作品&lt;br /&gt;
* [[千載和歌集]] （[[源義家]] ''「吹く風を なこその関と 思へども 道も背に散る 山桜かな」''）&lt;br /&gt;
: 勿来の関の歌は、他に[[紀貫之]]、[[小野小町]]、[[和泉式部]]、[[源師賢]]、[[斎藤茂吉]]が詠む&lt;br /&gt;
* [[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]（勿来の巻）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;映画&lt;br /&gt;
* 浮草日記（[[1957年]]）&lt;br /&gt;
* [[喜びも悲しみも幾歳月]]（1957年）&lt;br /&gt;
* [[トラック野郎|トラック野郎・一番星北へ帰る]]（[[1978年]]） - [[スパリゾートハワイアンズ]]（常磐ハワイアンセンター時代)、[[小名浜港]]&lt;br /&gt;
* [[ロケーション (映画)|ロケーション]]（[[1984年]]）&lt;br /&gt;
* [[ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌]]（[[1986年]]） - [[照島ランド]]&lt;br /&gt;
* [[遊びの時間は終らない]]（[[1991年]]） - 防犯訓練での強盗役警官の騒動劇、いわき市平&lt;br /&gt;
* [[釣りバカ日誌8]]（[[1996年]]） - 平地区、久之浜地区、小川地区&lt;br /&gt;
* Keep on Rockin'（[[2003年]]）&lt;br /&gt;
* [[容疑者_室井慎次|容疑者 室井慎次]]（[[2005年]]） - 平地区、豊間地区、勿来地区&lt;br /&gt;
* [[フラガール]]（[[2006年]]） - 常磐湯本地区、勿来地区、四倉地区&lt;br /&gt;
* [[親父 (映画)|親父]]（2006年） - 勿来地区&lt;br /&gt;
* [[僕の彼女はサイボーグ]]（[[2008年]]） - 好間地区&lt;br /&gt;
* [[BOX 袴田事件 命とは]]（[[2010年]]） - 常磐地区&lt;br /&gt;
* [[星守る犬]]（[[2011年]]） - 永崎海岸&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;テレビ番組&lt;br /&gt;
* [[バロム1|超人バロム1]]（1972年） - 第24、第25話を照島ランド&lt;br /&gt;
* [[七人の刑事　1978年版]]（1978年）　- 第6話「パニック イン 警視庁」 　- 内郷駅、高坂&lt;br /&gt;
* [[太陽にほえろ!]]（[[1980年]]） - 第399話「廃墟の決闘」 - 常磐炭鉱廃屋、湯本にて&lt;br /&gt;
* [[たんけんぼくのまち]]（[[1988年]]） - 小名浜地区にて&lt;br /&gt;
* [[さすらい刑事旅情編]]（[[1992年]]） - 常磐線湯本駅、常磐ハワイアンセンター&lt;br /&gt;
* [[渡る世間は鬼ばかり]] - あかりの夫がいわき市に実家があるという設定のため、実際に平赤井地区でロケが行われた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;楽曲&lt;br /&gt;
* [[みだれ髪 (美空ひばりの曲)]]（塩屋崎が舞台）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出身人物 ==&lt;br /&gt;
;政官界&lt;br /&gt;
* [[高木武雄]]（[[海軍大将]]）&lt;br /&gt;
* 大越謙吉（[[陸軍中佐]]）&lt;br /&gt;
* 江尻全機（[[南極越冬隊|南極越冬隊長]]）&lt;br /&gt;
* [[鯨岡兵輔]]（[[政治家]]）&lt;br /&gt;
* [[吉田泉]]（政治家）&lt;br /&gt;
* [[吉野正芳]]（政治家）&lt;br /&gt;
* [[坂本剛二]]（政治家）&lt;br /&gt;
* [[森雅子]]（政治家）&lt;br /&gt;
* [[木村守江]]（元[[福島県]][[知事]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;財界&lt;br /&gt;
* [[星一]]（[[星製薬]]創業者、[[星薬科大学]]創立者）&lt;br /&gt;
* [[矢内廣]]（[[ぴあ]]創業者、代表取締役社長）&lt;br /&gt;
* 佐藤安太（[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]「現・[[タカラトミー]]」創業者）&lt;br /&gt;
* 諸橋廷蔵（[[ゼビオ]]創業者）&lt;br /&gt;
* 江尻義久（[[ハニーズ]]創業者）&lt;br /&gt;
* 蛭田史郎（[[旭化成]]代表取締役社長）&lt;br /&gt;
* [[芳賀文子]]（[[所ジョージ]]個人事務所「ティヴィ・クラブ」社長、所ジョージ夫人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;学界&lt;br /&gt;
* [[鷺只雄]]（[[日本文学研究者]]）&lt;br /&gt;
* [[北条常久]]（日本文学研究者）&lt;br /&gt;
* [[櫛田民蔵]]（[[経済学者]]）&lt;br /&gt;
* [[古田孝之]]（[[数学者]]）&lt;br /&gt;
* [[鈴木直]]（[[古生物学者]]、[[フタバスズキリュウ]]発見者）&lt;br /&gt;
* 陽田秀夫（[[建築家]]）&lt;br /&gt;
* [[佐藤金兵衛]]（[[中国武術]]家、医学博士）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;文化・芸術&lt;br /&gt;
* [[吉野せい]]（文筆家）&lt;br /&gt;
* [[草野心平]]（[[詩人]]）&lt;br /&gt;
* [[半谷三郎]]（詩人）&lt;br /&gt;
* [[河林満]]（[[作家]]）&lt;br /&gt;
* [[清野かほり]]（[[小説家]]）&lt;br /&gt;
* [[若松光一郎]]（[[画家]]）&lt;br /&gt;
* [[金田石城]]（画家・[[書家]]）&lt;br /&gt;
* 田口安男（画家）&lt;br /&gt;
* [[那須真知子]]（[[脚本家]]）&lt;br /&gt;
* [[鈴木清 (写真家)|鈴木清]]（[[写真家]]）&lt;br /&gt;
* [[渡辺文樹]]（[[映画監督]]）&lt;br /&gt;
* [[村西とおる]]（[[ビデオ]][[映画監督]]）&lt;br /&gt;
* [[山口太一]]（[[漫画家]]）&lt;br /&gt;
* [[蛭田達也]]（漫画家）&lt;br /&gt;
* [[かみやたかひろ]]（漫画家）&lt;br /&gt;
* [[野部優美]]（漫画家）&lt;br /&gt;
* [[小林研一郎]]（[[指揮者]]）&lt;br /&gt;
* [[神田香織]]（[[講談師]]）&lt;br /&gt;
* [[真田彩子]]（[[女流棋士]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;スポーツ&lt;br /&gt;
* [[小野正一]]（元プロ野球選手）&lt;br /&gt;
* [[江川卓 (野球)|江川卓]]（元[[プロ野球選手]]）&lt;br /&gt;
* [[小松聖]]（[[プロ野球選手]]、[[オリックス・バファローズ ]]所属）&lt;br /&gt;
* [[影山雅永]]（元サッカー選手、[[ファジアーノ岡山]]監督）&lt;br /&gt;
* 草野修治（元プロサッカー選手、仙台大学監督）&lt;br /&gt;
* [[高萩洋次郎]]（[[プロサッカー選手]]、[[サンフレッチェ広島]]所属 ）&lt;br /&gt;
* [[鈴木弾]]（プロサッカー選手、[[ベガルタ仙台]]所属）&lt;br /&gt;
* [[渡辺匠]]（プロサッカー選手、[[横浜FC]]所属）&lt;br /&gt;
* [[田子亜貴]]（[[女子サッカー選手]]、[[ASエルフェン狭山]]所属）&lt;br /&gt;
* [[鈴木玲美]]（元女子プロサッカー選手）&lt;br /&gt;
* [[Gamma]]（[[プロレスラー]]）&lt;br /&gt;
* 村田裕司（元[[プロレスラー]]）&lt;br /&gt;
* [[志賀政司]]（1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]男子[[バスケットボール]]日本代表選手）&lt;br /&gt;
* [[田頭弘毅]]（[[シドニーオリンピック]]男子[[ウエイトリフティング]]56㎏級日本代表選手、元日本記録保持者）&lt;br /&gt;
* [[細野悟]]（[[プロボクサー]]）&lt;br /&gt;
* [[天心アンリ]]（女子[[プロボクサー]]）&lt;br /&gt;
* [[スパイダー根本]]（元プロボクサー）&lt;br /&gt;
* 岡田美智子（[[プロゴルファー]]）&lt;br /&gt;
* [[小林浩美]]（プロゴルファー）&lt;br /&gt;
* [[金古将人]]（[[競輪選手]]）&lt;br /&gt;
* [[山崎芳仁]]（競輪選手）&lt;br /&gt;
* [[金成和幸]]（競輪選手）&lt;br /&gt;
* [[飯野祐太]]（競輪選手）&lt;br /&gt;
* 小関英吾（[[フリースタイルモトクロス|FMX]]プロ）&lt;br /&gt;
* [[柏原竜二]]（[[陸上競技]]選手、[[東洋大学]]出身、富士通陸上競技部所属）&lt;br /&gt;
* [[時津山仁一]]（元[[力士]]、最高位[[関脇]]）&lt;br /&gt;
* [[高木薫]]（[[空手家]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;芸能界&lt;br /&gt;
* [[飯塚昭三]]（[[声優]]）&lt;br /&gt;
* [[小松みゆき]]（[[俳優|女優]]）&lt;br /&gt;
* [[伊東美咲]]（女優）&lt;br /&gt;
* [[神尾佑]]（[[俳優]]）&lt;br /&gt;
* [[皆川猿時]]([[俳優]])&lt;br /&gt;
* [[富澤タク]]([[ギタリスト]]、[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]]、[[DJ]]、[[画家]])&lt;br /&gt;
* [[駒木なおみ]]（[[グラビアアイドル]]、女優）&lt;br /&gt;
* [[佐河ゆい]]（[[ファッションモデル]]、女優）&lt;br /&gt;
* [[松井愛莉]]（[[アイドル]]、ファッションモデル）&lt;br /&gt;
* [[ゴー☆ジャス]]（お笑いタレント・ピン芸人）&lt;br /&gt;
* [[あかつ]]（お笑いタレント・ピン芸人）&lt;br /&gt;
* 平子祐希（お笑いコンビ[[アルコ&amp;amp;ピース]]）&lt;br /&gt;
* 林千春（[[歌手]]、元[[パンプキン (グループ)|パンプキン]]）&lt;br /&gt;
* [[霧島昇]]（[[歌手]]、 [[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]に5回出場）&lt;br /&gt;
* [[塩まさる]]（歌手）&lt;br /&gt;
* [[紅晴美]]（歌手）&lt;br /&gt;
* 愛川ヒロキ（[[作曲家]]・アレンジャー、元remoteベーシスト）&lt;br /&gt;
* 大和田広美（ゴスペルシンガー）&lt;br /&gt;
* 菅波ひろみ（ゴスペル教師、ソウルシンガー）&lt;br /&gt;
* 藤井敬之（[[音速ライン]]ボーカル）&lt;br /&gt;
* [[木村世治]]（ミュージシャン hurdy gurdy、ex[[ZEPPET STORE]]）&lt;br /&gt;
* OKP-STAR（[[Aqua Timez]]ベーシスト）&lt;br /&gt;
