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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<title>翼賛議会</title>
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				<updated>2010-04-26T13:25:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''翼賛議会'''（よくさんぎかい）とは、[[太平洋戦争]]（[[大東亜戦争]]）中に於ける[[帝国議会]]の呼称。その始期については[[新体制運動]]の中で既存政党が解党されて[[大政翼賛会]]が結成された[[1940年]]とするのが一般的であるが、翼賛議会としての体裁が本格的に整うのは、[[1942年]]の[[第21回衆議院議員選挙|第21回衆議院議員総選挙（翼賛選挙）]]以後のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概説 ==&lt;br /&gt;
戦時下で行われた唯一の国政選挙となる1942年[[4月30日]]の[[第21回衆議院議員総選挙]]は、大政翼賛会が推薦した候補者（主に大政翼賛会の別働隊的[[院内会派]]である[[翼賛議員同盟]]の議員を中心としていた）に対してよく翼賛会の下部組織の一つである[[大日本翼賛壮年団]]（翼壮）をはじめとする官民からの支援が行われ、逆に非推薦候補者に対しては[[選挙干渉]]とも言えるような圧迫が加えられたとされている。この結果、466の定数のうち381名の翼賛会推薦議員が当選した。このため、この選挙を'''[[翼賛選挙]]'''とも呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翼賛選挙後の[[5月20日]]'''[[翼賛政治会]]'''（翼政会）が結成された。翼賛政治会には刑事事件で起訴された2名を除く全ての衆議院議員が参加した。翼政会の下での帝国議会においては「派閥政治の一掃と真の国家的見地に立った行動」が求められ、戦争を有利に進めるために政府提出法案を無修正で速やかに成立させることが帝国議会議員の義務とされた&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、これをもって単純にこの時期の議会が政府・軍部の支配下に入ったというのは早計である。なぜなら、政府や軍部に批判的な政治家でも日本が戦争に敗北することを支持していた政治家は皆無であり、重大な問題があるものでなければ戦争遂行のための法案に反対する理由が無かったからである。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この議会は「'''翼賛議会'''」と称されて、これによって名実ともに一党支配の政治体制が完成された。だが、形式的には[[大日本帝国憲法]]によって[[権力分立]]が維持されて法律や予算の成立には議会の賛同が必要であったために、政府（官僚）や軍部が強力な権限を保持していても[[超然主義]]による戦争遂行は不可能であり、議員に対しては政府内の役職を与えることによる懐柔策&amp;lt;ref&amp;gt;大政翼賛会成立後、[[東條内閣]]の初期を除いては閣僚・[[内閣参議]]・[[政務次官]]やその他諮問機関の委員など政府の役職の一部には、衆貴両院の議員が任命されて[[内閣_(日本)|内閣]]の一翼を担っていた。&amp;lt;/ref&amp;gt;や「聖戦完遂」（日本が戦争で勝利する）という政府・議会の共通目標を大義名分として強調することで協力を得ることで辛うじて議会を掌握していたのである。つまり実際には、当時の翼賛議会は無力な行政補助機関と言うよりは、政府・軍部の聖戦完遂政策を推進する協力勢力と言える存在であった&amp;lt;ref&amp;gt;非推薦議員の中にはこうした動きに反発する動きもあったが、翼政会首脳部によってその動きは抑えられ、また同調する議員も少なかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが、戦況悪化とともに非推薦議員を中心として同会の行動に反旗を翻す議員が続出して、同会の内部の脆さが露呈した。また、軍部と結んで国政の主導権を取ろうとする翼政会指導部の方針に対して、支持母体である大政翼賛会や翼壮が反対したために民衆に対する影響力も低下した。[[1945年]]3月11日には[[岸信介]]が「[[護国同志会]]」を旗揚げして翼賛政治会から離反する。このため、軍部は同年[[3月30日]]に翼賛政治会他諸団体を強制的に統合して'''[[大日本政治会]]'''（日政会）を結成させた（[[6月13日]]に翼賛会と翼壮は解散され、日政会に正式に統合される。なお、翼壮の政治部門以外は直後に成立した[[義勇兵役法]]によって[[国民義勇隊]]に統合された）。だが、この強制的統合は3団体の関係者の反感を買って却って機能低下を招いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後 ==&lt;br /&gt;
日本の敗戦後、[[9月14日]]に大日本政治会は解散したが、日政会に所属していた議員の大半が[[11月]]に[[日本進歩党]]を結成した。そのため進歩党は今日では「日政会の後身」と評価されている。だが翼賛選挙で協議会推薦で当選した候補が中心となって結成された政党なので、進歩党は翌[[1946年]]の[[公職追放令]]で所属議員273名のうち実に259名が[[公職追放]]され大きな打撃を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 補注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 古川隆久『昭和戦中期の議会と行政』（吉川弘文館、2005年）  ISBN 4642037713&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[新体制運動]]&lt;br /&gt;
* [[大政翼賛会]]&lt;br /&gt;
* [[翼賛選挙]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:よくさんきかい}}&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代戦前の政治]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E9%81%B8%E6%8C%99&amp;diff=86410</id>
		<title>翼賛選挙</title>
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				<updated>2010-04-26T13:19:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: /* 概要 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''翼賛選挙'''（よくさんせんきょ）とは、[[政府]]の強力な統制下の下で行われる[[選挙]]のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
定義が難しいが、政府方針に反対する候補に投票できない、もしくは投票しにくい状態を指す。ひどくなるとそもそも反対候補が出馬できない状態もありえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在この形態をとる国は[[中華人民共和国]]や[[朝鮮民主主義人民共和国]]など社会主義国が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本においては戦時中の[[1942年]]に行われた[[第21回衆議院議員総選挙]]をもって[[第21回衆議院議員選挙|翼賛選挙]]ということが多い（なおこの選挙では政府に反対する候補も一定数当選している）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[選挙]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:よくさんせんきよ}}&lt;br /&gt;
[[Category:選挙]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E7%A4%BE/7&amp;diff=86408</id>
		<title>利用者:社/7</title>
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				<updated>2010-04-26T13:18:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''社'''（やしろ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[利用者:社]]&lt;br /&gt;
* [[利用者:社/1|社/1]]&lt;br /&gt;
* [[利用者:社/2|社/2]]&lt;br /&gt;
* [[利用者:社/3|社/3]]&lt;br /&gt;
* [[利用者:社/4|社/4]]&lt;br /&gt;
* [[利用者:社/5|社/5]]&lt;br /&gt;
* [[利用者:社/6|社/6]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Aimai}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E7%AC%AC21%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E9%81%B8%E6%8C%99&amp;diff=86406</id>
		<title>第21回衆議院議員選挙</title>
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				<updated>2010-04-26T13:15:11Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: '当時の選挙ポスター '''[[第21回衆議院議員総選挙|第21回衆議院議員選...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:This ballot is a power for creation of Greater East Asia.JPG|thumb|200px|当時の選挙ポスター]]&lt;br /&gt;
'''[[第21回衆議院議員総選挙|第21回衆議院議員選挙]]'''（だい21かいしゅうぎいんぎいんせんきょ）は、[[1942年]]（[[昭和]]17年）[[4月30日]]に行われた[[日本]]の[[帝国議会]]（[[衆議院]]）[[議員]]の[[選挙]]である。[[太平洋戦争]]（[[大東亜戦争]]）下で行われた唯一の[[日本の選挙|国政選挙]]であり、後に'''[[翼賛選挙]]'''（よくさんせんきょ）と呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概説 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Imperial Rule Assistance Election Speech.JPG|thumb|300px|翼賛選挙貫徹大講演会]]&lt;br /&gt;
[[1940年]]、既に[[結社]]を禁止されていた[[勤労国民党]]や[[右翼]]政党の[[東方会]]を除く全ての[[政党]]が自発的に解散し、[[大政翼賛会]]に合流していた。その後、大政翼賛会に率先して合流した[[政治家]]たちによって[[翼賛議員同盟]]が結成され、太平洋戦争（大東亜戦争）下での[[軍部]]の方針を追認する'''翼賛体制'''を支える機能を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1937年]]の[[第20回衆議院議員総選挙|前回総選挙]]で選出された衆議院議員の任期は[[1941年]]の[[衆議院議員任期延長ニ関スル法律]]によって1年延長の措置がとられていた。対米英戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあったが、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで[[内務省 (日本)|内務省]]のいわゆる「[[革新官僚]]」から、既に一部の地方の首長や議員に対して行われていた政府や軍の主導（表向きは「大政翼賛会」）による「推薦候補」制度を導入して官民一体の支援を行い、国策に忠実な議員のみによって形成される新しい[[議会]]制度を確立するという、[[自由選挙]]に代わる新しい選挙原理を導入すべきであるとの提案が行われて、実施されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1942年]][[2月23日]]には元[[内閣総理大臣|首相]]の[[阿部信行]]を会長に戴いた[[翼賛政治体制協議会]]が結成され、協議会が中心となって予め候補者を選考・[[推薦]]していった。もっとも既成政党出身者全てを排除することは実際には不可能であり、既成政党出身の前職の推薦に翼賛会内部の革新派が反発する動きもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
推薦を受けた候補者は選挙資金（臨時軍事費として計上）の支給を受け、更に軍部や[[大日本翼賛壮年団]]（翼壮）をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は（有力な[[議員]]や候補者であっても）立候補そのものを断念させられた場合（例、[[浅沼稲次郎]]）や、選挙運動において候補者や支持者に対して有形無形の干渉を受けたケースが知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、全ての都道府県で等しく選挙干渉がなされたわけではない、とする研究も存在する。そこから、日本以外の選挙についても[[与党]]または親与党（親政府）の候補しか出馬を許されない、あるいは反政府候補が選挙妨害を受ける選挙についても'''翼賛選挙'''と表現されることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
協議会を中心とした軍官民の協力体制に加えて当時はまだ日本軍優勢で戦況が進んでいた事も追い風となったこともあり、全国平均83.1%（[[第17回衆議院議員総選挙|1930年の濱口内閣の総選挙]]の投票率には0.2ポイント及ばず）という高投票率に支えられて、協議会推薦の候補者は461人中381人が当選し、全議席の81.8％を獲得。その一方で、非推薦の候補者も85人が当選し、非推薦候補の得票を合計すると35％近い得票を集めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
非推薦候補の中には戦後の政局を動かすキーマンが少なからずいた。また、非推薦で立候補して落選した候補者も、戦後の[[公職追放令]]により現職議員が多数追放されたため、追放された政治家に代わって戦後政界でその存在を高めたものも多かった。なお、半数余りは前職議員の再選であり、旧来の政党政治を排除という目的は完全には果たされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 選挙データ ==&lt;br /&gt;
=== [[内閣]] ===&lt;br /&gt;
*[[東條内閣|東條英機内閣]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 解散日 ===&lt;br /&gt;
*任期満了&lt;br /&gt;
:{{和暦|1942}}4月30日&lt;br /&gt;
*任期1年延長&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 解散名 ====&lt;br /&gt;
*翼賛選挙&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 投票日 ===&lt;br /&gt;
*{{和暦|1942}}4月30日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 改選数 ===&lt;br /&gt;
*466&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 選挙制度 ===&lt;br /&gt;
*[[中選挙区制]]&lt;br /&gt;
**3人区（単記投票）　-　53&lt;br /&gt;
**4人区（単記投票）　-　38&lt;br /&gt;
**5人区（単記投票）　-　31&lt;br /&gt;
*秘密投票&lt;br /&gt;
*25歳以上の男性&lt;br /&gt;
*有権者　'''14,594,287'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*立候補者　1,077&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 選挙結果 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Japanese General election, 1942 ja.svg|thumb|勢力図]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 投票率 ===&lt;br /&gt;
*　'''83.16％　（前回比＋9.85％）'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 党派別獲得議席 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!政党名&lt;br /&gt;
!議席数&lt;br /&gt;
!議席内訳&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]]&amp;lt;br&amp;gt;推薦&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|381&lt;br /&gt;
|[[画像:b100.png]][[画像:b100.png]][[画像:b100.png]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|非推薦&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|85&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#ccc&amp;quot;&lt;br /&gt;
!合計&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|466&lt;br /&gt;
|[[画像:b100.png]][[画像:b100.png]][[画像:b100.png]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政党 ===&lt;br /&gt;
*'''[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]] - 381議席'''&lt;br /&gt;
*:会長&amp;lt;br /&amp;gt;[[阿部信行]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
なお、この選挙で当選した代議士で太平洋戦争において死亡したのは、[[加藤鯛一]]・[[助川啓四郎]]・[[小川郷太郎]]・[[古屋慶隆]]・[[森田福市]]・[[古田喜三太]]・[[田中勝之]]・[[小野祐之]]・[[松岡秀夫]]・[[卯尾田毅太郎]]・[[古川和一郎]]・[[藤原敏捷]]の計12名である。このうち、加藤・助川・小川は乗船の撃沈&amp;lt;ref&amp;gt;小川については[[阿波丸事件]]を参照のこと。&amp;lt;/ref&amp;gt;、古屋は[[東京大空襲]]、森田・古田・田中は[[広島市への原子爆弾投下]]&amp;lt;ref&amp;gt;森田・古田は地元選出、田中は召集中であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、小野・松岡は戦死、卯尾田・古川・藤原は[[空襲]]によるものである。また、[[間宮成吉]]は次の総選挙までに帰還できずに失職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[鹿児島県第2区 (中選挙区)|鹿児島県第2区]]の選挙は、昭和20年3月1日の[[大審院]]判決により無効とされた。大審院第三民事部（[[吉田久]]裁判長、陪席判事は森田豊次郎・武富義雄・松尾實友・梶田年）は鹿児島県第2区において推薦候補者を当選させようとする不法な選挙運動が全般かつ組織的に行われた事実を認定し、「自由で公正な選挙ではなく、規定違反の選挙は無効となる旨を定めた衆議院議員選挙法第八十二条に該当する」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法および選挙法の精神に照らし大いに疑問がある」と指摘して国を厳しく批判した（→[[鹿児島2区選挙無効事件]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この判決の写しは残っていたが原本は大審院が空襲を受けた際に焼失したとされ、戦後編纂された大審院民事判例集にも掲載されなかったことから「幻の判決文」となっていたところ、2006年夏に原本が発見され、2006年8月10日、NHK等で報道された。戦後の最高裁も出していない国政選挙の無効判決を、戦時中の大審院が出していた事は、注目に値する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 非推薦で当選した政治家 ==   &lt;br /&gt;
*[[山口喜久一郎]]（戦後、[[衆議院議長]]他）&lt;br /&gt;
*[[正木清]]（戦後、[[衆議院]]副議長）   &lt;br /&gt;
*[[坂東幸太郎]]（戦後、[[国務大臣]]）&lt;br /&gt;
*[[北勝太郎]]（戦後、[[日本協同党]]代議士、[[参議院議員]]）&lt;br /&gt;
*[[小笠原八十美]]（戦後、自由党代議士）&lt;br /&gt;
*[[楠美省吾]]（戦後、[[日本民主党]]代議士）&lt;br /&gt;
*[[庄司一郎]]（戦後、自由党代議士）  &lt;br /&gt;
*[[菊地養之輔]]（旧[[社会大衆党]]所属。戦後、[[日本社会党|社会党]]代議士）   &lt;br /&gt;
*[[中川重春]]（戦後、[[男鹿市]]長）&lt;br /&gt;
*[[川俣清音]]（戦後、社会党代議士）   &lt;br /&gt;
*[[木村武雄]]（戦後、[[自治大臣]]）   &lt;br /&gt;
*[[池田正之輔]]（戦後、[[文部科学省|科学技術庁長官]]）&lt;br /&gt;
*[[加藤宗平]]（戦後、自由党代議士）  &lt;br /&gt;
*[[星一]]（戦後、[[日本進歩党]]代議士、参議院議員）&lt;br /&gt;
*[[川崎巳之太郎]]（旧[[立憲政友会]]所属、北米日報主筆）&lt;br /&gt;
*[[菅又薫]]（戦後、日本進歩党代議士）&lt;br /&gt;
*[[河野密]]（戦後、社会党副委員長）  &lt;br /&gt;
*[[川島正次郎]]（戦後、自治庁長官・行政管理庁長官、[[自民党副総裁]]）   &lt;br /&gt;
*[[成島勇]]（戦後、日本進歩党代議士）&lt;br /&gt;
*[[鳩山一郎]]（元[[文部科学大臣|文部大臣]]。戦後、[[内閣総理大臣]]）&lt;br /&gt;
*[[安藤正純]]（戦後、文部大臣）&lt;br /&gt;
*[[本多市郎]]（戦後、国務大臣）&lt;br /&gt;
*[[花村四郎]]（戦後、[[法務大臣]]） &lt;br /&gt;
*[[赤尾敏]]（右翼活動家。戦後、[[大日本愛国党]]を結成）  &lt;br /&gt;
*[[河野一郎]]（戦後、[[農林水産大臣|農林大臣]]・[[建設大臣]]）   &lt;br /&gt;
*[[北れい吉|北昤吉]]（[[北一輝]]の実弟。戦後、[[自由党]]代議士）   &lt;br /&gt;
*[[三宅正一]]（戦後、衆議院副議長）&lt;br /&gt;
*[[中村又七郎]]（戦後、[[糸魚川市]]長）   &lt;br /&gt;
*[[薩摩雄次]]（戦後、[[改進党]]代議士）   &lt;br /&gt;
*[[八島昭一]]（戦後、科学技術庁長官・自治大臣・通商産業大臣）   &lt;br /&gt;
*[[平野力三]]（戦後、農林大臣）  &lt;br /&gt;
*[[三田村武夫]]（戦後、自民党代議士）&lt;br /&gt;
*[[川崎克]]（旧[[立憲民政党]]所属、[[川崎二郎]]の祖父）  &lt;br /&gt;
*[[尾崎行雄]]（元[[東京市長]]。戦後、無所属）   &lt;br /&gt;
*[[田中伊三次]]（戦後、国務大臣、法務大臣）&lt;br /&gt;
*[[水谷長三郎]]（戦後、[[商工大臣]]・[[社会党右派]]の重鎮）   &lt;br /&gt;
*[[芦田均]]（戦後、[[外務大臣]]・内閣総理大臣）  &lt;br /&gt;
*[[西尾末広]]（戦後、[[内閣官房長官]]・[[民社党|民主社会党]]を結成）   &lt;br /&gt;
*[[一松定吉]]（戦後、国務大臣）   &lt;br /&gt;
*[[笹川良一]]（右翼活動家。戦後、[[日本船舶振興会]]で活動）  &lt;br /&gt;
*[[斎藤隆夫]]（[[反軍演説]]で[[除名]]。戦後、[[国務大臣]]）&lt;br /&gt;
*[[原夫次郎]]（戦後、[[島根県知事]]）    &lt;br /&gt;
*[[星島二郎]]（戦後、国務大臣、[[衆議院議長]]）  &lt;br /&gt;
*[[犬養健]]（[[犬養毅]]元首相の子、[[ゾルゲ事件]]で検挙。戦後、法務大臣）   &lt;br /&gt;
*[[三木武夫]]（戦後、外務大臣・内閣総理大臣）   &lt;br /&gt;
*[[三木武吉]]（戦後、[[自由民主党総裁|自民党総裁]]代行委員）&lt;br /&gt;
*[[矢野庄太郎]]（戦後、大蔵大臣）&lt;br /&gt;
*[[米田吉盛]]（[[神奈川大学]]創設者）   &lt;br /&gt;
*[[中野正剛]]（[[東方会]]総裁、「[[戦時宰相論]]」で弾圧を受け自殺）&lt;br /&gt;
*[[満井佐吉]]（元[[陸軍中佐]]）      &lt;br /&gt;
*[[楢橋渡]]（戦後、[[運輸大臣]]）   &lt;br /&gt;
*[[安倍寛]]（[[安倍晋太郎]]元[[自由民主党]][[幹事長]]の父、[[安倍晋三]]元[[内閣総理大臣]]の祖父）&lt;br /&gt;
*[[逢沢寛]]（[[逢沢英雄]]の父、[[逢沢一郎]]の祖父）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 非推薦で落選したが、戦後浮上した政治家 ==   &lt;br /&gt;
*[[赤松克麿]]（[[日本国家社会党]]・[[国民協会 (日本)|国民協会]]で活動。戦後、日本産業協力連盟理事長）&lt;br /&gt;
*[[椎熊三郎]]（戦後、衆議院副議長）&lt;br /&gt;
*[[山崎岩男]]（戦後、自由党代議士、[[青森県]]知事） &lt;br /&gt;
*[[只野直三郎]]（戦後、[[日本人民党]]党首）&lt;br /&gt;
*[[大石倫治]]（[[大石武一]]の父。戦後、自由党代議士）   &lt;br /&gt;
*[[林平馬]]（戦後、国務大臣）&lt;br /&gt;
*[[臼井荘一]]（戦後、[[総理府総務長官]]）   &lt;br /&gt;
*[[山村新治郎 (10代目)|初代・山村新治郎]]（[[山村新治郎 (11代目)|二代目・山村新治郎]]の父。戦後、行政管理庁長官）   &lt;br /&gt;
*[[原彪|原彪之助]]（戦後、衆議院副議長・社会党代議士）&lt;br /&gt;
*[[広川弘禅]]（戦後、農林大臣）  &lt;br /&gt;
*[[中村高一]]（戦後、衆議院副議長・社会党代議士）   &lt;br /&gt;
*[[片山哲]]（戦後、社会党委員長・内閣総理大臣）   &lt;br /&gt;
*[[益谷秀次]]（戦後、建設大臣・衆議院議長）   &lt;br /&gt;
*[[宮沢胤勇]]（戦後、運輸大臣）   &lt;br /&gt;
*[[植原悦二郎]]（元衆議院副議長。戦後、国務大臣）   &lt;br /&gt;
*[[大野伴睦]]（戦後、衆議院議長・自民党副総裁）&lt;br /&gt;
*[[河野金昇]]（戦後、改進党代議士）   &lt;br /&gt;
*[[森幸太郎]]（戦後、農林大臣・[[滋賀県]]知事）&lt;br /&gt;
*[[田中萬逸]]（戦後、衆議院副議長）&lt;br /&gt;
*[[永江一夫]]（戦後、農林大臣）&lt;br /&gt;
*[[米窪満亮]]（戦後、[[労働大臣]]）&lt;br /&gt;
*[[世耕弘一]]（戦後、国務大臣）   &lt;br /&gt;
*[[林譲治 (政治家)|林譲治]]（戦後、副総理・衆議院議長）   &lt;br /&gt;
*[[佐竹晴記]]（戦後、社会党代議士）&lt;br /&gt;
*[[伊藤卯四郎]]（戦後、[[民社党]]副委員長）&lt;br /&gt;
*[[稲富稜人]]（戦後、民社党代議士）&lt;br /&gt;
*[[田原春次]]（戦後、社会党代議士）&lt;br /&gt;
*[[上林山栄吉]]（戦後、[[防衛庁長官]]）   &lt;br /&gt;
*[[冨吉榮二]]（戦後、逓信大臣、[[洞爺丸事故]]で遭難）   &lt;br /&gt;
*[[二階堂進]]（戦後、自民党副総裁）&lt;br /&gt;
*[[工藤鉄男]]（戦後、国務大臣）&lt;br /&gt;
*[[松岡駒吉]]（戦後、衆議院議長）&lt;br /&gt;
*[[児玉誉士夫]]（右翼活動家、戦後、政財界の[[黒幕]]、[[ロッキード事件]]の当事者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*古川隆久『戦時議会』（吉川弘文館、2001年）  ISBN 4642066586&lt;br /&gt;
*古川隆久『昭和戦中期の議会と行政』（吉川弘文館、2005年）  ISBN 4642037713&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[帝国議会]]&lt;br /&gt;
*[[衆議院]]&lt;br /&gt;
*[[内務省 (日本)|内務省]]&lt;br /&gt;
*[[翼賛議会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚註 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references /&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.senkyo.janjan.jp/election/1942/99/00008419.html 『ザ・選挙』第21回衆議院議員選挙]&lt;br /&gt;
* [http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00377.htm 衆議院議員総選挙対策翼賛選挙貫徹運動基本要綱] （[[国立国会図書館]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆうきいんきいんせんきよ21}}&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代戦前の政治|衆21]]&lt;br /&gt;
[[Category:衆議院議員総選挙|21]]&lt;br /&gt;
[[Category:1942年]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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				<updated>2010-04-26T13:11:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:This ballot is a power for creation of Greater East Asia.JPG|thumb|200px|当時の選挙ポスター]]&lt;br /&gt;
'''[[第21回衆議院議員選挙|第21回衆議院議員総選挙]]'''（だい21かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ）は、[[1942年]]（[[昭和]]17年）[[4月30日]]に行われた[[日本]]の[[帝国議会]]（[[衆議院]]）[[議員]]の[[選挙]]である。[[太平洋戦争]]（[[大東亜戦争]]）下で行われた唯一の[[日本の選挙|国政選挙]]であり、後に'''[[翼賛選挙]]'''（よくさんせんきょ）と呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概説 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Imperial Rule Assistance Election Speech.JPG|thumb|300px|翼賛選挙貫徹大講演会]]&lt;br /&gt;
[[1940年]]、既に[[結社]]を禁止されていた[[勤労国民党]]や[[右翼]]政党の[[東方会]]を除く全ての[[政党]]が自発的に解散し、[[大政翼賛会]]に合流していた。その後、大政翼賛会に率先して合流した[[政治家]]たちによって[[翼賛議員同盟]]が結成され、太平洋戦争（大東亜戦争）下での[[軍部]]の方針を追認する'''翼賛体制'''を支える機能を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1937年]]の[[第20回衆議院議員総選挙|前回総選挙]]で選出された衆議院議員の任期は[[1941年]]の[[衆議院議員任期延長ニ関スル法律]]によって1年延長の措置がとられていた。対米英戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあったが、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこで[[内務省 (日本)|内務省]]のいわゆる「[[革新官僚]]」から、既に一部の地方の首長や議員に対して行われていた政府や軍の主導（表向きは「大政翼賛会」）による「推薦候補」制度を導入して官民一体の支援を行い、国策に忠実な議員のみによって形成される新しい[[議会]]制度を確立するという、[[自由選挙]]に代わる新しい選挙原理を導入すべきであるとの提案が行われて、実施されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1942年]][[2月23日]]には元[[内閣総理大臣|首相]]の[[阿部信行]]を会長に戴いた[[翼賛政治体制協議会]]が結成され、協議会が中心となって予め候補者を選考・[[推薦]]していった。もっとも既成政党出身者全てを排除することは実際には不可能であり、既成政党出身の前職の推薦に翼賛会内部の革新派が反発する動きもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
推薦を受けた候補者は選挙資金（臨時軍事費として計上）の支給を受け、更に軍部や[[大日本翼賛壮年団]]（翼壮）をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は（有力な[[議員]]や候補者であっても）立候補そのものを断念させられた場合（例、[[浅沼稲次郎]]）や、選挙運動において候補者や支持者に対して有形無形の干渉を受けたケースが知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、全ての都道府県で等しく選挙干渉がなされたわけではない、とする研究も存在する。そこから、日本以外の選挙についても[[与党]]または親与党（親政府）の候補しか出馬を許されない、あるいは反政府候補が選挙妨害を受ける選挙についても'''翼賛選挙'''と表現されることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
協議会を中心とした軍官民の協力体制に加えて当時はまだ日本軍優勢で戦況が進んでいた事も追い風となったこともあり、全国平均83.1%（[[第17回衆議院議員総選挙|1930年の濱口内閣の総選挙]]の投票率には0.2ポイント及ばず）という高投票率に支えられて、協議会推薦の候補者は461人中381人が当選し、全議席の81.8％を獲得。その一方で、非推薦の候補者も85人が当選し、非推薦候補の得票を合計すると35％近い得票を集めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
非推薦候補の中には戦後の政局を動かすキーマンが少なからずいた。また、非推薦で立候補して落選した候補者も、戦後の[[公職追放令]]により現職議員が多数追放されたため、追放された政治家に代わって戦後政界でその存在を高めたものも多かった。なお、半数余りは前職議員の再選であり、旧来の政党政治を排除という目的は完全には果たされなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 選挙データ ==&lt;br /&gt;
=== [[内閣]] ===&lt;br /&gt;
*[[東條内閣|東條英機内閣]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 解散日 ===&lt;br /&gt;
*任期満了&lt;br /&gt;
:{{和暦|1942}}4月30日&lt;br /&gt;
*任期1年延長&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 解散名 ====&lt;br /&gt;
*翼賛選挙&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 投票日 ===&lt;br /&gt;
*{{和暦|1942}}4月30日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 改選数 ===&lt;br /&gt;
*466&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 選挙制度 ===&lt;br /&gt;
*[[中選挙区制]]&lt;br /&gt;
**3人区（単記投票）　-　53&lt;br /&gt;
**4人区（単記投票）　-　38&lt;br /&gt;
**5人区（単記投票）　-　31&lt;br /&gt;
*秘密投票&lt;br /&gt;
*25歳以上の男性&lt;br /&gt;
*有権者　'''14,594,287'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*立候補者　1,077&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 選挙結果 ==&lt;br /&gt;
[[画像:Japanese General election, 1942 ja.svg|thumb|勢力図]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 投票率 ===&lt;br /&gt;
*　'''83.16％　（前回比＋9.85％）'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 党派別獲得議席 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!政党名&lt;br /&gt;
!議席数&lt;br /&gt;
!議席内訳&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]]&amp;lt;br&amp;gt;推薦&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|381&lt;br /&gt;
|[[画像:b100.png]][[画像:b100.png]][[画像:b100.png]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: center;&amp;quot;|非推薦&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|85&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|- style=&amp;quot;background:#ccc&amp;quot;&lt;br /&gt;
!合計&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|466&lt;br /&gt;
|[[画像:b100.png]][[画像:b100.png]][[画像:b100.png]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政党 ===&lt;br /&gt;
*'''[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]] - 381議席'''&lt;br /&gt;
*:会長&amp;lt;br /&amp;gt;[[阿部信行]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
なお、この選挙で当選した代議士で太平洋戦争において死亡したのは、[[加藤鯛一]]・[[助川啓四郎]]・[[小川郷太郎]]・[[古屋慶隆]]・[[森田福市]]・[[古田喜三太]]・[[田中勝之]]・[[小野祐之]]・[[松岡秀夫]]・[[卯尾田毅太郎]]・[[古川和一郎]]・[[藤原敏捷]]の計12名である。このうち、加藤・助川・小川は乗船の撃沈&amp;lt;ref&amp;gt;小川については[[阿波丸事件]]を参照のこと。&amp;lt;/ref&amp;gt;、古屋は[[東京大空襲]]、森田・古田・田中は[[広島市への原子爆弾投下]]&amp;lt;ref&amp;gt;森田・古田は地元選出、田中は召集中であった。&amp;lt;/ref&amp;gt;、小野・松岡は戦死、卯尾田・古川・藤原は[[空襲]]によるものである。また、[[間宮成吉]]は次の総選挙までに帰還できずに失職した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[鹿児島県第2区 (中選挙区)|鹿児島県第2区]]の選挙は、昭和20年3月1日の[[大審院]]判決により無効とされた。大審院第三民事部（[[吉田久]]裁判長、陪席判事は森田豊次郎・武富義雄・松尾實友・梶田年）は鹿児島県第2区において推薦候補者を当選させようとする不法な選挙運動が全般かつ組織的に行われた事実を認定し、「自由で公正な選挙ではなく、規定違反の選挙は無効となる旨を定めた衆議院議員選挙法第八十二条に該当する」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法および選挙法の精神に照らし大いに疑問がある」と指摘して国を厳しく批判した（→[[鹿児島2区選挙無効事件]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この判決の写しは残っていたが原本は大審院が空襲を受けた際に焼失したとされ、戦後編纂された大審院民事判例集にも掲載されなかったことから「幻の判決文」となっていたところ、2006年夏に原本が発見され、2006年8月10日、NHK等で報道された。戦後の最高裁も出していない国政選挙の無効判決を、戦時中の大審院が出していた事は、注目に値する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 非推薦で当選した政治家 ==   &lt;br /&gt;
*[[山口喜久一郎]]（戦後、[[衆議院議長]]他）&lt;br /&gt;
*[[正木清]]（戦後、[[衆議院]]副議長）   &lt;br /&gt;
*[[坂東幸太郎]]（戦後、[[国務大臣]]）&lt;br /&gt;
*[[北勝太郎]]（戦後、[[日本協同党]]代議士、[[参議院議員]]）&lt;br /&gt;
*[[小笠原八十美]]（戦後、自由党代議士）&lt;br /&gt;
*[[楠美省吾]]（戦後、[[日本民主党]]代議士）&lt;br /&gt;
*[[庄司一郎]]（戦後、自由党代議士）  &lt;br /&gt;
*[[菊地養之輔]]（旧[[社会大衆党]]所属。戦後、[[日本社会党|社会党]]代議士）   &lt;br /&gt;
*[[中川重春]]（戦後、[[男鹿市]]長）&lt;br /&gt;
*[[川俣清音]]（戦後、社会党代議士）   &lt;br /&gt;
*[[木村武雄]]（戦後、[[自治大臣]]）   &lt;br /&gt;
*[[池田正之輔]]（戦後、[[文部科学省|科学技術庁長官]]）&lt;br /&gt;
*[[加藤宗平]]（戦後、自由党代議士）  &lt;br /&gt;
*[[星一]]（戦後、[[日本進歩党]]代議士、参議院議員）&lt;br /&gt;
*[[川崎巳之太郎]]（旧[[立憲政友会]]所属、北米日報主筆）&lt;br /&gt;
*[[菅又薫]]（戦後、日本進歩党代議士）&lt;br /&gt;
*[[河野密]]（戦後、社会党副委員長）  &lt;br /&gt;
*[[川島正次郎]]（戦後、自治庁長官・行政管理庁長官、[[自民党副総裁]]）   &lt;br /&gt;
*[[成島勇]]（戦後、日本進歩党代議士）&lt;br /&gt;
*[[鳩山一郎]]（元[[文部科学大臣|文部大臣]]。戦後、[[内閣総理大臣]]）&lt;br /&gt;
*[[安藤正純]]（戦後、文部大臣）&lt;br /&gt;
*[[本多市郎]]（戦後、国務大臣）&lt;br /&gt;
*[[花村四郎]]（戦後、[[法務大臣]]） &lt;br /&gt;
*[[赤尾敏]]（右翼活動家。戦後、[[大日本愛国党]]を結成）  &lt;br /&gt;
*[[河野一郎]]（戦後、[[農林水産大臣|農林大臣]]・[[建設大臣]]）   &lt;br /&gt;
*[[北れい吉|北昤吉]]（[[北一輝]]の実弟。戦後、[[自由党]]代議士）   &lt;br /&gt;
*[[三宅正一]]（戦後、衆議院副議長）&lt;br /&gt;
*[[中村又七郎]]（戦後、[[糸魚川市]]長）   &lt;br /&gt;
*[[薩摩雄次]]（戦後、[[改進党]]代議士）   &lt;br /&gt;
*[[平野力三]]（戦後、農林大臣）  &lt;br /&gt;
*[[三田村武夫]]（戦後、自民党代議士）&lt;br /&gt;
*[[川崎克]]（旧[[立憲民政党]]所属、[[川崎二郎]]の祖父）  &lt;br /&gt;
*[[尾崎行雄]]（元[[東京市長]]。戦後、無所属）   &lt;br /&gt;
*[[田中伊三次]]（戦後、国務大臣、法務大臣）&lt;br /&gt;
*[[水谷長三郎]]（戦後、[[商工大臣]]・[[社会党右派]]の重鎮）   &lt;br /&gt;
*[[芦田均]]（戦後、[[外務大臣]]・内閣総理大臣）  &lt;br /&gt;
*[[西尾末広]]（戦後、[[内閣官房長官]]・[[民社党|民主社会党]]を結成）   &lt;br /&gt;
*[[一松定吉]]（戦後、国務大臣）   &lt;br /&gt;
*[[笹川良一]]（右翼活動家。戦後、[[日本船舶振興会]]で活動）  &lt;br /&gt;
*[[斎藤隆夫]]（[[反軍演説]]で[[除名]]。戦後、[[国務大臣]]）&lt;br /&gt;
*[[原夫次郎]]（戦後、[[島根県知事]]）    &lt;br /&gt;
*[[星島二郎]]（戦後、国務大臣、[[衆議院議長]]）  &lt;br /&gt;
*[[犬養健]]（[[犬養毅]]元首相の子、[[ゾルゲ事件]]で検挙。戦後、法務大臣）   &lt;br /&gt;
*[[三木武夫]]（戦後、外務大臣・内閣総理大臣）   &lt;br /&gt;
*[[三木武吉]]（戦後、[[自由民主党総裁|自民党総裁]]代行委員）&lt;br /&gt;
*[[矢野庄太郎]]（戦後、大蔵大臣）&lt;br /&gt;
*[[米田吉盛]]（[[神奈川大学]]創設者）   &lt;br /&gt;
*[[中野正剛]]（[[東方会]]総裁、「[[戦時宰相論]]」で弾圧を受け自殺）&lt;br /&gt;
*[[満井佐吉]]（元[[陸軍中佐]]）      &lt;br /&gt;
*[[楢橋渡]]（戦後、[[運輸大臣]]）   &lt;br /&gt;
*[[安倍寛]]（[[安倍晋太郎]]元[[自由民主党]][[幹事長]]の父、[[安倍晋三]]元[[内閣総理大臣]]の祖父）&lt;br /&gt;
*[[逢沢寛]]（[[逢沢英雄]]の父、[[逢沢一郎]]の祖父）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 非推薦で落選したが、戦後浮上した政治家 ==   &lt;br /&gt;
*[[赤松克麿]]（[[日本国家社会党]]・[[国民協会 (日本)|国民協会]]で活動。戦後、日本産業協力連盟理事長）&lt;br /&gt;
*[[椎熊三郎]]（戦後、衆議院副議長）&lt;br /&gt;
*[[山崎岩男]]（戦後、自由党代議士、[[青森県]]知事） &lt;br /&gt;
*[[只野直三郎]]（戦後、[[日本人民党]]党首）&lt;br /&gt;
*[[大石倫治]]（[[大石武一]]の父。戦後、自由党代議士）   &lt;br /&gt;
*[[林平馬]]（戦後、国務大臣）&lt;br /&gt;
*[[臼井荘一]]（戦後、[[総理府総務長官]]）   &lt;br /&gt;
*[[山村新治郎 (10代目)|初代・山村新治郎]]（[[山村新治郎 (11代目)|二代目・山村新治郎]]の父。戦後、行政管理庁長官）   &lt;br /&gt;
*[[原彪|原彪之助]]（戦後、衆議院副議長・社会党代議士）&lt;br /&gt;
*[[広川弘禅]]（戦後、農林大臣）  &lt;br /&gt;
*[[中村高一]]（戦後、衆議院副議長・社会党代議士）   &lt;br /&gt;
*[[片山哲]]（戦後、社会党委員長・内閣総理大臣）   &lt;br /&gt;
*[[益谷秀次]]（戦後、建設大臣・衆議院議長）   &lt;br /&gt;
*[[宮沢胤勇]]（戦後、運輸大臣）   &lt;br /&gt;
*[[植原悦二郎]]（元衆議院副議長。戦後、国務大臣）   &lt;br /&gt;
*[[大野伴睦]]（戦後、衆議院議長・自民党副総裁）&lt;br /&gt;
*[[河野金昇]]（戦後、改進党代議士）   &lt;br /&gt;
*[[森幸太郎]]（戦後、農林大臣・[[滋賀県]]知事）&lt;br /&gt;
*[[田中萬逸]]（戦後、衆議院副議長）&lt;br /&gt;
*[[永江一夫]]（戦後、農林大臣）&lt;br /&gt;
*[[米窪満亮]]（戦後、[[労働大臣]]）&lt;br /&gt;
*[[世耕弘一]]（戦後、国務大臣）   &lt;br /&gt;
*[[林譲治 (政治家)|林譲治]]（戦後、副総理・衆議院議長）   &lt;br /&gt;
*[[佐竹晴記]]（戦後、社会党代議士）&lt;br /&gt;
*[[伊藤卯四郎]]（戦後、[[民社党]]副委員長）&lt;br /&gt;
*[[稲富稜人]]（戦後、民社党代議士）&lt;br /&gt;
*[[田原春次]]（戦後、社会党代議士）&lt;br /&gt;
*[[上林山栄吉]]（戦後、[[防衛庁長官]]）   &lt;br /&gt;
*[[冨吉榮二]]（戦後、逓信大臣、[[洞爺丸事故]]で遭難）   &lt;br /&gt;
*[[二階堂進]]（戦後、自民党副総裁）&lt;br /&gt;
*[[工藤鉄男]]（戦後、国務大臣）&lt;br /&gt;
*[[松岡駒吉]]（戦後、衆議院議長）&lt;br /&gt;
*[[児玉誉士夫]]（右翼活動家、戦後、政財界の[[黒幕]]、[[ロッキード事件]]の当事者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*古川隆久『戦時議会』（吉川弘文館、2001年）  ISBN 4642066586&lt;br /&gt;
