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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>西野翔</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;''本名について、ウィキペディアでは非公開のようですが、こちらでは本人から公式に公開の是非が発表されない限り、記載する方針です。編集される方はこの旨を了承のうえ編集をお願いいたします。''ガイドライン「編集についての方針」を参照ください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''西野 翔'''（にしの しょう、[[1983年]][[8月4日]] - ）は、[[日本]]の[[AV女優]]。本名・'''田中 恵'''（たなか めぐみ）。趣味は、スノーボードとウェイクボードである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[2004年]]に[[九鬼 (アダルトビデオ)|KUKI]]専属女優としてAVデビューした。AVデビュー前、CM3本に出演していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]]には、[[アイエナジー]]専属女優としてセルデビューした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年からは[[テレビドラマ]]にも出演する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在は[[エスワン]]専属。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作品 ==&lt;br /&gt;
=== アダルトビデオ ===&lt;br /&gt;
; 2004年&lt;br /&gt;
* DEBUT　西野翔　（2004年10月22日、[[九鬼 (アダルトビデオ)|KUKI]]）&lt;br /&gt;
* SHOW TIME　（2004年10月29日、KUKI）*&lt;br /&gt;
* 第三章　（2004年11月25日、KUKI）*&lt;br /&gt;
* SEIHUKU　西野翔　（2004年12月22日、KUKI）&lt;br /&gt;
* ショールーム　西野翔　（2004年12月25日、KUKI）*&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 2005年&lt;br /&gt;
* 純粋培養　西野翔　（2005年1月24日、KUKI）*&lt;br /&gt;
* R18　西野翔　（2005年2月18日、KUKI）&lt;br /&gt;
* 体温　西野翔　（2005年2月20日、KUKI）*&lt;br /&gt;
* 若妻痴漢遊戯　（2005年3月1日、エンゲル）…共演:[[RIRICO]]、畠山寛、吉岡睦雄、重松伴武、長門　薫、皆川尚義、むかい誠一&lt;br /&gt;
* 新妻物語　西野翔　（2005年3月20日、KUKI）*&lt;br /&gt;
* 純妹系。　西野翔　（2005年4月21日、KUKI）*&lt;br /&gt;
* COME ON！！　西野翔　（2005年4月22日、KUKI）&lt;br /&gt;
* 南極2号　西野翔　（2005年5月24日、KUKI）*&lt;br /&gt;
* 妹系。　西野翔　（2005年6月24日、KUKI）&lt;br /&gt;
* エッチ　（2005年6月28日、KUKI）*&lt;br /&gt;
* 君を犯したい 西野翔　（2005年7月7日、[[アイエナジー]]）&lt;br /&gt;
* スレスレ限界モザイク 西野翔　（2005年8月4日、アイエナジー）&lt;br /&gt;
* 西野翔の超高級ソープ嬢　（2005年9月8日、[[ソフト・オン・デマンド|オーティス]]）&lt;br /&gt;
* スレスレモザイク 痴漢バス アイドル襲撃 1　（2005年10月6日、アイエナジー）&lt;br /&gt;
* スレスレモザイク 萌え系 メガネアイドル　（2005年11月4日、アイエナジー）&lt;br /&gt;
* 超高級ソープ嬢 秘技伝授 レズ・ソープ3　（2005年11月4日、オーティス）…3人のAV女優によるオムニバス形式作品、他出演:[[かすみ果穂]]、[[加藤レイラ]]&lt;br /&gt;
* スレスレ限界モザイク　快感地獄　美女でワキコキ　（2005年11月17日、アイエナジー）…複数のAV女優によるオムニバス形式作品、他出演:[[菅野亜梨沙]]、萩原めぐ、[[上原留華]]、[[君嶋もえ]]、[[さいとう真央]]、[[桜田さくら]]&lt;br /&gt;
* 西野翔のメイド喫茶 テレビCM3本出演アイドル in AVプレイングゲーム　（2005年12月4日、アイエナジー）&lt;br /&gt;
* カウントダウン plus H　（2005年12月18日、KUKI）&lt;br /&gt;
* ねこ耳＆尻コキ ぷりぷりの美尻でチ○ポをシゴキたい　（2005年12月21日、アイエナジー）…複数のAV女優によるオムニバス形式作品、他出演:菅野亜梨沙、唯川純、上原留華、[[月野しずく]]、七瀬くるみ、仲居あゆみ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 2006年&lt;br /&gt;
* 新入社員 中出し勤務 西野翔　（2006年1月4日、アイエナジー）&lt;br /&gt;
* スポーツ少女凌辱 純情少女たちにイタズラ　（2006年1月19日、アイエナジー）…複数のAV女優によるオムニバス形式作品、他出演:[[小泉彩]]、唯川純、[[水希遥]]、葉山瑠菜、森名莉沙&lt;br /&gt;
* ハイパースレスレモザイク vol.7　（2006年2月4日、アイエナジー）&lt;br /&gt;
* 新任女教師 中出し20連発 西野翔　（2006年3月4日、アイエナジー）&lt;br /&gt;
* 解禁×ギリギリモザイク 西野翔　（2006年6月7日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク SEX ON THE BEACH ～南の島でパコパコ！ 西野翔　（2006年7月19日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 6つのコスチュームでパコパコ！ 西野翔　（2006年8月19日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 翔のセックスじっくり見せてあげる　（2006年9月19日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 学校でセックスしよっ 西野翔　（2006年10月7日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 絶頂！イキまくり潮吹きFUCK 西野翔　（2006年11月19日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 激烈ピストン5　（2006年12月19日、エスワン）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 2007年&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク エロい女の絶叫FUCK　（2007年1月7日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク バコバコ乱交22  （2007年2月7日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク パコパコ航空 CA 西野翔  （2007年3月7日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク バコバコ大乱交 W激烈ピストン 宮澤ケイト×西野翔　（2007年4月7日、エスワン）…共演:[[宮澤ケイト]]&lt;br /&gt;
* ハイパーギリギリモザイク 特殊浴場TSUBAKI 貸切入浴料1億円　（2007年5月3日、エスワン）…共演:[[蒼井そら]]、[[麻美ゆま]]、[[吉沢明歩]]、[[穂花]]、[[小川あさ美]]、[[片瀬まこ]]、[[伊沢千夏]]、[[果梨]]、[[遥めぐみ]]、[[美優千奈]]、[[MO☆MO]] 　※[[AV OPEN～あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦～|AV OPEN]] 2007エントリー作品&lt;br /&gt;
* ギリギリモザイク 無限絶頂！激イカセFUCK 西野翔　（2007年5月7日、エスワン）&lt;br /&gt;
* ハイパー×ギリギリモザイク ハイパーギリギリモザイクMV　（2007年7月7日、エスワン）&lt;br /&gt;
(*) …レンタルVHSのみ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 成人映画 ===&lt;br /&gt;
* 未亡人若女将　（2007年5月22日、ケイエスエス）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イメージビデオ ===&lt;br /&gt;
* Show me 西野翔　（2004年9月24日、[[レイディックス]]）&lt;br /&gt;
* キレイナセックス 西野翔　（2006年10月13日、[[コンセント]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出演 ==&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
* [[特命係長・只野仁|特命係長・只野仁（2ndシーズン）]]第20話（2005年3月11日 [[テレビ朝日]]系）&lt;br /&gt;
* [[特命係長・只野仁|特命係長・只野仁（3rdシーズン）]]第23話（2007年1月19日 テレビ朝日系）&lt;br /&gt;
* [[牙狼-GARO-]]第24話・25話（2006年3月24日・31日 [[テレビ東京]]系）メシア役&lt;br /&gt;
* [[エリートヤンキー三郎]]（2007年4月13日～6月29日 テレビ東京系）レディース=リナ役&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バラエティ ===&lt;br /&gt;
* [[ゴッドタン]]（2007年8月22日・29日 テレビ東京系）第3回キス我慢選手権&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 西野翔の画像 ==&lt;br /&gt;
[[画像:西野翔 1.jpg|300px]][[画像:西野翔 2.jpg|300px]][[画像:西野翔 3.jpg|300px]][[画像:西野翔 4.jpg|300px]][[画像:西野翔 5.jpg|300px]][[画像:西野翔 6.jpg|300px]][[画像:西野翔 7.jpg|300px]][[画像:西野翔 8.jpg|300px]][[画像:西野翔 9.jpg|300px]][[画像:西野翔 10.jpg|300px]][[画像:西野翔 11.jpg|300px]][[画像:西野翔 12.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://blog.dmm.co.jp/actress/nishino_shou/ 西野翔公式ブログ] - DMM版&lt;br /&gt;
* [http://plaza.rakuten.co.jp/shounishino/ 西野翔のSHOWROOM] - 楽天版公式ブログ&lt;br /&gt;
* [http://blog.livedoor.jp/nishino_shou/ 西野翔のSHOWROOM] - ライブドア版公式ブログ&lt;br /&gt;
* [http://www.web-prime.net/prime/m-nishino.html 所属事務所による公式プロフィール]&lt;br /&gt;
* [http://peach.firstadulthost.com/sho-nishino-01/ 西野翔の画像 その1]&lt;br /&gt;
* [http://peach.firstadulthost.com/sho-nishino-02/ 西野翔の画像 その2]&lt;br /&gt;
* [http://peach.firstadulthost.com/sho-nishino-03/ 西野翔の画像 その3]&lt;br /&gt;
* [http://peach.firstadulthost.com/sho-nishino-04/ 西野翔の画像 その4]&lt;br /&gt;
* [http://peach.firstadulthost.com/sho-nishino-05/ 西野翔の画像 その5]&lt;br /&gt;
* [http://peach.firstadulthost.com/sho-nishino-06/ 西野翔の画像 その6]&lt;br /&gt;
* [http://peach.firstadulthost.com/sho-nishino-07/ 西野翔の画像 その7]&lt;br /&gt;
* [http://babe.firstadulthost.com/sho-nishino/ 西野翔の画像 その8]&lt;br /&gt;
* [http://rose.firstadulthost.com/sho-nishino/ 西野翔の画像 その9]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:にしの しよう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本のAV女優]]&lt;br /&gt;
[[Category:1985年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:静岡県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:コスプレイヤー]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Sysop/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%83%AD%E3%82%B02&amp;diff=228686</id>
		<title>利用者・トーク:Sysop/過去ログ2</title>
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				<updated>2014-05-18T04:50:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* IPユーザーの無期限ブロックについて */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[/過去ログ1]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理者に立候補したいのですが ==&lt;br /&gt;
どうすればいいんでしょう？もしそのまま立候補できるのであれば、その[[YP維新の会本部|マニフェスト]]も用意しています。--[[利用者:泊優稀|Tomari]] 2012年2月26日 (日) 13:43 (UTC)&lt;br /&gt;
:お返事が遅くなりましたが、管理者として活動いただけるのでしたら、管理者権限を付与いたします。ただ、マニフェストにある「写真集としての使用」は、百科事典的では無いかと思います。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年3月29日 (木) 20:01 (UTC)&lt;br /&gt;
::(コメント)これまでの執筆実績から見て、少々疑問を感じざるを得ません。編集履歴を精査のうえで再検討が望ましいと思います。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年3月31日 (土) 00:21 (UTC)&lt;br /&gt;
:::(コメント)文体も幼稚で下劣。低俗。項目数が15000を越えている大規模掲示板なので、それにふさわしい内容が必要。学生であるならば掲示板の編集は不適当。数年後でも遅くはない。--[[利用者:間久部明|間久部明]] 2012年4月9日 (月) 10:49 (UTC)&lt;br /&gt;
::::条件（Wikipedia基準）は満たしています。私はやる気もあります。ただ１週間程度のご勝手Yourブレイクがたまにあるので、ご了承ください。それと間久部、お前には言われたくない。--[[利用者:泊優稀|Tomari]] 2012年4月13日 (金) 12:54 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::とりあえず管理者権限を付与してみました。よろしくお願いします。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月14日 (土) 02:11 (UTC)&lt;br /&gt;
::::::分かりました。当分は削除依頼と保護依頼・即時削除を中心に対応させていただきます。--[[利用者:泊優稀|Tomari]] 2012年4月14日 (土) 04:40 (UTC)&lt;br /&gt;
私も、管理者に立候補致します。権限付与していただけるよう御願いいたします。--[[利用者:松葉憲太郎|松葉憲太郎]] 2012年3月30日 (金) 03:23 (UTC)&lt;br /&gt;
:(反対)アカウントを作ってすぐに立候補とは、虫がよすぎます。(アカウント名も、既存ユーザー名を捩ったもので、疑問があります)ある程度実績を作ってから、又立候補されると良いと思います。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年3月31日 (土) 00:21 (UTC)&lt;br /&gt;
:とりあえず、利用者ページも無いような、どこの誰ともわからない人に管理者権限を付与することは出来ません。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年3月31日 (土) 10:33 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
立候補すれば誰でもなれるようなので、私も管理者にしてください。--[[利用者:防人|防人]] 2012年3月30日 (金) 21:22 (UTC)&lt;br /&gt;
:(賛成)これまでの荒らし対応への実績から、管理者にふさわしいものと考えられます。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年3月31日 (土) 00:21 (UTC)&lt;br /&gt;
:とりあえず、利用者ページも無いような、どこの誰ともわからない人に管理者権限を付与することは出来ません。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年3月31日 (土) 10:33 (UTC)&lt;br /&gt;
:利用者ページを作りました。最近あまりにも「こんなの僕が考えるサイトじゃない!!こうあるべきだ!!」という思い込みだけで、削除したりブロックしたりする子供が多いので、yourpedia方針に則った管理をしたいと思います。--[[利用者:防人|防人]] 2012年4月29日 (日) 16:38 (UTC)&lt;br /&gt;
::とりあえず管理者権限を付与してみました。よろしくお願いします。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月29日 (日) 15:54 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私も管理者に立候補します。--[[利用者:User02|User02]] 2012年4月1日 (日) 19:37 (UTC)&lt;br /&gt;
:(反対)利用者ページも編集実績も貧弱です。もう少し、百科事典的な編集を充実させてから、又立候補されるとよいでしょう。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年4月5日 (木) 00:02 (UTC)&lt;br /&gt;
:3年後にまた来てください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月14日 (土) 02:02 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 住所記入問題のユーザーについて ==&lt;br /&gt;
そういえば、よくわかりませんが、住所記入問題のユーザーが増えていますよね?一応禁則事項にしてみればどうですか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Wikipediaの[[wiki:Wikipedia:進行中の荒らし行為/長期/身長記入問題|身長記入問題のユーザー]]みたいに、その名前の付くユーザーをブロックし、且つ住所を白紙保護 and ブラックリストにするのはどうですか？--[[利用者:泊優稀|Tomari]] 2012年3月10日 (土) 06:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メインページ改定案 ==&lt;br /&gt;
ということで、メインページを[[利用者:のび太Ｚ/メインページ改定案|こんなページ]]にしたいのですが、どうでしょうか？--[[利用者:のび太Ｚ|のび太Ｚ]] 2012年4月11日 (水) 10:54 (UTC)&lt;br /&gt;
:現在のメインページと、どこがどういう風に変わっていて、変更することによる利点と欠点を教えてください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月14日 (土) 02:03 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*現在のメインページと、どこが変わっているか&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*現在のユアペディアの状態に合わせたので、そこら辺が変わっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*変更することによる利点、欠点&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特になし。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
詳しいことについては[[利用者:のび太Ｚ/メインページ改定案|ここを見て]]ください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
--[[利用者:のび太Ｚ|のび太Ｚ]] 2012年4月14日 (土) 09:53 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理範囲拡大、等 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、間久部明様から、管理範囲の拡大、併せて、「品位を貶める様な内容」の整理に付いての御提案を頂いております。削除依頼等を望まれる方の御期待に添える様にしたいのですが、如何でしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年4月14日 (土) 00:09 (UTC)&lt;br /&gt;
:Abcdefghさんのおっしゃる品位とは何ですか？良くわからないので、具体的に定義してください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月14日 (土) 02:00 (UTC)&lt;br /&gt;
::「品位を貶める様な内容」とは具体的には例えば[[利用者:のび太Ｚ]]氏が行なってる様な一連の編集です(誹謗中傷を積極的に推奨したり、文章としての体を成さなかったり、罵詈雑言で埋め尽くされたり、等)。この他、「晒し上げ」「貶め」を目的にしたとおぼしき人名リスト、等です。こういうのに就いては、どの様な御見解をお持ちなのでしょうか？又、どの様に対処すれば宜しいでしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年4月15日 (日) 00:21 (UTC)&lt;br /&gt;
:::例については聞いていないので、挙げていただかなくても結構です。「『品位を貶める様な内容』の整理」をしたいとのことでしたので、そのような活動が行えるようにするかどうか検討したいので、定義を教えてください。なお、例が[[利用者:のび太Ｚ]]氏の編集しかないのでしたら、議論すべきは[[利用者:のび太Ｚ]]氏をブロックすべきかどうかであって、「品位」などという曖昧な概念を持ち出す理由がわかりません。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月15日 (日) 06:37 (UTC)&lt;br /&gt;
::::「品位」というのは、要するに「多くの人から尊敬・敬意を集める」、という内容です。然るに、間久部明様が言う所の「幼稚な中傷や性的に下劣な表現」は「多くの人から尊敬・敬意を集める」内容と言えるでしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年4月15日 (日) 23:58 (UTC)&lt;br /&gt;
::::或いはUCPに有る様な、誰も傷つけないが「思わずクスリとしてしまう」様な、ユーモアを効かせた内容、親近感を集める様な朗らかな内容、です。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年4月18日 (水) 00:07 (UTC)&lt;br /&gt;
::::: 品位の定義が「多くの人から尊敬・敬意を集める」ということでしたら、そういう記事のみ選別することは、「多数派の演説場所ではない」という基本方針に反しています。管理ではなく、議論によって解決すべき問題です。よって、現時点において管理範囲の拡大をする必要はありませんね。 --[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年4月20日 (金) 09:57 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Mikomaid(2)の復活依頼 ==&lt;br /&gt;
[[Mikomaid(2)]]が[[利用者:泊優稀|Tomari]]管理者 により削除されてしまいました。理由は「削除依頼」と「重い」と記載されていました。記事には、「先編集権」を冒頭に添付しており、ユアペディアが持つ、他の wiki サイトと一線を画す「フォーク」を用いて立項したものです。この記事の削除依頼においては、Mikomaid 氏の依頼者本人の身元確認が行われた形跡はありません。その手続きを踏まずに記事の削除はユアペディアの基本方針である「プロバイダ責任制限法ガイドラインに沿った対応」を無視した削除です。また「重い」との理由ですが、ユアペディアでは記事の容量の制限は設けていないにもかかわらず、管理者の主観で削除されたことに対して納得が行きません。管理者の増加は喜ばしい限りですが、新たな管理者の「主観」が先走る削除や投稿ブロックが目立ち、ユアペディアの理念や基本方針の理解に欠けているのではないかと思いが募ります。&lt;br /&gt;
このため、[[利用者:泊優稀|Tomari]]管理者が行った、記事の白紙保護を撤回し、Mikomaid(2)　の記事復活依頼をお願い申し上げるものです。なお、削除依頼を行った Mikomaid 氏の身元確認が行われ、正式な依頼であると判定されて、且つ、記事削除論議を経た削除であるものであれば、記事の削除に何ら異論を持たないことを申し添えます。修正--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年4月27日 (金) 15:06 (UTC)&lt;br /&gt;
;記事の復活を確認いたしました。早々の御対応に深く感謝申し上げます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年4月27日 (金) 15:41 (UTC)&lt;br /&gt;
:これに就いては現在[[Yourpedia:削除依頼#Mikomaidの真実の削除依頼]]、[[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼#再度ブロック依頼]]で議論、投票が進行中で、概ね好感触を頂いております。「身元確認」が必要、と言うのなら、誰に対して、どの様に行えば宜しいのでしょうか？基本方針には確かに「「多数派の演説場所」ではありません」と有りますが、一方で「議論によって何が正しいかを見極める道筋を保証します」とも書いてあり、現在、それが進行中です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年4月28日 (土) 00:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利用者:大野慶吾というユーザーが上で話していますが、なぜこれほどにも[[Mikomaid(2)]]にこだわり続けるのでしょうか。全く異常なものです。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月28日 (土) 07:06 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理者[[利用者:泊優稀|Tomari]]の[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] の6か月ブロックについて ==&lt;br /&gt;
個人感情のみによるブロックではないでしょうか?。--[[利用者:防人|防人]] 2012年4月28日 (土) 17:20 (UTC)&lt;br /&gt;
:そうではないと思います。削除依頼に就いてはコンセンサスが出来つつあり、又、誹謗中傷を目的とした多重アカウント(ブロック破り)や荒らし行為が認められた事から、この対応は妥当と思われます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年4月28日 (土) 10:15 (UTC)&lt;br /&gt;
[[利用者・トーク:大野慶吾]]にてブロック理由が書かれています。私の会話ページに不快なものを書きこんだので6ヵ月ブロックは相当です。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年4月29日 (日) 02:21 (UTC)&lt;br /&gt;
:本当に上記に目を通して頂けたのでしょうか？その上で解除した、と言うのであれば、どの様な点に不備があったのか、どの様な記述なら「不備無し」と認められるのか、お答え頂きたい。私の目には「難癖を付けてる」様にしか見えません。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年4月30日 (月) 13:30 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== テンプレート:コピペディア転記 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
YPには[[コピペディア]](CP)への転記が望ましい項目が幾つか有るみたいです。取り敢えず[[:テンプレート:コピペディア転記]]、[[:カテゴリ:コピペディア転記]]を作ってみました。今後、同様のページを見つけた時には本TPを貼って頂ける様にお願いします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年4月30日 (月) 00:42 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「このアカウントをブロックした管理人は死にます」氏のブロックに就いて ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに利用者ページの編集は有りますが、これは悪意によるものではないものと思われます。只、相手に対話を求め、項目に就いては、削除依頼の手続きを踏むべきでした。この点、「このアカウントをブロックした管理人は死にます」氏の行動は、やや拙速だったとは思います。ブロック期間を1週間程度に短縮する事が望ましいものと考えられますが、如何でしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月1日 (火) 12:09 (UTC)&lt;br /&gt;
:「悪意によるものではない」とする具体的な根拠を教えてください。短期間に4度も編集していることから無期限でも良いかと思いましたが、一応、一ヶ月にとどめておきました。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年5月1日 (火) 12:32 (UTC)&lt;br /&gt;
::＞2012-04-29T11:13:47 (差分 | 履歴) 利用者:泊優稀/メインページ改定案(「Warning:Commercial SPAM is banned in this website!!!!」　を除去させていただきます) に就いて&lt;br /&gt;
::これは上記に書いた通りですが、これは、いきなり行うべきではなく、泊優稀氏に打診すべきだったと思います。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月1日 (火) 13:04 (UTC)&lt;br /&gt;
::＞2012-04-29T15:16:55 (差分 | 履歴) 細 利用者:Example/残したい&lt;br /&gt;
::＞2012-04-29T15:28:19 (差分 | 履歴) 利用者:Example/残したい(Category:即時削除__)&lt;br /&gt;
::＞2012-04-29T15:46:32 (差分 | 履歴) 利用者:Example/残したい(無期限ブロックされた荒らしアカウントによる作成。膨大な容量・悪質な内容。いらない)&lt;br /&gt;
::＞2012-05-01T13:17:45 (差分 | 履歴) 細 利用者:Example/残したい(異常に残酷。)&lt;br /&gt;
::これらは、{{P|利用者:Example/残したい}}の履歴を良く見ると{{User2|Example}}氏が利用者ページのサブページに移動する前の標準空間だった頃の編集であり、これは問題にはならない筈です。尚、Example氏が移動したのは、それより後の2012-05-01T15:24:39です。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月1日 (火) 13:04 (UTC)&lt;br /&gt;
::該当項目は内容が「陵辱」「近親相姦」「暴力的内容」「児童ポルノ小説」に該当する可能性があるとされたため、削除を目指したものと思われます。只、これもやはり、削除依頼の手続き、議論、投票を行う事が望ましいものと考えられたため、その旨のアドバイスをした矢先のことでした。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月1日 (火) 13:04 (UTC)&lt;br /&gt;
::いずれにしろ、「短期間に4度」というのは誤認と思われ、実際には4月29日に１回だけです。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月1日 (火) 13:04 (UTC)&lt;br /&gt;
::: 誤認である旨、理解できたため、ブロックを解除しました。なお、「陵辱」「近親相姦」「暴力的内容」「児童ポルノ小説」は、文章である限り削除対象にはなりえません。よって削除依頼の手続きや議論、投票を行う必要はありません。ただし、削除依頼以外（各ノートなど）で、議論を行うことを妨げるものではありません。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年5月1日 (火) 13:44 (UTC)&lt;br /&gt;
::::ありがとうございます。今回の件を伝えておきます。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月1日 (火) 13:55 (UTC)&lt;br /&gt;
(インデント戻し)2012-05-07T04:12:55付けで「spam投稿」を理由に1週間ブロックされましたが、何を以て「spam投稿」とされたのでしょうか？「このアカウントをブロックした管理人は死にます」氏には、確かに以下の様な編集は有ります。&lt;br /&gt;
*2012-05-04T15:15:00 ???? ?????? (??????? 2) ? (緊急即時削除) &lt;br /&gt;
*2012-05-04T15:14:29 ??? ????????? (??????? 2) ? (緊急即時削除) &lt;br /&gt;
*2012-05-04T15:13:51 ???? ??????? (???????) ? (緊急即時削除) &lt;br /&gt;
*2012-05-04T15:11:53 ???? ???????? (??????????????) ? (緊急即時削除|) &lt;br /&gt;
*2012-05-04T15:10:40 ???? ???????? (????????) ? (緊急即時削除) &lt;br /&gt;
これらは何れも項目名がグルジア語であり、環境によっては(古いブラウザや一部のスマホ)表示出来ず、表示出来ても読める人は少ない為、これを問題にしたものと思われます。WPでは漢字文化圏以外の外国人名・固有名詞は項目名をカタカナにする事が決められてますが、YPでは、どうなのでしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月7日 (月) 08:11 (UTC)&lt;br /&gt;
:2012-05-17T02:05:29付けで「spam投稿」を理由に再度2週間ブロックされましたが、何を以て「spam投稿」とされたのでしょうか？「このアカウントをブロックした管理人は死にます」氏が行った編集は{{User2|どんとだるま}}氏が乱立させたカテゴリに対する｛｛緊急即時削除｝｝TP張り付けであり、カテゴリの乱立こそがspamと思われ、問題になるはずです。これは問題にされないのでしょうか？「このアカウントをブロックした管理人は死にます」氏を見くびらない方が良いと思いますが、如何でしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月17日 (木) 00:13 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 泊優稀の管理者解任について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
管理者:泊優稀より[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Mikomid_(2)&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=158694 Mikomid (2) の保護] 処分を受けました。[[Mikomid (2)]] はユアペディアの特徴である「先編集権」を用いた記事でありながら、その保護理由のコメントに「不適切なページ。いい加減にしてください」と記載されていました。管理者:泊優稀より自分のトークページ、若しくは当該のトークページに事前に注意・警告はなされた形跡はありません。これは何故による処分となるのでしょうか。管理者:泊優稀の裁量次第で、気に入らない記事は何でも処分できるとするようなことであれば、管理者権限の越権行為に他なりません。&lt;br /&gt;
また、管理者:泊優稀はMikomid (2)の保護処分後に、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=158696 利用者:泊優稀]にて「Mikomaid関連を中心にプライバシー侵害なども担当」と管理者就任の弁に追記されておりました。管理者:泊優稀は4月28日に、自分への理不尽な投稿ブロック処分を行い、Sysopの質問にも「依頼によるもの」と回答していましたが、処分通告の時間を調べると[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%85%B6%E5%90%BE&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=157747 それは嘘]であり、当日の投稿ブロック処分は依頼前に行使されたものです。加えて、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%85%B6%E5%90%BE&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=157747 ユアペディアで禁止されている他者の利用者ページを編纂]しようとしたり、ユアペディアの編集内容も管理者としての管理行為よりも、チャクウイキを意識した記事を編集する等、ユアペディアが目指す方向とは違う路線を目指しているような編集行為が目立ちます。且つ、管理者就任の弁も特定の意図を持っていることを追記して明言していることから、本人の権力欲・支配力をユアペディア上で行使しようとの思惑が見え隠れ、ユアペディアの管理者としての資質・能力はないと判断せざるを得ず、Mikomid (2)の保護解除と泊優稀の管理者解任を求めるものです。加えて申し上げれば、法的責任能力・社会人経験を持たない未成年者が管理者に就任することは好ましくないと考え、いたずらに管理者希望者を就任させるのではなく、ユアペディア上で一定の編集実績や他の編集者の推薦を必要とするような就任基準を設けることを希望致します。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年5月10日 (木) 17:28 (UTC)&lt;br /&gt;
:上記の大野慶吾氏の発言には一部事実誤認が有る様です。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月10日 (木) 23:49 (UTC)&lt;br /&gt;
:＞処分通告の時間を調べるとそれは嘘であり&lt;br /&gt;
:実際にブロックされたのは2012-04-28T17:08:22で、処分通告の時間は2012-04-28T17:07:37であり、1分程度しか違いません。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月10日 (木) 23:49 (UTC)&lt;br /&gt;
:＞ユアペディアで禁止されている他者の利用者ページを編纂しようとしたり&lt;br /&gt;
:これは悪意によるものではなく、会話ページに書き込もうとして間違って書き込み、誤りに気づいてすぐに取り消し、改めて会話ページに書き込んでおります。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月10日 (木) 23:49 (UTC)&lt;br /&gt;
:＞当日の投稿ブロック処分は依頼前に行使されたものです&lt;br /&gt;
:これも完全に事実誤認であり、依頼があったのは2012-04-28T16:15:05で、ブロック処分は2012-04-28T17:08:22です。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月10日 (木) 23:49 (UTC)&lt;br /&gt;
:私は泊優稀氏に就いて、はじめは疑問を持ったのですが、就任してみると、概ね適切な管理をされてる様です。もう少し様子をみてあげて下さい。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月10日 (木) 23:49 (UTC)&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
大野慶吾(=どんとだるま=大野晋吾=アイザール)氏の要求を鵜呑みにする一方で私の要求に耳を貸さない感じでしょうか？この件に関しては[[Yourpedia:削除依頼#Mikomaidの真実の削除依頼]]、[[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼#再度ブロック依頼]]で議論が進行中であり、現在の所、反対してるのは大野慶吾(=どんとだるま=大野晋吾=アイザール)氏'''だけ'''です。基本方針を盾に大野慶吾(=どんとだるま=大野晋吾=アイザール)氏の要求を鵜呑みにする一方で私の要求に耳を貸さない、という事が「Sysop様と大野慶吾(=どんとだるま=大野晋吾=アイザール)の性質は酷似する」様に感じられます。もし、これを否定されたいのであれば、私の要求にも耳を貸してください!!!!お願いします!!!!もし、私の身分開示を要求されるのであれば、公開しないで済む伝達方法を示してください。もし、私の要求にお応え頂けないのであれば、然るべき対応をさせて頂きたい、と思います。といっても、わたしには金はありません、が、ITの知識'''だけ'''は、それなりにあります。もしもの時には、ITの知識をフル動員させて頂こうと思っております。それで宜しいでしょうか？[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年5月11日 (金) 11:30 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:Sysop様、上記の「もし、私の要求にお応え頂けないのであれば、然るべき対応をさせて頂きたい、と思います。といっても、わたしには金はありません、が、ITの知識'''だけ'''は、それなりにあります。もしもの時には、ITの知識をフル動員させて頂こうと思っております。それで宜しいでしょうか？」の記述は紙面にて記録に留めておいて下さい。自身のサーバーにサイバー攻撃が行われ、サイトの運営に支障が起こるかもしれないと脅威を感じた時点で刑法第二編　罪第32条の[[wiki:脅迫罪|脅迫罪]]が成立します。刑法犯であれば最寄りの警察署にその書面を添えて被害届を提出して刑事告訴することで対応できます。また、氏名不詳でも民事訴訟起こせますし、逆に相手方から民事訴訟が起こされれれば、当該の記事の立項には「自己責任が要求される記事」として予め明記されております。従って、文責は当該記述部分の記載者が負うこととなりますので、民事訴訟の際は応分の負担に応じることを申し添えます。その際は裁判で原告の実名・住所が判明しますのでサイトで公表なさることをお勧めします。脅迫には毅然とした態度で臨むことです。応援します。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年5月13日 (日) 16:03 (UTC)&lt;br /&gt;
::いいでしょう。だいたい、誹謗中傷・個人攻撃・罵詈造言・暴力・残酷・汚辱・等が蔓延し、更に芸能人・グラドル・等の画像の無断転載(著作権・パブリシティ権等侵害)を放置・容認・たまにお墨付きする様な'''違法状態のサイト'''の管理者が私を訴える事は不可能と思われ、訴えた所で、逆に、その様な違法状態が露になり、存続は不可能になるものと思われます。そもそも、YPで自分を悪く書かれた人物は私だけではなく数多く居り、削除依頼等が通らないのであれば自分が持つ知識・技術(呪詛・IT・等)を駆使してでもやめさせたいと思ってるのは私だけでない事は確実です。サーバーが何度も(最大3カ月弱)落ちた、という事実を重く受け止めて下さい。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年5月19日 (土) 01:19 (UTC)&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
誤解して頂きたくないのは、私は何もSysop様と対立・対決する事を希望してる訳ではない、という事です。寧ろ、逆であり、YPの基本方針に魅力を感じ、WPでは出来なかった'''のびのびとした自由な編集'''をさせて頂きたい、そして、'''Sysop様が理想とされた百科事典を作る為のお手伝いをさせて頂きたい'''、という事です。然るに、誹謗中傷・個人攻撃・罵詈造言・暴力・残酷・汚辱・等が蔓延する現状はSysop様が目指した理想と言えるのでしょうか？又、基本方針は、その様な醜い現状を維持する為に有るのでしょうか？[[Yourpedia:削除依頼#Mikomaidの真実の削除依頼]]、[[Yourpedia:荒らし報告・投稿ブロック・保護依頼#再度ブロック依頼]]に見られる様に、その様な現状を良しとしない人物が私だけではない、という事を、しっかり頭の中に叩き込んで頂きたい、と思います。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年5月11日 (金) 11:30 (UTC)&lt;br /&gt;
:付け加えておきますが「のびのびとした自由な編集」というのは'''「善意の第三者」を傷つけない'''、という意味です。然るに大野慶吾(=どんとだるま=大野晋吾=アイザール)氏は「善意の第三者」と言えるでしょうか？[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年5月11日 (金) 11:55 (UTC)&lt;br /&gt;
::同感。sys○pさんも反sys○p勢力を少しのことで投稿ブロックするのはやめるべき。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年5月14日 (月) 07:27 (UTC)&lt;br /&gt;
(インデント戻し)ところで、Sysop様は、エデンとハルマゲドンの、どちらがお好きでしょうか？又、YPの将来はエデンとハルマゲドンの、どちらになる事が望ましいと、お考えでしょうか？私を味方に付けて下されば、私はYPをエデンの園にしてあげる事を約束します。YPの将来は私を敵に回すか、味方に付けるか、で、大きく変わる、という事を念頭に置いた上で熟慮頂きたいと思います。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年5月19日 (土) 01:19 (UTC)&lt;br /&gt;
:Mikomaldさんはおそらく私と同じく呪術を習得しているので、上のコメントは脅しなどではなく本当のことでしょう。--[[利用者:このアカウントをブロックした管理人は死にます|このアカウントをブロックした管理人は死にます]] 2012年6月1日 (金) 07:20 (UTC)&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:WesselsBassett184&amp;amp;curid=53553&amp;amp;diff=159286&amp;amp;oldid=159263 利用者ページへの書き込み]は禁止事項であり、管理者としては許されない行為です。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年5月20日 (日) 10:58 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは無期限ブロックによる変更であり、悪意を持った書き込みではございません。そして、[[Yourpedia:利用者ページについて]]をもう一度見てください。本人と'''管理者以外は'''となっています。--[[利用者:泊優稀|&amp;lt;span style=&amp;quot;color:Blue&amp;quot;&amp;gt;'''Tomari'''&amp;lt;/span&amp;gt;]] 2012年5月20日 (日) 12:18 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:管理者と言えど、悪意があるなしにかかわらず、利用者ページへの書き込みは「[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6&amp;amp;diff=139110&amp;amp;oldid=80125 ブロックされたユーザーページを編集することは]」で明記されているように、管理者：[[利用者:泊優稀|泊優稀]] が行った行為は不要なものです。管理者としての[[利用者:泊優稀|泊優稀]] の資質や資格（'''未成年、且つ、保護者の同意がない'''）に問題があるものと思います。[[利用者:泊優稀|泊優稀]]の管理者権限を一時凍結し、一般ユーザーとしてユアペディアの編集に貢献していると周囲から認知されるまでの間は、管理者権限は付与すべきものではないと、再度、提案致します。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年5月20日 (日) 12:49 (UTC)&lt;br /&gt;
::それは違うと思います。利用者ページへの書き込み禁止は、あくまで一般ユーザーに対するものであり、管理者には適用されない筈です。只、該当のページは外国からの商業spamであり、削除が望ましいものと考えられ、私が見つけた時は全て削除(要約欄も白紙)と白紙保護を行っております。にもかかわらず、この様な依頼をする利用者:大野慶吾氏には、ある意図があるものと考えられます。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年5月20日 (日) 23:48 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利用者:I,T,REVORUTION の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利用者:I,T,REVORUTION　の投稿ブロック依頼をお願い申し上げます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2012年5月20日 (日) 10:34 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
依頼理由&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1.[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Mikomaid_%EF%BC%882%EF%BC%89&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=159015 先編集権のあるページの白紙化]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2.[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Mikomaid_%EF%BC%882%EF%BC%89&amp;amp;diff=next&amp;amp;oldid=159015 プライバシー侵害]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3.[http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/hobby/1321172484/l50#298 サーバー高負荷化工作]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== IPユーザーの無期限ブロックについて ==&lt;br /&gt;
多くのWikiでは、スパムや出没レンジでも最長でも1年くらいのブロックのようです。YourpediaもIPユーザーの無期限ブロックを撤回したほうが良いのでは?--[[利用者:塩津ハイヤー|塩津ハイヤー]] 2012年6月5日 (火) 11:37 (UTC)&lt;br /&gt;
: その必要はありません。[[Yourpedia]]が'''最も優れている点は悪質なIPユーザーを無期限ブロックできるところ'''です。他のMediaWikiを使用しているサイト、特に[[ウィキペディア]]では'''ログインユーザーはすぐ無期限ブロックされるのにIPユーザーはどんなに悪質なユーザーでも無期限ブロックされません。'''それなのにウィキペディアでは'''{{WPuser|Triglav}}のようなIPユーザーを[[差別]]する連中が跋扈'''しております。そんなにIPユーザーが嫌いなら'''ウィキペディアでもユアペディアのようにIPユーザーの無期限ブロックを導入'''すべきでしょう。そもそも[[ウィキペディア日本語版]]でIPユーザーが多いのは'''オープンプロキシ以外のIPユーザーへの無期限ブロックが禁止'''されているからなのです。'''ウィキペディア日本語版はIPユーザーに甘くログインユーザーに厳しい'''のです。それに比べ'''ユアペディアはIPユーザーを甘やかしません。'''従って'''IPで編集する利点は皆無'''ですし、'''悪質なIPユーザーに対し毅然とした態度を取っている'''という点においても既にウィキペディアを超えているといえましょう。今では'''ウィキペディア日本語版はオンライン[[百科事典]]として既にユアペディアの足元にも及びません。'''--[[利用者:ウーソキマスラの戯言|ウーソキマスラの戯言]] 2014年5月18日 (日) 04:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[Copipedia]]==&lt;br /&gt;
このサイト＞＞[http://ja.copipedia.org/wiki]にて「利用者:か」が荒らし行為をしています。ブロックしてもブロック破りする可能性があるので、しばらくは監視願います。--[[利用者:鳴り止まない苦情電話|鳴り止まない苦情電話]] 2012年6月10日 (日) 08:11 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== IPユーザー 222.146.152.128 の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