* 平山佳代子（[[アップルパイ (歌手グループ)|アップルパイ]]）&lt;br /&gt;
* ASA-CHANG（[[ASA-CHANG&amp;amp;巡礼]]）&lt;br /&gt;
* 柳沼由紀枝（[[クレヨン社]]、[[作詞家]]、[[作曲家]]、[[ヴォーカリスト]]）&lt;br /&gt;
* 加藤秀樹（[[クレヨン社]]、[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[映像作家]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;マスコミ&lt;br /&gt;
* [[藤原章生]]（[[ジャーナリスト]]）&lt;br /&gt;
* [[芳賀健太郎]]（[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]）&lt;br /&gt;
* [[高野貴裕]]（[[TBSテレビ|TBS]][[アナウンサー]]）&lt;br /&gt;
* [[吉田太一]]（[[中京テレビ放送]]アナウンサー）&lt;br /&gt;
* [[藁谷麻美]]（[[テレビ大阪]]アナウンサー）&lt;br /&gt;
* [[寺田早輪子]]（[[仙台放送]]アナウンサー）&lt;br /&gt;
* [[瀬谷佳子]]（[[IBC岩手放送]]アナウンサー）&lt;br /&gt;
* [[二瓶由美]]（フリーアナウンサー・[[DJ]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
* [[テレビ東京]]を含む関東広域圏の民間放送テレビ5局、[[NHK水戸放送局]]の県域テレビ放送が[[スピルオーバー]]によりデジタルで直接受信可能である。なお[[千葉テレビ放送|千葉テレビ]]はノイズが出るものの地区によっては受信ができる場合がある（テレビ東京デジタル放送放送休止時のみ）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注・出典・参考文献 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo100/75/cto-75-32/c15c/cto-75-32_c15c_7.jpg いわき駅市街地の航空写真] - 国土交通省のサイト。画面上を横切る常磐線の中央がJRいわき駅（撮影当時は平駅）である。並行するようにやや下を国道6号線が左右に横切り、駅前から小名浜地区へ画面下に伸びる県道と交差している。画面上右から斜めに夏井川が流れる。画面中央右には水田が広がるが、撮影当時（1975年）以降、市街地化が進む。画面中央やや下にはいわき平競輪場がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ひらがな・カタカナ地名#ひらがな・カタカナ市町村名一覧]]&lt;br /&gt;
* [[石城国造]]&lt;br /&gt;
* [[石城郡]]&lt;br /&gt;
* [[岩城氏]]&lt;br /&gt;
* [[磐城平藩]]&lt;br /&gt;
* [[いわき市暴力団員殺人事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
'''行政'''&lt;br /&gt;
* [http://www.city.iwaki.fukushima.jp/ いわき市役所]&lt;br /&gt;
'''観光'''&lt;br /&gt;
* [http://www.kankou-iwaki.or.jp/ いわき市観光情報サイト]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{福島県の自治体}}&lt;br /&gt;
{{日本の中核市}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いわきし}}&lt;br /&gt;
[[Category:いわき市|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:浜通り]]&lt;br /&gt;
[[Category:福島県の市町村]]&lt;br /&gt;
[[Category:中核市]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%9D%E5%A0%82&amp;diff=213378</id>
		<title>朝堂</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%9D%E5%A0%82&amp;diff=213378"/>
				<updated>2013-12-14T14:29:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''朝堂'''（ちょうどう）とは、大極殿、朝集殿とともに朝堂院を構成する殿舎、または殿舎の建ち並ぶ一郭のこと。  ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朝堂'''（ちょうどう）とは、[[大極殿]]、[[朝集殿]]とともに[[朝堂院]]を構成する殿舎、または殿舎の建ち並ぶ一郭のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂は、[[天子]]（[[天皇]]）が早朝に政務をみる[[朝政]]をはじめとする庶政や、朝拝や[[饗宴]]などの国儀大礼を執りおこなう重要な庁舎であった。この庁舎は、天子の[[政府]]としての「[[朝廷]]」を象徴し、また、朝廷の[[官僚]]機構そのものを指し示すこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂は、一般に複数の建物より構成された。また、朝堂により囲まれた中庭（大極殿からみて前庭）を「[[朝庭]]」と呼んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
=== 基本的な設計思想 ===&lt;br /&gt;
「天子南面す」の思想は、朝堂院の建設に際しても貫かれた。朝堂院の正殿にあたる、天子（大王・天皇）が出御する大極殿は最も[[北]]に建てられた。また、冠位を有する[[官人]]の集う控えの場である朝集殿は朝堂の立ち並ぶ一画のさらに[[南]]に造営され、官人たちはそこで身づくろいなどをおこなった。朝堂院は、原則として、[[朱雀門]]（南門）に面する宮城の中央部に位置した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂は、大極殿と朝集殿の中間に位置し、臣下の着座する本来の政庁としての性格をもつ堂であり、朝堂院外に設けられた政庁である[[曹司]]とあい対立するものであった。当初は、政務はもっぱら朝堂でおこなわれたが、[[律令制]]が整うにつれ行政機構が拡充され、官人も増加し、政務の複雑化もあって付属施設として設けられたのが曹司であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 構造および堂数 ===&lt;br /&gt;
朝堂には、[[官司]]ごとに「[[朝座]]」と呼ばれる席があり、着座の堂が決まっていた。[[弘仁]]9年（[[818年]]）の堂名の改称以前は、[[式部省]]の官人が着座する式部殿、[[大蔵省]]の場合は大蔵殿のように、着座の官司名で呼称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堂の数は[[難波宮#後期難波宮|後期難波宮]]と[[長岡京|長岡宮]]が8堂、他は概ね12堂であったが、[[大化の改新]]のときの[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]（前期難波宮）では、[[発掘調査]]の結果、少なくとも14堂の堂が並んでいたことが判明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂院全体の配置では、藤原宮、難波宮、長岡宮、平安宮はいずれも北より大極殿、朝堂、朝集殿の順に並ぶ、ほぼ同一の形態であったが、平城宮のみは異なっていた（詳細は「[[#平城宮（前半）の朝堂]]」の節を参照のこと）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝座 ===&lt;br /&gt;
朝堂には[[親王]]、[[太政官]]・[[八省]]およびその管下の官司・[[弾正台]]などの長官以下[[史生]]以上の官人が着座する朝座と呼称される席をもっていた。しかし、すべての官司の官人が朝座をもっていたわけではなく、[[皇太子]]の家政をつかさどる[[春宮坊]]およびその管下の官司は朝座をもたないことが当然視されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[神祇官]]管下の官司や、八省被管の官司にも朝座をもたない官司が多く、とくに[[五衛府]]などの武官はいずれも朝座をもたなかった。神祇官や武官が朝座をもたないことは、日本における朝堂院の成立過程の成立過程と、古代日本の祭政の分離のあり方ないし武官のあり方と深いかかわりがあると推測されるが、詳しい経過は[[史料]]が不足しており、まだよくわかっていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝座は、個人に与えられ、共有はなかった。また、腰掛けとその上に敷く[[茵]]から成っており、そこに着座する官人の[[官位]]によって支給される腰掛け・蔀の種類やつくり、色彩や材料などが細かく規定されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝政と朝儀 ===&lt;br /&gt;
朝堂は、[[朝政]]などの政務と[[朝儀]]とよばれる儀式の場であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早朝、文武百官が朝堂に参列したうえで天皇が政務をみることを'''朝政'''（あさまつりごと）という。転じて、朝廷の政務一般を指す場合もあるが、その場合は「ちょうせい」と音読するのが一般的である。朝政については、『[[日本書紀]]』に、[[大化]]3年（[[647年]]）、[[孝徳天皇]]が[[難波]]の小郡宮で「礼法」を定めたということが記されており、有位の官人は、毎朝午前4時ころまでに朝庭南門の外にならび、[[日の出]]とともに庭にはいって天皇に再拝し、そのあと正午まで朝堂で政務を執ることとされた。同時に中国式の立礼が採用され、これは後世、「'''難波朝庭の立礼'''（なにわのみかど の たついや）」と称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''朝儀'''とは、同じく朝堂において行われる、さまざまな公の[[儀式]]の総称であり、[[即位の礼|天皇即位儀]]、[[朝賀|元日朝賀]]、[[任官]]、[[叙位]]、[[改元]]の宣詔、告朔などの[[朝拝]]を中心とする儀式と、[[節会]]や外国使への[[賜饗]]など[[饗宴]]を中心とする儀式とがあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝堂の起源 ===&lt;br /&gt;
朝堂は、大極殿とともに[[中国]]の都城のなかで中心的な役割をもった殿舎であった。中国では[[漢]]代より朝堂があり、[[皇帝]]の居所である宮の南にあって、政治の中枢機能をになっていたが、中国のそれが東西2堂だけであるのに対し、日本では12堂もあるものがむしろ標準であった。これは、後述する小墾田宮にあった「朝庭」の機能を継承したためと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 変遷 ==&lt;br /&gt;
=== 小墾田宮の「庁」 ===&lt;br /&gt;