*古川隆久『昭和戦中期の議会と行政』（吉川弘文館、2005年）  ISBN 4642037713&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[帝国議会]]&lt;br /&gt;
*[[衆議院]]&lt;br /&gt;
*[[内務省 (日本)|内務省]]&lt;br /&gt;
*[[翼賛議会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚註 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references /&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.senkyo.janjan.jp/election/1942/99/00008419.html 『ザ・選挙』第21回衆議院議員選挙]&lt;br /&gt;
* [http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00377.htm 衆議院議員総選挙対策翼賛選挙貫徹運動基本要綱] （[[国立国会図書館]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆうきいんきいんそうせんきよ21}}&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代戦前の政治|衆21]]&lt;br /&gt;
[[Category:衆議院議員総選挙|21]]&lt;br /&gt;
[[Category:1942年]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>利用者:社/6</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:池田内閣　1.jpg|300px|thumb|初の女性大臣が誕生した池田内閣の顔ぶれ。[[1960年]][[7月19日]]　東京・首相官邸]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''[[第1次池田内閣]]'''（だい1じ いけだ ないかく）とは、[[池田勇人]]が第58代[[内閣総理大臣]]に任命され、[[1960年]]（昭和35年）[[7月19日]]から同年[[12月8日]]まで続いた日本の内閣である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 閣僚 ==&lt;br /&gt;
* 内閣総理大臣 - 池田勇人&lt;br /&gt;
* [[法務大臣]] - [[小島徹三]]&lt;br /&gt;
* [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] - [[小坂善太郎]] &lt;br /&gt;
* [[大蔵大臣]] - [[水田三喜男]] &lt;br /&gt;
* [[文部大臣]]、[[科学技術庁]]長官 - [[荒木万寿夫]] &lt;br /&gt;
* [[厚生大臣]] - [[中山マサ]]&lt;br /&gt;
* [[農林大臣]] - [[南条徳男]]&lt;br /&gt;
* [[通商産業大臣]] - [[八島昭一]]&lt;br /&gt;
* [[運輸大臣]] - [[南好雄]] &lt;br /&gt;
* [[郵政大臣]] - [[鈴木善幸]]&lt;br /&gt;
* [[労働大臣]] - [[石田博英]] &lt;br /&gt;
* [[建設大臣]]、首都圏整備委員会委員長 - [[橋本登美三郎]]&lt;br /&gt;
* [[自治大臣]]、[[国家公安委員会委員長]] - [[山崎巌]] ／ [[周東英雄]]（1960年10月13日－）&lt;br /&gt;
* [[行政管理庁]]長官 - [[高橋進太郎]]&lt;br /&gt;
* [[北海道開発庁]]長官 - [[西川甚五郎]]  &lt;br /&gt;
* [[防衛庁]]長官 - [[江崎真澄]] &lt;br /&gt;
* [[経済企画庁]]長官  - [[迫水久常]]（[[参議院議員]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[内閣官房長官]] - [[大平正芳]] &lt;br /&gt;
* [[総理府]]総務長官 - [[藤枝泉介]] &lt;br /&gt;
** [[内閣法制局]]長官 - [[林修三]] &lt;br /&gt;
** [[内閣官房副長官]] - [[佐々木盛夫]]（1960年7月22日－）&lt;br /&gt;
** [[内閣官房副長官]] - [[小川平二]]（1960年7月22日－）&lt;br /&gt;
** [[総理府]]総務副長官 - [[佐藤朝生]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政務次官 ==&lt;br /&gt;
* 法務[[政務次官]] - [[村瀬宣親]]&lt;br /&gt;
* 外務政務次官 - [[勝俣稔]]&lt;br /&gt;
* 大蔵政務次官 - [[蘭牛凡夫]]、[[秋山利恭]]&lt;br /&gt;
* 文部政務次官 - [[大坪保雄]]&lt;br /&gt;
* 厚生政務次官 - [[田中正巳]]&lt;br /&gt;
* 農林政務次官 - [[田口長治郎]]、[[宇田国栄]]&lt;br /&gt;
* 通商産業政務次官 - [[木村守江]]、[[岡本茂]]&lt;br /&gt;
* 運輸政務次官 - [[山田弥一]]&lt;br /&gt;
* 郵政政務次官 - [[丹羽兵助]]&lt;br /&gt;
* 労働政務次官 - [[岡崎英城]]&lt;br /&gt;
* 建設政務次官 - [[三和精一]]&lt;br /&gt;
* 自治政務次官 - [[吉田重延]]&lt;br /&gt;
* 行政管理政務次官 - [[松沢雄蔵]]&lt;br /&gt;
* 北海道開発政務次官 - [[仲原善一]]&lt;br /&gt;
* 防衛政務次官 - [[塩見俊二]]&lt;br /&gt;
* 経済企画政務次官 - [[後藤義隆]]&lt;br /&gt;
* 科学技術政務次官 - [[大谷藤之助]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/58.html 首相官邸 - 第1次池田内閣]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いけた1}}&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代戦後の内閣]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の歴代内閣]]&lt;br /&gt;
[[Category:1960年の日本]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>第1次池田内閣</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:池田内閣　1.jpg|300px|thumb|初の女性大臣が誕生した池田内閣の顔ぶれ。[[1960年]][[7月19日]]　東京・首相官邸]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''[[利用者:社/6|第1次池田内閣]]'''（だい1じ いけだ ないかく）とは、[[池田勇人]]が第58代[[内閣総理大臣]]に任命され、[[1960年]]（昭和35年）[[7月19日]]から同年[[12月8日]]まで続いた日本の内閣である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 閣僚 ==&lt;br /&gt;
* 内閣総理大臣 - 池田勇人&lt;br /&gt;
* [[法務大臣]] - [[小島徹三]]&lt;br /&gt;
* [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] - [[小坂善太郎]] &lt;br /&gt;
* [[大蔵大臣]] - [[水田三喜男]] &lt;br /&gt;
* [[文部大臣]]、[[科学技術庁]]長官 - [[荒木万寿夫]] &lt;br /&gt;
* [[厚生大臣]] - [[中山マサ]]&lt;br /&gt;
* [[農林大臣]] - [[南条徳男]]&lt;br /&gt;
* [[通商産業大臣]] - [[石井光次郎]]&lt;br /&gt;
* [[運輸大臣]] - [[南好雄]] &lt;br /&gt;
* [[郵政大臣]] - [[鈴木善幸]]&lt;br /&gt;
* [[労働大臣]] - [[石田博英]] &lt;br /&gt;
* [[建設大臣]]、首都圏整備委員会委員長 - [[橋本登美三郎]]&lt;br /&gt;
* [[自治大臣]]、[[国家公安委員会委員長]] - [[山崎巌]] ／ [[周東英雄]]（1960年10月13日－）&lt;br /&gt;
* [[行政管理庁]]長官 - [[高橋進太郎]]&lt;br /&gt;
* [[北海道開発庁]]長官 - [[西川甚五郎]]  &lt;br /&gt;
* [[防衛庁]]長官 - [[江崎真澄]] &lt;br /&gt;
* [[経済企画庁]]長官  - [[迫水久常]]（[[参議院議員]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[内閣官房長官]] - [[大平正芳]] &lt;br /&gt;
* [[総理府]]総務長官 - [[藤枝泉介]] &lt;br /&gt;
** [[内閣法制局]]長官 - [[林修三]] &lt;br /&gt;
** [[内閣官房副長官]] - [[佐々木盛夫]]（1960年7月22日－）&lt;br /&gt;
** [[内閣官房副長官]] - [[小川平二]]（1960年7月22日－）&lt;br /&gt;
** [[総理府]]総務副長官 - [[佐藤朝生]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政務次官 ==&lt;br /&gt;
* 法務[[政務次官]] - [[村瀬宣親]]&lt;br /&gt;
* 外務政務次官 - [[勝俣稔]]&lt;br /&gt;
* 大蔵政務次官 - [[蘭牛凡夫]]、[[秋山利恭]]&lt;br /&gt;
* 文部政務次官 - [[大坪保雄]]&lt;br /&gt;
* 厚生政務次官 - [[田中正巳]]&lt;br /&gt;
* 農林政務次官 - [[田口長治郎]]、[[宇田国栄]]&lt;br /&gt;
* 通商産業政務次官 - [[木村守江]]、[[岡本茂]]&lt;br /&gt;
* 運輸政務次官 - [[山田弥一]]&lt;br /&gt;
* 郵政政務次官 - [[丹羽兵助]]&lt;br /&gt;
* 労働政務次官 - [[岡崎英城]]&lt;br /&gt;
* 建設政務次官 - [[三和精一]]&lt;br /&gt;
* 自治政務次官 - [[吉田重延]]&lt;br /&gt;
* 行政管理政務次官 - [[松沢雄蔵]]&lt;br /&gt;
* 北海道開発政務次官 - [[仲原善一]]&lt;br /&gt;
* 防衛政務次官 - [[塩見俊二]]&lt;br /&gt;
* 経済企画政務次官 - [[後藤義隆]]&lt;br /&gt;
* 科学技術政務次官 - [[大谷藤之助]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/58.html 首相官邸 - 第1次池田内閣]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:いけた1}}&lt;br /&gt;
[[Category:昭和時代戦後の内閣]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の歴代内閣]]&lt;br /&gt;
[[Category:1960年の日本]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>八島昭一</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''八島 昭一'''（やしま しょういち、[[1896年]][[6月13日]] - [[1989年]][[12月19日]]）は、[[日本]]の[[政治家]]。[[戸川猪佐武]]の実名政治小説『政客よ舞え』（のちに『党人の群れ』と改題）の2人いる主人公の1人で架空の政治家・沖信治郎のモデルである（ちなみにもう1人の主人公は実在の政治家・[[犬養健]]である）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴・人物 ==&lt;br /&gt;
八島良兵衛の長男として[[長野県]][[下伊那郡]]飯田町（現・長野県[[飯田市]]）に生まれた。6人兄弟であり、7歳年下の弟・良二の他2歳年上の姉、2歳、5歳、9歳年下の3人の妹がいる。なお4人の姉妹は全て他家に嫁いでいる。八島家は[[江戸時代]]からの素封家であり、昭一の父・良兵衛は私鉄の[[伊那電気鉄道]]（のちに[[日本国有鉄道]]に買収され、現在のJR[[飯田線]]となる）の設立発起人であり、株主・取締役でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧制中学卒業後、政治家を志し[[早稲田大学]]予科に進学。[[1919年]]早大[[政治経済学部]]政治学科卒業後、[[東京市]]在住の父の知人の紹介で[[森恪]]の事務所に入所。[[1923年]]に結婚。翌[[1924年]]、[[立憲政友会]]所属の代議士だった森が落選した直後に森の命令により政友会院外団常任幹事に就任した。給与は森事務所から受けていながらそちらの勤務は休職で、八島は政友会院外団の1人となった。院外団時代に[[大野伴睦]]（のち政友会代議士、戦後[[衆議院議長]]）、[[鬼丸弥市]]、[[保田一太郎]]らと交友関係を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1929年]][[6月]]中旬、[[下関市]]の[[山陽ホテル]]で犬養健と出会う。それ以来犬養は八島の無二の親友となる。翌[[1930年]]の[[第17回衆議院議員総選挙]]に旧長野県第3区から政友会公認で立候補し初当選、政治家としての一歩を踏み出す。八島は同期の政友会代議士である大野・犬養・[[井上知治]]・[[太田正孝]]・[[大石倫治]]・[[土倉宗明]]・[[中島知久平]]・[[林譲治 (政治家)|林譲治]]・[[船田中]]・[[松岡洋右]]らと「昭午会」を結成する。当初は森の子飼いだったが、後に親軍派の森と訣別し[[鳩山一郎]]と行動をともにする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1937年]]、[[第1次近衛内閣]]の外務参与官に就任。[[1939年]]の政友会分裂に際しては鳩山・大野・[[浜田国松]]・[[砂田重政]]・[[深沢豊太郎]]・[[河野一郎]]らとともに正統派に与するが、正統派の総裁となった親軍派の[[久原房之助]]とは激しく対立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政党解消後は鳩山・大野・[[安藤正純]]らとともに[[同交会]]を結成。[[1942年]]の[[翼賛選挙]]（[[第21回衆議院議員総選挙]]）では非推薦候補として立候補し当選。同交会のメンバーの立候補者は全員非推薦候補で、そのうち当選したのは八島・鳩山・安藤・[[芦田均]]・[[星島二郎]]・[[田中亮一]]・[[尾崎行雄]]・[[坂東幸太郎]]・[[北昤吉]]・[[川崎克]]の10名だけだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後は[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]の結党に参加したが、近衛内閣で外務参与官をしていたことから[[公職追放]]。追放中は弟の良二が身代わりとなって代議士を2期務めた。[[1948年]]に追放が解除され、翌[[1949年]]の[[第24回衆議院議員総選挙]]で[[民主自由党]]の公認候補として立候補し当選、政界に返り咲いた。[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]結党後は大野派の客分となり、[[衆議院]]大蔵委員長を務める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[保守合同]]で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]が結党されてからは犬養を大野派に迎えることに尽力。その後[[第1次岸内閣]]の改造に伴い[[科学技術庁長官]]として初入閣。[[第2次岸内閣]]退陣直前に[[自治省]]の発足に伴い初代[[自治大臣]]として2度目の入閣。[[第1次池田内閣]]発足に伴い横滑りで[[通商産業大臣]]として入閣。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]]の[[第30回衆議院議員総選挙]]には出馬せず、系列長野県議の[[向山一人]]を後継者に指名して政界から[[引退]]。向山が初当選したのは6年後の[[第32回衆議院議員総選挙]]であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族・親族 ==&lt;br /&gt;
邦江夫人との間に1924年生まれの長男・良一、[[1926年]]生まれの次男・昭二の2男がいる。良一は早大在学中に学徒出陣で海軍予備学生として入隊、[[1945年]]に出征先で戦死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:やしま しよういち}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の閣僚経験者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の衆議院議員(1947-)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の衆議院議員 (1890-1947)]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:長野県選出の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:長野県選出の帝国議会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:長野県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1896年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1989年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%B3%A8%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%94%BB%E5%83%8F&amp;diff=86045</id>
		<title>テンプレート:注目の画像</title>
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				<updated>2010-04-24T18:01:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;&amp;lt;!--画像の横幅は360px以内で--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery caption=&amp;quot;注目の画像&amp;quot; widths=&amp;quot;74px&amp;quot; heights=&amp;quot;80px&amp;quot; perrow=&amp;quot;3&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像:西野翔　3.jpg|[[西野翔]]&lt;br /&gt;
画像:石原莉奈　1.jpg|[[石原莉奈]]&lt;br /&gt;
画像:吉崎直緒　12.jpg|[[吉崎直緒]]&lt;br /&gt;
画像:伊東怜　15.jpg|[[伊東怜]]&lt;br /&gt;
画像:妹岳なつめ　2.jpg|[[妹岳なつめ]]&lt;br /&gt;
画像:蓮美ゆい　1.jpg|[[蓮美ゆい]]&lt;br /&gt;
画像:山崎かおり　15.jpg|[[山崎かおり]]&lt;br /&gt;
画像:チアガール　28.jpg|[[チアガール]]&lt;br /&gt;
画像:Kentaro Noda.jpg|[[野田憲太郎]]&lt;br /&gt;
画像:大野伴睦.jpg|[[大野伴睦]]&lt;br /&gt;
画像:上戸　2.jpg|[[上戸彩]]&lt;br /&gt;
画像:川島海荷　14.jpg|[[川島海荷]]&lt;br /&gt;
画像:松下萌子　8.jpg|[[松下萌子]]&lt;br /&gt;
画像:茅原実里　4.jpg|[[茅原実里]]&lt;br /&gt;
画像:風野舞子　5.jpg|[[風野舞子]]&lt;br /&gt;
画像:村上綾歌　4.jpg|[[村上綾歌]]&lt;br /&gt;
画像:倉科　1.jpg|[[倉科カナ]]&lt;br /&gt;
画像:平野　5.jpg|[[平野綾]]&lt;br /&gt;
画像:小池　8.jpg|[[小池里奈]]&lt;br /&gt;
画像:さあや　27.jpg|[[紗綾]]&lt;br /&gt;
画像:エマ・ワトソン　1.jpg|[[エマ・ワトソン]]&lt;br /&gt;
画像:夏帆　27.jpg|[[夏帆]]&lt;br /&gt;
画像:杉原杏璃　8.jpg|[[杉原杏璃]]&lt;br /&gt;
画像:綾瀬はるか　16.jpg|[[綾瀬はるか]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%85%AB%E5%B3%B6%E6%98%AD%E4%B8%80&amp;diff=85592</id>
		<title>八島昭一</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%85%AB%E5%B3%B6%E6%98%AD%E4%B8%80&amp;diff=85592"/>
				<updated>2010-04-22T12:33:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 同姓同名の政治家の記事に変更&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''八島 昭一'''（やしま しょういち、[[1896年]][[6月13日]] - [[1989年]][[12月19日]]）は、[[日本]]の[[政治家]]。[[戸川猪佐武]]の実名政治小説『政客よ舞え』（のちに『党人の群れ』と改題）の2人いる主人公の1人・沖信治郎のモデルである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴・人物 ==&lt;br /&gt;
八島良兵衛の長男として[[長野県]][[下伊那郡]]飯田町（現・長野県[[飯田市]]）に生まれた。6人兄弟であり、7歳年下の弟・良二の他2歳年上の姉、2歳、5歳、9歳年下の3人の妹がいる。なお4人の姉妹は全て他家に嫁いでいる。八島家は[[江戸時代]]からの素封家であり、昭一の父・良兵衛は私鉄の[[伊那電気鉄道]]（のちに[[日本国有鉄道]]に買収され、現在のJR[[飯田線]]となる）の設立発起人であり、株主・取締役でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧制中学卒業後、政治家を志し[[早稲田大学]]予科に進学。[[1919年]]早大[[政治経済学部]]政治学科卒業後、[[東京市]]在住の父の知人の紹介で[[森恪]]の事務所に入所。[[1923年]]に結婚。翌[[1924年]]、[[立憲政友会]]所属の代議士だった森が落選した直後に森の命令により政友会院外団常任幹事に就任した。給与は森事務所から受けていながらそちらの勤務は休職で、八島は政友会院外団の1人となった。院外団時代に[[大野伴睦]]（のち政友会代議士、戦後[[衆議院議長]]）、[[鬼丸弥市]]、[[保田一太郎]]らと交友関係を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1929年]][[6月]]中旬、[[下関市]]の[[山陽ホテル]]で[[犬養健]]と出会う。それ以来犬養は八島の無二の親友となる。翌[[1930年]]の[[第17回衆議院議員選挙]]に旧長野県第3区から政友会公認で立候補し初当選、政治家としての一歩を踏み出す。八島は同期の政友会代議士である大野・犬養・[[井上知治]]・[[太田正孝]]・[[大石倫治]]・[[土倉宗明]]・[[中島知久平]]・[[林譲治 (政治家)|林譲治]]・[[船田中]]・[[松岡洋右]]らと「昭午会」を結成する。当初は森の子飼いだったが、後に親軍派の森と訣別し[[鳩山一郎]]と行動をともにする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1937年]]、[[第1次近衛内閣]]の外務参与官に就任。[[1939年]]の政友会分裂に際しては鳩山・大野・[[浜田国松]]・[[砂田重政]]・[[深沢豊太郎]]・[[河野一郎]]らとともに正統派に与するが、正統派の総裁となった親軍派の[[久原房之助]]とは激しく対立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政党解消後は鳩山・大野・[[安藤正純]]らとともに[[同交会]]を結成。[[1942年]]の[[翼賛選挙]]では非推薦候補として立候補し当選。同交会のメンバーの立候補者は全員非推薦候補で、そのうち当選したのは八島・鳩山・安藤・[[芦田均]]・[[星島二郎]]・[[田中亮一]]・[[尾崎行雄]]・[[坂東幸太郎]]・[[北昤吉]]・[[川崎克]]の10名だけだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後は[[日本自由党]]の結党に参加したが、近衛内閣で外務参与官をしていたことから[[公職追放]]。追放中は弟の良二が身代わりとなって代議士を2期務めた。[[1948年]]に追放が解除され、翌[[1949年]]の[[第24回衆議院議員選挙]]で[[民主自由党]]の公認候補として立候補し当選、政界に返り咲いた。[[自由党]]結党後は大野派の客分となり、[[衆議院]]大蔵委員長を務める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[保守合同]]で[[自由民主党]]が結党されてからは犬養を大野派に迎えることに尽力。その後[[第1次岸内閣]]の改造に伴い[[科学技術庁長官]]として初入閣。[[第2次岸内閣]]退陣直前に[[自治省]]の発足に伴い初代[[自治大臣]]として2度目の入閣。[[第1次池田内閣]]発足に伴い横滑りで[[通商産業大臣]]として入閣。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1963年]]の[[第30回衆議院議員選挙]]には出馬せず、系列長野県議の[[向山一人]]を後継者に指名して政界から[[引退]]。向山が初当選したのは6年後の[[第32回衆議院議員選挙]]であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族・親族 ==&lt;br /&gt;
邦江夫人との間に1924年生まれの長男・良一、[[1926年]]生まれの次男・昭二の2男がいる。良一は早大在学中に学徒出陣で海軍予備学生として入隊、[[1945年]]に出征先で戦死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:やしま しよういち}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の閣僚経験者]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の衆議院議員(1947-)]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の衆議院議員 (1890-1947)]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:長野県選出の国会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:長野県選出の帝国議会議員]]&lt;br /&gt;
[[Category:長野県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1896年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1989年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>八島昭一</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: ページ 八島昭一 を 利用者‐会話:79.233.130.162 へ移動: 荒らされるので&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[利用者‐会話:79.233.130.162]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平忠度</title>
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				<updated>2008-11-19T10:45:32Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: '{{文学}} '''平 忠度'''（たいら の ただのり）は、平安時代の武将。平忠盛の六男。平清盛、教盛、[[平経盛|経...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{文学}}&lt;br /&gt;
'''平 忠度'''（たいら の ただのり）は、[[平安時代]]の[[武将]]。[[平忠盛]]の六男。[[平清盛]]、[[平教盛|教盛]]、[[平経盛|経盛]]らは兄。子に[[平忠行|忠行]]がいる。熊野の地で生まれ育ったとの伝承あり。[[治承]]2年（[[1178年]]）[[従四位|従四位上]]。治承3年（[[1179年]]）、[[伯耆国|伯耆守]]。治承4年（[[1180年]]）、[[正四位|正四位下]][[薩摩守]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[天養]]元年（[[1144年]]）、[[伊勢平氏]]の頭領である[[平忠盛]]の六男として生まれる。母は[[藤原為忠]]の娘。[[紀伊国]]の[[牟婁郡|熊野地方]]で生まれ育ったとされており、[[熊野別当]][[湛快]]の娘で[[湛増]]の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[源頼朝]]討伐の[[富士川の戦い]]、[[源義仲]]討伐の[[倶利伽羅峠の戦い]]等に出陣。[[一ノ谷の戦い]]で、[[源氏]]方の[[岡部忠澄]]と戦い41歳で討死。源氏に紛れる作戦をとっていたが、源氏の者の多くがつけていない[[お歯黒]]を付けていた為に、見破られて討たれた。忠澄は戦ののち、忠度の菩提を弔うため、[[埼玉県]][[深谷市]]の[[清心寺]]に供養塔を残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[兵庫県]][[明石市]]には、忠度の墓と伝える「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた（現・天文町）。また忠度公園という小さな公園もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[歌人]]としても優れており[[藤原俊成]]に師事した。都落ちの最中、俊成の屋敷へ赴き自身の歌を書いた巻物を俊成に託した逸話が有名である。『[[千載和歌集|千載集]]』に彼の歌があるが、撰者の俊成は[[朝敵]]となった忠度の名を憚り、[[よみ人しらず|詠み人知らず]]として掲載している&amp;lt;ref&amp;gt;この逸話は『[[平家物語]]』巻7「忠度都落」に詳しい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。『[[新勅撰和歌集]]』以後は晴れて「薩摩守忠度」の名で入選している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
[[諱]]が「ただのり」であることから、忠度の官名「[[薩摩守]]」は[[不正乗車#無賃乗車|無賃乗車]]（ただ乗り）を意味する隠語として使われている。狂言『薩摩守』で船賃を踏み倒そうとする出家僧が描かれており、かなり昔からの[[掛詞]]（今で言う[[駄洒落]]）であると知れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[伊勢平氏]]&lt;br /&gt;
* [[千載和歌集]]&lt;br /&gt;
* [[藤原俊成]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の たたのり}}&lt;br /&gt;
[[Category:平家|たたのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の歌人]]&lt;br /&gt;
[[Category:1144年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1184年没]]&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Taira no Tadanori]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E7%9B%9B&amp;diff=42348</id>
		<title>平頼盛</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 頼盛'''（たいら の よりもり）は、平安時代末期の武将。公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 頼盛'''（たいら の よりもり）は、[[平安時代]]末期の武将。[[公卿]]。[[平忠盛]]の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子（[[池禅尼]]）。通称は'''池殿'''、'''池大納言'''。[[平清盛]]の異母弟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 生い立ち ===&lt;br /&gt;
長承2年（1133年）に生まれる。母の藤原宗子は[[藤原璋子|待賢門院]]近臣家の出身だったが、従兄弟には[[鳥羽法皇]]第一の寵臣・[[藤原家成]]がいたことから[[藤原得子|美福門院]]ともつながりがあった。その幅広い人脈により「'''夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者'''（夫の忠盛をも支えるほどの者）」（『[[愚管抄]]』）と呼ばれ、忠盛の妻たちの中で最も重んじられていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
清盛は忠盛の長子だったが生母はすでに死去していたため、宗子の産んだ次男・家盛が母の後押しで嫡子となる可能性もあった。[[久安]]3年（[[1147年]]）に清盛が祇園闘乱事件を引き起こして処罰されたことにより、家盛の存在感は急速に高まった。同年12月に[[常陸国|常陸介]]となり、翌久安4年（[[1148年]]）正月には従四位下・[[右馬頭]]となって清盛に迫る勢いを示すが、久安5年（[[1149年]]）病死してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠盛の落胆は大きかったが、清盛は対抗馬が消えたことで後継者の地位を確実なものとした。頼盛は家盛の同母弟といっても清盛とは15歳の年齢差があり、清盛を押しのけることは無理だった。それでも頼盛は正室のただ一人の子として優遇されていて、家盛の地位を継承して17歳で常陸介に任じられている。この時点では異母兄の経盛・教盛は受領ではなく、頼盛は一門の中で清盛に次ぐ位置にいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 保元の乱 ===&lt;br /&gt;
久安6年（[[1150年]]）宗子は[[崇徳上皇]]の第一皇子・[[重仁親王]]の乳母となり、忠盛は乳父（めのと）になった。重仁は次期皇位の最有力候補であり即位が実現すれば、忠盛は大きな権力を手にできるはずだった。しかし[[仁平]]3年（[[1153年]]）、忠盛は公卿昇進を目前に病死した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[久寿]]2年（[[1155年]]）、[[近衛天皇]]が崩御した。後継天皇は[[信西]]の画策により、第一候補だった重仁親王ではなく雅仁親王（[[後白河天皇]]）が指名され、政情は大きく変化する。[[保元]]元年（[[1156年]]）、鳥羽法皇崩御により[[保元の乱]]が勃発すると、忠盛・宗子が重仁親王を後見する立場にあったことから平氏一門は難しい立場に立たされた。宗子は「'''コノ事ハ一定新院ノ御方ハマケナンズ。勝ツベキヤウモナキ次第ナリ'''」と崇徳方の敗北を予測して、頼盛に「'''ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ'''」と協力することを命じた（『愚管抄』）。この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持することに成功した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
保元の乱の後、頼盛は兄・教盛とともに昇殿を果たす。清盛が乱の功績により[[播磨国|播磨守]]になったことで、頼盛は清盛の[[知行国]]・[[安芸国]]の受領となった。頼盛自身の知行国・常陸国の受領には代わりに兄・経盛が任じられる。教盛は[[淡路国|淡路守]]であり、平氏は兄弟で4つの知行国を確保した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
保元2年（[[1157年]]）になると信西は大内裏の再建を行い、頼盛は貞観殿の造営を担当したことで従四位下に叙せられる。翌保元3年（[[1158年]]）8月には二回目の常陸介となり、10月には藤原顕長と知行国を交換して[[三河国|三河守]]となった。この年には清盛の長子・[[平重盛|重盛]]も[[遠江国|遠江守]]となっている。頼盛と重盛は叔父と甥だったが5歳の年齢差で、ほぼ同年代といってよかった。平氏は清盛が棟梁として全体を取りまとめ、頼盛・重盛が屋台骨を支える形となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 平治の乱 ===&lt;br /&gt;
それを如実に示したのが、[[平治]]元年（[[1159年]]）に起こった[[平治の乱]]だった。頼盛は27歳、重盛は22歳であり、「'''平氏ガ方ニハ左衛門佐重盛・三河守頼盛、コノ二人コソ大将軍ノ誠ニタタカイハシタリケルハアリケレ'''」（『愚管抄』）とあるように、平氏軍の主力を率いて戦場に臨んだ。『[[平治物語]]』では重盛の活躍が華々しく記されているが、頼盛も父から譲り受けた名刀「抜丸」で奮戦するなど、合戦で大きな役割を果たしていたことがうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
乱は平氏の勝利に終わり、頼盛は[[尾張国|尾張守]]となった。翌[[永暦]]元年（[[1160年]]）2月、頼盛の郎等・[[平宗清]]が逃亡中の[[源頼朝]]を捕らえた。尾張国は京都と東国を結ぶ交通の要衝に当たるため、頼盛が尾張守に任じられたのは、東国に逃れる源氏の残党を追捕するための措置だったとも考えられる。『平治物語』では、頼朝が家盛に生き写しだったことから宗子が助命に奔走したとするが、実際には頼朝が仕えていた[[統子内親王|上西門院]]（待賢門院の娘、後白河の同母姉）や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家（頼朝の母方の親族）の働きかけによるものと推測される&amp;lt;ref&amp;gt;『愚管抄』には[[北条時政]]の後妻である[[牧の方]]の父、大舎人允宗親は頼盛の長年の家人であり、頼盛から駿河国・大岡牧の管理を任されていたと記されている。『[[尊卑分脈]]』には宗子の弟に宗親という名が見られ、両者は同一人物の可能性がある。したがって時政による頼朝の監視・保護は、宗子・頼盛の意向によるという指摘もある（杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』、[[上横手雅敬]]監修、思文閣出版、1994年、ISBN 4784208186）。ただし時政と牧の方の婚姻時期を明確に記す史料はなく、平治の乱の時点で宗子・頼盛と時政がつながっていたかは定かでない。牧の方が乱の前年（1158年）、時政に15歳で嫁いだと仮定すると、文治5年（1189年）生まれの政範は牧の方が46歳で産んだことになり、やや無理が生じる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 重盛との格差 ===&lt;br /&gt;
平治の乱の後、清盛は平氏一門で初めての公卿となる。平氏の勢力は他より抜きん出たものとなったが、乱で共に活躍した頼盛と重盛は、官位において大きく明暗を分けることになる。永暦元年（1160年）に重盛が従四位上・[[内蔵頭]]となったのに対して、頼盛の官位はそのまま据え置かれた。[[応保]]元年（[[1161年]]）に頼盛は正四位下となり位階では上回るが、重盛も応保2年（[[1162年]]）に正四位下、[[長寛]]元年（[[1163年]]）には従三位、長寛2年（[[1164年]]）には正三位と瞬く間に引き離し、[[永万]]元年（[[1165年]]）には28歳で早くも[[参議]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼盛は33歳で正四位下・[[修理大夫]]に過ぎず、一門における地位の低下は明らかであった。頼盛が甥の急速な昇進をどのように見ていたかは知る由もないが、長寛2年（1164年）、清盛が装飾経33巻（『[[平家納経]]』）を[[厳島神社]]に奉納した際は、重盛・経盛・教盛らとともに書写に携わった。『平家納経』の中の「提婆達多品」は頼盛の直筆とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 公卿昇進と大宰府赴任 ===&lt;br /&gt;
永万元年（1165年）に[[二条天皇]]が、永万2年（[[1166年]]）に摂政・[[近衛基実|基実]]が相次いで死去したことにより、二条親政派は瓦解して後白河院政派が息を吹き返した。頼盛は7月に[[大宰大弐]]となり、[[仁安 (日本)|仁安]]と改元された8月27日には従三位に叙せられて、平氏で3人目の公卿となった。この同じ日には[[藤原成親]]が参議となり、藤原成範が従三位に叙せられるなど、[[院近臣]]の躍進が目立った。頼盛の叙位も、後白河近臣としての活動が評価されたものと推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自らの政治力強化を目指す後白河は、清盛の協力により憲仁親王（後の[[高倉天皇]]）の立太子を実現させた。10月10日、立太子の儀式が公卿や平氏一門の出席のもと盛大に執り行われ、清盛は[[春宮大夫]]に任じられる。頼盛は大宰大弐として現地に赴任していたため、この式典には欠席している。大宰府の長官は現地に赴任しないのが当時の慣例になっていて、[[日宋貿易]]を直接掌握する狙いがあったとしても不可解な行動といえる。憲仁立太子直後の28日に頼盛は皇太后宮権大夫に任じられているが、この時の皇太后は[[藤原呈子]]だった。呈子は美福門院の養女だったので、頼盛は親近感を抱いていたと思われる。一方で憲仁の母・[[平滋子]]との交流はほとんどなく、疎遠な関係にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
清盛にとって一門の足並みを乱す頼盛の行動は問題だったが、九州に平氏の勢力を広げること自体は悪い話ではなかったので、多少の黙認はしていたものと考えられる。仁安2年（[[1167年]]）正月に[[六条天皇]]が院御所に行幸すると、頼盛は九州にいたにも関わらず正三位に叙せられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 参議就任と解官 ===&lt;br /&gt;
仁安2年（1167年）5月17日、清盛は[[太政大臣]]を辞任する。それに先立つ5月10日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下される（『[[兵範記]]』同日条）。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任されることになり、清盛の平氏棟梁の地位は重盛に継承されることになった。8月には重盛の弟・[[平宗盛|宗盛]]が参議に昇進して、平氏4人目の公卿となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌仁安3年（[[1168年]]）3月、呈子が院号宣下を受けて九条院となったため、頼盛は皇太后宮権大夫を辞任する。この院号宣下は后位に空席を設けるための追い出し工作であり、入れ替わりに滋子が皇太后となる。滋子の猶子となっていた宗盛は、皇太后宮権大夫となった。8月、頼盛より位階が下の兄・教盛が参議に任じられ、平氏5人目の公卿となる。頼盛は正三位だったが非参議であり、参議になることは悲願だった。10月18日、頼盛はついに待望の参議となるが、わずか一月後の11月28日、子の保盛とともに全ての官職を解官されてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
解官の理由は、保盛については五節の節会で舞姫参入・御覧の儀式の勤めを、後白河の指示に従わず毎度怠ったこと、頼盛については、3月26日の滋子の代始めの入内に奉仕しなかったこと、休暇願いを出さずに無断で厳島神社に参詣したこと、鎮西を知行していたにも関わらず大嘗会関係の課役を勤めなかったことだった。高倉の即位や妻の滋子に関することであったため、後白河の怒りは激しいものがあった（『兵範記』仁安3年11月28日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
処罰はそれだけにとどまらず、12月には頼盛の家人6名が解官される（『兵範記』12月13日条）。彼らは武官職にある軍事貴族であり、頼盛の軍事的基盤は粉砕されてしまった。この時期、重盛は病により健康がすぐれず、権大納言を辞任している。解官の背景には、独自の動きを見せていた頼盛を完全な統制下に置くことで、重盛の地位を守ろうとする清盛の意思が介在していた可能性もある。&lt;br /&gt;
頼盛の失脚は一年の長きに渡り、出仕が許されたのは[[嘉応]]元年（[[1169年]]）11月だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政界復帰と八条院への接近 ===&lt;br /&gt;
政界復帰後の頼盛は、清盛の力の大きさを痛感したらしく従順な行動をとるようになる。清盛も頼盛を完全に排除するのは得策でないと判断したようで、以後は自らの手足として積極的に活用する動きが見受けられる。嘉応元年（1169年）12月の[[嘉応の強訴]]では、頼盛は重盛・宗盛とともに官兵を率いて待機していた。後白河が成親擁護の方針を打ち出して抗争が激化すると、清盛は福原に頼盛・重盛を呼び出して状況を報告させている。このことは、頼盛・重盛が京都防衛の責任者であったことを示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
清盛が頼盛を重用した理由としては、[[あき子内親王|八条院]]の存在が挙げられる。八条院は美福門院の娘で、父母から荘園の大半を譲られて大きな財力・武力を有し、二条天皇の准母としてその後ろ盾となっていた。二条親政派が瓦解してもその勢力は衰えず、後白河や平氏にとっては敵に回すことが憚られる存在だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼盛は建春門院とは疎遠だったが、八条院とは美福門院以来のつながりがあり、邸宅も接していた。八条院の乳母は源国房の娘で宰相局と呼ばれていたが、頼盛は宰相局の娘で八条院女房の大納言局を妻に迎え、光盛が生まれている。光盛は[[承安 (日本)|承安]]2年（[[1172年]]）の生まれなので、両者の婚姻は承安元年（[[1171年]]）以前と見られる。おそらく皇太后宮権大夫を辞任したことで拠り所を失ったため、八条院の庇護を求めたものと推測される。後に頼朝は荘園33ヶ所を頼盛に返還しているが、そのうちの14ヶ所が八条院領だったことを見ても関係の深さがうかがえる（『[[吾妻鏡]]』元暦元年4月6日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、この間の官位の昇進ははかばかしいものではなく、長らく正三位・参議のままだった。それでも頼盛は、承安4年（[[1174年]]）8月、[[近衛基通]]の従三位叙位の拝賀に清盛の指示で付き従い、[[安元]]2年（[[1176年]]）3月、後白河の50歳の賀のため法住寺殿で催された式典に一門の人々とともに出席するなど、表向きは協調の姿勢を見せていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鹿ケ谷事件 ===&lt;br /&gt;
安元2年（1176年）7月に建春門院が死去したことで、今まで隠されていた後白河と平氏の対立が表面化する。12月5日、頼盛は権中納言に昇進した。同日、藤原成範も権中納言となり、藤原定能・光能が他の有力候補者を押しのけて[[蔵人頭]]に抜擢されている。彼らはいずれも院近臣であり、その昇進には後白河の意向が大きく反映していた。後白河と平氏が対立している状況で頼盛の昇進が実現したのは、平氏一門であるよりも後白河近臣としての側面が大きかったことを物語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌安元3年（[[1177年]]）、重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将となり、後白河が福原を訪問したことで対立は緩和されたかに見えたが、4月に延暦寺が加賀守・[[藤原師高]]の流罪を要求して強訴を起こすと亀裂は逆に深まっていく。後白河は延暦寺に対して強硬策をとり、師高の父・[[西光]]の進言で[[天台座主]]・[[明雲]]を解任、[[伊豆国]]に配流した。延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪還したため、後白河は福原から清盛を呼び出して延暦寺への攻撃を命じる。清盛はやむを得ず出兵を承諾するが、内心では事態の悪化を招いた後白河と西光に憤りを抱いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
攻撃直前の6月1日、[[多田行綱]]の密告により平氏打倒の陰謀が発覚した（[[鹿ケ谷の陰謀]]）。清盛の怒りは凄まじく西光は処刑され、関係者は一網打尽にされた。『愚管抄』によると藤原成親が呼び出されて捕らえられた時、頼盛は重盛とその場に居合わせていた。重盛にとって義兄の成親が平氏打倒の首謀者だったことは衝撃だったが、頼盛も謀議に加わっていた法勝寺執行・[[俊寛]]が妻・大納言局の兄弟だったことから、厳しい視線にさらされたものと見られる。頼盛自身が陰謀に関与していたかは不明だが、その政治的立場は後白河に近く、疑われるだけの条件は整っていた。[[藤原成経]]・[[平康頼]]が赦免された時に俊寛だけが許されなかったのは、頼盛に対する威圧・牽制があったのではないかと推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 院政停止 ===&lt;br /&gt;