依頼理由&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他人の利用者ページ編集--[[利用者:大野晋吾|大野晋吾]] 2012年6月10日 (日) 19:46 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記事「Mikomaid 」の白紙保護解除申請 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]により[[2011年]][[11月7日]]に記事「[[Mikomaid]]」が白紙保護されたままの状態となっていますが、記事の白紙保護解除の申請を以下の理由により申し上げます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/wiki/Yourpedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E8%A6%81%E8%AB%8B%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%BF%9C%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3 「Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン」] に拠れば、管理者[[利用者:Mumbly]]が行った記事「[[Mikomaid]]」の削除・白紙保護依頼は著しく、「Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン」や「プロバイダ責任制限法ガイドライン」を逸脱した管理行為と言わざるを得ません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、その逸脱した管理行為の内容を列記すると&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１．「Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン」では削除依頼申請人の本人確認が要求されているのにもかかわらず、管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]がその依頼者の身元確認を行わず、記事「[[Mikomaid]]」の削除・白紙保護を行ったこと。また、それを[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Mumbly&amp;amp;diff=next&amp;amp;oldid=142809 「本人確認ができたとはいえません」]と管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]本人自身が認めていること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．削除依頼申請人[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]]が主張するプライバシー侵害理由は、削除依頼申請人[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]]が別人と主張している以上、[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]]自身にプライバシー侵害を理由に削除依頼する権利がないにもかかわらず、管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]が記事「[[Mikomaid]]」の削除・白紙保護を行ったこと。すなわち、[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]]が別人と主張している当該の人物自身からの削除依頼申請でなければ当該項目の削除・白紙保護依頼は認められないにもかかわらず、管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]が削除・白紙保護を行ったことは「プロバイダ責任制限法ガイドライン」や「Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン」から逸脱した管理行為となること。且つ、当該の管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]は[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=142473 「責任を持って削除しました」]と明言までしていること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３．削除依頼申請人[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]]の主張する、プライバシー侵害・誹謗・中傷理由が具体的な根拠を持って反証がなされていないこと。且つ、その依頼内容に[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC&amp;amp;diff=next&amp;amp;oldid=142513 虚偽の内容]があるにもかかわらず、管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]が確認もせずに一方的に[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]]の削除・白紙保護依頼を鵜呑みにして記事「[[Mikomaid]]」の削除・白紙保護を行ったこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４．削除依頼の内容に一つでも虚位の申請があればその削除申請依頼は要件を満たさず無効となることが「Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン」で明記されているにもかかわらず、管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]はその検証を行った形跡はないこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５．Yourpedia:削除要請への対応ガイドラインに規定されている議論・追加証拠の要請等の行為を行わず、管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]が記事「[[Mikomaid]]」の削除・白紙保護を行ったこと。且つ、主筆していた当該のユーザーを一方的に一年間の投稿ブロック処分を行い、当事者の発言を封じたこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６．管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]がこの削除後、[[利用車:Sysop|Sysop]]から[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Mumbly&amp;amp;diff=142745&amp;amp;oldid=142480 「プライバシー侵害による削除およびブロックについて」 ]や他のユーザーから指摘された疑問や批判に応えられず、その説明責任を果たしていないこと。また、その後はユアペディアの管理者活動を実質、放棄していることは、指摘された管理行為に問題があったと自ら認めていると推測されること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上記の理由により、記事「[[Mikomaid]]」の削除・白紙保護は「プロバイダ責任制限法ガイドライン」や「Yourpedia:削除要請への対応ガイドライン」から著しく逸脱した管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]の掲示板管理者業務の無知・錯誤・偏見によって不当に削除・白紙保護されたものであり、記事「[[Mikomaid]]」の白紙保護解除を申請するものです。&lt;br /&gt;
--[[利用者:大野晋吾|大野晋吾]] 2012年7月8日 (日) 03:24 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:Mumbly管理者による一年間の投稿ブロック処分が明けて、白紙保護された[[Mikomaid]]の白紙保護解除を主筆した者として改めて申請します。なお、白紙保護を行ったMumbly管理者より明確、且つ、合理的な白紙保護理由を明示された場合はこの限りではありません。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2012年11月18日 (日) 00:45 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://blog.a902.net/ 悪徳商法？マニアックス]2013年7月9日付記事を拝見しました。「Yourpediaは、Wikipedia管理者の偏向した編集姿勢に対抗するため、管理者の介入を最小限とするとともに編集には自己責任を伴うことを掲げて開設されました」との趣旨を改めて述べておられますが、記事「Mikomaid 」の白紙保護解除申請について沈黙を守られておられ、管理者が説明責任を果たしていないことが、高橋喜一弁護士（コスモポリタン法律事務所）には管理者が恣意的に運用をしているものと見なされ、付けいる隙を与えて管理者に直接の削除要求があったのではないかと思います。自分も主筆者として削除を行った管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]氏に具体的にどの部分が権利侵害なのかは教えてもらえない状態が続いています。これでは、Yourpedhia上での表現を萎縮させるために沈黙を続けていると曲解されてもおかしくありません。侵害情報や権利侵害について説明を求めても、高橋弁護士が「それ以前の問題である」と突っぱねているのはYourpedia上で管理者が説明責任を果たしていないことと同等であると見なしているからではないかと思います。『「本人と対話」という姿勢こそが、管理者には逆に求められるかと思います』と記述がありながら、対話なしに管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]氏に一年間の投稿ブロック処分を下され対話の機会を奪われ、対話ができない状態が続いています。処分解除後も沈黙されたままです。他に、[[利用者:防人|防人]]氏が2013年6月22日に所属事務所の代表と称するイーモバイルからのIPユーザーの[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E9%98%B2%E4%BA%BA&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=190952 削除要請]を身元確認も行わずあっさり受け付け、画像を即時削除した例など、建前と本音が乖離している状況では今後、弁護士や公人を語る者の依頼であれば管理者は記事を即削除するとの悪しき前例を残したようで残念でなりません。人は間違いを起こすことは認めます。改めて管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]氏が削除した「[[Mikomaid]]」の削除は管理者の未熟さによるものであるならば、一端、「[[Mikomaid]]」白紙保護解除を行い、Yourpedia上の規則に則り、改めて削除に値するのかどうか審議して戴きたく存じます。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2013年7月14日 (日) 06:59 (UTC)&lt;br /&gt;
:上記の発言に'''絶対に耳を傾けないで下さい。'''この人物は現在でも複数アカウントを使って陰湿で凶暴な編集を続行中です。なお、現在、外部サイトに「ユアペディア被害者の会」開設を検討中です。2013年7月20日午前0時0分0秒(日本時間)迄に私が行った削除依頼・ブロック依頼を受けていただけない場合は外部サイトに「ユアペディア被害者の会」を開設させて頂こうと思っております。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年7月14日 (日) 08:45 (UTC)&lt;br /&gt;
:そもそも、Mumbly氏の未熟さを言うなら、本来、無期限ブロックされるべきだった[[利用者:アイザール|アイザール]]を1年間のブロックにとどめた、そして、別アカウントをブロックしなかった、という、'''大いなる判断ミス'''、というところでしょう。そもそも、有期ブロック、というのは、｢少しでも反省の可能性がある｣場合に行使すべきものであり、[[利用者:アイザール|アイザール]]には、Mumbly氏の｢温情｣に対する理解がまったくありません。然るに[[利用者:アイザール|アイザール]]はブロックされた後も別アカウントで同様の編集を続け、ブロック期間終了後は全く同じ凶暴な編集を再開し、上記の様な詭弁を展開してる事から、反省が全く無い、無期限ブロックの方が良かった、という事が鮮明です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年7月14日 (日) 11:49 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::上記の発言から、上記の2アカウントは同一人物であり、極めて陰湿で狡猾で狂暴で凶悪で危険なゾンビ・キョンシー・魔獣であり、対話による解決は不可能である事が、改めて良く判りました。Sysop様が動いて下さらない限り、工作は次の段階に移行せざるを得ません。これで宜しいでしょうか？[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月18日 (日) 10:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===絶対反対===&lt;br /&gt;
上記の依頼は私(と混同の対象)に対する誹謗中傷・個人攻撃を正当化・合理化する為の詭弁であり、絶対に受け入れるべきではありません。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年7月8日 (日) 11:37 (UTC)&lt;br /&gt;
上記に対する反論は、以下の通りです。&lt;br /&gt;
#本人確認の手段としてはメールやウィキメール機能が有る筈ですが、管理者のメアドが非公開であり、尚且つ、MediaWiki更新時にウィキメール機能が削除され、創設者様にウィキメール機能の復活を要望したものの拒否された以上、「依頼者の身元確認」は事実上不可能であります。その様な状況でのMumbly氏の御対応は適切と考えられます。&lt;br /&gt;
#該当項目は私と「混同の対象」を混合した状態での誹謗中傷・個人攻撃であり、私にも削除要求の権利はあります。又、該当のガイドラインは、そもそも、企業からの依頼を想定したものと思われ、今回のようなケースは想定してないものと思われます。&lt;br /&gt;
#上記で展開した私の主張は正当なものであり、虚偽と決めつける方こそが虚偽であります。私が主張した内容や反論は、概ね[[Yourpedia:削除依頼]]に書かせて頂いた通りであり、その一方で「あなたが受けた具体的被害」「「私と同地域在住の別人」を私と「混同」する根拠」に就いての質問には全く答えがありません。&lt;br /&gt;
#何を持って虚位とするのかをお答え頂きたい。&lt;br /&gt;
#正当な御対応だと思います。「当該のユーザー」とは{{User|大野晋吾}}の別アカウントではありませんか？CUをすれば判る筈です。&lt;br /&gt;
#その後、職業(学業)が多忙となり、管理に手が回らなくなっただけであるものと思われます。&lt;br /&gt;
もし、私に就いて疑問をお持ちであれば、どんな事でも御質問下さい。プライバシーに係わらない内容であれば、即答という訳には行きませんが誠意を持ってお答えさせて頂こうと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、{{User|大野晋吾}}の主張は{{User|アイザール}}と全くと言って同じであり、同一人物と言っても過言ではありません。更に、以下のアカウント群は全くと言って良いほど同じ主張をしてる事から同一人物である、と説明しても矛盾しないものと思われます。&lt;br /&gt;
*{{User2|YANCHARIKA}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|海燕}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Jesudonbay}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|アイザール}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|富岡市民}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|どんとだるま}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Polaris}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Mikomade}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野慶吾}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晴江}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野将希}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野久美子}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Mizusumashi}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野普吾監視委員会}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Oh! No! Shingo!}}	&lt;br /&gt;
これらのアカウント群に就いてCUの上、無期限ブロックを(外部管理者に許可する事を)強く、強く要求します。それとも、特定個人の誹謗中傷を行う為なら複数アカウント作成やブロック破りも許されるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、私は、ある組織とコンタクトを持っており、又、現在、誹謗中傷をやめさせる為の技術的手段を開発中で、その組織からノウハウを習得中です。もし、私の要請に聞く耳を持たず、且つ、上記のアカウント群を擁護されるのであれば、最終手段として、その技術的手段を行使させて戴こうと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知って頂きたいのは、創設者様に矛を向けてるのは私だけではない、という事であり、サーバーが何度も墜ちてる、という事が証明しております。幸いな事に私は賛同を集める事に或る程度成功しており、創設者様には、その重みを感じて頂きたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誤解して頂きたくないのは、私は好き好んで大野氏や創設者様と対立してる訳では無く、私に対する誹謗中傷・個人攻撃をやめる・やめさせる事を約束して頂けるのであれば、対決姿勢を解除させて頂き、YPを、よりよいネット百科事典にする為のお手伝いをさせて頂こうと思っております。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年7月8日 (日) 11:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 公開質問 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は昨年11月11日に初代外部管理者であるMumbly氏から[[Mikomaid]]の記述で一年間の投稿ブロック処分を受けた者ですが、その投稿ブロック処分理由が「プライバシー侵害」とありましたが、それはどこの記述にあるのか具体的に指摘して戴ければ、今後の編集について参考となります。&lt;br /&gt;
申立人がプライバシーを侵害された当事者とは違うと明確に否定し、また、具体的な侵害箇所を指摘していない以上、「プライバシー侵害」はどうして成立するのか、また、「プライバシー侵害」とは具体的にどの記述を指すのか自分には理解に苦しむところです。記述した内容は証拠としてユアペディアの編集方針に則り、ネットで確認できるよう、引用部分にはリンクも張っております。また、相違があればいつでも改訂に応じると表明していても、申立人から具体的な指摘はなく、こちらとしては申立人の主張に沿うことはできませんでした。&lt;br /&gt;
Mumbly管理者はどの記述がプライバシーを侵害していると判断なさったのかを御指摘下さい。「私が責任を持って削除しました」とMumbly氏が明言した以上、投稿ブロック処分を下した管理者の責として説明責任は発生するものかと思います。他のwikiサイトでの管理者経験もあると言っている以上、管理者としてプロバイダ責任制限法ガイドラインの熟知し、また、ユアペディアにおける削除依頼対応ガイドラインおよびブロック方針の理解の上で行ったものであると自分は理解しておりますので、ご説明をして戴かなければ、今後の編集に支障を来すものですものです。対話もなく、一方的な投稿ブロック処分に納得ができません。投稿ブロック処分が明けて、初めてMumbly氏に問い合わせができる機会なので、公開質問の形として、他の編集者にも理解できるように、直接、Mumbly氏からご説明を求めるものです。Mumbly氏の管理者権限の濫用、不当処分と指摘されないように納得の行く回答を求めるものです。宜しく、ご説明をお願い申し上げます。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2012年11月17日 (土) 02:57 (UTC)&amp;lt;small&amp;gt;以上、[[利用者・トーク:Mumbly]]から転記[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月17日 (土) 11:01 (UTC)&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;gt;「プライバシー侵害」はどうして成立するのか、また、「プライバシー侵害」とは具体的にどの記述を指すのか&lt;br /&gt;
*他サイトから無断転載されたものと見られる顔写真(これ自体が著作権侵害でもある)や、個人名と思しき部分(又は類推可能な部分)、これらに就いて「？？愛」「？？障害」等、と書き連ねた部分で、これらの記述には狂暴で邪悪な意図がある事は明白です。更に、本アカウントのみならず、本アカウントがブロックされてる間も特定の個人名を騙ったアカウント名を10個以上も使い、同様の記述や主張、詭弁を繰り広げており、この事からも、私と、混同の対象に対する激烈な怨念を持ってるものと思われます。本アカウントに就いてもブロック明け後直ちに活動再開してる事からも粘着性・狂暴性は明らかです。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月17日 (土) 11:01 (UTC)&lt;br /&gt;
&amp;gt;申立人から具体的な指摘はなく&lt;br /&gt;
*指摘は[[Yourpedia:削除依頼]]、等で過去に済ませてあります。未だ足りない部分が有りましたら具体的に再度指摘をお願いします。その一方で「あなたが受けた具体的被害(金銭的損害・いじめ・パワハラ・等)」に就いては回答がありませんでした。もし、私が、本アカウントに具体的被害を与えた、と言うのであれば、是非指摘して下さい。少なくとも私には特定他者に対する具体的加害に就いては身に覚えがありません。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月17日 (土) 11:01 (UTC)&lt;br /&gt;
&amp;gt;プロバイダ責任制限法ガイドラインの熟知し、また、ユアペディアにおける削除依頼対応ガイドラインおよびブロック方針の理解の上で&lt;br /&gt;
*この発言から判る通り、本アカウントには良心のかけら・呵責など全く無く、「プロバイダ責任制限法」と「YPのルール」さえ守れば他者の人権や「心の平和」を平気で蹂躙できる極めて狡猾で狂暴で凶悪で危険なゾンビ・キョンシー・魔獣である事は明白です。そもそも、「プロバイダ責任制限法」は他者に対する人権侵害を救済するための法律であり、使用目的が正反対と思われます。他者の人権を積極的に蹂躙する者が自分の人権を主張する事が筋が通る、とでも思ってるのでしょうか？寧ろ、この様な内容を放置する事の方こそ「プロバイダ責任制限法」に抵触するものと考えられます。違うでしょうか？[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月17日 (土) 11:01 (UTC)&lt;br /&gt;
&amp;gt;今後の編集に支障を来すものですものです。&lt;br /&gt;
*「今後の編集」とは本アカウントの1000回以上、300KB以上、4年以上に亘って延々と続く私と「混同の対象」に対する人権侵害内容、の事ですね。その様な編集を許せる、と思ってるのでしょうか？また、その様な内容を擁護するサイトを放置出来る、と思ってるのでしょうか？[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月17日 (土) 11:01 (UTC)&lt;br /&gt;
*もしかして、本アカウントは、過去／現在の勤務先(又は学び舎)で、いじめやパワハラを受けてる、自分の人格・実績が認められない、という事に不満を持ってるのではありませんか？又、小学校～高校時代に、いじめの被害者だった、又は加害者だった、という事はありませんでしたか？勤務先が[[ブラック企業]]である、と感じるなら、その勤務先(又は学び舎)の(上司／教員の)事を4年以上、1000回以上、300KB以上に亙って書き募って不満への刷毛口にすれば良いのであって、直接の繋がりが無い私を攻撃対象にするのは筋違い、というものです。(実際、かつての勤務先や、その上司の事を延々と書き続けてる人物もいる様です)違うでしょうか？[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月17日 (土) 11:01 (UTC)&lt;br /&gt;
&amp;gt;対話もなく、一方的な投稿ブロック処分に納得ができません。&lt;br /&gt;
*本アカウントの主が上記の様な狂暴な魔獣である事を考えればMumbly様の御対応は極めて常識的と考えられます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月17日 (土) 11:01 (UTC)&lt;br /&gt;
&amp;gt;Mumbly氏の管理者権限の濫用、不当処分と指摘されないように納得の行く回答を求めるものです。&lt;br /&gt;
*この様な狂暴な魔獣の詭弁に惑わされない事に期待します。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月17日 (土) 11:01 (UTC)&lt;br /&gt;
:Sysop様もSysop様です。本来、YPが目指したのは「悪徳商法?マニアックス」のwiki版の筈ですよね!?この様な狂暴な魔獣の詭弁を易々と受け入れて他者の人権を蹂躙する様な邪悪な内容を放置と容認、たまにお墨付きする様なサイトが様々な攻撃を受けて、文句を言えると思いますか？私の削除依頼等が受け入れられないのであれば、持てる限りのIT知識をフル動員する、それしか有りません。現在、私は、YPの動作を少々重くする為の工作を行っておりますが、私の主張を御覧頂く為、暫く工作をお休みします。もし、Sysop様が私に対して、工作をやめさせたい、自分は魔獣ではない、僅かでも良心がある、YPは「悪魔の百科事典」「誹謗中傷やり放題」ではない、とお考えなのであれば、削除依頼を受け入れてくださる、又、関連の管理を外部の管理者に許可する、等の御対応をお願いします。自分に対する誹謗中傷・個人攻撃に就いての削除依頼等が通らない事に就いてSysop様に恨みを持ち、削除依頼が通らないのであれば策を弄してでもYPを潰そうと思ってるのは'''私だけではない'''、という事を、よ～～～～～く、頭の中にねじ込んでおいて下さい。全面解決すれば、私が矛を上げ続ける理由は解消されます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2012年11月17日 (土) 11:01 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== spam対策お願いします。 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大規模なspam荒らしが続いており、防人さんがかなり多忙な仕事をしていますが、Chakuwiki[http://wiki.chakuriki.net/index.php/Chakuwiki:借井戸#.E3.82.B5.E3.83.BC.E3.83.93.E3.82.B9.E3.81.AE.E5.86.8D.E9.96.8B.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6 参考]のように、IPユーザーの編集と、ユーザーの新規登録を行う際、日本語のクイズをさせるように出来ないでしょうか？--[[利用者:あんだあすろう|あんだあすろう]] 2012年8月26日 (日) 07:29 (UTC)&lt;br /&gt;
:これに就いては、[https://www.mediawiki.org/wiki/Extension:ConfirmEdit ConfirmEdit]というプラグインを入れると解決するものと思われます。如何でしょうか？それ以外にも、[[wiki:特別:バージョン情報|こちら]]が参考になる筈です。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年9月1日 (土) 23:16 (UTC)&lt;br /&gt;
:後、既存のユーザー名と紛らわしいアカウントが乱立する傾向があるみたいです。これに就いては、[https://www.mediawiki.org/wiki/Extension:AntiSpoof AntiSpoof]というプラグインを入れると解決するものと思われます。如何でしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年9月1日 (土) 23:20 (UTC)&lt;br /&gt;
:この他、NGワードをいじってみたのですが、効いてないみたいです。[https://www.mediawiki.org/wiki/Extension:SpamBlacklist SpamBlacklist]、[https://www.mediawiki.org/wiki/Extension:Title_Blacklist Title_Blacklist]というプラグインを入れると解決するものと思われます。如何でしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年9月5日 (水) 00:38 (UTC)&lt;br /&gt;
::Title_Blacklistプラグインを入れてみたのですが動いているのかどうか良くわかりません。ConfirmEdit は、質問を日本語にしてみました。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2012年9月5日 (水) 08:31 (UTC)&lt;br /&gt;
:::動作確認のため、[[利用者:あんだあすろう/Titleblacklist|このページ]]の内容を[[MediaWiki:Titleblacklist]]にコピーしてみて、「個人情報」という言葉を含むアカウントを作成してみてください。--[[利用者:あんだあすろう|あんだあすろう]] 2012年9月5日 (水) 17:57 (UTC)&lt;br /&gt;
::::どうも、機能してないみたいですね。機能してれば、[[特別:バージョン情報|こちら]]に出る筈ですが。周辺の設定ファイル等を見直してみては如何でしょうか？ConfirmEditの方は機能してるみたいで、今の処、外国からのSPAMは止まってる様です。あと、同様の対策をCopipediaの方にもしておく方が良いと思います。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2012年9月5日 (水) 23:47 (UTC)&lt;br /&gt;
:現在IPユーザーによるspam投稿が多発しています。非ログインユーザーが投稿する際にも、強制的にキーワード入力させるようにお願いします。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2012年10月16日 (火) 10:40 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 岡部健の記事の名誉毀損行為について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめまして、岡部　健と申します。&lt;br /&gt;
本人確認については、メールアドレスをご指定いただいたら、そちらに私の住所および固定電話の番号を通知いたしますので、その電話番号にかけて頂ければ最低限の確認は取れると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、おそらくこのサイトを運営されている当事者として、私を誹謗中傷する記事が長期間に渡り編集の上、不特定多数へ公開されていることはご存じであろうと思いますが、今回そのことについてご見解を伺いたいと思い、ご連絡いたしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私に関する記述は明らかに社会的信用を毀損する目的のもの、及び直近の編集では、こういう嫌がらせ[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B3%E3%83%99%E3%82%B3%E3%83%99%E9%AB%AA&amp;amp;curid=57625&amp;amp;action=history]行為が執拗になされており、看過できません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の記事の写真は私のものですが、名誉毀損以前に、著作権肖像権を侵害するものであり、無断でこのような使い方をすることは許可していません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際、以上の記事や私の記事はなんら公益性もなく、詐欺罪で刑事告訴の動きもあった、だのニートだの事実無根の内容が多々含まれており、名誉毀損の構成要件を満たしますが、本記事群以前に、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私への名誉毀損行為について、Twitterの特定個人複数名と２ちゃんねるスレッドの書き込みについて順次、&lt;br /&gt;
兵庫県警に刑事告訴し、現在捜査中です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の利用者ページにも「警告」としてその事実を記した上で、このYourpediaサイトにおける誹謗中傷、名誉毀損行為について刑事告訴する旨を明記しており、&lt;br /&gt;
実際今週の早い段階で刑事告訴するつもりでしたが、加害者の執拗さが悪質なため、タイミングを少しずらしてその行為を蓄積している段階です。&lt;br /&gt;
おそらく来週中にはまとめて刑事告訴するつもりですが、本サイトの管理者として、このような事態について、なんらかの対処をされるつもりがあるのかどうか？是非お考えをお聞かせください。&lt;br /&gt;
よろしくお願いします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岡部　健 kenokabe@gmail.com&lt;br /&gt;
--[[利用者:Kenokabe|Kenokabe]] 2012年9月13日 (木) 12:33 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{user2|このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない}}が作成したページの削除依頼 ==&lt;br /&gt;
[[yourpedia:削除依頼]]にも書きましたが、全然削除されません。削除お願いします。--[[利用者:ようｒぺぢあ|ようｒぺぢあ]] 2013年2月8日 (金) 08:28 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==削除依頼==&lt;br /&gt;
*[[あんだあすろうは泊優稀のソックパペットです]]&lt;br /&gt;
*[[あんだあすろうと泊優稀は同一人物です]]&lt;br /&gt;
*[[あんだあすろうは泊優稀の靴下です]]&lt;br /&gt;
*[[あんだあすろうはと泊優稀は同一人物です]]&lt;br /&gt;
*[[泊優稀の現在のアカウントはあんだあすろうです]]&lt;br /&gt;
*[[泊優稀は「あんだあすろう」のアカウントを使ってユアペディアを荒らさないで下さい]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/エクレロ孫法師]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/たまタン関連]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/スイトピーインフォメーション関連]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/スイトピーシリーズ関連]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/ユアペディア関連]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/リルぷりっ関連]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/作品関連]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/地元関連]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/夢色パティシエール関連]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/特集1「日付関連」]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/作成した記事/特集2「声優関連」]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/Spam]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/ぼくのちょううまいえのほーむぺーじへのりんくぜったいみてね]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/SPAMって楽しいいいい！俺の絵最高！！！]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/反エクレロ勢力研究会]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/活動について]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/自己紹介用ページ]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/郵便のお仕事]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/雑談ページ]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:このコミュニケーション能力じゃ郵便局で働けるとは思えない/願った事 叶うとアリャ 元気ナリ]]&lt;br /&gt;
以上のページは私に対する誹謗中傷記事です。削除お願いします。--[[利用者:あんだあすろう|あんだあすろう]] 2013年2月10日 (日) 08:46 (UTC)&lt;br /&gt;
:大賛成。{{User2|松葉裕子}}がいかに頭のおかしい奴か、これを見ればすぐにわかる。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年4月6日 (土) 03:14 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記事「Mikomaid 」の白紙保護解除再申請 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]により[[2011年]][[11月7日]]に記事「[[Mikomaid]]」が白紙保護されたままの状態となっています。管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]に公開質問を出しても、返答が全く有りません。管理者[[利用者:Mumbly|Mumbly]]の恣意的な削除であったと判断せざるを得ません。従って、記事の白紙保護解除の申請を申し上げます。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2013年2月10日 (日) 10:42 (UTC)&lt;br /&gt;
===絶対反対===&lt;br /&gt;
上記の依頼は私(と混同の対象)に対する誹謗中傷・個人攻撃を正当化・合理化する為の詭弁であり、絶対に受け入れるべきではありません。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年2月11日 (月) 08:09 (UTC)&lt;br /&gt;
上記に対する反論は、以下の通りです。&lt;br /&gt;
#本人確認の手段としてはメールやウィキメール機能が有る筈ですが、管理者のメアドが非公開であり、尚且つ、MediaWiki更新時にウィキメール機能が削除され、創設者様にウィキメール機能の復活を要望したものの拒否された以上、「依頼者の身元確認」は事実上不可能であります。その様な状況でのMumbly氏の御対応は適切と考えられます。&lt;br /&gt;
#該当項目は私と「混同の対象」を混合した状態での誹謗中傷・個人攻撃であり、私にも削除要求の権利はあります。又、該当のガイドラインは、そもそも、企業からの依頼を想定したものと思われ、今回のようなケースは想定してないものと思われます。&lt;br /&gt;
#上記で展開した私の主張は正当なものであり、虚偽と決めつける方こそが虚偽であります。私が主張した内容や反論は、概ね[[Yourpedia:削除依頼]]に書かせて頂いた通りであり、その一方で「あなたが受けた具体的被害」「「私と同地域在住の別人」を私と「混同」する根拠」に就いての質問には全く答えがありません。&lt;br /&gt;
#何を持って虚位とするのかをお答え頂きたい。&lt;br /&gt;
#正当な御対応だと思います。「当該のユーザー」とは{{User|大野晋吾}}の別アカウントではありませんか？CUをすれば判る筈です。&lt;br /&gt;
#その後、職業(学業)が多忙となり、管理に手が回らなくなっただけであるものと思われます。&lt;br /&gt;
もし、私に就いて疑問をお持ちであれば、どんな事でも御質問下さい。プライバシーに係わらない内容であれば、即答という訳には行きませんが誠意を持ってお答えさせて頂こうと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、{{User|大野晋吾}}の主張は{{User|アイザール}}と全くと言って同じであり、同一人物と言っても過言ではありません。更に、以下のアカウント群は全くと言って良いほど同じ主張をしてる事から同一人物である、と説明しても矛盾しないものと思われます。&lt;br /&gt;
*{{User2|YANCHARIKA}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|海燕}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Jesudonbay}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|アイザール}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|富岡市民}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|どんとだるま}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Polaris}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Mikomade}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野慶吾}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晴江}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野将希}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野久美子}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Mizusumashi}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|大野普吾監視委員会}}	&lt;br /&gt;
*{{User2|Oh! No! Shingo!}}	&lt;br /&gt;
これらのアカウント群に就いてCUの上、無期限ブロックを(外部管理者に許可する事を)強く、強く要求します。それとも、特定個人の誹謗中傷を行う為なら複数アカウント作成やブロック破りも許されるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、これらのアカウント群は、ブロック期間終了後直ちに編集を再開し、サーバーが少々重くなった程度では編集をやめない事からも、その激烈に執拗な凶暴性が証明された感じです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、私は、ある組織とコンタクトを持っており、又、現在、誹謗中傷をやめさせる為の技術的手段を開発中で、その組織からノウハウを習得中です。もし、私の要請に聞く耳を持たず、且つ、上記のアカウント群を擁護されるのであれば、最終手段として、その技術的手段を行使させて戴こうと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知って頂きたいのは、創設者様に矛を向けてるのは私だけではない、という事であり、サーバーが何度も墜ちてる、という事が証明しております。幸いな事に私は賛同を集める事に或る程度成功しており、創設者様には、その重みを感じて頂きたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誤解して頂きたくないのは、私は好き好んで大野氏や創設者様と対立してる訳では無く、私に対する誹謗中傷・個人攻撃をやめる・やめさせる事を約束して頂けるのであれば、対決姿勢を解除させて頂き、YPを、よりよいネット百科事典にする為のお手伝いをさせて頂こうと思っております。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年2月11日 (月) 08:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== SPAM対策 ==&lt;br /&gt;
どうも、急にSPAMがひどくなってきてるみたいです。ひょっとしたら、一旦強化されたSPAM対策が外れてしまったのではないでしょうか?見直しの方をお願いします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年2月11日 (月) 23:45 (UTC)&lt;br /&gt;
:あと、コピペディアの方もSPAMが激しいみたいです。同様の対策を採っておく方が良いと思います。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年2月14日 (木) 01:57 (UTC)&lt;br /&gt;
:あと、{{User2|ウーソキカスラの絵はやっぱり幼稚園で書くべきだと思うが}}が大量に編集されてるみたいですが、商業SPAM等を理由にブロックされたユーザーには通知は不要と思われます。これについてはいかがでしょうか?[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年2月14日 (木) 01:57 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 2013年2月からのインシデント ==&lt;br /&gt;
* 各ページの閲覧回数が表示されません--[[利用者:防人|防人]] 2013年2月22日 (金) 21:09 (UTC)&lt;br /&gt;
:サーバ負荷軽減のため、機能を一時停止して様子を見ています。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年2月23日 (土) 03:35 (UTC)&lt;br /&gt;
* 多くの画像が「サムネイルの作成中にエラーが発生しました」となり、表示されていません--[[利用者:防人|防人]] 2013年2月22日 (金) 21:09 (UTC)&lt;br /&gt;
:サーバ移動にともないエラーが出るようになったのですが、調査中です。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年2月23日 (土) 03:35 (UTC)&lt;br /&gt;
* 18:00になるとアクセス不能になりますが、定時メンテナンスでしょうか?--[[利用者:防人|防人]] 2013年2月22日 (金) 21:09 (UTC)&lt;br /&gt;
:単にアクセスが多いためでしょう。「関東連合」関係や「ブラック企業就職偏差値ランキング」のページにアクセスが集中しているのですが、夕方のニュースで話題になるなどして、サーバの能力を超えるアクセスが発生するのだと思われます。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年2月23日 (土) 03:35 (UTC)&lt;br /&gt;
* 現在ファイルのアップロードも出来ないようです。--[[利用者:防人|防人]] 2013年3月16日 (土) 14:06 (UTC)&lt;br /&gt;
: アップロードできたり出来なかったりするようです。画像サーバとの同期の関係かもしれません。調査中です。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年3月16日 (土) 17:16 (UTC)&lt;br /&gt;
* サーバ移動等保守頂き有難うございます。サイト上部にバナー広告が表示されるようになりましたが、これはsysop様の設定によるものでしょうか? --[[利用者:防人|防人]] 2013年3月16日 (土) 14:06 (UTC)&lt;br /&gt;
: サーバのスペックを、一時的に一段階高いものに変更しましたが、サーバ代が賄えるかどうか実験中です。ちなみに、広告はログインしていない時に表示されます。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年3月16日 (土) 17:16 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理者推薦について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめまして、僕は[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]]と言います。ところで、[[管理者]]の推薦をしたいのですが。推薦するのは、[[揖保川の水兵さん]]様と[[あんだあすろう]]様の2名です。この2人は、[[ユアペディア]]で数少ない善良なユーザーであると、僕は思います。彼らが管理者に就任した暁には、ユアペディアをより繁栄してくれることでしょう。特に、あんだあすろう様については、君ら管理者があまりにほったらかし過ぎたために、多くのユーザーから[[泊優稀]]と同一視されて、引退に追い込まれたことがあります。その詫びとしての意味も、今回の推薦にあります。よって、揖保川の水兵さん様とあんだあすろう様を管理者に任命してはどうでしょうか。一応、僕の方に返答してください。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月10日 (日) 08:25 (UTC)&lt;br /&gt;
:他薦による管理者権限の付与は行っておりません。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年3月10日 (日) 08:57 (UTC)&lt;br /&gt;
::どうか、お願いします。この2人を管理者にすることによって、ユアペディアを繁栄できます。Sysop様は、こんな変則的な百科事典で、満足しているのですか。より良いユアペディアを目指すなら、2人の管理者任命をした方がいいですよ。僕は、2人が管理者をしているユアペディアを考えただけで、心がワクワクします。どうか、僕のお願いです。彼らが管理者になることによって、僕の夢が叶うのです。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月10日 (日) 10:00 (UTC)&lt;br /&gt;
:::Sysopさん、なぜ黙っているんですか。どうしても、2人が管理者になってほしいんです。どうか、お願いします。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月11日 (月) 13:33 (UTC)&lt;br /&gt;
::::夢見る達者さん、私が管理者になったら、まずは長期にわたって大量に画像をアップロードしている某ユーザーを無期限ブロックします。今後同様な行為を行ったユーザーもブロックします。それと、荒らしとしか思えないような記事は削除しようと思います。そのような行為をしてもいいのなら、私を管理者にさせても構いません。--[[利用者:あんだあすろう|あんだあすろう]] 2013年3月13日 (水) 05:53 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::あんだあすろう様、君が管理者になると思うと、心がワクワクします。さて、長期にわたって大量に画像をアップロードしているユーザーと言えば、アイドルの画像ばかりアップロードする[[Fromm]]とAV女優の画像ばかりアップロードする[[松葉裕子 (荒らし)|松葉裕子]]などがいるが、ソックパペットも含めて全て無期限ブロック、投稿記事・アップロード画像の削除でいいと思います。それ以外にも、荒らしユーザーも無期限ブロック、荒らし記事を削除でいいでしょう。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月13日 (水) 08:53 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::（反対）夢見る達者さん、恣意的な編集姿勢を改めることができないのであれば、管理者就任は難しいと思われます。--[[利用者:Robert allen|Robert allen]] 2013年3月15日 (金) 03:36 (UTC)&lt;br /&gt;
::::::ロバートよ、僕が管理者になるとは言ってない。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月16日 (土) 07:21 (UTC)&lt;br /&gt;
（インデント戻し）やはり管理者はSysop様が仰るとおり自ら立候補してなるものです。あんだあすろうさんは他人に対し誹謗愁傷したりソックパペット認定する等問題の多い行動をとっており、その点であんだあすろうさんは管理者にふさわしくないと思います。私から見れば、あんだあすろうさんは自らが批判しているFrommさんや松葉裕子さんと同類です。画像アップロードも他ユーザーへの誹謗中傷やソックパペット認定もユアペディアにとっては有害無益です。そこでSysop様にお願いします。私が管理者に立候補します。少なくとも私は揖保川の水兵さんさんとあんだあすろうさんよりも管理者にふさわしく、なおかつ防人氏のような本来編集保護をかけるべき項目に移動保護をかける等の頓珍漢な管理をすることはないでしょう。--[[利用者:逝け惰性面|逝け惰性面]] 2013年3月17日 (日) 03:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|Robert allen}}が、僕をいじめてきます。なので、ブロックしてください。無期限希望です。また、IPアドレスについても、無期限でお願いします。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月12日 (火) 07:51 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（反対）無期限ブロックしろなんてとんでもないですよ。こんなに礼儀正しく真面目に活動されている私をこんな風に言うなんて逆恨みとしかいえませんよ。私がやっていたことはいじめではなく、[[利用者:夢見る達者|あなた]]の恣意的な編集姿勢に対する批判です。なので、ブロックには断固反対します。--[[利用者:Robert allen|Robert allen]] 2013年3月14日 (木) 06:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お前に言いたいことがある。僕がお前と絡む前に、[[有害サイトの工作員]]に僕やあんだあすろう様を追記されたことを覚えているよね？あれには、さすがの僕もカチンと来たよ。僕やあんだあすろう様が、何をしたんだ？お前が気に入らなかっただけだろ。僕だって、お前の編集姿勢に不満がある。それをわかってくれよ。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月14日 (木) 06:57 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|あんだあすろう}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
俺の利用者ページを無断で編集したので、無期限ブロックにしてくれ。--[[利用者:アンチ泊優稀撲滅委員会|アンチ泊優稀撲滅委員会]] 2013年3月14日 (木) 14:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===解除依頼===&lt;br /&gt;
{{User|あんだあすろう}}君は、{{User|アンチ泊優稀撲滅委員会}}が無断で彼のサブアカウントを名乗っていましたので、その利用者ページを編集しました[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E6%B3%8A%E5%84%AA%E7%A8%80%E6%92%B2%E6%BB%85%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A&amp;amp;oldid=167220 参照]。だから彼の編集は間違っていません。ブロック解除をお願いします。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2013年3月15日 (金) 09:10 (UTC)&lt;br /&gt;
:まあ、難しい問題ですよね。アンチ泊優稀撲滅委員会が「あんだあすろう様のサブアカ」と騙って、それに怒ったあんだあすろう様がアンチ泊優稀撲滅委員会の利用者ページを編集したということか。多分だけど、「アンチ泊優稀撲滅委員会＝泊優稀撲滅委員会」だと思います。僕はユアペディアに詳しくないから、変なことは言えません。ごめんなさい。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月16日 (土) 07:21 (UTC)&lt;br /&gt;
::{{User2|揖保川の水兵さん}}が、{{User2|泊優稀撲滅委員会}}君のブロック解除に賛成してくれたお礼に、私も{{User|あんだあすろう}}さんのブロック解除に賛成します。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年4月6日 (土) 03:14 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|防人}}の管理者解任・投稿ブロック・チェックユーザー依頼 ==&lt;br /&gt;
防人は、{{User2|Ugly person 001.}}?の利用者ページを無断で編集しました。このような行為をしては、管理者解任はもちろん、ブロックも免れないと思います。また、{{User2|防人}}・{{User2|Fromm}}・{{User2|Nodakenta}}・{{User2|There}}の投稿傾向が近く、同一人物ではないかと思うので、念のためチェックユーザーをお願いします。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月16日 (土) 07:21 (UTC)&lt;br /&gt;
: 編集内容を確認しましたが、特に問題ありません。なお、チェックユーザする意味がわからないので、チェックユーザは行っていません。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年3月16日 (土) 17:19 (UTC)&lt;br /&gt;
: 私も防人氏の管理者解任に賛成です。防人氏は[[岡部健 (俳優)]]・[[岡部健]]・[[FXST]]・[[コベコベ髪]]・[[毛の壁]]・[[岡部健(荒らし)]]の6項目に移動保護をかけましたが、本来この項目は'''編集保護'''されるべき項目です。これらの項目は{{User2|Kenokabe}}氏と{{User2|Kawakita}}氏が編集合戦し、そこに{{User2|松葉裕子}}氏の靴下と{{User2|夢見る達者}}氏が疑っているアカウント群が割り込んで上記6項目の移動を繰り返したというのが実情です。もし[[岡部健 (俳優)]]・[[岡部健]]・[[FXST]]・[[コベコベ髪]]・[[毛の壁]]・[[岡部健(荒らし)]]・[[岡部健_(荒らし)]]において編集合戦がなければ移動荒らしも当然行われなかった筈であり、それらの項目に対し'''編集保護ではなく移動保護をかけた防人氏は非常に頓珍漢な判断'''をしており、'''管理者不適格'''といわざるを得ません。ところで夢見る達者さん、Ugly person 001.さんはあなたの大嫌いな松葉さんの靴下と疑っているアカウントですよね。それなのにこの利用者ページの無断編集の件ではUgly person 001.さんや松葉さんの肩を持つというのは私には理解できません。--[[利用者:逝け惰性面|逝け惰性面]] 2013年3月17日 (日) 04:12 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|防人}}管理者は外部管理者として最もユアペディアに貢献している外部管理者であり、ユアペディアの良心そのものです。同じ外部管理者の{{User2|Mumbly}}管理者や{{User2|Abcdefgh}}管理者との管理活動の差は歴然としており、{{User2|Sysop}}に最も近い管理能力を持ち、その管理にブレは有りません。管理者解任依頼に合理的な理由はなく、{{User2|防人}}管理者の解任依頼は却下されるべきものであり、管理者解任に反対の意を表明します。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2013年3月18日 (月) 14:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|Abcdefgh}}の管理者解任依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もはや当初の管理者活動は期待できず、今後、ユアペディアの編集において一般ユーザーの編集に混乱を招く恐れもあり、{{User2|Abcdefgh}}の管理者解任を依頼申し上げます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Abcdefgh#.E3.82.B9.E3.83.83.E3.83.91.E3.82.A4.E6.92.B2.E6.BB.85.E5.A7.94.E5.93.A1.E4.BC.9A.E3.81.AE.E6.8A.95.E7.A8.BF.E3.83.96.E3.83.AD.E3.83.83.E3.82.AF.E5.87.A6.E5.88.86.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6 Abcdefgh会話ページ]で、{{User2|Abcdefgh}}管理者の発言を読む限り、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