[[小墾田宮]]は、[[推古天皇]]の時代、それまでの[[豊浦宮]]にかわって[[603年]]（推古11年）に造営された[[宮殿|宮]]である。『日本書紀』の記述によれば、この宮は、南に宮の正門である「南門」（宮門）を構え、その北に[[諸大夫]]の勤める「庁（まつりごとどの）」が左右に並び、その間の中央広場としてオープンスペースの「朝庭」があり、さらにその北中央に「大門」（閤門）、その奥に推古女帝の出御する「大殿」がひかえるという構造であったことが示されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上述べたうちの「'''庁'''」こそ、のちの朝堂の起源と考えられる施設である。なお、「朝庭」について[[吉村武彦]]は、「朝庭は、普通は『朝廷』の字を使うが、ここはのちの朝堂院にあたるスペースの中央広場であるから、『朝庭』の方が的確である」と述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような宮の構造は、[[608年]]（推古16年）に[[隋]]の使節[[裴世清]]や[[611年]]（推古19年）の[[新羅|新羅使]]、[[任那|任那使]]の来朝に関する『日本書紀』の記載からうかがわれるものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南門の外側に、のちの朝集殿にあたる建物があったかどうかは不明であるが、『日本書紀』推古16年条によれば、門外で待機していた裴世清が阿倍臣鳥（あへのおみ とり）と物部頼網連抱（もののべのよさみのむらじ いだき）に導かれて南門より「朝庭」に入り、隋からの贈答品（特産物）をそこに置いて、[[国書]]を手に二度、二拝した。裴世清が使節の趣旨を言上して立ち上がると、阿倍臣鳥が進み出て国書を受け取った。阿倍臣鳥がさらに北に進んで「庁」にいる大夫の大伴連昨（おおとものむらじ くい）のいるあたりまで来ると、大伴連昨は座を立って阿倍臣鳥を迎え、国書を受けとって、大門の前に設置した[[机]]の上に国書を置き、「大殿」にいる[[女帝]]に向かって奏上した。以上が小墾田宮における隋使の[[儀礼]]であった。ここでは、外国使と天皇のあいだに、導者と大夫が介在していることがわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吉村によれば、小墾田宮は「単純な構造ながら、のちの藤原宮や平城宮にみられるような、都宮の基本構造の原型として考え」られ、熊谷公男も、この宮について、「左右対称の整然とした配置をとった『朝庭』を付設した宮は、小墾田宮がはじめてであった可能性が高い」と述べている。ただし、「庁」や「朝庭」の[[遺構]]は検出されていないので、その規模等については不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 難波長柄豊碕宮の朝堂 ===&lt;br /&gt;
およその規模のわかるもので最古の朝堂院は、[[難波宮|難波宮跡]]のうちの[[難波宮#前期難波宮|前期難波宮跡]]（[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]）である。難波宮跡は、南から北方にむけて[[半島]]状に突出した[[上町台地]]の北端付近、現[[大坂城]]のすぐ南に位置しており、[[1953年]]に発見され、[[1954年]]より[[2009年]]現在まで継続して[[発掘調査]]がおこなわれている。調査の結果、前期難波宮跡は[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]の[[遺跡]]であることが確実となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[645年]]の[[乙巳の変]]後、孝徳天皇や[[天智天皇|中大兄皇子]]らは[[飛鳥]]など[[大和国|大和]]各地の[[外港]]にあたる[[難波]]に遷都し、小郡宮や大郡宮などを転々としながら「[[大化の改新]]」とよばれる改革政治をおこなった。小郡宮・大郡宮は、ともにそれまで[[朝鮮半島]]諸国や[[中国]]の使節を接待した外交施設であったが、その館舎を改造して[[行宮]]としたものであった。なお、吉村武彦は、小郡宮・大郡宮いずれも上町台地に立地していたものであろうと推定している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『日本書紀』によれば、新都（難波長柄豊碕宮）の造営は中大兄皇子らによって[[650年]]（[[白雉]]元年）にはじめられた。翌年遷宮をおこない、[[652年]]（白雉3年）にはすべて落成した。王宮全体の規模は不明であるが、東西233.4メートル、南北263.2メートルの空間に、少なくとも東西7堂ずつで計14堂の朝堂（庁）があったことを確認した。[[藤原宮]]・[[平城宮]]でさえ12堂であることを考えると、それをうわまわる建物数であった。発見当時（[[1989年]]）、このことは「予想もしなかった新事実」とよばれ、また、内裏南門は7×2間（32.7×12.3メートル）で平城宮の[[朱雀門]]をしのぎ、内裏南門の東西入口にある八角殿院は他に例をみない[[遺構]]である。ただし、朝堂はその数の多さに比較して、各殿舎は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*西一堂 … 桁行6間（約18メートル）、梁行3間（約7メートル）、[[庇]]なし、[[切妻造]]&lt;br /&gt;
*西二堂～西四堂 … 桁行12間（約35メートル）、梁行2間（約6メートル）、庇なし、切妻造&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と小規模であり、中央の「朝庭」の広大さがむしろ際だっていた。また、朝堂をふくむすべての建物が[[掘立柱建物]]で、[[瓦]]は用いられていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「朝庭」の広さについて、吉田孝は[[文書]]による行政システムの整備された8世紀段階でも重要な儀式や政務は、大極殿とその前庭にあたる「朝庭」でおこなわれており、そこにおける天皇の声による口頭伝達が重要であったことを指摘したうえで、文書行政システムの行われない大化・白雉にあっては、なおさら「朝庭」の広さこそが重要であったと論じ、加えてこの時期、[[評|評造]]の任命が全国的におこなわれ、[[地方]][[豪族]]が「朝庭」に頻繁に参集したためと説明している。また、乙巳の変後の改新政府が、「朝庭」の場を、「[[天つ神]]」の世界に通じる神聖で厳粛な場とみなし、「'''一君万民の思想'''」を鼓吹して浸透させていく空間とみなしていたとする見解が少なくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、前期難波宮跡には、[[火事]]による被災の痕跡があり、これは『日本書紀』[[686年]]（[[朱鳥]]元年）正月条の難波宮が全焼したという記事に、年代的に一致する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 飛鳥京跡上層遺構の朝堂 ===&lt;br /&gt;
難波長柄豊碕宮のあと、[[重祚]]した[[皇極天皇|斉明天皇]]は[[飛鳥板葺宮]]、[[川原宮]]を経て[[岡本宮|後飛鳥岡本宮]]と宮を転々とし、天智天皇・[[弘文天皇]]の[[近江大津宮]]、[[天武天皇]]の[[飛鳥浄御原宮]]、そして[[持統天皇]]の代には[[藤原宮]]とつづく。『日本書紀』には、飛鳥浄御原宮に朝庭や朝堂、大極殿などの施設があったと記しているが、吉田孝は、岡本宮、近江大津宮、飛鳥浄御原宮については「地形的にみて前期難波宮と同規模の朝堂院をつくることは困難であった」としている。ただし、[[飛鳥京]]跡の上層遺構からは朝堂の可能性のある建物跡を検出している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
飛鳥京跡とは、飛鳥地方に営まれた宮跡の総称であり、数十年にわたる遺跡発掘調査とそれにともなう[[層位学的研究法|層位学的研究]]の結果、同一地域に幾層も重なって宮が営まれたことが判明した。すなわち、最上層が飛鳥浄御原宮と後飛鳥岡本宮、その下層が中大兄皇子と[[藤原鎌足|中臣鎌足]]が[[蘇我入鹿]]を暗殺した舞台となった[[飛鳥板蓋宮]]、最下層が[[舒明天皇]]の前飛鳥岡本宮であったとみられる。これまでの調査で、構造が比較的分かっているのは飛鳥浄御原宮である。この宮は、後飛鳥岡本宮の内郭に「エビノコ郭」と称される宮殿を加えて完成したとされる。後飛鳥岡本宮は、その周囲を[[掘立柱]]の塀によって区画し、南北約197メートル、東西約155メートルの規模を有し、[[1979年]]および[[1980年]]の調査で、「前殿」とされる東西建物跡と南門の跡が見つかっている。この前殿こそ、朝堂に相当する建物である。検出されたのは東西1堂ずつの2堂のみであった。飛鳥浄御原宮が手狭であったことは確かであるが、空間構成の理念としては、前代および後代の宮との類似性が指摘できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 藤原宮の朝堂 ===&lt;br /&gt;
規模や内部の殿堂配置の明確な宮城としては、[[条坊制]]の採られた初の本格的[[都城]]として建設された[[藤原京|新益京]]（藤原京）の藤原宮が最古である。藤原宮は、周辺京域の建設が進められたあと、北の[[耳成山]]、西の[[畝傍山]]、東の[[天香具山]]のいわゆる「[[大和三山]]」のなかに造営され、[[694年]]（持統8年）に正式に遷された宮である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、「藤原京」は学術用語であり、『日本書紀』では「新益京」と記されている。『日本書紀』には新益京に先だって「[[倭京]]」の名があることから、岸俊男は藤原京に先だった条坊制都城としての「倭京」があった可能性を指摘しているが、仁藤敦史は「倭京」を条坊制都城とは原理的に異なるものとして位置づけ、「天武朝以前において、地域に散在する継続的な支配拠点（[[宮]]・宅・[[寺]]・[[市]]・[[広場]]など）の総体を示す用語」であると論じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藤原宮の朝堂院遺構は、南北およそ600メートル、東西およそ240メートルにおよぶ最大規模のものであり、朱雀門から北に朝堂・大極殿・内裏と一直線に並ぶ「日本的形態」となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宮の内部は、朝堂院中域に朝堂が12堂あり、東と西のそれぞれ6堂ずつ対称的に配置されていた。難波長柄豊碕宮朝堂の14堂以上にくらべると殿舎の数は少ないが、それぞれの規模は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*一堂 … 桁行9間（約36メートル）、梁行4間（約14メートル）、四面庇、[[入母屋]]または[[寄棟]]&lt;br /&gt;
*二堂～四堂 … 桁行15間（約62メートル）、梁行4間（約12メートル）、二面庇、切妻造&lt;br /&gt;
*五堂・六堂 … 桁行12間（約50メートル）、梁行4間（約12メートル）、二面庇、切妻造&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であり、難波よりはるかに大きい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、難波長柄豊碕宮と藤原宮では、第一堂の規模・構造が他と異なり、桁行は最短でありながらも梁行は最も広くとられ、四面庇で、屋根構造でもひとつ格上の入母屋もしくは寄棟が採用されていることから、朝堂の殿舎のなかでは特別に扱われていたことがわかる。この傾向は平城宮の前半までつづいている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも基壇をもつ[[礎石建物]]であり、また、宮としては日本で初めての[[瓦葺]]の殿舎であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 奈良時代の諸宮の朝堂 ===&lt;br /&gt;