[[治承]]2年（[[1178年]]）、中宮・[[平徳子|徳子]]が懐妊する。『[[山槐記]]』『玉葉』を見ると徳子出産に関連する行事には、重盛・頼盛・[[平時忠|時忠]]・[[平維盛|維盛]]の4人が多く参仕していたことが確認できる。このうち重盛は徳子の養父であり、時忠・維盛はそれぞれ中宮権大夫・権亮なので不思議ではない。しかし頼盛は徳子とこれといった関係はなく、なぜ徳子の出産に積極的に関わっていたのか理解に苦しむ部分がある。鹿ケ谷事件の衝撃も冷めやらない中で、清盛の疑念を払拭するための必死の行動とも考えられる。徳子が無事に皇子（言仁、後の[[安徳天皇]]）を出産すると、清盛は後白河に皇子の立太子を迫った。春宮坊には平氏一門が就任し、言仁は平氏の管理下に置かれることになったため、後白河は平氏に対する不満を高めることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
治承3年（[[1179年]]）に重盛・盛子が死去すると、後白河はその知行国・荘園を没収した。特に盛子は前摂政・基実の未亡人として膨大な摂関家領を相続していたので、平氏にとっての経済的打撃は甚大だった。さらに清盛の支援する基通ではなく、関白・[[松殿基房|基房]]の子・[[松殿師家|師家]]が権中納言になったことが引き金となり、11月14日、清盛はクーデターを起こした（[[治承三年の政変]]）。この結果、基房は関白を罷免されて追放、反平氏公卿・近臣39名が解官、後白河は鳥羽殿に幽閉となり院政は停止された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時、頼盛も兼官の[[右衛門督]]を解官されている。20日には清盛が六波羅にいる頼盛を討つという噂が広がり、すでに合戦が始まったという情報も飛び交っている（『玉葉』同日条）。22日には頼盛の所領が全て没収されたという情報も流れた（『玉葉』同日条）。これらは伝聞情報であり、清盛・頼盛の合戦は誤報であったことが判明する。所領没収に関しても、その後の展開を見ると事実かどうか疑わしい。ただ、頼盛が後白河の幽閉に抗議する可能性があり、場合によっては武力で対抗するのではないかという観測が流れていたことは確かと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし頼盛には清盛に逆らう意思はなく、「'''ナガク弓箭ノミチハステ候ヌル'''」（『愚管抄』）と全面的な恭順を誓っている。清盛も武官職である右衛門督の解官のみにとどめているので、頼盛の万が一の妨害を懸念しての予防措置であったとも考えられる。頼盛は翌治承4年（[[1180年]]）正月には早くも出仕を許された。言仁親王即位に向けて一門の結束が図られ、頼盛も政権中枢に迎え入れられる。4月の安徳即位に伴う叙位で、頼盛は従二位に叙せられた。この時、平氏一門で叙位されたのが頼盛だけだったことも、政権内部において頼盛の存在が重みを増していたことを示すものといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 内乱の勃発と清盛の死 ===&lt;br /&gt;
治承4年（1181年）5月、[[以仁王]]が挙兵する。以仁王は八条院の猶子となり、八条院女房で「無双之寵臣」（『玉葉』文治元年9月19日条）と呼ばれた三位局を妻としていた。以仁王が八条院の支援を受けていることは明白だったが、清盛にすれば高倉院政を何とか軌道に乗せようとしていた矢先の事件であり、ここで八条院と全面衝突になることは避けたかった。しかし、八条院に養われている以仁王の子をそのまま放置することはできず、頼盛に捜索命令が出された。頼盛が選ばれたのは妻が八条院の女房で、八条院との交渉には最適と判断されたためと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼盛にすれば気の進まない役割を押し付けられたようなものだったが、命令には逆らえず以仁王の子の身柄を確保して出家させた（『山槐記』『玉葉』5月16日条）。21日、以仁王を匿った[[園城寺]]を攻めることが決定され、頼盛は攻撃軍の大将の一人に選ばれている（『玉葉』同日条）。以仁王の挙兵は鎮圧されたが、園城寺・[[興福寺]]が同調したことは成立したばかりの高倉院政にとって重大な脅威となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月になると、清盛は突如として[[福原行幸]]を強行する。福原では頼盛の邸宅が内裏となり、次いで高倉上皇の御所となった。頼盛は邸宅を提供した功により正二位に叙せられる（『玉葉』6月6日条）。遷都計画は準備不足のため思うように進まず、全国各地で反乱が頻発していた。11月には[[富士川の戦い]]で追討軍が大敗したという報告が福原に届き、頼盛と教盛が新たに東国追討使となっている（『山槐記』11月16日条）。ここに至り、清盛も遷都を断念せざるを得なくなった。11月26日、京都に戻った高倉上皇は頼盛の六波羅池殿に入り、そこで病の床についた。翌月から平氏は総力を挙げて反撃を開始する。一門の知行国には兵糧米が課せられ、[[能登国]]（教盛の知行国）・[[但馬国]]（経盛の知行国）は了承したが、[[紀伊国]]・[[佐渡国]]（頼盛の知行国）は「力不及」と返答した（『山槐記』12月10日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌治承5年（[[1181年]]）正月14日、高倉が池殿で崩御する。幼児の安徳が政務をとることはできず、後白河の院政再開は避けられなくなった。清盛は畿内惣官職を設置して宗盛を任じ、2月17日には「警衛のため」（『[[吉記]]』治承5年4月10日条）という理由で安徳を八条に新造された頼盛邸に遷すなど、矢継ぎ早に対応策を講じていたが、閏2月4日に死去した。高倉と清盛の相次ぐ死は、国政における最高権威と実質的指導者が一挙に失われたことを意味し、平氏にとって致命的な打撃となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宗盛との協調 ===&lt;br /&gt;
清盛の死後、宗盛は「'''今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存じ行うべく候'''」（『玉葉』閏2月6日条）と表明して、後白河に恭順する姿勢を示した。宗盛の発言を受けて、後白河は公卿議定を開いて追討の中断を決定する。[[静憲]]が宗盛に議定の決定を伝えると、宗盛は追討使として[[平重衡|重衡]]を下向させることを理由に、追討のための院庁下文を発給することを要求した。静憲が「それでは話が違う」と抗議すると、宗盛は「'''頼盛・教盛等の卿を招き相議し、重ねて申さしむべし'''」と返答した（『玉葉』閏2月7日条）。新体制が発足して、後白河と宗盛の間には早くも不協和音が生じていたが、この問題に関して頼盛は宗盛の諮問を受けており、政権にとって重要な立場にあったことが分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で、宗盛のもとに「頼盛と比叡山の僧綱が提携して宗盛を討とうとしている」という落書が届けられるなど、両者の間に緊迫した空気が流れたこともあった（『玉葉』4月1日条）。4月10日、安徳が八条の頼盛邸から閑院に行幸し、邸宅を提供した功で頼盛の子が加階されることになった。頼盛は、保盛は正四位下であり昇進させると[[平通盛|通盛]]（教盛の子）・[[平経正|経正]]（経盛の子）より突出してしまうとして、光盛に賞を譲らせた（『吉記』同日条）。頼盛が一門の中で軋轢を避けるために、気を配っていたことをうかがわせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月には熊野で反乱が起こり、紀伊の知行国主である頼盛が追討使に選ばれた（『玉葉』9月28日条）。しかし翌月、遠征軍の編成が行われた結果、北陸道は[[平知度|知度]]・[[平清房|清房]]（宗盛の異母弟）・重衡・[[平資盛|資盛]]、東海道・東山道は維盛・[[平清経|清経]]（重盛の子）、熊野は頼盛の子息2名、最も重要な洛中守護は宗盛・教盛・経盛・頼盛・[[平知盛|知盛]]が担当した（『玉葉』10月10日条）。この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあったと考えられる。宗盛が平氏棟梁の地位を確立するにあたり、最大の障害は重盛の小松家だった。小松家を抑えるためには、知行国を有して半独立的な位置にある叔父たちと密接に連携する必要があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
叔父たちの中で、宗盛が最も気を遣っていたのは頼盛だった。[[寿永]]2年（[[1183年]]）2月、宗盛の嫡子・清宗と頼盛の娘の婚姻が成立しているが、これは宗盛が頼盛を自らの陣営に引き入れるための懐柔策であったと推測される（『吉記』2月21日条）。同月、宗盛が内大臣を辞任する際、宗盛のもとに知盛・重衡・頼盛・時忠・[[平親宗|親宗]]が集まっている（『吉記』2月27日条）。叔父の中で頼盛だけが出席しており、宗盛が頼盛を重視していたことを示唆している。4月、頼盛は権大納言に昇進するが、政権の崩壊は目前に迫っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 京都残留 ===&lt;br /&gt;
寿永2年（1183年）5月、平氏の北陸追討軍は[[木曽義仲]]に撃破され（[[倶利伽羅峠の戦い]]）、これまで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。7月24日、宗盛は都に迫った義仲軍を防ぐために、頼盛に山科方面への出兵を要請する。頼盛は「弓箭ノミチハステ」ていることを理由に拒絶したが、宗盛に「セメフセラレ」てやむを得ず山科に向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
25日未明、後白河は比叡山に脱出する。これを知った宗盛は、辰巳午両三時バカリニ（午前8時から正午にかけて）六波羅に火を放って都を退去した。ところが宗盛は、山科防衛に出動していた頼盛に都落ちを知らせていなかった。頼盛は都落ちを聞くと、子の為盛を宗盛のもとに差し向けて事情を問い詰めるが、宗盛は動揺するばかりで明確な返答はなかった。宗盛にすれば後白河に逃げられたことで混乱の極みにあり、単に連絡を忘れただけだったのかもしれないが、頼盛にしてみれば前線に置き去りにされたようなものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼盛は都に戻るが、すでに池殿は全焼しており後白河に保護を求めた。この時、資盛も後白河を頼っている。後白河は頼盛に「'''サ聞食ツ。日比ヨリサ思食キ。忍テ八条院邊ニ候ヘ'''」と答え、八条院のもとに身を隠すことを指示した（『愚管抄』）。資盛は拝謁を許されず、26日早朝に都を離れた（『吉記』7月25日条）。28日、後白河は平氏追討・安徳の帰京・神器の回復の方策を立てるため、公卿議定を開いた。この議定では、頼盛の処遇も議題に上がった。[[吉田経房]]は「帰降者を成敗した例はなく、頼盛は都落ちには同調せず、一族であったため一時的に行動を共にしたに過ぎない」と発言し、出席者も「人々皆一同」と賛同した。しかし義仲軍が都を占拠している状況では頼盛も処分を免れることはできず、8月6日に他の平氏一門とともに解官された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
解官後の頼盛は八条院の庇護を受けながら、密かに鎌倉の頼朝と連絡を取っていたと思われる。それは、後白河の意向を受けてのことだった可能性もある。後白河は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とするなど義仲を低く評価し（『玉葉』7月30日条）、頼朝の上洛に期待をかけていた。8月14日、義仲は後継天皇に自らが擁立した[[北陸宮]]を据えることを主張して、後白河の怒りを買う（『玉葉』同日条）。そして後白河が義仲の頭越しに[[寿永二年十月宣旨]]を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。都は極めて不穏な情勢となり、10月20日、頼盛逐電の情報が流れて騒ぎとなった（『玉葉』『[[百錬抄]]』同日条）。閏10月になると、親鎌倉派である[[一条能保]]（頼朝の義弟）・[[持明院基家]]（頼盛の娘婿、能保の叔父）も危険を察知して鎌倉に亡命した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 頼朝の厚遇 ===&lt;br /&gt;
『玉葉』11月6日条には、頼盛がすでに鎌倉に到着したという情報が記されている。頼盛は唐綾の直垂を着て立烏帽子を被り、息子たちと郎等2人を従え、刀剣を持たない姿だった。頼朝は白糸葛の水干を着て立烏帽子を被り、郎等50人が背後に群居していた。頼朝は、居館から一日の行程にある相模国の国府を頼盛の宿所に充て、相模の目代を世話役にしたという。頼朝は頼盛を「如父（父の如く）モテナシ」た（『愚管抄』）。それは旧恩だけでなく後白河や八条院と太いパイプを持つ頼盛の参入に、心強さを感じていたことも理由の一つとして考えられる。頼朝は朝廷との交渉や幕府機構の整備のために、京都からの人材を求めていた。頼朝は頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと、自身の上洛を中止して弟の[[源義経|義経]]と[[中原親能]]を代官として都へ送った（『玉葉』11月2日条）&amp;lt;ref&amp;gt;なお、『玉葉』11月2日条には「頼盛卿行向議定」という記述がある。この読み方が「頼盛卿の行き向かい議定あり」と「頼盛卿と行き向かい議定す」のどちらであるか、判別が難しい。前者とすれば「（朝廷側が）頼朝上洛の知らせを受けて、使者として頼盛を派遣するべく話し合った」という意味にとれる。しかし『玉葉』『百錬抄』では頼盛は10月に京都を脱出しているので、11月に頼盛が京都にいたとは考えにくい。したがって、後者の「（頼朝は）、頼盛と上洛について話し合った」という解釈が妥当と思われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寿永3年（[[1184年]]）になると義仲が滅ぼされ、[[一ノ谷の戦い]]で平氏も屋島に撤退したことにより、京都は頼朝の勢力下に入った。その後の頼盛の動向は『玉葉』によると、八条院より兼実に頼盛の申し状が伝えられ（3月7日条）、頼盛の後見侍清業が兼実のことを後白河に奏し（4月1日条）、清業が[[源雅頼]]に「頼朝は兼実を摂政に推挙する意向である」と語っている（4月7日条）。これらの記事から推察すると頼盛は、頼朝のために八条院や後白河に働きかけて兼実を摂政にするよう工作していたと考えられる。4月、頼朝は頼盛に荘園33ヶ所を返還しているが（『吾妻鏡』4月6日条）、この荘園の返還は頼朝による本領安堵であり、頼盛はこれによって鎌倉との主従関係に組み込まれたとする見方もある&amp;lt;ref&amp;gt;[[岡野友彦]] 『源氏と日本国王』、講談社、2003年、ISBN 4061496905&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、頼盛は一旦帰京していたらしく、5月3日に改めて亡命としてではなく正式に関東に下向した（『百錬抄』同日条）。この時、頼盛は宗清にも同行を命じるが、宗清は固辞した。5月21日、頼朝は[[高階泰経]]に書状を送って、頼盛と子息の本官還任と[[源範頼]]・[[源広綱]]・[[平賀義信]]の国司任官を要請した（『吾妻鏡』同日条）。6月1日、頼朝は頼盛のために盛大な送別の宴を開いた。宴には御家人の中から「京都に馴るるの輩」が集められ、引出物として、金作剣一太刀・砂金一袋・鞍馬十疋が贈られた。頼朝は宗清のためにも引出物を用意していたが、姿を見せないので残念がった。頼盛は頼朝に、宗清は病気のため到着が遅れると伝えていた。6月5日、頼盛は帰京して権大納言に還任する。子の光盛は侍従に、保業は河内守となった（『吾妻鏡』6月20日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 終焉 ===&lt;br /&gt;
京都に戻った頼盛は、再び朝廷に出仕する（『山槐記』元暦元年8月18日条、9月17日条）。12月16日には後白河が八条室町の頼盛邸に御幸して、摂政・基通の春日詣の行列を見物している（『玉葉』同日条）。頼盛の地位は安定したかに見えたが、法住寺合戦を前に京都から逃亡したことや鎌倉の厚遇を受けたことは、院近臣からの反発を招く結果となり、朝廷内で孤立化したと推測される。12月20日、頼盛は権大納言を辞任、光盛を近衛少将に任じることを奏請した（『玉葉』同日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[元暦]]2年（[[1185年]]）3月、平氏一門は[[壇ノ浦の戦い]]に敗れて滅亡する。一門の滅亡を頼盛がどのように思ったかは定かでないが、それから程なく頼朝に出家の素懐を申し送って了承を得ると、5月29日、[[東大寺]]で出家して法名を重蓮と号した（『吾妻鏡』6月18日条）。翌月、後白河は播磨国・備前国を院分国として、知行権を頼盛に与えた（『玉葉』6月30日条）。この措置は頼朝の要請によると見られ、頼盛は藤原実明を播磨守、光盛を備前守に推挙した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これ以降、頼盛は八条室町の自邸に籠居して表舞台にほとんど姿を見せなくなる。[[文治]]2年（[[1186年]]）正月に[[後鳥羽天皇]]の方違行幸が行われた時、八条院の邸宅が地震により破損が著しく修復も済んでいなかったため、隣の頼盛邸に白羽の矢が立ったが頼盛は「家に穢れがある」と称して固辞した（『玉葉』正月5、6、7日条）。あるいは、すでに健康を害していた可能性もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月2日、頼盛は54歳で死去した（『吾妻鏡』6月18日条）。この頃、幕府の京都守護・一条能保は義経の捜索に没頭していた。兼実も頼盛の死を日記に記すことはなく、その死は周囲から忘れ去られたひっそりとしたものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 鎌倉幕府の御家人 [[池氏 ]]===&lt;br /&gt;
平頼盛の子孫は鎌倉幕府に仕え御家人となった。頼盛および頼盛の子孫は「池」を名字とした。頼盛の後は光盛 - 為度 - 宗度 - 顕盛と継承された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[池顕盛]]の猶子に[[朽木経氏]]がおり、経氏も池氏の所領の一部を継承した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
『平家物語』語り本系や『[[源平盛衰記]]』では、頼盛は一門の都落ちに同行しながら、頼朝の情けにすがり一門を見捨てた脱落者としての印象が強い。『平家物語』の古態とされる「延慶本」では、「行幸ニハヲクレヌ」とあり、宗盛らとは最初から別行動をとっている。『愚管抄』でも、頼盛が都落ちを知らされていなかったと記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに残留の理由についても、「延慶本」では頼盛が所有していた名刀「抜丸」の相伝を巡る宗盛との確執など、一門内での対立が原因とされる。『吉記』では「'''就中件卿、故入道相国之時度々雖有不快事'''」（寿永2年7月28日条）と記され、当時の記録を見る限りでは頼盛が平氏一門を離脱したことを非難する声はなく、むしろ当然の行動と見られていたことがうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『平家物語』では平氏の滅亡が劇的に綴られたため、生き残った頼盛は離反者としての側面が強調された。『吾妻鏡』では頼盛の名が出る9例中、8例までが頼朝との関連で言及されているので（頼盛単独では、治承4年5月16日条の以仁王の子を連行した記事のみ）、頼朝の恩情を語るための素材になっている感がある。このため、頼盛自身の心情をうかがい知ることはできず、実際の頼盛の姿を把握することは困難となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼盛には平氏一門、院近臣、親鎌倉派という複数の顔があり、どの陣営からもそれなりの厚遇を受けていた。しかし、その待遇にはどこか距離があり、頼盛はどの陣営にも居場所を得ることのできない異分子であり続けた。頼盛の系統は光盛が従二位となるが衰退し、やがて姿を消すことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
*[[久安]]2年（[[1146年]]）（14歳）&lt;br /&gt;
:4月11日:皇后宮権少進&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*久安3年（[[1147年]]）（15歳）&lt;br /&gt;
:8月23日:[[蔵人]]に補任&lt;br /&gt;
:10月14日:従五位下&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*久安5年（[[1149年]]）（17歳）&lt;br /&gt;
:6月4日:[[常陸国|常陸介]]&lt;br /&gt;
:6月12日:従五位上&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[仁平]]3年 （[[1153年]]）（21歳）&lt;br /&gt;
:正月5日:正五位下&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*久寿3年のち改元して[[保元]]元年（[[1156年]]）（24歳）&lt;br /&gt;
:閏9月22日:安芸守&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*保元2年（[[1157年]]）（25歳）&lt;br /&gt;
:正月24日:右兵衛佐を兼任&lt;br /&gt;
:10月22日:従四位下（内裏・貞観殿造営の功績）&lt;br /&gt;
:10月27日:中務権大輔&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*保元3年（[[1158年]]）（26歳）&lt;br /&gt;
:8月10日:常陸介（二回目）&lt;br /&gt;
:10月3日:三河守&lt;br /&gt;
:11月26日:従四位上&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*保元4年のち改元して[[平治]]元年（[[1159年]]）（27歳）&lt;br /&gt;
:12月27日:尾張守&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*永暦2年のち改元して応保元年（[[1161年]]）（29歳）&lt;br /&gt;
:2月28日:正四位下&lt;br /&gt;
:4月7日:太皇太后宮亮&lt;br /&gt;
:10月29日:右馬頭。中務権大輔・太皇太后宮亮・尾張守如元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[応保]]2年（[[1162年]]）（30歳）&lt;br /&gt;
:4月7日:内蔵頭。右馬頭・太皇太后宮亮・尾張守如元&lt;br /&gt;
:7月17日:修理大夫。太皇太后宮亮・尾張守如元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*応保3年のち改元して長寛元年（[[1163年]]）（31歳）&lt;br /&gt;
:正月24日:尾張守を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[永万]]2年のち改元して仁安元年（[[1166年]]）（34歳）&lt;br /&gt;
:7月15日:[[大宰府|大宰大弐]]&lt;br /&gt;
:8月27日:従三位。修理大夫・大宰大弐両官如元&lt;br /&gt;
:10月21日:[[皇太后宮権大夫]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*仁安2年（[[1167年]]）（35歳）&lt;br /&gt;
:正月28日:正三位&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*仁安3年（[[1168年]]）（36歳）&lt;br /&gt;
:3月11日:皇太后宮権大夫を辞任（藤原呈子、院号宣下のため）&lt;br /&gt;
:7月3日:右兵衛督&lt;br /&gt;
:10月18日:[[参議]]。右兵衛督・大宰大弐如元&lt;br /&gt;
:11月28日:解官&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*仁安4年のち改元して嘉応元年（[[1169年]]）（37歳）&lt;br /&gt;
:12月30日:参議に還任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[嘉応]]2年（[[1170年]]）（38歳）&lt;br /&gt;
:正月18日:尾張権守を兼任&lt;br /&gt;
:7月26日:右兵衛督&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[承安 (日本)|承安]]5年のち改元して安元元年（[[1175年]]）（43歳）&lt;br /&gt;
:正月22日:遠江権守を兼任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[安元]]2年（[[1176年]]）（44歳）&lt;br /&gt;
:12月5日:[[中納言|権中納言]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[治承]]3年（[[1179年]]）（47歳）&lt;br /&gt;
:正月19日:左兵衛督&lt;br /&gt;
:10月19日:右衛門督&lt;br /&gt;
:11月17日:解官（右衛門督）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承4年（[[1180年]]）（48歳）&lt;br /&gt;
:正月23日:出仕を許される&lt;br /&gt;
:4月21日:従二位&lt;br /&gt;
:6月4日:正二位&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*養和2年のち改元して寿永元年（[[1182年]]）（50歳）&lt;br /&gt;
:3月8日:陸奥出羽按察使&lt;br /&gt;
:10月3日:中納言&lt;br /&gt;
:10月7日:陸奥出羽按察使如元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[寿永]]2年（[[1183年]]）（51歳）&lt;br /&gt;
:4月5日:[[大納言|権大納言]]&lt;br /&gt;
:4月9日:陸奥出羽按察使如元&lt;br /&gt;
:8月6日:解官&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*寿永3年のち改元して元暦元年（[[1184年]]）（52歳）&lt;br /&gt;
:6月5日:権大納言に還任&lt;br /&gt;
:12月20日:権大納言を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[元暦]]2年のち改元して文治元年（[[1185年]]）（53歳）&lt;br /&gt;
:5月29日:出家&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*[[角田文衛]] 『平家後抄（上）』朝日新聞社〈朝日選書〉、1981年。&lt;br /&gt;
*安田元久 『平家の群像』塙書房〈塙新書〉、1967年。&lt;br /&gt;
*多賀宗隼 「平家物語と平頼盛一家」『国語と国文学』48-9、1971年。&lt;br /&gt;
*鈴木彰　 「頼盛形象を規定するもの」『国文学研究』131、2000年。&lt;br /&gt;
*田中大喜 「平頼盛小考」『学習院史学』41、2003年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[親不知]]&lt;br /&gt;
*[[池氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の よりもり}} &lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|よりもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:平家|よりもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:池氏|よりもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1133年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1186年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E6%95%A6%E7%9B%9B&amp;diff=42347</id>
		<title>平敦盛</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 敦盛'''（たいら の あつもり）は、平安時代末期の武将。平清盛の弟である平経盛の末子。位階は[[従五位|従五...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 敦盛'''（たいら の あつもり）は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。[[平清盛]]の弟である[[平経盛]]の末子。[[位階]]は[[従五位|従五位下]]。[[官職]]にはついておらず、'''無官大夫'''と称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
笛の名手であり、祖父[[平忠盛]]が[[鳥羽天皇|鳥羽院]]より賜った『小枝』（または『青葉』）&amp;lt;ref&amp;gt;『平家物語』では『小枝』（さえだ）という横笛。謡曲では『若葉の笛』という。&amp;lt;/ref&amp;gt;という笛を譲り受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[伊勢平氏|平家一門]]として17歳&amp;lt;ref&amp;gt;『[[源平盛衰記]]』では16歳。&amp;lt;/ref&amp;gt;で[[一ノ谷の戦い]]に参加。[[源氏]]側の奇襲を受け、[[平氏]]側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた[[熊谷直実|熊谷次郎直実]]が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子[[熊谷直家|直家]]と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った&amp;lt;ref&amp;gt;覚一本『[[平家物語]]』「敦盛最期」&amp;lt;/ref&amp;gt;。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」では、直実が敦盛の笛（または[[篳篥]]）を[[屋島]]にいる敦盛の父[[平経盛|経盛]]の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[淡路島]]煙島に敦盛の史跡がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この『平家物語』の名場面は、のちに[[能]]『[[敦盛 (能)|敦盛]]』、[[幸若舞]]『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』、[[謡曲]]『[[敦盛 (謡曲)|敦盛]]』、[[歌舞伎]]『一谷嫩軍記』などの題材となった。[[織田信長]]の好んだ歌『''人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか''』は幸若舞の『[[敦盛 (幸若舞)|敦盛]]』の一節である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝承 ==&lt;br /&gt;
[[広島県]][[庄原市]]には古くから「敦盛さん」という[[民謡]]（市の無形民俗[[文化財]]）が伝わっている。それによると敦盛の室（玉織姫、庄原では「姫御さん」と呼ばれる）が、敦盛は生きているとの言い伝えを頼りに各地を巡り歩き、庄原に至ってそこに住んだ、という。庄原市春田にはその玉織姫の墓といわれるものが残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どのような経緯で伝承が生まれたのかは定かではなく、全国各地に見られる[[平家の落人]]伝説の一種と見られる。しかし敦盛を討ったとされる熊谷直実は[[安芸国]]に所領を与えられており、また[[熊谷氏]]は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に至るまで安芸に土着していることから、その点と何らかの関係がある可能性も考えられる{{要出典}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
直実は[[建久]]元年（[[1190年]]）[[法然]]の勧めにより、高野山で敦盛の七回忌法要&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yukokuji.com/mt_annai/2006/04/1190_1.html 熊谷寺案内：建久元年（1190年）「敦盛卿菩提供養の為、高野山に入る」]&amp;lt;/ref&amp;gt;を行っている。また[http://www.town.ogano.lg.jp/menyu/kankou/kankou/o_kabuki/itinotani.html 一谷嫩軍記熊谷陣屋]では、実は敦盛は後白河院のご落胤で、直実はそれを知っていて、自分の息子小次郎の首を刎ねたという記述となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
* 杉本圭三郎 『平家物語（九）』 講談社学術文庫、1988年 ISBN 4-06-158359-X&lt;br /&gt;
* 児玉幸多編 『日本史年表・地図』 吉川弘文館、1995年 ISBN 4-642-07840-1&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[アツモリソウ]]&lt;br /&gt;
* [[須磨寺]]&lt;br /&gt;
* [[須磨浦公園]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; テレビドラマ&lt;br /&gt;
* 『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ) |新・平家物語]]』（演：[[中村勘三郎 (18代目) |中村勘九郎]]）&lt;br /&gt;
; ゲーム&lt;br /&gt;
* 『[[遙かなる時空の中で3]]シリーズ』（[[コーエー]] 声:[[保志総一朗]]）&lt;br /&gt;
** 『遙かなる時空の中で3』（PS2 2004年）&lt;br /&gt;
** 『遙かなる時空の中で3十六夜記』（[[コーエー]] PS2 2005年）&lt;br /&gt;
** 『遙かなる時空の中で3運命の迷宮』（[[コーエー]] PS2 2006年）&lt;br /&gt;
* 『[[義経英雄伝]]』（[[フロム·ソフトウェア]] PS2 2005年）&lt;br /&gt;
* 『[[義経英雄伝修羅]]』（[[フロム·ソフトウェア]] PS2 2005年）&lt;br /&gt;
* 『[[GENJI-神威奏乱-]]』（[[SCEI]] PS3 2006年）&lt;br /&gt;
* 『[[少女義経伝]]』（[[ウェルメイド]] PS2 2003年 声:[[平田宏美]]）&lt;br /&gt;
* 『[[少女義経伝・弐～刻を越える契り～]]』（[[ウェルメイド]] PS2 2003年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://nohmask.exblog.jp/i18 能面 長澤重春能面集：十六]&lt;br /&gt;
* [http://www.1134.com/min-you/02/k4001.shtml 日本の民謡 曲目解説＜中国地方＞]&lt;br /&gt;
* [http://j-texts.com/sheet/seisuik.html 古谷知新校訂『源平盛衰記』国民文庫、明治43年2月13日発行]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の あつもり}}&lt;br /&gt;
[[Category:平家|あつもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:1169年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1184年没]]&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Taira no Atsumori]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E7%B5%8C%E7%9B%9B&amp;diff=42346</id>
		<title>平経盛</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 経盛'''（たいら の つねもり、天治元年（1124年） - 文治元年3月24日（1185年4月25日））は、[[平...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 経盛'''（たいら の つねもり、[[天治]]元年（[[1124年]]） - [[文治]]元年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]（[[1185年]][[4月25日]]））は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。[[平忠盛]]の三男。[[平清盛]]の異母弟。母は[[陸奥守]][[源信雅]]の女。子に[[平経正|経正]]・[[平経俊|経俊]]・[[平敦盛|敦盛]]らがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
兄弟達と同様、兄の清盛に従い[[保元の乱|保元]]・[[平治の乱]]に参戦。平治の乱では[[仁和寺]]に逃げ込んだ首謀者の[[藤原信頼]]の逮捕などに当たっている。しかし、官位の昇進は当初より異母弟の[[平教盛|教盛]]・[[平頼盛|頼盛]]に比べて遅れており、生涯を通じて目立った政治的活動を行うことはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その反面、父忠盛から歌人としての側面を受け継ぎ、歌壇での活動は活発であった。[[守覚法親王]]の仁和寺歌会や[[二条天皇]]の内裏歌会などに出席し、自らも歌合を催している。太皇太后・[[藤原多子]]の職事を長年に渡って務めた関係から、歌壇の中心である[[徳大寺家]]の[[徳大寺実定|実定]]・[[藤原実家|実家]]（多子の兄弟）、女流歌人・[[小侍従]]（多子の女房）、[[六条藤家]]の[[藤原清輔]]（太皇太后宮職における上司）・[[藤原重家 (刑部卿)|重家]]兄弟と親密な交流があった。『[[千載集]]』に[[よみ人知らず]]として1首入首が確認されるほか（名を呈しては『[[新勅撰和歌集]]』以下）、[[勅撰集]]に12首が入集。[[家集]]として『経盛集』がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[元暦]]2年（[[1185年]]）3月、[[壇ノ浦の戦い]]に敗れ、弟の教盛とともに入水して果てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
*[[久安]]6年（[[1150年]]）（27歳）&lt;br /&gt;
:6月25日:従五位下&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[久寿]]3年のち改元して[[保元]]元年（[[1156年]]）（33歳）&lt;br /&gt;
:9月17日:安芸守&lt;br /&gt;
:閏9月22日:常陸介&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*保元2年（[[1157年]]）（34歳）&lt;br /&gt;
:10月22日:従五位上（淑景舎の造営）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*保元3年（[[1158年]]）（35歳）&lt;br /&gt;
:8月10日:常陸介を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*保元4年のち改元して[[平治]]元年（[[1159年]]）（36歳）&lt;br /&gt;
:12月27日:伊賀守（平治の乱の勲功）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*平治2年のち改元して[[永暦]]元年（[[1160年]]）（37歳）&lt;br /&gt;
:4月3日:正五位下（皇嘉門院御給）&lt;br /&gt;
:4月7日:太皇太后宮権大進兼任&lt;br /&gt;
:8月14日:従四位下（上西門院御給）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*永暦2年のち改元して[[応保]]元年（[[1161年]]）（38歳）&lt;br /&gt;
:9月15日:左馬権頭（教盛解官の後任）&lt;br /&gt;
:10月8日:従四位上&lt;br /&gt;
:10月19日:若狭守。左馬権頭如元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*応保2年（[[1162年]]）（39歳）&lt;br /&gt;
:7月17日:太皇太后宮亮。左馬権頭・若狭守如元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*応保3年のち改元して[[長寛]]元年（[[1163年]]）（40歳）&lt;br /&gt;
:12月20日:正四位下&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*長寛3年のち改元して[[永万]]元年（[[1165年]]）（42歳）&lt;br /&gt;
:12月21日:左馬権頭を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*永万2年のち改元して[[仁安 (日本)|仁安]]元年（[[1166年]]）（43歳）&lt;br /&gt;
:正月12日:若狭守重任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*仁安3年（[[1168年]]）（45歳）&lt;br /&gt;
:8月12日:内蔵頭。太皇太后宮亮・若狭守如元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[嘉応]]2年（[[1170年]]）（47歳）&lt;br /&gt;
:正月18日:若狭守を辞任&lt;br /&gt;
:12月30日:従三位&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*嘉応3年のち改元して[[承安 (日本)|承安]]元年（[[1171年]]）（48歳）&lt;br /&gt;
:正月18日:讃岐権守兼任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*承安5年のち改元して[[安元]]元年（[[1175年]]）（52歳）&lt;br /&gt;
:讃岐権守を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*安元2年（[[1176年]]）（53歳）&lt;br /&gt;
:2月5日:太皇太后宮亮を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*安元3年のち改元して[[治承]]元年（[[1177年]]）（54歳）&lt;br /&gt;
:正月24日:正三位&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承2年（[[1178年]]）（55歳）&lt;br /&gt;
:正月28日:太皇太后宮権大夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承3年（[[1179年]]）（56歳）&lt;br /&gt;
:11月17日:修理大夫兼任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承5年のち改元して[[養和]]元年（[[1181年]]）（58歳）&lt;br /&gt;
:12月4日:参議に補任。修理大夫・太皇太后宮権大夫如元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*養和2年のち改元して[[寿永]]元年（[[1182年]]）（59歳）&lt;br /&gt;
:3月8日:備中権守兼任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*寿永2年（[[1183年]]）（60歳）&lt;br /&gt;
:8月6日:解官&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の つねもり}} &lt;br /&gt;
[[category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[category:平氏|つねもり]]&lt;br /&gt;
[[category:平家|つねもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1124年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1185年没]]&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E8%B3%87%E7%9B%9B&amp;diff=42345</id>
		<title>平資盛</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 資盛'''（たいら の すけもり）は、[[平安時代]]末期の武将。[[平重盛]]の次男、母は藤原親盛の娘。[[位階]]は[[従三位]]まで昇叙。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[和歌]]に優れ「[[新勅撰和歌集]]」「[[風雅和歌集]]」に名を残している。叔母である[[平徳子|建礼門院]]に仕える優れた歌人の[[建礼門院右京大夫]]と恋仲であった。平氏一門の全盛期に、当時13歳（もしくは10歳）&amp;lt;ref&amp;gt;『平家物語』では13歳、『職事補任』によると10歳。&amp;lt;/ref&amp;gt;の資盛が関わった[[殿下乗合事件]]は、『[[平家物語]]』に「これこそ、平家の悪行のはじまり」として描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[嘉応]]2年（[[1170年]]）7月3日、[[摂政]]・[[松殿基房]]の車と行き違った時に下馬の礼をとらなかったため、基房の家来と乱闘騒ぎを起こして資盛は恥辱を受けて逃げ帰った。これを知った父・[[平重盛|重盛]]が基房に対して徹底的な報復を行っている（[[殿下乗合事件]]&amp;lt;ref&amp;gt;なお『[[平家物語]]』においては報復を行ったのは祖父の[[平清盛|清盛]]となっているが、これは清盛を悪役、重盛を平氏一門の良識派として描写する『平家物語』の演出の都合上の創作と言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;）。この時の[[九条兼実]]の[[日記]]『[[玉葉]]』には資盛を「嫡男」と記されており、また同年12月以前においては異母兄であるとされている[[平維盛|維盛]]よりも官位で上回っていた事から当初は重盛の嫡男として扱われていたと見られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[治承]]4年（[[1180年]]）年5月の[[以仁王]]の挙兵に際して、叔父の[[平知盛|知盛]]、[[平重衡|重衡]]、兄の維盛らと出陣し、[[源頼政]]と[[平等院|宇治平等院]]で戦いこれを滅ぼした。同年12月、知盛とともに[[近江国]]へ出陣して[[山本義経]]を破る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 一門都落ち ===&lt;br /&gt;
[[寿永]]2年（[[1183年]]）7月、平氏は[[源義仲]]に敗れ都落ちを余儀なくされる。『[[愚管抄]]』によれば、このときに資盛は寵愛されていた[[後白河法皇]]に都に残る許しを求めて拒絶されている。『平家物語』の「太宰府落」で資盛は元重盛の家人であった[[豊後国]]の[[緒方惟義]]の説得工作に向かって追い返されているが、『玉葉』の寿永3年2月19日条に資盛と[[平貞能]]が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
寿永3年（[[1184年]]）正月、一時勢力を回復した平氏は[[摂津国]]・[[福原京|福原]]まで進出。正月末に義仲を滅ぼした[[源頼朝]]の代官[[源範頼]]・[[源義経]]の軍勢が平氏追討に向かう。資盛は弟の[[平有盛|有盛]]、[[平師盛|師盛]]らと[[播磨国]]三草山に陣を置くが[[源義経]]の夜襲を受け、[[讃岐国]]・[[屋島]]へ敗走した（[[三草山の戦い]]）。その直後の2月7日、[[一ノ谷の戦い]]で平氏は一門の多くを失う致命的な大敗を喫する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年3月、一ノ谷の合戦前後に戦線を離脱した兄の維盛が那智の沖で入水自殺する。この知らせを受けた資盛は大いに嘆き悲しんだ。すでに弟の[[平清経|清経]]が[[豊後国]]で入水自殺しており、一ノ谷では14歳の師盛が討ち死にしている。末弟の[[平忠房|忠房]]は維盛の戦線離脱の際に同行していたと見られる。清経と維盛の入水を知った建礼門院右京大夫から慰める手紙を受け取った資盛は、「今はただ自分の命も今日明日の事なので、ものを思う事をやめようという心境です」と返事を送り、兄弟の死について''「あるほどが　あるにもあらぬ　うちになほ　かく憂きことを　見るぞかなしき」''（生きていることが生きていることにもならない、この世のうちにあって、その上こんなつらい目にあうのは悲しいことです）と詠んでいる。これが右京大夫への最後の便りとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年12月、資盛は[[備前国]]児島で[[源範頼]]と戦い敗北（[[藤戸の戦い]]）。[[元暦]]2年（[[1185年]]）3月24日、平氏は[[壇ノ浦の戦い]]で敗れ、滅亡に至った。平氏西走の道中、兄弟が次々と脱落していった中で最後まで一門として踏みとどまった資盛は、一人残った弟の有盛と従弟の[[平行盛|行盛]]とともに壇ノ浦の急流に身を投じて自害した。享年25。（もしくは28）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
資盛の死を悲しんだ建礼門院右京大夫は供養の旅に出た。彼女の作品『[[建礼門院右京大夫集]]』には彼女と資盛が交わした歌が多く残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝承 ==&lt;br /&gt;