①一般社会常識を逸脱した発言&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
②偏見、恣意的な管理者活動&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
③他管理者との処分の相違&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
④公平・公正さを欠いた管理&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑤現在の管理活動は投稿ブロック処分を下すだけの活動しかしていないこと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑥当初の目的であるユアペディアでの編集活動から乖離し、現在は管理者として投稿ブロック処分しか活動歴がないこと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
⑦ユアペディアに貢献する記事の編集は管理者となってから激減していること&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上記理由により、{{User2|Abcdefgh}}管理者の発言を精査して戴きたく存じます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2013年3月18日 (月) 14:00 (UTC)&lt;br /&gt;
:私としては限られた時間内に可能な限り適切な管理を心がけ実行させて頂いてる積もりでありますが、不適切な点があれば、お詫びさせて頂きます。只、制約が課せられてる中での可能な限りの慎重な管理であり、もし、Sysop様が不適切と判断されたのであれば、とっくの昔に解任されてる筈です。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年3月19日 (火) 00:37 (UTC)&lt;br /&gt;
:(絶対反対){{User2:大野慶吾}}という人物は、上記の様に長々とした難癖を付けて私や、私の身内であるAbcdefgh氏に因縁を付け、揺さぶり、貶める事を狙う、という、著しく狂暴で凶悪な性質を持っており、１つのアカウントがブロックされても他のアカウントで同様の編集等を行う、ブロック期間終了後はブロック前と全く同じ編集等を再開する、等、その性質は極めて狡猾で陰湿です。この様な人物の発言に絶対に耳を貸さないで下さい。尚、私がAbcdefgh氏のパスワードを盗んだ様に言われてますが、そんな事は有りません。百歩譲ってAbcdefgh氏のパスワードを盗んだとすれば立項者は私ではなくAbcdefghになる筈です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年3月19日 (火) 10:34 (UTC)&lt;br /&gt;
::賛成でも反対でもありませんが、過去に{{User2|泊優稀撲滅委員会}}君と{{User2|スパイ撲滅委員会}}を同期間のブロックにするという問題行動を起こしていますから、今後も起こすのではないかと心配です。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年4月6日 (土) 03:14 (UTC)&lt;br /&gt;
==アイザール・大野晋吾・大野慶吾のチェックユーザー依頼==&lt;br /&gt;
以下のアカウントは何れも私に対する激烈な恨みがあり、同様の主張・冗長な発言を行う、等、共通性があります。&lt;br /&gt;
*{{User2:アイザール}}&lt;br /&gt;
*{{User2:大野晋吾}}&lt;br /&gt;
*{{User2:大野慶吾}}&lt;br /&gt;
上記のチェックユーザーとブロックを強く、強く、お願いします。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年3月19日 (火) 10:34 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|夢見る達者}}・{{User2|夢見る達也}}・{{User2|サブマリン2号}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
これらのユーザーは無期限ブロックにすべきユーザーです。まず、夢見る達者と夢見る達也とサブマリン2号は同一人物であり、ユアペディアを破壊するような行為をしています。よって、無期限ブロックにしてください。--[[利用者:夢見る達者撲滅委員会|夢見る達者撲滅委員会]] 2013年3月20日 (水) 10:02 (UTC)&lt;br /&gt;
::これらのユーザーのIPの無期限ブロックもよろしくお願いします。--[[利用者:Robert allen|Robert allen]] 2013年3月21日 (木) 05:45 (UTC)&lt;br /&gt;
:残念ですが、私は夢見る達者でも夢見る達也でもございません。ユアペディアを破壊するような行為はまだしてません、ていうか今後もする訳がありません。--[[利用者:サブマリン2号|サブマリン2号]] 2013年3月21日 (木) 11:34 (UTC)&lt;br /&gt;
::どうせ、夢見る達者やサブマリン2号は、泊優稀のソックパペットだろ。あんだあすろうが無期限ブロックになったあとに活動し始めたし。--[[利用者:泊優稀菜|泊優稀菜]] 2013年3月23日 (土) 14:33 (UTC)&lt;br /&gt;
:::私はあんだあすろう様の遺志を継ぐためにユアペディアにやって参りました。夢見る達者とは同志であり、ソックパペットではございません。ところで、泊優稀とは誰のことでしょう？--[[利用者:サブマリン2号|サブマリン2号]] 2013年3月24日 (日) 01:37 (UTC)&lt;br /&gt;
::::サブマリン2号、泊優稀はお前のメインアカウントだ。とぼけるな。--[[利用者:泊優稀菜|泊優稀菜]] 2013年3月24日 (日) 04:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|麻原彰晃}}さんの投稿ブロック解除依頼==&lt;br /&gt;
お前は「成り済まし」という理由で無期限ブロックにしたが、その根拠はどこにあるんだ？本物の[[麻原彰晃]]さんが「ユアペディアをやっていない」とでも言ったか？よく考えてから、ブロックしろよ。--[[利用者:泊優稀菜|泊優稀菜]] 2013年3月23日 (土) 14:33 (UTC)&lt;br /&gt;
:お前は、この依頼をして1時間もしないうちに、{{User2|スパイ撲滅協会}}の無期限ブロックをするためにインしたようだが、なぜこの依頼を無視する？依頼への対応もせず、依頼されていないユーザーのブロックに専念するお前は、「ユアペディアで一番の恥」だ。--[[利用者:泊優稀菜|泊優稀菜]] 2013年3月24日 (日) 04:50 (UTC)&lt;br /&gt;
::おい、Sysop、早くしろや。--[[利用者:泊優稀菜|泊優稀菜]] 2013年3月25日 (月) 11:21 (UTC)&lt;br /&gt;
:::大反対。{{User2|松葉裕子}}のソックパペットだとしか思えない。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年4月6日 (土) 03:14 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==泊優稀のソックパペットとしか思えないユーザーのチェックユーザー依頼==&lt;br /&gt;
*{{User2|泊優稀}}&lt;br /&gt;
*{{User2|あんだあすろう}}&lt;br /&gt;
*{{User2|夢見る達者}}&lt;br /&gt;
*{{User2|サブマリン2号}}&lt;br /&gt;
これらのユーザーは、同一人物である可能性が非常に高い。全て同一人物だった暁には、全て無期限ブロックしてほしい。--[[利用者:泊優稀菜|泊優稀菜]] 2013年3月24日 (日) 04:50 (UTC)&lt;br /&gt;
:おい、Sysop、早くしろや。--[[利用者:泊優稀菜|泊優稀菜]] 2013年3月25日 (月) 11:21 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==削除依頼==&lt;br /&gt;
*[[利用者:泊優稀菜/Subpedia]]&lt;br /&gt;
[[:テンプレート:泊優稀]]のパロディであり、私を猛烈に誹謗中傷しているページです。今すぐ削除をお願いします。--[[利用者:サブマリン2号|サブマリン2号]] 2013年3月25日 (月) 11:06 (UTC)&lt;br /&gt;
:この依頼は、嫌がらせだ。無視してくれ。--[[利用者:泊優稀菜|泊優稀菜]] 2013年3月25日 (月) 11:21 (UTC)&lt;br /&gt;
大賛成です。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月25日 (月) 12:40 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
{{User2|YUu}}は無断で{{User2|夢見る達者撲滅委員会}}の利用者ページを編集して、僕の先編集権を認めないため、無期限ブロックにしてください。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月25日 (月) 13:04 (UTC)&lt;br /&gt;
{{User2|泊優稀菜}}は、{{User2|松葉裕子}}のソックパペットの可能性が高く、{{User2|泊優稀}}のアカウント名の真似をして、{{User2|サブマリン2号}}君の書き込みを改ざんしたため。こいつのせいで、僕は惑わされてしまい、結果的にサブマリン2号君を引退に追い込む形となってしまった。よって、無期限ブロックにしてください。--[[利用者:夢見る達者|夢見る達者]] 2013年3月25日 (月) 13:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|泊優稀撲滅委員会}}君の投稿ブロック解除依頼==&lt;br /&gt;
泊優稀撲滅委員会君を「スパム投稿」として、無期限ブロックにされたそうですが、何が「スパム投稿」ですか？彼はユアペディアで最も真面目に活動していたはずです。「スパム投稿」なんてしたことがありません。何を以て、「スパム投稿」と認定されたのでしょうか？教えてくれませんか？もし教えてくれなかったら、訴えることも考えています。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年3月26日 (火) 09:04 (UTC)&lt;br /&gt;
:複数のページに同一のカテゴリタグを多数追加し、同内容のカテゴリページを複数生成しました。同じ内容のページを複数作成することは、スパム投稿にあたります。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年3月26日 (火) 10:20 (UTC)&lt;br /&gt;
::私の方で確認してみたのですが、「[[:Category:Yourpediaが無くなると困る人物]]」と「[[:Category:Yourpediaの存続を強く希望する人物]]」、「[[:Category:諦めが悪い人物]]」と「[[:Category:往生際が良くない人物]]」が、似ていると思うが、彼が編集したのは、「[[泊優稀 (2)?]]」と「[[泊優稀]]」と「[[松葉裕子 (荒らし)]]」であり、「泊優稀」と「泊優稀 (2)」は同一人物について書かれた記事だが、その2記事と「松葉裕子 (荒らし)」は明らかに異なる人物について書かれた記事であり、同じ内容のページではありません。泣きの一回で、泊優稀撲滅委員会君のブロックを解除してください。その代わり、次やった場合は、無期限ブロックでも構いません。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年3月26日 (火) 10:39 (UTC)&lt;br /&gt;
:::先ほど私は、[[Yourpedia:投稿ブロックの解除について]]という記事を見つけました。これは、いわゆる「泣きの一回」のようですが、泊優稀撲滅委員会君に使えますか？メールを使うとこのことですが、今はメール使えませんよね？どうすればいいんですか？方法を教えてください。どうしても、泊優稀撲滅委員会君のブロックを解除してほしいんです。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年3月29日 (金) 13:49 (UTC)&lt;br /&gt;
::::[[Yourpedia:投稿ブロックの解除について]]の詳しい説明を、今日中に教えてください。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年3月30日 (土) 04:02 (UTC)&lt;br /&gt;
:それなら[[Mikomaid の真実]]で同じような編集をした大野晋吾氏もブロックできそうなんですが。--[[特別:投稿記録/153.161.155.124|153.161.155.124]] 2013年4月2日 (火) 04:06 (UTC)&lt;br /&gt;
::いつになったら、教えてくれるんですか？ずっと、待っているんですよ。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年4月2日 (火) 14:03 (UTC)&lt;br /&gt;
:::私も彼の解除依頼に賛同します。ついでに{{User2|あんだあすろう}}君も解除をお願いします。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2013年4月4日 (木) 14:25 (UTC)&lt;br /&gt;
::::{{User2|揖保川の水兵さん}}、ありがとうございます。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年4月6日 (土) 03:14 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::僕も泊優稀撲滅委員会さんのブロック解除に賛成です。泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会さんの仰る通り、彼はユアペディアで最も真面目に活動していた方です。--[[利用者:おかやまりゅうせい撲滅委員会|おかやまりゅうせい撲滅委員会]] 2013年4月6日 (土) 13:31 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::私も泊優稀撲滅委員会さんのブロック解除に賛成です。ただ、{{User2|あんだあすろう}}のブロック解除には真っ向から反対します。--[[利用者:Robert allen|Robert allen]] 2013年4月7日 (日) 02:58 (UTC)&lt;br /&gt;
::::::何故あんだあすろうのブロック解除に反対ですか？理由を僕に教えてください。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2013年4月7日 (日) 04:39 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「テンプレート:加筆依頼」の3ヶ月保護について ==&lt;br /&gt;
管理者[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]様のトークページにて、以下のやり取りがございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[テンプレート:加筆依頼]]ですが、この項目に対し[[利用者:Nodakenta|Nodakenta]]と[[利用者:アイサール|アイサール]]氏は両者共に先編集権はございません。管理者Abcdefgh様が私の編集を取り消して、アイサール氏の版を正として3ヶ月間の保護を行った理由を教えて頂けますでしょうか?--[[利用者:Nodakenta|Nodakenta]]　2013年4月15日 (月) 20:19 (UTC)&lt;br /&gt;
:お答えします。ご存じの様に本TPは本wikiの看板とも言えるトップページに組み込まれるものであり、見た目の洗練さが求められます。その点に於いて、あなたの編集は煩雑感が有り、アイサール氏の編集の方が、見た目が簡潔で体系的で洗練されてるものと思われます。それとも、あなたは煩雑な方がお好きなのでしょうか？[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年4月15日 (月) 23:29 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
sysop様におうかがいします。Abcdefgh様の言われる「見た目の洗練さ」「煩雑感」「見た目が簡潔で体系的で洗練」のyourpediaにおける基準を教えて頂ければと思います。ちなみにAbcdefgh様は「あなたの編集は煩雑感が有り」と仰っていますが、履歴を見れば分かる通り、私の編集はそれ以前の編集に戻しただけで何ら手を加えておりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
質問に対しAbcdefgh様は、「それとも、あなたは煩雑な方がお好きなのでしょうか？」と書かれていますが、好き嫌いで編集が制限されることはあるのでしょうか?&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、他の管理者様もこれらの基準を満たさない編集は、差し戻しのうえ記事も保護するということになるのでしょうか? --[[利用者:Nodakenta|Nodakenta]]　2013年4月16日 (火) 20:24 (UTC)&lt;br /&gt;
:該当TPに就いては、以前に編集合戦が行われた経緯があり、再び編集合戦が予想された事から、有期保護に踏み切ったものです。本来なら本TP(に限らずトップページに組み込まれるTP)は管理者だけが編集出来る状態にする事が望ましいものと思われますが、保護されてなかった為、過去にも屡々荒らされたり煩雑な内容に改変されたりが頻発しておりました(以前はトップページも)。私が差し戻した内容はパイプやフォントサイズを調整して見やすくなる様にしたものであり、リンク自体はNodakenta氏のものと違いはありません。私が差し戻した内容とNodakentaの編集内容の、どちらが適切か、という事の適切な判断に期待します。又、本TPの内容に就いての議論は[[テンプレート・トーク:加筆依頼]]で、お願いします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年4月17日 (水) 00:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|Minagoroshida}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|時を刻む少女}}の利用者ページを無断で作成しました。[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E6%99%82%E3%82%92%E5%88%BB%E3%82%80%E5%B0%91%E5%A5%B3&amp;amp;oldid=185485 参照]--[[利用者:星空の旅人|星空の旅人]] 2013年4月18日 (木) 11:27 (UTC)&lt;br /&gt;
:悪意に基づくものではないものと判断したので今回は警告のみに留めておきました。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年4月18日 (木) 23:32 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|泊優稀撲滅委員会}}君・{{User2|あんだあすろう}}君の投稿ブロックについて ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私からすると、この2人は出来心によるブロックではないかと思われます。もう一度、「本当にブロックすべきなのか」ということを考えて下さい。もし、ブロックに値しないのであれば、早急に解除をお願いします。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年4月24日 (水) 09:29 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|割烹の大将}}の投稿無期限ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|松葉裕子}}や{{User2|ウーソキカス}}のソックパペットです。しかも私を{{User2|泊優稀}}のソックパペットであると事実無根のまま押しつけてきました。非常に残酷な嫌がらせです。彼が作成した以下の嫌がらせページの削除もお願いします。&lt;br /&gt;
*[[星空の旅人]]&lt;br /&gt;
*[[テンプレート:星空の旅人]]&lt;br /&gt;
*[[利用者・トーク:星空の旅人]]&lt;br /&gt;
:割烹の大将だけでなく、松葉のソックパペットは全封鎖してください。--[[利用者:松葉裕子撲滅委員会|松葉裕子撲滅委員会]] 2013年5月1日 (水) 08:59 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|ウーソキカスラ絵はガチ}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一に{{User2|松葉裕子}}のソックパペットで、「ブロック破り」に当たります。また、自らの利用者ページを[[利用者:プロキシブロック係]]に移動したため、「他人の利用者ページの編集」に当たります。他にも、ユアペディアを荒らして迷惑です。--[[利用者:泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会]] 2013年4月29日 (月) 04:25 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 上の依頼は{{User2|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会}}による言われ無き誹謗中傷です。{{User2|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会}}こそ投稿ブロックされるべきです。--[[利用者:ウーソキカスラ絵はガチ|ウーソキカスラ絵はガチ]] 2013年4月29日 (月) 04:28 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会}}の投稿ブロック解除依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貴方は彼を「spam投稿」という理由で無期限ブロックさせましたが、彼の投稿がは何故spam投稿になるのですか？教えてください。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2013年4月29日 (月) 10:41 (UTC)&lt;br /&gt;
:あいつが無期限ブロックされたのは、当然の報いである。あいつが使用したIPアドレスに、{{IPuser2|110.165.136.18}}がある。このIPは、今回を除いて4回の前科がある。あいつ以外にこのIPを使用したのは、{{User2|夢見る達也}}・{{User2|夢見る達者撲滅委員会}}・{{User2|スパイ撲滅協会}}・{{User2|泊優稀菜}}である。これを見れば、すぐにわかるだろう。このIPは{{User2|松葉裕子}}のIPである。よって、泊優稀撲滅委員会の無罪を主張する会と松葉裕子は同一人物である。ところで、揖保川の水兵さん、松葉裕子はあなたのお友達のあんだあすろう君を泊優稀のソックパペットだと決めつけたりしていじめた奴ですよ。そんな奴の方を持っているのと一緒ですよ。--[[利用者:松葉裕子撲滅委員会|松葉裕子撲滅委員会]] 2013年5月1日 (水) 08:59 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|Discoqueen}}・{{User2|Diamond22}}・{{User2|Hjkljp}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この3人は、不当な記述の削除をしているため、[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針|投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「荒らし」・「スパム投稿」・「先編集主義違反」の3項目に該当します。なので、ブロックして下さい。--[[利用者:これいと|これいと]] 2013年5月7日 (火) 08:58 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|これいと}}の永久投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これいとは、不当な記述の削除、リバートをしているため、[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針|投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「荒らし」・「スパム投稿」・「先編集主義違反」の3項目に該当します。なので、永久ブロックして下さい。--[[利用者:Diamond22]] 2013年5月7日 (火)&lt;br /&gt;
:大賛成です。あいつこそ、ブロックされるべきですよ！--[[利用者:おーおーと|おーおーと]] 2013年5月7日 (火) 10:20 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|星空の旅人}}・{{User2|松葉裕子撲滅委員会}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この2名については、{{User2|泊優稀}}のソックパペットであり、相変わらず荒らし行為を楽しんでいます。彼は、ユアペディアにとって、「百害あって一利なし」なユーザーです。一刻も早く、無期限ブロックにして下さい。出来れば、IPアドレスも公開して下さい。--[[利用者:星空の旅人撲滅委員会|星空の旅人撲滅委員会]] 2013年5月10日 (金) 05:24 (UTC)&lt;br /&gt;
:残念ながら、私は泊優稀君のソックパペットではありません。星空の旅人君も違うと思います。そう言う貴方こそ、松葉裕子のソックパペットではないんですか？--[[利用者:松葉裕子撲滅委員会|松葉裕子撲滅委員会]] 2013年5月10日 (金) 12:54 (UTC)&lt;br /&gt;
::残念ながら、私こそ松葉裕子のソックパペットではありません。もう荒らさないで下さい。--[[利用者:星空の旅人撲滅委員会|星空の旅人撲滅委員会]] 2013年5月11日 (土) 07:52 (UTC)&lt;br /&gt;
:::{{User2|砂川ゆうらん}}も泊のソックパペットなので、追加依頼します。--[[利用者:星空の旅人撲滅委員会|星空の旅人撲滅委員会]] 2013年5月11日 (土) 13:02 (UTC)&lt;br /&gt;
::::大賛成です。泊さえいなければ、ユアペディアは平和になります。--[[利用者:泊優稀駆除隊|泊優稀駆除隊]] 2013年5月12日 (日) 04:34 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|揖保川の水兵さん}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は私の名前を真似して、荒らしや悪戯をしています。これは、[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針|投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「成り済まし」に該当します。--[[利用者:揖保川の氷兵さん|揖保川の氷兵さん]] 2013年5月12日 (日) 12:20 (UTC)&lt;br /&gt;
:大賛成です。無期限ブロックでも足りないから、IPアドレスごと永久追放してほしいです。--[[利用者:揖保川の水兵撲滅委員会|揖保川の水兵撲滅委員会]] 2013年5月13日 (月) 13:07 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|ウーソキマスラ}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
荒らしばかり行っているので。--[[利用者:ウーソキマスラ撲滅委員会|ウーソキマスラ撲滅委員会]] 2013年5月14日 (火) 10:47 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:上記は私と同一名称の荒らしユーザー（[[http://ja.yourpedia.org/wiki/特別:投稿記録/ウ―ソキマスラ こちら]]を参照）が腹いせに別アカウントを所得して行った依頼です。今後のこのような荒らしが発生する恐れがありますので、十分警戒するようお願い致します。--[[利用者:ウーソキマスラ|ウーソキマスラ]] 2013年5月14日 (火) 10:55 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::上記のユーザーは無期限ブロックとなりましたので、ご報告致します。--[[利用者:ウーソキマスラ|ウーソキマスラ]] 2013年5月14日 (火) 11:27 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|松葉裕子撲滅委員会}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
彼は{{User2|スパイ撲滅委員会}}のソックパペットです。しかも僕や{{User2|泊優稀撲滅委員会}}さんを{{User2|松葉裕子}}のソックパペットと言うなど非常に悪質です。今すぐにでも、無期限ブロックにしてください。--[[利用者:おかやまりゅうせい撲滅委員会|おかやまりゅうせい撲滅委員会]] 2013年5月21日 (火) 05:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|泊優稀撲滅委員会}}さんの投稿ブロック解除依頼==&lt;br /&gt;
彼はユアペディアで最も真面目に活動していた方です。ブロックの理由も不適切に見えるので、ブロック解除を望みます。--[[利用者:おかやまりゅうせい撲滅委員会|おかやまりゅうせい撲滅委員会]] 2013年5月21日 (火) 05:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|黒猫}}・{{User2|三毛猫}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
低レベルな編集合戦をしているので。過去に無期限ブロックされた利用者のソックパペットの可能性もあります。--[[利用者:猫撲滅委員会|猫撲滅委員会]] 2013年5月25日 (土) 13:59 (UTC)&lt;br /&gt;
:大賛成です。特に黒猫は、俺の名前を真似しやがったし。--[[利用者:黒い猫|黒い猫]] 2013年5月25日 (土) 14:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 騙り系アカウントについて ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最近、他の利用者の名前を騙るアカウントが乱立しています。私の場合も、アカウント作成から僅か2日間で6個も騙りアカウントを作成されました。しかも、いずれも私の会話ページに悪口を書き、さらに私が編集・作成したページを全て取り消されました。恐らく同一人物か少人数ではあるとおもいますが、非常に悪質で迷惑な行為です。今後、このようなアカウントを作成した場合は、無条件で無期限ブロックにさせてほしいです。以下が私の名前を騙ったアカウントです。&lt;br /&gt;
*{{User2|三毛猫}}&lt;br /&gt;
*{{User2|猫撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
*{{User2|黒犬}}&lt;br /&gt;
*{{User2|黒い猫}}&lt;br /&gt;
*{{User2|黒猫のタンゴ}}&lt;br /&gt;
*{{User2|クロネコヤマト}}&lt;br /&gt;
--[[利用者:黒猫|黒猫]] 2013年5月27日 (月) 08:24 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（追加）&lt;br /&gt;
*{{User2|黒猫撲滅委員会}}&lt;br /&gt;
このような「他の利用者の名前を騙るアカウントの作成」を、[[Yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針|投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]の「成り済まし」に追記をお願いします。また、「（アカウント名）＋撲滅委員会」などの他の利用者に挑発的なアカウント名の作成も無条件で無期限ブロックをお願いします。--[[利用者:黒猫|黒猫]] 2013年5月27日 (月) 13:01 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:この度は、上記のアカウントを全て無期限ブロックしてくれて、本当に誠にありがとうございます。--[[利用者:黒猫|黒猫]] 2013年5月28日 (火) 10:30 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 削除依頼（一生のお願い） ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下の2つの記事は、私の気を狂わせるほどの酷過ぎる誹謗中傷記事です。一生のお願いです。このメッセージを確認次第すぐに削除お願いします。削除できないのであれば、私は自殺します。&lt;br /&gt;
*[[テンプレート:黒猫]]&lt;br /&gt;
*[[利用者:黒猫撲滅委員会]]&lt;br /&gt;
--[[利用者:黒猫|黒猫]] 2013年5月30日 (木) 12:58 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*http://megalodon.jp/2013-0618-0132-20/beyond.cocolog-nifty.com/akutoku/2013/06/post-d317.html&lt;br /&gt;
*http://web.archive.org/web/20010212141613/http://www.makani.to/cult/special/csa.html&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
インターネットではだまされるほうが悪い、議論そのものが悪いという風潮はおかしい、という名言を残した吉本敏明。なのに、一方的なブロックは欠かさないんですね。--[[特別:投稿記録/188.227.187.228|188.227.187.228]] 2013年6月18日 (火) 09:26 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 先編集権に基づかない白紙保護について ==&lt;br /&gt;
[[利用者:Abcdefgh|管理者Abcdefgh]]様は、[[利用者・トーク:先編集権はどうなってるの？]]にて、「あなたが当該人物に就いて、執拗に記述するのかの正当性、あなたと当該人物の間の利害関係、等(あなたが当該人物から暴力・損害・等を受けた・等)に就いて、又、当該項目の削除依頼・あなたに対するブロック依頼・等が出された場合の反論、等に就いて記述して頂きたいと思います」と述べていらっしゃいます。これは私の理解する「[[yourpedia:編集についての方針]]」と異なるものです。何かガイドラインに明記されているものなのでしょうか?--[[利用者:防人|防人]] 2013年6月30日 (日) 13:47 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:ガイドラインにはありませんが、「検討プロセス」に類するものとして現状としては大きな問題は無いかと思います。ただ、フォークされていない記事への介入は望ましくないことだと思います。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年7月1日 (月) 12:23 (UTC)&lt;br /&gt;
::「無名の個人」関係の項目で編集合戦等が起きた場合、一時的に(最長でも１週間)該当項目を保護した上で、執筆者と該当人物の双方から言い分を伺った上で、それぞれを公平公正に審査した上で今後の処遇を行う、というプロセスが大事だと思います。今回は執筆者側の言い分に正当性が認められた一方で該当人物は不規則発言等を繰り返すだけで正当な抗弁・反論とは認められなかった事から、今回は執筆者側に軍配を上げる事にしました。以上、執筆者と該当人物の各々の言い分を公平公正に審査する事に努めた結果の結論です。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年7月1日 (月) 23:26 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::: Abcdefghさんの解釈は独自のものですので、ルールに沿った対応を願います。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年7月2日 (火) 00:48 (UTC)&lt;br /&gt;
::::それでは、編集合戦が起きた場合は、先編集権優先、という事で宜しいですね。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年7月2日 (火) 01:07 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ポルノ画像の削除依頼＆{{User|Fromm}}氏の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
*[[:ファイル:麻生希9.jpg]]&lt;br /&gt;
*[[:ファイル:麻生希10.jpg]]&lt;br /&gt;
*[[:ファイル:麻生希11.jpg]]&lt;br /&gt;
以上の3枚の画像は無断転載による著作権侵害の疑いがあり、なおかつポルノ画像です。さらにこれらの画像を投稿した{{User|Fromm}}氏は、ユアペディアに何万枚という無断転載による著作権侵害画像を投稿してきました。彼をユアペディアから追放しない限り、ユアペディアは永遠に平和にならないと思います。是非お願いします。--[[利用者:遮那|遮那]] 2013年7月7日 (日) 12:46 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
SysopはFrommをspam投稿で絶対ブロックできない。それはかつて同じ場所に住んでいた仲だからである。--[[特別:投稿記録/67.159.36.2|67.159.36.2]] 2013年7月7日 (日) 20:01 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
spam投稿による無期限ブロックを行っているようですが、www.a902.netの管理者(?)はcocologを一度は403forbiddenにされ、その後不適切エントリーを削除された人物です。cocologは日本の会社が行っているサービスです。日本の会社のサービスの規約を守れない人間の同志が、「spam投稿」をとやかく言える立場ではないでしょう。--[[特別:投稿記録/67.159.36.2|67.159.36.2]] 2013年7月7日 (日) 20:05 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User|Fromm}}と{{User|松葉裕子}}は同一人物かもしれませんね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|直江兼続}}の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|直江兼続}}[[クソババアの一覧]]を理由もなく[[嫌いな女性芸能人の一覧表|別ページ]]へ移動するなどの荒らしを行っています。無期限ブロックが望ましいと思われます。是非お願いします。--[[利用者:Bob wells|Bob wells]] 2013年8月8日 (木) 03:51 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== SPAMの残骸処理 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今朝早朝に幾つかのアカウント等をspam投稿を理由にブロックされましたが、その痕跡である、SPAMの残骸は、どの様に扱えば宜しいでしょうか?[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年8月9日 (金) 00:16 (UTC)&lt;br /&gt;
: これ以上増えることは無いので、放置しておけば良いと思います。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年8月9日 (金) 02:57 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック漏れ　IPアドレス群 ==&lt;br /&gt;
悪徳商法マニアックス管理人吉本敏洋氏の住所を晒し、記事の編集不能としたIPアドレス群で一部投稿ブロック漏れがあるようです。一部のIPアドレスでは再びユアペディアで活動を復活させているようなので、投稿ブロックが望ましいかと思います。&lt;br /&gt;
以下、そのIPアドレス群です。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2013年8月18日 (日) 23:40 (UTC)&lt;br /&gt;
*{{IPuser2|111.86.200.161}}&lt;br /&gt;
*{{IPuser2|126.162.70.49}}&lt;br /&gt;
*{{IPuser2|182.249.240.37}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下のIPアドレスは{{IPuser2|182.249.240.37}}と同レンジのIPアドレスで今後同様の行為を行う懸念があります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{IPuser2|182.249.246.2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2013年8月18日 (日) 23:49 (UTC)修正--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2013年8月18日 (日) 23:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 犬野晋吾氏の無期限投稿ブロック処分について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 管理者がが[[利用者:犬野晋吾|犬野晋吾]] 氏を無期限投稿ブロック処分としましたが、[[利用者:犬野晋吾|犬野晋吾]] 氏は利用者ページで反[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] を表明している人物です。&lt;br /&gt;
[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 管理者は以前は他人の利用者ページを行った初めてのユーザーに対しては警告か短期投稿ブロックに留めていたのに、これでは[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 管理者の無期限投稿ブロック処分は身内である[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 氏の擁護の為に私怨で無期限投稿ブロック処分を下したのではないかとの誹りは免れません。公平・中立性が疑われる管理です。[[利用者:犬野晋吾|犬野晋吾]] 氏の行った他者の利用者ページの編集とは、管理者に成り済ました利用者ページに警告タグを貼り付けたものに過ぎず、悪意を持った編集とは思えません。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 管理者はいかなる[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]]関連の管理を厳禁されていますので、この管理行為は越権管理となりその管理処分は無効とするべきではないでしょうか。&lt;br /&gt;
[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 管理者は最近はユアペディアの独自解釈による管理など [[利用者:Sysop|Sysop]] 管理者との齟齬が目立ち、独自解釈の既成事実を積み上げてユアペディアの私物化を図ろうとしている意図が見え隠れしております。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 管理者に何らかの管理制限を設ける必要がある段階に来ているのではないかと思います。まずは[[利用者:犬野晋吾|犬野晋吾]] 氏の無期限投稿ブロック処分の一時的な解除と、その処分は第三者である[[利用者:Sysop|Sysop]] 管理者か[[利用者:防人|防人]] 管理者の処分に委ねるべきだと思います。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2013年8月21日 (水) 01:53 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 経緯などは調べていないため不明ですが、犬野晋吾氏の無期限投稿ブロックは問題ないかと思います。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年8月21日 (水) 02:18 (UTC)&lt;br /&gt;
::ありがとうございます。私としては、あくまでも方針に基づく管理をさせて頂いた物であり、認めて頂けて光栄です。今後も、冷静に方針に基づく管理をさせて頂こうと思っております。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年8月21日 (水) 23:35 (UTC)&lt;br /&gt;
==利用者:皆殺しだぁーーーーっ!!!!!に就いて==&lt;br /&gt;
[[ボーイスカウト]]に於いて、内容丸ごと置き換えを行ったので荒らしと判断し、一旦差し戻した上で{{User2|皆殺しだぁーーーーっ!!!!!}}氏の記述内容を尊重の上で加筆したのですが再度内容丸ごと置き換えを行いました。このため悪質な荒らしと判断し、[[ボーイスカウト]]を差し戻した後一時的に全保護したところ、逆に私の方が荒らし扱いされてしまいました。内容丸ごと置き換え、及び第三者が立項した項目に対する先編集権主張は立項者、及び立項者が認めた編集者以外には認められてない筈ですが、私の対応は正しかったのでしょうか?[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年8月21日 (水) 23:35 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: Yourpediaにおいて、利用も編集も自己責任であることが原則です。それは、管理者であっても同様です。正しいかどうかわからない部分については、ノータッチの方向が良いかと思います。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年8月22日 (木) 01:22 (UTC)&lt;br /&gt;
::私と{{User2|皆殺しだぁーーーーっ!!!!!}}氏の、どちらが正しいか／どちらが「荒らし」なのか、という事の、お答えに期待したのですが、これは意外でした。つまり、[[ボーイスカウト]]は、保護解除後は「荒らされ放題」という事で宜しい、という事ですね。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年8月22日 (木) 23:55 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 先編集権に就いて ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先編集権に就いて、色々混乱が見られる様なので、「[[Yourpedia・トーク:編集についての方針#先編集権に就いて]]」で、お答え頂ければ幸いです。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年8月28日 (水) 00:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 一体どういう事なのでしょうか？ ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最近のSysop氏の投稿ブロックで、不特定多数のユーザー([[利用者:DAN BALAN]]氏や、[[利用者:David Bowie]]氏や、[[利用者:お茶を濁す！]]氏など、書いていったらキリがない。)を「他人の利用者ページの編集」と言う理由で次々に無期限ブロックしていっていますが、この、ここに書いたユーザーは編集履歴、投稿記録を見ても、ブロック理由である「他人の利用者ページの編集」といった編集は一切されていません。それでは、一体どういう理由でこのユーザー達を無期限ブロックしたのですか？または、何を以て、「他人の利用者ページ編集」としたのですか？とても疑問です。どう見てもそのブロックは誤認ブロック、あるいは個人感情によるブロックとしか思えません。これに就いては、迅速に(遅くともせめて48時間以内に)回答お願いします。なお、誤認ブロックとわかった時点でこのユーザー達のブロック解除をお願いします。なお、私はこのユーザー達とは同一人物でも何でもありませんので悪しからず。ご了承お願いします。 --以上の署名の無いコメントは、 {{user2|Administrator}}さんによる投稿です。([[利用者:堀秀政|堀秀政]]による付記。)2013年11月9日 (土) 05:06 (UTC)&lt;br /&gt;
:恐らく「チェックユーザー」した結果、「他人の利用者ページの編集」を行ったアカウントと同じIP(NTTドコモのスマホ、都内)から濫造されたアカウントと判断されたものと見られます。尚、このIP(可変)からの荒らし行為が激しい事から49.98.0.0/16と49.97.0.0/16を１カ月間広域ブロックしてみました。ドコモのスマホユーザーの皆様には御迷惑をおかけしますが御理解と御協力をお願いします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年8月28日 (水) 23:05 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 無期限投稿ブロックの要請 ==&lt;br /&gt;
先日、ウィキペディアの独裁ユーザーの一人である須磨寺横行が、このユアペディアに「[[利用者:須磨寺横暴|須磨寺横暴]]」のアカウント名で現れ、様々な記事を白化して廻る荒らし行動を繰り返していました。[[利用者:abcdefgh|abcdefgh]]氏によって無期限ブロックを掛けられ、そのおかげでヤツに削除されて白化したページも元に戻りました。しかし、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%AF%BA%E6%A8%AA%E6%9A%B4&amp;amp;action=history 此処]を見れば解かるように、この野郎は「'''まもなく無期限ブロックされる予定 無論、他のアカウント取得で復活しますがｗ'''」という一文を吐き捨てています。放っておくと何度でも削除しに現れます。IPアドレスごとブロックに掛けて完全に追放する必要があります。ユアペディアを守るためにコイツのIPアドレスごとの無期限ブロックをお願いします。--[[利用者:湘南乃虱|湘南乃虱]] 2013年8月29日 (木) 16:40 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Copipediaでの荒らし行為 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月7日以降、Copipediaに於いて可成り悪質な荒らし行為が横行してる様です。対処をお願いします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月8日 (日) 22:24 (UTC)&lt;br /&gt;
:例えば、[[copipedia:user:Beyond.]]は成りすましに該当すると考えられ、又、[[copipedia:user:Beyond.]]や[[copipedia:user:武蔵境自動車教習所入口]]は「他人の利用者ページ編集」を行う、等、かなり悪質性があります。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月9日 (月) 23:27 (UTC)&lt;br /&gt;
:あと、[[copipedia:user:防人]]は防人様に照会した処、防人様と無関係である事が判った為、これも一種の成りすましに該当すると考えられます。管理者就任を希望してる模様ですが疑問があります。以上の「なりすまし」は何れもNTTドコモのスマホからの可能性が高い事から、こちらでも49.98.0.0/16、49.97.0.0/16と49.96.0.0/16を１カ月間ほど(悪質性に応じて延長)広域ブロックする事が望ましいものと思われます。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月10日 (火) 23:32 (UTC)&lt;br /&gt;
:この他にも同じ様に他人の利用者ページを勝手に編集してるアカウントが幾つか有るみたいなのですが、これらもNTTドコモのスマホからの荒らし行為と見られます。「他人の利用者ページの編集」はCopipediaでも禁止ですよね。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月14日 (土) 23:06 (UTC)&lt;br /&gt;
:その後、[[copipedia:user:防人]]は自らの非を認め反省の上で｢荒らしの除去｣に励んでる模様なのでしばらく様子を見ておくと良いと思います。それ以外のアカウントは悪質性があります。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月16日 (月) 22:20 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 無期限ブロック中の勇者プクリンについて ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
利用者ページを編集して無期限ブロックを受けた[[勇者プクリン]]（[[トーク:勇者プクリン|トーク]]/[[特別:投稿記録/勇者プクリン|投稿記録]]）ですが、現在は「もう利用者ページを編集しない」と深く反省していますので、無期限ブロックの解除をしてくれませんか？&lt;br /&gt;
よろしくお願いします。&lt;br /&gt;
: 貴殿と勇者プクリン氏は、どのようなご関係ですか？--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年9月29日 (日) 13:44 (UTC)&lt;br /&gt;
::Sysopさん、その前に上のAbcdefghさんの依頼を聞いてあげないと駄目でしょう。--[[特別:投稿記録/49.98.154.147|49.98.154.147]] 2013年10月5日 (土) 00:36 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私の旧アカウントについて ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんにちは。{{PAGENAME}}さん。日々管理者として、いつも多忙なお仕事を文句も言わず全うしてくれて、誠に有り難うございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなた方のおかげで私たちはいつも平穏に活動できていると言っても過言ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、本題なのですが、私はかつて[[User:Super Lemon]] アカウントで活動をしていたのですが、数年前からしばらく活動を休止していて、最近また活動を再開しようと思ったのですが、パスワードを忘れログイン出来なくなったので、今はこのアカウントで活動をしています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従ってデータ移動のため Super Lemonの利用者ページを編集する場合があると思いますが、堀秀政 = Super Lemonなのでブロック等はしないでください。--[[利用者:堀秀政|堀秀政]] 2013年10月6日 (日) 04:08 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Question? ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なぜ管理者の一覧にプロキシブロック係さんが含まれていないのですか？--[[利用者:堀秀政|堀秀政]] 2013年10月16日 (水) 03:51 (UTC)&lt;br /&gt;
:「プロキシブロック係」というのはMediaWikiシステム内のボットの一種であり人ではありません。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年10月16日 (水) 23:49 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私からも投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
*{{User2|大野警護}}&lt;br /&gt;
このユーザーは{{User2|大野慶吾}}氏の成り済ましと思われ、他人の利用者ページを編集して荒らすなど悪質なので即刻投稿ブロックして下さい。&lt;br /&gt;
:なお、このアカウント以外にも他人の利用者名を真似して悪質な荒らし行為をしているアカウントがいるので、全てにブロックを掛けて置いて下さい。同一人物・少人数の可能性が非常に高いです。無期限ブロック希望です。最低でも１年以上のブロックでお願いします。&lt;br /&gt;
*{{User2|アイサール}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mikomaid}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野普吾}}&lt;br /&gt;
*{{User2|マックス}}&lt;br /&gt;
*{{User2|あああああああああ!}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mikomade 監視委員会}}&lt;br /&gt;