平城宮は、[[明治時代]]、建築史家[[関野貞]]による現地踏査がなされ、大極殿跡と推定される土壇や[[水田]]跡中に朝堂12殿舎にあたる土壇を発見したことから実態の復元が始まった。[[1959年]]からは[[奈良国立文化財研究所]]による継続的な[[発掘調査]]がおこなわれている。こんにちでは2時期にわたって営まれていたことが判明しており、以下、[[聖武天皇]]が[[740年]]（[[天平]]12年）に[[恭仁京]]へ[[行幸]]するまでを平城宮（前半）、[[745年]]（天平17年）行幸先の[[紫香楽宮]]より平城京に戻ってきてからを平城宮（後半）として説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 平城宮（前半）の朝堂 ====&lt;br /&gt;
平城宮は、広さおよそ125ヘクタールの広大な面積をもち、大きく分けて、朝堂院・内裏を核とする中枢部分と周辺官庁群の区域に分かれていた。その位置と範囲は、前半・後半を通じて変わらない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1960年代の調査では、朝堂院が東西に2つ並んで確認されたことから、それを時期差として解釈する「第一次朝堂院」「第二次朝堂院」説が提起され、また、[[木簡]]や[[史書]]にみえる「[[中宮]]」「[[東宮]]」「西宮」が「内裏」とどう関わり、また、それぞれを実際の遺構にどう比定するかなどについて、活発な議論がかわされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
調査が進むにつれて、[[710年]]（[[和銅]]3年）の平城京遷都当初から構造と機能の異なる2つの朝堂が奈良時代を通じて並存し、しかも、745年の還都に際し、前半とほぼ同じ場所に建物が再建されたことが判明した&amp;lt;ref&amp;gt;仁藤（1998）p.275-317&amp;lt;/ref&amp;gt;。こんにちでも「第一次朝堂院」「第一次大極院」等の名称がしばしば用いられるが、それは報告書等における名称の慣用的な使用であり、意味としては正しくないことがある。また、文献上の「中宮」「東宮」「西宮」をどのように現実の遺構変遷と整合させるかについては、依然、複数の学説が大きく対立している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奈良時代前半（710年-740年）では、[[朱雀門]]から宮城に入って北へ約220メートルいくと、さらに門があり、その北に桁の長い東西2堂計4堂の朝堂のある一郭があり、さらにその北には朝堂区域とほぼ同面積におよぶ広大な[[大極殿]]の一郭（しばしば「大極殿院」と称される）が控える。この〈朱雀門-朝堂（4堂）-大極殿院〉の細長いエリアの東西両側には、これに沿って南北方向に直線状の[[水路]]が走っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、朱雀門の東[[壬生門]]から宮城に入って北へ約220メートルいくと、同様に門があり、その北に従来型の朝堂区域すなわち東西各6堂で計12堂よりなる朝堂院の一郭があり、その北に広大な[[内裏]]の一郭がある。この〈壬生門-朝堂（12堂）-内裏〉の細長いエリア（東側エリア）の西側は先に述べた水路によって、さきほどの〈朱雀門-朝堂（4堂）-大極殿院〉のエリア（西側エリア）と区切られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、朝堂のある区域は水路をはさんだかたちで東西に並び、西側が従来にない特異な型式、東側が従来型式の朝堂区域となっている。規模は、両区域とも南北方向は同じ長さであるが東西方向は西側エリアの朝堂区域がやや長く、東側は西側にくらべ細長い形状の長方形となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西側エリアの朝堂区域については、平安宮における[[豊楽院]]の先駆的な形態ととらえる見解が、かつても今も多い&amp;lt;ref&amp;gt;今泉隆雄「平城宮大極殿朝堂考」『古代宮都の研究』吉川弘文館、1993年（初出1980年）など&amp;lt;/ref&amp;gt;。詳細は不明であるが、広大な大極殿院の前面にあって、かつ、長岡宮以後は引き継がれなかったことから、[[饗宴]]や儀式等の場所またはその控えとして利用された可能性は充分に考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、東側エリアの12堂よりなる朝堂院において、発掘調査により判明した東一堂と東二堂の朝堂殿舎の規模は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*東一堂 … 桁行9間（約36メートル）、梁行5間（約14メートル）、四面庇、入母屋または寄棟&lt;br /&gt;
*東二堂 … 桁行12間（約36メートル）、梁行3間（約9メートル）、四片庇、切妻&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であり、第一堂が二堂に対し格上の殿舎とされていることは従来と変わらなかった。また、いずれも礎石建物で屋根は瓦葺だったことが判明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遺物出土状況および遺構検出状況より、柱は朱色で、壁は白い[[漆喰]]で仕上げられ、連子窓をともなう場合は緑など、色彩豊かな空間であったろうと推測されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 恭仁宮の朝堂 ====&lt;br /&gt;
恭仁宮については、大極殿についての記録はあったものの、朝堂および朝堂院については史料上にみえなかったが、[[2008年]]度の調査ではじめて朝堂が確認された。詳細は[[京都府]][[教育委員会]]文化財保護課「平成20年度現地説明会の資料」を参照のこと。それによれば、12堂の朝堂の殿舎があったことが確認されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 後期難波宮の朝堂 ====&lt;br /&gt;
聖武天皇は、[[744年]]（天平16年）、[[726年]]（[[神亀]]3年）以来副都の地位にあった[[難波京]]への[[遷都]]を実施した。難波宮についても恭仁宮同様、朝堂および朝堂院については史料上みえなかったが、[[発掘調査]]により、前期難波宮跡（難波長柄豊碕宮跡）の上層で確認した。調査の結果、後期難波宮の規模は前期難波宮の規模よりはるかに小さかったが、[[瓦]]が使用され、また、朝堂は東西4堂の計8堂であったことがわかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 紫香楽宮の朝堂 ====&lt;br /&gt;
平城京にもどる直前の聖武天皇は[[紫香楽宮]]行幸中であった。[[紫香楽宮跡]]についても、発掘調査はおこなわれているが、その全貌は充分にわかっていない。ただし、少なくとも朝堂院にあたる一郭の中軸線、および朝堂建物にかかわる[[遺構]]・[[遺物]]を何点か確認している。詳細は、[[甲賀市]][[教育委員会]]の「過去の現地説明会内容」を参照されたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 平城宮（後半）の朝堂 ====&lt;br /&gt;
奈良時代後半（745年-784年）でも、朝堂の立ち並ぶ2つの区域に限っていうと、前半とそれほど大きくは変わらない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西側エリア〈朱雀門-朝堂（4堂）-大極殿院〉では、大極殿院前の回廊が取り払われて朝堂区域の敷地面積が拡大するが殿舎の数は4堂で変わらず、位置も不変である。しかし、大極殿は東側エリアに移って大極殿院は「西宮」というかたちで残った可能性が高い。つまり、ここでは〈朱雀門-朝堂（4堂）-西宮〉が一直線に並ぶかたちとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東側エリア〈壬生門-朝堂（12堂）-内裏〉では、大極殿が西側エリアより移り、また、朝堂の南に[[朝集殿]]が東西各1堂で計2堂確認されている。つまり、ここでは〈壬生門-朝集殿-朝堂（12堂）-大極殿（-内裏）〉が一直線に並ぶかたちとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
発掘調査では、東側エリアの東第一堂と第二堂の規模を確認している。それぞれの殿舎の規模は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*東一堂 … 桁行9間（約26メートル）、梁行4間（約14メートル）、四面庇、入母屋または寄棟&lt;br /&gt;
*東二堂 … 桁行15間（約33メートル）、梁行4間（約14メートル）、四面庇、入母屋または寄棟&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
である。両堂の位置は、前半とほぼ変わらず、同一地点での建て替えである。これをみると、難波長柄豊碕宮、藤原宮、平城宮（前半）まで、第一堂の梁行総長が二堂以下にくらべ長かったのに対し、ここで初めて同じ長さになっている。また、[[庇]]のあり方や屋根構造の面などでも二堂との違いがなくなっている。したがって、少なくとも外観のうえでは、第一堂を特別視することはなくなったことがわかる。この傾向は、長岡宮、平安宮でも引き継がれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長岡宮の朝堂 ===&lt;br /&gt;
[[784年]]（[[延暦]]3年）、[[桓武天皇]]は都を[[山背国]][[乙訓郡]]長岡の地に遷都した。[[長岡京]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この遷都について、岸俊男は、&lt;br /&gt;
#桓武天皇は即位直後の延暦元年に、財政再建のため、造宮省の廃止を含めた冗費を節約する旨の[[詔勅]]を発しているにもかかわらず、その2年後には遷都の準備がなされていること&lt;br /&gt;
#延暦3年5月に[[藤原小黒麻呂]]・[[藤原種継]]らが乙訓郡に派遣され、わずか半年後の同年11月に遷都が実現していること&lt;br /&gt;
#藤原種継暗殺事件等を経て長岡京未完成のまま、わずか10年で廃され、[[794年]]（延暦13年）には[[平安京]]に遷都されたこと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の3つを疑問点として提起している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この疑問を解く鍵として岸は、長岡遷都は、平城京からの遷都であると同時に、副都[[難波京]]からの遷都でもあり、すなわち[[複都制]]の廃止を意味していたことを数々の文献より立証した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従来営まれてきた2つの都を1つにまとめようとしたとすれば、緊縮政策の1つとして造宮省を廃止しながら長岡遷都を断行したことの意味が理解できる。事実、下に示すように、長岡宮の朝堂院の規模が従前までのいずれの宮よりも小さく、朝堂の殿舎の数は東西4堂で計8堂にすぎない。また、それぞれの殿舎も、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*一堂～三堂 … 桁行7間（約27メートル）、梁行4間（約12メートル）、二面庇、切妻&lt;br /&gt;
*四堂 … 桁行9間（約35メートル）、梁行4間（約12メートル）、二面庇、切妻&lt;br /&gt;
であり、それまでの宮とくらべて小規模である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、天皇の私的住まいである[[内裏]]と公的な政務の場である朝堂院はこれまでしだいに分離する傾向があったものの、平城宮までは内裏と朝堂院は南北に接していた。しかし、長岡宮にいたって完全に分離するにいたった。いっぽう、大極殿は朝堂との一体化が進み、朝堂の正殿としての機能と性格をいっそう強め、大極殿・朝堂・朝集殿の全体を呼称する「朝堂院」の語が成立することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 平安宮の朝堂 ===&lt;br /&gt;