[[奄美諸島]]には資盛がこの島まで落ち延びたという伝説が残っており、行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られている。資盛がもたらしたと言われている重要無形民族文化財に指定されている「諸鈍シバヤ」などの風習も残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[信長]]を輩出した[[織田氏]]は資盛の末裔を自称している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遺言 ==&lt;br /&gt;
平氏一門の都落ち直前、密かに[[建礼門院右京大夫]]と会っていた資盛は、日頃からの口癖として彼女に以下のような事を言い残している。この頃の資盛は心の余裕のない様子だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「こういう世の中になったからには、自分の身が儚くなるであろう事は間違いないだろう。そうなったら、あなたは少しくらいは不憫に思ってくれるだろうか。たとえ何とも思わなくても、あなたと親しくなって長いつきあいだから、その情けで、後世を弔ってほしい。もし、命が今しばらくあったとしても、今はいっさい昔の身とは思わないと心に堅く決めている。そのわけは、それが不憫であるとか、名残が惜しい、あの人の事が気がかりなどと考え始めたら、思うだけでもきりがないであろうから。心弱さもどのようであるかと我ながら自信がないから、今後は何事も思い捨てて、どこの海にあってもあなたのところへ手紙を出したりするまいと決心しているので、おろそかに思って便りもしないとは思わないで下さい。万事、もう今から死んだと同じの身になったと心を決めたはずなのに、やはりともすれば以前の気持ちになってしまいそうなのが、とても口惜しい。」（参考文献：『建礼門院右京大夫集』新潮日本古典集成）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
*[[永万]]2年のち改元して[[仁安 (日本)|仁安]]元年（[[1166年]]）&lt;br /&gt;
:11月21日:従五位下&lt;br /&gt;
:12月30日:越前守&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*仁安4年のち改元して[[嘉応]]元年（[[1169年]]）&lt;br /&gt;
:正月5日:従五位上（皇太后・平滋子御給）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*嘉応3年のち改元して[[承安 (日本)|承安]]元年（[[1171年]]）&lt;br /&gt;
:4月7日:越前守重任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*承安4年（[[1174年]]）&lt;br /&gt;
:12月4日:侍従兼任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*承安5年のち改元して[[安元]]元年（[[1175年]]）&lt;br /&gt;
:正月22日:越前守得替&lt;br /&gt;
:12月8日:正五位下&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[治承]]2年（[[1178年]]）&lt;br /&gt;
:12月24日:右近衛権少将。侍従を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承3年（[[1179年]]）&lt;br /&gt;
:正月2日:従四位下（上西門院御給）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承4年（[[1180年]]）&lt;br /&gt;
:4月8日:従四位上（高倉上皇の福原御幸）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承5年のち改元して[[養和]]元年（[[1181年]]）&lt;br /&gt;
:5月26日:正四位下（上西門院御給）&lt;br /&gt;
:10月12日:右近衛権少将を辞任&lt;br /&gt;
:10月29日:右近衛権中将&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[寿永]]2年（[[1183年]]）&lt;br /&gt;
:正月22日:蔵人頭&lt;br /&gt;
:7月3日:従三位。右近衛権中将如元&lt;br /&gt;
:8月6日:解官&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[伊勢平氏]]&lt;br /&gt;
*[[建礼門院右京大夫]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の すけもり}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|すけもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:平家|すけもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1161年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1185年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平維盛</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 維盛'''（たいら の これもり）は、平安時代末期の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男&amp;lt;ref&amp;gt;重盛の嫡男は維盛と...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 維盛'''（たいら の これもり）は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。[[平清盛]]の嫡孫で、[[平重盛]]の嫡男&amp;lt;ref&amp;gt;重盛の嫡男は維盛とされているが、母親が不詳である事、[[嘉応]]2年（[[1170年]]）7月の[[殿下乗合事件]]を記した[[九条兼実]]の[[日記]]『[[玉葉]]』には重盛の嫡男を弟の資盛であると明記されている事、更に維盛の従五位下叙任が[[仁安_(日本)|仁安]]2年（[[1167年]]）であるのに対して、年下である筈の資盛の従五位下叙任はその前年である事から、維盛は元々重盛の[[庶長子]]で後に嫡男として立てられたと見られている。なお、維盛立嫡の時期については『玉葉』の記事のある嘉応2年7月から、維盛が資盛の官位を追い抜いた同年12月の間の時期に行われたと推定されている。（参考文献：高橋秀樹『日本中世の家と親族』吉川弘文館、1996年） ISBN 4642027513&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には[[光源氏]]の再来と称された。[[治承・寿永の乱]]において大将軍として出陣するが、武将としての力量はなく、[[富士川の戦い]]・[[倶利伽羅峠の戦い]]の二大決戦で壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 青海波 ===&lt;br /&gt;
[[安元]]2年（[[1176年]]）3月4日、19歳の時に[[後白河法皇]]50歳の祝賀で、烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して｢[[青海波]]｣を舞い、その美しさから桜梅少将と呼ばれる。青海波の様子は『[[玉葉]]』や『[[安元御賀日記]]』などにも詳細に記されており、臨席した[[藤原隆房]]はその様子を''「維盛少将出でて落蹲（らくそん）入綾をまふ、青色のうえのきぬ、すほうのうへの袴にはへたる顔の色、おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、かざしの桜にぞことならぬ」''と書いている。また『[[建礼門院右京大夫集]]』ではその姿を[[光源氏]]にたとえている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[治承]]3年（1179年）7月、[[平清盛|清盛]]の後継者と目されていた父・[[平重盛|重盛]]が病死し、叔父の[[平宗盛|宗盛]]が平氏の棟梁となると、維盛ら重盛の息子達は平氏一門で微妙な立場となる。維盛の妻が[[鹿ヶ谷の陰謀]]で殺害された[[藤原成親]]の娘である事も、維盛の立場を苦しいものにしていた&amp;lt;ref&amp;gt;鹿ケ谷の陰謀で自らもその妹を娶っていた藤原成親が処刑されたことで自らの後継者としての地位が揺らぐ中で重盛は死去している。そうした中で重盛の死後に後白河法皇が重盛の知行国[[越前国]]を没収したことは、重盛の遺児である維盛らの生活基盤を脅かすものであり、重盛家の離反回避に努めていた清盛を強く刺激した。一知行国に過ぎない越前国を巡る対立が[[治承3年の政変]]による後白河法皇幽閉にまで発展した背景には、清盛と重盛及びその子供達との微妙な関係が背景にあったと考えられている。（参考文献：河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年） ISBN 4642028633&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 富士川の戦い ===&lt;br /&gt;
治承4年（[[1180年]]）9月5日、[[源頼朝]]の挙兵に際し、頼朝追討軍の総大将となる。出発しようとする維盛と日が悪いので忌むべきだという侍大将の[[藤原忠清|上総介忠清]]で内輪もめとなり、結局出発は月末まで遅れた。出陣する23歳の大将維盛の武者姿は、絵にも描けぬ美しさだったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東海道を下る追討軍は、出発が伸びている間に各地の源氏が次々と兵を挙げ、進軍している情報が広まっていたために兵員が思うように集まらず、夏の凶作で糧食の調達もままならなかった。何とか兵員を増やしながら[[駿河国]]に到着、追討軍の到着を待って[[甲斐源氏]]（武田軍）討伐に向かった平氏側の駿河国[[目代]]は、富士川の麓で武田軍と合戦となり惨敗する。10月17日[[富士川の戦い]]の前日、当時の戦闘の作法として武田軍が維盛の陣に送ってきた書状の「かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」という不敵な内容に忠清が激怒し、兵法に反して使者2人の首を斬った（『[[山槐記]]』『[[玉葉]]』『[[吉記]]』）。10月18日、富士川を挟んで武田軍と向き合う平氏軍は『[[平家物語]]』では7万の大軍となっているが、実際には4千騎程度で、逃亡や休息中に敵軍へ投降するなど残兵は千～2千騎ほどになっていた。鎌倉の頼朝も大軍を率いて向かっており、もはや平氏軍に勝ち目はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
維盛は引き退くつもりはなかったが、忠清は再三撤退を主張、もはや士気を失っている兵達もそれに賛同しており、維盛は撤退を余儀なくされる。富士川の陣から撤収の命が出た夜、富士沼に集まっていた数万羽の水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音を敵の夜襲と勘違いした平氏の軍勢はあわてふためき総崩れとなって敗走する。（ただし、羽音によって源氏方の[[武田氏|武田軍]]の夜襲を察知して一時撤退を計ろうとしたところ、不意の命令に混乱して壊走したという説もある）11月、維盛はわずか10騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰った。（『山槐記』『玉葉』など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祖父・[[平清盛|清盛]]は維盛の醜態に激怒し、なぜ敵に骸を晒してでも戦わなかったのか、おめおめと逃げ帰ってきたのは家の恥であるとして維盛が京に入る事を禁じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[養和]]元年（[[1181年]]）[[閏]]2月、清盛が病没する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年3月、[[尾張国]]墨俣川に[[平重衡]]、[[平忠度|忠度]]と共に[[源行家]]を破り、従二位右中将・蔵人頭となり小松中将と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 倶利伽羅峠の戦いと都落ち ===&lt;br /&gt;
[[寿永]]2年（[[1183年]]）4月、維盛を総大将として[[源義仲|木曾義仲]]追討軍が逐次出発し、平氏の総力を結集した総勢10万（4万とも）の軍勢が北陸に向かう。5月、[[倶利伽羅峠の戦い]]で義仲軍に大敗。『玉葉』によると、4万の平氏軍で甲冑を付けていたのは4,5騎で平氏軍の過半数が死亡、残りは物具を捨てて山林に逃げたが討ち取られた。平氏第一の勇士であった侍大将の盛俊、景家、忠清らは一人の供もなく逃げ去った。敵軍はわずかに5千、かの三人の侍大将と大将軍（維盛）らで権威を争っている間に敗北に及んだという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年7月、平氏は都を落ちて西走する。『平家物語』の「一門都落ち」では、嫡男[[平高清|六代]]を都に残し、妻子との名残を惜しんで遅れた維盛とその弟たち重盛系一族の変心を、[[平宗盛|宗盛]]や[[平知盛|知盛]]が疑うような場面がある。[[寿永]]3年（[[1184年]]）2月、維盛は[[一ノ谷の戦い]]前後、密かに陣中から逃亡する。『玉葉』によると、30艘ばかりを率いて南海に向かったという。のちに[[高野山]]に入って出家し、[[熊野三山]]を参詣して3月末、船で那智の沖の[[紀の松島|山成島]]に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして入水自殺した（『平家物語』）。享年27。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
維盛入水の噂は都にも届き、親交のあった[[建礼門院右京大夫]]はその死を悼み、''「春の花色によそへし面影のむなしき波のしたにくちぬる」「悲しくもかゝるうきめをみ熊野の浦わの波に身を沈めける」''と詠んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[源平盛衰記]]』に記された『禅中記』の異説によれば、維盛は入水ではなく、熊野に参詣したのち都に上って法皇に助命を乞い、法皇が頼朝に伝えたところ、頼朝が維盛の関東下向を望んだので、鎌倉へ下向する途中に相模国の湯下宿で病没したという。『[[吉記]]』の寿永3年（1184年）4月の条に、維盛の弟[[平忠房|忠房]]が密かに関東へ下向し、許されて帰洛するという風聞が記されている。忠房は同記に翌年斬首されることが書かれており、矛盾するので前者の忠房は維盛の誤りとみられる。維盛は寿永3年2月、[[一ノ谷の合戦]]前後に屋島を脱走して4月ごろ相模で病死したとも考えられる。（参考文献：[[上横手雅敬]]『源平争乱と平家物語』角川選書）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝承 ==&lt;br /&gt;
維盛が入水したというのは頼朝の残党狩りから逃れる為の流言で、実際は[[平家の落人]]として紀伊国色川郷に落ち延び盛広・盛安の男子をもうけ、盛広は清水を名乗り、盛安は水口を名乗って[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の色川氏の祖となったと言う説がある。また、[[おもろさうし]]の「雨降るなかに大和の兵団が[[運天港]]に上陸した」という記述も記録等を元に維盛一行のことを指しているのではないかとされることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
紀州にて入水したと見せかけて、なる伝承は静岡県富士郡[[芝川町]]にも伝わり、同地には平維盛のものとされる墓が伝わる。現在のものは墓は天保11年（1840年）の再建。同町[[柚野]]（ゆの）の棚田に墓が建っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
*[[仁安 (日本)|仁安]]2年（[[1167年]]）&lt;br /&gt;
:2月7日:従五位下（東宮・憲仁親王御給）。美濃権守&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*仁安4年のち改元して[[嘉応]]元年（[[1169年]]）&lt;br /&gt;
:正月5日:従五位上&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*嘉応2年（[[1170年]]）&lt;br /&gt;
:12月30日:右近衛権少将&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*嘉応3年のち改元して[[承安 (日本)|承安]]元年（[[1171年]]）&lt;br /&gt;
:正月18日:丹波権介兼任&lt;br /&gt;
:4月7日:正五位下&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*承安2年（[[1172年]]）&lt;br /&gt;
:2月10日:中宮権亮（中宮・平徳子）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*承安3年（[[1173年]]）&lt;br /&gt;
:3月9日:従四位下&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[安元]]2年（[[1176年]]）&lt;br /&gt;
:正月30日:伊予権介兼任&lt;br /&gt;
:12月5日:従四位上&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[治承]]2年（[[1178年]]）&lt;br /&gt;
:12月15日:春宮権亮（東宮・言仁親王）。中宮権亮を辞任&lt;br /&gt;
:12月28日:正四位下&lt;br /&gt;
:禁色勅許&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承4年（[[1180年]]）&lt;br /&gt;
:2月21日:春宮権亮を辞任（安徳天皇践祚）&lt;br /&gt;
:4月27日:昇殿&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承5年のち改元して[[養和]]元年（[[1181年]]）&lt;br /&gt;
:6月10日:右近衛権中将。蔵人頭&lt;br /&gt;
:12月4日:従三位。右近衛権中将如元&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*養和2年のち改元して[[寿永]]元年（[[1182年]]）&lt;br /&gt;
:3月8日:伊予権守兼任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*寿永2年（[[1183年]]）&lt;br /&gt;
:8月6日:解官&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[伊勢平氏]]&lt;br /&gt;
*[[平家物語]]&lt;br /&gt;
*[[源平盛衰記]]&lt;br /&gt;
*[[高野山]]&lt;br /&gt;
*[[熊野三山]]&lt;br /&gt;
*[[紀の松島]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の これもり}} &lt;br /&gt;
[[category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[category:平氏|これもり]]&lt;br /&gt;
[[category:平家|これもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1158年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1184年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Taira no Koremori]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平滋子</title>
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				<updated>2008-11-19T10:10:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 滋子'''（たいら の しげこ、康治元年（1142年） - 安元2年7月8日（1176年8月14日））は、[[後白河...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 滋子'''（たいら の しげこ、[[康治]]元年（[[1142年]]） - [[安元]]2年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]]（[[1176年]][[8月14日]]））は、[[後白河天皇]]の譲位後の妃。[[高倉天皇]]の生母。[[女御]]、[[皇太后]]、[[女院]]。[[桓武平氏]][[平高棟|高棟]]流、いわゆる[[堂上家|堂上平氏]]の生まれ。父は兵部権大輔・[[平時信]]（贈左大臣）、母は[[中納言]]・[[藤原顕頼]]の娘、祐子（すけこ）。兄弟に[[平時忠|時忠]]・[[平親宗|親宗]]、姉妹に[[平時子|二位尼時子]]（[[平清盛]]の後妻）・冷泉局（建春門院女房）・清子（[[平宗盛|宗盛]]の室）・坊門殿（[[平重盛|重盛]]の室、[[平維盛|維盛]]母の可能性あり）・藤原親隆の室（権少僧都・[[全真]]の母）・帥局（建礼門院女房）がいる。[[院号]]は'''建春門院'''（けんしゅんもんいん）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
康治元年（1142年）に生まれ、[[平正盛]]の娘・政子（若狭局）に養育された。父は[[鳥羽法皇]]の近臣であり、滋子も法皇の娘・[[統子内親王|上西門院]]（後白河上皇の同母姉）に女房として仕えた。兄・時忠の官職が[[右少弁]]であったことから、候名を小弁（こべん）と称した。その美貌と聡明さが後白河の目に留まり、寵愛を受けるようになる。[[応保]]元年（[[1161年]]）4月、院御所・法住寺殿が完成すると滋子は、後白河や皇后・[[藤原忻子|忻子]]と共に入御して「東の御方」と呼ばれるようになる（『[[玉葉]]』）。身分の低さのために女御にはなれなかったが、後白河の寵愛は他の妃とは比較にならなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月3日、滋子は後白河の第七皇子（憲仁）を出産する（『[[山槐記]]』・『帝王編年記』）。後白河は35歳、滋子は20歳だった。この頃、政治の主導権を巡って後白河と[[二条天皇]]は激しく対立していたため、その出生には「'''世上嗷々の説'''（不満・批判）」があったという（『[[百錬抄]]』）。同月には時忠らによる憲仁立太子の陰謀が発覚したため、二条はただちに時忠・[[平教盛|教盛]]・[[藤原成親]]・[[藤原信隆]]らを解官して、後白河の政治介入を停止する措置をとった。翌年、時忠・[[源資賢]]が二条を呪詛した罪で配流される。この事件により、憲仁の立太子のみならず親王宣下さえも絶望的なものとなってしまう。ただ、二条の乳母が滋子の姉・時子であったことが幸いして、滋子自身には直接の圧迫が加えられることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[永万]]元年（[[1165年]]）7月、二条が崩御したことで後白河は政治活動を再開し、12月には念願だった憲仁への親王宣下を行った。翌[[仁安 (日本)|仁安]]元年（[[1166年]]）、[[六条天皇]]を後見していた摂政・[[近衛基実]]が死去すると平清盛を自派に引き入れて、10月10日、憲仁親王の立太子を実現させた。儀式は東三条院にて挙行され、滋子は生母として[[従三位]]に叙せられた。翌年正月には女御となり、家司と職事には教盛・宗盛・[[平知盛|知盛]]・[[平信範|信範]]ら平氏一門が任じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後白河は9月に、滋子を伴って熊野参詣を行った。これは、後白河の母・[[藤原璋子|待賢門院]]が[[白河法皇]]・鳥羽上皇に従って参詣した先例にならったものだった。滋子の熊野参詣はこの時を含めて、記録上で四回確認できる。『[[平家物語]]』には、熊野本宮で滋子が「胡飲酒」を舞っていたところに突然大雨が降ったが、いささかもたじろがず舞を続けたという逸話がある。滋子の信念の強さ、気丈な性格を表したものといえる。滋子は神仏に対する信仰が厚く、特に[[日吉神社]]と[[平野神社]]には頻繁に参詣した。平野神社は平氏の祖・桓武天皇ゆかりの神社であることから、滋子は平氏の繁栄を祈願している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仁安3年（[[1168年]]）2月、後白河は当初の予定通りに六条天皇を退位させ、憲仁親王が践祚した（高倉天皇）。3月14日、後白河は皇太后・[[藤原呈子]]に九条院の院号を与えて空席をつくり、20日、滋子を皇太后とした。皇太后宮大夫には、大納言・[[源雅通]]、権大夫には右近衛中将・宗盛、亮には藤原定隆が補された。6月、高倉は外祖父・平時信に正一位左大臣を、外祖母・藤原祐子に正一位を追贈した。8月、高倉は法住寺殿に行幸し、寝殿において滋子に拝礼した。以前、上西門院に仕えて同僚だった女房に「'''この御めでたさをはいかがおぼしめす'''（このめでたさをどう思われますか）」と尋ねられると、滋子は「'''さきの世の事なれば何とも覚えず'''（前世の善根によるものなので別に何とも思っていない）」と答えたという（『[[古今著聞集]]』巻八）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[嘉応]]元年（[[1169年]]）4月12日、滋子は女院に列せられて建春門院の院号を宣下される&amp;lt;ref&amp;gt;『[[兵範記]]』嘉応元年4月12日条には、院号定の経過が記されている。[[大内裏]]の東南の門が全て使われていたため（禁忌とされる朱雀門を除く）、建春門（[[内裏]]の東門）・安嘉門（大内裏の北門）・殷富門（大内裏の西門）の門号が候補となり、一度使われた陽明門（大内裏の東門）に「新」の字を付けた「'''新陽明門院'''」、御所である法住寺殿にちなんだ「'''七条院'''」という意見も出された。兄の時忠は[[藤原詮子|東三条院]]・[[藤原彰子|上東門院]]が吉例であることから御所号に「東」の字を付けて「'''東七条院'''」、[[藤原隆季]]は同じく東三条院の例を追い、院御領の三条室町殿を滋子の御領に准じて「'''新三条院'''」を提案した。議論の結果、多くの賛同を集めた建春門院が宣下された。内裏の門の名称が女院号に採用された初例である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。院司は[[藤原忠雅|花山院忠雅]]・時忠・宗盛・親宗・[[平時家|時家]]など平氏一門とその縁戚が多く任じられた。特に太政大臣の忠雅が女院別当に補されたのは極めて異例のことだった。一方で、滋子に仕える女房は上西門院からの異動が見られ、家司も後白河の近臣が兼任するなど、三者の家政機関の職員はかなり重複していた。滋子は後白河が不在の折には、除目や政事について奏聞を受けるなど家長の代行機能の役目も果たすことになる。「'''大方の世の政事を始め、はかなき程の事まで御心にまかせぬ事なし'''（政治の上でのどんな些細なことでも女院の思いのままにならないことはなかった）」（『たまきはる』）とまで評された政治的発言力により、自身に近い人々である信範（叔父）、宗盛（猶子）、時忠・親宗（兄弟）の昇進を後押しした（ただし、[[嘉応の強訴]]では時忠・信範が解官、配流されていることから、その発言力も後白河を押さえるほどのものではなかったと思われる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[承安 (日本)|承安]]元年（[[1171年]]）正月、前年の殿下乗合事件により延期されていた高倉天皇元服の儀式が、滋子の前で執り行われた。装束の奉仕は、[[藤原邦綱]]・宗盛・親宗など滋子に近い人々が勤めた。10月、滋子は後白河と共に福原を訪れて、清盛の歓待を受ける。この時に高倉と清盛の娘・[[平徳子|徳子]]の婚姻が合意に達したと推測される。12月14日、徳子が法住寺殿に参上し着裳の儀を挙げ、滋子は徳子の腰細を結んだ。徳子はその晩に入内して女御となり、翌年2月に中宮となった。承安3年（[[1173年]]）4月12日、滋子の就寝していた法住寺・萱御所が火災に遭い、滋子は女房の健寿女（『たまきはる』の作者）や親宗の先導により避難した。今熊野社に参籠中だった後白河は、滋子の身を案じてただちに御所に戻っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月、時忠が責任者となって法住寺殿内に造営していた、滋子御願の御堂・最勝光院が完成した。それは「土木之壮麗、荘厳之華美、天下第一之仏閣也」（『[[明月記]]』嘉禄2年6月5日条）、「今度事、華麗過差、已超先例」（『玉葉』承安3年11月21日条）といわれるほど大規模なものだった。最勝光院には莫大な荘園が寄進されて威信が示される一方、諸国には造営のため重い賦課が課せられたという訴えが相次いだという。承安4年（[[1174年]]）3月16日、滋子は後白河と共に厳島に御幸した。平氏一門からは宗盛・知盛・重衡らが、[[院近臣]]からは源資賢・[[藤原光能]]・[[平康頼]]・[[西光]]などが供奉した。滋子の判官代だった[[吉田経房]]は「前代未聞で希代の事だ」と驚愕している（『[[吉記]]』同日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安元]]2年（[[1176年]]）3月4日から6日にかけて、後白河の50歳の賀のために法住寺殿において盛大な式典が催された。後白河・滋子・高倉・徳子・上西門院・平氏一門・公卿が勢揃いしたこの式典は、平氏の繁栄の絶頂を示すものとなった。儀式の終わった3月9日、後白河と滋子は[[摂津国]]・有馬温泉に御幸する（『百錬抄』）。帰ってまもなくの6月8日、滋子は突然の病に倒れる。病名は二禁（にきみ、腫れ物）だった。後白河は病床で看護や加持に力を尽くすが、病状は悪化する一方だった。23日、高倉は母の見舞いを熱望するが、前大相国が天皇自身の二禁がひどくなると強く反対して押し止めたという（『玉葉』）&amp;lt;ref&amp;gt;この前大相国が、清盛と忠雅のどちらであるかは判然としない。清盛は主に「入道相国」「禅門」と記されているので「前大相国」は忠雅とするのが自然な解釈であるが、発言の内容から清盛の可能性もある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。7月8日、滋子は看護の甲斐もなく35歳の若さでこの世を去った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
滋子の死は政情に大きな波紋を呼び起こした。もともと後白河と清盛は高倉天皇の擁立という点で利害が一致していただけで、平氏一門と院近臣の間には官位の昇進や知行国・荘園の獲得などを巡り、鋭い対立関係が存在した。その衝突を抑止して調整役を果たしていたのが、滋子と堂上平氏だった。高倉天皇即位によって成立した後白河院政は、武門平氏・堂上平氏・院近臣という互いに利害を異にする各勢力の連合政権といえる形態をとっていたため、滋子の死により、今まで隠されていた対立が一気に表面化することになった。滋子の死からわずか一年後に[[鹿ケ谷事件]]が起こり、後白河と清盛の政治同盟は崩壊する。滋子の死は一つの時代の終わりであると同時に、平氏滅亡への序曲ともなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人柄 ==&lt;br /&gt;
滋子の素顔は、[[藤原定家]]の同母姉・健寿女が日記『たまきはる（建春門院中納言日記）』に印象的に書き記している。健寿女が滋子の女房として仕えるようになったのは12歳の頃で、滋子は皇太后になったばかりだった。『たまきはる』には「'''あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか'''（なんと美しい、この世にはこのような人もいらしたのか）」と記されている。滋子の美貌は『[[建礼門院右京大夫集]]』でも、「'''言ふ方なくめでたく、若くもおはします'''（言葉にできぬほど美しく、若々しい）」と絶賛しているので事実と思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
滋子はその美貌を頼むだけでなく、「'''大方の御心掟など、まことにたぐひ少なくやおはしましけん'''（心構えが実に比類なくていらした）」（『たまきはる』）とあるように、万事につけてしっかりとして几帳面な性格で、女房が退屈しないよう気配りを怠らず、いつ後白河や高倉が来ても良いように絶えず威儀を正し、後白河が御所にいる時はいつも同殿して食事を共にとった。その様子は「'''御所の御しつらひ、人々の姿まで、ことにかがやくばかり見えし'''（御所の調度から女房の姿まで、輝くようだった）」（『建礼門院右京大夫集』）と記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
滋子は自戒の意を込めて「'''女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ'''（女は心がけしだいでどうにでもなるもの。親や周囲のせいではない。自分の心をしっかりもって我が身を粗末にしなければ、自然と身に余る幸運もある）」と折に触れて語っていたという（『たまきはる』）。『平家物語』は彼女が嫉妬したために、後白河皇子[[以仁王]]は親王宣下すら受けられず平氏への憎悪を増したと、別の一面を伝えているが、たった一人の子を思う母の気持ちを考えれば無理のないものといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
滋子の一生は短いものだったが、平氏の没落を見なかったことは幸運だったといえる。武門平氏は滅亡するが、皇位は滋子の産んだ高倉天皇の系統に受け継がれ、堂上平氏も「日記の家」として朝廷内に勢力を保った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*[[角田文衞|角田文衛]]「建春門院」古代学協会編『後白河院-動乱期の天皇-』[[吉川弘文館]]所収、1993年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の しけこ}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[category:平氏|しけこ]]&lt;br /&gt;
[[category:平家|しけこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:1142年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1176年没]]&lt;br /&gt;
[[zh:平滋子]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平時子</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 時子'''（たいら の ときこ、[[大治]]元年（[[1126年]]） - [[文治]]元年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]（[[1185年]][[4月25日]]））は、[[平安時代]]末期の女性。[[平清盛]]の[[正室]]（[[継室]]）。[[位階]]は[[従二位]]。'''二位尼'''（にいのあま）と称される。中級貴族の[[平時信]]の娘で、母は二条大宮（[[令子内親王]]）の半物（氏素性は未詳）。[[大納言|権大納言]][[平時忠]]の同母姉、建春門院[[平滋子]]の異母姉。清盛との間に[[平宗盛|宗盛]]、[[平知盛|知盛]]、[[平重衡|重衡]]、[[平徳子|建礼門院徳子]]らを生む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[承安 (日本)|承安]]元年（[[1171年]]）従二位に叙され、清盛亡き後は一門の精神的支柱として重きをなした。[[壇ノ浦の戦い]]で一門が[[源氏]]軍に最終的な敗北を喫した際、外孫に当たる[[安徳天皇]]を抱き、「浪の下にも都の候ぞ」（『[[平家物語]]』）と言い聞かせ、海中に身を投じて自殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『[[吾妻鏡]]』では時子は[[天叢雲剣|宝剣]]を持ち、安徳天皇は[[按察局]]が抱いて入水したとあり、按察局は引き上げられて助かっている。『[[愚管抄]]』では、時子が安徳天皇を抱き、宝剣と[[神爾]]を具して入水したとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓所は[[赤間神宮]]にあり、毎年5月2日に[[平家の落人]]の子孫らで組織される[[全国平家会]]の参列のもと一門追悼祭が齋行されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*小説 [[永井路子]]『波のかたみ－清盛の妻』[[中央公論社]]、1985年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の ときこ}} &lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|ときこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:平家|ときこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:1126年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1185年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 徳子'''（たいら の とくこ／とくし／のりこ&amp;lt;ref&amp;gt;名前の読みに関して、小説やドラマなどでは「'''とくこ'''」と読まれる場合が多いが、当時の人名が[[重箱読み]]されることはまずあり得ないため、無理がある（読みが分からない女性名を[[音読み]]する歴史学の慣習に従えば「'''とくし'''」であるが、当時本人がそう呼ばれた訳ではない）。女性の名前についての研究をまとめた「日本の女性名」（[[角田文衞|角田文衛]]著、教育社、[[1980年]]）では「'''のりこ'''」の読みを採用している。しかしながら、必ずしも角田説の「のりこ」の読みは一般的ではなく、小説のみならず中世史研究者の書籍でも依然「とくこ」（例：[[上杉和彦]][[明治大学]]教授『戦争の日本史 6　源平の争乱』（[[吉川弘文館]]　[[2007年]]）、[[関幸彦]][[鶴見大学]]教授『図説 合戦地図で読む源平争乱』（青春出版社、[[2004年]]）など）または「とくし」（[[奥富敬之]][[早稲田大学]]講師「歴史群像シリーズ　平清盛」）と読みのルビが打たれている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[久寿]]2年（[[1155年]]） - [[建保]]元年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]（[[1214年]][[1月25日]]））は、[[平安時代]]末期の[[高倉天皇]]の[[中宮]]、[[女院]]。[[安徳天皇]]の[[国母]]。[[平清盛]]の次女で、母は[[正室]]の[[平時子]]（二位尼）。異母兄に[[平重盛|重盛]]、同母兄弟に[[平宗盛|宗盛]]、[[平知盛|知盛]]、[[平重衡|重衡]]など。[[院号]]は'''建礼門院'''（けんれいもんいん）。'''建礼門院德子'''と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父清盛の意思で、高倉天皇に入内して皇子を産む。子の安徳天皇の即位後は国母と呼ばれるが、栄華は短く、やがて清盛は病死し、[[源氏]]の攻撃に追われて[[平氏]]一門は都落ちし、海上を流浪する。[[壇ノ浦の戦い]]で平氏一門は滅亡し、母の二位尼（時子）や安徳天皇は入水。徳子は生き残り[[平安京|京]]へ送還され、[[尼]]になり、大原[[寂光院]]で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[軍記物語]]『[[平家物語]]』のヒロイン的存在で全巻の幕引き役となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 中宮徳子 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;width:40%;float:right;border:0px dashed blue;background:#f9f9f9;padding:5px 10px;margin:1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 [[平忠盛|忠盛]]    [[平時信|時信]]&lt;br /&gt;
  ┃　　  ┣━━┳━━┓&lt;br /&gt;
 [[平清盛|清盛]]＝＝[[平時子|時子]]　[[平時忠|時忠]]　[[平滋子|滋子]]＝＝[[後白河天皇|後白河上皇]]&lt;br /&gt;
  ┃  ┣━━┓ 　　 　　　┃　　　&lt;br /&gt;
 [[平重盛|重盛]] [[平宗盛|宗盛]]　[[平徳子|徳子]]＝＝＝＝[[高倉天皇]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　  ┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　  [[安徳天皇]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
徳子は清盛と正妻時子との次女として生まれた。父の清盛は[[保元の乱]]、[[平治の乱]]に勝利して、[[武家]]ながら朝廷内で大きな力を持つようになり、[[平氏政権]]を形成する。[[仁安 (日本)|仁安]]2年（1167年）には遂に[[太政大臣]]にまで上り詰めた。そして、その権力を盤石にする手段が、[[藤原氏]]と同じく[[天皇]]の[[外戚]]となることであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高倉天皇は時子の妹[[平滋子]]（建春門院）の子であったが、清盛は天皇家との結び付きをより強めるべく徳子の入内を望んだ。徳子をいったん[[後白河天皇|後白河法皇]]の[[猶子]]となして形式を整えたうえで、[[承安 (日本)|承安]]元年（[[1171年]]）、17歳の徳子は11歳の高倉天皇の元に入内して中宮となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入内から7年後の[[治承]]2年（[[1178年]]）、24歳になった徳子は懐妊する。清盛ら平氏一門は男子の誕生を願って諸寺社に盛んに加持祈祷をさせた。この時の安産祈願で[[保元の乱]]で流罪となり、当時「讃岐院」としか称されていなかった[[崇徳天皇]]には[[諡号]]を定め、また敗死した藤原頼長には従一位太政大臣の位を追贈する。そして[[安元]]3年（[[1177年]]）の[[鹿ケ谷の陰謀]]事件で[[鬼界ヶ島]]へ流されていた[[平康頼]]と[[藤原成経]]が赦免されている（[[俊寛]]のみが許されず島で憂死した）。同年11月12日、徳子は男子、'''言仁親王'''を生む。翌12月には親王は立太子された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳子は高倉天皇より6歳も年上で、必ずしも仲睦まじくなく、天皇は葵の前を寵愛し、彼女が急死すると悲嘆にくれたが、その後は[[冷泉隆房]]（清盛の娘婿）の恋人であった[[小督]]を溺愛するようになった。小督は皇女（[[範子内親王]]）を産むが、清盛は怒って小督を尼にして追放させた。この一件は『平家物語』では悲劇とされるが、冷泉隆房の歌集『艶詞』によるともともと高倉の寵愛を受けていたはずであった小督がその後も隆房と密通を重ねており、当時の宮中の風紀の乱れの一例である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後白河法皇と清盛との対立も高倉天皇を悩ませた、[[治承]]3年（[[1179年]]）11月、[[近衛家]]の所領継承問題に不満を持った清盛が[[クーデター]]を断行して法皇を幽閉してしまった（[[治承三年の政変]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌治承4年（[[1180年]]）2月、政権を掌握した清盛は高倉天皇を退位させて、3歳の言仁親王を即位させた（安徳天皇）。これで、清盛は天皇の外戚となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
安徳天皇の即位に不満を持ったのが後白河法皇の第三皇子[[以仁王]]で[[源頼政]]と結んで、同年5月に平氏打倒の挙兵をした。この[[以仁王の挙兵]]は準備不足もあって短期間で鎮圧され、以仁王と頼政は敗死するが、以仁王が発した令旨に諸国の源氏や大寺社が呼応して、[[治承・寿永の乱]]に突入する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年6月に清盛は遷都を目指して[[福原京#福原行幸|福原行幸]]を断行。高倉上皇と徳子も福原へ移り、[[公家]]も民も大混乱となった。結局、[[遷都]]は失敗で11月には京都に戻っている。この騒動の中で病弱だった高倉上皇は病になり、[[治承]]5年（[[1181年]]）正月に薨去する。『平家物語』では、先の小督局との一件で悲嘆して死去したとこになっている。『[[玉葉]]』同年正月13日の条によると、徳子を後白河法皇の[[後宮]]に入れようという策があり、清盛も承知したが、徳子がこれを強く拒み出家を願ったという。同年11月、徳子は院号宣下により'''建礼門院'''と称する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 建礼門院 ===&lt;br /&gt;
[[養和]]2年（1182年）父清盛が熱病で死去。平氏は各地の反平氏勢力との戦いで苦戦する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[寿永]]2年（[[1183年]]）7月、[[源義仲]]に敗れた平氏は京都からの撤退を余儀なくされ、徳子は安徳天皇とともに[[三種の神器]]を携えて都落ちした。いったんは[[九州]][[大宰府]]へ逃れるが在地の武士の[[緒方惟義]]に追われ、平氏一門は苦しい船上での流浪を余儀なくされ、絶望した甥の[[平清経|清経]]が入水自殺してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、平氏は勢力を盛り返して、[[讃岐国]][[屋島]]に仮の[[内裏]]を置き、そして[[摂津国]]福原まで進出する。だが、寿永3年（[[1184年]]）2月の[[一ノ谷の戦い]]で[[源頼朝]]の弟の[[源範頼|範頼]]・[[源義経|義経]]に大敗を喫し、一門の多くを失い、兄の[[平重衡|重衡]]も捕らえられてしまった。そして、[[元暦]]2年/[[文治]]元年（[[1185年]]）3月、[[壇ノ浦の戦い]]で平氏は義経に敗れ、母の二位尼は三種の神器を携え、安徳天皇とともに入水した。徳子も今はこれまでと[[硯]]と石を懐に入れて海に身を投げるが、[[渡辺昵]]に熊手で髪を引っかけて引き上げられ、捕虜となってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年4月、徳子は京へ送還された。武士ではないので罪に問われることはなく、[[洛北]][[東山 (京都府)|東山]]の麓の吉田の地に置かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年5月1日、徳子は[[長楽寺 (京都市東山区)|長楽寺]]の[[印西]][[上人]]を戒師に落飾して尼になり、'''直如覚'''と名乗った。徳子は先帝（安徳天皇）が御召になった御[[直衣]]をお布施とした。長楽寺はこの御直衣を幡（旗）にして現在でも伝えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳子のもとには妹の冷泉隆房の妻と[[七条信隆]]の妻がしばしば訪ねて日々の糧を助けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
吉田の地も人目が多く、同年9月に徳子は[[大原山]]の奥の[[寂光院]]へ移って、庵を結び先帝と一門の菩提を弔う日々を過ごした。徳子には兄重衡の未亡人の[[藤原輔子]]と[[信西]]の娘の[[阿波内侍]]が仕えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 大原御幸 ===&lt;br /&gt;
後白河法皇が大原寂光院の徳子を訪ねる灌頂の巻は古典文学『平家物語』の終巻で、徳子の極楽往生をもって作品は終わる。この大原御幸の史実性については諸説ある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文治2年（[[1186年]]）4月、後白河法皇が[[徳大寺実定]]、[[花山院兼雅]]、[[源通親|土御門通親]]や[[北面武士]]を伴にお忍びで大原の閑居を訪ねてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳子は落魄した身を恥じらいながらも、泣く泣く法皇と対面して、「太政大臣清盛の娘と生まれ、国母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、やがて木曾義仲に攻められて都落ちし京を懐かしみ悲しみました。海上を流浪し飢えと渇きに飢餓道の苦しみを受けました。そして、壇ノ浦の戦いで二位尼は『波の下にも都がございます』と言うと先帝を抱いて海に沈み、その面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは[[地獄]]の罪人のようでした。捕えられ[[播磨国]]明石まで来たとき、わたしは[[夢]]で昔の内裏よりも立派な場所で先帝と平家一門の人々が礼儀を正して控えているのを見ました。『ここはどこでしょう』と尋ねると『竜宮城ですよ』と答えられました。『ここに苦しみはあるのでしょうか』と問いますと『竜畜経に書かれています』と答えられました。それで、わたしは経を読み、先帝の菩提を弔っているのです」とこれまでのことを物語した。法皇は「あなたは目前に[[六道]]を見たのでしょう。珍しいことです」と答えて涙を流した&amp;lt;ref&amp;gt;『平家物語』の徳子と後白河法皇との問答は2500文字以上あるため、本文の会話文はその大意。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、徳子は大原の山里で春秋を過ごし、建保元年（[[1214年]]）、念仏を唱えながら輔子と阿波内侍に看取られて死去したとされる。（『平家物語』では[[建久]]2年（[[1191年]]）2月）&amp;lt;ref&amp;gt;但し、徳子は大原ではなく洛東で亡くなったという有力な異説がある。　参考文献『平家後抄』下「女院の動静」「金仙院－建礼門院の末年－」[[角田文衛]]著、[[講談社]]　ISBN 4061594354&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 陵墓・霊廟 ==&lt;br /&gt;
[[陵]]は寂光院隣接地にある（[[宮内庁]]管轄の大原西陵）。また安德天皇とともに各地の[[水天宮]]で祀られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 補注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[寂光院]]&lt;br /&gt;