*{{User2|どんどだるま}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾監視委員会}}&lt;br /&gt;
*{{User2|ゼティナ}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Te Voi Iubi}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野ｲ言号}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野警護}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
--[[利用者:堀秀政|堀秀政]] 2013年10月21日 (月) 07:45 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理者立候補 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちょうど今管理者募集をしている時期であり、人手不足の様なので、ここでの管理を手伝わせてもらいたいのですがいかがしょうか？--[[利用者:Owner|Owner]]　2013年10月17日 (木) 16:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: ご提案ありがとうございます。とりあえず、Ownerさんの人となりや、やりたい事などが分からないため、今回は見送らせていただきます。Yourpediaでの活動状況が変化しましたら、またご連絡ください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年10月17日 (木) 17:11 (UTC)&lt;br /&gt;
::管理者立候補にあたり、[[利用者:Owner/管理者になるにあたって|こんなページ]]を作ってみました。このリンクを見て私への権限付与をご検討ください。--[[利用者:Owner|Owner]]　2013年10月18日 (金) 16:58 (UT&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ちょっと待って下さい ==&lt;br /&gt;
堀秀政です。私を「他人のユーザーページ編集」で無期限ブロックにしたようですが、私の行った「他人のユーザーページの編集」は、[[User:プロキシブロッカー]]氏のユーザーページが IP アドレスによってSPAM投稿されていたのでそれを削除しただけで、要約欄にも「他人の利用者ページだがスパムの為白紙化」とちゃんと書きました。なのでこの投稿は問題にはならないはずです。それとも、最近は編集内容は関係ないのでしょうか？もしそういう理由であったとしても、今回はブロックは解除してください。今度からは荒らしを除去する理由でも他人のユーザーページの編集は行いませんので。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、このメッセージに気付きブロックを解除した時は、このアカウントは無期限ブロックにしてください。堀秀政アカウントのブロックが解除された場合は、このアカウントはもう使いませんので。--[[利用者:エルモア|エルモア]] 2013年10月30日 (水) 10:49 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 「SPAM投稿の削除」と言った例外規定は設けておりません。ブロックの解除については、[[Yourpedia:投稿ブロックの解除について]]のページがありますので、そちらをご参照ください。 --[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年10月30日 (水) 11:13 (UTC)&lt;br /&gt;
::わかりました。でも、とにかく今度からは荒らしを除去する理由であっても他人の利用者ページ編集は二度としませんので、今回はブロックは解除してください。なお、解除したらこのアカウントは今後使わないので、こちらのアカウントは無期限ブロックして下さい。--[[利用者:エルモア|エルモア]] 2013年10月30日 (水) 11:24 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==管理者立候補 (再)==&lt;br /&gt;
管理者立候補にあたり、[[利用者:Owner/管理者になるにあたって|こんなページ]]を作ってみました。このリンクを見て私への権限付与をご検討ください。--[[利用者:Owner|Owner]] 2013年10月30日 (水) 12:14 (UTC)&lt;br /&gt;
:聞いてますか？--[[利用者:Owner|Owner]] 2013年10月30日 (水) 14:34 (UTC)&lt;br /&gt;
::標準空間の編集が僅少で、それも、｢無名の個人｣に関連する内容ばかりでYPの充実に寄与してるとは考えられません。私としてはOwner氏は管理者にはふさわしいとは思えません。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年10月30日 (水) 22:29 (UTC)&lt;br /&gt;
::&amp;lt;del&amp;gt;標準空間の編集はあまり多くないものの、荒らし対応の実績、等、から、YPの充実にも十分寄与してると考えられます。私はOwner氏は管理者にはふさわしいと思います。--[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年10月30日 (水) 22:29 (UTC)&amp;lt;/del&amp;gt;&lt;br /&gt;
:::&amp;lt;del&amp;gt;マニフェスト (？) を見る限り、充分のやる気・誠実さ・謙虚さ・責任感が伝わってきますし、適切な管理が期待できます。是非管理者として活躍してもらいたい所です。&amp;lt;/del&amp;gt;&lt;br /&gt;
:::&amp;lt;del&amp;gt;--[[利用者:HOT SELECTION|HOT SELECTION]] 2013年10月31日 (木) 13:19 (UTC)&amp;lt;/del&amp;gt;&lt;br /&gt;
:::{{User2|HOT SELECTION}}氏は私のコメントを勝手に改変したのでブロックしておきました。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年10月31日 (木) 22:29 (UTC)&lt;br /&gt;
:Owner氏は[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E6%8F%96%E4%BF%9D%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%B0%B4%E5%85%B5%E3%81%95%E3%82%93&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=207350 このような]僕に関する不謹慎な行動を行ったそうです。よって彼は管理者には全く相応しいとは思えません。--[[利用者:揖保川の水兵さん|揖保川の水兵さん]] 2013年11月1日 (金) 00:32 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 前回も申し上げたとおり、Yourpediaでの活動状況が変化したら、またご連絡ください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年11月1日 (金) 14:28 (UTC)&lt;br /&gt;
::わかりました。もっとまともな編集実績を積み上げてから、また出直したいと思います。--[[利用者:Owner|Owner]] 2013年11月2日 (土) 04:29 (UTC)&lt;br /&gt;
== ご挨拶 ==&lt;br /&gt;
こんにちは。れきと申します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*引用&lt;br /&gt;
'''YourpediaとはSysopが創ったサイトである。我々はSysopが所有する土地で、金銭を払うことなく遊ばせてもらっているガキンチョに過ぎない。&lt;br /&gt;
であるから、Sysopに意見・不満を述べるのは筋違いである。不満があるなら、自らのサイトを立ち上げれば良いのである。'''&lt;br /&gt;
*引用終わり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
yourpediaさんの編集方針によって削除されてしまったので、私達で新しく立ち上げました。&lt;br /&gt;
http://wiki.linepedia.org/&lt;br /&gt;
というサイトです。&lt;br /&gt;
もしよろしければ、姉妹サイトにして頂けませんか？&lt;br /&gt;
また、まだ作成したばかりですので技術が不足しております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですので、そちらで技術を学びたいと思います。&lt;br /&gt;
もしよろしければ管理者にしていただけませんか？--以上の署名の無いコメントは、 {{user2|れき}}さんによる投稿です。([[利用者:堀秀政|堀秀政]]による付記。)2013年11月9日 (土) 05:06 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Copipediaでの荒らし行為 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月7日以降、Copipediaに於いて可成り悪質な荒らし行為が横行してる様です。対処をお願いします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月8日 (日) 22:24 (UTC)&lt;br /&gt;
:例えば、[[copipedia:user:Beyond.]]は成りすましに該当すると考えられ、又、[[copipedia:user:Beyond.]]や[[copipedia:user:武蔵境自動車教習所入口]]は「他人の利用者ページ編集」を行う、等、かなり悪質性があります。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月9日 (月) 23:27 (UTC)&lt;br /&gt;
:あと、[[copipedia:user:防人]]は防人様に照会した処、防人様と無関係である事が判った為、これも一種の成りすましに該当すると考えられます。管理者就任を希望してる模様ですが疑問があります。以上の「なりすまし」は何れもNTTドコモのスマホからの可能性が高い事から、こちらでも49.98.0.0/16、49.97.0.0/16と49.96.0.0/16を１カ月間ほど(悪質性に応じて延長)広域ブロックする事が望ましいものと思われます。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月10日 (火) 23:32 (UTC)&lt;br /&gt;
:この他にも同じ様に他人の利用者ページを勝手に編集してるアカウントが幾つか有るみたいなのですが、これらもNTTドコモのスマホからの荒らし行為と見られます。「他人の利用者ページの編集」はCopipediaでも禁止ですよね。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月14日 (土) 23:06 (UTC)&lt;br /&gt;
:その後、[[copipedia:user:防人]]氏は自らの非を認め反省の上で｢荒らしの除去｣に励んでる模様なのでしばらく様子を見ておくと良いと思います。それ以外のアカウントは悪質性があります。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月16日 (月) 22:20 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文章コンテンツの著作権について ==&lt;br /&gt;
はじめまして、かねてより本ウェブサイト「ユアペディア」を利用させていただいております「[[特別:投稿記録/Extasy|Extasy]]」と申す者です。このたびは、本ウェブサイト「ユアペディア」における文章コンテンツの取り扱いに関し、「[[Yourpedia:著作権]]」や「[[Yourpedia:著作権やライセンスについて]]」などの文書を参照しても明確な記載が見られなかったことから、本ウェブサイトの統括管理者様とお見受けいたしますSysop氏のご見解を直に伺いたく、こうしてこちらへ参った次第であります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、不躾ながら急遽本題に参りますと、本ウェブサイトでは著作権法の定める「引用の適法要件」を満たさない形の文章コンテンツの公開は認められた編集行為にあたるのでしょうか。具体例を交えて説明いたしますと、このたびの発端となった記事「[[半グレ集団]]」（[[トーク:半グレ集団|議論]]）内の文章コンテンツは、たとえば[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%8D%8A%E3%82%B0%E3%83%AC%E9%9B%86%E5%9B%A3&amp;amp;diff=209178&amp;amp;oldid=209173 直近の編集]で追加されたものは上半分が[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130527/crm13052702000000-n1.htm MSN産経ニュースの記事]からの流用で、下半分が読売オンライン2013年5月27日付の記事からの流用となっております。もう一例挙げますと、そこからさらに[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%8D%8A%E3%82%B0%E3%83%AC%E9%9B%86%E5%9B%A3&amp;amp;diff=182490&amp;amp;oldid=182480 直近の編集]で追加された文章は、[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130111/crm13011100080000-n1.htm MSN産経ニュースの特集記事 上]・[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130111/crm13011121140030-n1.htm 中]および[http://megalodon.jp/2013-0116-2226-44/news.livedoor.com/article/detail/7310681/ 2013年1月13日付の産経新聞記事]からの全文転載となっております。こうした形、すなわち、引用元の明示（著作権法第48条・出所の明示）を欠いた、適正な範囲（著作権法第32条1項）を明らかに超えたものと判断されうる「引用」コンテンツの公開は、本ウェブサイト「ユアペディア」において許可された行為なのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[トーク:半グレ集団]]にて編集当事者にあたる[[利用者:Fromm]]氏にお尋ねしてはいるのですが、対話に全く応じていただけず、こちらが他記事との重複を理由に当該コンテンツの削除を行っても「先編集権」を理由に即座にリバートされるという状況にあります。また同様の例は「[[半グレ集団]]」に限らず各所に見ることができます。ご見解をお聞かせいただけるならば幸いに存じます。--[[利用者:Extasy|Extasy]] 2013年11月9日 (土) 09:01 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 法律的な判断を行うまでも無く、引用元を明示しない引用は百科事典としてふさわしくないと考えます。とりあえず、[[Yourpedia:情報ソースについて]]に情報ソースの明示について追記しました。なお、先編集権によるリバートが行われた場合は、記事をフォーク後、統合プロセスによって解決を図ってください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年11月9日 (土) 21:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Copipediaでの荒らし行為 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月7日以降、Copipediaに於いて可成り悪質な荒らし行為が横行してる様です。対処をお願いします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月8日 (日) 22:24 (UTC)&lt;br /&gt;
:例えば、[[copipedia:user:Beyond.]]は成りすましに該当すると考えられ、又、[[copipedia:user:Beyond.]]や[[copipedia:user:武蔵境自動車教習所入口]]は「他人の利用者ページ編集」を行う、等、かなり悪質性があります。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月9日 (月) 23:27 (UTC)&lt;br /&gt;
:あと、[[copipedia:user:防人]]は防人様に照会した処、防人様と無関係である事が判った為、これも一種の成りすましに該当すると考えられます。管理者就任を希望してる模様ですが疑問があります。以上の「なりすまし」は何れもNTTドコモのスマホからの可能性が高い事から、こちらでも49.98.0.0/16、49.97.0.0/16と49.96.0.0/16を１カ月間ほど(悪質性に応じて延長)広域ブロックする事が望ましいものと思われます。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月10日 (火) 23:32 (UTC)&lt;br /&gt;
:この他にも同じ様に他人の利用者ページを勝手に編集してるアカウントが幾つか有るみたいなのですが、これらもNTTドコモのスマホからの荒らし行為と見られます。「他人の利用者ページの編集」はCopipediaでも禁止ですよね。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月14日 (土) 23:06 (UTC)&lt;br /&gt;
:その後、[[copipedia:user:防人]]氏は自らの非を認め反省の上で｢荒らしの除去｣に励んでる模様なのでしばらく様子を見ておくと良いと思います。それ以外のアカウントは悪質性があります。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月16日 (月) 22:20 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「アルカナハート愛好家」無期限ブロックの件 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|アルカナハート愛好家}}がspam投稿で無期限ブロックとなりましたが、spam投稿をやめて深く反省したらアルカナハート愛好家の無期限ブロックは解除されるのでしょうか?&lt;br /&gt;
:されません。新しいアカウントも作ってはいけません。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2013年11月16日 (土) 15:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Copipediaでの荒らし行為 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月7日以降、Copipediaに於いて可成り悪質な荒らし行為が横行してる様です。対処をお願いします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月8日 (日) 22:24 (UTC)&lt;br /&gt;
:例えば、[[copipedia:user:Beyond.]]は成りすましに該当すると考えられ、又、[[copipedia:user:Beyond.]]や[[copipedia:user:武蔵境自動車教習所入口]]は「他人の利用者ページ編集」を行う、等、かなり悪質性があります。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月9日 (月) 23:27 (UTC)&lt;br /&gt;
:あと、[[copipedia:user:防人]]は防人様に照会した処、防人様と無関係である事が判った為、これも一種の成りすましに該当すると考えられます。管理者就任を希望してる模様ですが疑問があります。以上の「なりすまし」は何れもNTTドコモのスマホからの可能性が高い事から、こちらでも49.98.0.0/16、49.97.0.0/16と49.96.0.0/16を１カ月間ほど(悪質性に応じて延長)広域ブロックする事が望ましいものと思われます。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月10日 (火) 23:32 (UTC)&lt;br /&gt;
:この他にも同じ様に他人の利用者ページを勝手に編集してるアカウントが幾つか有るみたいなのですが、これらもNTTドコモのスマホからの荒らし行為と見られます。「他人の利用者ページの編集」はCopipediaでも禁止ですよね。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月14日 (土) 23:06 (UTC)&lt;br /&gt;
:その後、[[copipedia:user:防人]]氏は自らの非を認め反省の上で｢荒らしの除去｣に励んでる模様なのでしばらく様子を見ておくと良いと思います。それ以外のアカウントは悪質性があります。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年9月16日 (月) 22:20 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{user2|ＬＩＶＩＮ}} 氏 の 無期限ブロックについて、 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無期限ブロックの理由が「成り済まし」となっていますが、一体何をどうしたら「成り済まし」になるんでしょうか？--[[利用者:NEC|NEC]] 2013年11月16日 (土) 15:42 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|ユーザー}}&lt;br /&gt;
他人の利用者ページを編集していたので、無期限ブロックをお願いします。あと{{User2|スウィートアドレス}}がユーザーをなりすましていたので早めのブロックをお願いします。 --[[利用者:110.74.123.27|110.74.123.27]] 2013年11月25日 (月) 20:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|アイザール}}&lt;br /&gt;
私が立項した「[[Yourpedia被害者の会]]」を、先編集権を無視した編集を行っております。この様な忌まわしい人物の早めの無期限ブロックをお願いします。尚、18:48から20:05の間YPを少々重くする工作を行っておりましたが、その効力が切れると直ちに邪悪な編集を再開した事からも{{User2|アイザール}}の凶悪性が伺える感じです。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年11月26日 (火) 11:06 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|Mikomaid}}&lt;br /&gt;
:この項目は{{User2|Mikomaid}}氏が2013年3月10日に[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%AE%E4%BC%9A&amp;amp;diff=193010&amp;amp;oldid=181557 リダイレクト処理]した後、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:Yourpedia%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E8%80%85%E3%81%AE%E4%BC%9A&amp;amp;action=edit&amp;amp;redlink=1 この処理]でおわかりのように2013年3月20日に「荒らし・いたずら」として削除されています。また、{{User2|Mikomaid}}氏は「先編集権」すら主張していません。私が項目として立項したのは2013年7月24日であり、その間、{{User2|Mikomaid}}氏は何ら異議を唱えず、2013年11月23日に突然、先編集権を無視した編集を行って「先編集権」を主張したものであります。その記事の内容も私が記述した内容を丸写しにしたもので、{{User2|Mikomaid}}氏に都合の悪い記述は削除した内容です。&lt;br /&gt;
{{User2|Mikomaid}}氏の家族である管理者{{User2|Abcdefgh}}氏はこの場合は先編集権を無視した編集を行ったユーザーに投稿ブロック処分を行っていました。従って、先編集権は私にあるので、投稿ブロック処分は{{User2|Mikomaid}}氏の行うことがユアペディアのルールに則ったものであると思います。{{User2|Mikomaid}}氏は長らくユアペディアで活動しながら、ユアペディアのルールを無視している状況から、今後の改善も見込めず、無期限投稿ブロック処分が適当ではないかと提案申し上げます。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2013年11月26日 (火) 11:46 (UTC)&lt;br /&gt;
:上記の主張は当たりません。7月24日から11月23日の間は仕事が多忙になり、暫く手を付けてなかっただけです。立項当初はリダイレクトとはいえ、立項者は私自身であり、従って先編集権者も私です。{{User2|アイザール}}の方こそ１年間の長期ブロックにも全く懲りない人権を無視・蹂躙する狂暴・凶悪・忌まわしい人物であり、人権を無視する人物が「ルール無視」を指摘するなど矛盾に満ちあふれてます。{{User2|アイザール}}が私に対する誹謗中傷・個人攻撃をやめない・{{User2|Sysop}}が、それを止めさせない限り、私もYPを少々重くする工作をやめません。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年11月26日 (火) 12:40 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもMikomaidは無期限ブロックにして下さい。そもそもユアペディアを重くする工作というのは、ユアペディアに対する攻撃行為であり、ユアペディアの投稿ブロックの方針にも当てはまります。おまけにこれは明白な犯罪行為であり、自ら犯罪行為も認めた上で、その行為を正当化する悪魔のような人物です。この工作行為は、あなたが通報さえすれば、Mikomaidは一発で逮捕されます。このようなユアペディアを破壊しかねない人物は直ちに無期限ブロック・通報・逮捕されるべきなのです。これからも頑張って下さい。--'''&amp;lt;big&amp;gt;&amp;lt;span style=&amp;quot;color:yellow&amp;quot;&amp;gt;Super Lemon&amp;lt;/span&amp;gt;&amp;lt;/big&amp;gt;'''&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:smaller&amp;quot; class=&amp;quot;plainlinks&amp;quot;&amp;gt;（[[user:堀秀政|紹介]]/[[利用者‐会話:堀秀政|会話]]/[[特別:Contributions/堀秀政|履歴]]/[{{fullurl:Special:Log|page=User:{{urlencode:堀秀政}}}} ログ]/[[Special:Emailuser/堀秀政|メール]]）&amp;lt;/span&amp;gt;2013年11月28日 (木) 12:20 (UTC)&lt;br /&gt;
*{{User2|堀秀政}}&lt;br /&gt;
こちらこそ無期限ブロックにされるべきです。自分が他人の利用者ページを編集したことを理由にSysop氏からブロックされたことを逆恨みするような人物で、又、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%3A%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%AB&amp;amp;action=historysubmit&amp;amp;diff=211825&amp;amp;oldid=211728 この編集]の様に他人のコメントを勝手に改変したり、編集合戦に没頭したり、その他の編集も建設的な編集を全く行わないような人物です。そもそも誹謗中傷・個人攻撃・著作権侵害を放置するような違法なサイトの管理者がサーバーを重くされて文句を言えると思いますか？そのような違法サイトの管理者が刑事告訴するなど笑止千万・吹飯ものです。告訴できると言うなら告訴してください。その方がこちらから訴えを起こす手間が省けて国選弁護人が付いて助かります。尚、私は近日中に亀岡市の事故被害者とタッグを組む事を検討中です。これの実現を楽しみにしておいてください。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年11月28日 (木) 12:42 (UTC)&lt;br /&gt;
*{{User2|Keio store market jesus}}&lt;br /&gt;
これも他人のコメントを勝手に改変するなど、上記と全く同じ狂暴で凶悪なアカウントで、{{User2|堀秀政}}のブロック逃れの可能性があります。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年12月8日 (日) 12:51 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Mikomaid氏は子供でしょうか？そんな事が一般社会で通用するとでも思っているのでしょうか？Mikomaid氏のやっている事は「相手が聞く耳を持たないから暴力・実力行使で解決した (しようとした) 」と言っているのと同じ事です。だから裁判 (？) でも、Mikomaid氏が行った事も考えると「どっちが悪くない/悪い」とはならずに、「どっちもどっち」となると思います。Mikomaid氏のあまりの社会常識のなさに呆れて一言言わせてもらいました。そもそもMikomaidが行ったサーバーを重くする工作というのは、ユアペディアの投稿ブロックの方針にもある「ユアペディアに対する攻撃行為」に当たり、刑事告訴以前に「無期限ブロック」されるべきです。Mikomaidの早めの無期限ブロックをお願いします。--[[利用者:Keio store market jesus|Keio store market jesus]] 2013年12月8日 (日) 14:51 (UTC) &lt;br /&gt;
:社会常識が無いのはどちらでしょうか？攻撃されて文句を言えるでしょうか？[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年12月8日 (日) 17:46 (UTC)&lt;br /&gt;
:あんたでしょう。--[[利用者:Keio store market jesus|Keio store market jesus]] 2013年12月9日 (月) 06:39 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|Mlkomaid}}&lt;br /&gt;
*{{User2|MIkomaid}}&lt;br /&gt;
上記は何れも私の偽者です。特に後者は私のトークページの移動荒らしを行いました。厳重な御対応をお願いします。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年12月9日 (月) 11:28 (UTC)&lt;br /&gt;
:以上の２つは防人氏がブロックして下さいました。ありがとうございました。--[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年12月9日 (月) 17:36 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そういうMikomaidはMikomadeの偽物です。無期限ブロックをお願いします。--[[利用者:Keio store market jesus|Keio store market jesus]] 2013年12月9日 (月) 11:50 (UTC)&lt;br /&gt;
:アカウント作成日時を御覧頂ければ判る通り{{User2|Mikomade}}の方が便乗です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年12月9日 (月) 17:36 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とりあえず、ユアペディアの投稿ブロックの方針にある「ユアペディアに対する攻撃行為」に当てはまるので、Mikomaid氏は無期限ブロックした方がよいのではないでしょうか？--[[Special:投稿記録/123.4.56.789.|123.4.56.789]] 2013年12月9日 (月) 13:50 (UTC)&lt;br /&gt;
:{{User2|123.4.56.789.}}の方が便乗です。好き好んで攻撃してる訳ではありません。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年12月9日 (月) 17:36 (UTC)&lt;br /&gt;
:好き好んでとか何だとかなどの問題ではありません。ルール違反を犯しているのだから無期限ブロックされるべきです。--[[Special:投稿記録/123.4.56.789.|123.4.56.789]] 2013年12月10日 (火) 09:29 (UTC)&lt;br /&gt;
*{{User2|堀秀政}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Keio store market jesus}}&lt;br /&gt;
*{{User2|123.4.56.789.}}&lt;br /&gt;
これらは同一人物と見られ、何れも非建設的で編集合戦三昧である事、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?action=historysubmit&amp;amp;diff=212878&amp;amp;oldid=212867 この様な編集]も有る事から全て無期限ブロックにしてください[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2013年12月10日 (火) 17:54 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 画像が表示されないようです ==&lt;br /&gt;
*「HTTP500　内部サーバーエラー」となります。--[[利用者:防人|防人]] 2013年12月6日 (金) 21:59 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 私の旧アカウントについて ==&lt;br /&gt;
こんにちは。{{PAGENAME}}さん。日々管理者として、いつも多忙なお仕事を文句も言わず全うしてくれて、誠に有り難うございます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あなた方のおかげで私たちはいつも平穏に活動できていると言っても過言ではありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、本題なのですが、私はかつて[[User:Owner]] アカウントで活動をしていたのですが、無期限ブロックになってしまったで、今はこのアカウントで活動をしています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従ってデータ移動のため Ownerの利用者ページを編集する場合があると思いますが、Number1 = Ownerなのでブロック等はしないでください。--[[利用者:Number1|Disco-Zone]] 2013年12月8日(日) 10:43 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|菊原桃乃}}&lt;br /&gt;
荒らしやいたずらを繰り返していますので、早めに無期限ブロックをお願いします。 --[[利用者:210.170.139.72|210.170.139.72]] 2013年12月10日 (火) 06:00 (JST)&lt;br /&gt;
:取り敢えず1ヶ月間ブロックしておきました。期間終了後に再び暴れだした場合は改めて対処します。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2013年12月9日 (月) 23:08 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== GIF画像が表示されません ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ユアペディアの全てのページでGIF画像が表示されていないようです。表示されるようにしてください。 --[[利用者:アルカナハート愛好家２|アルカナハート愛好家２]] 2013年12月13日 (金) 19:19 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== {{User2|アイサール}}その他の投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下のユーザー(これらは{{User2|アイサール}}と同一人物の可能性が高く、成り済ましで、極めて凶暴・陰湿・狡猾で悪意しか持っておらず、SPAM、編集合戦、等を行う一方で建設的編集を行う意志が全く無く、話し合いによる解決も不可能な事から、無期限ブロックをお願いします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、他のウィキサイトですが、アンサクロペディアで{{User2|Mikomaid}}氏と{{User2|Abcdefgh}}氏は「執拗な編集と荒し」、及び、「多重アカウントを駆使した」として2013年12月4日に無期限投稿ブロック処分が下されております。アンサイクロペディアではCU依頼で[http://ja.uncyc.org/index.php?title=Uncyclopedia:CheckUser%E6%A8%A9%E8%A1%8C%E4%BD%BF%E4%BE%9D%E9%A0%BC/Mikomaid%E6%B0%8F&amp;amp;t=20131125135701 ここで]を調べたところ、同一IPで[http://ja.uncyc.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Abcdefgh 利用者 Abcdefgh]、[http://ja.uncyc.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%8F%E3%82%93 利用者　のび太くん]のアカウントがあることが判明しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仮に、同一IPによる処分で、{{User2|Abcdefgh}}氏が別の家族であるとしても、{{User2|Abcdefgh}}氏は家族の{{User2|Mikomaid}}氏が「執拗な編集と荒し」を行っていることを認めており、{{User2|Abcdefgh}}氏は自身でも{{User2|Mikomaid}}氏の投稿ブロック処分に支持を表明していました。これまでのユアペディアでの{{User2|Mikomaid}}氏の編集妨害活動を鑑みると、ユアペディアにおいても再び、同様の編集妨害を繰り返す可能性が高く、事前に無期限投稿ブロックを仕掛けておく必要性が有るのでないかと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、アンサイクロペディアでは{{User2|Abcdefgh}}氏は「[http://ja.uncyc.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%8F%E3%82%93 利用者:のび太くん]」の別アカウントを持ち、その当該のアカウントは過去、数回の投稿ブロック処分を受け、このような[http://ja.uncyc.org/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E3%83%AD%E3%82%B0/block&amp;amp;page=User%3A%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%8F%E3%82%93 ブロック記録 のび太くん]があります。現在、そのアカウントは2013年10月6日から一年間の投稿ブロック処分が下されていることが判明しています。ユアペディアの管理者が他のウィキサイトで投稿ブロック処分を受けている事実、その投稿ブロック処分がユアペディアの管理者の就任後であることを踏まえれば、ユアペディアへの信用失墜、名誉毀損行為に相当し、ユアペディアの管理者として相応しい資質を備えているとは言い難いものなので、管理者の解任、及び投稿ブロック処分をを考慮して戴くようお願い申し上げます。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2014年1月15日 (水) 04:40 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|アイサール}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野普吾}}&lt;br /&gt;
*{{User2|どんどだるま}}&lt;br /&gt;
*{{User2|ゼティナ}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野ｲ言号}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mikomaid}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Abcdefgh}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:上記の内、「アイサール」は私と似た名前で他のアカウントでも同様の「悪意の編集」が行われてる事から激烈な恨みを持つものと思われます。&lt;br /&gt;
::(コメント、一部反対)上記は誣告です。私はアンサイクロペディア(UCP)には一切タッチしておりません。又、UCPの該当アカウントは私を貶める目的の、成り済ましと思われます。そもそも、UCPはウィキペディア(WP)とは基本方針が全く異なり、WPからの転記も認められない事から、一度は検討したアカウント作成を断念した、そして、同じGFDLを採用し、WPから転記可能な、ここに来た、という経緯があります。又、{{User|Abcdefgh}}(私の身内)は、概ね適切な管理活動をしてるものと思われ、YPの治安維持に、ある程度寄与してるものと思われます。{{User|Mikomaid}}、{{User|Abcdefgh}}以外のブロックには合意します。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月15日 (水) 09:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::アンサイクロペディアの管理者は[http://ja.uncyc.org/index.php?title=Uncyclopedia:CheckUser%E6%A8%A9%E8%A1%8C%E4%BD%BF%E4%BE%9D%E9%A0%BC/Mikomaid%E6%B0%8F&amp;amp;t=20131125135701 このページ]にて利用者:MIkomaid と 利用者:Abcdefgh が極めて高い同一性があることを確認しています。また、この同一性を導き出す結論として[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Mikomaid wiki Mikomaid]を参考にしていたことも証言していますので、ウィキペディアの[[wiki:Mikomaid|Mikomaid]]氏とアンサイクロペディアの Mikomaid氏、及び Abcdefgh氏は同一人であることを意味していると証言をしていることと同じです。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2014年1月15日 (水) 09:54 (UTC)&lt;br /&gt;
::::これは、UCPの「Mikomaid=Abcdefgh=のび太くん」が私(及び私の身内)の物真似(WPでの私の利用者ページの転載)をしたものと考えられます。「のび太くん」はUCPに於いてLTA行動を起こしてる模様ですが、私とは一切無関係です。もし「のび太くん」＝私であるとすれば私と同じISPである事が明かされる筈です。私はUCPにはノータッチです。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月15日 (水) 10:30 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::::[https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BE%9D%E9%A0%BC/Mikomaid 投稿ブロック依頼 Mikomaid]にて Mikomaid氏のIPアドレス 220.3.134.144　が表記されていたので、アンサイクロペディアの管理者は同一人であるとと確信なさったのではないでしょうか。そうでなければ、わざわざ[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Mikomaid wiki Mikomaid]を参考にしたと記述する必要はありません。ウィキペディアと同一IPアドレスであったと他ユーザーに暗示したものと思われます。アンサイクロペディアではCUは頻繁に行われますが、当該のIPアドレスは公表されません。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2014年1月15日 (水) 10:46 (UTC)&lt;br /&gt;
(インデント戻し)[[wiki:User:Mikomaid]]は(転載元としての)「参考」として提示されたものであり、「のび太くん」＝私と断言したものではありません。UCPに於ける、この件は、メインはあくまでも「のび太くん」です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月15日 (水) 11:05 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:アンサイクロペディアの[http://ja.uncyc.org/index.php?title=Uncyclopedia:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BE%9D%E9%A0%BC/Mikomaid%E6%B0%8F&amp;amp;t=20131203224440 投稿ブロック依頼 Mikomaid氏]において、利用者:Mikomaid氏と利用者:Abcdefgh氏が無期限投稿ブロックとなったことの事実関係のみに戻しますが、アンサイクロペディアの管理者になぜ、Mikomaid氏やAbcdefgh氏は成り済まされて迷惑を被ったとして抗議をなさらないのでしょうか。事実関係を明らかにすることで自身の潔白さが計れるかと存じます。沈黙を守られることは暗黙の了解と第三者は理解してしまいます。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2014年1月15日 (水) 11:25 (UTC)&lt;br /&gt;
::該当のページに抗議文を書いておきました。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月15日 (水) 11:51 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:::抗議先を間違えておられるのではないですか。利用者:Mikomaid氏と利用者:Abcdefgh氏が同一人と断定して無期限投稿ブロック依頼と実行を行ったのは[http://ja.uncyc.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Sts Sts]氏ですよ。抗議を行うなら[http://ja.uncyc.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Sts Sts]氏であり、既に終わった項目でこのような形だけの抗議では単にポーズを取っているだけだと第三者に受け取りかねません。「[http://ja.uncyc.org/index.php?title=Uncyclopedia:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BE%9D%E9%A0%BC/Mikomaid%E6%B0%8F&amp;amp;t=20131203224440 投稿ブロック依頼 Miomaid]」--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2014年1月15日 (水) 13:44 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Abcdefgh管理者の解任依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンサイクロペディアの&lt;br /&gt;
[http://ja.uncyc.org/index.php?title=Undictionary_talk:%E3%81%AB&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=1132966 項目 「に」]において、「{{User2|Mikomaid}}」氏の名を語り、「ニート」の項目で以下の荒し行為がありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「Mikomade、と言うのは、主にユアペディアで、アイザール、等、のアカウントを使い、私を誹謗中傷しているユーザーの事です。この、&lt;br /&gt;
Mikomade、というユーザーの悪質性を皆に知ってもらいたかったのです。従って、私の版は、消さないで下さい!!!!お願いします!!!!」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上記の文章で {{User2|Mikomaid}}氏の文体の特徴が表れています。「悪質性」、「!!!!お願いします!!!!」です。これは{{User2|Mikomaid}}氏がいつも用いる「誹謗中傷」、「悪質性」に加えて[http://beyond.cocolog-nifty.com/akutoku/2013/08/post-bd1a.html 悪徳商法?アニマックスココログ支店]で {{User2|Mikomaid}}氏が用いた「大至急、[[利用者:大野将希]]を無期限ブロックして下さい!!!!!!」での「！」の多用の癖、及び利用者ページで自身の紹介でもユアペディアと同一の内容（警告：Mikomaidの利用者ページにつき他者による編集を禁止する）を記述しています。これらの内容からも{{User2|Mikomaid}}氏が書き込んだものと断定されてもおかしくはありません。第三者が{{User2|Mikomaid}}氏に成り済ましてまで誹謗・中傷を繰り返す荒し行為に合理的な理由は見当たりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、{{User2|Mikomaid}}氏は自身での書き込みではないと否定し、ここで指摘されてアンサイクロペディアで{{User2|Mikomaid}}氏の自身のIPアドレス：softbank220003134144.bbtec.net で抗議を行った一方、{{User2|Mikomaid}}氏が別人と称する、{{User2|Abcdefgh}}氏は'''一切の沈黙を守ったまま'''です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|Mikomaid}}氏が別人の家族であると主張しているのなら、アンサイクロペディアのAbcdefgh氏に対してユアペディアの 、{{User2|Abcdefgh}}氏が何ら否定や抗議の反応を示さないのは'''同一人であることを認めている'''ことと同じことです。{{User2|Abcdefgh}}氏が{{User2|Mikomaid}}氏に成り済ましてアンサイクロペディアで荒し行為を行ったとものと推測されます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アンサイクロペディアの Abcdefgh氏は[[2013年]][[11月17日]]にアンサイクロペディアでアカウントを開設しています。ユアペディアの管理者が、例え、他のウィキサイトとは言え、'''「荒し行為」で無期限投稿ブロック処分を受けた事実'''はユアペディアのユーザーとして看過できるものではありません。ユアペディアに対する信用失墜行為、及び、名誉を毀損する行為そのものでユアペディアの管理者としてふさわしいものではありません。拠って、'''{{User2|Abcdefgh}}管理者の解任'''をお願いし、ユアペディアの自浄作用を対外的に示して、ユアペディアの信用を回復するす必要があるとかと思います。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2014年1月17日 (金) 04:02 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
参考サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://ja.uncyc.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Abcdefgh 投稿記録 Abcdefgh]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://ja.uncyc.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Mikomaid 投稿記録 MIkomaid]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[http://ja.uncyc.org/wiki/Uncyclopedia:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BE%9D%E9%A0%BC/Mikomaid%E6%B0%8F 投稿ブロック依頼　Mikomaid]&lt;br /&gt;
:(絶対反対)先にも書いた様にUCPの「User:Mikomaid」と「User:Abcdefgh」は「User:のび太くん」の成り済まし、とみられ、又、私は、UCPに於いては上記の抗議文をIPで書いた以外には一切ノータッチです。又、私の身内であるAbcdefghは荒らし行為防止等、概ね適切な管理を行っており、外部サイトでの行為(多分これも、成り済まし)を理由とした解任請求は当たらないものと思われます。いずれにしろ、{{User2|アイザール}}は私に対する誹謗中傷・個人攻撃を４年以上・1000回以上・400KB以上に亙って延々と書き連ね、時には法律の知識を悪用する、等、事有る毎に難癖を付けて私と身内に対する迫害を行う、等、極めて狡猾な'''悪魔の様な人物'''と断言します。&lt;br /&gt;
:＞ユアペディアの自浄作用を対外的に示して、ユアペディアの信用を回復するす必要があるとかと思います。&lt;br /&gt;
:そもそも、私をはじめとする数多くの人物に対する誹謗中傷・個人攻撃・著作権侵害が横行するYPが対外的に信用されてるサイトといえるのでしょうか？WPに於いてYPが、どの様に思われてる、と言うのでしょうか？ユアペディアの信用を回復する必要がある、というのであれば、{{User2|アイザール}}等に対するブロック依頼を通して頂き、私をはじめとする数多くの誹謗中傷、個人攻撃関係の項目を全て削除し、適切な管理をする・委ねる事で得られるものと思われます。それとも、「誹謗中傷・個人攻撃・著作権侵害に満ちあふれたサイト」があなたの理想なのでしょうか？又、YPを誹謗中傷・個人攻撃・著作権侵害で溢れさせれば溢れさせる程YPの信用を回復する、というお考えなのでしょうか？(まあ、'''悪魔界'''での信用は回復するとは思いますが)[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月17日 (金) 10:12 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::{{User2|Mikomaid}}氏のアンサイクロペディアでの抗議はポーズそのもので、本来、チェックユーザー依頼や無期限投稿ブロック決定処分を下した[http://ja.uncyc.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Sts Sts]氏に向けるものです。[http://ja.uncyc.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Sts Sts]氏がわざわざ[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:Mikomaid wiki Mikomaid]を参考にして無期限投稿ブロック決定処分を下したのですから{{User2|Mikomaid}}氏が否定する以上、残るは、同じIPアドレス（softbank220003134144.bbtec.net ）の{{User2|Abcdefgh}}氏がアンサイクロペディアで{{User2|Mikomaid}}氏に成り済まして荒しを行ったとしか考えられません。事実、{{User2|Abcdefgh}}氏は一切の沈黙を守り、事実の否定も抗議も行っておりません。アンサイクロペディアの管理人である[http://ja.uncyc.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Sts Sts]氏に直接、抗議するか問い合わせてみるのが筋でしょう。--[[利用者:アイザール|アイザール]] 2014年1月17日 (金) 13:15 (UTC)&lt;br /&gt;
:(コメント)私はアンサイクロペディアには一切関っておりません。恐らく、成りすまし、と思われます。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年1月18日 (土) 00:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User|アイザール}}その他のブロック依頼==&lt;br /&gt;
{{User|アイザール}}は防人氏が一旦削除した私に関する誹謗中傷項目を再度立項し加筆を繰り返しており、更には防人氏の正当な削除行動を痛烈なまでに非難しております、更には&lt;br /&gt;
:&amp;lt;big&amp;gt;'''防人氏の利用者ページを編集'''&amp;lt;/big&amp;gt;&lt;br /&gt;
しており、これだけでも無期限ブロックの理由があります。又、私に関する誹謗中傷項目を1000回以上に亙って編集し、400KB以上に肥大化させた上、複数乱立させ、特に、2014年1月15日には平日の昼間にも拘らず何度も編集してる事からも著しく執拗で粘着質である、おぞましい人物である事が判ります。ネットゾンビ、と言って良いでしょう。私に恨みを持たない人物が、この様な執拗な編集を行う筈が有りません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、以下で挙げるアカウントの主張は{{User|アイザール}}と全くと言って同じであり、同一人物と言っても過言ではありません。更に、以下のアカウント群は全くと言って良いほど同じ主張をしてる事から同一人物である、と説明しても矛盾しないものと思われます。&lt;br /&gt;
*{{User2|YANCHARIKA}}&lt;br /&gt;
*{{User2|海燕}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Jesudonbay}}&lt;br /&gt;