桓武天皇が長岡遷都わずか10年足らずで平安京の造営に踏み切ったことについて、岸俊男は、一時は財政上の理由で小規模な宮都を造営したものの、さまざまな点で不都合が生じ、また種継暗殺の影響もあって従来型の都城を建設する必要がでてきたのではないかと推測している。選ばれたのは、長岡京の北東およそ10キロメートル、山背国[[葛野郡]]であった。平安京の造営はまず宮城（平安宮）から始められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平安宮は別名「[[大内裏]]」と称されている。長岡宮にいたって朝堂院と分離した内裏は、平安宮にあっては、朝堂院北東に離れて位置するようになった。その反面、大極殿前面の[[回廊]]が消滅して、大極殿と朝堂一郭は一体化し、「龍尾檀」という少し高い檀が設けられるのみとなった。また、朝堂院の西側に、[[饗宴]]の場として朝堂院と同規模の[[豊楽院]]が並置された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平安宮の朝堂における、それぞれの殿舎の規模は、&lt;br /&gt;
*一堂 … 桁行7間、梁行2間、庇なし（正面に土庇）、切妻&lt;br /&gt;
*二堂・三堂 … 桁行9間、梁行2間、庇なし（正面に土庇）、切妻&lt;br /&gt;
*四堂 … 桁行15間、梁行2間、庇なし（正面に土庇）、切妻&lt;br /&gt;
*五堂・六堂 … 桁行7間、梁行2間、庇なし（正面に土庇）、切妻&lt;br /&gt;
であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平安宮における朝座の配置は、[[左弁官]]に属する[[中務省]]、[[式部省]]、[[治部省]]、[[民部省]]の四省が東方に、[[右弁官]]に属する[[兵部省]]、[[刑部省]]、[[大蔵省]]、[[宮内省]]の四省が西方に配されたとされる。これは、岸俊男が明らかにしたものであるが、このことより朝座の配置は左弁官・右弁官の分属を原則とするものと推定されてきた。また、岸は、朝堂院が従来はもっぱら「朝儀の場」として捉えられて考察されてきたことを批判し、本来的にはむしろ推古朝の小墾田宮から平安宮まで一貫して「朝政の場」であったことを、[[1960年代]]以降急速に進展した[[都城制|都城]]の発掘調査の成果をもとに明らかにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[818年]]（弘仁9年）、平安宮では朝堂各堂は、[[中国]]風の号が名づけられた。以下に、それぞれの殿舎につけられた号と『[[延喜式]]』より復元した着座の堂を示す。なお、着座の堂に関しては、かつての岸の比定からみると若干の異動がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東一堂を昌福堂と命名し、以下東側は、含章堂、承光堂、明礼堂の3堂が南北方向につらなり、東五堂の暉章堂、東六堂の康楽堂は東西を長軸として前後に並び、全体として逆L字状の平面を呈する。着座の官司は、'''昌福堂'''が[[太政大臣]]・左右大臣、'''含章堂'''が[[大納言]]・[[中納言]]・[[参議]]、'''承光堂'''が[[中務省]]・[[図書寮]]・[[陰陽寮]]、'''明礼堂'''が[[治部省]]・[[雅楽寮]]・[[玄蕃寮]]・[[諸陵寮]]、'''暉章堂'''が[[少納言]]・左弁官・右弁官、'''康楽堂'''が[[主税寮]]・[[主計寮]]・[[民部省]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西側は、延休堂を西一堂とし、以下、東側と対称的にL字状に並ぶ。それぞれの堂の名称と着座官司は、'''延休堂'''（[[親王]]）、'''含嘉堂'''（[[弾正台]]）、'''顕章堂'''（[[刑部省]]・[[判事]]）、'''延禄堂'''（[[大蔵省]]・[[宮内省]]・[[正親司]]）、'''修式堂'''（[[式部省]]・[[兵部省]]）、'''永寧堂'''（[[大学寮]]）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂院全体を「'''八省院'''」と呼ぶようになったのもこのときであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
橋本義則は、弁官の朝座が太政官に属する東の昌福堂・含章堂から離れた暉章堂にあることに着目しており、また、太政大臣・左右大臣の着座する東の昌福堂にたいし、正面から対峙するかたちで親王の朝座が西の延休堂に設けられていることから、そこに[[皇親政治]]の[[伝統]]との関連を指摘している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 八省院の焼失 ===&lt;br /&gt;
平安宮（大内裏）においては、大極殿まで焼失する火事は3度あり、うち2度までは再建されたものの3度目の焼失ののちは再建されなかった。すなわち、朝堂院（八省院）は[[876年]]（[[貞観 (日本)|貞観]]18年）、[[1058年]]（[[康平]]元年）に焼失し、そのたびに再建されたが[[1177年]]（[[安元]]3年）の[[安元の大火]]ののちは再建されず、こののち朝儀は主に内裏の[[紫宸殿]]でおこなわれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朝堂機能の変容 ==&lt;br /&gt;
政務における実務が宮内の曹司でおこなわれるようになったため、朝堂での政務そのものは儀式化の傾向が進み、[[年中行事]]の運営などが中心になっていった。また、それにともなって朝堂一郭の規模は、藤原宮を頂点に時代を下るごとに縮小化の傾向がみられた。儀式化した政務に[[陣定]]などの[[評定]]や[[訴訟]]が複合していったが、これらは総称して[[公事]]とよばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂建物のつくりをみると、平城宮を頂点に四面庇から二面庇へ、さらには庇なしへ、屋根構造も入母屋または寄棟から切妻へと、簡素化の傾向がみられる。これは、朝政の盛衰と深くかかわる変化であろうことがうかがわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂配置の面では、上述のとおり、平城宮までは天皇の起居する内裏と朝堂院は接していたが、長岡宮にいたって完全に分離するいっぽう、元来は内裏の前殿であった大極殿がむしろ朝堂の正殿としての性格を強め、平安宮では大極殿前面の回廊が取り払われて、大極殿と朝堂一郭が完全に一体化した。大極殿・朝堂・朝集殿の全体を呼称する「朝堂院」の語も長岡京期に生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして公的な政務の場である朝堂院と天皇の私的な住まいである内裏は分離されたが、[[律令体制]]の変質によって、以上のような平面変化がかえって内裏を[[政治]]の新たな中心の場とし、朝堂院はむしろ全体として儀式の場としての性格をいっそう強く帯びることとなった。[[院政]]を経て[[武士政権]]が成立すると、かつて朝堂が担ってきた役割や機能にもはや積極的な意義は見いだせなくなった。それが安元以後、ついに朝堂が再建されなかった理由であると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[朝廷]]&lt;br /&gt;
* [[朝庭]]&lt;br /&gt;
* [[朝政]]&lt;br /&gt;
* [[公事]]&lt;br /&gt;
* [[朝儀]]&lt;br /&gt;
* [[朝堂院]]&lt;br /&gt;
* [[大極殿]]&lt;br /&gt;
* [[内裏]]&lt;br /&gt;
* [[朝集殿]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
* 橋本義則「朝政・朝儀の展開」岸俊男編『日本の古代7 まつりごとの展開』[[中央公論社]]、1986年12月。ISBN 4-12-402540-8&lt;br /&gt;
* [[岸俊男]]「朝堂政治のはじまり」岸俊男編『日本の古代7 まつりごとの展開』中央公論社、1986年12月。ISBN 4-12-402540-8&lt;br /&gt;
* 岸俊男「日本都城制総論」岸俊男編『日本の古代9 都城の生態』中央公論社、1987年4月。ISBN 4-12-402542-4&lt;br /&gt;
* [[狩野久]]「法と制度の実際」『朝日百科 日本の歴史2 古代』朝日新聞社、1989年4月8日。ISBN 4-02-380007-4 &lt;br /&gt;
* [[吉村武彦]]『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』[[集英社]]、1991年8月。ISBN 4-08-195003-2&lt;br /&gt;
* [[吉田孝]]『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』[[小学館]]&amp;amp;lt;小学館ライブラリー&amp;amp;gt;、1992年10月。ISBN 4-09-461003-0&lt;br /&gt;
* 黒須利夫「朝政と朝儀」阿部猛・[[義江明子]]・槙道雄・相曽貴志編『日本古代史研究事典』[[東京堂出版]]、1995年5月。ISBN 4-490-10396-4&lt;br /&gt;
* 浅野充「藤原京から平城京へ」阿部猛・義江明子・槙道雄・相曽貴志編『日本古代史研究事典』東京堂出版、1995年5月。ISBN 4-490-10396-4&lt;br /&gt;
* 仁藤敦史『古代王権と都城』[[吉川弘文館]]、1998年2月。ISBN 4-642-02324-0&lt;br /&gt;
* 熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』[[講談社]]、2001年1月。ISBN 4-06-268903-0&lt;br /&gt;
* 渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』講談社、2001年2月。ISBN 4-06-268904-9&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 橋本義則「朝政・朝儀の展開」[[岸俊男]]編『日本の古代7 まつりごとの展開』中央公論社、1986年12月。ISBN 4-12-402540-8&lt;br /&gt;
* 岸俊男「日本都城制総論」岸俊男編『日本の古代9 都城の生態』中央公論社、1987年4月。ISBN 4-12-402542-4&lt;br /&gt;
* 仁藤敦史『古代王権と都城』吉川弘文館、1998年2月。ISBN 4-642-02324-0&lt;br /&gt;
* [[奈良県立橿原考古学研究所|奈良県立橿原考古学研究所附属博物館]]編集『大和の考古学』奈良県立橿原考古学研究所、1997年10月。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_04_28.htm 幻の小墾田宮跡]&lt;br /&gt;
*[http://ariosu-web.hp.infoseek.co.jp/t/miya.htm#1 前期難波宮]&lt;br /&gt;
*[http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/asuka/ind3.htm 橿原市の文化財／藤原宮・藤原京の建設]&lt;br /&gt;
*[http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_miyafjwr.html 官制大観 藤原宮]&lt;br /&gt;
*[http://www.nabunken.go.jp/site/shiryou.html 平城宮跡資料館（奈良国立文化財研究所）]&lt;br /&gt;
*[http://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/kunikyu.html 恭仁宮跡の発掘調査（京都府教育庁文化財保護課）]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/tenpyounomiyako/ 古代の都 紫香楽宮跡（甲賀市教育委員会）]&lt;br /&gt;