*[[平氏政権]]&lt;br /&gt;
*[[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
*[[伊勢平氏]]&lt;br /&gt;
;演じた人物&lt;br /&gt;
*1964年 映画「怪談」　[[村松英子]] &lt;br /&gt;
*1966年 [[NHK大河ドラマ]]「[[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]」　[[鳳八千代]]&lt;br /&gt;
*1971年10月～1972年2月 TBS「[[女人平家 (テレビドラマ)|女人平家]]」　[[結城三枝]]&lt;br /&gt;
*1972年 NHK大河ドラマ「[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]」　山添三千代（現・[[香川三千]]）→[[佐久間良子]]&lt;br /&gt;
*1977年 映画「壇の浦夜枕合戦記」　[[渡辺とく子]]&lt;br /&gt;
*1979年 NHK大河ドラマ「[[草燃える]]」　[[生田悦子]]&lt;br /&gt;
*1986年 [[NHK新大型時代劇]]「[[武蔵坊弁慶 (テレビドラマ)|武蔵坊弁慶]]」　[[菊池かおり]]&lt;br /&gt;
*2005年 NHK大河ドラマ「[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]」　[[中越典子]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.jakkoin.jp/ 京都大原　寂光院]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の とくこ}} &lt;br /&gt;
[[Category:日本の皇后]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:平家|とくこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:1155年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1214年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Taira no Tokuko]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平宗盛</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 宗盛'''（たいら の むねもり）は、[[平安時代]]末期の[[武将]]、[[公卿]]。[[平清盛]]の三男。母は清盛の正室・[[平時子]]。時子の子としては長男であり、[[安徳天皇]]の母・[[平徳子|建礼門院]]は同母妹である。[[官位]]は[[従一位|従一位行]][[内大臣]]。通称は'''屋島大臣'''など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 生い立ち ===&lt;br /&gt;
[[久安]]3年（[[1147年]]）に生まれる。この時、清盛は30歳、時子は22歳、重盛は10歳だった。母が異なり年齢も離れていたため、当初から重盛と宗盛の間には対立の芽が内包されていた。両者の溝はやがて大きな亀裂となり、小松家が宗盛の統制を離れて一門の分裂を起こす要因となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[保元の乱]]が終結すると[[信西]]は国政改革に取り組み、[[保元]]2年（[[1157年]]）10月、信西の主導により大内裏が再建された。10月22日には内裏造営の賞として叙位が行われ、重盛・[[平頼盛|頼盛]]・[[平教盛|教盛]]・[[平経盛|経盛]]にそれぞれ位階の昇叙があった（『[[兵範記]]』同日条）。同日、宗盛は11歳で従五位下に叙せられている。（『[[公卿補任]]』）。叙爵の年齢は清盛・重盛より早く、正室・時子の長子として優遇されていた様子がうかがえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 二条親政期 ===&lt;br /&gt;
[[平治]]元年（[[1159年]]）12月、宗盛は清盛の熊野参詣に同行していたが、その途上で[[平治の乱]]が勃発する。清盛はすぐに都へ引き返すと、[[二条天皇]]を内裏から六波羅に脱出させることに成功する。官軍の立場を得た清盛は[[藤原信頼]]・[[源義朝]]を打ち破り、乱は平氏の勝利に終わった。12月27日、乱を鎮圧した勲功を賞する除目が行われ、宗盛は遠江守となる。前任者の重盛が伊予守に任じられたことによる後任人事だった。翌[[永暦]]元年（[[1161年]]）正月には、異母兄・基盛と任国を交代して淡路守となる。2月には同母弟・知盛が武蔵守となるが、これらの国はいずれも清盛の[[知行国]]だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11月、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]の遺言で王家の家長となっていた[[藤原得子|美福門院]]が死去したことで、後白河院政派と二条親政派の対立が本格化する。[[応保]]元年（[[1161年]]）9月に憲仁（[[後白河天皇|後白河上皇]]の第七皇子、後の[[高倉天皇]]）立太子の陰謀が発覚すると、二条天皇は[[院近臣]]を解官して後白河の政治介入を停止した。二条は親政確立に意欲を見せ、蔵人頭・[[中山忠親]]に対して直接御前に来て奏上するように命じるが、その連絡役を務めたのは宗盛だった（『[[山槐記]]』応保元年11月18日条）。清盛は二条親政を支持する姿勢を示すために、宗盛を二条の側近として送り込んでいたものと推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
応保2年（[[1162年]]）10月28日、宗盛は[[左馬頭]]となる。左馬頭は宮中の軍馬を管理する馬寮の長官であり、平治の乱以前は義朝が務めていた。軍事貴族にとっては極めて重要な官職であったため、平治の乱以降は重盛が任じられている。この日、重盛は右兵衛督となっているので、これもまた、重盛が左馬頭を辞任したことによる後任人事と見られる。なお、宗盛が辞任した後の左馬頭は重衡であり、馬寮を平氏一門で独占しようとする清盛の強い意思が感じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 建春門院の猶子 ===&lt;br /&gt;
[[長寛]]2年（[[1164年]]）4月、関白・[[近衛基実]]と宗盛の同母妹・盛子の婚姻が成立すると、宗盛は重衡とともに[[摂関家]]政所の別当になった。清盛の意図は二条と摂関家に接近することで平氏の勢力を拡大することにあったが、[[永万]]元年（[[1165年]]）に二条が、翌年に基実が相次いで死去したことで、後白河支持に方針を切り替える。[[仁安 (日本)|仁安]]元年（[[1166年]]）10月10日、後白河は憲仁親王の立太子を行い、翌月には清盛を内大臣に任じた。宗盛は五節の節会において、重盛・知盛とともに舞姫を献じている（『兵範記』仁安元年11月13日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌仁安2年（[[1167年]]）5月に清盛は太政大臣を辞任、重盛が平氏の棟梁となる。8月、宗盛は位階が上の叔父・頼盛を超えて参議に補され、一門において重盛に次ぐ地位を確保した。翌月、後白河と寵妃[[平滋子]]（建春門院、宗盛の生母時子の異母妹）は熊野参詣を行い、重盛・宗盛も付き従った。この時、重盛が後白河の供をしたのに対して、宗盛は[[平時忠]]・[[平親宗]]（ともに時子・滋子の兄弟、宗盛の伯父）らと並んで滋子の供をしている。宗盛は母・時子との関係から滋子の[[猶子]]となっていた。滋子が女御・皇太后・女院になった際には、家司・皇太后宮権大夫・女院別当となるなど一貫して滋子の側に仕え、妻に滋子の妹・清子（高倉天皇の[[典侍]]、中納言三位）を迎えている。宗盛が、母の出身である高棟流平氏と密接につながっていたことを物語っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[嘉応]]元年（[[1169年]]）12月の[[嘉応の強訴]]で、後白河は防御のために武士を招集する。武士を率いていたのは重盛・宗盛・頼盛で、兵力の内訳は重盛が200騎、宗盛が130騎、頼盛が150騎だった（『兵範記』嘉応元年12月23日条）。宗盛は重盛・頼盛に次ぐ兵力を動員しており、平氏軍の中核を担うまでになっていた。嘉応2年（[[1170年]]）12月、宗盛は権中納言に昇進、翌年正月の高倉天皇元服の儀式では装束の奉仕を務めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期の重盛は[[殿下乗合事件]]で[[松殿基房]]と対立し、権大納言を辞任していた。重盛と宗盛の官位の差は徐々に狭まっていたが、[[承安 (日本)|承安]]元年（[[1171年]]）12月、重盛は権大納言に還任する。承安3年（[[1173年]]）、宗盛は滋子の御給で従二位に叙せられるが、重盛はそれより上の正二位・権大納言であり、両者の立場が入れ替わることはなかった。承安年間は安定期であり、官位の接近により重盛と宗盛の関係が悪化した形跡は見られない。[[安元]]2年（[[1176年]]）に催された後白河の50歳の賀にも、宗盛は一門の筆頭である重盛に付き従って出席している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政権の動揺 ===&lt;br /&gt;
安元2年（1176年）7月に滋子が死去したことで、今まで隠されていた平氏と後白河の対立はしだいに顕在化することになる。最大の庇護者を失った宗盛は年末に権中納言を辞任するが、翌安元3年（[[1177年]]）年正月に重盛が左大将になったことに伴い、還任して空席となった右大将に任じられた。両大将を平氏が独占する形となったが、宗盛は滋子の猶子であり後白河との関係も良好だった。後白河は2月3日の宗盛の拝賀に、殿上人を遣わしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月、後白河が福原を訪れたことで対立は緩和されたかに見えたが、4月になると延暦寺が加賀守・[[藤原師高]]の[[流罪]]を要求して強訴を起こす。後白河は[[天台座主]]・[[明雲]]を解任・配流とするなど、強硬な態度で臨んだ。この事件で重盛・宗盛は、延暦寺との衝突を何とか回避しようと懸命になっていた。5月末に清盛が上洛して後白河と会談を行ったが、後白河の意思は固く延暦寺攻撃が決定される。その直後の6月1日、[[西光]]・[[藤原成親]]らによる平氏打倒の陰謀が発覚する（[[鹿ケ谷の陰謀]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
院近臣の中核だった西光・成親が殺害されたことで、後白河は平氏への屈服を余儀なくされる。重盛も義兄の成親が関与していたことで面目を失い、政治的地位を失墜させた。宗盛も後白河とは近い関係にあり、難しい立場となったことに変わりはなかった。しかし、重盛が事実上の失脚状態となったことで表舞台に立たざるを得ず、翌[[治承]]2年（[[1178年]]）4月、権大納言になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月24日、徳子の懐妊が明らかとなり、翌月には宗盛の妻・清子が乳母に選ばれた。ところが、清子は腫物が悪化して7月16日に死去してしまう（『[[玉葉]]』同日条）。この時、宗盛は悲嘆のあまり右大将を辞任している。11月に徳子が言仁（高倉天皇の第一皇子、後の[[安徳天皇]]）を出産すると、ただちに[[親王宣下]]と立太子が行われた。宗盛は右大将に復帰して春宮大夫となったが、すぐに大夫の地位を[[藤原兼雅|花山院兼雅]]に明け渡した。妻の死後、宗盛は政治への意欲を失ったらしく、翌治承3年（[[1179年]]）2月には権大納言・右大将も辞任してしまう。宗盛の精神的弱さとも言えるが、清盛と後白河の対立の中で苦境に陥ったことも理由の一つと推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== クーデターと以仁王の挙兵 ===&lt;br /&gt;
6月に盛子、7月に重盛が相次いで死去したことを契機に、後白河はその荘園・知行国を没収した。さらに清盛の娘婿・[[近衛基通|基通]]を無視して、基房の子・[[松殿師家|師家]]を権中納言に任じた。これに激怒した清盛は、11月14日に上洛してクーデターを起こす（[[治承三年の政変]]）。宗盛はその直前の11日、厳島神社へ参詣に向かっていた（『玉葉』11月14日条）。清盛に対する消極的な批判だったと思われるが、途中で呼び戻されて同道することになる。結果は、基房の解任・配流、反平氏公卿・殿上人・受領の大量解官、後白河の幽閉・院政停止であり、それらの措置を済ませると清盛は福原に引き上げた。京都に残された宗盛は、相談もなく始まったクーデターに困惑していたが後始末をつけねばならず、院近臣の追捕・所領の没収を行った。この時に[[以仁王]]の所領を没収したことが、[[以仁王の挙兵]]の直接的な原因となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌治承4年（[[1180年]]）2月に安徳天皇が践祚して、高倉院政が開始される。[[院庁]]の執事別当には[[藤原隆季]]が就任し、平時忠・[[藤原長方]]・[[吉田経房]]・[[源通親]]・[[日野兼光]]など実務に長じた貴族が、政務に未熟な高倉を補佐することになった。宗盛は政権に直接的には加わらず、知盛が軍事の中枢ともいえる御厩別当に任じられている。譲位後の3月、高倉は厳島神社に御幸するが、参詣に反対する[[園城寺]]・[[興福寺]]・延暦寺では、僧徒の中に後白河・高倉の身柄を奪取しようとする動きがあったため、宗盛は知盛・通盛・[[平経正|経正]]らに命じて警護を厳しくした。宗盛は福原まで供奉したが洛中不穏のため、清盛の命により京都へ引き返した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
厳島御幸も無事に終わり、4月には安徳の即位式が行われるが、その直後の5月に以仁王の謀反が明らかになった。16日、以仁王を匿う園城寺との間で身柄の引渡し交渉が行われたが決裂となり、宗盛以下10人の大将による園城寺攻撃が決定する（『玉葉』5月21日条）。ところがその内の一人だった[[源頼政]]が以仁王に合流し、延暦寺大衆300人の参加、さらには興福寺の蜂起といった情報も伝えられるなど、事態は一挙に深刻なものとなり洛中は混乱に陥ったが（『玉葉』22日条）、26日、平氏軍が以仁王・頼政を討ち取ったことで乱は終息する。30日、追討の賞として宗盛の子・清宗が従三位に叙せられた。清盛の孫では最初の公卿であり、年長である[[平維盛|維盛]]・[[平資盛|資盛]]（ともに重盛の子）を超えたことで、平氏の嫡流が小松家から宗盛に移ったことを示すものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 反乱の激化と畿内惣官 ===&lt;br /&gt;
6月に入ると、清盛は突如として福原行幸を強行する。宗盛は隆季・邦綱とともに、高倉・後白河の御幸の列に供奉した。新都建設計画が準備不足により難航したため、反対意見も出されたが清盛に一蹴される（『玉葉』8月12日条）。しかし、8月から全国各地で反乱の火の手が上がり、[[富士川の戦い]]で追討軍が大敗したという報告が届くと、宗盛は還都を進言して清盛と激しい口論となり、周囲の人々を驚かせた（『玉葉』11月5日条）。従順だった宗盛までが反対意見を述べたことで、今まで押さえ込まれていた還都論は一挙に再燃する。清盛も還都に同意せざるを得なくなり（『[[吉記]]』11月12日条）、23日に一行は福原を出発、26日に帰京した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌12月から追討が本格化するが、近江で早くも反乱軍に行く手を阻まれ、園城寺・延暦寺の大衆に後方を攪乱されるなど苦戦が続き、「'''禅門前将軍等、気力衰へ了んぬ'''」（『玉葉』12月14日条）、「'''禅門天下の事を前幕下に委ね了んぬ'''」（『玉葉』12月16日条）という情報も流れた。[[南都焼討]]により畿内の反平氏勢力はひとまず鎮圧されたが、翌治承5年（[[1180年]]）正月14日、容態が悪化していた高倉上皇が崩御する。幼児の安徳は政務を執ることができないため、後白河の院政再開は避けられないものとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正月19日、高倉の遺言と称して宗盛に畿内惣官の[[宣旨]]が下る。これは五畿内・近江・伊賀・伊勢・丹波の9ヵ国にまたがる強力な軍事指揮権であり、軍事作戦遂行のために必要な諸権限を平氏が全面的に掌握することを公的に認めるものだった。2月7日には丹波に諸荘園総下司職が設置されるなど、反撃の準備が整えられていった。翌閏2月には、関東への追討使として宗盛が自ら出馬して「一族の武士、大略下向」する予定だったが（『玉葉』2月26日条）、清盛の病が「十の九はその憑み無し」という状況となり派兵は延期となる（『玉葉』閏2月1日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
閏2月4日、清盛は死去した。死の直前、後白河に宗盛と協力して政務を行うよう奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「'''天下の事、偏に前幕下の最なり。異論あるべからず'''」と言い残したという（『玉葉』閏2月5日条）&amp;lt;ref&amp;gt;これは左大史・[[小槻隆職]]が左少弁・[[藤原行隆]]から聞いた内密の話を、隆職が兼実の邸を訪問した際に語ったものである。「天下の事、偏に前幕下の最なり。異論あるべからず」は清盛の発言とするのが一般的な解釈であるが、この発言の前に「行隆を召し'''仰せて云はく'''」という記述がある。その丁寧な語法から、行隆を召してこの発言をしたのは後白河であるという説もある（高橋昌明『平清盛 福原の夢』講談社、2007年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 院政再開と追討続行 ===&lt;br /&gt;
清盛の死後、宗盛は「'''故入道の所行等、愚意に叶わざるの事等ありと雖も、諫争する能はず。只彼の命を守りて罷り過ぐる所なり。今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存じ行うべく候'''」（『玉葉』閏2月6日条）と表明して、後白河に恭順する姿勢を示した。宗盛の発言を受けて、後白河は公卿議定を開いて追討の中断を決定する。静憲が宗盛に議定の決定を伝えると、宗盛は追討使として重衡を下向させることを理由に、追討のための院庁下文を発給することを要求した。静憲が「それでは話が違う」と抗議すると、宗盛は「頼盛・教盛等の卿を招き相議し、重ねて申さしむべし」と返答した（『玉葉』閏2月7日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように院政の再開は認めても、清盛が生前に残した惣官体制により軍事的な権限は依然として平氏が掌握していた。3月10日、重衡率いる追討軍は[[墨俣川の戦い]]で[[源行家]]を破り、美濃・尾張は平氏の勢力下に入った。東国の戦況が好転したことで、宗盛は[[鎮西反乱|鎮西の反乱]]鎮圧に乗り出す。4月10日、宗盛の強い推挙で[[原田種直]]が大宰権少弐に補され、4月14日には[[菊池高直]]追討宣旨が下される（『吉記』同日条）。しかし、墨俣川の戦いの直後には早くも官兵の兵粮は尽き始め（『玉葉』3月28日条）、6月には[[横田河原の戦い]]で[[城助職]]が惨敗（『玉葉』7月1日条）、7月には北陸道でも反乱が起こり能登の[[目代]]が逃亡した（『玉葉』7月24日条）。この頃の平氏は「その勢日を遂ひて減少し、諸国の武士等、敢へて参洛せず」という状況であり、貴族の所領を奪って武士に給与するという非常手段に出るものの、違背者が続出して効果はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような中で、[[源頼朝]]は後白河に「全く謀叛の心なし。偏に君の御敵を伐たんためなり。而れども若し平家を滅亡せらるべからずば、古昔の如く、源氏平氏相並び、召し使ふべきなり」と密奏を行う。戦乱の長期化は荘園領主にとって年貢納入の激減を意味したため、後白河は宗盛に和平を打診した。宗盛は後白河が頼朝と独自に交渉したことを咎めず、その和平案にも「この儀尤も然るべし」と一定の理解を示しながら、「'''我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸を頼朝の前に曝すべし'''」という清盛の遺言を盾に、「勅命たりと雖も、請け申し難きものなり」と拒否している（『玉葉』8月1日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦線の停滞 ===&lt;br /&gt;
8月になると宗盛は追討使として[[平貞能]]を鎮西に、平通盛・経正を北陸に派遣する。14日には北陸道追討宣旨が下り（『[[百錬抄]]』）、京都官兵の力だけでは反乱鎮圧が困難であることから、[[藤原秀衡]]が陸奥守、城助職が越後守となった。現地の豪族が[[国司]]になることは前代未聞で、[[九条兼実]]は「天下の恥」と憤慨している（『玉葉』8月15日条）。北陸道は平氏の知行国が多く京都への重要な食料補給路であり、兵站地として確保しなければならない地域だった。しかし通盛は越前水津で敗れ越前国府を失陥し（『吉記』9月10日条）、経正も若狭で国境を越えることができず（『玉葉』9月12日条）、北陸道は反乱軍の手に落ちる。鎮西に向かった貞能も備中に逗留して兵粮の欠乏を訴える有様だった（『玉葉』9月6日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月になると宗盛は、北陸道に知度・清房（宗盛の異母弟）・重衡・資盛、東海道・東山道に維盛・[[平清経|清経]]（重盛の子）、熊野に頼盛の子息2名を派遣するという大規模な遠征計画を立てる（『玉葉』10月10日条）。最も重要な洛中守護は宗盛・教盛・経盛・頼盛・知盛が担当した。この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあったと考えられる。宗盛の地位を脅かす障害は重盛の小松家であり、小松家は危険な遠征軍として最前線に送られることになった。しかし遠征計画は延引を繰り返して結局は実施されず、11月には北陸道に派遣されていた通盛も京都に引き返した（『吉記』11月20日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、後白河は平氏の傀儡となることを潔しとせず、勢力基盤の回復に努めていた。4月10日に安徳天皇を八条頼盛邸から閑院に遷し（『吉記』）、11月25日に徳子が院号宣下を受けると殿上人を自ら清撰している（『[[明月記]]』）。天皇と母后を平氏から引き離す狙いがあったと見られる。翌養和2年（[[1182年]]）3月には、藤原定能・[[藤原光能]]・[[高階泰経]]が還任して「去る治承三年解官の人々。去る冬今春の除目、過半還補」（『玉葉』3月9日条）となり、壊滅状態だった院政派も息を吹き返した。宗盛は政治的発言力を高める後白河への対応に苦慮していたらしく、平氏と後白河の連絡交渉を担当する親宗に「'''天下の乱、君の御政の不当等、偏に汝の所為なり。故禅門は遺恨ありし時、直にこれを報答す。宗盛に於いては、尋常と存じ、万事存ぜざるが如く知らざるが如し。仍つてことに於て面目を損ず。頗る怨み申す所なり'''」と八つ当たりとも取れる発言をしている（『玉葉』3月12日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、九条兼実に代表される貴族層は日和見的態度を取ったため、後白河も一挙に主導権を握ることはできなかった。この年は[[養和の飢饉]]の影響で大規模な軍事活動は行われず、内外の情勢は一種の膠着状態となる。9月4日、宗盛は権大納言に還任し、10月3日には内大臣となる（『玉葉』）。11月24日には、戦乱で延期されていた安徳天皇の[[大嘗会]]が執り行われた（『百錬抄』）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北陸追討軍の壊滅 ===&lt;br /&gt;
[[寿永]]2年（1183年）2月21日、安徳天皇は初めて後白河への朝覲行幸を行う（『百錬抄』『玉葉』『吉記』）。この時、宗盛は翌3月に追討使を発向させることを計画し、嫡子・清宗の妻に頼盛の娘を迎えることで一門の結束を図っていた（『吉記』2月21日条）。2月27日、宗盛は内大臣を辞任する（『吉記』）。その意図は定かでないが、辞任の前に時忠・頼盛・知盛・重衡・親宗が集まっているので、一門の総意だったと推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
追討使の発向は遅れ、4月9日にようやく北陸征討が伊勢以下16社に祈願され（『玉葉』）、4月17日、維盛を総大将とする10万騎とも言われる大軍が北陸道に下向する（『百錬抄』）&amp;lt;ref&amp;gt;『玉葉』6月5日条は、北陸追討軍を4万余騎とする。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[養和の北陸出兵]]をはるかに上回る規模の動員であり、兵粮徴発の過程で武士の狼藉が多発して「上下騒動」する（『玉葉』4月14日条）。狼藉停止の訴えが殺到するが、宗盛は耳を貸さなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、平氏が総力を結集して送り込んだ追討軍は5月11日の[[倶利伽羅峠の戦い]]で壊滅し（『玉葉』5月16日条）、これまで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。敗軍は京都に逃げ帰り、6月6日に開かれた公卿議定は「士卒その力追討に疲れ、忽に叶ひ難し」として、伊勢・近江で敵軍を食い止めるしかないと結論を下している（『吉記』同日条、『玉葉』6月9日条）。義仲軍は6月13日には近江に進軍する（『吉記』）。宗盛は鎮西から帰還する貞能の軍勢に期待していたが、貞能が京都に引き連れた軍勢はわずか1000余騎に過ぎず、戦力にならなかった（『吉記』6月18日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 一門都落ち ===&lt;br /&gt;
6月末、京都を守る最後の砦とも言える延暦寺では、源氏に味方しようとする大衆と源平両氏の和平を模索する僧綱の間で対立が起こっていた（『吉記』6月29日条）。平氏は、宗盛以下公卿10人が「延暦寺を平氏の氏寺に、日吉社を氏社とする」という起請文を連名で出し、延暦寺の懐柔に躍起となっていた（『百錬抄』7月8日条、『吉記』7月12日条）。義仲軍が近江勢多に（『吉記』7月10日条）、行家軍が伊賀に到達したため（『吉記』7月16日条）、[[平忠度|忠度]]率いる100騎が丹波に（『吉記』7月16日条）、資盛・貞能率いる3000騎が宇治を経て近江に向かう（『吉記』7月21日条）&amp;lt;ref&amp;gt;『玉葉』7月21日条は、1080騎とする。資盛の出撃は宗盛の命令ではなく、後白河の宣旨によるもので、後白河は資盛を密かに見送っている。後白河と小松家の関係の深さを表すものといえる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。22日になると延暦寺の僧綱が下山して、義仲軍が東塔惣持院に城郭を構えたことを明らかにした（『吉記』）。丹波の忠度は撤退し、資盛・貞能は宇治で行家軍に行く手を阻まれ、摂津河尻では[[多田行綱]]が船を差し押さえ、平氏の補給路を遮断していた。宗盛は一門の中核である知盛・重衡率いる3000騎を勢多に、頼盛を山科に投入するが、もはや京都の防衛は絶望的な情勢だった（『玉葉』7月22日条、『吉記』7月24日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
24日、安徳天皇は法住寺殿に行幸するが、すでに「遷都有るべきの気出来」（『吉記』7月24日条）という噂が流れており、平氏が後白河・安徳を擁して西国に退去する方針は決定していたと思われる。西走計画自体は、かなり早い段階から練られていた（『玉葉』養和元年9月19日、29日条）。しかし、後白河は25日未明、法住寺殿を脱出して延暦寺に向かう。後白河脱出の報は寅の刻（午前4時）頃から徐々に流れ、辰の刻（午前8時）頃には事実と判明する。宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・建礼門院・基通・一族を引き連れて周章駆け出した（『吉記』7月25日条）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後白河は27日に京都に戻り、28日に「前内大臣が幼主を具し奉り、神鏡剣璽を持ち去った」として平氏追討宣旨を下す（『百錬抄』『玉葉』『吉記』）。ここに平氏は賊軍に転落することになり、味方を集める事が困難となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、義仲の平氏追討の失敗など京都の内乱もあって一時勢力を盛り返し、寿永3年（[[1184年]]）の1月には[[福原]]に前線基地を設け、都を伺うまでになった。後白河は頼朝に平氏追討を命じ、代官である[[源範頼]]・[[源義経]]の平氏追討軍が1月末に都を出発する。後白河は同時に安徳天皇と[[三種の神器]]を取り戻すべく、平氏に和平交渉の使者を送り、宗盛は2月6日に法皇の近臣から和平交渉のための文書を受け取る。それは「和平交渉のため使者を2月8日に送るから戦いをせず待つように、その事は源氏の側にも言い含めてある」というものだった。しかし2月7日、[[摂津国]]で院の使者を待っていた宗盛の平氏陣営に現れたのは、和平の使者ではなく源氏の軍勢であった。[[一ノ谷の戦い]]で源義経率いる源氏軍に平氏本陣に奇襲を受け、多くの有力武将を失い、大打撃をこうむった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敗走した平氏軍はようやく[[屋島]]に逃れる。一ノ谷で捕虜となった弟の重衡が後白河の意向を受けて安徳天皇と三種の神器の帰還を求める書状を送ると、宗盛はこれを拒否してだまし討ちとも取れる後白河の不可解な言動を強く糾弾する返書を送っている。その後の[[元暦]]2年（[[1185年]]）2月の[[屋島の戦い]]でも義経に敗れ、さらに[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]、[[壇ノ浦の戦い]]でも義経率いる軍勢に敗れ、平氏一門は滅亡するに至った。幼い安徳天皇、二位尼、建礼門院ら一門の者達が次々と壇ノ浦の急流に身を投げる中、棟梁である宗盛も入水するが、死にきれずに泳ぎ回っていたところを、息子の清宗とともに引き上げられる（自発的な降伏という説もあり）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
捕虜となった宗盛と清宗は後白河法皇が見物する中、都を引き回され、その後[[鎌倉]]の頼朝のもとに送られる。宗盛は鎌倉で頼朝と面会した後、京への送還の途中で[[近江国]]篠原宿で源義経の部下[[橘公長]]により斬首された。[[享年]]39。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嫡男清宗、次男能宗（幼名：副将）、その他男児二人（名前は伝わっていない）も次々に処刑され、宗盛の血統は途絶えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
『[[平家物語]]』での宗盛は善良な人物ではなく、優れた人物である兄重盛との対比として、愚鈍なうえ傲慢な性格で、思い上がった振る舞いが多く、そのために他の氏族の反感を買う行為ばかりしていた愚かな人物として戯画化されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[吾妻鏡]]』によると源頼朝は壇ノ浦の戦いの直前、弟の範頼に宛てた書状で、「内府は極めて臆病におはせる人なれば、自害などはよもせられじ」と記している。鎌倉に護送された際は、すすめられた食事もとらずに泣いてばかりいて、頼朝との対面では弁明もできずひたすら出家と助命を求め、これが清盛の息子かと非難されている。『[[愚管抄]]』には「宗盛は水泳が上手なため、浮き上がり浮き上がりする中に、生きたいと思うようになり生け捕られた」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『玉葉』（[[養和]]2年3月）には「父は遺恨があれば、ただちに仕返しをした。私は事を荒立てないよう知らぬふりをする」という宗盛の人物像を象徴するような言葉がある。妻が出産で亡くなった時には官職を返上してその死を嘆き、その妻の遺言で遺児である副将（能宗）を乳母に預けず自分の手で育てた。『平家物語』では処刑の直前、最期の言葉は「右衛門督（清宗）もすでにか」と我が子を思うものであった。武家の大将たる器はなかったが、妻子への愛情深い家庭人であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝説 ==&lt;br /&gt;
下記の逸話は伝説であり、真実であるか否かは不明である。&lt;br /&gt;
; 名馬「木下」強奪&lt;br /&gt;
: 源頼政の嫡男・[[源仲綱|仲綱]]の所有する名馬「木下（このした）」を欲しがり、地位と権勢にものをいわせて強引に借り受けると二度と返さず、その馬の名前を「仲綱」と改め、馬の尻に「仲綱」の焼印までして社交の場に率いてゆき、源仲綱に屈辱を味わわせる。その恨みがのちの源頼政の挙兵の一因とされる。（『平家物語』）&lt;br /&gt;
; 源競による名馬報復&lt;br /&gt;
: 源頼政が挙兵すると、その配下にいた[[渡辺党]]の武者で武勇の誉れ高い[[源競]]（みなもと の きそう）は、愛馬を奪われた仲綱の恨みを晴らすため、偽って宗盛に寝返り、競を気に入った宗盛より名馬を譲り受ける。既に自分の名馬を持っているのにまた他人の名馬（仲綱の「木下」）を欲しがる宗盛を軽蔑した競は、その名馬で再び頼政の陣に戻り、その馬の尻に「宗盛」の焼印をして平家方に突き返す。激怒した宗盛は自らの手で競を八つ裂きにするため、配下の武者たちに競を殺さずに捕えるよう命じるが、競は獅子奮迅の活躍のうえ壮絶に斬り死に、平家方の武者たちにまで賞賛される。翻って宗盛の狭量さは同じ平家方の武者たちからも軽蔑される。（『平家物語』）&lt;br /&gt;
; 壇ノ浦の戦い&lt;br /&gt;
: 壇ノ浦の戦いにおいて、平氏の大敗が決定的になり、一門が次々と入水していく中、棟梁である宗盛は逃げ回るばかりであった。それを見た諸将はあまりのみっともなさに嫌気が差し、ついには宗盛を捕まえて、無理やり海に突き落とした。しかし、泳ぎの名手であった宗盛は、源氏の兵に助けられた。宗盛は長男清宗と同様、肥満だったため浮きやすかったとも言う。（『平家物語』）&lt;br /&gt;
; 頼朝との面会&lt;br /&gt;
: 頼朝と面会した宗盛は、命惜しさのために、頼朝に対し媚びへつらい、それを見た源氏の諸将は宗盛をあざ笑う。頼朝は、宗盛の名を平末国と改名させた。（『平家物語』）&lt;br /&gt;
; 徳子との関係&lt;br /&gt;
: 妹である建礼門院徳子と通じており、安徳天皇は、徳子と宗盛との間にできた子であると言われた。（『[[源平盛衰記]]』）&lt;br /&gt;
; 時子との関係&lt;br /&gt;
: 壇ノ浦の戦いにおいて、醜態をさらす息子を見た時子は、宗盛は清盛と自分の子ではないと言った。&lt;br /&gt;
: 清盛との間にできた子が女子であったため、男子を望んでいた清盛のことを考え、京の傘売りの子と実子を取り替えたのだという。平家敗戦後に宗盛は自らこの説を認め、平家の血筋でないことを理由に命乞いをしたとされる。（『源平盛衰記』）&lt;br /&gt;
; 捕虜となったその後&lt;br /&gt;
: 宗盛は捕虜として、今の逗子付近に暫く軟禁されていた。地元の領民は、宗盛を始めは快く思っていなかったが、子供と戯れるなど、普通の武士には欠けている人間的な情愛を感じて徐々に心を許したという。処刑後は宗盛の死を悼む者が多く、頼朝へ報告する者が居たが不問に付したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
* [[保元]]2年（[[1157年]]）（11歳）&lt;br /&gt;
** 10月22日:従五位下&lt;br /&gt;
* 保元4年のち改元して[[平治]]元年（[[1159年]]）（13歳）&lt;br /&gt;
** 12月27日:遠江守（平治の乱の勲功）&lt;br /&gt;
* 平治2年のち改元して[[永暦]]元年（[[1160年]]）（14歳）&lt;br /&gt;
** 正月21日:淡路守&lt;br /&gt;
** 4月3日:右兵衛権佐を兼任&lt;br /&gt;
* 永暦2年のち改元して[[応保]]元年（[[1161年]]）（15歳）&lt;br /&gt;
** 正月27日:従五位上&lt;br /&gt;
* 応保2年（[[1162年]]）（16歳）&lt;br /&gt;
** 正月27日:左兵衛佐。淡路守如元&lt;br /&gt;
** 10月28日:左馬頭。淡路守如元&lt;br /&gt;
* 応保3年のち改元して[[長寛]]元年（[[1163年]]）（17歳）&lt;br /&gt;
** 12月20日:美作守。左馬頭如元&lt;br /&gt;
* 長寛2年（[[1164年]]）（18歳）&lt;br /&gt;
** 11月18日:正五位下&lt;br /&gt;
* 長寛3年のち改元して[[永万]]元年（[[1165年]]）（19歳）&lt;br /&gt;
** 7月25日:従四位下（六条天皇即位。中宮・[[藤原育子]]御給）&lt;br /&gt;
* 永万2年のち改元して[[仁安 (日本)|仁安]]元年（[[1166年]]）（20歳）&lt;br /&gt;
** 8月27日:従四位上&lt;br /&gt;
** 11月14日:正四位下（大嘗会。後白河上皇御給）&lt;br /&gt;
** 12月30日:左馬頭を辞任（重衡に譲る）&lt;br /&gt;
* 仁安2年（[[1167年]]）（21歳）&lt;br /&gt;
** 正月7日、右近衛中将。美作守如元&lt;br /&gt;
** 正月9日:禁色勅許&lt;br /&gt;
** 閏7月12日:美作守を辞任&lt;br /&gt;
** 8月1日:参議に補任。右近衛中将如元&lt;br /&gt;
** 12月13日:従三位&lt;br /&gt;
* 仁安3年（[[1168年]]）（22歳）&lt;br /&gt;
** 正月11日:越前権守兼任&lt;br /&gt;
** 3月20日:皇太后宮権大夫兼任&lt;br /&gt;
** 3月28日:正三位（皇太后・平滋子入内の賞）&lt;br /&gt;
* 仁安4年のち改元して[[嘉応]]元年（[[1169年]]）（23歳）&lt;br /&gt;
** 4月12日:皇太后宮権大夫を辞任（院号宣下による）&lt;br /&gt;
* 嘉応2年（[[1170年]]）（24歳）&lt;br /&gt;
** 12月30日:権中納言。右衛門督兼任&lt;br /&gt;
* [[承安 (日本)|承安]]3年（[[1173年]]）（27歳）&lt;br /&gt;
** 11月21日:従二位（最勝光院供養・行幸・行事の賞。建春門院御給）&lt;br /&gt;
* 承安5年のち改元して[[安元]]元年（[[1175年]]）（29歳）&lt;br /&gt;
** 左衛門督&lt;br /&gt;
* 安元2年（[[1176年]]）（30歳）&lt;br /&gt;
** 12月5日:権中納言を辞任（建春門院死去）&lt;br /&gt;
* 安元3年のち改元して[[治承]]元年（[[1177年]]）（31歳）&lt;br /&gt;
** 正月24日:権中納言に還任。右近衛大将兼任&lt;br /&gt;
* 治承2年（[[1178年]]）（32歳）&lt;br /&gt;
** 正月4日:正二位（朝覲行幸。後白河法皇御給）&lt;br /&gt;
** 4月5日:権大納言。右近衛大将如元&lt;br /&gt;
** 7月10日:右近衛大将を辞任（室・平清子の病）&lt;br /&gt;
** 12月2日:右近衛大将に還任&lt;br /&gt;
** 12月8日:言仁親王勅別当&lt;br /&gt;
** 12月15日:春宮大夫&lt;br /&gt;
* 治承3年（[[1179年]]）（33歳）&lt;br /&gt;
** 正月:春宮大夫を辞任&lt;br /&gt;
** 2月26日:権大納言・右近衛大将を辞任&lt;br /&gt;
* [[養和]]2年のち改元して[[寿永]]元年（[[1182年]]）（36歳）&lt;br /&gt;
** 9月4日:権大納言に還任&lt;br /&gt;
** 10月3日:内大臣&lt;br /&gt;
* 寿永2年（[[1183年]]）（37歳）&lt;br /&gt;
** 正月21日:従一位&lt;br /&gt;
** 2月27日:内大臣を辞任&lt;br /&gt;
** 8月6日:除名&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場作品 ==&lt;br /&gt;
; 映画&lt;br /&gt;
*『[[地獄門]]』（1953年 大映、監督：[[衣笠貞之助]]、演：[[小柴幹治]]）&lt;br /&gt;
; TVドラマ&lt;br /&gt;
*『[[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]]』（1966年 NHK大河ドラマ、演：[[東千代之介]]）&lt;br /&gt;
*『[[女人平家 (テレビドラマ)|女人平家]]』（1971年10月～1972年2月 TBS、演：[[長澄修]]）&lt;br /&gt;
*『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ) |新・平家物語]]』（1972年 NHK大河ドラマ 、演：[[勝呂誉]]）&lt;br /&gt;
*『[[草燃える]]』（1979年 NHK大河ドラマ、演：[[西田健]]）&lt;br /&gt;
*『[[武蔵坊弁慶 (テレビドラマ)|武蔵坊弁慶]]』（1986年 NHK新大型時代劇、演：[[長塚京三]]）&lt;br /&gt;
* 『[[源義経 (TBSドラマ)|源義経]]』（1990年 TBS、演：[[大門正明]]）&lt;br /&gt;
*『[[源義経 (テレビドラマ 1991年)|源義経]]』（1991年 日本テレビ、演：[[あおい輝彦]]）&lt;br /&gt;
*『[[平清盛 (TBSドラマ)|平清盛]]』（1992年 TBS、演：[[山本陽一]]）&lt;br /&gt;
*『[[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』（1993年7月～1994年3月、演：[[斧篤]]）&lt;br /&gt;
*『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』（2005年 NHK大河ドラマ、演：[[鶴見辰吾]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[平氏政権]]&lt;br /&gt;
*[[伊勢平氏]]&lt;br /&gt;
; 史料&lt;br /&gt;
*『[[吾妻鏡]]』鎌倉時代末期に編纂された歴史書&lt;br /&gt;
*『[[玉葉]]』当時の大臣である九条兼実の日記&lt;br /&gt;
; 軍記物語&lt;br /&gt;
*『[[平治物語]]』&lt;br /&gt;
*『[[平家物語]]』&lt;br /&gt;
*『[[源平盛衰記]]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の むねもり}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|むねもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:平家|むねもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1147年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1185年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Taira no Munemori]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B&amp;diff=42335</id>
		<title>平重盛</title>
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				<updated>2008-11-19T09:45:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 重盛'''（たいら の しげもり）は、平安時代末期の武将、公卿。平清盛の嫡男。  保元・平治の乱...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 重盛'''（たいら の しげもり）は、[[平安時代]]末期の[[武将]]、[[公卿]]。[[平清盛]]の嫡男。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[保元の乱|保元]]・[[平治の乱]]で若き武将として父[[平清盛|清盛]]を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身とともに累進し、最終的には[[近衛府|左近衛大将]]、[[正二位]][[内大臣]]にまで出世した。嫡男ではあったが正妻の[[平時子|時子]]の子である[[平宗盛|宗盛]]や[[平徳子|徳子]]とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が[[藤原成親]]の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も[[後白河天皇|後白河法皇]]に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策をとることができないまま、父に先立ち病没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
六波羅小松第に居を構えていたことから、'''小松殿'''ないし'''小松内大臣'''とも、またその邸宅に48の灯篭を建てていたことから'''灯篭大臣'''とも称された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 保元の乱、平治の乱 ===&lt;br /&gt;
[[保延]]4年（[[1138年]]）、清盛の長男として誕生。母は右近将監[[高階基章]]の女。[[久安]]6年（[[1150年]]）12月、[[鳥羽法皇]]の蔵人に補される。翌年正月に従五位下になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[保元]]元年（[[1156年]]）の[[保元の乱]]に父に従って参戦。『[[兵範記]]』には中務少輔・重盛の名が記されている。清盛の軍勢は[[源為朝]]との戦闘で大きな被害を出し、形勢不利と見た清盛は撤退を指示した。この時に重盛は父の制止を振り切って、為朝と戦うため出陣しようとするなど血気盛んなところを見せた。保元の乱は清盛の属す天皇方の勝利に終わり、保元2年（[[1157年]]）正月、重盛はその功績により19歳で従五位上に昇叙した。同年10月22日に[[大内裏]]が再建され、清盛は[[仁寿殿]]を造営した。父から造営の賞を譲られた重盛は、正五位下となった。保元3年（[[1158年]]）年8月、清盛は[[知行国]]を[[安芸国|安芸]]から[[遠江国|遠江]]に移す。自らは大宰大弐であったため、重盛が代わりに遠江守となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[平治]]元年（[[1159年]]）12月9日、[[平治の乱]]の勃発の時、清盛は熊野参詣のため[[紀伊国|紀伊]]にいた。『[[平治物語]]』では重盛は動揺する父を励ましたとするが、『[[愚管抄]]』によれば清盛と一緒にいたのは基盛・宗盛と侍15人で、重盛は同道していない。京都に戻った清盛は[[二条天皇]]を内裏から六波羅に脱出させ、[[藤原信頼|信頼]]・[[源義朝|義朝]]の追討宣旨を受ける。重盛は叔父・頼盛とともに出陣する。この戦いで重盛は「'''年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じ（平）だ、ならば敵を平らげよう'''」と味方の士気を鼓舞し、[[源義平]]と御所の右近の橘・左近の桜の間で激戦を繰り広げ、堀河の合戦では馬を射られながらも材木の上に立ち上がって新たな馬に乗り換えるなど獅子奮迅の活躍をする。もっとも『愚管抄』によれば義朝はすぐに内裏を出撃して六波羅に迫ったとあるので、内裏で戦闘が行われたかどうかは定かでなく、話を盛り上げるための創作の可能性もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この合戦で信頼に与していた成親は助命されているが、成親の妹・経子を妻にしていた重盛の嘆願が背景にあったと推測される。乱の終結後に合戦の恩賞の除目があり、重盛は勲功賞として[[伊予国|伊予守]]に任じられる。年が明けてすぐに従四位下となり、[[左馬頭]]も兼任する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 順調な昇進（二条親政期）===&lt;br /&gt;
[[応保]]元年（[[1161年]]）9月、後白河と[[平滋子]]の間に生まれた皇子（[[高倉天皇|憲仁親王]]）を皇太子にしようとする陰謀が発覚した。この事件では[[平時忠|時忠]]・[[平教盛|教盛]]・成親らが二条天皇によって解官されるが、清盛は同調せず二条を支援したため、その信任を確固たるものにした。重盛の昇進も目覚ましく、応保2年（[[1161年]]）正月に正四位下、10月に[[右兵衛督]]、翌年正月には26歳の若さで、従三位に叙せられ公卿となった。清盛は二条の親政を支える一方で後白河に対しても配慮を怠らず、後白河のために蓮華王院を造営した。[[長寛]]2年（[[1164年]]）2月、父から造営の賞を譲られた重盛は、正三位に叙された。9月、清盛は一門の繁栄を祈願して、[[厳島神社]]に装飾経33巻（平家納経）を寄進するが、重盛も一門・家人とともに製作に携わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長寛3年（[[1165年]]）4月、二条天皇は病に倒れた。重態となった二条天皇は5月に重盛を[[参議]]に任じ、6月に皇子・[[六条天皇|順仁]]に譲位、院庁を開設して執事別当に重盛を指名するなど最期まで執念を見せるが、7月に崩御した。六条天皇を平氏と摂関家が支える体制が成立し、重盛は[[永万]]2年（[[1166年]]）4月に[[左兵衛督]]、7月には[[権中納言]]・[[右衛門督]]となった。しかし天皇が幼少のため、政局は著しく不安定だった。7月に[[近衛基実|基実]]が死去すると、六条天皇の政権は瓦解する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 清盛の後継者（後白河院政期）===&lt;br /&gt;
平氏が二条親政派から離脱して後白河上皇を支持したことにより、[[仁安 (日本)|仁安]]元年（[[1166年]]）10月に憲仁親王の立太子が実現した。憲仁親王の乳母には重盛の室・経子と[[藤原邦綱]]の女・綱子が選ばれ、重盛は乳父（めのと）になった。12月には清盛の後任として[[春宮大夫]]となる。仁安2年（[[1167年]]）2月には、[[権大納言]]となり帯剣を許された。清盛は5月17日に[[太政大臣]]を辞任するが、それに先立つ5月10日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下された（『兵範記』）。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立した。さらに重盛は[[丹後国|丹後]]・[[越前国|越前]]を知行国として、経済的にも一門の中で優位にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後継者となった重盛だが健康を害したらしく、「日来所労」「昨今不快」により12月の東宮の御書始を欠席し、大乗会の上卿も交替する。仁安3年（[[1168年]]）2月、清盛が病のため出家。政情不安を危惧した後白河は憲仁を即位させ（高倉天皇）、体制の安定を図った。重盛は体調不良が続いたらしく、12月に権大納言を辞任する。出家後の清盛は福原に退隠し、六波羅には重盛が残って一門の統率にあたった。[[嘉応]]元年（[[1169年]]）11月の八十嶋祭では、重盛室の経子が勅使役となって重盛の六波羅邸から出立し、後白河と滋子が七条殿の桟敷で行列を見送っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 嘉応の強訴 ===&lt;br /&gt;