*{{User2|アイザール}}&lt;br /&gt;
*{{User2|富岡市民}}&lt;br /&gt;
*{{User2|どんとだるま}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Polaris}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mikomade}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野慶吾}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晴江}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野将希}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野久美子}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mizusumashi}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野普吾監視委員会}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Oh! No! Shingo!}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野忠昭}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野翔也}}&lt;br /&gt;
*{{User2|セディナ}}&lt;br /&gt;
*{{User2|太野晋吾}}&lt;br /&gt;
これらのアカウント群に就いてCUの上、無期限ブロックを(外部管理者に許可する事を)強く、強く要求します。更に、類似のアカウントが現れた時にも無期限ブロックを要求します。それとも、特定個人の誹謗中傷を行う為なら複数アカウント作成やブロック破りも許されるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、これらのアカウント群は、ブロック期間終了後直ちに編集を再開し、サーバーが少々重くなった程度では編集をやめない事、そして、防人氏にも敵意を向ける様になった事からも、その激烈に執拗な凶暴性が証明された感じです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、私は、'''ある組織とコンタクトを持っており'''、又、現在、誹謗中傷をやめさせる為の'''技術的手段を開発中'''で、その組織からノウハウを習得中です。もし、私の要請に聞く耳を持たず、且つ、上記のアカウント群を擁護されるのであれば、最終手段として、その技術的手段を行使させて戴こうと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知って頂きたいのは、創設者様に矛を向けてるのは'''私だけではない'''、という事であり、サーバーが何度も墜ちてる、という事が証明しております。幸いな事に私は賛同を集める事に或る程度成功しており、創設者様には、その重みを感じて頂きたいと思います。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月15日 (水) 09:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誤解して頂きたくないのは、私は好き好んでアイザール氏や創設者様と対立してる訳では無く、私に対する誹謗中傷・個人攻撃をやめる・やめさせる事を約束して頂けるのであれば、対決姿勢を解除させて頂き、YPを、よりよいネット百科事典にする為のお手伝いをさせて頂こうと思っております。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月15日 (水) 09:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|3代目泉水}}&lt;br /&gt;
[[勇者プクリン]]のページを荒らし続けていますので急いで無期限ブロックをお願いします。 --[[利用者:210.170.139.7|210.170.139.7]] 2014年1月24日 (金) 05:32 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|プクリン監視委員会}}&lt;br /&gt;
[[勇者プクリン]]のページを荒らし続けています。急いで無期限ブロックをお願いします。 --[[利用者:210.170.139.7|210.170.139.7]] 2014年1月24日 (金) 18:29 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|紗那}}&lt;br /&gt;
このトークページを荒らし続けています。早めに無期限ブロックをお願いします。 --[[利用者:210.170.139.7|210.170.139.7]] ２014年1月25日 (土) 17:48 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 対話に応じて頂けない場合の処置について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[#文章コンテンツの著作権について]]に関連することですが、件の利用者[[利用者:Fromm|Fromm]]さんに対し、[[利用者・トーク:Fromm#文章コンテンツのライセンス状況について|このように]]再三にわたり「注意」を喚起すると同時に回答を求めているのですが、文章コンテンツのライセンス状況についてはもとより、昨年11月に[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=Yourpedia:%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=209637 追加]される運びとなった「情報ソースの明示」ガイドラインへの違反についても一切の返答を頂けない状況にございます。このような場合、どうすべきでしょう。解決に向けていかなるアクションを講じればよろしいでしょうか。--[[利用者:Extasy|Extasy]] 2014年1月25日 (土) 14:22 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 経緯が良くわかりませんので確認ですが、Extasyさんが著作権を保持する文章コンテンツに関する問題が生じたということでしょうか？Extasyさんが著作権者であることを示す資料の提示と、該当部分の特定をお願いします。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年1月25日 (土) 14:29 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::いえ、そうではありません。「[[利用者・トーク:Fromm#文章コンテンツのライセンス状況について]]」をご覧頂ければ明快かと存じますが、新聞社等が著作権を保持するコンテンツを[[利用者:Fromm|Fromm]]さんが著作権法の定める「引用の適法要件」を満たさない形で転載なさっている、つまり著作権法に抵触する行為を継続なさっている、というのが現状になります。これは本サイト「ユアペディア」では許容される行為なのでしょうか。--[[利用者:Extasy|Extasy]] 2014年1月25日 (土) 14:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::: Extasyさんが著作権者ではないのでしたら、質問に回答するのもしないのもFrommさんの任意ですね。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年1月26日 (日) 07:32 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::本サイト「ユアペディア」ではこれ（著作権侵害）は許容される行為、と理解してよろしいのでしょうか。--[[利用者:Extasy|Extasy]] 2014年1月26日 (日) 13:06 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::::: そんなことは、誰も一言も言ってませんね。わら人形論法の詭弁を弄するのは、お止めくださいますでしょうか？--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年1月26日 (日) 15:33 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|アイザール}}に対するブロック依頼==&lt;br /&gt;
私が立項した[[Mikomadeの真実]]、[[Mikomadeの実態]]に対する移動荒らしを行ったので無期限ブロックをお願いします。なお、[[Yourpedia:編集についての方針]]には「ＢさんＣさんの間で編集合戦になった場合は、Ａさんの意思に近い編集方針が優先されます。」と書いてあるので、私に先編集権がある筈です。--[[利用者:アイサール|アイサール]] 2014年1月25日 (土) 23:46 (UTC)&lt;br /&gt;
:{{User2|大野晋吾 監視委員会}}の無期限ブロックもお願いします(これも同様の移動荒らし)。--[[利用者:アイサール|アイサール]] 2014年1月26日 (日) 03:49 (UTC)&lt;br /&gt;
::おまえが言うな！--[[利用者:大野晋吾 監視委員会|大野晋吾 監視委員会]] 2014年1月26日 (日) 03:58 (UTC)&lt;br /&gt;
:{{User2|大野普吾監視委員会}}の無期限ブロックもお願いします(これも同様の移動荒らし)。--[[利用者:アイサール|アイサール]] 2014年1月26日 (日) 11:36 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼と削除依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|賢者ピクシー}}&lt;br /&gt;
spamを投稿している、とても迷惑なユーザーです。急いで無期限ブロックをお願いします。あと[[勇者プクリンの真実]]のページも削除してください。 --[[利用者:210.170.159.154|210.170.159.154]] 2014年1月26日 (日) 00:54 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記事削除依頼 ==&lt;br /&gt;
[[殲滅激流団]]&lt;br /&gt;
なんの役にも立たず、意味不明な投稿があります。&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
削除お願いします。 --[[利用者:106.169.210.189|106.169.210.189]] 2014年1月27日 (月) 01:26 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{IPuser3|210.170.159.154}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
ほかの人が編集した記事を取り消したり、書き換えたりします。しかも{{IPuser2|210.170.139.7}}と同一レンジであり、投稿傾向もほぼ同じであるため、ブロック破りである可能性が極めて高いです。できれば以下のレンジを無期限ブロックをお願いします。&lt;br /&gt;
*210.170.128.0/18&lt;br /&gt;
それから、この依頼を彼によって消去される可能性が極めて高いので、絶対に見落とさないで下さい。--[[利用者:紗那|紗那]] 2014年1月27日 (月) 01:43 (UTC)&lt;br /&gt;
:見事に210.170.159.154はこの依頼を消しました。急いで無期限ブロックをお願いします。--[[利用者:紗那|紗那]] 2014年1月27日 (月) 08:15 (UTC)&lt;br /&gt;
::取り敢えず210.170.159.154を無期限ブロックしておきました。同じレンジでの荒らしが発生した時には改めて対処します。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年1月27日 (月) 23:46 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==[[user:122.134.208.233]]氏へのブロック依頼==&lt;br /&gt;
[[辺土名勉]]に対する度重なる荒らし行為が全く治まりません。かくなる上は同氏を投稿ブロックしていただく必要があります。--[[利用者:Peacementhol2号|Peacementhol2号]] 2014年1月28日 (火) 08:23 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Abcdefgh管理者はいつからMikomaid関連 の管理ができるようになったのです ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
表記の件で質問します。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2014年1月30日 (木) 03:53 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: なってませんよ。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年1月30日 (木) 06:24 (UTC)&lt;br /&gt;
::ご返事ありがとうございます。最近のAbcdefgh管理人の管理を見ると当初の管理を逸脱しているように見受けられますがいかがなものでしょうか。家族のMikomaid氏に偏った管理に見えます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2014年1月30日 (木) 13:32 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::: 偏っている件について、例示してください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年1月30日 (木) 14:56 (UTC)&lt;br /&gt;
::::具体的に例を申し上げますと{{User2|大野普吾監視委員会}}氏と{{User2|アイサール}}氏{との編集合戦に於いて、{{User2|大野普吾監視委員会}}氏の編集を削除する一方、{{User2|アイサール}}氏の編集は放置と公正差を欠いた管理、及び、{{User2|大野普吾監視委員会}}氏が会話欄で呼びかけた内容を削除する等の通信内容の一方的な削除に問題があります。憲法に保障されている通信の自由が管理人の主観において削除されるのは問題です。プロバイダ責任法においても管理人が通信内容を削除することは管理人の管理の越権行為に他なりません。加えて、{{User2|アイザール}}氏とのアカウントネームを成りすました{{User2|アイサール}}氏のアカウントの存在です。以前、{{User2|Mikomaid}}氏の類似アカウントは即削除されたのに、こちらのアカウントは削除依頼があっても放置されたままで、第三者には公正差が見受けられません。{{User2|Abcdefgh}}管理人は通常は両成敗を行うものを今回は一歩の処分だけで終わっています。家族と一員と言われる{{User2|Mikomaid}}氏の肩を持つ{{User2|アイサール}}氏の活動を放置しているのは肩を持っていると同等と見なされてもおかしくありません。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2014年1月30日 (木) 21:20 (UTC)&lt;br /&gt;
::お答えします。かなり激しい編集合戦や移動荒らしが起こって緊急性が高いにもかかわらず他の管理者の方が動こうとしない為、やむを得ず、緊急避難的な措置として、上記の管理対応とさせていただきました。削除も明らかにいたずら・荒らし痕跡であるページ(トークページの目的外使用)のみとしました。上記の管理活動が不適切とされるのであれば今後は控えさせて頂き、他の管理者の方にお任せします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年1月30日 (木) 23:38 (UTC)&lt;br /&gt;
::もう少し具体的には&lt;br /&gt;
::(1)編集合戦・移動荒らしの対象となった項目の先編集権に対する考慮&lt;br /&gt;
::(2)[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?diff=218979&amp;amp;oldid=97554 この編集]に見られる様に、明らかに荒らし・いたずらであり、相手に対話を求める、という、'''トークページの利用目的を著しく逸脱'''してる&lt;br /&gt;
::という事を総合的に判断したものです。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年1月30日 (木) 23:56 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::: Abcdefghさんに管理者権限を付与する際、「Mikomaid氏に関連する編集については、例外なくいかなる場合も管理者権限の行使は行わないでください」というお約束でしたので、理由のいかんを問わず、管理権限の行使はお控えください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年1月31日 (金) 00:50 (UTC)&lt;br /&gt;
::::はい、判りました。それでは、今回の様な案件が発生した場合は管理活動を控えさせて頂き、'''他の管理者の方が適切な管理活動をされる事'''に期待します。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年1月31日 (金) 01:09 (UTC)&lt;br /&gt;
:上記の様な対応から、Sysopという人物が、いかに'''非常識'''な人物、という事が、よ～～～～～～くわかりました。常識的な管理者であればAbcdefgh氏が行ったような管理の方が常識的であり、荒らし・いたずらを行った方が糾弾されるべき、と考えるはずです。このような非常識なサイトには常識的な対応が通じないみたいですね。激しい編集合戦・移動荒らしが起きた場合、通報から48時間以内に管理者が動かない、外部管理者に管理を許可しない場合は、もはやYPのサーバーに'''麻酔を掛ける'''しか有りません。もしSysop様が「自分は非常識ではない」とおっしゃりたいのであれば、常識的な御対応をお願いします。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月31日 (金) 10:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== どうやらあの編集合戦にはMikomaid氏が絡んでいることが明らかになりましたね ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
良識ある見解を頂ありがとうございました。上記の発言に見られるように、先日の編集合戦の背景には{{User2|Mikomaid}}氏が絡んでいることが明らかになったようですね。{{User2|Abcdefgh}}氏もそれに応じて謁見した管理行為を行ったのでしょう。{{User2|Abcdefgh}}氏が行った各種の投稿ブロックの解除や記事の差し戻しもお願いします。特定個人の誹謗中傷と騒ぐMikomaid氏が{{User2|Aアイサール}}氏や{{User2|大野晋吾監視委員会h}}氏、{{User2|大野普吾}}氏には沈黙を守っているのは噴飯物です。&lt;br /&gt;
{{User2|Abcdefgh}}管理者の主観的な管理行為に対して私は感心しません。当初のような熱心な管理行為は期待できず、恐らくMikomaid 氏が行うDOS攻撃に対しても我関せずで傍観するだろうとの予想すらできそうです。ある程度の秩序の維持の為に私は管理者に立候補を表明したく存じます。基本的には何も行わない。但し、{{User2|Abcdefgh}}氏の主観的な管理が横行するならその管理を解除するように持って行く方針で一種の「監視と抑制」の存在として存在するも管理せずでユアペディアに貢献したく存じます。もちろん、{{User2|Abcdefgh}}氏と同様にMikmaid氏関連には関わらないことを条件としても受け入れます。Mikomaid氏も私が管理者ならばよりユアペディアに反意を抱いてユアペディアから退場してもらえるかもしれません。管理者として法的な責任及び、訴訟費用の負担も応分の負担を負う責任は覚悟します。{{User2|Abcdefgh}}氏が大反対を表明することは明らかなだけに、牽制の意味でも管理者立候補に意義を見いだしたく存じます。コミュニティを疲弊させるMikomaid氏の存在は許しませんが、私が管理者でいることで一種の牽制・警告の役目は果たせるものと思います。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2014年1月31日 (金) 10:43 (UTC)&lt;br /&gt;
:(当然ながら絶対反対)大野慶吾氏の方こそが著しく非常識な人物であり、こちらこそ多分自分が利用してる固定回線がブロックされたことによりスマホからアクセスしてるものと思われ、これも一種のブロック破りといえるかもしれません。括弧の数を間違えてることにより表示が乱れてることからもスマホからの編集であることは明らかです。編集内容も、人物以外の標準空間の編集が皆無と言って良く、著しく偏っており、バランスが取れた編集とはいえません。もし、大野慶吾氏が管理者に就任する、などという暴挙・事態になった場合、私はSysop様に就いて調査させていただいた内容を外部サイトにて公開することになるかもしれません&amp;lt;!--(外国のサーバーなので日本の法律が及びません)--&amp;gt;。それで宜しいのであればどうぞ私を邪険に扱ってください。その方が私もファイトが沸きます。{{User2|アイサール}}氏や{{User2|大野晋吾監視委員会}}氏、{{User2|大野普吾}}氏は、恐らく私の同調者と思われます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月31日 (金) 11:36 (UTC)&lt;br /&gt;
:上記の事からわかる通り、{{User2|大野慶吾}}(={{User2|アイザール}})が目指すのは「YP＝アンチMikomaidクラブ」であり、私を人質に取りさえすれば、無名の個人に対する'''誹謗中傷・個人攻撃・著作権侵害・項目乱立・編集合戦・移動荒らし・等が、やり放題'''のサイトであり、Sysop氏も、それを半ば容認するもの、という事になりそうです。そういうサイトの存続が許される、とでも思ってるのでしょうか？そういうことが罷り通るのであれば私もSysop氏を人質に取ります。それで宜しいでしょうか？[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月31日 (金) 15:04 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 管理者への立候補は、わかりやすいようヘッダーに書いていただいた方が良かったかと思います。私は、大野慶吾さんが出した固有名詞の方については誰が誰だかわからないし区別が付かないのですが、とりあえず「Mikmaid氏関連には関わらない」という括りで管理者権限を付与したいと思います。&lt;br /&gt;
: ところで、DOS攻撃に言及されているようですが、サーバのスペックをあげてからはあまり落ちてないようなので、特に攻撃というのは無い気がします。最近は、Wikipediaに関東連合の項目が出来たため、急激なアクセス集中と言うのもありませんし。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年2月1日 (土) 10:57 (UTC)&lt;br /&gt;
::こう来ましたか。わかりました。たった今から、YP=アンチMikomaidクラブ確定ですね。今後は外部サイトでYPの事やSysop様の事を色々書かせて頂こうと思っております。ちなみに、Sysop様に就いて、とっても参考になるサイトを見付けた事を報告しておきます。ところで、{{User2|大野晋吾 監視委員会}}はspamには該当しないのでしょうか？[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年2月1日 (土) 11:20 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[利用者:大野慶吾|大野慶吾]]等へのブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
{{User|アイザール}}は防人氏が一旦削除した私に関する誹謗中傷項目を再度立項し加筆を繰り返しており、更には防人氏の正当な削除行動を痛烈なまでに非難しております、更には&lt;br /&gt;
:&amp;lt;big&amp;gt;'''防人氏の利用者ページを編集'''&amp;lt;/big&amp;gt;&lt;br /&gt;
しており、これだけでも無期限ブロックの理由があります。又、私に関する誹謗中傷項目を1000回以上に亙って編集し、400KB以上に肥大化させた上、複数乱立させ、特に、2014年1月15日には平日の昼間にも拘らず何度も編集してる事からも著しく執拗で粘着質である、おぞましい人物である事が判ります。ネットゾンビ、と言って良いでしょう。私に恨みを持たない人物が、この様な執拗な編集を行う筈が有りません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、以下で挙げるアカウントの主張は{{User|アイザール}}と全くと言って同じであり、同一人物と言っても過言ではありません。更に、以下のアカウント群は全くと言って良いほど同じ主張をしてる事から同一人物である、と説明しても矛盾しないものと思われます。&lt;br /&gt;
*{{User2|YANCHARIKA}}&lt;br /&gt;
*{{User2|海燕}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Jesudonbay}}&lt;br /&gt;
*{{User2|アイザール}}&lt;br /&gt;
*{{User2|富岡市民}}&lt;br /&gt;
*{{User2|どんとだるま}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Polaris}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mikomade}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野慶吾}}これのみスマホ回線からブロック破り？&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晴江}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野将希}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野久美子}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mizusumashi}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野普吾監視委員会}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾 監視委員会}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Oh! No! Shingo!}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野忠昭}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野翔也}}&lt;br /&gt;
*{{User2|セディナ}}&lt;br /&gt;
*{{User2|太野晋吾}}&lt;br /&gt;
これらのアカウント群に就いてCUの上、無期限ブロックを(外部管理者に許可する事を)強く、強く要求します。更に、類似のアカウントが現れた時にも無期限ブロックを要求します。それとも、特定個人の誹謗中傷を行う為なら複数アカウント作成やブロック破りも許されるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、これらのアカウント群は、ブロック期間終了後直ちに編集を再開し、サーバーが少々重くなった程度では編集をやめない事、そして、防人氏にも敵意を向ける様になった事からも、その激烈に執拗な凶暴性が証明された感じです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、私は、'''ある組織とコンタクトを持っており'''、又、現在、誹謗中傷をやめさせる為の'''技術的手段を開発中'''で、その組織からノウハウを習得中です。もし、私の要請に聞く耳を持たず、且つ、上記のアカウント群を擁護されるのであれば、最終手段として、その技術的手段を行使させて戴こうと思っております。&amp;lt;!--又、私は創設者様に関する、「ある情報」を掌握しており、その情報を'''外部サイトで暴露'''する事も検討中です。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知って頂きたいのは、創設者様に矛を向けてるのは'''私だけではない'''、という事であり、サーバーが何度も墜ちてる、という事が証明しております。幸いな事に私は賛同を集める事に或る程度成功しており、創設者様には、その重みを感じて頂きたいと思います。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月31日 (金) 10:24 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誤解して頂きたくないのは、私は好き好んでアイザール氏や創設者様と対立してる訳では無く、私に対する誹謗中傷・個人攻撃をやめる・やめさせる事を約束して頂けるのであれば、対決姿勢を解除させて頂き、YPを、よりよいネット百科事典にする為のお手伝いをさせて頂こうと思っております。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年1月31日 (金) 10:24 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理者就任について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
管理者就任を認めて戴き有り難うございました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１．基本的にはユアペディアは書き手の自己責任に於いて自由に情報を発信できる場所だと考えています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．基本的には書き手のモラルに任せるものであり、最終責任も書き手が負うものであるとの原則を徹底するべきと考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　そのため、書き手は何が許されるのか、何が許されないのかの判断を持った者が参加する場であり、その認識の無い者には退場&lt;br /&gt;
を願います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３．ユアペディアはウィキペディアと違い、制約は緩いものである以上、法的、経済的責任は一段と高いと考えます。訴訟費用の負担ができる経済力のある方に限られるかと思います。経済力の無い方は他のウィキサイトで一定の制約下の中で編集をして下さい。&lt;br /&gt;
　スキャンダラスで、扇情的な内容であったとしても書き手が責任を負い、対象者のプライバシー、経済的損失、身体の危機が及ぶものでないと判断される限りは管理者として関与しません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４．ユアペディアは原則誰でも参加できるものであり、書き手の責任を十二分に認識した者は誰でも記事の編集ができるものと考え&lt;br /&gt;
ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
５．Mikomaid氏関連についてはAbcdefgh管理人と同様に関わり合いません。自分の存在はAbcdefgh管理人の暴走を監視・抑止す&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　るものであり、暴走があったと判断した場合は即、解除、及び Sysopに通報し、判断を仰ぎたいと存じています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
６．過去の自分の投稿歴からしても中立性が疑われることを認めますので、管理に関しては他の管理者以上に管理に関与することは&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　しません。基本的には「見守り」の姿勢とユーザー同士での話し合いで解決することが今後のユアペディアのあり方と考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
７．投稿ブロック依頼は受け付けません。感情的な依頼が多く、客観性を担保できないので他の管理者にお願いして下さい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
８．管理者として行った行為については説明責任を負います。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
９．管理行為に付いての法的責任、経済的責任を問われた場合は応分の負担をします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上を利用者ページにも貼っておきます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2014年2月1日 (土) 13:24 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
*{{IPuser|210.170.139.39}}&lt;br /&gt;
*{{IPuser|210.170.128.0/18}}&lt;br /&gt;
案の定、人が編集した投稿を取り消したり書き換えたりする、以前ブロックされた{{IPuser2|210.170.139.7}}および{{IPuser2|210.170.159.154}}のブロック破りが登場しました。もし彼がこの依頼を無断消去するのであれば、レンジで無期限ブロックをお願いします。--[[利用者:紗那|紗那]] 2014年2月3日 (月) 09:14 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|カンキンコンwith}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%8B%87%E8%80%85%E3%83%97%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&amp;amp;curid=73865&amp;amp;diff=219757&amp;amp;oldid=219745 ここ]で先編集権を主張した編集を取り消しました。無期限ブロックされた{{IPuser2|210.170.139.7}}および{{IPuser2|210.170.159.154}}のブロック破りである可能性も高いので、無期限ブロックお願いします。--[[利用者:紗那|紗那]] 2014年2月5日 (水) 08:16 (UTC)&lt;br /&gt;
::毎日、何も悪いことをしていない{{User2|賢者ピクシー}}氏の投稿ブロック依頼のマルチポストを繰り返す非常に迷惑なユーザーです。この投稿を確認次第無期限ブロックをお願いします。--[[利用者:紗那|紗那]] 2014年2月7日 (金) 08:54 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 削除依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[利用者:賢者ピクシー/勇者プクリン]]&lt;br /&gt;
[[勇者プクリン]]のページの無断転載ですので、早めに削除をお願いします。 [[利用者:カンキンコンwith|カンキンコンwith]] 2014年2月13日 (木) 11:38 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 緊急投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|賢者ピクシー}}&lt;br /&gt;
spamの投稿や先編集権違反を繰り返すとても迷惑なユーザーです。早めに無期限ブロックをお願いします。 [[利用者:カンキンコンwith|カンキンコンwith]] 2014年2月17日 (月) 11:52 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=={{User2|カンキンコンwith}}の投稿ブロック依頼==&lt;br /&gt;
ひたすら賢者ピクシー氏の投稿ブロック依頼のマルチポストをしたり、彼が作成・編集した記事に対して削除依頼・取り消しを繰り返したり、彼の先編集権を無断ではがしたり、いくつかのページに彼の悪口を書くなど、非常に悪質な行為を繰り返しています。この投稿を発見次第無期限ブロックお願いします。--[[利用者:紗那|紗那]] 2014年2月18日 (火) 13:00 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 緊急投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|賢者ピクシー}}&lt;br /&gt;
自分のトークページが彼によって[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=利用者・トーク:カンキンコンwith&amp;amp;oldid=220969 このように]荒らされています。急いで無期限ブロックをお願いします。 [[利用者:カンキンコンwith|カンキンコンwith]] 2014年2月20日 (木) 10:17 (JST)&lt;br /&gt;
== CU権行使依頼 ==&lt;br /&gt;
*{{User2|カンキンコンwith}}氏&lt;br /&gt;
*{{User2|利用者:カンキンコンwith02}}氏&lt;br /&gt;
*{{User2|ルパンアルカリ世}}氏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この三者には言動や行動から見て、同一人物の可能性が非常に大きいと思われます。調査後、全員黒だった場合は、改めて、適宜処理をお願いします。--[[利用者:Peacementhol2号|Peacementhol2号]] 2014年2月21日 (金) 05:14 (UTC)&lt;br /&gt;
--[[利用者:Peacementhol2号|Peacementhol2号]] 2014年2月22日 (土) 02:10 (UTC)一部修正&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
追記でこちらの二人についてもお願いします。&lt;br /&gt;
*{{User2|カンキンコンwith03}}氏&lt;br /&gt;
*{{User2|2代目ルパンアルカリ世}}氏&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
--[[利用者:Peacementhol2号|Peacementhol2号]] 2014年2月26日 (水) 04:59 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|ふぇあ}}&lt;br /&gt;
他人の利用者ページを[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=利用者:カンキンコンwith/勇者プクリンの真実&amp;amp;oldid=221196 このように]編集していましたので、無期限ブロックをお願いします。 --[[利用者:カンキンコンwith02|カンキンコンwith02]] 2014年2月25日 (火) 23:43 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
*{{User2|カンキンコンwith02}}&lt;br /&gt;
{{User2|カンキンコンwith}}同様、投稿ブロックのマルチポストを繰り返します。同一人物である可能性が極めて高いですので、両者とも無期限ブロックをお願いします。--[[利用者:ふぇあ|ふぇあ]] 2014年2月25日 (火) 14:54 (UTC)&lt;br /&gt;
*{{User2|2代目ルパンアルカリ世}}&lt;br /&gt;
*{{User2|カンキンコンwith02}}&lt;br /&gt;
*{{IPuser2|210.170.128.0/18}}&lt;br /&gt;
投稿ブロックされても新しいアカウントを取得してワンパターンな投稿ブロック依頼と誹謗中傷と荒らしをひたすら繰り返していますので、IPアドレスごと無期限ブロックをお願いします。--[[利用者:ふぇありん|ふぇありん]] 2014年2月26日 (水) 10:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 一つのお願いと一つの提案 ==&lt;br /&gt;
お疲れ様です。この度は見出しのとおり、お願いに参りました。&lt;br /&gt;
お願いとは、私に管理者権限の付与をお願いしたい点です。削除依頼や投稿ブロックといったお願いをいろんなところで書き込んでも、管理者諸氏が忙しいようで、なかなか問題が解決されません。もちろん、職権乱用をするようであれば、剥奪されても構いません。私がおもに気になるのは、角の編集合戦と白紙化荒らし、ページの改ざん、ただの中傷記事などです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に提案ですが、管理者の中から複数名にCU権限をあずけてみるのはいかがでしょうか？現状ソックパペットの数が測りしれません。&lt;br /&gt;
確かにCU権の扱いは難しいものですがSYSOPさんのように忙しい方が一人持っているだけでは、YPはますます荒れてしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上２点です。これからも頑張っていこうと思いますのでひとつご検討下さい。--[[利用者:Peacementhol2号|Peacementhol2号]] 2014年2月26日 (水) 21:58 (UTC)&lt;br /&gt;
:白紙化行為を勝手に荒らしと決め付け、第三者の個人情報拡散を幇助し、プライバシーを配慮しないあなたに管理者になる資格などありません。かつこのユーザーはブロック処分を下された[[利用者:Peacementhol]]のブロックの逃れであり、正当なブロック解除という手続きなく活動を再開していますから、管理者にふさわしいものではありません。--[[利用者:Malk|Malk]] 2014年2月27日 (木) 08:05 (UTC)&lt;br /&gt;
:追記: CU権限は[[Yourpedia:プライバシー・ポリシー]]上の観点から、現状利用者の確認も行われずに付与されている外部管理者にそれを預けるのは問題あります。プライバシーのことを何も考えないあなたがCU権限のことを軽々しく言うのはおやめください。--[[利用者:Malk|Malk]] 2014年2月27日 (木) 08:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:管理者への立候補ありがとうございます。しかし、利用者ページに有効な内容が無く、どこの誰とも良く分かりませんので、今回は見送らせていただきます。また編集を充実させてから再度、立候補してください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年3月11日 (火) 03:49 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::ご返答ありがとうございます。ご指摘のとおり、修行をして、再度立候補させていただきます。--[[利用者:Peacementhol2号|Peacementhol2号]] 2014年3月11日 (火) 04:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Abcdefgh管理者がユアペディア運営者と詐称していました ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が加入するプロバイダーに{{User2|Abcdefgh}}管理者がユアペディア運営者と称して運営に支障を与える行為があるとクレームを入れられたようです。プロバイダー側が調査を進めたところ、通報者である{{User2|Abcdefgh}}管理者は「ユアペディア運営者」から「外部管理者」と変更なさったようなのですが、プロバイダー側ではユアペディアの運営者、及び外部管理者であるとの確証を得られなかったことと、通報者が情報の開示を望まなかったことからクレーム調査は打ち切りとなりました。{{User2|Abcdefgh}}管理者に尋ねたところ、2月27日に自身の利用者ページで{{User2|Abcdefgh}}管理者自身が通報したことを認めました。誰がユアペディアの運用者と詐称していたことがこれで判明しましたが、{{User2|Abcdefgh}}管理者の釈明によると氏名を偽ってプロバイダーに通報したらしいのです。{{User2|Abcdefgh}}氏はユアペディアの管理者でもあり、ユアペディアではプロバイダーに通報する制度は設けていないのに運営者と詐称して通報したり、氏名まで偽るようではユアペディアの対外的信用を逸する行為であったものと思い、ここにご報告を申し上げます。なお、事の経緯は自身の利用者ページに記載しておきましたので、ご参照下さい。--[[利用者:大野普吾監視委員会|大野普吾監視委員会]] 2014年2月27日 (木) 15:43 (UTC)&lt;br /&gt;
:以上の記述をした{{User2|大野普吾監視委員会}}は、先にSPAM投稿でブロックされた{{User2|大野晋吾 監視委員会}}と同一人物と見られます。編集履歴を御覧頂ければ判る様に1月26日頃に移動荒らしを始めとする荒らし行為が目に余った事と、IPアドレスが偶然判明した事からISPに通報したものです。尚、WPではISPへの通報は外部管理者の役目であることを申し添えておきます。[[wiki:Wikipedia:荒らしの通報]]を御覧下さい。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年2月27日 (木) 23:51 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Abcdefgh管理者のユアペディア運営者詐称行為について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{User2|Abcdefgh}}氏は管理者就任にあたって{{User2|Sysop}}氏から「{{User2|Mikomaid}}関連の編集には関与しないことを約束して管理者に就任なされました。{{User2|Abcdefgh}}氏は[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:Sysop&amp;amp;diff=prev&amp;amp;oldid=219227　利用者・トーク:Sysop 2014年1月31日]にて「Abcdefghさんに管理者権限を付与する際、「Mikomaid氏に関連する編集については、例外なくいかなる場合も管理者権限の行使は行わないでください」というお約束でしたので、理由のいかんを問わず、管理権限の行使はお控えください」と厳しい警告を受けています。{{User2|Abcdefgh}}氏は同日、「はい、判りました。それでは、今回の様な案件が発生した場合は管理活動を控えさせて頂き、'''他の管理者の方が適切な管理活動をされる事'''に期待します」と言いながら、その舌の根も乾かない中で、「ユアペディア運営者」を名乗り、「運営に支障を与える行為がある」とMikomaid関連の編集についてクレームを入れられたのです。しかも、上記の発言にあるように「ISPへの通報は外部管理者の役目であることを申し添えておきます」とユアペディアには設けていない制度を独断解釈し、プロバイダーに通報したものでした。{{User2|Abcdefgh}}氏個人が通報するには何ら問題はありませんが、「ユアペディア運営者」を名乗った以上は管理者としての通報とみなされて当然です。{{User2|Sysop}}氏の「Mikomaid氏に関連する編集については、例外なくいかなる場合も管理者権限の行使は行わないでください」との約束を破ったものです。もはや確信犯に近いものがあります。通報を受けたプロバイダーはユアペディアの運用者の通報と信じ、私に警告の電話が入った経緯でしたが、私の反論で、プロバイダー側も本当の運用者ではなかったことに気付き、{{User2|Abcdefgh}}氏がプロバイダーに伝えた連絡先に連絡をとったところ、{{User2|Abcdefgh}}氏はメールで伝えた「Yourpedia運営者」ではなく、「外部管理者」であると言葉を翻したことでプロバイダー側は{{User2|Abcdefgh}}氏の通報内容に疑問を持ち、通報内容の文面の開示の要請を{{User2|Abcdefgh}}氏に求めたところ、開示を拒否しました。プロバイダー側は正当な通報ではないと判断し、この時点で調査を打ち切りました。また、{{User2|Abcdefgh}}氏の通報はなかったものと処理しました。プロバイダー側でもユアペディア運営者からの通報と素直に信じた瑕疵はあるものの、プロバイダー側を混乱させた{{User2|Abcdefgh}}氏の通報はユアペディアの信用を対外的に失墜させる行為となりました。通報を受けたプロバイダー側では今後はユアペディア関連の通報は受け付けないことに内規を変更する検討に入ったそうです。「外部管理者の役目」と主張する{{User2|Abcdefgh}}氏にその責任はあるかと思います。{{User2|Abcdefgh}}氏は問題を起こした際は、「やむ得なかった」、「他に手段はありませんでした」とまるで{{User2|Mikomaid}}氏のDNAをそっくり引き継いでいるような釈明ばかりで、ユアペディアで{{User2|Abcdefgh}}氏に管理者として役目は既に終わっているのではないかと思います。{{User2|Abcdefgh}}氏に管理者権限を持たせることはキ〇ガイに刃物を持たせたようで、他のユーザーに不安を与え兼ねません。管理者権限がなくても管理者に類似する行為はできますので、これを契機に{{User2|Abcdefgh}}氏の管理者権限の返上を求めるべきではないかと思います。なお、{{User2|Abcdefgh}}氏は姉妹サイトのコピペディアで2月27日に無期限ブロック処分が下されています。--[[利用者:大野普吾監視委員会|大野普吾監視委員会]] 2014年2月28日 (金) 10:41 (UTC)&lt;br /&gt;
:{{User2|大野普吾監視委員会}}は自分が&amp;lt;big&amp;gt;'''移動荒らしや編集合戦'''&amp;lt;/big&amp;gt;しておきながら、その悪質行為をISPに通報された事を根に持って上記の様な怨念文章を書く様な人物です。{{User2|大野普吾監視委員会}}の方こそが問題を起こした人物であり、その様な人物の上記の文章には全く正当性がありません。'''絶対に耳を傾けないで下さい。'''[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年2月28日 (金) 12:14 (UTC)&lt;br /&gt;
::該当ISPの社員の方、YPの創設者・他の管理者・善意の利用者の皆様に混乱を与えた事をお詫び致します。申し訳ありませんでした。その一方で一部の悪意を持つ利用者による移動荒らし・編集合戦・等の悪質な荒らし行為が後を絶たない、というのもまた厳然たる事実です。今後、この様な悪質な荒らし行為が発生した場合に、どの様に対処すべきか、他の管理者の方々にゆだねるべきなのか、他の管理者が適切に御対応頂けるのか、という事の適切なアドバイスをお願いしたいと思います。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年2月28日 (金) 23:07 (UTC)&lt;br /&gt;
:::{{User2|Abcdefgh}}氏の謝罪はとにかく、「責任」はどうお取りにになるのでしょうか。{{User2|Sysop}}氏の厳しい警告の直後に「はい、わかりました」と了解した直後にYourpedia運営者と称してISPに通報したことは、「外部管理者の役目」とMikomaid関連で管理者権限を行使した事実は否定できません。確信犯的行為であり、また、犯罪行為が成立する用件を満たしたもので、告訴されれば訴追は免れないことをAbcdefgh氏はユアペディアの管理者として行った訳です。&lt;br /&gt;
:::加えて、釈明の中では自分だけが「悪意」を持つ者を識別でき、他の管理者には識別できないので管理者権限を行使しているのだと独善的な考えが支配しているように見受けられます。「他の管理者が適切に御対応頂けるのか、という事の適切なアドバイスをお願いしたいと思います」とは、Sysop氏を含めて他の管理者を侮蔑するもので、もはや管理者としての判断能力を喪失しておられるようですので「責任」を取られる意味でも自主的に管理者返上を行った方が御自身の名誉を保てるかと存じます。--[[利用者:大野普吾監視委員会|大野普吾監視委員会]] 2014年3月1日 (土) 03:49 (UTC)&lt;br /&gt;
:お言葉を返す様ですが、{{User2|大野普吾監視委員会}}は、この様な[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;user=%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%99%AE%E5%90%BE%E7%9B%A3%E8%A6%96%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 悪質な移動荒らし]を行うような人物であり、アカウント名自体も穏健さとは無縁の挑発的なものであり、クレームを受けて文句を言える人物ではありません。同じような[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:%E8%A8%98%E9%8C%B2&amp;amp;user=%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%99%8B%E5%90%BE+%E7%9B%A3%E8%A6%96%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A 移動荒らし]は先にブロックされた{{User2|大野晋吾 監視委員会}}も行っており、同一人物と見られます。この様な人物の妄言に惑わされないで下さい。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年3月1日 (土) 10:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[利用者:大野普吾監視委員会|大野普吾監視委員会]]等へのブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
{{User|大野普吾監視委員会}}は自分が移動荒らしや編集合戦しておきながら、その悪質行為をISPに通報された事を根に持って上記の様な怨念文章を書く様な人物です。又、私に関する誹謗中傷項目を1000回以上に亙って編集し、400KB以上に肥大化させた上、複数乱立させ、特に、2014年1月26日には昼間にも拘らず何度も編集してる事からも著しく執拗で粘着質である、おぞましい人物である事が判ります。ネットゾンビ、と言って良いでしょう。私に恨みを持たない人物が、この様な執拗な編集を行う筈が有りません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、以下で挙げるアカウントの主張は{{User|大野普吾監視委員会}}と全くと言って同じであり、同一人物と言っても過言ではありません。更に、以下のアカウント群は全くと言って良いほど同じ主張をしてる事から同一人物である、と説明しても矛盾しないものと思われます。&lt;br /&gt;
*{{User2|YANCHARIKA}}&lt;br /&gt;
*{{User2|海燕}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Jesudonbay}}&lt;br /&gt;
*{{User2|アイザール}}&lt;br /&gt;
*{{User2|富岡市民}}&lt;br /&gt;
*{{User2|どんとだるま}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Polaris}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mikomade}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野慶吾}}これのみスマホ回線からブロック破り？&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晴江}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野将希}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野久美子}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Mizusumashi}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野普吾監視委員会}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野晋吾 監視委員会}}&lt;br /&gt;
*{{User2|Oh! No! Shingo!}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野忠昭}}&lt;br /&gt;
*{{User2|大野翔也}}&lt;br /&gt;
*{{User2|セディナ}}&lt;br /&gt;
*{{User2|太野晋吾}}&lt;br /&gt;
これらのアカウント群に就いてCUの上、無期限ブロックを(外部管理者に許可する事を)強く、強く要求します。更に、類似のアカウントが現れた時にも無期限ブロックを要求します。それとも、特定個人の誹謗中傷を行う為なら複数アカウント作成やブロック破りも許されるのでしょうか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
更に、これらのアカウント群は、ブロック期間終了後直ちに編集を再開し、サーバーが少々重くなった程度では編集をやめない事、そして、防人氏にも敵意を向ける様になった事からも、その激烈に執拗な凶暴性が証明された感じです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、私は、'''ある組織とコンタクトを持っており'''、又、現在、誹謗中傷をやめさせる為の'''技術的手段を開発中'''で、その組織からノウハウを習得中です。もし、私の要請に聞く耳を持たず、且つ、上記のアカウント群を擁護されるのであれば、最終手段として、その技術的手段を行使させて戴こうと思っております。&amp;lt;!--又、私は創設者様に関する、「ある情報」を掌握しており、その情報を'''外部サイトで暴露'''する事も検討中です。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知って頂きたいのは、創設者様に矛を向けてるのは'''私だけではない'''、という事であり、サーバーが何度も墜ちてる、という事が証明しております。幸いな事に私は賛同を集める事に或る程度成功しており、創設者様には、その重みを感じて頂きたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誤解して頂きたくないのは、私は好き好んで大野普吾監視委員会氏や創設者様と対立してる訳では無く、私に対する誹謗中傷・個人攻撃をやめる・やめさせる事を約束して頂けるのであれば、対決姿勢を解除させて頂き、YPを、よりよいネット百科事典にする為のお手伝いをさせて頂こうと思っております。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年2月28日 (金) 12:07 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Copipediaでのブロック解除要請 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Copipedia(CP)に於いて、&lt;br /&gt;