*[http://www.geocities.jp/tenpyounomiyako/kakosetsu.html 紫香楽宮跡発掘調査 過去の現地説明会資料]&lt;br /&gt;
*[http://www.city.muko.kyoto.jp/gaiyo/nagaokakyouato.html 長岡京跡（向日市）]&lt;br /&gt;
*[http://tukineko.pekori.jp/heian/daidai/tyoudou.html 朝堂院（平安京）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちようとう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の宮殿]]&lt;br /&gt;
[[Category:飛鳥時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:奈良時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の建築]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の庁舎|旧ちようとう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

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		<title>朝儀</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''朝儀'''（ちょうぎ）とは、朝廷の儀式の総称。  == 朝儀の場と種類 == 朝儀とは、朝堂においておこなわれた、さまざ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朝儀'''（ちょうぎ）とは、[[朝廷]]の[[儀式]]の総称。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朝儀の場と種類 ==&lt;br /&gt;
朝儀とは、[[朝堂]]においておこなわれた、さまざまな公の[[儀式]]の総称である。朝儀は大きく、&lt;br /&gt;
#[[即位の礼|天皇即位儀]]、[[朝賀|元日朝賀]]、[[任官]]、[[叙位]]、[[改元]]の[[宣詔]]、[[告朔]]などの[[朝拝]]を中心とする儀式&lt;br /&gt;
#[[節会]]や外国使への[[賜饗]]などの[[饗宴]]を中心とする儀式&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
に二分される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[奈良時代]]において、1.は[[天皇]]が[[大極殿]]に御し、大極殿門をはさんで朝廷には文武百官が列を組んで立ち並ぶかたちとなり、2.は大極殿門に天皇が出御し、朝堂が臣下のいる場所となった。[[平城宮]]におけるこの2つの形態は、[[平安時代]]の[[大内裏]]にも継承され、1.は[[朝堂院]]、2.は[[豊楽院]]にて執りおこなわれることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 儀式・典礼 == &lt;br /&gt;
平安時代、朝儀や[[祭事]]、四季の行事などに関する形式と作法の次第を定めたものを「[[儀式 (書物)|儀式]]」といい、その典拠となる先例（[[故実]]）を「[[典礼]]」と呼んでいる。儀式・典礼は、[[唐]]法における礼を基本としてつくられたものが多いとされる。儀式・典礼を知ることは、[[貴族]]社会において必須のこととしてきわめて重要視された。かれらが朝儀に参加し、その作法の先例を尊重して、正しく儀式次第をおこなうことこそが、[[公家]]の体面や資格にかかわるほどであった。そのため、[[院政期]]から[[鎌倉時代]]にかけて、朝廷で[[有職故実]]の学が生まれ、[[儀式書]]も多数記されることとなるが、これは、過ぎ去ったよき時代への懐古と尊重の念を基本としていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朝儀の成立 ==&lt;br /&gt;
朝儀の成立は、各々の儀式それぞれに個別の事情があり時期も一定しないが、唐の[[律令]]の受容と深い連関があり、[[大宝 (日本)|大宝]]元年（[[701年]]）完成の[[大宝律令]]によって、はじめて国家的な儀容の基本が整備されたものと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
*黒須利夫「朝政と朝儀」阿部猛・[[義江明子]]・槙道雄・相曽貴志編『日本古代史研究事典』[[東京堂出版]]、1995年5月。ISBN 4-490-10396-4&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[朝廷]]&lt;br /&gt;
*[[朝庭]]&lt;br /&gt;
*[[公事]]&lt;br /&gt;
*[[朝堂]]&lt;br /&gt;
*[[朝政]]&lt;br /&gt;
*[[朝堂院]]&lt;br /&gt;
*[[朝集殿]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちようき}}&lt;br /&gt;
[[Category:奈良・平安時代の宮廷]]&lt;br /&gt;
[[Category:儀式]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の律令制]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

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		<title>菅沼定村</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''菅沼 定村'''（すがぬま さだむら、大永元年（1521年） − 弘治2年8月4日（1556年[[9月17...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''菅沼 定村'''（すがぬま さだむら、[[大永]]元年（[[1521年]]） − [[弘治 (日本)|弘治]]2年[[8月4日_(旧暦)|8月4日]]（[[1556年]][[9月17日]]））は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[菅沼定則]]の長男。[[野田菅沼氏]]2代目。幼名、竹千代。通称、新八郎。[[織部正]]。正室は深溝[[松平忠定]]の娘。[[菅沼定盈]]は長男。田峯菅沼家の資料では'''さだすえ'''。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天文_(元号)|天文]]13年（[[1544年]]）1月、父の隠居により家督を継ぐ。同年4月、領内に母の菩提寺・能満寺を建立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[今川氏]]への忠勤に励んでいた[[弘治_(日本)|弘治]]2年（[[1556年]]）、[[奥平貞勝]]の[[今川氏]]離反に本家・[[田峯菅沼氏]]も加担。それぞれ、本拠に立て籠もった。自身は離反に加担しなかったが、三右衛門定圓・伝一郎定自ら定村に不満を持っていた弟2人が本家に加わった。この造反には、[[駿府]]から東[[三河国|三河]]の諸将へは鎮圧が命じられたため、同年8月4日、[[奥平貞勝|貞勝]]に与する[[額田郡]]雨山へ攻め入った。ところが、定村の率いる野田菅沼軍だけが突出。後続の無いままに先立って、戦端を開いてしまう。しかも、防衛側・阿知波五郎兵衛から放たれた矢によって、馬上から下知する定村は左喉から耳を貫かれ、落馬絶命。大将を失った野田勢は、新三左衛門定貴・半五郎定満ら定村の弟2人による立て直しも空しく、弟たちも討死し壊滅した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戒名は、翰照院殿慶岩道雲居士。母の能満寺に合葬されると、寺号は道雲寺に改められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 定村が登場する作品 ==&lt;br /&gt;
*[[風は山河より|風は山河より]]（[[宮城谷昌光]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:菅沼氏|さたむら]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|すかぬまさたむら]]&lt;br /&gt;
[[Category:1521年生|すかぬまさたむら]]&lt;br /&gt;
[[Category:1556年没|すかぬまさたむら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%9D%E6%94%BF&amp;diff=213374</id>
		<title>朝政</title>
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				<updated>2013-12-14T14:09:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''朝政'''とは、 #'''あさまつりごと'''：早朝、貴族・文武の官人が参集したうえで天皇が政務をみること #'''ちょうせい'''...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朝政'''とは、&lt;br /&gt;
#'''あさまつりごと'''：早朝、貴族・文武の[[官人]]が参集したうえで[[天皇]]が政務をみること&lt;br /&gt;
#'''ちょうせい'''：[[朝廷]]がおこなう政治、朝廷の政務一般&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
である。また、「[[朝座]]に着いた官人による政治」という意味で「'''朝座政'''」と呼称する場合もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでは、1.について述べる。2.については「[[公事#政務としての公事|公事]]」を参照されたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 飛鳥時代 ==&lt;br /&gt;
『[[日本書紀]]』には、すでに[[推古天皇|推古朝]]の「[[十七条憲法]]」8条に、「群卿百寮 早朝晏退 公事靡監 終日難盡 」の記事があり、『[[隋書]]』にも[[600年]]に[[隋]]に派遣された[[遣隋使]]が高祖[[楊堅|文帝]]に[[倭]]の[[風俗]]について質問された際、「以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟」と応答したことが記録されており、早朝における天皇の聴政（政治を執ること）が示唆されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、『日本書紀』には[[大化]]3年（[[647年]]）、[[孝徳天皇]]が[[難波]]の小郡宮で「礼法」を定めたということが記されている。冠位を有する官人は、毎朝午前4時ころまでに朝庭南門の外にならび、[[日の出]]とともに庭にはいって天皇に再拝し、そのあと[[正午]]まで朝堂で政務を執ることとした。遅刻した者は入ることができず、また、正午の鐘を聞いたら退庁すべし、としている。[[鐘]]は中庭につるしておき、鐘をつく者は赤い[[頭巾]]をかぶるべきことも定められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このとき、[[魏志倭人伝|『魏志』倭人伝]]にも記された古くからの伝統である、両手を地面につけ、ひざまずいておこなう礼法（[[跪礼]]（きれい）・匍匐礼（ほふくれい））から、中国ふうの起ったまま[[お辞儀]]する礼法（[[立礼]]（りつれい））に改められ、のちの時代に「難波朝庭（なにわのみかど）の立礼（たついや）」と称された。跪礼・匍匐礼は、のちにもしばしば禁止されていることから、旧来の[[慣習]]はなかなか改まらなかったものと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 奈良・平安時代 == &lt;br /&gt;