[[嘉応]]元年（[[1169年]]）12月23日、[[延暦寺]]の大衆が、重盛の義兄で[[尾張国|尾張]]の知行国主・藤原成親の流罪を求めて[[強訴]]を起こした（[[嘉応の強訴]]）。大衆は内裏を取り囲んで気勢を上げ、[[検非違使別当]]・時忠は官兵の派遣など早急な対策をとることを進言する。この時、重盛は官兵300騎を率いて宗盛・頼盛とともに待機していた。公卿の議定では慎重論が大勢を占め、重盛も後白河の三度に渡る出動命令を拒否したため、やむを得ず後白河院は成親の流罪を認めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、すぐに巻き返しに転じて成親を検非違使別当に任命、時忠は解任され身代わりに配流とされてしまう。後白河院と延暦寺の対立は悪化の一途をたどり、事態を憂慮した清盛は正月14日、重盛を福原に呼び寄せて状況を報告させた。このように重盛は一門の代表とはいえ、重要案件については清盛の判断が優先していて、自らの意思・行動はかなり制約されていた。結局、成親の解官で延暦寺は引き下がり事態は沈静化する。同年4月、重盛は権大納言に復帰し、成親も検非違使別当に返り咲いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 殿下乗合事件 ===&lt;br /&gt;
嘉応2年（[[1170年]]）7月3日、[[法勝寺]]八講の初日、[[摂政]]・[[松殿基房]]の従者が参詣途中で出会った平資盛の車の無礼をとがめて恥辱を与えた。その後、重盛の子の車と知った基房は震え上がり、ただちに下手人を重盛のもとに引き渡して謝罪するが、重盛は申し出を拒絶した。基房は報復を恐れて、しばらく外出を止める。ほとぼりが冷めたと思われた10月21日、天皇の元服定のため基房が参内する途中、重盛の武者が基房の従者を襲い乱暴を働いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この事件のため、天皇の元服定は延引となってしまう。重盛は天皇の乳父の立場にあり、その行為は許されるものではなかった。重盛を高く評価する[[慈円]]も、さすがにこの事件に関しては「不可思議ノ事ヲ一ツシタリシナリ」（『愚管抄』）と困惑している&amp;lt;ref&amp;gt;なお、『平家物語』ではおそらく重盛の善良ぶりを強調する為に史実を改編しており、重盛は基房に報復するどころか、むしろ非は息子の資盛にあるとして資盛を叱責している。しかし清盛は激怒し、重盛が静止するのも聞かずに基房に報復する。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この事件の影響からか、12月に重盛は再び権大納言を辞任する。翌年正月3日の天皇元服の儀式に、重盛は欠席した。この儀式の進行に携わったのは、建春門院の兄弟・[[平親宗|親宗]]と中納言に昇進していた異母弟・宗盛だった。宗盛の台頭は、重盛の後継者としての地位を脅かすものとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 右大将、内大臣就任 ===&lt;br /&gt;
[[承安 (日本)|承安]]元年（[[1171年]]）12月、清盛の女・徳子が高倉天皇に入内したのを機に、重盛は権大納言に復帰する。復帰後の重盛は、朝廷の公事を精力的に勤めた。承安3年（[[1173年]]）4月、法住寺殿の萱御所の火災ではいち早く駆けつけて消火活動にあたり、後白河から称えられた（『建春門院中納言日記』）。同年冬の南都大衆の強訴に対しては、院宣により家人・平貞能を宇治に派遣して防備に当たらせた。承安4年（[[1174年]]）7月、重盛は空席となっていた[[右近衛大将]]に任じられる。この任官に対して清盛の喜びは大きく、21日の拝賀の儀式には邦綱以下公卿10人、殿上人27人が付き従った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安元]]2年（[[1176年]]）正月、後白河の50歳の賀には重盛も一門の筆頭として出席、平氏と後白河法皇の蜜月ぶりを示した。5月に重盛は改めて海賊追討宣旨を受ける。しかし、7月に建春門院が死去したことで平氏と後白河法皇の対立はしだいに顕在化することになる。それでも翌年正月には重盛が[[左近衛大将]]、宗盛が右近衛大将となり、両大将を平氏が独占する。3月には[[藤原師長]]が太政大臣となったことで空席となった内大臣に任じられる。後白河法皇も福原を訪れるなど、表面的には何事もなく時は過ぎていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 安元の強訴と鹿ケ谷事件 ===&lt;br /&gt;
しかし、4月になると延暦寺が[[加賀国|加賀守]]・[[藤原師高]]の流罪を要求して強訴を起こす。発端は延暦寺の末寺・白山と現地の目代の紛争で、中央に波及して院と延暦寺の全面衝突となった。この時、官兵を率いた重盛は閑院内裏を警護して大衆と対峙していたが、家人の放った矢が神輿の当たるという不祥事を引き起こした。高倉天皇は法住寺殿に避難し、後白河は大衆を実力で排除しようとするが、京都が戦場になる可能性があると反対の声が上がり、実際に出動する平氏一門も、延暦寺との衝突には極めて消極的な態度をとったために断念、大衆の要求を受諾して師高の配流・神輿を射た重盛の家人の投獄を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、「[[太郎焼亡]]」と呼ばれる大火が発生し、太極殿・関白以下13人の公卿の邸宅が焼失する。その中には重盛の邸宅も含まれていた。5月、後白河は延暦寺に報復を決意すると、[[天台座主]]・[[明雲]]を解任、所領を没収して[[伊豆国|伊豆]]への配流を命じた。しかし明雲の身柄は大衆に奪還されたため、後白河は重盛・宗盛を呼び出して延暦寺への攻撃を命じた。重盛らは「清盛の指示がなければ動かない」と返答したため、話にならないと見た後白河法皇は、清盛を福原から呼び出した。清盛も出兵には消極的だったが後白河法皇は強硬姿勢を崩さず、やむを得ず出兵を承諾した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月1日、[[多田行綱]]が平氏打倒の陰謀を密告したことで状況は激変した。この事件では重盛の義兄・成親も関与していて、重盛は捕らえられた成親に「命だけは助かるようにする」と励ましたという（『愚管抄』）。清盛の怒りは凄まじく、成親は[[備前国|備前]]へ配流され関係者も一網打尽に検挙された（[[鹿ケ谷の陰謀]]）。重盛は左大将を辞任して抗議の姿勢を見せ、配流された成親に密かに衣類を送るなど必死の努力をするが、7月に成親は殺害された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重盛は嫡子・維盛の妻に成親の女を迎えるなど、成親と親密な関係だった。重盛は成親を、後白河に対する交渉窓口・パイプ役として重視し、後白河法皇に平氏の要望を取り次ぐ役割を期待していた。その成親が平氏打倒の首謀者であったことで、重盛の面目は丸潰れとなり政治的地位を失墜させることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 終焉 ===&lt;br /&gt;
この事件により重盛は無気力となり、政治の表舞台にはほとんど姿を見せなくなる。[[治承]]2年（[[1178年]]）2月には内大臣の辞任を申し出るが、中宮・徳子が懐妊したため、中宮の父とされていた重盛の辞任は認められなかった。6月、重盛は着帯の儀式に出席する。徳子は11月に皇子を出産（[[安徳天皇]]）。翌月には「言仁」の名字が定められ、立太子した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
治承3年（[[1179年]]）2月、重盛は東宮の百日（ももか）の祝に出席するが、病により家に籠もるようになる。3月には熊野に参詣して後世のことを祈ったという。やがて不食に陥り、5月25日出家した。法名は浄蓮。6月21日には後白河が、六波羅の小松殿を訪れて重盛を見舞った。時を同じくして清盛の女・盛子も亡くなっているが、後白河は盛子の相続していた摂関家領を自らの管理下に置き、平氏への圧力を強めていた。7月29日、42歳で死去した。死因については、胃潰瘍、背中にできた腫瘍、脚気などの説がある。10月、[[仁安 (日本)|仁安]]元年（[[1166年]]）以来の重盛の知行国・越前が、後白河法皇によって没収された。翌月、清盛と後白河法皇の関係は完全に破綻、[[治承三年の政変]]によって後白河院政は停止される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
重盛に対する同時代人の評価は、「'''かくの如きの時、必ず使を送られ殊に芳心（親切な心）を致されるなり'''」（『山槐記』）、「'''イミジク心ウルハシク'''」（『愚管抄』）、「'''武勇時輩にすぐると雖も、心懆甚だ穏やかなり'''」（『[[百錬抄]]』）など好意的なものが多く、優れた武人であると同時に穏和で気配りのできる人物だった（ただし[[九条兼実]]は重盛を嫌っていて、非難の言葉を日記に記している）。[[中山忠親]]の送った見舞いの使者に対しても「'''年来の素懐、障りなく遂げおはんぬ。喜悦きはまりなし'''」と返礼を述べている。その温厚・誠実な人柄で後白河の信任も厚く、『[[平家物語]]』において平氏一門の良識派的な存在とされていることも、その人柄が後世に伝わっていたことによると思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、清盛と後白河の間に立たされた重盛は、平氏の棟梁とはいっても全権を掌握していたわけではなかった。自らの意思を封じ込め調整役に回らざるを得ない立場が、彼の温厚な性格を形成したといえる。しかし、その性格は本来のものではなく、努力と自己抑制による後天的なものと思われる。保元・平治の乱での勇猛で生き生きとした姿は影を潜めるが、殿下乗合事件を見ると、激しい感情を心の底に隠していたと考えられる。重盛がつぶやいたという「'''忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず'''」（『[[日本外史]]』）の言葉も史実かどうかは不明だが、『愚管抄』でも重盛は「'''トク死ナバヤ（早く死にたいものだ）'''」と生きることに望みを失った言葉を残しており、清盛と後白河の対立の中で無力であった状況を考えれば、あり得ない話ではない。更に重盛の母は身分が低かったため、支えてくれる有力な親族を持たず、同母弟の基盛が早くに死去していたことも、重盛の孤立感を深めたと推測される。異母妹の徳子を養女として高倉天皇の中宮としたものの、実際に外戚として重んじられたのは徳子の同母兄弟の宗盛・知盛・重衡らであり、平氏の棟梁としての地位すら危うくなっていた（これは重盛の没後、重盛の子である維盛ではなく宗盛が棟梁となっていることからも分かる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
重盛の死は、清盛と後白河法皇の対立を抑えていた最後の歯止めが失われたことを意味し、両者の同盟関係を完全に崩壊させることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 肖像画 ==&lt;br /&gt;
重盛の肖像画は京都神護寺所蔵の神護寺三像伝平重盛像である。だが、近年、足利尊氏の肖像画ではないかという説が有力となってきているため、論争となっている（[[神護寺三像|評細は神護寺三像の項目参照]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
*久安6年（1150年）（13歳）&lt;br /&gt;
:12月30日:蔵人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*久安7年のち改元して仁平元年（1151年）（14歳）&lt;br /&gt;
:正月1日:従五位下&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*久寿2年（1155年）（18歳）&lt;br /&gt;
:7月22日:中務少輔&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*保元2年（1157年）（20歳）&lt;br /&gt;
:正月24日:従五位上（保元の乱での功績）&lt;br /&gt;
:9月19日:中務権大輔&lt;br /&gt;
:10月22日:正五位下&lt;br /&gt;
:10月27日:左衛門佐&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*保元3年（1158年）（21歳）&lt;br /&gt;
:8月10日:遠江守&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*保元4年のち改元して平治元年（1159年）（22歳）&lt;br /&gt;
:12月27日:伊予守（平治の乱での功績）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*平治2年のち改元して永暦元年（1160年）（23歳）&lt;br /&gt;
:正月6日:従四位下&lt;br /&gt;
:正月27日:左馬頭&lt;br /&gt;
:10月11日:従四位上&lt;br /&gt;
:11月30日:内蔵頭。左衛門佐・伊予守両官を止む&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*応保2年（1162年）（25歳）&lt;br /&gt;
:正月5日:正四位下&lt;br /&gt;
:正月27日:内蔵頭を辞任&lt;br /&gt;
:10月28日:右兵衛督&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*応保3年のち改元して長寛元年（1163年）（26歳）&lt;br /&gt;
:正月5日:従三位&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*長寛2年（1164年）（27歳）&lt;br /&gt;
:2月17日:正三位&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*長寛3年のち改元して永万元年（1165年）（28歳）&lt;br /&gt;
:5月9日:参議に補任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*永万2年のち改元して仁安元年（1166年）（29歳）&lt;br /&gt;
:正月12日:近江権守を兼任&lt;br /&gt;
:4月6日:左兵衛督&lt;br /&gt;
:7月15日:権中納言。右衛門督を兼任&lt;br /&gt;
:12月2日:春宮大夫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*仁安2年（1167年）（30歳）&lt;br /&gt;
:正月28日:従二位&lt;br /&gt;
:2月11日:権大納言。春宮大夫を兼任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*仁安3年（1168年）（31歳）&lt;br /&gt;
:2月19日:春宮大夫を辞任（高倉天皇践祚のため）&lt;br /&gt;
:12月13日:権大納言を辞任（病のため）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*仁安4年のち改元して嘉応元年（1169年）（32歳）&lt;br /&gt;
:正月5日:正二位&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*嘉応2年（1170年）（33歳）&lt;br /&gt;
:4月21日:権大納言に還任&lt;br /&gt;
:12月30日:権大納言を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*嘉応3年のち改元して承安元年（1171年）（34歳）&lt;br /&gt;
:12月8日:権大納言に還任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*承安4年（1174年）（37歳）&lt;br /&gt;
:7月8日:右近衛大将&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*承安5年のち改元して安元元年（1175年）（38歳）&lt;br /&gt;
:11月28日:大納言。右近衛大将も兼任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*安元3年のち改元して治承元年（1177年）（40歳）&lt;br /&gt;
:正月24日:左近衛大将&lt;br /&gt;
:3月5日:内大臣。左近衛大将も兼任&lt;br /&gt;
:6月5日:左近衛大将を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承2年（1178年）（41歳）&lt;br /&gt;
:2月8日:内大臣の辞表を提出&lt;br /&gt;
:6月:辞表返却。内大臣留任（徳子懐妊のため）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*治承3年（1179年）（42歳）&lt;br /&gt;
:3月11日:内大臣を辞任&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場作品 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[平治物語]]&lt;br /&gt;
*[[平家物語]]&lt;br /&gt;
*[[源平盛衰記]]&lt;br /&gt;
*『[[地獄門]]』（1953年 大映、監督：[[衣笠貞之助]]、演：[[黒川弥太郎]]）&lt;br /&gt;
*『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ) |新・平家物語]]』（1972年 NHK大河ドラマ 、演：[[原田大二郎]]）&lt;br /&gt;
*『[[源義経 (テレビドラマ 1991年)|源義経]]』（1991年 日本テレビ、演：[[西園寺章雄]]）&lt;br /&gt;
*『[[平清盛 (TBSドラマ)|平清盛]]』（1992年 TBS、演：[[渡部篤郎]]）&lt;br /&gt;
*『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』（2005年 NHK大河ドラマ、演：[[勝村政信]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;ゲーム&lt;br /&gt;
*『[[遙かなる時空の中で3]]』（[[コーエー]] [[プレイステーション2|PS2]] 2004年 有川将臣：声:[[三木眞一郎]]）&lt;br /&gt;
*『[[遙かなる時空の中で3十六夜記]]』（2005年 有川将臣：声:[[三木眞一郎]]）&lt;br /&gt;
*『[[遙かなる時空の中で3 運命の迷宮]]』（2006年 有川将臣：声:[[三木眞一郎]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主人公（プレイヤー）の幼馴染み。現代人だったが、時空を流され、行き着いた先で、[[平清盛]]に拾われる。平重盛に生き写しだったことから、世話になっているうちに、重盛本人と誤解されるようになるが、自らその立場を選び、源氏と闘う決意をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[平氏政権]]&lt;br /&gt;
*[[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
*[[伊勢平氏]]&lt;br /&gt;
*[[平家の落人]]&lt;br /&gt;
*[[法楽寺 (大阪市)|法楽寺]]&lt;br /&gt;
*[[博多松囃子]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の しけもり}} &lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|しけもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:平家|しけもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1138年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1179年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Taira no Shigemori]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E9%AB%98%E6%9C%9B%E7%8E%8B&amp;diff=41681</id>
		<title>高望王</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E9%AB%98%E6%9C%9B%E7%8E%8B&amp;diff=41681"/>
				<updated>2008-10-26T11:22:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: これで本当に平氏関連のリダイレクト作成を完了&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[平高望]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%89%E4%BA%95%E8%B2%A1%E9%96%A5&amp;diff=41680</id>
		<title>三井財閥</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%89%E4%BA%95%E8%B2%A1%E9%96%A5&amp;diff=41680"/>
				<updated>2008-10-26T11:21:32Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:Mitsui main building01s3200.jpg|thumb|250px|東京都中央区日本橋室町 [[三井本館]]]]&lt;br /&gt;
'''三井財閥'''（みついざいばつ）は、[[三井高利]]の創業した三井越後屋（現在の[[三越]]・[[三井住友銀行]]）を元に始まった[[日本]]屈指の[[財閥]]。[[三菱財閥]]・[[住友財閥]]とともに日本三大[[財閥]]の一つとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 江戸時代 ==&lt;br /&gt;
[[Image:Hiroshige, Sugura street.jpg|thumb|170px|名所江戸百景 駿河町（[[歌川広重]]）&amp;lt;br /&amp;gt;越後屋の暖簾を見ることができる。現在、通りの右側に[[三井本館]]、左側に[[三越]]日本橋本店がある。手前左右の通りが[[中央通り (東京都)|中央通り]]。]]&lt;br /&gt;
[[伊勢国]][[松阪市|松坂]]の商人、[[三井高利]]が創業した越後屋三井呉服店（三越）は、「現銀掛値なし、切売り」など当時としては画期的商法で、またたくまに成功した。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕末は、他の商人同様経営は乱れるも、新政府に取り入り政商としての道を歩んでいく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 明治以後 ==&lt;br /&gt;
[[三野村利左衛門]]、[[中上川彦次郎]]などの人物を採用し、経営の近代化を進めていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1876年]]、[[三井銀行]]・[[三井物産]]を創業。その後も、事業を拡大し紡績業、[[鉱業]]、機械などにも進出。多数の企業を傘下に加え、[[1909年]]三井[[合名会社]]を設立。日本最大の財閥へと発展を遂げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[岩崎家]]の同族主義が強かった[[三菱財閥]]に対し、有能な人材を多く配したことから'''「組織の三菱、人の三井、結束の住友」'''と言われたり、[[三菱]]「'''独裁政治'''」[[三井]]「'''番頭政治'''」[[住友]]「'''法治主義'''」と言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''主な人物'''　[[益田孝]]、[[山本条太郎]]、[[井上馨]]、[[團琢磨]]、[[池田成彬]]、[[日比翁助]]、[[武藤山治]]、[[藤原銀次郎]]、[[馬越恭平]]、[[万代順四郎]]、[[向井忠晴]]、[[萩原吉太郎]]、[[小山五郎]]、[[江戸英雄]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]後、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による[[財閥解体]]により解散した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 現在（財閥解体後～[[{{CURRENTYEAR}}年]]現在）==&lt;br /&gt;
戦後、他財閥と同様「[[三井グループ]]」としてグループ化をするも、相対的弱体化を余儀なくされる。その主な原因は、戦後[[第一銀行]]の分離により[[三井銀行]]が被った大きな損失で、三井銀行は資本金の約50％を失った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため三井系会社が必要とするクレジットを提供することができなくなり、グループのいくつかに対する影響力を失い、他のグループの銀行がこれらの会社の主要な債権者になった。また三井系の生産会社間の有機的、生産的、金融的結びつきの弱さがもう1つの原因となり、一連の会社が三井との関係を弱めたり分離したりすることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに三井グループの中核会社である[[三井物産]]の解体も大きく影響し、三井物産を基盤にしてすすめられた三井物産と[[第一物産]]の再合同は、第一物産が[[富士銀行]]の融資系列化にあったため手間取り難航した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため[[三菱グループ]]や[[住友グループ]]などと比べてもゆるやかな連合体となっており、グループ企業には独立色の強い企業（[[トヨタ自動車]]、[[東芝]]など）や他の企業グループに重複して加盟している企業もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2001年]]に[[三井グループ]]の中核銀行である[[さくら銀行]]が住友グループの中核銀行・[[住友銀行]]と合併して[[三井住友銀行]]が誕生したことに伴い[[金融]]面では[[三井住友フィナンシャルグループ]]が誕生し、他業種でも三井系と[[住友財閥|住友]]系の企業の合併や業務提携が相次いだ。源流企業の三越は、[[三菱東京UFJ銀行]]との関係が深い[[伊勢丹]]と2008年4月に合併、経営統合する予定である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[三井家]]&lt;br /&gt;
*[[團琢磨]]&lt;br /&gt;
*[[綱町三井倶楽部]]&lt;br /&gt;
*[[はぜ (板金)|三井はぜ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みつい}}&lt;br /&gt;
[[Category:三井グループ|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の財閥・コンツェルン]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の経済]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%89%E4%BA%95%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97&amp;diff=41679</id>
		<title>三井グループ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%89%E4%BA%95%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97&amp;diff=41679"/>
				<updated>2008-10-26T11:20:42Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''三井グループ'''（みついグループ）は、[[日本]]の企業グループのひとつ。戦前の[[三井財閥]]の流れを汲む企業の連合体。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
戦前の三井財閥は日本最大級の[[財閥]]として財界に君臨したが、戦後の財閥解体後、同じ旧財閥の[[三菱グループ]]・[[住友グループ]]に比べて再結集が遅れたこと、本来中核となってグループに資金供給をすべき[[三井銀行]]が[[帝国銀行]]の分裂によって規模が縮小してしまっていたことなどから、三井グループはあまり結束が強くないと言われている。また、かつての三井銀行との関係などから、[[東芝]]や[[トヨタ自動車]]、[[サントリー]]などが、そして東芝との関係から[[IHI]]なども加わっているが、IHIは一般的に[[みずほグループ]]とみなされている他、各社ともどちらかといえば独立系であり、トヨタ自動車に至ってはそれ自体が「[[トヨタグループ]]」を形成する一大企業グループである。また、[[三井住友フィナンシャルグループ]]傘下の企業には住友グループとの結びつきが強く「三井グループ」とはいいがたい企業もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最近の動きとしては、戦前[[三井物産]]より分離・独立した[[トーメン]]が[[トヨタ自動車]]の子会社である[[豊田通商]]に併合され、[[三井精機]]の筆頭株主が[[トヨタ自動車]]になるなど、同じグループとはいえトヨタの影響力を強く受けている。また、かつて御三家といわれた[[さくら銀行]]（旧三井銀行）は[[住友銀行]]に併呑され、[[三井鉱山]]は一度事実上の倒産を経験するなどの紆余曲折もあった。2008年4月には、三井財閥の源流である越後屋呉服店の後裔[[三越]]が、[[三菱東京UFJ銀行]]（旧[[三菱銀行]]）をメインバンクとする[[伊勢丹]]と共同持株会社「三越伊勢丹ホールディングス」を設立し、経営統合（伊勢丹主導）した。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、[[二木会]]加盟の企業の中では、[[三井]]の名前を冠さない三井傍系の大企業が多数あり、それらと直系との強い結びつきを模索する動きが見られる。この潮流の一環として、[[2005年]]に開催された[[愛・地球博]]では[[三井・東芝館]]が三井グループより出展された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三井グループ主要各社==&lt;br /&gt;
かつては三井銀行・三井鉱山・三井物産の三社（後には三井鉱山に替わって[[三井不動産]]）が「三井グループ御三家」と呼ばれていたこともあり、現在では三井直系の物産・不動産は当然であるものの、残り一つについては各方面において意見が別れる｡&amp;lt;br/&amp;gt;もっとも現時点において[[グループ]]・[[御三家]]などカテゴライズする意味合いが薄れていることも考慮する必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{|class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!社名!![[二木会]]!!三井広報委員会!!三井業際研究所!![[綱町三井倶楽部]]!!月曜会&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[IHI]]||○||-||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[イビデン]]||-||-||○||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[イビデングリーンテック]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[宇徳]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|エムオーツーリスト||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[エームサービス]]||-||○||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[王子製紙]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[極東石油]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[サッポロホールディングス]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[サッポロビール]]||-||○||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三機工業]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[サントリー]]||-||○||-||-||-&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[商船三井]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[昭和飛行機工業]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[新日本空調]]||-||○||-||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|ジーエス・ユアサコーポレーション||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[住友三井オートサービス]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[セントラル警備保障]]||-||-||-||-||-&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[太平洋興発]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[太平洋セメント]]||○||-||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第一園芸]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[ダイセル化学工業]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[大和証券エスエムビーシー]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[中央三井トラスト・ホールディングス|中央三井トラストHD]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[中央三井アセット信託銀行]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[中央三井信託銀行]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[電気化学工業]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東亞合成]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東芝]]||○||-||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東セロ]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東洋エンジニアリング]]||-||○||○||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[東レ]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|東レインターナショナル||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[西日本電線]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[トヨタ自動車]]||○||-||○||○||-&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[日本紙パルプ商事]]||-||-||-||○||-&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[日本製鋼所]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[日本製紙グループ本社]]||○||-||○||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[日本製紙]]||-||-||-||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[日本製粉]]||○||-||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[日本ユニシス]]||-||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[フジクラ]]||-||-||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[富士フイルムホールディングス|富士フイルムHD]]（注3）||○||-||○||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[富士フイルム]]||-||-||-||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[物産不動産]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三国コカ・コーラボトリング]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井海洋開発]]||-||-||-||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井化学]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井共同建設コンサルタント]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井金属鉱業]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井鉱山]]||○||-||○||-||-&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井情報]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井住友海上グループホールディングス]]（注1）||○||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[三井住友海上火災保険]]（注1）||-||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[三井住友海上メットライフ生命保険]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井住友建設]]（注1）||○||-||○||-||-&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井住友フィナンシャルグループ|三井住友FG]]（注1）||-||-||○||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[三井住友銀行]]（注1）||○||○||-||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[三井住友カード]]（注1）||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[SMBCコンサルティング]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[SMBCファイナスサービス]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[さくらカード]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[さくら情報システム]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井住友ファイナンス&amp;amp;リース]]||-||○||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井精機工業]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井製糖]]||-||-||○||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井生命保険]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井石油]]||-||○||-||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井丸紅液化ガス]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井石油開発]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井倉庫]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井造船]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井デザインテック]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井農林]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井不動産]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井不動産販売]]||-||-||-||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井不動産レジデンシャル]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井物産]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井ホーム]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井松島産業]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井三池製作所]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三井リース事業]]||-||○||-||-||○|-&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[三越伊勢丹ホールディングス]]||-||-||-||-||○&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|　[[三越]]||○||○||○||○||○&lt;br /&gt;
|}注1：[[三井住友フィナンシャルグループ]]（[[三井住友銀行]]、[[三井住友銀リース]]）、[[三井住友海上火災保険]]、[[三井住友建設]]は[[住友グループ]]でもある。&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
注2：かつて三井業際研究所に加盟していた[[セントラル警備保障]]（略称：''CSP''、'''セン警'''）は現在、脱退しているためいずれの会にも未加盟。&lt;br /&gt;
注3：二木会には2007年10月加盟&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*二木会は、[[財閥解体]]で緩みかかったグループの連帯維持を目的に設けられた「月曜会」を母体として、1961年に発足し、グループ企業の会長・社長を集めて行う懇談昼食会を活動の中心としている。毎月第2[[木曜日]]に開かれるのでこの名がある。またグループの内部広報紙を発行する三友新聞社にも出資している。&lt;br /&gt;
*三井広報委員会は三井グループの広報を目的としている。&lt;br /&gt;
*三井業際研究所は、業種の枠を超えた「異業際分野における知識集団としての機能を果す」（同研究所公式ページより）事を目的に、二木会の直属機関として1978年に設立された。&lt;br /&gt;
*綱町三井倶楽部は、グループ企業の課長クラス以上の役職員・OBの親睦を図る目的で設立された会員制クラブで、同名の歴史的建造物（現在もグループの迎賓館として使用）を拠点としている。&lt;br /&gt;
*月曜会は、三井グループ各社の役員間の相互親睦と情報交換を目的とする会合。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==三井グループと親密な企業==&lt;br /&gt;
*[[イトーヨーカ堂]] - 旧三井銀行と縁が深い。三井物産とも物流などの面で提携し、共同でショッピングモールの開発も行っている。&lt;br /&gt;
*[[オーケー食品工業]] - 三井物産と日本製粉が支援を行っている中堅食品メーカー&lt;br /&gt;
*[[オリエンタルランド]] - 三井不動産が大株主になっている。また、[[東京ディズニーランド]]・[[東京ディズニーシー]]内には三井住友銀行（旧三井銀行→さくら銀行、以下同）の出張所がある。&lt;br /&gt;
*[[カネボウ]] - 旧三井銀行をメインバンクとしていた。旧カネボウの業務を分割移管された投資ファンド系列の新会社とは現在は関係が薄い。[[カネカ]]（旧鐘淵化学）の元親会社で兄弟会社でもあった。&lt;br /&gt;
*[[倉敷紡績]]（クラボウ）&lt;br /&gt;
*[[相模鉄道]]&lt;br /&gt;
*[[新日鉱ホールディングス]]&lt;br /&gt;
*[[鹿島建設]] - 三井不動産と緊密&lt;br /&gt;
*[[西部ガス]] - 三井住友銀行、三井生命保険、三井住友海上（旧大正海上火災→三井海上）等の三井系企業数社が主要株主として出資&lt;br /&gt;
*[[ソニー]] - 三井住友銀行がメインバンク。社外取締役に三井住友銀行の岡田会長（旧三井銀行出身）が就任していたことがある。また、三井住友銀行と共に[[ソニー銀行]]を設立した。&lt;br /&gt;
*[[東京放送]] - 三井住友銀行がメインバンクであり、同社の大株主になっている。三井物産とも関係が深い。&lt;br /&gt;
*[[ナイガイ]]&lt;br /&gt;
*[[野村ホールディングス|野村グループ]] - 三井グループ各社の主幹事を務めている。&lt;br /&gt;
*[[日野自動車]] - 現在はトヨタ自動車の子会社&lt;br /&gt;
*[[リゾートソリューション]] - 旧ミサワリゾートを野村プリンシパル・ファイナンス（野村グループ系列）と三井不動産が[[ミサワホームホールディングス]]から買収したことから。現在は野村プリンシパル・ファイナンスの株主異動により三井不動産が筆頭株主となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[三井家]]&lt;br /&gt;
*[[三井文庫]]&lt;br /&gt;
*[[三井記念美術館]]&lt;br /&gt;
*[[三井本館]]&lt;br /&gt;
*[[日本の企業グループ一覧]]&lt;br /&gt;
*[[三井ゴールデングラブ賞]]（[[日本]][[プロ野球]]）&lt;br /&gt;
*[[兼高かおる世界の旅]]（TBS系列、番組開始当初から[[1977年]]まで三井物産→三井グループが[[スポンサー]]だった）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==外部リンク==&lt;br /&gt;
*[http://www.mitsuipr.com/ 三井広報委員会]&lt;br /&gt;
*[http://www.mitsui-gyoosai.com/ 三井業際研究所]&lt;br /&gt;
*[http://www.tsunamachimitsuiclub.co.jp/ 綱町三井倶楽部]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:三井グループ|*]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Mitsui]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E9%AB%98%E6%A3%9F%E7%8E%8B&amp;diff=41678</id>
		<title>高棟王</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E9%AB%98%E6%A3%9F%E7%8E%8B&amp;diff=41678"/>