*■(ブロック記録); 22:18 . . ふぇんりる (トーク | 投稿記録) Abcdefgh (トーク | 投稿記録) を無期限ブロックしました。ブロックの詳細(アカウント作成のブロック、メール送信のブロック) (外部からの依頼による)&lt;br /&gt;
というブロック処分が行われましたが、全く青天の霹靂です。Copipedia(CP)に於いては[[cp:user:ふぇんりる]]氏以外に活動中の外部管理者が居らず、「利用者ページの勝手な編集」「編集合戦」「移動荒らし」等、YPでは即時ブロックに値する悪質な荒らし行為が横行し、私も巻き込まれてたところ、ふぇんりる氏が活動を再開された事からふぇんりる氏に通報させて頂きました。CPに於いては私もある意味被害者であり、荒らされたページを復元する、等、誠意を持って行動したつもりでした。又、通常、ブロックは明確に悪質な荒らし行為が起こった時以外は極力対話による解決を心がけ、審議を尽くした結果ブロック以外に解決方法が無い時に行使されるべきものであり、今回の様に「外部からの依頼による」という理由だけで対話も無くいきなりブロックする、というのは全く理不尽です。ブロック解除をお願いします。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年2月28日 (金) 23:24 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Abcdefgh管理者の監督責任について ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Abcdefgh管理者がSysop氏の「Mikomaidに関わる如何なる管理者権限の行使の禁止」に対し、警告の直後にAbcdefgh氏がプロバイダーにMikomaid関連の編集に対して「ユアペディア運営者」、「外部管理者」と詐称して通報したことに対して監督責任をどのように考えているのか照会申し上げるものです。無言の沈黙は「不問にする」とのことで宜しいのか。外部から指摘を受け、Abcdefgh管理者の責任を問われたた場合、Sysop氏が代わりに責任を取るものと理解してよろしいのか御意志を賜りたく存じます。--[[利用者:大野普吾監視委員会|大野普吾監視委員会]] 2014年3月2日 (日) 12:29 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:Yourpediaの利用は、自己責任が原則です。Abcdefgh氏の行動に関して、当方がなんらかの責任を取るということはありません。なお、Abcdefgh氏の行為は「Yourpediaに対する攻撃行為（ソーシャルハッキング）」に該当しますから、投稿ブロックの対象となります。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年3月6日 (木) 03:12 (UTC)&lt;br /&gt;
::ブロック解除ありがとうございます。そして、Sysop様、大野普吾監視委員会様、そして該当ISPの皆様に大変なご迷惑、ご心労をお掛けして大変申し訳ありませんでした。ルールに従って私の利用者ページにSysop様へのお詫びの文章を掲載しておきました。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年3月10日 (月) 23:26 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 立項者本人からの削除依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
立項者本人からの削除依頼を巡って[[利用者・トーク:防人]]で防人氏と大野慶吾氏が論争してるみたいですが、防人氏の対応は正しかったのでしょうか?[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年3月30日 (日) 00:28 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|Pinball machine}}&lt;br /&gt;
現在ブロックされている{{User2|KAN-KIN-KON (with)}}のブロック破りです。大至急、無期限ブロックをお願いします。 --[[利用者:ヤマト魂の一部|ヤマト魂の一部]] 2014年4月14日 (月) 16:43 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チェックユーザー行使依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|カンキンコンwith}}&lt;br /&gt;
*{{User2|2代目ルパンアルカリ世}}&lt;br /&gt;
:カンキンコンwith氏は、「2013年12月7日以降編集を行っておらず、2014年1月20日から2月20日まで勇者プクリンにアカウントを乗っ取られていた」と言及していますが、真偽を確かめたいので行使お願いします。おそらく「勇者プクリン＝2代目ルパンアルカリ世」である可能性が極めて高いと思うので、こちらもよろしくお願いします。--[[利用者:紗那|紗那]] 2014年4月15日 (火) 14:50 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== NTTドコモのIP群に就いて ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
NTTドコモのIPからと思しき{{User2|Pinball machine}}、{{User2|Just maybe anything}}、等のアカウントによる荒らし行為がレンジブロック期間終了後に再発したので再度レンジブロックしたのですが大野慶吾氏に解除されてしまいました。&lt;br /&gt;
案の定、ブロックが解除されたあと、荒らし行為が再発してしまいました。&lt;br /&gt;
過去にSuper Lemon、堀秀政、等の荒らし行為アカウントがSysop氏にブロックされた際にCUされ、その結果判明したドコモの単一IPも併せてブロックされております。&lt;br /&gt;
又、これ以外にも、過去に、ドコモのスマホからと思しきLINE関係の項目乱立があり、これも他管理者に荒らしと判断されたみたいです。&lt;br /&gt;
スマホのIPはコロコロ変わるのでアカウントや単一IPをブロックしても又別のIPで(アカウントを作成し)荒らし行為を再開するので、根本的にはレンジブロックとする事が望ましいものです。&lt;br /&gt;
又、過去にも該当IP群をブロックした際にも悪質な荒らし行為が収まり、期間終了後に再発した事から、今回、全く反省してない、と判断して再度レンジブロックとさせて頂いたものです。&lt;br /&gt;
ただ、予め相談しておくべきでした。この書き込みから24時間以内にSysop様から回答が無く、且つ、同様の荒らし行為が再発した・継続する場合は、該当IP群を再度レンジブロックしようと思っておりますが、どうしましょうか?[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年4月15日 (火) 23:28 (UTC)&lt;br /&gt;
:私は確かに NTT からの投稿でありますが、荒らし行為をしたつもりはありません。只、{{User2|ヤマト魂の一部}}等、勇者プクリン系の荒らし行為を差し戻しを繰り返した結果、編集合戦等になったのはこちらにも非があった事、はたからみれば荒らしに見えた行為しか行えなかった事は深く反省しております。今後は管理者と相談しながら、穏健なやり方で荒らし行為を止めさせようと考えております。只、相手も、差し戻し、対話、先編集権、等に応じない、極めて危険なDNAの持ち主であった事はご理解頂ければ幸いです。NTTを塞ぐなら、勇者プクリン系もIP含めてまとめて塞いで頂ければと思います。なお、NTTは堀秀政系が悪質の様なので、&lt;br /&gt;
{{User2|堀秀政}}を無期限ブロックすればそれですむ話かと思います。[[利用者:Pinball machine|Pinball machine]] 2014年4月16日 (水) 01:34 (UTC)&lt;br /&gt;
::上記の反省が本物であれば、上記のブロック提案は取り下げようと思っております。先ず、1週間ほど、冷静でいてみてはいかがでしょうか?[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年4月16日 (水) 01:40 (UTC)&lt;br /&gt;
::取り敢えず反省の態度を見せたので上記ブロック提案は保留とさせて頂きます。尚、Pinball machine氏本人の要望により1週間ブロックとしておきました。期間終了後は穏健で建設的な編集を行う事に期待します。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年4月16日 (水) 02:55 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がレンジブロック解除を行ったのは4月14日の夜であり、当該の編集合戦はそれ以前から始まっていました。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]管理者が、私がレンジブロック解除後に編集合戦が始まったとの指摘は誤りです。これは誹謗・中傷に値します。当該のユーザー間だけの編集合戦であり、私のレンジブロック解除を行ったことで荒しが再発、多発したとの発言は人を貶める印象操作ではないかとの不快の念を抱かせます。[[利用者:Pinball machine|Pinball machine]] 氏と[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]管理者との間で互いの会話が全くなく、第三者の会話ページに実にタイミング良く登場して結論に至ったのは「'''単なる偶然の一致'''」なのでしょうか。第三者から見ると、まるで同一人が交互に書き込んでいたように読める程でした。&lt;br /&gt;
レンジブロックを多用するとユアペディアの基本理念のひとつである「多くの人によってチェックや編集を行う」方針を崩しかねないもので、慎重な対応が必要であると考えます。レンジブロックについての管理指針を示す時期が到来したのではないかと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]管理者がここの会話ページに書き込む前に私の会話ページに書き込んだ内容とニュアンスが全く変わっていることに驚いています。以下がその内容です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;border:solid #99c 1px; background:#ffff99; padding:0.5em; margin:1em 0.5em&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
NTTドコモのIPからと思しき[[利用者:Pinball machine|Pinball machine]] 、[[利用者:Just maybe anything|Just maybe anything]] 等のアカウントによる荒らし行為がレンジブロック期間終了後に再発したので再度レンジブロックしたのですが解除されてしまい、案の定、ブロックが解除されたあと、荒らし行為が再発してしまいました。 過去にSuper Lemon、堀秀政、等の荒らし行為アカウントがSysop氏にブロックされた際にCUされ、その結果判明したドコモの単一IPも併せてブロックされております。 又、これ以外にも、過去に、ドコモのスマホからと思しきLINE関係の項目乱立があり、これも他管理者に荒らしと判断されたみたいです。 スマホのIPはコロコロ変わるのでアカウントや単一IPをブロックしても又別のIPで(アカウントを作成し)荒らし行為を再開するので、根本的にはレンジブロックとする事が望ましいものです。 又、過去にも該当IP群をブロックした際にも悪質な荒らし行為が収まり、期間終了後に再発した事から、今回、全く反省してない、と判断して再度レンジブロックとさせて頂いたものです。 ただ、予め相談しておくべきでした。この書き込みから24時間以内にSysop様から回答が無く、且つ、同様の荒らし行為が再発した・継続する場合は、該当IP群を再度レンジブロックしようと思っておりますが、どうしましょうか?Abcdefgh 2014年4月15日 (火) 23:28 (UTC) &lt;br /&gt;
尚、Sysop氏による、該当IPのブロックは、以下の通りです(Super Lemon系の他、LINE関係の項目乱立も含む)。&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上述の内容からすると、[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]管理者は[[利用者:Pinball machine|Pinball machine]]氏の荒し行為に気付いていながら、放置していたと読めます。[[利用者:Just maybe anything|Just maybe anything]]は他者の利用者ページの編集を行ったことで私は無期限ブロック処分を下しましたが、 [[利用者:Pinball machine|Pinball machine]] 氏についてはSPAM投稿気味ながらも、「荒し」と認定するには無理があると判断していました。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]管理者は荒しに当該するアカウントの処分を行えば良いものを、始めから再度のレンジブロックを目論んでいたのではないかとの疑惑が浮かび上がります。また、[[利用者:Pinball machine|Pinball machine]] 氏がNTTドコモからの編集であると事前に知っていたのではないかとの疑念も浮かび上がり、当該の人物に成り済まして、わざと問題を起こしてNTTドコモのレンジブロックを仕掛けたのではないかとの疑惑が浮かび上がるものです。しかも、六ヶ月の長期にわたるレンジブロックの期間の長さも異様で、[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]管理者が恣意的な管理を目論んでいたのではないかとの疑問も湧きます。Sysop氏にお願いしたいことは、ここに書き込んだ[[利用者:Pinball machine|Pinball machine]] 氏のIPアドレスが本当にNTTドコモのものであるのか、または、[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]管理者のIPアドレスと相違があるのか、ここで明らかにして戴きたく存じます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2014年4月16日 (水) 10:37 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== CheckUser権行使依頼、及び、{{User2|大野慶吾}} 氏の管理者解任依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* {{User2|利用者:大野珍子}} 氏&lt;br /&gt;
* {{User2|管理者:大野慶吾}} 氏&lt;br /&gt;
{{User2|大野珍子}} 氏 は、私の事を根拠もないのに [[利用者:堀秀政|堀秀政]] のソックパペットなどと勝手に決めつけました。これは他者に対する誹謗・中傷に値します。なお、投稿時間帯の被らなさ、投稿系統、利用者名から推察するに、{{User2|大野慶吾}} 氏である可能性が非常に高いので CU お願いします。なお、もし両人が同一人とすると、 {{User2|大野慶吾}} 氏は管理者でありながら、ソックパペットを駆使して他者を根拠もないのに誹謗・中傷した (それも、不適切極まりない利用者名で) 事にもなりますので、 {{User2|大野慶吾}} 氏の管理者解任もお願いします。 (修正) --[[利用者:グランツーリスモ|グランツーリスモ]] 2014年4月20日 (日) 06:27 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「誹謗中傷」というのは考えすぎでしたが、そもそも投稿ブロックしてくださいと言わんばかりの不適切極まりない利用者名の利用者の言う事に何の信憑性も無いこと、また、管理者がソックパペットを駆使している事態の時点で、既に看過できない状態であり、悪質ですし、仮に大野珍子氏が 大野慶吾 管理者とは別人であれば、その投稿系統、投稿時間帯の被らなさといい、大野慶吾管理者になりすまして、貶めようとしているようにしか見えません。もう少し、利用者名や投稿系統をオリジナリティーあるものにしないと、大野慶吾管理者になりすましていると第三者に誤解されかねず、大野慶吾管理者の信頼を失墜させているのと同じです。同時に、大野珍子氏は 自らの信頼も失墜させる様な事にもなりかねません。また、この様な状態になっても、 {{User2|大野珍子}}が出現・発言したのみで、{{User2|大野慶吾}}管理者が登場せず、沈黙を守っている事からも、同一人である可能性が非常に高いですので、CheckUser お願い致します。--[[利用者:グランツーリスモ|グランツーリスモ]] 2014年4月20日 (日) 07:38 (UTC)&lt;br /&gt;
:2014年4月20日 (日) の 20 時 47 分 に活動記録がありますね。なら Sysop さん、どうか、無視をせず、私の依頼に応じて下さい。無言の沈黙は、事実を認めたか、一管理者が行ったかも知れない不謹慎な行動を不問にする物であると、私及び第三者から誤解されかねませんよ。私が頼れるのはあなただけなのです。どうか無視をしないで、Checkuser をお願いします。--[[利用者:グランツーリスモ|グランツーリスモ]] 2014年4月21日 (月) 11:14 (UTC)&lt;br /&gt;
:: sysop さん、なぜ、看過なさるのですか。真面目に依頼しているのですよ。--[[利用者:グランツーリスモ|グランツーリスモ]] 2014年4月22日 (火) 13:14 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== チェックユーザー行使依頼及び投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|賢者ピクシー}}&lt;br /&gt;
*{{User2|グランツーリスモ}}&lt;br /&gt;
上記ユーザーは現在無期限ブロック中の{{User2|カンキンコンwith}}のブロック破りと思われるユーザーです。チェックユーザー行使を行い、一致したら無期限ブロックをお願いします。 --[[利用者:荒らし撲滅連盟|荒らし撲滅連盟]] 2014年4月24日 (木) 10:11 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理者になるに当たって ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
管理者の募集中との事ですので、僭越ながら私にも管理をさせてもらいたいと考えます。以下がその内容です。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== やりたい事 ===&lt;br /&gt;
*管理業務のお手伝い・管理者未対応の 部分への対応&lt;br /&gt;
**現在活動休止中の管理者が全６人中２人おり 、([[User:Mumbly]]氏と[[User:Beyond]]氏) 現在活動中の管理者は実質３人であり、皆さん限られた時間の合間を縫っての中で管理業務に追われ、対応出来ていない (投稿ブロック漏れ・大量の即時削除記事への未対応) 部分も出てきているので、私は主に対応が施されていない・ほったらかしにされている物への対応を中心に管理業務お手伝いさせていただきたいと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人となりや所信表明の様な物 ===&lt;br /&gt;
なお、私は大学生であり、他の正業に就かれている管理者様 (おそらく。皆様の管理の時間帯を見させてもらった限りでは) とは違い、時間的にも余裕があるので、あまり時間に追われる事なく、適切な管理が出来る自信があります。一サイトの管理をするという責任感もやる気もあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なるべく他の管理者様の手を煩わせたくはありませんが (間違っている、おかしい所の指摘など) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
色々と至らぬ点もあるとは思いますが、宜しくお願いします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*過去の自分の投稿歴からしても中立性が疑われることを認めますので、管理に関しては他の管理者以上に管理に関与することはしません。基本的には「見守り」の姿勢とユーザー同士での話し合いで解決することが今後のユアペディアのあり方と考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''投稿ブロック依頼は基本的には受け付け無い方針です。'''。話し合いもなく、感情的な依頼が多く、客観性を担保できないので他の管理者にお願いして下さい。ただ、投稿ブロックの理由を明確にした場合には受け付ける事もありますが、依頼者や被依頼者の会話の様子、投稿記録などから中立的な観点で精査し、判断を下した上で対応をしていきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*削除依頼は作成者からの依頼にのみ応じます。例外としてその記事に書かれている該当人物からの依頼には、本人の主張や、当該の記事などを中立的な観点で精査し、判断を下した上で対応をしていきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*管理者として行った行為については説明責任を負います。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*管理行為に付いての法的責任、経済的責任を問われた場合はできる限り、応分の負担をします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*私は他の管理者様とは違い、投稿ブロックは簡単にはしない方針で行きたいと考えています。「見守り」の姿勢とユーザー同士での話し合いで解決することが今後のユアペディアのあり方と考えます。然るに、今のユアペディアには、特段緊急性の無い物にさえ、荒らしや編集合戦等のユアペディアのルール違反があると、対話がなく、いきなり&lt;br /&gt;
状況も精査せず、無期限ブロックをかけたり、安易に依頼に答えたり、とりあえず双方を有期ブロックするなど、そもそもブロックありきになっているためか、その前の手段である対話や精査が置き去りになっており、管理者と利用者の間での対話が存在しない、危険な状況がまかり通っていると考えられます。まずは、問題があるとした・依頼があった、当該の人物の投稿記録、対話跡などの精査をし、当該のユーザーに最大2～3回の注意を行い、それでさえ聞き入れる様子がなければ、ブロックするという管理の体を作って貰いたいと考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ユアペディアのこれからのあり方についてはこう考えます。&lt;br /&gt;
**ユアペディアは[[基本方針]]や[[Yourpedia:Yourpediaは何でないか]]などを熟読していただければ判るかと思いますが、Wikipedia など他Wiki サイトとの違い（先編集権やフォーク、表現の自由の尊重、出展等のルールが緩い）などがあり、[[Mikomaid.]]のような記事の存在は まさに Yourpedia の方針の代弁、象徴と考えます。私としては非常に百科事典として、客観的にMikomaid はどういう行状か、人物かが非常に分かり易く、丹念に記載されており、まさに百科事典の一ページとしては秀逸な物と考えます。逆に、何故、このような秀逸な記事が、他 Wiki サイトには採用されなかったか、それは誹謗中傷の観点、百科事典の観点、規制をきつくしすぎたからではないかと考えました。そういう意味では、荒れた記事、状態、ユーザーを減らし、ゆくゆくはなくせば、&lt;br /&gt;
ユアペディアは Wikipedia　とはまた違った、'''多方面からの、様々な情報が記載された、インターネットの百科事典としては万能の物になる・なってほしい'''と考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は、このような管理を致します。--[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年4月29日 (火) 15:40 (UTC)&lt;br /&gt;
===賛否表明===&lt;br /&gt;
*(賛成)彼が管理者になることで、対話や見守り重視の明るいサイトになるのならば、ここはぜひ管理者になって欲しいところでごさいます。--[[利用者:秘匿者 Mk-Ⅱ]] 2014年4月30日 (水) 13:52 (UTC)&lt;br /&gt;
*(絶対反対)[[Mikomaid.]]のような、無名の個人に対し、延々と450KB以上に亘り記述する様な狂気の内容を肯定する様な人物、編集も偏り、博識を持ってるとは思えない人物の管理者就任には絶対反対です。その様な人物が管理者に就任した暁には、私にとって、悪徳商法・ブラック企業・カルト教団を告発し、WPから拒絶された記述の受け皿、理想の難民キャンプとなる筈だったYPは、もはや、'''破壊の対象'''に過ぎない存在となり、ウェブサイト破壊の為の各種の実験台、という目的の為に存在するサイト、という事になりそうです。これは'''警告'''です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年4月30日 (水) 10:15 (UTC)&lt;br /&gt;
*: Yourpedia はあなたのためだけのサイトではありません。「その様な人物が管理者に就任した暁には、私にとって、悪徳商法・ブラック企業・カルト教団を告発し、WPから拒絶された記述の受け皿、理想の難民キャンプとなる筈だったYPは、もはや、'''破壊の対象'''に過ぎない存在となり、ウェブサイト破壊の為の各種の実験台、という目的の為に存在するサイト、という事になりそうです。これは'''警告'''です。」とのことですが、[[基本方針]]や[[Yourpedia:Yourpediaは何でないか]] をご覧下さい。このサイトはベターウィキペディアを目指したものであり、 「難民キャンプ」は、一時期管理が杜撰になっていたときに起きた事故・結果論であり、許容範囲内では有りますが、もともとはその為だけでないことを念頭においてください。「WPから拒絶された記述の受け皿」も許容範囲内ですが、前述同様、その為だけでないことを念頭においてください。寧ろ、自力での記事作成の方が歓迎されます。「悪徳商法・ブラック企業・カルト教団を告発し、」ですが、前述同様、ここはベターウィキペディア、ネット百科事典であり、そのような目的の使用は目的外利用であり、寧ろ百科事典の質を下げそうなものです。創業者は吉本さんであり、確かに「悪徳商法マニアックス」の創業者の方と同一人ですが、もう一度言います、ここはベターウィキペディア、百科事典サイトなのです。今で言うと「Enpedia」のサイトを目指したものであり、基本方針等、精査してみても、「悪徳商法マニアックス」の wiki サイト版などとは記載されていません。[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年4月30日 (水) 11:18 (UTC)&lt;br /&gt;
*::もう一度考えてみて下さい。私の様に、極一部の他のネットユーザーに不快感を少々(結果的に)与えたに過ぎない無名のネットユーザーと、社会に対し多大な金銭的被害を与えた悪徳商法・ブラック企業・カルト教団の、どちらを取り上げる方が百科事典的か、社会に有益か、という事を。そもそもYPは、Sysop氏が、WPで行った記述を拒絶されたことから、その受け皿として自ら開設したものであり、WPより理想的なWikiサイトとする意図があった筈です。そして、私も、YPに来た当初は、その理想に沿って活動を始めたものです。しかし、実態を知って愕然としました。YPを破壊したい、と思い詰めてる者は私'''だけではない'''、という事は、これまでの経過から明らかです。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年4月30日 (水) 11:32 (UTC)&lt;br /&gt;
*::: Mikomaid 様こそ[[Mikomaid.]] の内容をもう一度良く見て下さい。2ちゃんねるでは、犯罪者認定までされる方が「少々」程度の不快感というのはおかしいです。かなり大きな不快感のはずです。そもそも、先程は 「[[Mikomaid.]]のような、無名の個人に対し、延々と450KB以上に亘り記述する様な狂気の内容を肯定する様な人物、編集も偏り、博識を持ってるとは思えない人物の管理者就任には絶対反対です。その様な人物が管理者に就任した暁には、私にとって、悪徳商法・ブラック企業・カルト教団を告発し、WPから拒絶された記述の受け皿、理想の難民キャンプとなる筈だったYPは、もはや、'''破壊の対象'''に過ぎない存在となり、ウェブサイト破壊の為の各種の実験台、という目的の為に存在するサイト、という事になりそうです。これは'''警告'''です。」と警告しながら、今になって、「 YPを破壊したい、と思い詰めてる者は私'''だけではない'''、という事は、これまでの経過から明らかです。 」など、まるで別人のような意見を述べている矛盾があります。私が管理者になって、ユアペディアが破壊されると考える Mikomaid　様にとって、ユアペディアを破壊したいMikomaid 様には願ったり叶ったりのはずなのに、その私の管理者就任に反対する、などと、いい加減意味が分かりません。ユアペディアに攻撃しつつ、ユアペディアを復活させたいなど、まるで多重人格で悩まされてるような、[[wiki:フォウ・ムラサメ]]を想起とさせる、このような、裏表の激しい、二枚舌の人物ですから、その発言に信頼性が置けません。あなたこそ、ユアペディアの存在を脅かしかねない、極めて危険な長期荒らしのようにしか思えません。攻撃がお咎めなしであったり、色々好き勝手にさせてもらっている恩すら読めないあなたに、これ以上ユアペディアに居続ける資格はないと思います。どうか、Enpedia にて活動なさって下さい。Enpedia なら、あなたも居心地良く、のびのびと御活躍できるかと考えます。--[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年4月30日 (水) 11:53 (UTC)&lt;br /&gt;
*::::[[Mikomaid.]]の内容は、この世のものとは思えないほど吐き気を催すような著しく不快な内容であり、執筆者の(逆)恨みというものを、これでもか、というほど感じさせる内容であり、真面な神経を持つものが正視できる内容ではありえません。破壊と復活は矛盾しません。破壊の対象は、あくまでも理想から外れ、誹謗中傷クラブに堕したYPであり、復活の対象は、これまでの堕落路線を脱して本来の理想に立ち返る事を誓ったYPです。[[Mikomaid.]]が存在し続ける限り、破壊の対象から外れる可能性が低い事を肝に銘じておいて下さい。尚、Sysop氏に就いて、とっても参考になるblogサイトを見付けた事を報告しておきます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年4月30日 (水) 12:15 (UTC)&lt;br /&gt;
*::::: もう一度聞きます。あなたは[[wiki:フォウ・ムラサメ]] ですか?[[wiki:ロザミア・バダム]]ですか？これまでのあなたの発言を聞く限り、あなたが言う本来のユアペディアとは、あなたのためだけにあるような、あなたに体良いサイトにして欲しいという考えしか伝わりません。そもそも、ユアペディアに攻撃していたら、復活する前に滅亡してしまいます。また、&lt;br /&gt;
「 尚、Sysop氏に就いて、とっても参考になるblogサイトを見付けた事を報告します 」とのことですが、これは以前も言っていましたが、未だに成果・手応えがありませんね。やはりこんな脅しばかりの口先人間の言うことには何の説得力・信憑性がありません。やはり、Enpedia で活動してください。--[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年4月30日 (水) 12:34 (UTC)&lt;br /&gt;
:YPは、いわば「ネットゾンビ」であり、攻撃して倒しても何度でも復活するサイトであり、しかも、「ビッグゲテスター」「メタルクウラ」の様に復活する度に益々邪悪に強くなる、攻略が益々困難になるサイトでもあります。誹謗中傷や著作権侵害(画像無断転載、等)の被害者は私以外にも多数おり、「あなたのためだけにあるような、あなたに体良いサイトにして欲しい」という考えを持つものは私だけではない、という事は自信を持って言えます。私は、いわば、私をはじめとする多くの被害者の代弁者であり、代表者であります。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年4月30日 (水) 12:47 (UTC)&lt;br /&gt;
:: ......もう眠いです。私も暇ではないので、続きはまた明日しましょう。[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年4月30日 (水) 12:54 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Number1さん、管理者への立候補ありがとうございます。管理者権限を付与しました。どうぞよろしくお願いいたします。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年4月30日 (水) 13:55 (UTC)&lt;br /&gt;
:ありがとうございます。今後とも宜しくお願いします。[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年4月30日 (水) 14:02 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[メインページ]]の復元依頼 ==&lt;br /&gt;
操作ミスにより、誤って削除してしまいましたので、復元お願いします。--[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年4月30日 (水) 15:41 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分で復元できました。--[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年4月30日 (水) 15:55 (UTC)&lt;br /&gt;
:それでは、類似アカウント名に関しては「不適切な利用者名」としてブロックします。大野晋吾管理者様は、[[利用者:グランツーリスモ]]のブロック逃れに対して、「成済まし」という措置で、無期限ブロックしています。また、[[利用者:グランツーリスモ]]のブロック理由も「投稿ブロック逃れ」です。また、歴史上の人物の利用者名は成り済ましにはならないのですか？--[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年5月1日 (木) 13:17 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[User talk:Number1#投稿ブロックについての問い合わせ]] にて、Mikomaid様の無期限ブロックについて大野晋吾管理者様との議論をしましたが、私がMikomaid様を無期限ブロックした対応は正しかったのでしょうか？--[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年5月1日 (木) 13:27 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「[[古神道]]」と「[[トーク:古神道]]」の復元依頼 ==&lt;br /&gt;
新管理者[[利用者:Number1|DiscO-Zone]]氏が削除しましたが、私が記憶する限りこの記事が削除される理由が存在しません。編集者は長期間にわたりこの記事を編集しており、今後もYourpediaに参加し続けて頂くためにも、記事の復活をお願い致します。--[[利用者:防人|防人]] 2014年5月1日 (木) 22:52 (UTC)&lt;br /&gt;
:削除前の記事の状態を読んで下さい。[[古神道]]に関しては何故か記事上部にトークページの様な書き込みがあり、最後は訳が分からなくなっていますし、句読点が一つもない上に、縦に長く読みづらくなっておりますし、トークページの方には、本来の「議論」という目的以外で使われた目的外利用ですし、やはり句読点が一つもない上に縦に長く読みづらいことから、「spam投稿」と判断し、該当記事の削除と、該当利用者のブロックをしたものです。[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年5月1日 (木) 14:01 (UTC)&lt;br /&gt;
== Number1管理者の不適切な投稿ブロックについて ==&lt;br /&gt;
Number1管理者の管理者立候補時の公約と著しく異なる管理行為に対して、その投稿ブロック処分を解除しました。管理者就任一日目にしてこれだけ大量の無期限投稿ブロックを濫用するとなると私怨による管理と誤解されかねません。改めて、無期限投稿ブロックが必要なのかを精査する必要も有り、一旦、解除したものです。私の行為がSpam管理に当たるなら甘んじて処分は受ける覚悟です。ユアペディアでは例え意見が対立する相手であっても発言の機会は与えられるべきであり、Mikomaid氏への一方的に近い無期限投稿ブロック処分には苦言を呈せざるを得ません。未成年であることを考慮しても、管理者としての資質に疑問を持ちます。--[[利用者:大野慶吾|大野慶吾]] 2014年5月1日 (木) 14:13 (UTC)&lt;br /&gt;
:今回のブロックは、やはり管理者になれたことで浮かれていたものです。今後は浮かれず、精密に対話をした上で対応致します。[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年5月1日 (木) 14:19 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
:大野慶吾管理者同様、このたびの新管理者の管理者権限使用に非常に強い懸念を抱きます。管理者権限付与の再考をよろしくお願いします。--[[利用者:防人|防人]] 2014年5月1日 (木) 23:31 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
::管理者になれたことで浮かれてしまい、権限乱用をし、混乱を与えてしまい、申し訳ございませんでした。今後は立候補の弁に沿った管理を行います。私の管理者としての懸念については、これからの活動を見てみて下さい。[[利用者:Number1|DiscO-Zone]] 2014年5月1日 (木) 14:36 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
: 現時点においてNumber1さんの管理者権限行使は、問題が多いものであったかと思います。いったん、管理者権限を解除させていただきました。再度、管理者として活動していただける場合は、一ヶ月以上経ってから再立候補を行ってください。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年5月1日 (木) 15:55 (UTC)&lt;br /&gt;
::良心的な御対応頂きありがとうございました。Sysop様や、他の管理者の皆様の適切な御対応に感謝いたします。Sysop様が良心的であることを信じて、攻撃はしないことにします。今後はYPの、益々の充実に貢献させて頂きたいと思います。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月2日 (金) 09:10 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|Dancing gamou}}&lt;br /&gt;
先日からこのユアペディアを荒らしています。急いで無期限ブロックをお願いします。 [[利用者:キャプテンオメガ|キャプテンオメガ]] 2014年5月4日 (日) 15:57 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== Sysop管理者の管理行為と説明の矛盾についいて ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Sysop管理者様は、Number1元管理者様から、「歴史上の人物の名前のアカウントは成済ましにはあたらないのか？と指摘された後、「[[yourpedia:投稿ブロック（アクセス制限）についての方針]]」の「成済まし」の項目について、「非有名人の本名らしきアカウント名については、直ちにはブロックせず、当該の人物からクレームが来た場合には、ブロックする事もあります。」と書きましたよね。それでは、過去に[[利用者:麻原昇降]]氏を「成済まし」として、直ちにブロックされたのは何故なのか、御説明を賜りたく存じます。麻原昇降氏は非有名人でもありませんし、実際の麻原昇降氏は現在死刑囚として収監されており、このようなちっぽけなサイトにクレームを入れられる状況ではありません。それに、当該のページにて、「有名人の名前ならばハンドルないならば問題ない」と説明しているのではありませんか。何故、このような管理行為を行ったか、御説明願います。--[[利用者:Dancing gamou|Dancing gamou]] 2014年5月3日 (土) 09:35 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Sysop様ご回答願います。[[利用者:Dancing gamou|Dancing gamou]] 2014年5月4日 (日) 11:27 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Sysop様ご回答願います。[[利用者:Dancing gamou|Dancing gamou]] 2014年5月4日 (日) 11:27 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|Dancing gamou}}&lt;br /&gt;
[[利用者・トーク:Toxin]]に[[利用者:防人|防人]]のなりすましで書き込みをしていました。急いで無期限ブロックをお願いします。 [[利用者:荒らし撲滅連盟|荒らし撲滅連盟]] 2014年5月8日 (木) 10:09 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[template:加筆依頼]]の保護解除依頼及びMikomaid管理者の版の差し戻し依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当該Templateにて、[http://ja.yourpedia.org/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%3A%E5%8A%A0%E7%AD%86%E4%BE%9D%E9%A0%BC&amp;amp;action=historysubmit&amp;amp;diff=227544&amp;amp;oldid=227292 dancing gamou様の加筆を差し戻し、Mikomaid管理者が保護していましたが、]私が見る限り、dancing gamouは当該tempの誹謗中傷に当てはまる記事を除去し、まともな記事を入れただけの編集なのに、Mikomaid管理者がこの記事のdancing　gamouの正当な編集を荒しとしたのは明らかにおかしいです。これでは余計Mikomaid管理者とabcdefghが同一人と、第三者から誹りを受けられてもおかしくありません。第一Mikomaid管理者はMikomaid関連の管理行為は禁止されているのにも関わらず、このような主観的な管理行為をしたことは一種の公約違反になりかねません。この管理行為は無効となるはずです。--[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 06:11 (UTC)&lt;br /&gt;
:上記の編集は私に関する誹謗中傷項目へのリンクを入れる、という悪質性があり、Abcdefgh氏の対応は適切と思われます。保護解除は不要と思われます。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 08:33 (UTC)&lt;br /&gt;
::しかし、O-Zoneや機動戦士ZガンダムやNTTdocomoスマホユーザの項目まで削除する必要はなかった事からも、Mikomaid様が独善的な保護をしたとしか思えません。3ヶ月の保護の長さも異様です。長すぎても1ヶ月でしょう。私はMikomaid様が差し戻した版のが、よっぽど誹謗中傷の項目が多く、管理者自ら Yourpedhia の評価を下げてしまっている用にしか思えません。第一Mikomaid管理者はMikomaid関連の管理行為は禁止されているのにも関わらず、このような主観的な管理行為をしたことは一種の公約違反になりかねません。この管理行為は無効となるはずです。--[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 06:11 (UTC)&lt;br /&gt;
:::それでは、差し戻された版の、どれが誹謗中傷に当たるのか、を、以下にリストアップしてみて下さい。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 09:55 (UTC)&lt;br /&gt;
::::「教育」「経済」の項目と[[Wikipedia発の犯罪]]以外は全て誹謗中傷--[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 09:58 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::それでは、上記は残し、O-Zoneや機動戦士Zガンダムを加える、という事で宜しいですね。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 10:10 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::: 。--[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 10:11 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あと、[[NTT docomo スマホユーザー（笑）]]もお願いします。--[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 15:09 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
該当のテンプレートは玄関口であるメインページに組み込まれるものであり、特定の無名の個人関連の項目(乱立気味)へのリンクに偏る事は良くないと考え、上記の対応としました。上記で「誹謗中傷」とされた部分を除去した内容への改正を検討中ですが、如何でしょうか?[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年5月8日 (木) 23:49 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==Ultimate氏のブロック、及びCU依頼==&lt;br /&gt;
上記の依頼をした{{User2|Ultimate}}氏は{{User2|Dancing gamou}}氏が無期限ブロックされた直後に作成されたアカウントで同一人物の可能性が高く、私に噛み付く事を生きがいにしてる人物です。更に、{{User2|Mikomade}}や、先にブロックされた{{user2|Pinball machine}}、{{user2|グランツーリスモ}}、{{user2|POLYPHONY}}や、{{User2|Number1}}元管理者も同一人物の可能性が濃厚です。この様にアカウントをブロックされても又新たなアカウントを作る、'''トークページにて他者の発言を改竄する'''、という悪質性が高いので、これらのアカウントをCUの上で必要に応じて調べ上げたIPを広域ブロックする事が望ましいと思います。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 08:33 (UTC)修正--[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 09:46 (UTC)再修正[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 09:57 (UTC)再修正[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 10:13 (UTC)再修正[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 10:41 (UTC)改ざんの取り消し--[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 15:05 (UTC)&lt;br /&gt;
:改竄は止めて下さい。--[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 10:22 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投稿記録を調べれば判るかとは思いますが、堀秀政とnumber1元管理者様では傾向が全く異なること、number1管理者様は堀秀政に批判的な編纂をした事から、別人と考えます。堀秀政とnumber元管理者を同一人扱いすることは、Mikomaid様とアイザール様を同一人扱いすることと同じ様なものです。number1管理者様は別人の可能性が高いです。[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 10:02 (UTC)&lt;br /&gt;
:CUすれば判る事です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 10:22 (UTC)&lt;br /&gt;
:: {{user2|pinball machine }}はあなたのアカウントでしょう。[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 10:37 (UTC)&lt;br /&gt;
:::違います。CUすれば判る事です。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 10:41 (UTC)&lt;br /&gt;
::::私がMikomadeだと考えるのは何故--[[利用者:Ultimate|Ultimate]] 2014年5月8日 (木) 10:43 (UTC)&lt;br /&gt;
:::::そんな事は、ここには書いてません。あなたが付け足したんでしょ。[[利用者:Mikomaid|Mikomaid]] 2014年5月8日 (木) 10:49 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 投稿ブロック依頼 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*{{User2|賢者ピクシー}}&lt;br /&gt;
現在保護されている[[勇者プクリン]]を無断転載して[[利用者:賢者ピクシー/勇者プクリン|改ざん]]を繰り返すユーザーです。急いで無期限ブロックをお願いします。 --[[利用者:キャプテンオメガ|キャプテンオメガ]] 2014年5月16日 (金) 21:04 (JST)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 管理者立候補 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
管理者の募集中との事ですので、僭越ながら私にも管理をさせてもらいたいと考えます。以下がその内容です。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== やりたい事 ===&lt;br /&gt;
*管理業務のお手伝い・管理者未対応の 部分への対応&lt;br /&gt;
**現在活動休止中の管理者が全６人中２人おり 、([[User:Mumbly]]氏と[[User:Beyond]]氏) 現在活動中の管理者は実質４人であり、皆さん限られた時間の合間を縫っての中で管理業務に追われ、対応出来ていない (投稿ブロック漏れ・大量の即時削除記事への未対応) 部分も出てきているので、私は主に対応が施されていない・ほったらかしにされている物への対応を中心に管理業務お手伝いさせていただきたいと思っております。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人となりや所信表明の様な物 ===&lt;br /&gt;
私は主婦であり、他の正業に就かれている管理者様 (おそらく。皆様の管理の時間帯を見させてもらった限りでは) とは違い、時間的にも余裕があるので、あまり時間に追われる事なく、適切な管理が出来る自信があります。一サイトの管理をするという責任感もやる気もあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なるべく他の管理者様の手を煩わせたくはありませんが (間違っている、おかしい所の指摘など) &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
色々と至らぬ点もあるとは思いますが、宜しくお願いします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
* 基本的には「見守り」の姿勢とユーザー同士での話し合いで解決することが今後のユアペディアのあり方と考えますので、管理に関しては他の管理者以上に管理に関与することはしません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*'''投稿ブロック依頼は基本的には受け付け無い方針です。'''。話し合いもなく、感情的な依頼が多く、客観性を担保できないので他の管理者にお願いして下さい。ただ、投稿ブロックの理由を明確にした場合には受け付ける事もありますが、依頼者や被依頼者の会話の様子、投稿記録などから中立的な観点で精査し、判断を下した上で対応をしていきます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*削除依頼は作成者からの依頼にのみ応じます。例外としてその記事に書かれている該当人物からの依頼には、本人の主張や、当該の記事などを中立的な観点で精査し、判断を下した上で対応をしていきます。自身の判断が正しいか否かで迷った際には、[[利用者:Sysop|Sysop]] に相談させて戴きます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*管理者として行った行為については説明責任を負います。基本的に管理方針ににつきましては、[[利用者:Sysop|Sysop]] 様の管理方針に従う事が多いかと考えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* ユアペディアのこれからのあり方についてはこう考えます。&lt;br /&gt;
**ユアペディアは[[基本方針]]や[[Yourpedia:Yourpediaは何でないか]]などを熟読していただければ判るかと思いますが、Wikipedia など他Wiki サイトとの違い（先編集権やフォーク、表現の自由の尊重、出展等のルールが緩い）などがあり、[[Mikomaid]] 等のような記事の存在は まさに Yourpedia の方針の代弁、象徴と考えます。私としては非常に百科事典として、客観的にMikomaid はどういう行状か、人物かが非常に分かり易く、丹念に記載されており、まさに百科事典の一ページとしては秀逸な物と考えます。逆に、何故、このような秀逸な記事が、他 Wiki サイトには採用されなかったか、それは誹謗中傷の観点、百科事典の観点、規制をきつくしすぎたからではないかと考えました。そういう意味では、荒れた記事、状態、ユーザーを減らし、ゆくゆくはなくせば、ユアペディアは Wikipediaとはまた違った、'''多方面からの、様々な情報が記載された、インターネットの百科事典としては万能の物になる・なってほしい'''と考えます。&lt;br /&gt;
*最近、児童ポルノに当たりそうな画像が多くアップロード、放置されていますが、これらは不適切なので削除いたします。&lt;br /&gt;
--[[利用者:Sarbatoarea Noptilor De Vara|Sarbatoarea Noptilor De Vara]] 2014年5月17日 (土) 20:12 (UTC)&lt;br /&gt;
===コメント等===&lt;br /&gt;
*(コメント)上記のSarbatoarea Noptilor De Vara氏の文面は横暴な管理活動を理由に１日で管理者を解任された[[User:Number1]]による[[#管理者になるに当たって|文面]]と、ほとんど同じであり、横暴な管理を行う事が予想されます。加えて、[[User:Sarbatoarea Noptilor De Vara]]氏は「La Fiesta De La Noche（会話/履歴/ログ/メール） のパスワードを忘れ、アカウント再作成。」という表記からも、パスワードの管理が杜撰であり、パスワードを忘れた事を理由にアカウントを作る、という安易な姿勢があります。加えて、これまでにも、「O-Zone」の楽曲やアルバム、等にちなんだアカウント名を濫造する、「O-Zone」へのこだわりを見せる、等、があります。私からは賛否表明は控えますが、Sysop様におかれましては、Sarbatoarea Noptilor De Vara氏の、これまでの姿勢を十分に精査の上で十分に慎重な考慮を頂ける事に期待します。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年5月17日 (土) 23:42 (UTC)&lt;br /&gt;
:*どうやら、管理者 [[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] は、余程 [[O-Zone]] が嫌いと見えます。私は荒しの除去、誹謗中傷記事の、誹謗中傷に当たるところを削除し、健全な文章に書き換える、等、誠意を持った活動をさせて戴いたつもりです。また、 管理者 [[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] の仰る「これまでにも、「O-Zone」の楽曲やアルバム、等にちなんだアカウント名を濫造する、「O-Zone」へのこだわりを見せる、等、があります 。」とは、具体的に何年の何月何日のことでしょうか。自分がこれまでに作成したアカウントは[[User:La Fiesta De La Noche|La Fiesta De La Noche]]と[[利用者:Sarbatoarea Noptilor De Vara|La Fiesta De La Noche 改め Sarbatoarea Noptilor De Vara]]のみであり、それ以上のアカウントを作成しておりません。加えて、[[Yourpedia]] では、「[[O-Zone]] に拘るユーザーは排除される・悪質である」と言う決まりがあるというのでしょうか。[[基本方針]]等、熟読しても、そのようなルールはありませんでした。 管理者 [[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] がO-Zoneを嫌っているだけの、極めて恣意的・私怨混じりの解釈です。少なくとも、 管理者 [[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]や、 [[利用者:Number1|Number1]]よりは適切な管理ができると自負いたします。パスワードの管理が杜撰であったことは此方にも非がありますので、これについては、特に反論は致しません。また、管理者立候補の弁は、[[利用者:Number1]] のものを参考にして、それをアレンジしたのは事実ですが、これは[[利用者:Number1]]の有言不実行な管理方針が、自分の考えに近い、自分ならばできると判断したことによります。もう一度言いますが、私は少なくとも、 管理者 [[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]]や、 [[利用者:Number1|Number1]]よりは適切な管理ができると自負いたします。--[[利用者:Sarbatoarea Noptilor De Vara|La Fiesta De La Noche 改め Sarbatoarea Noptilor De Vara]] 2014年5月18日 (日) 02:09 (UTC)&lt;br /&gt;