[[奈良時代]]・[[平安時代]]にあっても、早朝の聴政は続いており、「[[養老律令|養老令]]」の[[宮衛令]]（くえいりょう）には、朝夕の鼓に合わせて宮城の門が開閉されることが定められており、午前6時半には朝堂の門を開くものとされている。この規定は「[[大宝律令|大宝令]]」の宮衛令以来のものと考えられる。さらに、「[[延喜式]]」では、季節による日の出・[[日の入り]]の時刻の変化に応じた門の開閉の時刻を、より詳細に定めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「延喜式」によれば、諸司の五位以上の官人は、大雨の日や11月から2月の極寒期をのぞき、基本的には毎朝、[[朝堂院]]で政務を執ることとなっていた。官人たちは、朝堂でみずからの席次（[[朝座]]）に就くと[[官司]]（[[官庁]]・官人組織）ごとに日常の政務を処理する。これを[[常政]]というが、[[弁官]]の決裁が必要な場合は弁官のもとへいって報告することとなっていた。これが[[申政]]である。また、[[太政大臣]]や[[左大臣]]、[[右大臣]]に直接上申する際には、その旨を弁官と[[外記]]に告げることとなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 研究史 ==&lt;br /&gt;
朝政に関する研究は、[[岸俊男]]『朝堂の初歩的考察』（1975年）を嚆矢としている。岸は、朝堂院が従来はもっぱら「[[朝儀]]の場」として捉えられて考察されてきたことを批判し、本来的にはむしろ推古朝の[[小墾田宮]]から[[平安宮]]まで一貫して「朝政の場」であったことを、[[1960年代]]以降急速に進展した[[都城制|都城]]の[[発掘調査]]の成果をもとに明らかにし、朝堂院のあり方と律令制における政治組織の整備とを関連づけ、近年の研究動向に強い影響をあたえた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[鬼頭清明]]は[[藤原京|藤原宮]]における朝堂院の形態を中国と比較してその特異性を論じ、古瀬奈津子が政務の運営と宮の構図との連関を平城宮・[[長岡京|長岡宮]]・平安宮の時系列変化をもとに考察し、[[橋本義則]]は日本古代の朝政の変化について、さまざまな論点にふれながらこれを概括している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
* [[吉村武彦]]『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』[[集英社]]、1991年8月。ISBN 4-08-195003-2&lt;br /&gt;
*[[吉田孝]]『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』[[小学館]]&amp;amp;lt;小学館ライブラリー&amp;amp;gt;、1992年10月。ISBN 4-09-461003-0&lt;br /&gt;
*[[黒須利夫]]「朝政と朝儀」阿部猛・[[義江明子]]・槙道雄・相曽貴志編『日本古代史研究事典』[[東京堂出版]]、1995年5月。ISBN 4-490-10396-4&lt;br /&gt;
* 熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』[[講談社]]、2001年1月。ISBN 4-06-268903-0&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[朝堂]]&lt;br /&gt;
*[[朝堂院]]&lt;br /&gt;
*[[朝集殿]]&lt;br /&gt;
*[[朝儀]]&lt;br /&gt;
*[[朝廷]]&lt;br /&gt;
*[[朝庭]] &lt;br /&gt;
*[[公事]]&lt;br /&gt;
*[[外記政]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あさまつりこと}}&lt;br /&gt;
[[Category:奈良・平安時代の宮廷]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の律令制]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%9D%E5%A0%82%E9%99%A2&amp;diff=213373</id>
		<title>朝堂院</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%9D%E5%A0%82%E9%99%A2&amp;diff=213373"/>
				<updated>2013-12-14T14:04:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Nodakenta: ページの作成：「'''朝堂院'''（ちょうどういん）とは日本古代（飛鳥時代・奈良時代・平安時代）の都城における、宮城（[[大内...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''朝堂院'''（ちょうどういん）とは日本古代（[[飛鳥時代]]・[[奈良時代]]・[[平安時代]]）の[[都城]]における、[[宮城]]（[[大内裏]]）の正庁。[[818年]]以降は'''八省院'''（はっしょういん）とも称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
=== 構成 ===&lt;br /&gt;
[[推古天皇]]の[[小墾田宮]]（おはりだのみや）あたりに原型が見られ、大内裏の最も重要な施設であり、[[大極殿]]、[[朝堂]]（ちょうどう）、[[朝集殿]]（ちょうしゅうでん）の3種の殿舎からなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正殿である'''大極殿'''には[[天子]]の玉座である「[[高御座]]」（たかみくら）が据えられており、[[儀式]]や[[謁見]]の際に[[天皇]]が着座した。そこから左右に中庭（「[[朝庭]]」という）を挟むようにして朝堂が並び、南に東西朝集殿が建っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''朝堂'''は、天子が早朝に政務をみる[[朝政]]をはじめとする庶政や臣下参列のもと国儀大礼をおこなう重要な庁舎で、[[聖武天皇]]の代の後期難波宮（[[難波京]]）と[[長岡京|長岡宮]]では8堂、[[藤原宮]]・[[恭仁京|恭仁宮]]および[[平安宮]]では12堂であったが、前期難波宮（[[難波長柄豊崎宮|難波長柄豊碕宮]]）では少なくとも14堂以上の朝堂があったことを確認している。[[平城宮]]の朝堂院は前半・後半を通じて2つのタイプが並列しており、1つは12堂の従来型の朝堂区域ともう1つは[[饗宴]]など[[朝儀]]に特化したであろうと推定される4堂からなる朝堂区域である。8堂以上の朝堂をもつ朝堂院は、いずれの場合も中軸線をはさんでL字状ないし逆L字状の線対称に朝堂の殿舎が配置され、全体としては「コ」の字状の平面形となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''朝集殿'''は、有位の官人が朝政等に参集する際の待機の場として設けられた施設であり、[[大化]]・[[白雉]]期に営まれた難波長柄豊碕宮の[[発掘調査]]において確認されており、以後、平安宮にいたるまで、諸宮の朝堂院にも引き継がれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 機能と変遷 ===&lt;br /&gt;
====飛鳥時代====&lt;br /&gt;
朝堂院の原型と思われる殿舎については、『[[日本書紀]]』推古紀に飛鳥小墾田宮に関する記述があり、そこから推古女帝の出御する大殿（のちの大極殿）や[[大夫]]のひかえる「庁」（のちの朝堂）および朝庭について描写されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[飛鳥京]]跡の上層遺構、すなわち[[天武天皇]]の[[飛鳥浄御原宮]]と[[皇極天皇|斉明天皇]]の[[岡本宮|後飛鳥岡本宮]]については、飛鳥浄御原宮が後飛鳥岡本宮の内郭に「エビノコ郭」と呼ばれる[[宮殿]]を加えて完成したとされるところから、エビノコ郭は大極殿、内郭は内裏（天皇の私的住まい）のそれぞれ前身だったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
比較的規模の明瞭な朝堂院の最古は、前期難波宮の発掘調査によって明らかになった難波長柄豊碕宮のもので、そこでは朝堂跡14基以上を確認している。朝堂の各殿舎の規模は小さいものの、その数は最多で、また、朝庭の広大さを特徴としている。建物は[[掘立柱建物]]で、[[瓦]]は使用されていない。のちの大極殿に相当する内裏前殿と朝堂院が接する内裏南門は前期難波宮において最大の門であり、平城宮の[[朱雀門]]よりも大きい。また、朝庭の北方、内裏南門の東西には、複廊に囲まれた[[八角形]]の[[楼閣]]が並び立つ。これは、他の宮都にはみられない建物遺構である。古市晃は、これを[[仏殿]]もしくは、時を告げる鐘楼・鼓楼と紹介している&amp;lt;ref name=furu&amp;gt;古市（2002）p.198-234&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
藤原宮の朝堂院は最大規模をほこり、そこでは朝堂の東西第一堂と二堂以下とのあいだに格差が設けられた。いずれの建物も[[基壇]]をもつ[[礎石建物]]で、また、宮としては初めて瓦葺屋根が採用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====奈良時代====&lt;br /&gt;
[[平城宮]]の朝堂院は[[長安]]城[[大明宮]]（たいめいきゅう）[[含元殿]]（がんげんでん）の影響が濃いといわれている。ここでは、前半と後半ではその構成に大きな変化がみられるが、朝堂部分に関しては上述の2つのタイプの朝堂院が南北方向を長軸にして水路をはさんで東西に並ぶことでは違いがない。[[内裏]]と大極殿の関係やその移動、あるいは史書等の文献資料（[[史料]]）・[[木簡]]等の文字資料にみられる「[[中宮]]」「[[東宮]]」「西宮」と実際の遺構をどう整合させて理解するかをめぐって、活発な議論がたたかわされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、平城宮において[[大嘗祭]]の会場とされた'''太政官院'''（だじょうかんいん）について、古くは[[太政官曹司]]と解されてきたが、平城宮の発掘調査において朝堂院の区画跡から大嘗祭の際に用いられたとみられる施設の遺構が発見されたことにより、太政官院が朝堂院の別名であると考えられるようになった。なお、「太政官院」の語の史料上の初出は[[757年]]（[[天平宝字]]元年）の[[淳仁天皇]]の大嘗祭の記事であるため、飯田剛彦は大嘗祭の直前に[[藤原仲麻呂]]が太政官の最高位に立ったことを指摘して、仲麻呂主導によって実施された改名で「朝堂院」への再改名まで用いられたと推定している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[難波京]]の難波宮、長岡京の長岡宮については朝堂数が8堂と他の宮都に比較して少ない。難波京は平城京の副都として造営されたことによるものであり、長岡宮については[[複都制]]そのものの廃止にともなう[[桓武天皇]]の緊縮政策の結果であった。なお、長岡宮にいたって内裏と大極殿は分離されるいっぽう、大極殿は朝堂の正殿としての機能を強め、ここに大極殿・朝堂・朝集殿の全体を一体化してとらえる「朝堂院」の語が成立し、同時代史料のうえで確認されるようになった。なお、「朝堂院」の語の史料上の初出は[[792年]]（[[延暦]]11年）のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====平安時代====&lt;br /&gt;