				<updated>2008-10-26T11:16:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 作成し忘れた平氏関連のリダイレクトを作成&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[平高棟]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>仲野親王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''仲野親王'''（なかのしんのう、延暦11年（792年） - 貞観9年1月17日（867年2月25日））は...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''仲野親王'''（なかのしんのう、[[延暦]]11年（[[792年]]） - [[貞観 (日本)|貞観]]9年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]（[[867年]][[2月25日]]））は、[[平安時代]]前期の[[皇族]]。[[桓武天皇]]の第12皇子で、母は宮人[[藤原河子]]（[[藤原大継]]女）。[[平城天皇]]・[[嵯峨天皇]]・[[淳和天皇]]らの異母弟で、同母兄弟に[[安勅内親王]]・[[大井内親王]]・[[紀内親王]]・[[善原内親王]]がいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[弘仁]]5年（[[814年]]）四品に叙される。当時の親王の初叙が18歳であった中で親王の初叙が遅かった理由については不明である。[[天長]]7年（[[830年]]）[[大宰帥]]に任ぜられた。天長10年（[[833年]]）に三品に昇叙され、[[承和 (日本)|承和]]9年（[[842年]]）[[弾正尹]]に任ぜられ、承和14年（[[847年]]）に二品になった。[[嘉祥]]3年（[[850年]]）[[式部卿]]になり、[[仁寿]]3年（[[853年]]）[[常陸国|常陸]]太守を兼任する。貞観3年（[[861年]]）[[上総国|上総]]太守を兼ね、貞観5年（[[863年]]）に大宰帥に遷任。翌年の貞観6年（[[864年]]）、輦車に乗り宮中に入ることを勅許された。貞観9年（[[867年]]）正月17日、76歳で薨去した。[[山城国]]葛野郡内（[[京都市]][[右京区]]太秦垂箕山町）の高畠墓に葬られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幼少の頃から利発で、人柄も寛大だったらしい。[[藤原緒継]]から学んだ音儀詞語に詳しく、六条第で[[藤原基経]]や[[大江音人]]らに音詞曲折を教えたという。息子14人・娘15人の父で、子に平茂世（[[茂世王]]）・[[輔世王]]・[[房世王]]・[[秀世王]]・[[当世王]]・[[基世王]]・[[潔世王]]・[[実世王]]・[[十世王]]・[[在世王]]・[[康世王]]・[[則世王]]・[[惟世王]]・[[宜子女王]]・[[班子女王]]らがいた。娘の班子女王は[[光孝天皇]]の女御で[[宇多天皇]]の母となり、その宇多天皇が即位したため、外祖父にあたる仲野親王に一品[[太政大臣]]が追贈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*平野邦雄・瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』[[吉川弘文館]]、2006年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:なかのしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:常陸国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:上総国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:792年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:867年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>万多親王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''万多親王'''（まんだしんのう、延暦7年（788年） - 天長7年4月21日（830年5月16日））は、[[平安時代...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''万多親王'''（まんだしんのう、[[延暦]]7年（[[788年]]） - [[天長]]7年[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]（[[830年]][[5月16日]]））は、[[平安時代]]初期の[[皇族]]。[[桓武天皇]]の第5皇子で、母は夫人[[藤原小屎]]（[[藤原鷲取]]の娘）。[[平城天皇]]・[[嵯峨天皇]]・[[淳和天皇]]らの異母兄弟。初名を'''茨田親王'''（まんだしんのう）と言った。子に[[正躬王]]・[[正行王]]・[[雄風王]]らがおり、子孫はいずれも[[平氏|平朝臣姓]]を賜った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
延暦23年（[[804年]]）正月、茨田を万多と改名する。[[大同 (日本)|大同]]4年（[[809年]]）四品[[中務卿]]として東院に奉献した。[[弘仁]]5年（[[814年]]）6月、[[右大臣]][[藤原園人]]・[[参議]][[藤原緒嗣]]と共に『[[新撰姓氏録]]』を完成させてこれを嵯峨天皇に上表。翌年の弘仁6年（[[815年]]）7月に再度上表する。弘仁8年（[[817年]]）正月三品に昇進し、同10年4月勘本系使として藤原緒嗣らと共に旧記によって訛謬を判定することを上表し許された。弘仁14年（[[823年]]）9月[[式部卿]]になり、天長5年（[[828年]]）正月[[大宰帥]]となる。天長7年（830年）4月二品に昇叙され、同年4月21日薨去した。享年43。死後、一品を追贈された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*平野邦雄・瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館、2006年。 &lt;br /&gt;
*[[角田文衛]]監修『[[平安時代史事典]]』[[角川書店]]、1994年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[新撰姓氏録]]&lt;br /&gt;
*[[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まんたしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:788年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:830年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>利用者:Abcde</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: /* 私がYourpediaで作成したリダイレクトページ */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;== 私がYourpediaで作成したリダイレクトページ ==&lt;br /&gt;
* [[政友会]]&lt;br /&gt;
* [[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
* [[仁明平氏]]&lt;br /&gt;
* [[文徳平氏]]&lt;br /&gt;
* [[光孝平氏]]&lt;br /&gt;
* [[高棟王]]&lt;br /&gt;
* [[高望王]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Wikipedia日本語版編集時のメモ ==&lt;br /&gt;
*[[wiki:Wikipedia:ウィキプロジェクト]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:Category:スタブカテゴリ]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:Wikipedia:検証可能性]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[[wiki:利用者:Abcde|Wikipedia日本語版における私の利用者ページ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A&amp;diff=41674</id>
		<title>政友会</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 立憲政友会へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[立憲政友会]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平高棟</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 高棟'''（たいら の たかむね/'''高棟王'''（たかむねおう）、延暦23年（804年） - 貞観9年[[5月19日 (旧暦)|5...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 高棟'''（たいら の たかむね/'''高棟王'''（たかむねおう）、[[延暦]]23年（[[804年]]） - [[貞観 (日本)|貞観]]9年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]（[[867年]][[6月24日]]））は[[平安時代]]前期の[[賜姓皇族]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[桓武平氏]]高棟流の祖。祖父は[[桓武天皇]]、父は[[葛原親王]]、妻は[[藤原長良]]の女、[[藤原有子]]、子に[[平実範]]（平実雄とも言われる）、[[平正範]]、[[平惟範]]、[[平季長]]らがいる。[[平善棟]]、及び非実在説もある[[高見王]]らは弟。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天長]]2年（[[825年]]）7月6日に伯父に当たる[[淳和天皇]]から平姓を賜り、平高棟と名乗る。これが桓武平氏の起こりで、子孫は代々中流貴族として栄えた。「平氏にあらずば人にあらず」と放言したと言われる[[平時忠]]は惟範の系統で10代目の子孫にあたり、源平合戦後も[[時国家]]として存続した。また17代目の子孫にあたる[[西洞院行時]]は[[西洞院家]]を興し、西洞院家は[[堂上家]]に列したが[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に中絶し、[[河鰭家]]から[[西洞院時慶|河鰭公虎（西洞院時慶）]]が[[養子]]が入って再興した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官職位階履歴 ==&lt;br /&gt;
※日付は旧暦。&lt;br /&gt;
*[[弘仁]]14年（[[823年]]）1月7日、従四位下に叙位。　9月、侍従に任官。&lt;br /&gt;
*[[天長]]元年（[[824年]]）9月22日、大学頭に転任。&lt;br /&gt;
*天長3年（[[826年]]）9月13日、中務大輔に転任。 &lt;br /&gt;
*天長5年（[[828年]]）閏3月9日、大舎人頭に遷任。&lt;br /&gt;
*天長7年（[[830年]]）1月7日、従四位上に昇叙。大舎人頭如元。　　10月13日、大蔵卿に転任。&lt;br /&gt;
*天長8年（[[831年]]）、刑部卿に遷任。&lt;br /&gt;
*[[承和 (日本)|承和]]9年（[[842年]]）1月7日、正四位下に昇叙。刑部卿如元。　　8月11日、大蔵卿に遷任。&lt;br /&gt;
*承和10年（[[843年]]）4月14日、従三位に昇叙。大蔵卿如元。 &lt;br /&gt;
*[[仁寿]]元年（[[851年]]）12月25日、参議に補任。大蔵卿兼任如元。&lt;br /&gt;
*[[斉衡]]元年（[[854年]]）8月28日、春宮（惟仁親王＝のちの清和天皇）大夫を兼任。大蔵卿兼任を止むか。&lt;br /&gt;
*[[天安 (日本)|天安]]2年（[[858年]]）9月14日、権中納言に転任。　　　11月7日、正三位に昇叙。権中納言如元。&lt;br /&gt;
*[[貞観 (日本)|貞観]]元年（[[859年]]）12月21日、陸奥出羽按察使を兼任。 &lt;br /&gt;
*貞観2年（[[860年]]）1月16日、中納言に転任。陸奥出羽按察使兼任如元。 &lt;br /&gt;
*貞観6年（[[864年]]）1月12日、大納言に転任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の たかむね}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|たかむね]]&lt;br /&gt;
[[Category:804年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:867年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E8%91%9B%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%8E%8B&amp;diff=41672</id>
		<title>葛原親王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''葛原親王'''（かずらわらしんのう、延暦5年11月7日（786年） - 仁寿3年6月4日（853年[[7...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''葛原親王'''（かずらわらしんのう、[[延暦]]5年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]（[[786年]]） - [[仁寿]]3年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]（[[853年]][[7月17日]]））は、[[平安時代]]の[[皇族]]で、[[桓武平氏]]の祖。父は[[桓武天皇]]。母は多冶比真宗（貞子）。子に[[高棟王]]、[[善棟王]]、[[高見王]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
桓武平氏の祖で、幼少から俊秀として知られており、[[798年]]（延暦17年）、異母兄弟の大伴皇子（後の[[淳和天皇]]）と共に[[元服]]。[[803年]]（延暦22年）治部卿に叙任され、以降大蔵卿、弾正尹、式部卿などを歴任した。特に式部卿については、[[810年]]（[[弘仁]]元年）に任じられ、途中[[823年]]（同14年）から[[830年]]（[[天長]]7年）を除いて、[[850年]]（[[嘉祥]]3年）に[[大宰帥]]に任じられるまでの33年間にわたってその職にあり、[[831年]]（天長8年）には80年ぶりに一品親王に叙せられている。親王の逝去を記した『[[文徳実録]]』の記事でも「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」と記して親王が[[式部省]]の長官として実際に省を統率していたことを記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この間に[[825年]]（天長2年）王子女に'''平'''（たいら）の姓を称することを上奏して許された。その後、上野太守、常陸太守を兼務して一品に叙せられ、835年（[[承和 (日本)|承和]]2年）、[[甲斐国]][[巨麻郡]]の牧であった「馬相野空閑地五百町」（旧[[山梨県]]中巨摩郡[[八田村]]・[[白根町]]、現[[南アルプス市]]）を与えられている。[[850年]]（[[嘉祥]]3年）には[[大宰帥]]に任じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*安田政彦『平安時代皇親の研究』（吉川弘文館、1998年） ISBN 978-4-642-02330-6&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[平氏#桓武平氏|桓武平氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かすらわらしんのう}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:786年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:853年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E9%AB%98%E8%A6%8B%E7%8E%8B&amp;diff=41671</id>
		<title>高見王</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''高見王'''（たかみおう、生没年不詳。『千馬家系図』によると817年（弘仁8年） - 855年（斉衡2年）。ただし文献によ...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''高見王'''（たかみおう、生没年不詳。『千馬家系図』によると[[817年]]（[[弘仁]]8年） - [[855年]]（[[斉衡]]2年）。ただし文献によっては生年について[[824年]]（[[天長]]元年）、没年について[[848年]]（[[嘉承]]元年）としている物もあり、実態として生没年に関しては不詳とする方が正確性が高いと思われる）は[[平安時代]]中期の[[皇族]]もしくは[[賜姓皇族]]であったとされる。[[系図|系統図]]である『[[尊卑分脈]]』には名前と無位無官であった事だけが残っている。又『尊卑分脈』によると父に[[葛原親王]]（[[桓武天皇]]第5皇子）、子に[[平高望]]とされているが、これも定かではない。（詳細は後述）。『尊卑分脈』などの系統図にしか登場しない謎の人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高見王はその後の[[平氏|桓武平氏]]に直結する流れであるが、その実在が疑われている。文献によると父の葛原親王は高見王が誕生する前に子孫に平姓を賜り、[[臣籍降下|臣籍への降下]]を朝廷に要請し、これが認められている。しかし高見王は'''平高見'''を名乗ったと言う記録は無い。これ以外にも文献上の矛盾が多く、又病弱で在ったと伝えられているが、それにしても皇族の身分であり、曲がりなりにも成年まで生き延びた人物が無位無官であったことは大きな疑問点である。逆に病弱であった人物が子孫を残しえたかと言う疑問も残る。従って現在では高見王を実在しなかった人物とし、子とされる平高望は父とされる葛原親王の子であったとする説を主張する歴史研究家は少なくない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たかみおう}}&lt;br /&gt;
[[category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>平高望</title>
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				<updated>2008-10-26T11:06:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 高望'''（たいら の たかもち、'''高望王'''（たかもちおう／たかもちのおおきみ）、承和6年[[9月7日 (旧暦)|9月7...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 高望'''（たいら の たかもち、'''高望王'''（たかもちおう／たかもちのおおきみ）、[[承和 (日本)|承和]]6年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]（[[839年]][[10月21日]]）? - [[延喜]]11年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]（[[911年]][[6月28日]]）?）は[[平安時代]]中期の[[賜姓皇族]]。父は[[葛原親王]]（[[桓武天皇]]第5皇子）との説と、[[高見王]]（葛原親王男）との説がある。[[桓武天皇]]の孫（もしくは曾孫）にあたり、[[桓武平氏]]・'''高望王家'''の祖。没年月日は[[911年]][[5月4日 (旧暦)|5月4日]]・[[912年]][[9月24日 (旧暦)|9月24日]]・[[917年]][[1月24日 (旧暦)|1月24日]]ともされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[889年]]（[[寛平]]元年）5月13日[[宇多天皇]]の勅命により[[平氏|平姓]]を授かり[[臣籍降下]]。[[上総国|上総介]]に任じられるが当時の上級[[国司]]の慣行であった[[遙任]]をせず任地へ下向。元皇族の血統を利用し地方豪族との関係を深め勢力を拡大。その後の[[平氏]]の基盤を固める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
子に[[平国香]]、[[平良兼]]、[[平良将]]（良持とも）、[[平良繇]]（良孫とも）、[[平良文]]、[[平良茂]]&amp;lt;ref&amp;gt;『尊卑分脈』による。&amp;lt;/ref&amp;gt;らが伝えられている。彼らはいずれも関東に土着した[[武士団]]を形成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[902年]]（延喜2年）に[[西海道]]の国司となり[[大宰府]]に居住。911年（または912年・917年）に同地で没する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[平氏]]&lt;br /&gt;
*[[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
*[[板東平氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の たかもち}}&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安・鎌倉時代の皇族]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|たかもち]]&lt;br /&gt;
[[Category:上総国の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%B0%86&amp;diff=41669</id>
		<title>平良将</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%B0%86&amp;diff=41669"/>
				<updated>2008-10-26T11:04:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 良将'''（たいら の よしまさ　'''平良將'''、生没年不詳）は、平安時代中期の武将。「'''良持'''」（よしもち）とする記...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 良将'''（たいら の よしまさ　'''平良將'''、生没年不詳）は、[[平安時代]]中期の[[武将]]。「'''良持'''」（よしもち）とする記録もある&amp;lt;ref&amp;gt;『[[将門記]]』『[[吾妻鏡]]』『[[平治物語]]』などでは「良将」、『[[扶桑略記]]』『[[帝王編年記]]』『[[今昔物語集]]』などでは「良持」とする。なお、古辞書では「将」を「モチ」と読む用法が見られ、いずれにせよ「ヨシモチ」と読んだことになるとも言える（[[川尻秋生]]『平将門の乱』）。また、「良将」と「良持」とは別人とする説もある。この場合、将門らの父は「良将」であり、「良持」はその数ある弟の一人として[[系図]]に名を残すのみとなっている」（七男で下総介）。『[[尊卑分脈]]』『[[桓武平氏系図]]』『[[相馬系図]]』『[[常陸大掾譜]]』等では将門を「良持」ではなく「良将」の子としている。なお、『[[平安時代史事典]]』で「平良持」項を書いた[[野口実]]は、平安時代中期の命名法に横の[[通字]]は存在しても縦の通字は存在しないとしており、親子で「将」の字を用いるとは考えにくいとしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[高望王|平高望]]の三男（あるいは四男）で、母は正室「北家[[藤原良方]]女」、兄に[[平国香|国香]]、[[平良兼|良兼]]、異母弟に[[平良文|良文]]らがあり、子に[[平将持|将持]]、[[平将弘|将弘]]、[[平将門|将門]]、[[平将頼|将頼]]（将貞とも）、[[平将平|将平]]、[[平将文|将文]]、[[平将為|将為]]、[[平将武|将武]]らがある。[[下総国]]を本拠とし、[[桓武平氏]]の中心人物。武家[[平氏]]の実質的な祖の一人とされる。従四位下 [[鎮守府将軍]]&amp;lt;ref&amp;gt;兄の[[平良兼]]を差し置いて鎮守府将軍に任ぜられている事から考えて、一門の中でも器量のすぐれた人物であったようである。（将門記）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
生没不詳であるが、[[延喜]]17年・18年（[[917年]]・[[918年]]）死亡説がある。また、『[[常陸国正宗寺旧記]]』の伝えによると、[[延長 (元号)|延長]]8年（[[930年]]）9月に「鎮守府将軍平良将」が常陸に「勝楽寺」という寺院を建立したとあり、少なくとも延長8年までは存命であったとも考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良将の最初の営所は不明であるが、後に「下総少目として下りし浄人の裔」と伝えられる[[犬養春枝]]の娘を嫁に迎えて下総国・豊田郡を拠点にしたといわれる。良将はその手腕を発揮して未墾地を開発し、広大な私営田を経営、勢力を着々と拡張した。こうした良将を兄の国香以下兄弟は良くは思っていなかったと思われ、また兄らは[[源護]]の娘を娶り良将は違うことから、これらの事が後の将門と伯父らの確執の原因の一つではないかとも言われている。その死後に子の将門が源護とその縁者である伯父らと争ったのが、世に言う'''平将門の乱'''のきっかけである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[承平天慶の乱]]&lt;br /&gt;
*[[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
*[[将門記]]&lt;br /&gt;
*[[風と雲と虹と]]（NHK大河ドラマ、演：[[小林桂樹]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の よしまさ}}&lt;br /&gt;
[[category:平氏|よしまさ]]&lt;br /&gt;
[[category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:下総国の人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E5%9B%BD%E9%A6%99&amp;diff=41668</id>
		<title>平国香</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 国香'''（たいら の くにか '''平 國香'''、生年未詳 - 承平5年（935年）2月）は、平安時代中期...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 国香'''（たいら の くにか '''平 國香'''、生年未詳 - [[承平 (日本)|承平]]5年（[[935年]]）[[2月 (旧暦)|2月]]）は、[[平安時代]]中期の[[武将]]。初名は良望（よしもち）で後に国香に改名&amp;lt;ref&amp;gt;『[[平家物語]]』に「其子鎮守府将軍良望、後には国香とあらたむ」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[平高望|高望王（平高望）]]の長子で弟に[[平良兼|良兼]]、[[平良持|良将]]、[[平良繇|良繇（良孫とも）]]、[[平良文|良文]]、子に[[平貞盛|貞盛]]、[[平繁盛|繁盛]]、[[平兼任|兼任]]らがある。[[常陸国]]を本拠とし、[[桓武平氏]]の中心人物。武家[[平氏]]の実質的な祖の一人とされ、[[常陸平氏]]や[[伊勢平氏]]の遠祖にあたる。[[大掾|常陸大掾]]、[[鎮守府将軍]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
父の高望王に付いてに[[坂東]]へ移り、[[筑波山]]西麓の東石田を本拠地とした。[[源護]]の娘を妻とし、前任の常陸大掾である護よりその地位を受け継いだものと推測されるが定かではない。『[[今昔物語集]]』によれば、弟の良将の死後、その遺領を良兼ら他の兄弟と共に勝手に横領・分割し、それにより良将の子の[[平将門|将門]]と対立するようになったとされる&amp;lt;ref&amp;gt;ただし、『[[将門記]]』の古い形態の本には所領問題にはほとんど触れられておらず、また戦いで将門が伯父の領地を占拠したという記事も無いため、争いにおける主因ではないとも言われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。源護・[[源扶|扶]]親子らと甥の将門が争った際には舅の護に加勢して承平5年（935年）[[平将門|将門]]と戦い、[[石田館]]で敗死した（この争いへの参加を国香は本意でなかったと見る説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[京都]]で[[左馬允]]在任中にこの報告を受けた子の貞盛は休暇を申請して急遽帰国し、一時は旧怨を水に流し将門との和平路線を取ろうとするも、叔父の良兼に批判・説得されて将門に敵対する事となり、'''[[平将門の乱]]'''の発端となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[承平天慶の乱]]&lt;br /&gt;
*[[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
*[[将門記]]&lt;br /&gt;
*[[風と雲と虹と]]（[[NHK大河ドラマ]]、演：[[佐野浅夫]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の くにか}}&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|くにか]]&lt;br /&gt;
[[Category:常陸国の人物|くにか]]&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:935年没]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E7%9B%9B&amp;diff=41667</id>
		<title>平貞盛</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 貞盛'''（たいら の さだもり、生年不詳 - 永祚元年10月15日（989年11月16日）&amp;lt;ref&amp;gt;『[[系図...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 貞盛'''（たいら の さだもり、生年不詳 - [[永祚 (日本)|永祚]]元年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]（[[989年]][[11月16日]]）&amp;lt;ref&amp;gt;『[[系図纂要]]』による。&amp;lt;/ref&amp;gt;？）は、[[平安時代]]中期の[[武将]]。[[平国香]]の子で[[桓武平氏]]の祖[[高望王]]の孫。「常平太」と称す。左馬允、常陸大掾、右馬助。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に[[平氏政権]]を築く[[伊勢平氏]]の祖となる[[平維衡]]は貞盛四男であり、[[鎌倉時代]]に[[執権]]職を世襲した[[北条氏]]は二男[[平維将|維将]]の子孫であると称した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概説 ==&lt;br /&gt;
[[承平 (日本)|承平]]5年（[[935年]]）父国香が従兄弟の[[平将門]]に討たれた際は[[京]]で左馬允在任中であった。休暇を申請して急遽帰国し、焼失した自宅から父国香の屍を探し、山中に避難した母と妻を探し出す。今回の事件を「源氏の縁座」であった事により巻き込まれたと考えた（または、仇討よりも京で官人としての昇進を望んだとも。）貞盛は仇敵である将門に「互いに親睦をはかるのが最も良策である。」という態度をみせている。しかし、叔父の[[平良兼]]・[[平良正]]らが将門を攻めると誘われ、これに加わり将門と対立する。[[天慶]]元年（[[938年]]）2月29日、密かに上洛を企てるも将門に察知され、将門勢力下の[[信濃国]]小県郡の国分寺付近で追撃を受けるも脱出に成功。良兼の死後、将門追捕の官符を持って帰国するが将門に一蹴された。同年10月、[[陸奥国|陸奥]][[国司|守]][[平維扶]]の赴任に従って陸奥に入らんとするも再び将門の追撃を受け、辛くも逃げきり身を隠す。11月[[常陸国]]の紛争を利用して将門を討たんとするも再び失敗、[[藤原為憲]]と共に再び身を隠した。天慶3年（[[940年]]）、[[藤原秀郷]]と協力して将門を攻め、2月14日「北山の決戦」にてこれを滅ぼす&amp;lt;ref&amp;gt;『扶桑略記』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。将門討伐後、将門ら謀反人を討つ事ができたのも、多年の苦難を経て努力した貞盛の為すところも大きいとして、従五位上（正五位上とも）に叙せられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後に[[鎮守府将軍]]となり、[[陸奥国|陸奥]]守・[[丹波国|丹波]]守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した&amp;lt;ref&amp;gt;『[[尊卑分脈]]』による。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 今昔物語集 ==&lt;br /&gt;
『[[将門記]]』では将門と親睦をはかろうとする態度を見せたり、度々将門に敗れて追われる様の多い貞盛であるが、『[[今昔物語集]]』巻第二十九・本朝付悪行では、第五話「平貞盛朝臣、法師ノ家ニ於テ盗人ヲ射取リシ語」の、陸奥から帰京の途中に知人の法師の家に宿った際、盗人相手に振るった武勇の逸話と、第二十五話「丹波守平貞盛、児ノ肝ヲ取リシ語」の、妊婦の腹を裂き胎児の肝を得て自分の矢傷の治療をし、その秘密を守るため治療法を伝授した医師の殺害を企てた、という逸話とが述べられ、豪胆な人物に記述されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[承平天慶の乱]]&lt;br /&gt;
*[[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
*[[平維茂]]&lt;br /&gt;
*[[風と雲と虹と]]（[[NHK大河ドラマ]]、演：[[山口崇]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の さたもり}}&lt;br /&gt;
[[category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[category:平氏|さたもり]]&lt;br /&gt;
[[category:常陸国の人物|さたもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:989年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Taira no Sadamori]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%B9%B3%E6%B0%8F&amp;diff=41666</id>
		<title>光孝平氏</title>
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				<updated>2008-10-26T10:54:46Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 平氏関連のリダイレクト作成完了&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[平氏#光孝平氏]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B9%B3%E6%B0%8F&amp;diff=41665</id>
		<title>伊勢平氏</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: '{{Pathnav|桓武平氏}}  '''伊勢平氏'''（いせへいし）は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の子、平維衡よりはじまる平氏...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Pathnav|桓武平氏}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''伊勢平氏'''（いせへいし）は、[[承平天慶の乱]]に功のあった[[平貞盛]]の子、[[平維衡]]よりはじまる[[平氏]]一族の一つ。平氏の中でも伊勢平氏、特に[[平正盛]]の系統を特に'''平家'''（へいけ）と呼ぶ場合がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
十世紀末から十一世紀にかけて、同族[[平致頼]]との軍事抗争に勝ち抜き、[[軍事貴族]]としての地位を固める。だが、当初は[[河内源氏]]ほどの勢力を築き得ず、[[白河上皇]]の[[院政]]期前半までは辛うじて五位であり、当時の貴族としては最下層（侍品）であった。伊勢平氏の家系は[[平氏#桓武平氏|桓武平氏]]の嫡流の[[平国香]]、[[平貞盛]]の血筋であり、他の[[坂東八平氏]]に代表される家系と同様に、関東に住した。しかし、次第に清和源氏の有力な一党である[[河内源氏]]が鎌倉を中心に勢力を拡大し、在地の平氏一門をも服属させていった中で、伊勢平氏の家系は源氏の[[家人]]となることを潔しとせず伊勢国に下向し、あくまで源氏と同様、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、伊勢平氏は[[藤原道長]]のもとで[[源頼信]]らと同様、[[道長四天王]]とまでいわれた[[平維衡]]以来、源氏と双璧をなす武門を誇ったが、家系や勢力、官位とも[[河内源氏]]の風下に立つ存在であった。しかし、摂関家の家人としてその権勢を後ろ盾に東国に勢力を形成する河内源氏に対して、伊勢平氏は西国の[[国司]]を歴任して瀬戸内海や九州を中心とした勢力圏を形成し次第に勢力をかためていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、摂関家の支配が弱まり、天皇親政が復活した[[後三条天皇]]以降、源平間の形勢は次第に逆転へと向かい、父と親子二代で[[前九年の役]]、[[後三年の役]]を平定し、武功と武門の棟梁としての名声、地方武士からの信頼ともに厚かった河内源氏の源義家に対する朝廷の警戒が強まり、[[白河天皇|白河法皇]]の治世下においては次第に冷遇されていくようになった。ことに勢力を伸張させて以降、河内源氏は仕えていた摂関家に対する奉公も以前のようでなく摂関家と疎遠になりつつあったこともあり、次第に後ろ盾をなくし勢力を減退させていった。一方伊勢平氏の棟梁である[[平正盛]]は[[伊賀国]]の所領を白河院に献上したこともあり、[[北面の武士]]に列せられる栄誉を受けるようになり、次第に伊勢平氏が院や朝廷の重用を受けることとなり、伊勢平氏が河内源氏を凌ぐ勢いを持つようになった&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
殊にその流れを決定づけたのは、[[源義家]]の次男で河内源氏の後継者と目されていた対馬守の[[源義親]]が任地での濫妨により太宰府より朝廷に訴えがあり、流罪となり、その後も流刑地である隠岐国においても濫妨に及んだため、伊勢平氏の[[平正盛]]による追討軍により、討たれたことによる。その後、[[1107年]]に[[出雲国|出雲]]で反朝廷的行動の見られた[[源義親]]の追討使として[[因幡国]]の国守に任ぜられる。翌年、義親を討伐したという触れ込みで、義親の首級と称するものを都へ持ち帰った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その子、正盛の子[[平忠盛]]も[[鳥羽上皇]]の時に内昇殿を許され、[[殿上人]]となり、刑部卿にまで累進するなどの寵愛を受け、平忠盛は次第に公卿に準ずる地位にまで家格を上昇させるに至った。正盛は[[備前国|備前]]・[[伊勢国|伊勢]]などの国守を歴任し、忠盛は[[播磨国|播磨]]・伊勢の国守となる。これが後の伊勢平氏の豊かな財政の基礎となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平忠盛の死後、[[平清盛]]が継ぎ、[[保元の乱]]・[[平治の乱]]を制し、[[従一位]]・[[太政大臣]]にまで昇進して天下人となり、「'''平家'''（へいけ）」一門の栄華を築き上げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[平家物語]]』によれば、一門の[[公卿]]は16名、殿上人は30余名、諸国の[[受領]]・衛府・諸司は60余名。当時の日本の半国に当たる、三〇余国を知行し、「この一門にあらざらむ者はみな人非人なるべし」と豪語するほどの栄華を極めた（ただし、この表現には誇張が含まれており、同時期に公卿に列した人数は最大でも12名であった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 系譜 ==&lt;br /&gt;
 '''凡例'''　太線は実子（一部割愛し、必要と思われるところを重視し、示した）。　　　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 　〈伊勢平氏〉　　　　　　　　　　　　　　 　 &lt;br /&gt;
 　　　　 [[平維衡|維衡]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 　　　　 [[平正度|正度]]　　　　　　  　　　　　　　　 　　　　　　　　　　　　　　 　　　　　[[平正済|正済]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┣━━┳━━━━━━━━━━━┳━━┳━━━━━┓　　　　　　　　　　　　┣━━━━━┓　  　　&lt;br /&gt;
 　　　　 [[平維盛 (駿河守)|維盛]]　[[平貞季|貞季]]　　　　　　　　　　[[平季衡|季衡]]　[[平貞衡|貞衡]]　　　　[[平正衡|正衡]]　　　　　　　　　　　[[平貞弘|貞弘]]　　　　[[平正家|正家]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃　  ┣━━━━━━━━┓　　┃　　┃　　　　　┃　　　　　　　　　　　　┃　　　　　┃&lt;br /&gt;
 　　 　　[[平貞度|貞度]]　[[平範季|範季]]　　　　　　　[[平兼季|兼季]]　[[平盛遠|盛遠]]　[[平貞清|貞清]]　　　　[[平正盛|正盛]]　　　　　　　　　　　[[平正弘|正弘]]　　　　[[平資盛 (平正家子息)|資盛]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃　  ┃　  　  　　　　┃　　┃　　┃　　　　　┣━━━┓　　　　　　　　┃   　　   ┃&lt;br /&gt;
 　　 　　[[平盛房|盛房]]　[[平季房|季房]]　　　　　　　[[平盛兼|盛兼]]　[[平盛国|盛国]]　[[平清綱|清綱]]　　　　[[平忠盛|忠盛]]　　[[平忠正|忠正]]　　　　　　　[[平家弘|家弘]]　　　　[[平敦盛 (平資盛子息)|敦盛]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃　  ┣━━┓  　　　　┃  　┃　　┏━━┳━━╋━━┳━━┳━━┓　　　┣━━┓ 　 ┃&lt;br /&gt;
 　　 　　[[平業房|業房]]　[[平季宗|季宗]]　[[平家貞|家貞]]　　　　[[平信兼|信兼]]　[[平盛俊|盛俊]]　[[平清盛|清盛]]　[[平家盛|家盛]]　[[平経盛|経盛]]　[[平教盛|教盛]]　[[平頼盛|頼盛]]　[[平忠度|忠度]]　　[[平光弘|光弘]]　[[平頼弘|頼弘]]　[[平有盛 (平敦盛子息)|有盛]]&lt;br /&gt;
 　　　　  ┃　  ┃　  ┣━━┓  　┃　　┃　　┣━━┳━━┳━━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓&lt;br /&gt;
 　　 　　[[山科教成|教成]]　[[平宗清|宗清]]　[[平家継|家継]]　[[平貞能|貞能]]　[[平兼隆|兼隆]]　[[平盛嗣|盛嗣]]　[[平重盛|重盛]]　[[平基盛|基盛]]　[[平宗盛|宗盛]]　　　　[[平知盛|知盛]]　[[平重衡|重衡]]　[[平維俊|維俊]]  [[平知度|知度]]　[[平清房|清房]]　[[平徳子|徳子]]　[[平盛子|盛子]] [[廊御方 (平家)|廊御方]]&lt;br /&gt;
 　　  　┏━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┫  　┃    ┣━━┓　　┣━━┳━━┓&lt;br /&gt;
 　  　 [[平維盛|維盛]]　　[[平資盛|資盛]]　[[平清経|清経]]　[[平有盛|有盛]]　[[平師盛|師盛]]　[[平忠房|忠房]]　[[平宗実|宗実]]　[[平行盛|行盛]]　[[平清宗|清宗]]　[[平能宗|能宗]]　[[平知章|知章]]　[[平知忠|知忠]]　[[平知宗|知宗]]&lt;br /&gt;
 　　　　┃　　　┃　　　　　　　　┃　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 ┣━━┓&lt;br /&gt;
 　　 [[平六代|六代(高清)]]覚盛　　　　　　  [[源智]]　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　[[宗重尚|重尚]]　[[宗助国|助国]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 　　　　 忠盛&lt;br /&gt;
 　　　　  ┣━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓&lt;br /&gt;
 　　　　 経盛　　　　　　　　　　教盛　　　　　　　　　　　　　頼盛&lt;br /&gt;
 　　　　　┣━━━┳━━━┓　　　┣━━━┳━━━┳━━━┓　　┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓&lt;br /&gt;
 　　　　 [[平経正|経正]]　　[[平経俊|経俊]]　　[[平敦盛|敦盛]]　　[[平通盛|通盛]]　　[[平教経|教経]]　　[[平業盛|業盛]]　　[[忠快|忠快]]　[[平保盛|保盛]]　　[[平為盛|為盛]]　　[[平仲盛|仲盛]]　　[[平知重|知重]]　　[[平保業|保業]]　　[[平光盛|光盛]]　　[[静遍|静遍]]&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　　　　　┃　　　 　　　　　　　　　　 ┃　　　┃　　　┃　　　┏━━━┫　　　┃&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　　　　　　　　 [[平通衡|通衡]]　　　　　　　　　　　　　[[平頼清|頼清]]　　[[平俊盛|俊盛]]　　[[平貞成|貞成]]　　[[平保房|保房]]　　[[平光度|光度]]　　[[教性]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第1篇』[[吉川弘文館]]　黒板勝美、国史大系編修会(編）ISBN 4642003622&lt;br /&gt;
* 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』[[吉川弘文館]]　黒板勝美、国史大系編修会(編）ISBN 4642003630&lt;br /&gt;
* 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』[[吉川弘文館]]　黒板勝美、国史大系編修会(編）ISBN 4642003649&lt;br /&gt;
* 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』[[吉川弘文館]]　黒板勝美、国史大系編修会(編）ISBN 4642003657&lt;br /&gt;
* 『新訂増補国史大系・公卿補任 第1篇』[[吉川弘文館]]　黒板勝美(編）ISBN 4642003568&lt;br /&gt;
* 『新訂増補国史大系・公卿補任 第2篇』[[吉川弘文館]]　黒板勝美(編）ISBN 4642003576&lt;br /&gt;
* 『新訂増補国史大系・公卿補任 第3篇』[[吉川弘文館]]　黒板勝美(編）ISBN 4642003584&lt;br /&gt;
* 『新訂増補国史大系・公卿補任 第4篇』[[吉川弘文館]]　黒板勝美(編）ISBN 4642003592&lt;br /&gt;
* 『新訂増補国史大系・公卿補任 第5篇』[[吉川弘文館]]　黒板勝美(編）ISBN 4642003606&lt;br /&gt;
* 横山高治『伊勢平氏の系譜 &amp;lt;small&amp;gt;伝説とロマン&amp;lt;/small&amp;gt;』（創元社、1985年） ISBN 4422204556&lt;br /&gt;
* 高橋昌明『清盛以前 &amp;lt;small&amp;gt;伊勢平氏の興隆&amp;lt;/small&amp;gt;』（文理閣、2004年増補・改訂版） ISBN 4892594652&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[平氏]]&lt;br /&gt;
* [[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
* [[坂東平氏]]&lt;br /&gt;
* [[平氏政権]]&lt;br /&gt;
* [[全国平家会]]&lt;br /&gt;
* [[源氏]]&lt;br /&gt;
* [[清和源氏]]&lt;br /&gt;
* [[河内源氏]]&lt;br /&gt;
* [[摂津源氏]]&lt;br /&gt;
* [[保元物語]]&lt;br /&gt;
* [[平治物語]]&lt;br /&gt;
* [[平家物語]]&lt;br /&gt;
* [[厳島神社]]&lt;br /&gt;
* [[伊勢氏]]&lt;br /&gt;