::(コメント)私は、別にO-Zoneが嫌い、という訳ではありません。寧ろ、「恋のマイアヒ」は気に入っております。私が指摘してるのは、これまでに作られたアカウントの内、「O-Zone」の楽曲やアルバム、等にちなんだアカウントは他者のコメントを改変したり返事を必要以上に催促したり編集合戦をしたり、と言う様な傾向が似通ってる、ということであり、Sysop様の方でチェックユーザーして頂ければ判る事です。Sysop様の方も、十分に精査せずに安易に管理者権限を与えれば、どういう事になるか、と言う事がNumber1の件で、お判り頂けた筈です。尚、以下のアカウントをチェックユーザーする事が望ましいものと思われます。[[利用者:Abcdefgh|Abcdefgh]] 2014年5月18日 (日) 02:36 (UTC)&lt;br /&gt;
:::傾向が全く違いますし、私もO-Zoneは好きですが、建設的な編集を行っているつもりです。--[[利用者:Sarbatoarea Noptilor De Vara|La Fiesta De La Noche 改め Sarbatoarea Noptilor De Vara]] 2014年5月18日 (日) 02:45 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*2014-05-12T17:07:06 Sarbatoarea Noptilor De Vara (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎ &lt;br /&gt;
*2014-05-10T11:23:21 La Fiesta De La Noche (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎ &lt;br /&gt;
*2014-05-08T13:03:22 Ultimate (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎ &lt;br /&gt;
*2014-05-03T11:41:12 Dancing gamou (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎ &lt;br /&gt;
*2014-05-01T17:21:26 Number1 (トーク | 投稿記録 | ブロック) が新規にアカウント 利用者:Sub account を作成しました ‎ (test) (トーク | 投稿記録 | ブロック) &lt;br /&gt;
*2014-04-27T18:24:10 POLYPHONY (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎ &lt;br /&gt;
*2014-04-27T10:08:03 Who Wants To Be A Millionaire (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎ &lt;br /&gt;
*2014-04-16T15:38:22 グランツーリスモ (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎ &lt;br /&gt;
*2014-04-14T16:52:22 Just maybe anything (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎ &lt;br /&gt;
*2014-04-12T17:44:37 Pinball machine (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎ &lt;br /&gt;
*2014-04-12T10:26:03 KAN-KIN-KON (with) (トーク | 投稿記録 | ブロック) 新規利用者アカウント ‎&lt;br /&gt;
:CUするならどうぞして下さい。--[[利用者:Sarbatoarea Noptilor De Vara|La Fiesta De La Noche 改め Sarbatoarea Noptilor De Vara]] 2014年5月18日 (日) 02:45 (UTC)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一年後に、また来て下さい。--[[利用者:Sysop|Sysop]] 2014年5月18日 (日) 04:37 (UTC)&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%99%E3%81%8E%E3%82%8B%E6%BC%A2%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=228679</id>
		<title>カワイすぎる漢の一覧</title>
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				<updated>2014-05-18T04:26:16Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''カワイすぎる漢の一覧'''（かわいすぎるおとこのいちらん）は、カワイイ容姿や生き様の男の一覧である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* [[マックス・アマン]]&lt;br /&gt;
* [[フリッツ・ヴィーデマン]]&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
== か行 ==&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・ゲーリング]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーゼフ・ゲッベルス]]&lt;br /&gt;
* [[エーリヒ・ケンプカ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== さ行 ==&lt;br /&gt;
* [[エルンスト＝ギュンター・シェンク]]&lt;br /&gt;
* [[ユリウス・シャウブ]]&lt;br /&gt;
* [[フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ]]&lt;br /&gt;
* [[ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー]]&lt;br /&gt;
* [[ルドルフ・シュムント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
* [[泊優稀撲滅委員会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* [[ヴェルナー・ハーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[フランツ・フォン・パーペン]]&lt;br /&gt;
* [[アドルフ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[アロイス・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ヒムラー]]&lt;br /&gt;
* [[ヴァルター・ブーフ]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・フェーゲライン]]&lt;br /&gt;
* [[カール・ブラント]]&lt;br /&gt;
* [[ハインツ・ブラント]]&lt;br /&gt;
* [[ヴィルヘルム・ブリュックナー]]&lt;br /&gt;
* [[ヴィルヘルム・ブルクドルフ]]&lt;br /&gt;
* [[ルドルフ・ヘス]]&lt;br /&gt;
* [[フリードリヒ・ホスバッハ]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ホフマン (写真家)|ハインリヒ・ホフマン]]&lt;br /&gt;
* [[マルティン・ボルマン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* [[ローフス・ミシュ]]&lt;br /&gt;
* [[エミール・モーリス]]&lt;br /&gt;
* [[テオドール・モレル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* [[ハインツ・リンゲ]]&lt;br /&gt;
* [[エルンスト・レーム]]&lt;br /&gt;
* [[エルヴィン・ロンメル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カワイすぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソジジイの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソジジイ殿堂入りの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{勇者}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かわいすきるおとこのいちらん}}&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|かわいすきるおとこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:イケメン]]&lt;br /&gt;
[[Category:勇者]]&lt;br /&gt;
[[Category:神]]&lt;br /&gt;
[[Category:天才]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A5&amp;diff=228677</id>
		<title>ローフス・ミシュ</title>
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				<updated>2014-05-18T04:20:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 脚注 */ カテゴリ追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ローフス・ミシュ'''（Rochus Misch, [[1917年]][[7月29日]] - [[2013年]][[9月5日]]）は、[[武装親衛隊]]に所属していた[[ドイツ]]の元兵士。最終階級は[[親衛隊曹長]]（Oberscharführer）。[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の側近、文書の運搬人、ボディガード、および電話交換手。1945年4月30日にヒトラーが自殺した時にベルリンの[[総統地下壕]]にいた人物のうち、最後の生存者だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
上[[シュレージエン]]地方のオペルン（現[[ポーランド]]領[[オポーレ]]）に生まれる。父親は[[第一次世界大戦]]に出征し、ミシュが生まれる2時間前に戦傷により死亡した。2歳の時に母親も死亡して孤児となり、[[ベルリン]]で祖父母や叔母に育てられる。はじめペンキ職人となるが、1937年に武装親衛隊に志願して入隊。[[第1SS装甲師団|ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー]] (LSSAH) 連隊に配属される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ軍の[[ポーランド侵攻]]に参加し重傷を負う。回復ののち、上官である中隊長[[ヴィルヘルム・モーンケ]]は彼を礼儀正しく忠実な兵士と見込んで、ベルリンの[[総統官邸]]勤務に推薦した。そこでヒトラーの側近となる。その最初の任務は、[[ウィーン]]にいるヒトラーの妹パウラに手紙を届けることだった。以後は司令部、別荘、官邸など、ヒトラーの行く先々に常に随行した。ローフス・ミシュはヒトラーにより唯一[[総統地下壕]]での武器の携帯を許されており、他は誰であろうとも入口で武器を預ける決まりだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は総統地下壕に最後まで常駐した数少ない人物で、仕事上、真っ先に全文書に目を通すことができた貴重な人物である。[[ベルリン市街戦]]のさなかの1945年4月30日にヒトラーが自殺すると、その遺言によりゲッベルスが宰相となった。彼はゲッベルスやその夫人[[マグダ・ゲッベルス|マグダ]]、夫妻の6人の子供たちとも親しかった。マグダ夫人が子供たちを殺害した前後も目撃している。戦後「ゲッベルスの子供たちもナチズムの犠牲者」であるとして、子供たちの追悼施設を造るべきだと主張し、[[ホロコースト]]犠牲者などから非難された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月1日、絶望して自決を決めたゲッベルスはミシュに総統地下壕を去るように命じた。ミシュはすでに数日前から脱出に備えて必要な物資をリュックサックに詰めていた。その日の夜にゲッベルス夫妻は自殺し、翌5月2日にミシュは地下壕を出た&amp;lt;ref name=&amp;quot;BBC&amp;quot;&amp;gt;[http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-23989454 Last Hitler bodyguard Rochus Misch dies] BBC News 2013年9月7日閲覧&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後、彼はソ連軍の捕虜となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーに親しく接していたミシュは、ソ連軍によって[[ルビャンカ刑務所]]に収容され取り調べを受けた。ヒトラーの自殺を信じていなかった[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は、ソ連の捕虜となっていたミシュや[[オットー・ギュンシェ]]（ヒトラーの副官）に「真相」を話すよう強要した。9年後にようやくミシュは釈放され、ドイツにいる妻と娘のもとに戻った。その後は内装業を営み、1980年代の中頃に引退した&amp;lt;ref name=&amp;quot;BBC&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1970年代からドキュメンタリー映画に登場するようになり、特に1990年代以降、ヒトラーや[[第二次世界大戦]]に関する番組によく登場していた。2006年にも「最後の証人‐ロフス・ミシュ」と題するテレビ・ドキュメンタリー番組に出演した。同年、1940年から45年に関する回顧録をフランスで出版、世界各国語に訳されており、ドイツや日本でも出版されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2013年]][[9月5日]]にベルリンで死亡した&amp;lt;ref name=&amp;quot;BBC&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
* ローフス・ミッシュ　『ヒトラーの死を見とどけた男 地下壕最後の生き残りの証言』　小林修訳、草思社、2006年11月、ISBN 4-7942-1542-8&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:みしゆ ろふす}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:捕虜となった人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの画家]]&lt;br /&gt;
[[Category:オポーレ出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:シレジア・ドイツ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:1917年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2013年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3_(%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%AE%B6)&amp;diff=228675</id>
		<title>ハインリヒ・ホフマン (写真家)</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3_(%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%AE%B6)&amp;diff=228675"/>
				<updated>2014-05-18T04:19:42Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 出典 */ カテゴリ追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ハインリヒ・ホフマン'''（''Heinrich Hoffman'' 、[[1885年]][[9月12日]] - [[1957年]][[12月16日]]）は、[[ドイツ]]の[[写真家]]。[[アドルフ・ヒトラー]]専属の写真家として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ドイツ帝国]][[領邦]][[バイエルン王国]][[フュルト]]に生まれる。父は成功した写真家ローベルト・ホフマン（''Robert Hoffmann'' ）、母はその妻マリア（''Maria'' ）で旧姓はカルグル（''Kargl'' ）&amp;lt;ref name=&amp;quot;LeMO&amp;quot;&amp;gt;[http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/HoffmannHeinrich/index.html LeMO]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父の写真店で働き、父から写真を学んだ&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ258&amp;quot;&amp;gt;ヴィストリヒ、258頁&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton151&amp;quot;&amp;gt;Hamilton,p151&amp;lt;/ref&amp;gt;。ほのかに褐色に光る[[銅版画]]に似た彼の写真は、前衛的な芸術家グループから高く評価された。1911年には名のある写真家となっており、当時バイエルン王家やロシア皇帝[[ニコライ2世]]、[[マルセル・デュシャン]]などが彼の顧客となっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント283-284&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、283-284頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の写真モデルだったテレーゼ・バウマンと結婚し、彼女との間に長女ヘンリエッテ（1913年生）と長男ハインリヒ（1916年）を儲けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント284&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、284頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。1915年にはミュンヘンのマックスフォアシュタット地区シェリング通りに写真アトリエを構えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント284&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、284頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第一次世界大戦]]ではバイエルン軍の従軍カメラマンを務めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ258&amp;quot;&amp;gt;ヴィストリヒ、258頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。国粋主義者で反ユダヤ主義者であったホフマンは戦後すぐに右翼団体に所属しするようになった。1919年に[[アドルフ・ヒトラー]]と出会い、交友関係を結んだ。以降ヒトラーはホフマンの家に足繁く通うようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ258&amp;quot;/&amp;gt;。ヒトラーはホフマンの家の芸術的な雰囲気を気に入っており、「第二の我が家」と呼んでいた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント285&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、285頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお[[エヴァ・ブラウン]]はホフマンの写真スタジオで働いていたところをヒトラーと出会っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ258&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton151&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1920年4月に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）に入党し&amp;lt;ref name=&amp;quot;LeMO&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ259&amp;quot;&amp;gt;ヴィストリヒ、259頁&amp;lt;/ref&amp;gt;、1923年からヒトラーの写真を撮ることを許可された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント289&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、289頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。以降ヒトラーの行く場所どこにでも同行して彼の写真を撮った。ホフマンが残した写真数は250万枚にも及ぶという&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ259&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1932年3月31日には長女ヘンリエッテがナチ党全国青少年指導者[[バルトゥール・フォン・シーラッハ]]と結婚した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント296&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、296頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[ナチ党の権力掌握|ナチ党の政権掌握]]後の1933年には最初のヒトラー写真集『誰も知らないヒトラー』 (Hitler,wie ihn keiner Kennt) を出版し、ベストセラーになった。その後もヒトラーの写真集を続々と出版し&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ259&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton151&amp;quot;/&amp;gt;、ホフマンは莫大な富を築いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント289&amp;quot;/&amp;gt;。1940年1月には[[国会 (ドイツ)|国会]]議員となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ259&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナチ党政権崩壊後の1947年ナチ党政権の[[不当利得]]者として[[西ドイツ]]の裁判にかけられ、財産のほとんどを没収された。また10年の実刑判決を受け投獄された。後に3年に減刑されたが、1950年に5年に増やされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ259&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton151&amp;quot;/&amp;gt;。1957年12月16日、[[西ドイツ]]・[[バイエルン州]][[ミュンヘン]]で死去した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ259&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton151&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 使用カメラ ==&lt;br /&gt;
[[ライカ]]を愛用したことで知られ、使用した皮鞄入りのセットは偽物が多く出回っていることでも有名である&amp;lt;ref&amp;gt;『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』p.115。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Heinrich Hoffmann|ハインリヒ・ホフマン}}&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:ほふまん はいんりひ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの写真家]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:フュルト出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:アドルフ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ライカの人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1885年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1957年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 生涯 */ カテゴリ追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー'''（Ludwig Stumpfegger, [[1910年]][[7月11日]] - [[1945年]][[5月2日]]）は、[[第二次世界大戦]]中の[[親衛隊]][[医師]]で、1944年から[[アドルフ・ヒトラー]]の[[主治医]]であった。'''シュトゥンプフェッガー'''と表記されることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[バイエルン州]][[ミュンヘン]]生まれ。初めは[[看護師]]として、ホーエンルヒェン療養所（スポーツ関連の療養所）の主任医師をしていた[[カール・ゲプハルト]]の元で働く。[[1936年]]にはゲプハルトとともに[[ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック]]と[[ベルリンオリンピック]]に医療班として参加した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1939年]]に[[第二次世界大戦]]が勃発すると、ホーエンルヒェン療養所は[[親衛隊]]が利用することとなった。その後、シュトゥンプフェッガーは[[フリッツ・フィッシャー]]、[[ヘルタ・オーバーホイザー]]の下で働き、[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]から連れてこられた女性の囚人を対象とした人体実験を行った。この実験では骨と筋肉の移植、病原菌の感染などが行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1945年]]には、[[総統地下壕]]で侍医の[[テオドール・モレル]]の元で働いた。ヒトラーは自殺直前の[[4月29日]]、シュトゥンプフェッガーに依頼して愛犬の[[ブロンディ (犬)|ブロンディ]]を青酸で殺し、青酸を飲むとどのようにして死ぬか確かめたという。翌[[4月30日]]にヒトラーが自殺すると、[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]が自殺する直前に[[マグダ・ゲッベルス|マグダ]]夫人と共に、彼らの子供に青酸を飲ませて毒殺した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、シュトゥンプフェッガーは次期ナチス党首に指名されていた[[マルティン・ボルマン]]、[[ヒトラーユーゲント]]の全国青年指導者[[アルトゥール・アクスマン]]とともに[[5月1日]]深夜に[[総統地下壕]]を脱出。しかし、ソ連軍の攻撃が激しいために脱出できず（アクスマンだけ脱出に成功し、後に連合軍に捕らえられる）、ボルマンと共に[[ベルリン中央駅|レアター駅]]付近で[[青酸]]入りのカプセルを噛み砕いて[[自殺]]した。遺体は長年見つからず、ボルマンとともに逃亡したという説もあったが[[1972年]]に遺体が発見された。（詳細は[[マルティン・ボルマン]]を参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆとうんふふえつかあ るうとういうひ}}&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの医師]]&lt;br /&gt;
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1910年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1945年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>利用者:ウーソキマスラの戯言</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 記事 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:ハーゲンクロイツ.png|400px|thumb|私は[[国家社会主義ドイツ労働者党|この旗を党旗としている政党]]の支持者です。]]&lt;br /&gt;
このページは[[利用者・トーク:ウーソキマスラの戯言|ウーソキマスラの戯言]]の利用者ページです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自己紹介 ==&lt;br /&gt;
主に[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]に関する項目を作成。[[国家社会主義ドイツ労働者党]]の支持者であり[[閣下ヒトラー|アドルフ・ヒトラー総統閣下]]に傾倒しているという点では{{User2|松葉裕子}}さんや{{User2|逝け惰性面}}氏とは同志であるが、断じて[[松葉裕子 (右翼運動家)|松葉]]さんのソックパペットではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作成した項目 ==&lt;br /&gt;
=== 記事 ===&lt;br /&gt;
* [[ハインツ・リンゲ]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・フェーゲライン]]&lt;br /&gt;
* [[ゲルダ・クリスティアン]]&lt;br /&gt;
* [[トラウデル・ユンゲ]]&lt;br /&gt;
* [[エーリヒ・ケンプカ]]&lt;br /&gt;
* [[テオドール・モレル]]&lt;br /&gt;
* [[カール・ブラント]]&lt;br /&gt;
* [[ヴェルナー・ハーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[エルンスト＝ギュンター・シェンク]]&lt;br /&gt;
* [[ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー]]&lt;br /&gt;
* [[カール・マイヤー]]&lt;br /&gt;
* [[エルンスト・レーム]]&lt;br /&gt;
* [[エリック・ヤン・ハヌッセン]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ホフマン (写真家)]]&lt;br /&gt;
* [[ローフス・ミシュ]]&lt;br /&gt;
* [[フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ]]&lt;br /&gt;
* [[ヴァルター・ブーフ]]&lt;br /&gt;
* [[親衛隊]]&lt;br /&gt;
* [[強制収容所]]&lt;br /&gt;
* [[マックス・アマン]]&lt;br /&gt;
* [[突撃隊]]&lt;br /&gt;
* [[長いナイフの夜]]&lt;br /&gt;
* [[指導者原理]]&lt;br /&gt;
* [[第三帝国]]&lt;br /&gt;
* [[ドイツ労働者党]]&lt;br /&gt;
* [[25カ条綱領]]&lt;br /&gt;
* [[武装親衛隊]]&lt;br /&gt;
* [[帝国大管区]]&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義自動車軍団]]&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義航空軍団]]&lt;br /&gt;
* [[エルヴィン・ロンメル]]&lt;br /&gt;
* [[国家弁務官]]&lt;br /&gt;
* [[ゲシュタポ]]&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義女性同盟]]&lt;br /&gt;
* [[ドイツ女子同盟]]&lt;br /&gt;
* [[マリア・マンデル]]&lt;br /&gt;
* [[イルマ・グレーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルタ・オーバーホイザー]]&lt;br /&gt;
* [[イルゼ・コッホ]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルタ・ボーテ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 曖昧さ回避ページ ===&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ホフマン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== カテゴリ ===&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の元帥]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の将軍]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の提督]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチス・ドイツの軍事]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチ党全国指導者]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチス・ドイツのプロパガンダ]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:突撃隊隊員]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:突撃隊]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチス・ドイツの事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テンプレート ===&lt;br /&gt;
* [[テンプレート:国家社会主義ドイツ労働者党党首]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>カワイすぎる姐の一覧</title>
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				<updated>2014-05-18T03:17:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''カワイすぎる姐の一覧'''（かわいすぎるおんなのいちらん）は、カワイイ容姿や生き様の女の一覧である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* [[蛯原友里]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルタ・オーバーホイザー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== か行 ==&lt;br /&gt;
* [[北川景子]]&lt;br /&gt;
* [[桐谷美玲]]&lt;br /&gt;
* [[ゲルダ・クリスティアン]]&lt;br /&gt;
* [[イルマ・グレーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[黒木メイサ]]&lt;br /&gt;
* [[小嶋陽菜]]&lt;br /&gt;
* [[イルゼ・コッホ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== さ行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* [[橋本奈々未]]&lt;br /&gt;
* [[クララ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[エヴァ・ブラウン]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルタ・ボーテ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* [[松葉裕子 (右翼運動家)|松葉裕子]]&lt;br /&gt;
* [[マリア・マンデル]]&lt;br /&gt;
* [[ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
* [[トラウデル・ユンゲ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* [[ゲリ・ラウバル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
* [[ヴィニフレート・ワーグナー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カワイすぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソババアの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソババア殿堂入りの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{勇者}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かわいすきるおんな}}&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる姐|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧]]&lt;br /&gt;
[[Category:美人]]&lt;br /&gt;
[[Category:勇者]]&lt;br /&gt;
[[Category:神]]&lt;br /&gt;
[[Category:天才]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%98%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%86&amp;diff=228662</id>
		<title>ヘルタ・ボーテ</title>
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				<updated>2014-05-18T03:15:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''ヘルタ・ボーテ'''（Herta Bothe, 1921年1月8日 - ）は、ナチス・ドイツ時代の[[強制収容所 (ナチス...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ヘルタ・ボーテ'''（Herta Bothe, [[1921年]][[1月8日]] - ）は、[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]時代の[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]に勤務した女性看守。戦後、戦争犯罪の容疑者として逮捕されたものの、最終的に釈放されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 若年期 ==&lt;br /&gt;
ヘルタ・ボーテは[[メクレンブルク＝シュヴェリーン]]のテーテロウに生まれた。1938年、17歳になったボーテは実家の材木店で父親を手伝いつつ、一時的に地元の工場で働いた後に看護婦の職に就く。1939年、[[ドイツ女子同盟]]のメンバーとなる。この頃、彼女は運動競技会で非常に優れた成績を残したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ラーフェンスブリュックとシュトゥットホーフ ==&lt;br /&gt;
1942年9月、ボーテは[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]の看守職に就く。ラーフェンスブリュックでの4週間の研修を終えた後、彼女はダンツィヒの[[シュトゥットホーフ強制収容所]]に女性看守(Aufseherin)として配属された。ボーテはしばしば収容者を虐待した為、「シュトゥットホーフのサディスト」と呼ばれ恐れられた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.dailymail.co.uk/news/article-1142824/Nazi-women-exposed-bit-bad-Hitlers-deranged-male-followers.html Nazi women exposed as every bit as bad as Hitler's deranged male followers]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1944年7月、彼女はゲルタ・シュタインホフ上級女性看守 (Oberaufseherin) の命令に基づき、東ブロンベルク収容所に異動する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年1月21日、24歳になったボーテはポーランドにて[[ベルゲン・ベルゼン強制収容所]]へ向かう女性収容者の「[[死の行進]]」に同行した。また、この最中の1945年2月20日から26日にかけて、ボーテは囚人と共に[[アウシュヴィッツ＝ビルケナウ強制収容所|アウシュビッツ強制収容所]]に一時的に滞在したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ベルゲン・ベルゼン ==&lt;br /&gt;
ベルゲン・ベルゼンではおよそ60名の女性収容者から構成される木材伐採部隊を指揮監督した。1945年4月、収容所が解放される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼女はベルゲン・ベルゼンで捕虜となったものの内、女性としては最も階級が高かったという。また、他の女性看守らがSS隊員用の黒色長靴を履いていたのに対して、ボーテは制式品ではない私物の靴を履いていた。収容所を占領した連合軍の兵士は彼女に死んだ収容者の埋葬を行わせた。60年後に行われたインタビューで彼女が語ったところによれば、埋葬作業の際に手袋をする事は連合軍兵士によって禁じられていた為、死体からチフスに感染する事を非常に恐れていたという。死体の多くは持ち上げようとすると手足がちぎれる程に腐敗していた。また、この作業で腰を痛めたボーテはひどい腰痛に苦しめられる事になる。ベルゲン・ベルゼンにおけるこれらの収容所解体業務が終了した後、彼女はツェレにて収監された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベルゼン裁判では「冷酷な監督者」と呼ばれ、囚人をピストルで脅した事などについて懲役10年の判決が下された。しかし1951年12月22日、英国政府による特赦を受けて釈放された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 戦後 ==&lt;br /&gt;
2004年に放送されたインタビューの中で、看守になる決断をした事について尋ねられたボーテは次のように自己弁護を図った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「あなたの言う間違いって何のことかしら？ううん……答える必要があるのかしら。私が間違った？いいえ。間違いは、そこが強制収容所だった事だけど、そこで働かなきゃ私も収容されていたことよ。それが間違いだったのよ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ほおて へるた}}&lt;br /&gt;
[[Category:1921年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:没年不明]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ強制収容所看守]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:美人]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>イルゼ・コッホ</title>
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				<updated>2014-05-18T03:10:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''イルゼ・コッホ'''（''Ilse Koch'',1906年9月22日-1967年9月1日）はブーヘンヴァルト強制収容所所長の妻であり、女性...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''イルゼ・コッホ'''（''Ilse Koch'',[[1906年]][[9月22日]]-[[1967年]][[9月1日]]）は[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]所長の妻であり、女性看守。彼女は、囚人に対するサディスト的な拷問行為及び好色さで知られている。また、囚人の皮膚で工作を行った事でも有名。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
=== 背景 ===&lt;br /&gt;
イルゼは農場経営者の父の娘マルガレーテ・イルゼ・ケーラー (''Margarete Ilse Köhler'') として、[[ドレスデン]]に生まれた。イルゼは15歳で学校を卒業し、工場に仕事に働きに行った。彼女はドイツの経済がまだ[[第一次世界大戦]]におけるドイツの敗北から回復していない状況下であった頃に徐々にナチズムに関与し始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元々は[[ザクセンハウゼン強制収容所]]において看守兼秘書として仕事をしていたところ、[[1936年]]所長で親衛隊幹部の[[カール・オットー・コッホ|カール・コッホ]]と結婚し、翌[[1937年]]ブーヘンヴァルト強制収容所に夫に随行した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 収容所での行為 ===&lt;br /&gt;
夫が収容所の所長の地位にあることを楯に、収容所の構内で馬を乗り回したり、囚人に鞭を打ったり、囚人に対して虐待行為を行った。さらに、死んだ囚人の皮膚でランプシェードやブックカバー、手袋を作るなどの常軌を逸した行動のみならず、刺青をしている囚人がいるとその囚人を注射で薬殺してから皮を剥いで収集したりさえしたとされている&amp;lt;ref&amp;gt;New York Times, Sept. 24, 1948, p. 3&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、戦後の裁判においても、そうした行為を具体的に証言できる者はなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした行状のため、囚人らや働いていた親衛隊員達から'''ブーヘンヴァルトの魔女''' (Die Hexe von Buchenwald) と呼ばれた。また、この表現の英訳 (The Witch of Buchenwald) から、英語では'''ブーヘンヴァルトの雌犬''' (The Bitch of Buchenwald) とも呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、彼女が工作用に人皮を入手できた理由はブーヘンヴァルト勤務のナチスの医者が愛人であったためとされている。このためよくイルゼは好色家・色情狂として噂される。また、飼い犬を女囚にけしかけるなど、捕虜虐待の噂が絶えなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1943年]]に夫[[カール・オットー・コッホ|カール・コッホ]]が収容所における悪事で告発されたとき、イルゼも横領着服容疑で裁判にかけられ投獄されたものの、証拠不十分で無罪となる。一方、夫カールは死刑を宣告され[[1945年]]4月に処刑された。その後、[[ルートウィヒスブルク]]にいた家族と一緒に生活していたが、彼女は[[1945年]][[6月30日]]に[[アメリカ合衆国]]当局によって捕えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦後の経緯 ===&lt;br /&gt;
[[1947年]]、アメリカ占領軍によって逮捕された彼女は、[[終身刑]]を言い渡されるも証拠不十分で懲役4年に減刑され、[[1949年]]に恩赦で釈放されるも、[[西ドイツ]]の司法当局はこれを許さず、ドイツ国民への犯罪行為として再度イルゼを告発し、[[1951年]]に終身刑を言い渡した。イルゼはあくまで無罪を主張し、[[国際人権委員会]]&amp;lt;!--国際連合人権委員会？--&amp;gt;に告発するも相手にされず、[[1967年]]息子に'''「死だけが救い」'''の文章を残して自殺（縊死）した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 残虐行為は事実だったのか？ ===&lt;br /&gt;
多くのホロコースト否認論と同じように、イルゼの行為にも疑義が挟まれている。彼女の人皮装丁本には[[アドルフ・ヒトラー]]の『[[我が闘争]]』や家族の[[アルバム]]や[[日記]]などがあったとされるが、人皮製の装丁本やランプのシェードなどイルゼが作ったという品物は後に見つかっておらず&amp;lt;ref name=straightdope&amp;gt;[http://www.straightdope.com/columns/040604.html Did the Nazis make lampshades out of human skin?]&amp;lt;/ref&amp;gt;、物的証拠の無い中での証言となっている。ただし、臓器標本や、刺青入りの切り取られた皮膚は現存していて、ブーフェンバルトの記念館に収蔵されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大衆文化 ==&lt;br /&gt;
収容所におけるイルゼの行状は、虚実を交えて戦後広く知られるようになった。このため、イルゼに何らかの着想を得たといえるフィクション作品はいろいろある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[リナ・ウェルトミューラー]]監督のイタリア映画『''[[:en:Seven Beauties|Seven Beauties]]''』([[1975年]]) で、主人公が誘惑する醜い大女の収容所長は、イルゼをモデルとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、『[[イルザ ナチ女収容所 悪魔の生体実験]]』([[1974年]]) なるポルノ映画も北米で製作されている。ただし、この映画はあくまでも史実を踏まえないフィクション作品であり、主人公は現実のイルゼとは異なる設定がなされている。イルゼがモデルというより、彼女や[[イルマ・グレーゼ]]など収容所の女性看守をめぐる多くの虚実から着想を得た作品である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2008年]]の英独合作映画『[[愛を読むひと]]』で[[ケイト・ウィンスレット]]が演じたハンナ・シュミッツは、イルゼがモデルではないかと話題になった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.guardian.co.uk/film/2009/jan/18/winslet-reader http://www.guardian.co.uk/film/2009/jan/18/winslet-reader]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、原作となった小説『朗読者』の著者[[ベルンハルト・シュリンク]]は、インタビューでこれを否定している&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.youtube.com/watch?v=TsbptLzHye4 Bernhard Schlink author of 'The Reader' on Q TV]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イギリスのコメディ番組『[[空飛ぶモンティ・パイソン]]』第1シリーズ第12話のスケッチ「ヒトラーのいる民宿」では、[[ジョン・クリーズ]]演じるヒルター（ヒトラーのパロディ）が「今度余計なことを言ったらお前らをランプシェードにしてやる！」と怒鳴るシーンがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米国のテレビドラマシリーズ『[[CSI:ニューヨーク]]』の第5シーズン第22話「[[:en:Yahrzeit (CSI: NY)|Yahrzeit]]」は、[[ホロコースト]]関係の品物がオークションで売られているという話が取り上げられ、後半ではホロコースト当時の犯罪にも話が展開する。殺人事件の被害者の遺品にあったホロコースト関係の品物の中に、DNA検査の結果人間の皮膚で作られたものと判明したランプシェードが見つかる（人間の皮で作ったランプシェードはイルゼに限らず広くナチスのものとして知られるフィクションである。なお、ナチスドイツ時代のものは見つかっていないが、アメリカでは[[エド・ゲイン]]が墓地の死体から作っている）。CSIチームの主任[[CSI:ニューヨーク#.E4.B8.BB.E8.A6.81.E4.BA.BA.E7.89.A9|マック・テイラー]]は、[[ブーヘンヴァルト強制収容所]]所長の妻が、収容者を裸にして一列に並ばせ、好みの入れ墨を見つけては皮膚を切り取り、鞣してランプシェードにしていた、という話をする。これはイルゼ・コッホへの言及である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div class=&amp;quot;references-small&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;references /&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[イルザ ナチ女収容所 悪魔の生体実験]]（1974年）&lt;br /&gt;
* [[戦争犯罪]]&lt;br /&gt;
* [[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]&lt;br /&gt;
* [[メイル・レイプ]]&lt;br /&gt;
* [[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]&lt;br /&gt;
* [[イルマ・グレーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[エド・ゲイン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Ilse Koch}}&lt;br /&gt;
* [http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/biography/ikoch.html Jewish Virtual Library - Ilse Koch]&lt;br /&gt;
* [http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/skin.html Frau Ilse Koch, General Lucius Clay, and Human-Skin Atrocities]&lt;br /&gt;
* [http://www.straightdope.com/columns/040604.html Did the Nazis make lampshades out of human skin?]&lt;br /&gt;
* [http://www.scrapbookpages.com/DachauScrapbook/DachauTrials/IlseKoch.html Ilse Koch on trial at Dachau for making human lamp shades at Buchenwald]&lt;br /&gt;