[[平安京]]にいたって、内裏と朝堂院は完全に離れ、天皇の私的空間と公的空間の分離がはかられたが、大極殿と朝堂のあいだにあった[[回廊]]は取り払われて、「龍尾壇」という壇をのこすのみとなり、両者は「朝堂院」として完全に一体化した。朝堂院全体の入り口として設けられた門が[[応天門]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平安宮（大内裏）の朝堂院は、[[818年]]（[[弘仁]]9年）に朝堂各堂に中国風の号が名づけられたのと同時に「'''八省院'''」とも称されるようになった。これは、もと[[八省]]の官吏が国事を執務し、天子が決裁するための官庁であったことに由来する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八省院の朝堂建物の各殿舎の名称と着座の官司は、以下のとおりであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot;&lt;br /&gt;
!堂名||||位置||着座の官司&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''昌福堂'''||||東一堂||[[太政大臣]]・[[左大臣]]・[[右大臣]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''含章堂'''||||東二堂||[[大納言]]・[[中納言]]・[[参議]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''承光堂'''||||東三堂||[[中務省]]・[[図書寮]]・[[陰陽寮]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''明礼堂'''||||東四堂||[[治部省]]・[[雅楽寮]]・[[玄蕃寮]]・[[諸陵寮]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''暉章堂'''||||東五堂||[[少納言]]・左弁官・右弁官&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''康楽堂'''||||東六堂||[[主税寮]]・[[主計寮]]・[[民部省]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;0&amp;quot;&lt;br /&gt;
!堂名||||位置||着座の官司&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''延休堂'''||||西一堂||[[親王]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''含嘉堂'''||||西二堂||[[弾正台]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''顕章堂'''||||西三堂||[[刑部省]]・[[刑部省|判事]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''延禄堂'''||||西四堂||[[大蔵省]]・[[宮内省]]・[[正親司]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''修式堂'''||||西五堂||[[式部省]]・[[兵部省]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''永寧堂'''||||西六堂||[[大学寮]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂院は名称が変わっても依然として大内裏の中心的施設であったが、[[応天門の変]]に際しての[[876年]]（[[貞観_(日本)|貞観]]18年）、[[1058年]]（[[天喜]]6年、大極殿火災のため康平に[[改元]]）に焼失し、そのたびに再建されたが、平安時代末期の[[1177年]]（[[安元]]3年）に焼失して以降は再建されず、その役割は天皇の私的な住まいである[[内裏]]や臨時の内裏である「[[里内裏]]」へと受け継がれていった。ちなみに現在の高御座は[[京都御所]]の[[紫宸殿]]にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、第2次朝堂院の大極殿は、[[970年]]（[[天禄]]元年）成立の『口遊（くちずさみ）』に「雲太、和二、京三」と見えるように、当時の人々にとって、[[出雲大社]]や[[奈良]]の[[東大寺]]大仏殿に匹敵する建物と捉えられていたと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 機能の変化 ===&lt;br /&gt;
藤原宮の頃を頂点として、次第に政事庶務の中心が朝堂院から周辺官衙に移っていき、朝堂院での政務そのものは儀式化の傾向が進み、主として[[朝賀]]や[[即位]]、饗宴など、主として[[朝廷]]の盛典、儀礼に用いられるようになった。また、それにともなって朝堂一郭の規模は、藤原宮を頂点に時代を下るごとに縮小化の傾向がみられた。儀式化した政務に[[陣定]]などの[[評定]]や[[訴訟]]が複合していったが、これらは総称して[[公事]]とよばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂殿舎のつくりをみると、平城宮を頂点に四面庇から二面庇へ、さらには庇なしへ、屋根構造も入母屋または寄棟から切妻へと、簡素化の傾向がみられる。これは、朝政の盛衰と深くかかわる変化であろうと推定される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝堂配置の面では、平城宮までは天皇の起居する内裏と朝堂院は接していたが、長岡宮にいたって完全に分離するいっぽう、本来は内裏の前殿であった大極殿がむしろ朝堂の正殿としての性格を強め、平安宮では大極殿前面の回廊が取り払われて、大極殿と朝堂一郭が完全に一体化した。大極殿・朝堂・朝集殿の全体を呼称する「朝堂院」の語も長岡京の時代に生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして公的な政務の場である朝堂院と天皇の私的空間である内裏は分離されたが、[[律令体制]]の変質によって、以上のような平面変化がかえって内裏を[[政治]]の新たな中心の場とし、朝堂院はむしろ全体として儀式の場としての性格をいっそう強く帯びることとなった。[[院政]]を経て[[武士政権]]が成立すると、朝堂院が担ってきた役割や機能にもはや積極的な意義は見いだせなくなった。それが[[安元の大火]]以後、ついに朝堂が再建されなかった理由であると考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 復元遺構 ==&lt;br /&gt;
[[1895年]]（[[明治]]28年）に創建された[[平安神宮]]は平安宮（大内裏）朝堂院の施設を縮小復元したものとなっており、朝堂院の正門である[[応天門]]や大極殿などが[[弁柄|ベンガラ]]による鮮やかな[[朱色|朱]]塗りと[[瓦]]屋根、礎石列柱をもって復元されている。神宮正面の門（神門）が応天門、内側の左右の殿舎は朝集殿、[[拝殿]]は朝堂院の正殿である大極殿（左右には蒼龍楼と白虎楼が付属する）の再現である。基本的にはこれらの復元は、[[11世紀]]から焼亡までの第3次朝堂院の再現であるが、会昌門、朝堂12堂、翔鸞楼、栖鳳楼は復元されていない。また、平安神宮の社殿の瓦はすべて緑釉瓦となっているが、実際には軒先と棟部分だけにしか用いられていなかったと推定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
* 古市晃「難波宮発掘」[[森公章]]『日本の時代史3 倭国から日本へ』[[吉川弘文館]]、2002年8月。ISBN 4-642-00803-9&lt;br /&gt;
* 飯田剛彦「『太政官院』について」[[笹山晴生]]『日本律令制の構造』[[吉川弘文館]]、2003年5月。ISBN 4-642-02392-5&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[大内裏]]&lt;br /&gt;
* [[内裏]]&lt;br /&gt;
* [[大極殿]]&lt;br /&gt;
* [[朝堂]]&lt;br /&gt;
* [[朝庭]]&lt;br /&gt;
* [[朝集殿]]&lt;br /&gt;
* [[律令国家]]&lt;br /&gt;
* [[安元の大火]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_04_28.htm 幻の小墾田宮跡]&lt;br /&gt;
* [http://ariosu-web.hp.infoseek.co.jp/t/miya.htm#1 前期難波宮]&lt;br /&gt;
* [http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/asuka/ind3.htm 橿原市の文化財／藤原宮・藤原京の建設]&lt;br /&gt;
* [http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/r_miyafjwr.html 官制大観 藤原宮]&lt;br /&gt;
* [http://www.nabunken.go.jp/site/shiryou.html 平城宮跡資料館（奈良国立文化財研究所）]&lt;br /&gt;
* [http://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/kunikyu.html 恭仁宮跡の発掘調査（京都府教育庁文化財保護課）]&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.jp/tenpyounomiyako/ 古代の都 紫香楽宮跡（甲賀市教育委員会）]&lt;br /&gt;
* [http://www.geocities.jp/tenpyounomiyako/kakosetsu.html 紫香楽宮跡発掘調査 過去の現地説明会資料]&lt;br /&gt;
* [http://www.city.muko.kyoto.jp/gaiyo/nagaokakyouato.html 長岡京跡（向日市）]&lt;br /&gt;
* [http://tukineko.pekori.jp/heian/daidai/tyoudou.html 朝堂院（平安京）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちようとういん}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の土木史]]&lt;br /&gt;
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[[Category:奈良時代]]&lt;br /&gt;
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[[Category:上京区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:中京区の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の庁舎|旧ちようとういん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Nodakenta</name></author>	</entry>

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