* [[平家の落人]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:*いせへいし}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代|いせへいし]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:平家]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の氏族|へいし　いせ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平維衡</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 維衡'''（たいら の これひら、生没年不詳）は平安時代の武将。平貞盛の四男。子に正度、正済、[[...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 維衡'''（たいら の これひら、生没年不詳）は[[平安時代]]の武将。[[平貞盛]]の四男。子に[[平正度|正度]]、[[平正済|正済]]、[[平正輔|正輔]]がある。[[官位]]は、[[従四位上]]、[[下野国|下野]]守、[[伊勢国|伊勢]]守、[[上野国|上野]]介、[[常陸国|常陸]]介。[[伊勢国]]に地盤を築き[[伊勢平氏]]の祖となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[長徳]]4年（[[998年]]）、維衡は[[遥任]]の[[国司]]として下野守在任中であったが、伊勢国[[神郡]]において同族の[[平致頼]]（維衡の又従兄弟）と合戦を繰り広げた為、後に両者ともに[[朝廷]]に召し出され尋問を受け、維衡は過状（詫び状）を提出し[[淡路国]]へ[[移郷]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、間もなく召還され、[[寛弘]]3年（[[1006年]]）[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]の[[除目]]で[[右大臣]][[藤原顕光]]が伊勢守に推挙するが、「同族である致頼と伊勢国における覇権を巡り、数度に渡って抗争を展開していた&amp;lt;ref&amp;gt;有事の際に廷臣として務めることができるようにするため、当時、五位以上の者は許可なく畿外に住むことはできなかった。&amp;lt;/ref&amp;gt;」ことを理由に[[左大臣]][[藤原道長]]が強硬に反対する。このため担当の係も任官手続きを行わなかったが、何らかの手違いで維衡の名が書き入れられた状態で清書、奏上されてしまった。そのまま天皇の裁可が下ったため訂正することもできず、道長も承認せざるを得なかった。なお、このような経緯があったためか、維衡はわずか二ヶ月で伊勢守の任を解かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、[[長和]]年間から[[治安 (元号)|治安]]年間（[[1012年]]‐[[1023年]]）にかけて上野介、常陸介を歴任している。没年は不明であるが、『[[尊卑分脈]]』には85歳で卒去したと記されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後世の説話集『[[十訓抄]]』には優れた武士として、[[源頼信]]・[[藤原保昌]]・平致頼と並んで挙げられている。この四人がもし、互いに相争うのならば、必ず命を失うはずだと書かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、伊勢国における争いはそれぞれの子息（維衡の子正輔と致頼の子[[平致経|致経]]）の代にまで引き継がれるが、致経が[[比叡山]]横川で[[出家]]し、[[治安 (元号)|治安]]3年（[[1023年]]）に亡くなるに及んで、維衡一派の覇権が確立し、伊勢平氏として発展する。のち、この系統から[[平清盛]]が出て最盛期を築くことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の これひら}}&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|これひら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平正度</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 正度'''（たいら の まさのり、生没年不詳）は、[[平安時代]]中期の[[武将]]。[[伊勢平氏]]の始祖[[平維衡]]の長男（あるいは次男とも）。母は陸奥国住人長介の娘。従四位下。斎宮助、諸陵助、帯刀長、[[左衛門尉]]、[[常陸国|常陸]]介、[[出羽国|出羽]]守、[[越前国|越前]]守。子に[[平維盛 (駿河守)|維盛]]、[[平貞季|貞季]]、[[平貞能 (平正度子)|貞能]]、[[平季衡|季衡]]、[[平貞衡|貞衡]]、[[平正衡|正衡]]などがあり、また娘は[[藤原永親]]の室となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父・維衡、また兄といわれる[[平正輔|正輔]]らの後を受けて[[伊勢国]]において勢力を伸張させ、木造荘（[[三重県]][[一志郡]]）などを領有する。具体的な事績、また没年などは明らかではないが、遅くとも[[治暦]]3年([[1067年]])には故人となっていたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
維衡、正度らの活動によって確固たる勢力を築いた伊勢平氏は、やがて後世において[[平清盛]]が出て一大権門に発展していく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の まさのり}}&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|まさのり]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 正衡'''（たいら の まさひら、生没年不詳）は、平安時代中期の武将。伊勢平氏の平正度の五男（あるいは六男と...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 正衡'''（たいら の まさひら、生没年不詳）は、[[平安時代]]中期の[[武将]]。[[伊勢平氏]]の[[平正度]]の五男（あるいは六男とも）。従四位下。[[検非違使]]、[[右衛門尉]]、[[出羽国|出羽]]守。子に[[平正盛|正盛]]がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
父祖同様に[[伊勢国]]を本拠地として活動、[[承保]]2年([[1075年]])には[[天台宗]]の僧侶[[良心 (僧)|良心]]とともに桑名郡における[[東寺]]の末寺[[多度神宮寺]]を天台の別院と称して押妨する。これは結果的に朝廷の裁定により認められなかったが、伊勢における正衡の活発な軍事行動の一端を示す事例と言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他方、[[藤原師実]]に仕え、京周辺の警察活動にも従事する。[[承暦]]3年([[1079年]])に起こった[[延暦寺]]の[[僧兵]]による[[強訴]]に際しては、[[源頼綱]]や兄の[[平季衡|季衡]]らとともに出動し都の防衛に当たっている。[[康和]]元年([[1099年]])の除目で出羽守に就任。それ以降の事績は不詳である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
嫡男の正盛は[[白河天皇|白河院]]の庇護の下中央政界に進出、[[平忠盛|忠盛]]、[[平清盛|清盛]]と続く[[平家]]隆盛の基礎を築いたことで知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*高橋昌明『清盛以前』（文理閣）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の まさひら}}&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|まさひら]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>文徳平氏</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[平氏#文徳平氏]]&lt;/div&gt;</summary>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[平清盛]]の一族である'''平家'''のカテゴリ。[[平氏]]のうち[[伊勢平氏]]の傍流に当たる。それ以外の平氏一族は、[[:category:平氏]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:平氏|*へいけ]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>平正盛</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 正盛'''（たいら の まさもり、生年不詳 - [[保安 (元号)|保安]]2年（[[1121年]]）？）は、[[平安時代]]後期の[[武将]]。[[北面の武士]]。父は[[伊勢平氏]]、[[平正衡]]。母は不詳。子に[[平忠盛]]・[[平貞正]]・[[平忠正]]・[[平時盛]]・[[範延]]・[[源義忠]]室・[[藤原顕時]]室・[[藤原清隆]]室らがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
正盛が家督を継いだ頃は平家も勢力が小さく、[[河内源氏]]に臣従し[[源義家]]に仕えた。その後、源義家の子、[[源義忠]]に娘を嫁がせ、義忠の岳父として河内源氏に影響力を及ぼす。また、[[白河上皇]]の[[院政]]に伊賀の所領を寄進するなどして重用され、[[検非違使]]・[[追捕使]]として諸国の盗賊を討伐するなど活動した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
承徳元年（1097）隠岐守、康和3年（1101）若狭守、嘉承元年（1106）因幡守。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
反乱を起こした[[源義親]]を討つ命令が源義家に下るが、源義家は死去したため、その後継者である義忠に源義親討伐の命令が下る。しかし、義忠が兄を討てないと躊躇したため、正盛が義忠に代わり討伐に向かい、[[1108年]]に乱を鎮圧したとの知らせがもたらされた。その功績により[[但馬国|但馬]]守に叙任。後、天永元年（1110）丹後守、永久元年（1113）備前守を勤めた。ただし、義親の討伐において、実際に義親を討つことに成功したのかは不明。この事件後も義親を名乗る人物が何度も登場し、史上に痕跡を残した。当時も勇猛な義親をそれほど武に優れているとは認知されていなかった正盛が討ったのかについて疑問があったことは[[藤原宗忠]]の日記『[[中右記]]』などにも記されている。保安元年（1120）讃岐守。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[平家物語]]』の平家滅亡時に現れる[[平六代]]は、彼より数えて六代目であることに由来する幼名である。平家は彼の子、平忠盛の時代に飛躍的に勢力を拡大し全盛期を現出させる。その地盤固めをしたのが正盛の時代の平家であり、平家興隆の基礎を築いた人物と評価される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官位 ==&lt;br /&gt;
従四位上、[[検非違使]]、[[因幡国|因幡]]権守、[[伊予国|伊予]]権守、[[備前国|備前]]守、右馬権頭、[[讃岐国|讃岐]]守、[[但馬国|但馬]]守、[[丹後国|丹後]]守&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[伊勢平氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Japanese-history-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の まさもり}}&lt;br /&gt;
[[category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[category:平氏|まさもり]]&lt;br /&gt;
[[category:平家|まさもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1121年没]]&lt;/div&gt;</summary>
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		<title>カテゴリ:平氏</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: '平氏に関するカテゴリ。  {{DEFAULTSORT:へいし}} Category:平安時代 たいら Category:武士  [[en:Category:Taira clan]...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[平氏]]に関するカテゴリ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:へいし}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の氏族|たいら]]&lt;br /&gt;
[[Category:武士]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Category:Taira clan]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平忠盛</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 忠盛'''（たいら の ただもり）は、平安時代末期の武将。伊勢平氏庶流。平清盛の父。平氏で初めて昇殿を...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 忠盛'''（たいら の ただもり）は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。[[伊勢平氏]]庶流。[[平清盛]]の父。[[平氏]]で初めて[[昇殿]]を許された。父は平正盛。烏帽子親は[[河内源氏]]の棟梁の[[源義忠]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
父正盛は[[白河天皇|白河上皇]]に仕え、河内源氏の棟梁、源義忠に息女を娶わせるなどして勢力を伸ばした。河内源氏が義忠の死後、衰退するなか源氏の与党を従えつつ忠盛も白河上皇、[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]に仕えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天永]]2年（[[1111年]]）[[検非違使]]となる。天永4年（[[1113年]]）[[日枝神社]]の盗賊[[夏焼大夫]]を討ち取り、従五位下に叙される。[[永久 (元号)|永久]]元年（[[1113年]]）[[永久の強訴]]に父正盛とともに出動して[[興福寺]]の大衆の入京を阻止した。その後、[[伯耆国|伯耆]]守となり右馬権頭も兼任する。永久2年、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[永久 (元号)|永久]]5年（[[1117年]]）鳥羽天皇に入内した[[藤原璋子|待賢門院]]の[[政所]]別当になる。[[元永]]2年（[[1119年]]）賀茂臨時祭に際して新舞人として仕えた。[[保安 (元号)|保安]]元年（[[1120年]]）[[越前国|越前]][[受領|守]]となる。在任中、[[越前国]]敦賀郡で殺人事件が起こり犯人の[[日吉神社|日吉社]]神人を逮捕、検非違使に引き渡す途中で、[[延暦寺]]の悪僧が犯人の身柄を奪取したため朝廷は悪僧を捕らえ、延暦寺の[[強訴]]が起こる。白河法皇は延暦寺の要求に屈せず、忠盛をかばった。保安2年（[[1121年]]）院の昇殿を許される。この頃、修理権大夫・藤原宗兼の娘、宗子（[[池禅尼]]）を正室とする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 昇殿 ===&lt;br /&gt;
[[大治]]2年（[[1127年]]）[[従四位下]]に叙され、[[備前国|備前]]守となり[[左馬権頭]]も兼ねた。さらに、牛や馬の管理を行う院の御厩司となった。大治4年（[[1129年]]）[[山陽道]]・[[南海道]]の[[海賊]]を追討する。これは、正式な[[宣旨]]ではなく[[院宣]]と[[検非違使別当宣]]（別当は待賢門院の兄・[[三条実行]]）によるものだった。白河法皇が崩じて、鳥羽上皇が院政をとると御給として忠盛は正四位下に叙される。[[天承]]2年（[[1132年]]）上皇勅願の観音堂である得長寿院造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。その功績により内昇殿を許可された。『[[平家物語]]』では武士である忠盛が[[殿上人]]となったことを憎んだ[[公卿]]たちによる闇討ちが企てられるが、忠盛は銀箔の木刀によって公卿たちを脅す機転によって防ぎ、鳥羽上皇から賞される（殿上闇討）。内昇殿は武士では摂関期の[[源頼光]]の例があるものの、この当時では破格の待遇だった。[[藤原宗忠]]は「この人の昇殿猶未曾有の事なり」（『中右記』）と評した。鳥羽法皇の寵愛が[[美福門院]]に移り[[藤原家成]]が院近臣筆頭の地位を確立すると、忠盛は妻の宗子が家成の従兄弟であったことから親密な関係を築いていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[保延]]元年（[[1135年]]）[[中務省|中務大輔]]に任じられる。西海の海賊を追討について忠盛か[[源為義]]が適当か公卿が議し、忠盛が追討使に任じられる。忠盛は海賊を追捕して降伏した者を家人にする。同年、[[美作国|美作]]守に任じられる。保延5年（[[1140年]]）興福寺衆徒の強訴に出動して入京を阻止する。この頃、忠盛は院御厩司から長官である別当になった。忠盛は右馬権頭・左馬権頭を歴任し、宮中の馬を管理する馬寮の職務に携わっていた。職務内容の共通性から馬寮と院御厩の職員を兼ねることは自然なことであり、戦闘における騎馬の重要性からも院御厩別当への就任は軍事貴族である忠盛にとって大きいものだった。[[天養]]元年（[[1144年]]）正四位上に叙され、[[尾張国|尾張]]守となった。忠盛は鳥羽院庁の四位別当としても活動した。同僚の[[藤原忠隆]]は貴族でありながら乗馬の達人で意気投合するところがあったのか、忠隆の子・隆教は忠盛の娘を妻に迎えている。なお、忠隆の妻・栄子は[[崇徳上皇]]の乳母であり、忠盛の妻・宗子は崇徳の長子・[[重仁親王]]の乳母だった。[[久安]]2年（[[1146年]]）[[播磨国|播磨]]守に任じられる。翌年6月15日、清盛の郎党が[[祇園神社|祇園社]]神人と小競り合いを起こし、延暦寺が忠盛・清盛の流罪を要求して強訴を起こした。鳥羽法皇は忠盛の有する軍事的・経済的実力の重要性から[[藤原頼長]]の反対を押し切って擁護した。仁平元年（[[1151年]]）[[刑部卿]]となる。仁平3年（[[1153年]]）出家して没した。左大臣・藤原頼長は「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ。人となり恭倹、いまだかつて奢侈の行いあらず、時人これを惜しむ」と評した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
忠盛は諸国の受領を歴任したことに加えて、[[日宋貿易]]にも従事して莫大な富を蓄え、[[平氏政権]]の礎を築いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[平家物語]]&lt;br /&gt;
*[[伊勢平氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』（1955年 大映、監督：[[溝口健二]]、演：[[大矢市次郎]]）&lt;br /&gt;
*『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』（1972年、NHK大河ドラマ）演：[[中村勘三郎 (17代目)|中村勘三郎]]&lt;br /&gt;
*『[[平清盛 (TBSドラマ)|平清盛]]』（1992年、TBS）演：[[丹波哲郎]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の たたもり}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[category:平氏|たたもり]]&lt;br /&gt;
[[category:平家|たたもり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1096年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1153年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Taira no Tadamori]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>仁明平氏</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: リダイレクトを作成しておく&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[平氏#仁明平氏]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Abcde</name></author>	</entry>

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		<title>平将門</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Abcde: 新しいページ: ''''平 将門'''（たいら の まさかど '''平 將門'''、延喜3年（903年）? - 天慶3年2月14日（940年3月25日）...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平 将門'''（たいら の まさかど '''平 將門'''、[[延喜]]3年（[[903年]]）? - [[天慶]]3年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]（[[940年]][[3月25日]]））は、[[平安時代]]中期の[[武将]]。通称は相馬小次郎・滝口小次郎。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[桓武天皇]]の子孫で、[[平氏]]の姓を授けられた、[[平高望|高望王]]（たかもちおう）の孫。[[鎮守府将軍]][[平良将]]（平良將 たいらのよしまさ／良持＝よしもちとも&amp;lt;ref&amp;gt;『[[将門記]]』『[[吾妻鏡]]』『[[平治物語]]』などでは「良将」、『[[扶桑略記]]』『[[今昔物語集]]』などでは「良持」とする。なお、古辞書では「将」を「モチ」と読む用法が見られ、いずれにせよ「ヨシモチ」と読んだことになると言える（[[川尻秋生]]『平将門の乱』）。&amp;lt;/ref&amp;gt;）の子。[[下総国]]、[[常陸国]]に広がった平氏一族の抗争に端を発し、[[関東]]諸国の[[国衙]]を襲い、印鑰を奪ったことから[[朝廷]]から敵と見なされた。京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位し、「'''[[新皇]]'''」を名乗った。朝廷からの独立国建設を目指したが[[藤原秀郷]]、[[平貞盛]]らにより討伐された（[[承平天慶の乱]]）。死後は[[御首神社]]、[[築土神社]]、[[神田明神]]、[[国王神社]]などに祀られる。[[武士]]の発生を示すとの評価もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 生い立ちと平氏一族の争い ===&lt;br /&gt;
父の[[平良将]]は、[[下総国]][[佐倉市|佐倉]]が領地と伝えられ、佐倉市将門と地名も残るが、根拠となる[[史料]]は無い。また、母&amp;lt;ref&amp;gt;『尊卑分脈脱漏』『坂東諸流綱要』等によると、「犬養春枝女」または「県犬養春枝女」となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;の出身地である[[相馬郡 (下総国)|相馬郡]]で育ったことから「相馬小次郎」と称したとされているが、これは相馬郡に勢力があったということではなく、実際の勢力範囲は同国の[[豊田郡 (下総国)|豊島]]・[[猿島郡|猿島]]両郡であったと考えられている。将門は地方より[[平安京]]へ出て、[[藤原北家]]の氏長者であった[[藤原忠平]]と主従関係を結ぶが、父良将が急死したために領国へ戻る。以後「'''平将門の乱'''」の発端となる争いがおこるのだが、原因についていくつかの説があり、確定はされていない。長子相続制度の確立していない当時、良将の遺領は伯父の[[平国香|国香]]（國香）や[[平良兼|良兼]]に独断で分割されていたため争いが始まったとされている説、『将門記』などによる、[[常陸国]]（[[茨城県]]）前[[国司|大掾]]の[[源護]]の娘、或いは良兼の娘を巡り争いが始まったとする説、源護と[[平真樹]]の領地争いへの介入によって争いが始まったとする説&amp;lt;ref&amp;gt;『歴代皇紀』の「将門合戦状伝」には、始め伯父の平良兼との間で争い、次に平真樹なる者に誘われて平国香や源護らと事をかまえるに至ったとしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;などがある。また、将門が当初は伯父らと争っているため、「坂東平氏一族の争い」と見られがちだが、国香・良兼・良正は源護の娘を娶っており、将門の父の良将とは違うことから、「源護・源護の縁者と将門の争い」ではないかとも言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[承平 (日本)|承平]]5年（[[935年]]）2月に将門は源護の子・[[源扶|扶]]らに常陸国[[真壁郡]]野本（[[筑西市]]）にて襲撃されるが、これらを撃退し扶らは討ち死にする。そのまま将門は大串・取手（[[下妻市|下妻]]）から護の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちし、その際伯父の国香を焼死させた。同年10月、源護と姻戚関係にある一族の[[平良正]]は軍勢を集め[[鬼怒川]]沿いの新治郷川曲（[[八千代町]]）に陣を構えて将門と対峙するが、将門は良正の軍をも撃破する。将門に敗れた良正は良兼に救いを求め、静観していた良兼も国香亡き後の一族の長として放ってもおけず、国香の子の[[平貞盛]]を誘って軍勢を集め、承平6年（[[936年]]）6月26日[[上総国]]を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受けて敗走、[[下野国]]（[[栃木県]]）の[[国衙]]に保護を求めた。将門は[[下野国]]国府を包囲するが、一部の包囲を解いてあえて良兼を逃亡させ、その後国衙と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出て、将門らは平安京に赴いて[[検非違使]]庁で訊問を受けるが、承平7年（[[937年]]）4月7日の[[朱雀天皇]]元服の大赦によって全ての罪を赦される。帰国後も、将門は良兼を初め一族の大半と対立し、8月6日には良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで将門は敗走、良兼は将門の妻子（良兼の娘と孫とされる）を連れ帰る。だが弟たち（『将門記』には「舎弟と語らいて」とあり[[平公雅|公雅]]や[[平公連|公連]]とされている）の手助けで9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまった。妻子が戻ったことに力を得た将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出る。そこで朝廷は同年11月5日に1つの[[太政官符]]を出した。従来、この官符は平良兼、平貞盛、源護らに対して出された将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には[[馬寮]]に属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が受けたと解釈する説が有力となっている。いずれにしてもこれを機に将門は良兼らの兵を[[筑波山]]に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は関東一円に鳴り響いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[天慶]]2年（[[939年]]）2月、[[武蔵国]]へ新たに赴任した[[国司|権守]]、[[興世王]]（出自不明）と介[[源経基]]（[[清和源氏]]の祖）が、足立郡の[[郡司]][[武蔵武芝]]との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲（経緯は不明）し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた&amp;lt;ref&amp;gt;『将門記』では「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」と述べられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。将門の主人の[[太政大臣]]藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月2日付けで、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと議している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期には将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦（豪族間の個人的ないざこざ）とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 平将門の乱 ===&lt;br /&gt;
この頃、武蔵権守となった興世王は新たに受領として赴任してきた武蔵国守[[百済貞連]]と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、朝廷への租税を滞納していたことにより追捕令が出ていた常陸国の[[藤原玄明]]が庇護を求めると将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日（[[939年]]）、軍兵を集めて常陸府中（[[石岡市|石岡]]）へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介[[藤原維幾]]はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。&amp;lt;ref&amp;gt;『摂政忠平宛将門書状』には、「維幾の子為憲が公の威光を傘に猛威をふるったため、玄明の愁訴によってそれを正そうとして常陸に赴いたところ、為憲と貞盛が示し合わせて戦いを仕掛けてきた。」とある。&amp;lt;/ref&amp;gt;結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう。将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]に[[下野国|下野]]国府を占領し、続いて迎撃に出兵した[[上野国|上野]][[国司|介]][[藤原尚範]]（同国は[[親王任国]]のため、介が最高責任者。[[藤原純友]]の叔父）を捕らえて助命する代わりに印綬を接収して国外に放逐、[[12月19日 (旧暦)|19日]]には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「'''新皇'''」を名乗り天皇に即位、独自に[[除目]]を行い[[岩井市|岩井]]（茨城県[[坂東市]]）に政庁を置いた。また、この即位に際して舎弟[[平将平]]、小姓[[伊和員経]]らに諫言されるも聞き入れなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*新皇将門による諸国の除目と素性&lt;br /&gt;
**下野守：[[平将頼]]（将門弟）&lt;br /&gt;
**上野守：[[多治経明]]（陣頭・常羽御廐別当）&lt;br /&gt;
**常陸介：[[藤原玄茂]]（常陸掾）&lt;br /&gt;
**上総介：[[興世王]]（武蔵権守）&lt;br /&gt;
**安房守：[[文屋好立]]（上兵）&lt;br /&gt;
**相模守：[[平将文]]（将門弟）&lt;br /&gt;
**伊豆守：[[平将武]]（将門弟）&lt;br /&gt;
**下総守：[[平将為]]（将門弟）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守（正四位下相当の勅任の官）として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。したがって坂東王国であるなら介というのは制度上太守が存在することになるが、ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*補足&lt;br /&gt;
[[皇居|王城]]を[[下総国]]の亭南（[[猿島郡]][[石井]]という説がある）と定め、[[檥橋]]を京の[[山崎]]、[[相馬郡]]の[[大井]]の津を[[大津]]になぞらえて、左右大臣・[[納言]]・[[参議]]など文武百官を任命し、内印・外印を鋳造し、[[坂東]]に京に模した国家を樹立しようとしたされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で[[藤原純友の乱]]の報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌天慶3年（[[940年]]）1月9日には源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙され、1月19日には[[参議]][[藤原忠文]]が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷にかえる事無く討伐軍長官として出立したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子[[藤原為憲|為憲]]の行方を捜索している。貞盛の行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総の本拠へ帰り、兵を本国へ帰還させた。『将門記』では「然ルニ新皇ハ、井ノ底ノ浅キ励ミヲ案ジテ、堺ノ外ノ広キ謀ヲ存ゼズ。」と、この将門の一連の行動を”浅はか”であると評しており、事実その足場を固めねばならない大事な時期に貞盛らの捜索のために無駄に時間と兵力を使ったことは、後々の運命を見ると致命的となったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
間もなく、貞盛が下野国[[押領使]]の[[藤原秀郷]]と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入る。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1000人足らずしか残っていなかった。時を移しては不利になると考えて2月1日出陣、将門の副将[[藤原玄茂]]の武将[[多治経明]]と[[坂上遂高]]らは貞盛・秀郷軍を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始、しかし玄茂軍は敗退してしまう。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し[[下総国]]川口にて将門軍と合戦になり将門自ら陣頭に立って奮戦し貞盛・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけるため、幸嶋郡の広江に隠れる。しかし貞盛・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけ更に兵を集め、[[藤原為憲]]も加わり、2月13日将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門の「悪政」を嘆いたといい、既に民心は将門から離れていた。当の将門は身に甲冑をつけたまま貞盛らの探索をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢が悪くて思うように集まらないために攻撃に転ずることもままならず、僅か手勢400を率いて幸嶋郡の北山に陣をしいて味方の援軍を待つ。しかし、味方の来援よりも先にその所在が敵の知ることとなり寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月14日未申の刻（午後3時）、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した&amp;lt;ref&amp;gt;『[[扶桑略記]]』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされ、『[[和漢合図抜萃]]』では、秀郷の子の千常が将門を射落とし首級をあげたとされている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古い確実な例が、この将門である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この将門の乱は、ほぼ同時期に[[瀬戸内海]]で[[藤原純友]]が起こした乱と共に、「[[承平天慶の乱]]」と呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価の変遷 ==&lt;br /&gt;
[[関東]]一円では、[[武芸]]に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという将門は、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間、[[逸話]]や[[伝説]]として人々に語り継がれている。これは、将門が、重い負担を強いられ続けられた[[東国]]の人々の代弁者として捉えられた為だと考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中世、将門塚（平将門を葬った墳墓）の周辺で天変地異が頻繁に起こることがあり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるため、時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ、[[延慶 (日本)|延慶]]2年（[[1309年]]）には[[神田明神]]に合祀されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には[[徳川家康]]戦勝祈祷を行った。このようなことから、[[江戸時代]]には[[幕府]]により、平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、将門の朝敵としての汚名は[[江戸幕府]]三代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家光]]の時代に、[[勅使]]として[[江戸]]に下向した[[大納言]][[烏丸光広]]が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により、除かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、神田明神は幕府によって[[江戸城]]の[[鬼門]]にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、[[徳川氏]]が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」は、首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説もあるし、坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山（かどやま）」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明治維新後は、将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして[[明治]]7年（[[1874年]]）には、[[教部省]]の指示により神田明神の祭神から外され、[[将門神社]]に遷座されてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]終結後は、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして、[[1976年]]将門を主人公とした[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[風と雲と虹と]]』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに昭和59年になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。最近ではより学術的な面からの研究が期待されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝説 ==&lt;br /&gt;
将門伝説の研究者である[[村上春樹 (研究者)|村上春樹]](元高校教諭の郷土史家、同名の小説家とは別人)は将門伝説を以下のように分類している。&amp;lt;ref&amp;gt;『将門伝説』（汲古書院、2001年）&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
#冥界伝説（地獄に堕ちた将門の伝説）&lt;br /&gt;
#調伏伝説&lt;br /&gt;
#祭祀伝説（将門を祀った神社）&lt;br /&gt;
#王城伝説（将門が建設した都の伝説）&lt;br /&gt;
#首の伝説&lt;br /&gt;
#鉄身伝説（将門はこめかみにだけ弱点があると言う伝説）&lt;br /&gt;
#七人将門の伝説（将門の影武者の伝説）&lt;br /&gt;
#東西呼応の伝説&lt;br /&gt;
#将門一族の伝説&lt;br /&gt;
#追討者の伝説&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 調伏伝説 ===&lt;br /&gt;
千葉県[[成田市]]の[[成田山新勝寺]]は、東国の混乱をおそれた[[朱雀天皇]]の密勅により海路（陸路は日数を要す）下向した[[寛朝]]僧正が、対将門勢の士気を鼓舞するために祈祷を行ったとされる場所に、言い伝えによって建てられた寺院である。このため、将門とその家来の子孫は、1080年以上たった今でも[[成田山新勝寺]]へは参詣しないという。また、生い立ちにもある佐倉市将門に古くから住む人々も、参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた[[坂東市]]の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。[[築土神社]]や[[神田神社]]（神田明神）の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると、[[産土神]]である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。[[大河ドラマ]]「[[風と雲と虹と]]」の出演者も、成田山新勝寺の[[節分]]豆まきへの参加辞退をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 首の伝説 ===&lt;br /&gt;
「史蹟神田神宮」京都市下京区新釜座町（四条通西洞院東入ル）には、民家に埋もれる様にして小さな祠がある。「天慶年間平将門ノ首ヲ晒（さら）シタ所也（なり）」と由緒書きにはある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何ヶ月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、[[歌人]]の[[藤六左近]]がそれを見て[[和歌|歌]]を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯（からだ）つけて一戦（いく）させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、頸塚は京都にはない。その武勇は死んだ後まで洛中を震え上がらせたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが[[東京]][[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]の[[平将門の首塚]]である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[御首神社]]に伝わる話では将門の首は、美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために[[御首神社]]が建てられたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和の終り、[[東京]]の霊的守護をテーマに盛り込んだ[[荒俣宏]]の[[小説]]『[[帝都物語]]』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くの[[オカルト]]ファンの注目を集めるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 将門一族の伝説 ===&lt;br /&gt;
遅くとも[[建武 (日本)|建武]]4年（[[1337年]]）には成立したと見られている軍記物語『[[源平闘諍録]]』以降、将門は日本将軍（ひのもとしょうぐん）平親王と称したという伝説が成立している。この伝説によると将門は、[[妙見菩薩]]の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子（実際には叔父）の[[平良文]]の元に渡ったとされる。この伝説は、良文の子孫を称する[[千葉氏|千葉一族]]、特に伝説上将門の本拠地とされた[[相馬郡 (下総国)|相馬御厨]]を領した[[相馬氏]]に伝えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「新皇」と名乗った史実に反し「日本将軍平親王」としての伝説が中世近世を通じて流布した背景に、板東の分与・独立を意味する前者を排除し、軍事権門として朝廷と併存する道を選択した[[源頼朝]]を投影したものだとする関幸彦の指摘がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[赤城宗徳]]　『平将門』角川書店 、 1970年　ISBN 4-04-703032-5&lt;br /&gt;
* [[梶原正昭]]訳注　『将門記』　東洋文庫　、1975年・1976年、ISBN 458280280X・ISBN 4582802915&lt;br /&gt;
* [[福田豊彦]]　『中世成立期の軍制と内乱』　吉川弘文館、1995年、ISBN 4642027475&lt;br /&gt;
* [[森田悌]]　『日本古代の政治と宗教』　雄山閣出版、1997年、ISBN 4639014597&lt;br /&gt;
* [[谷本龍亮（平将門直系）]]　『平将門は生きていた』　叢文社、1997年、ISBN 4794702485&lt;br /&gt;
* [[関幸彦]]　『蘇る中世の英雄たち』　中央公論社、1998年、ISBN 4121014448 &lt;br /&gt;
* [[川尻秋生]]　『平将門の乱』　吉川弘文館、2007年、ISBN 4642063145&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[承平天慶の乱]]&lt;br /&gt;
*[[桓武平氏]]&lt;br /&gt;
*[[将門記]]&lt;br /&gt;
*[[平将門の首塚]]&lt;br /&gt;
*[[平将門の胴塚]]&lt;br /&gt;
*[[八幡の藪知らず]] &lt;br /&gt;
*[[相馬氏]]&lt;br /&gt;
*[[築土神社]]&lt;br /&gt;
*[[神田明神]]&lt;br /&gt;
*[[国王神社]]&lt;br /&gt;
*[[相馬神社 (相馬市)]]&lt;br /&gt;
*[[御首神社]]&lt;br /&gt;
*[[永福寺 (杉戸町)]]&lt;br /&gt;
*[[十九首塚 (掛川市)]]&lt;br /&gt;
*[[将門まつり]]&lt;br /&gt;
*[[相馬野馬追]]&lt;br /&gt;
*[[風と雲と虹と]]&lt;br /&gt;
*[[早速整爾]]&lt;br /&gt;
*[[赤城宗徳]]&lt;br /&gt;
*[[村上春樹 (研究者)]]&lt;br /&gt;
*[[滝夜叉姫]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連作品 ==&lt;br /&gt;
;浄瑠璃・歌舞伎&lt;br /&gt;
:歌舞伎や浄瑠璃では将門の娘（滝夜叉姫、俤姫）の復讐譚が多く題材とされている。&lt;br /&gt;
* 『[[関八州繋馬]]』 [[近松門左衛門]]&lt;br /&gt;
* 『[[吾妻花相馬内裡]]』&lt;br /&gt;
;小説&lt;br /&gt;
*『平の将門』[[吉川英治]]&lt;br /&gt;
*『平将門』 [[海音寺潮五郎]]&lt;br /&gt;
*『平将門 &amp;lt;small&amp;gt;湖氷の疾風&amp;lt;/small&amp;gt;』 [[童門冬二]]&lt;br /&gt;
*『平将門 &amp;lt;small&amp;gt;射止めよ、武者の天下&amp;lt;/small&amp;gt;』 [[高橋直樹 (作家)|高橋直樹]]&lt;br /&gt;
*『陰陽師 瀧夜叉姫（上）』 [[夢枕獏]]  &lt;br /&gt;
*『陰陽師 瀧夜叉姫（下）』 [[夢枕獏]]&lt;br /&gt;
;映像作品&lt;br /&gt;
*『[[帝都物語]]』[[荒俣宏]]&lt;br /&gt;
*[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[風と雲と虹と]]』（俳優：[[水野哲]]→[[加藤剛]]、原作：[[海音寺潮五郎]]『平将門』、『海と風と虹と』）&lt;br /&gt;
;舞台&lt;br /&gt;
*『[[幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門]]』&lt;br /&gt;
;歴史ゲーム&lt;br /&gt;
* コマンド・ベーシック第1弾 『将門記～承平天慶坂東兵乱』、国際通信社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.kandamyoujin.or.jp/ 神田神社（神田明神）]&lt;br /&gt;
*[http://www.tsukudo.jp/ 築土神社/平将門を祀る江戸の古社]&lt;br /&gt;
*[http://www.mikubi.or.jp/ 御首神社]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たいら の まさかと}}&lt;br /&gt;
[[Category:平安時代の武士]]&lt;br /&gt;
[[Category:平氏|まさかと]]&lt;br /&gt;
[[Category:君主]]&lt;br /&gt;
[[Category:下総国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:940年没]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
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[[Category:歴史関連記事のテンプレート|ふしつま]]&lt;br /&gt;
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