* [http://media.www.hlrecord.org/media/paper609/news/2005/11/10/Opinion/Books.Bound.In.Human.Skin.Lampshade.Myth-1054759.shtml?sourcedomain=www.hlrecord.org&amp;amp;MIIHost=media.collegepublisher.com Photo from Buchenwald]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こつほ いるせ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ強制収容所看守]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:獄死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドレスデン出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1906年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:美人]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>ヘルタ・オーバーホイザー</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''ヘルタ・オーバーホイザー'''（''Herta Oberheuser''、1911年5月15日 – 1978年1月24日）は、[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ヘルタ・オーバーホイザー'''（''Herta Oberheuser''、[[1911年]][[5月15日]] – [[1978年]][[1月24日]]）は、[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]の[[女性]][[医師]]。1940年から1943年にかけて[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]の医官をつとめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ボン]]や[[デュッセルドルフ]]で医学を学ぶ。1935年に[[ドイツ女子同盟]]に加入、1937年に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチス党）に入党。1940年から1943年にかけて女性用の強制収容所[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]で収容所医師として働き、同収容所で行われた[[カール・ゲプハルト]]の女性への人体実験に際して助手として働いた。彼女が関与した人体実験の被害者は86人に及び、そのうち74人はポーランド政治犯の女囚であった。また健康な子供たちを対象に手足や臓器を切り取り、その後[[:en:Hexobarbital|エヴィパン]]注射で殺害する実験にも関与。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1943年以降、ゲプハルトが院長をしているホーヘンリュッヘン病院（Hohenlychen Sanatorium）に転属した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、[[ニュルンベルク継続裁判]]の[[医者裁判]]にかけられた。裁判の中で唯一の女性被告であった。20年の懲役刑に処された。しかし1952年4月に釈放された。その後、また医師をしていたが、1956年にラーフェンスブリュック強制収容所の生存者に発見されて問題となり、1958年には医師免許を剥奪された。1978年に[[リンツ・アム・ライン]]（Linz am Rhein）で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.deathcamps.info/Auschwitz/Albums/Album3/Large/hoberheuser.jpg ヘルタ・オーバーホイザーの画像]&lt;br /&gt;
* [http://www.auschwitz.dk/Women/Oberheuser.htm ヘルタ・オーバーホイザー]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:おはほいさへるた}}&lt;br /&gt;
[[Category:1911年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1978年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの医師]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ強制収容所看守]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニュルンベルク継続裁判]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:美人]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B3%E8%89%AF%E3%81%99%E3%81%8E%E3%82%8B%E5%A7%90%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=228628</id>
		<title>カッコ良すぎる姐の一覧</title>
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				<updated>2014-05-17T17:50:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''カッコ良すぎる姐の一覧'''（かっこよすぎるおんなのいちらん）は、カッコ良い容姿や生き様の女の一覧である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* [[浅田真央]]&lt;br /&gt;
* [[荒川静香]]&lt;br /&gt;
* [[安藤美姫]]&lt;br /&gt;
* [[上野由岐子]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルタ・オーバーホイザー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== か行 ==&lt;br /&gt;
* [[北乃きい]]&lt;br /&gt;
* [[ゲルダ・クリスティアン]]&lt;br /&gt;
* [[クルム伊達公子]]&lt;br /&gt;
* [[イルマ・グレーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[イルゼ・コッホ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== さ行 ==&lt;br /&gt;
* [[澤穂希]]&lt;br /&gt;
* [[村主章枝]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
* [[高島美紀子]]&lt;br /&gt;
* [[宝野アリカ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
* [[中島みゆき]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* [[クララ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[エヴァ・ブラウン]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルタ・ボーテ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* [[松本薫]]&lt;br /&gt;
* [[松葉裕子 (右翼運動家)|松葉裕子]]&lt;br /&gt;
* [[マリア・マンデル]]&lt;br /&gt;
* [[ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
* [[トラウデル・ユンゲ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* [[ゲリ・ラウバル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
* [[ヴィニフレート・ワーグナー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カワイすぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カワイすぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソババアの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソババア殿堂入りの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{勇者}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かつこよすきるおんな}}&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる姐|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧]]&lt;br /&gt;
[[Category:美人]]&lt;br /&gt;
[[Category:勇者]]&lt;br /&gt;
[[Category:神]]&lt;br /&gt;
[[Category:天才]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BC&amp;diff=228627</id>
		<title>イルマ・グレーゼ</title>
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				<updated>2014-05-17T17:34:51Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「イルマ・グレーゼ（[[1945年8月撮影）]] '''イルマ・グレーゼ'''（''Irma Grese'', 1923年10月7日 - [[1945...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:Irma Grese.jpg|300px|thumb|イルマ・グレーゼ（[[1945年]]8月撮影）]]&lt;br /&gt;
'''イルマ・グレーゼ'''（''Irma Grese'', [[1923年]][[10月7日]] - [[1945年]][[12月3日]]）は[[アウシュヴィッツ＝ビルケナウ強制収容所]](以下「アウシュビッツ強制収容所」と称する)ならびに[[ベルゲン・ベルゼン強制収容所]]の女性看守。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
元々[[ナチス]]の一組織[[ドイツ女子同盟]](BDM)に深く共鳴し、15歳で学校を辞めた後、[[親衛隊]]幹部の[[サナトリウム]]で[[看護師]]などをしていたが、18歳のときに[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]で看守として訓練を受け、19歳のときにアウシュビッツ強制収容所に配属され、連絡主任にまで出世する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 収容所での振る舞い ==&lt;br /&gt;
アウシュビッツ強制収容所の囚人女医[[ジゼラ・ペルル]]によると、風貌は美しい天使の如き無垢な顔の少女であったが、女性看守の中では最も残酷な看守であり、ユダヤ人女性の乳房に鞭を振るって大ケガをさせ、それに心的快感を得ると言うサディスティックな側面を持っていたと言う。また、[[ヨーゼフ・メンゲレ]]らとの醜聞の噂も絶えず、堕胎手術を頼んだ事もあったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、ガス室行きが決定された囚人に犬をけしかけて噛み付かせたりする行為等、収容所を説明する数々の文献には悪名高き者として取り上げられる事も多く、[[ベルゲン・ベルゼン強制収容所]]の元収容者、[[バリー・スパンヤード]]は解放後にイルマの悪事の数々を自著に綴った上で「石の心を持つ女」と講演等において激越に批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ベルゼン裁判 ==&lt;br /&gt;
ドイツ降伏直前の[[1945年]][[4月17日]]ベルゼンに攻め入ったイギリス軍によってイルマは逮捕され、ナチスの数々の非人道に対する罪を裁くベルゼン裁判で「戦争犯罪裁判規定」第4条に基きコンウォール公軽歩兵第五連隊よりベルゼン所長[[ヨーゼフ・クラーマー]]を含む他の43名と共に戦争犯罪の罪状で起訴されている。同年[[11月17日]]に死刑判決を受け、翌月の[[12月3日]]にイギリスの[[死刑執行人]][[アルバート・ピエレポイント]]の手で刑が執行される。22歳の[[刑死]]だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[アウシュヴィッツ＝ビルケナウ強制収容所]]&lt;br /&gt;
* [[ベルゲン・ベルゼン強制収容所]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーゼフ・メンゲレ]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーゼフ・クラマー]]&lt;br /&gt;
* [[アルバート・ピエレポイント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commons|Category:Irma Grese|イルマ・グレーゼ}}&lt;br /&gt;
* [http://www.bis.uni-oldenburg.de/bisverlag/taaang98/kap6.pdf Bericht über den Prozess gegen Irma Grese (Universität Oldenburg)] ([[PDF]])&lt;br /&gt;
* [http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=BKK0000639 SUCRA イルマ・グレーゼ　「美しき野獣」か「偽証の犠牲者」か：戦争犯罪裁判のテキスト・クイリティーク]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:くれせ いるま}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ強制収容所看守]]&lt;br /&gt;
[[Category:ホロコースト]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1923年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1945年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:アウシュヴィッツ強制収容所職員]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:美人]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB&amp;diff=228626</id>
		<title>マリア・マンデル</title>
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				<updated>2014-05-17T17:28:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''マリア・マンデル'''（''Maria Mandel''、1912年1月10日 - 1948年1月24日）はナチス・ドイツの[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''マリア・マンデル'''（''Maria Mandel''、[[1912年]][[1月10日]] - [[1948年]][[1月24日]]）は[[ナチス・ドイツ]]の[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]における女性隊員。[[アウシュヴィッツ＝ビルケナウ強制収容所]]の囚人管理長 ([[:en:SS-Oberaufseherin]]) を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[オーストリア]]に生まれ、[[1938年]]に親衛隊に入隊。[[アウシュヴィッツ＝ビルケナウ強制収容所]]所長[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]の指示の下に管理した。一説には、彼女の命令によって50万人を超える女囚（[[ユダヤ人]]、[[ロマ]]、[[政治犯]]など）が殺されたとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツの敗北後逃亡するも1945年8月に米軍によって拘束され、翌1946年11月に[[ポーランド]]に引き渡され、1947年11月に死刑判決を受け、翌1948年1月に絞首刑を執行された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:まんてる まりあ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ強制収容所看守]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ホロコースト]]&lt;br /&gt;
[[Category:1912年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1948年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:アウシュヴィッツ強制収容所職員]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる姐]]&lt;br /&gt;
[[Category:美人]]&lt;br /&gt;
{{People-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>カワイすぎる姐の一覧</title>
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				<updated>2014-05-17T17:26:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''カワイすぎる姐の一覧'''（かわいすぎるおんなのいちらん）は、カワイイ容姿や生き様の女の一覧である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* [[蛯原友里]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== か行 ==&lt;br /&gt;
* [[北川景子]]&lt;br /&gt;
* [[桐谷美玲]]&lt;br /&gt;
* [[ゲルダ・クリスティアン]]&lt;br /&gt;
* [[イルマ・グレーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[黒木メイサ]]&lt;br /&gt;
* [[小嶋陽菜]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== さ行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* [[橋本奈々未]]&lt;br /&gt;
* [[クララ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[エヴァ・ブラウン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* [[松葉裕子 (右翼運動家)|松葉裕子]]&lt;br /&gt;
* [[マリア・マンデル]]&lt;br /&gt;
* [[ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
* [[トラウデル・ユンゲ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* [[ゲリ・ラウバル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
* [[ヴィニフレート・ワーグナー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カワイすぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソババアの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソババア殿堂入りの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{勇者}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:かわいすきるおんな}}&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる姐|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧]]&lt;br /&gt;
[[Category:美人]]&lt;br /&gt;
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		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>カワイすぎる漢の一覧</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''カワイすぎる漢の一覧'''（かわいすぎるおとこのいちらん）は、カワイイ容姿や生き様の男の一覧である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* [[マックス・アマン]]&lt;br /&gt;
* [[フリッツ・ヴィーデマン]]&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
== か行 ==&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・ゲーリング]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーゼフ・ゲッベルス]]&lt;br /&gt;
* [[エーリヒ・ケンプカ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== さ行 ==&lt;br /&gt;
* [[エルンスト＝ギュンター・シェンク]]&lt;br /&gt;
* [[ユリウス・シャウブ]]&lt;br /&gt;
* [[フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ]]&lt;br /&gt;
* [[ルドルフ・シュムント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
* [[泊優稀撲滅委員会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* [[ヴェルナー・ハーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[フランツ・フォン・パーペン]]&lt;br /&gt;
* [[アドルフ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[アロイス・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ヒムラー]]&lt;br /&gt;
* [[ヴァルター・ブーフ]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・フェーゲライン]]&lt;br /&gt;
* [[カール・ブラント]]&lt;br /&gt;
* [[ハインツ・ブラント]]&lt;br /&gt;
* [[ヴィルヘルム・ブリュックナー]]&lt;br /&gt;
* [[ヴィルヘルム・ブルクドルフ]]&lt;br /&gt;
* [[ルドルフ・ヘス]]&lt;br /&gt;
* [[フリードリヒ・ホスバッハ]]&lt;br /&gt;
* [[マルティン・ボルマン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* [[エミール・モーリス]]&lt;br /&gt;
* [[テオドール・モレル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* [[ハインツ・リンゲ]]&lt;br /&gt;
* [[エルンスト・レーム]]&lt;br /&gt;
* [[エルヴィン・ロンメル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カワイすぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソジジイの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソジジイ殿堂入りの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{勇者}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かわいすきるおとこのいちらん}}&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|かわいすきるおとこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:イケメン]]&lt;br /&gt;
[[Category:勇者]]&lt;br /&gt;
[[Category:神]]&lt;br /&gt;
[[Category:天才]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%EF%BC%9D%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%AF&amp;diff=228623</id>
		<title>エルンスト＝ギュンター・シェンク</title>
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				<updated>2014-05-17T17:00:34Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 著作 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''エルンスト＝ギュンター・シェンク'''（Ernst-Günther Schenck、[[1904年]][[10月3日]] - [[1998年]][[12月21日]]）はドイツの軍人、医師。最終階級は[[親衛隊大佐]]（SS-Standartenführer）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[内科学|内科]]医。[[1933年]]に[[突撃隊]]に入隊。[[ダッハウ強制収容所]]に勤務する。収容所内に広大な[[ハーブ]]農園を造営し、[[武装親衛隊]]員への[[ビタミン]]補給の研究に当たる。[[1940年]]には武装親衛隊の栄養検査官に就任し、兵士への栄養補給の研究を行う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1945年]]の[[ベルリンの戦い|ベルリン攻防戦]]では[[ヴェルナー・ハーゼ]]博士を補助し、戦傷者の治療に当たる。ハーゼは同じ内科医であったが、手術経験が有り、手術経験のないシェンクを指導して手術を行った。また、ハーゼが[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の内科主治医であったため、ハーゼと共に総統官邸地下壕に行き、ヒトラーの様子を間近で見る機会を得た。心酔していたヒトラーの状況を見てシェンクは愕然とするが、医師としての観察により、ヒトラーが[[パーキンソン病]]に罹患していると判断した。ベルリン防衛軍の降伏と共にソ連軍に降伏し、[[捕虜]]となる。[[1955年]]、ソ連から拘束を解かれ、[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]に帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰国後、[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]でハーブ園建設にあたり過酷な[[強制労働]]により100名以上の囚人を死亡させたこと、栄養補給研究のために数々の[[人体実験]]を行い、囚人を殺害したことから裁判にかけられ、有罪となる。戦後西側で存命した、数少ない晩年のヒトラーを身近で観察した医師であるため、ヒトラーの病状を判断できる貴重な証言と著作がある。[[1998年]][[アーヘン]]で死亡。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作 ==&lt;br /&gt;
* 『Dr. Morell. Hitlers Leibarzt und seine Medikamente 』、ISBN 3926584521&lt;br /&gt;
* 『Das Notlazarett unter der Reichskanzlei』、ISBN 3893916016&lt;br /&gt;
* 『Patient Hitler. Eine medizinische Biographie』、ISBN 377000776X&lt;br /&gt;
* 『Ich sah Berlin sterben. Als Arzt in der Reichskanzlei』、ISBN 3875840151&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しえんく えるんすときゆんた}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの内科医]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの軍医]]&lt;br /&gt;
[[Category:突撃隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ強制収容所看守]]&lt;br /&gt;
[[Category:捕虜となった人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:マールブルク出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1904年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1998年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%BC&amp;diff=228622</id>
		<title>ヴェルナー・ハーゼ</title>
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				<updated>2014-05-17T17:00:04Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 映画 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ヴェルナー・ハーゼ'''（Werner Haase, [[1900年]][[8月2日]] - [[1950年]][[11月30日]]）は、[[ドイツ人]]の[[親衛隊]][[軍医]]で、[[アドルフ・ヒトラー]]の主治医の一人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ザクセン＝アンハルト州]]ケーテン出身。1933年に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]入党、1941年から親衛隊に所属。1945年時点での階級は[[親衛隊中佐]]。1935年からヒトラーの医師団の一員となった。ヒトラーの個人的信頼を得ていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年4月の[[ベルリン市街戦]]では、[[エルンスト・ギュンター・シェンク]]とともに軍医として[[総統官邸]]にあった。4月29日に[[総統地下壕]]に呼ばれ、ヒトラーの主治医[[ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー]]が、ヒトラーが自殺に使う青酸カリを試験するためにヒトラーの愛犬[[ブロンディ (犬)|ブロンディ]]に毒を飲ませるのを手伝った。ヒトラーの自殺（4月30日）後は総統地下壕の隣の地下壕に移り、そこで[[赤軍|ソ連軍]]の捕虜となった。5月6日、ソ連軍に命じられて[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]とその妻[[マグダ・ゲッベルス|マグダ]]、6人の子供たちの検死に立ち会った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年6月にナチスの一味として裁判にかけられ投獄される。[[ソビエト連邦|ソ連]]による囚われの身のまま、1950年11月に[[結核]]で死亡。ソ連側の記録によれば、死亡地は[[モスクワ]]にあるブトリュカ刑務所の病院とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロシア政府が1991年10月18日に制定した「政治的弾圧の犠牲者の名誉回復に関する法律」に基づき、1992年4月28日に名誉回復された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 映画 ==&lt;br /&gt;
映画『[[ヒトラー 〜最期の12日間〜]]』では[[マティアス・ハビッヒ]]が演じているが、彼は当時44歳というハーゼの年齢よりもだいぶ老けて見える。献身的に負傷者の治療に当たる医師として、比較的好意的に描かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はあせ うえるなあ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの軍医]]&lt;br /&gt;
[[Category:捕虜となった人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:獄死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:結核で死亡した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ザクセン＝アンハルト州出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1900年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1950年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&amp;diff=228621</id>
		<title>カール・ブラント</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&amp;diff=228621"/>
				<updated>2014-05-17T16:59:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 参考文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''カール・ブラント'''（Karl Brandt、[[1904年]][[1月8日]] - [[1948年]][[6月2日]]）はドイツの医師。ドイツの政治家[[アドルフ・ヒトラー]]の主治医だった人物。1939年から精神障害者・身体障害者などの安楽死計画「[[T4作戦]]」の責任者となり、多数の人間を安楽死に追い込んだ。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]における最終階級は[[親衛隊中将]]及び武装親衛隊中将（SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Waffen-SS）。医学博士号（Dr.med）所持。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ドイツ帝国]][[アルザス＝ロレーヌ|帝国直轄州エルザス＝ロートリンゲン]]に属していたエルザス地方の[[ミュルーズ|ミュールハウゼン]]（Mülhausen）で生まれる（現在はフランス領である）。[[ドレスデン大学]]、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]、[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]などに在学して医学を学び、ベルリン大学在学中の1928年に州医師試験に合格した。1929年にフライブルク大学から医学博士号（Dr.med）を贈られる。1930年に医師免許を取得。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1932年3月1日に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）に参加する（党員番号1,009,617）。はじめ[[突撃隊]]に入隊。1933年8月15日にヒトラーの副官[[ヴィルヘルム・ブリュックナー]]が自動車事故を起こして大けがをした際に彼の手術と看病に当たった。そのことが総統[[アドルフ・ヒトラー]]の耳に入り、ヒトラーは彼を医師にしようと決意した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1934年3月1日に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に移籍が命じられるとともに、総統付医師（Leibarzt des Führer und ReichsKanzlers）に任命され、ヒトラーのそば近くに仕えるようになった。1934年7月29日に正式に親衛隊に入隊（隊員番号260,353）。1936年から1940年にかけて[[親衛隊本部]]に勤務。1939年10月頃、[[フィリップ・ボウラー]]とともにT4作戦の監督に任ぜられた。1943年からは戦傷者・空襲負傷者の治療の余裕を作るため、「治療しても仕方がない精神病患者」を安楽死させる計画が実行された。この計画はブラントの名をとってブラント作戦と名付けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし1944年10月5日、[[ハンス・カール・フォン・ハッセルバッハ]]医師（Hans Karl von Hasselbach）とともに[[テオドール・モレル]]医学博士がヒトラーに処方していた薬に反対する報告書をヒトラーに提出したことで信任を失い、[[マルティン・ボルマン]]から総統付医師職の解任を告げられた。家族をベルリンから離したりしたこともあり、ヒトラー自身もブラントに怒りを募らせていた。1945年4月16日には[[ゲシュタポ]]に逮捕されてその翌日に死刑判決を受けるが、数日後、[[カール・デーニッツ]]の指令で解放される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、イギリスに逮捕され、アメリカ軍による[[ニュルンベルク継続裁判]]の[[医者裁判]]にかけられた。ここで、彼は冷凍実験等について尋問されるが、それでも意志を曲げず「ヒトラーの命令通りに執行した」と自己弁護をするが、侵略戦争などの計画、実行と戦争犯罪と非人道的犯罪の罪により有罪となった。判決は死刑だった。医学の研究の為に献体の旨を申し込んだが、却下された。1948年に[[ランツベルク刑務所]]で他の6人（フィクトール・ブラック、[[ヴァルデマール・ホーフェン]]、[[ヴォルフラム・ジーヴァス]]、[[ルドルフ・ブラント]]、[[カール・ゲープハルト]]とヨアヒム・ムルゴウスキー）と絞首刑に処された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
絞首刑に処される前にこう残した。おそらく冒頭の「ある国家」はアメリカを指しているのだと推測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「どうしてあらゆる観点からみて人体実験の最先端にある国家が、なぜその国家が只々その実験を真似てみた他の国家を疑い裁こうとする神経を持てるのか。安楽死でさえも！ドイツとその長引いてしまった惨状を見てみろ。それは、もちろん、この国家が広島と長崎の件で罪深いという事でさえ、自国の無比の道徳に呑み込まれてしまうほど小さなことだから驚く事は無い。（ドイツは）法律を決して歪めたのではない、正義なんて元々無かったんだ！これっぽちの正義もな。やはり権力がすべてを独裁してしまう。そして、この権力は被害を蒙ることを願っている。私たちはなんて被害に遭うことになるんだろうか。私もなんて被害者だ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「土壇場の上に立つことは何も恥ずかしいことではないんだ。これは、政治的復讐以外の何物でもないのだから。私は他の市民みたいに御国の為に戦ってきたのだから…」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、この続きは頭巾を被せられて声が遮られ、記録班に聞き取れなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キャリア ==&lt;br /&gt;
=== 階級&amp;lt;ref&amp;gt;『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』168ページ&amp;lt;/ref&amp;gt; ===&lt;br /&gt;
* 1933年、[[突撃隊上級曹長]](SA-Obertruppführer)&lt;br /&gt;
* 1934年7月29日、[[親衛隊志願兵]](SS-Anwärter)&lt;br /&gt;
* 1934年8月1日、[[親衛隊二等兵]]（SS-mann）&lt;br /&gt;
* 1934年8月1日、[[親衛隊曹長]]（SS-Truppführer）&lt;br /&gt;
* 1934年8月14日、[[親衛隊少尉]](SS-Sturmführer)&lt;br /&gt;
* 1934年8月14日、[[親衛隊中尉]] （SS-Obersturmführer）&lt;br /&gt;
* 1935年7月、伍長（Gefreiter）&lt;br /&gt;
* 1936年9月13日、[[親衛隊大尉]] （SS-Hauptsturmführer）&lt;br /&gt;
* 1936年11月、陸軍軍医候補生(Unterarzt.(Heer))&lt;br /&gt;
* 1937年11月9日、[[親衛隊少佐]]（SS-Sturmbannführer）&lt;br /&gt;
* 1939年8月5日、 [[親衛隊中佐]]（SS-Obersturmbannführer）&lt;br /&gt;
* 1940年5月15日、武装[[親衛隊中佐]]（SS-Obersturmbannführer der Waffen-SS.）&lt;br /&gt;
* 1940年5月27日、武装親衛隊軍医中佐（Oberfeldarzt der Waffen-SS.）&lt;br /&gt;
* 1942年8月1日、武装[[親衛隊大佐]]（SS-Standartenführer der Waffen-SS）&lt;br /&gt;
* 1942年9月3日、予備役軍医大佐（Oberstarzt d.R.）&lt;br /&gt;
* 1943年1月30日、[[親衛隊少将]]及び武装親衛隊少将（SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS）&lt;br /&gt;
* 1943年3月1日、予備役陸軍軍医少将（Generalarzt d.R.(Heer)）&lt;br /&gt;
* 1944年4月20日、[[親衛隊中将]]及び武装親衛隊中将（SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Waffen-SS）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 受章&amp;lt;ref&amp;gt;『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』175ページ&amp;lt;/ref&amp;gt; ===&lt;br /&gt;
* [[黄金ナチ党員バッジ]]（1943年1月30日）&lt;br /&gt;
* [[勤続章]]（Dienstauszeichnung）&lt;br /&gt;
** ナチ党勤続章&lt;br /&gt;
*** 銅章&lt;br /&gt;
* [[SAスポーツバッジ]]（SA-Sportabzeichen）&lt;br /&gt;
** 銅章（1937年12月1日）&lt;br /&gt;
* [[親衛隊全国指導者名誉長剣]]（1938年3月1日）&lt;br /&gt;
* [[親衛隊名誉リング]]（1936年5月11日）&lt;br /&gt;
* [[親衛隊私服ピン]]（64,820番）（SS-Zivilabzeichen）&lt;br /&gt;
* [[親衛隊冬至祭燭台]]（SS-Julleuchter）&lt;br /&gt;
* [[アルテケンプファー章]]（Ehrenwinkel der Alten Kämpfer）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）（英語）ISBN 9329700373&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふらんと かる}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの医師]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:突撃隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニュルンベルク継続裁判]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1904年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1948年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%83%AB&amp;diff=228620</id>
		<title>テオドール・モレル</title>
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				<updated>2014-05-17T16:58:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 脚注 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''テオドール・ギルベルト・モレル'''（{{lang-de-short|Theodor Gilbert Morell}}, [[1886年]][[7月22日]] - [[1948年]][[5月26日]]）は、[[ドイツ]]の医師。[[アドルフ・ヒトラー]]の主治医を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 前半生 ==&lt;br /&gt;
[[1886年]][[7月22日]]、モレルは[[ヘッセン州]]のトライス＝ミュンツェンベルクという小さな村で小学校教師の次男として生まれた。[[1910年]]からモレルはフランスの[[グルノーブル]]と[[パリ]]で[[産婦人科学|産婦人科]]を、ミュンヘンで[[内科学|内科]]を学んだ。1913年に博士号を取得し、医師として認められた。その後彼は[[ディッツェンバッハ]]の[[クルーズ船]]で医者としての経験を積んだ。[[第一次世界大戦]]が勃発すると、彼は前線勤務の医務官となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
復員後、1919年までにはミュンヘンで開業した。1920年には裕福な[[俳優|女優]]であるヨハンナ・モーラーと結婚した。彼は型破りな手段で、富裕層の顧客を獲得しようとした。[[ペルシア]]王と[[ルーマニア]]王から主治医になるよう要請を受けたが断った、大学で薬学を教えていた、ノーベル賞学者[[イリヤ・メチニコフ]]の元で医療を学んだなどと主張しており、時には教授と自称していた。また彼は複数の製薬会社にかなりの金額を出資していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]が勢力を拡大すると、顧客の多くが[[ユダヤ人]]であり、また風采がユダヤ人に似ている彼の生活は脅かされるようになった。そのため[[1933年]]4月にはナチス党に入党し、[[ベルリン]]の高級住宅街[[クーアフェルステンダム]]に移転して皮膚科・性病科として再開業した。1936年、彼はナチス党お抱えの写真師である[[ハインリヒ・ホフマン (写真家)|ハインリヒ・ホフマン]]の[[淋病]]を治療した。また、かつてホフマンのアシスタントを務めており、ヒトラーの愛人となっていた[[エヴァ・ブラウン]]の母親の病気も治療したという。以降モレル夫妻はホフマンやブラウンと親交を結んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ヒトラーの主治医 ==&lt;br /&gt;
ヒトラーは1936年の秋頃から、[[湿疹]]や絶え間ない[[屁|放屁]]、胃[[痙攣]]、[[便秘]]、心臓の圧迫感に悩まされていた。当時のドイツ医学界のトップにある[[ドイツ赤十字病院]]院長の[[エルンスト＝ロベルト・グラヴィッツ]]（Ernst-Robert Grawitz）などの治療を受けていたが、疲労と心労によるものであり、根治はできなかった。ブラウンによると、ヒトラーはこの変調を[[癌]]だと思い込んでおり、「私はもうすぐ死ぬ」などと口走るようになったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
病状を見かねたブラウンは、1936年12月24日に[[ベルヒテスガーデン]]の[[ベルクホーフ]]でモレルをヒトラーに紹介した。モレルはヒトラーを診察し丸薬を処方したところ、放屁や胃痛がなくなったため、ヒトラーは直ちにモレルを主治医として迎え入れた。しかしモレルの薬には[[ストリキニーネ]]等の劇物が含まれており、依存性・習慣性の強いものであった。処方を受けてから2時間ほどするとヒトラーは体調の悪化を訴え、モレルはその度に薬を処方した。このためヒトラーの健康は徐々に蝕まれていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モレルはヒトラーが不調を訴えるたびに投薬や注射を簡単に行った。このため[[ヘルマン・ゲーリング]]はモレルのことを「Der Reichsspritzenmeister」（国家注射マスター）といったあだ名で呼んだ。やがてブラウンや[[クリスタ・シュレーダー]]（Christa Schroeder）といった側近者はモレルに対して不信感を募らせるようになった。ブラウンはモレルの部屋を「豚小屋」と呼び、彼に会うのを拒絶した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モレルは[[アルベルト・シュペーア]]や[[ハインリヒ・ヒムラー]]といった高官の治療も行ったが、すぐに彼らは治療を中断した。シュペーアはモレルの治療を受けて薬を処方されたが、念のために[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]福祉病院教授ベルクマンに薬を調べてもらうと「非科学的、冒険的で習慣性の危険がある」と勧告された。シュペーアはベルクマンの指示に従って短期間に回復した。シュペーアははっきりとモレルのことを「[[藪医者]]」とは思っていなかったが、ヒトラーの主治医という地位を得たことでいい加減な治療をするようになり、医療行為より金に執着する人物として描写している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主治医の地位を得たモレルは1933年以来ヒトラーの主治医を務めていた[[カール・ブラント]]と、主治医のトップの座をめぐって競争を行った。しかしブラントとモレルが争うと、ヒトラーはたいていモレルに同調したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1939年、ヒトラーは[[チェコスロバキア]]の大統領、[[エミール・ハーハ]]を総統官邸に呼びつけ、[[チェコスロバキア併合]]に同意するように恫喝した。ハーハは心臓発作を起こし倒れたが、モレルの注射によって蘇生した。蘇生したハーハはチェコ併合に同意せざるを得ず、チェコスロバキアは消滅することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 第二次世界大戦 ==&lt;br /&gt;
第二次世界大戦が始まると、モレルはヒトラーの側近くに随行し、[[総統大本営]]で勤務した。1940年頃からヒトラーは体調を崩し、呼吸困難を訴えた。モレルは胸膜炎を疑い、密かに偽名の心電図をバート・ナノハイム心臓病研究所のウェーバー博士に渡して診断させた。ウェーバーの診察では「患者は間違いなく実質的な不治の心臓病にかかっている」「今後常に[[狭心症]]や[[塞栓症]]の危険がつきまとう」というものであった&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima&amp;quot;&amp;gt;[[児島襄]]『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』（[[文春文庫]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。モレルはヒトラーに対しては告げなかったが、密かに心臓病治療のため[[ストロファンチン]]（後に[[プロストロファンタ]]）や[[シンパソル]]の投与を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、モレルは自ら総合[[ビタミン]]薬『ビタマルチン』や[[シラミ]]駆除薬『ラスラ』などの薬品を開発した。これらの薬品は総統命令により第一線の兵士に支給された。しかし「ビタマルチン」は「なんの効果もないほどビタミン含有量が少ない」と軍医に指摘され、『ラスラ』は「容器の蓋を開けた瞬間すさまじい悪臭で、兵士が逃げ出す」と抗議された&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1944年7月20日に発生した[[ヒトラー暗殺計画#1944年7月20日の暗殺未遂事件|ヒトラー暗殺未遂事件]]の際にもヒトラーの治療に当たっている。この際にはアメリカ陸軍で使用され始めていた[[ペニシリン]]を投与したという。ただし、彼がどこからペニシリンを入手したかはわかっておらず、戦後の尋問でもペニシリンについては完全に知らないと述べたという。しかしヒトラーの側近者の中には、モレルが非正規品のペニシリンを製造する会社に関与していたと主張する者もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月中旬頃までヒトラーは右手の麻痺と頭痛に見舞われた。モレルは自身が所有する製薬工場で作った「ウルトラセプティル」という[[サルファ薬]]を処方したが、効果は見られなかった。[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]の耳鼻咽喉科教授[[オットー・フォン・アイケン]] (Otto Carl von Eicken) はすでに薬効が証明されている[[IG・ファルベンインドゥストリー|IG・ファルベン]]社の製品を使うようにすすめたが、モレルは「総統は他の薬にはアレルギー体質を持つ」として拒否した&amp;lt;ref name=&amp;quot;kojima&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月26日、ヒトラーは激しい腹痛に襲われた。モレルは以前の腸疾患の再発と診断して薬を処方したが、ヒトラーはさらに苦しみだした。このためベルリン大学からアイケン教授が呼び寄せられたが、モレルは教授の診察を阻んで追い返した。28日になっても痛みは治まらず、主治医の一人[[エルヴィン・ギージング]]（Erwin Giesing）は[[黄疸]]ではないかと診断したが、モレルは「心労による肝機能障害」と診断した。ヒトラーは大量の[[ひまし油]]を飲まされ、[[カモミール]]液で浣腸された。このためヒトラーは激しい下痢に襲われ、一日で体重が2.4kg減少したという。それでも胃痛は治まらず、尿からは黄疸の症状を疑わせる診断結果が出た。しかしモレルはその検査結果を金庫に隠し、他の主治医に見せなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月1日、ギーシンクはヒトラーに処方されたモレルの薬を服用してみた。薬には[[アトロピン]]やストリキニーネといった劇物が含まれており、ヒトラーが普段訴えている体調悪化と同じ症状が出た。このためギーシンクとブラントはヒトラーに対してモレルの解任を進言した。しかしヒトラーはヒムラーにモレルの尋問を行わせ、対応を一任した。ヒムラーに尋問されたモレルは診察結果を隠していたことを明かし、薬の危険性についても告白した。この結果を受けたヒムラーは、逆にギーシンクとブラントなどの医師を解任し、モレルを主治医として残した。これはモレルに対するヒトラーの信任を重視したための措置であった。ただしヒトラーの健康管理には[[ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー]][[親衛隊少佐]]を当たらせることにし、モレルの投薬も一旦中止させた。そのためヒトラーの胃痛はまもなく回復した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしヒトラーの信任はその後も揺らがず、[[ベルリンの戦い]]で首都が包囲された1945年4月の段階までモレルは主治医を務めていた。この頃のヒトラーへの処方は、数時間おきの[[ブドウ糖]]注射、[[メタンフェタミン]]を含む静脈注射、そして28種類の違った錠剤であったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年4月22日、ヒトラーはこれ以上の治療は必要ないとして、モレルを[[総統地下壕]]から脱出させた。しかしモレルの薬は残されており、主治医の一人[[ヴェルナー・ハーゼ]][[親衛隊中佐]]や[[ハインツ・リンゲ]]によって管理されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 逮捕と死 ==&lt;br /&gt;
モレルはベルリンから脱出する最後の飛行機に乗り込んだが、すぐにアメリカ軍に捕らえられた。[[ブーヘンヴァルト]]捕虜収容所で彼の尋問が行われたが、犯罪に当たるものはなく訴追されなかった。彼の尋問に当たった者の一人は、彼の肥満と不潔さにうんざりしたという。モレルの健康は以後急速に悪化し、肥満と言語障害に苦しんだ。その後1948年5月26日にテーゲルンゼーの病院で死亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ヒトラーに処方された薬 ==&lt;br /&gt;
医師の[[小長谷正明]]は、著書『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足―神経内科からみた20世紀』（中公新書、ISBN 4121014782）で、ヒトラーがモレルを重用したのは自身の[[パーキンソン病]]の症状を抑える薬物（アンフェタミンやアトロピンなど）を容易に処方してくれたからではないか、と推測している。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[アンフェタミン]]&lt;br /&gt;
* [[ベラドンナ]]エキス&lt;br /&gt;
* [[アトロピン]]&lt;br /&gt;
* [[カフェイン]]&lt;br /&gt;
* [[カモミール]]&lt;br /&gt;
* [[コカイン]] （眼痛をおさえる点眼薬として。また、ギーシンクも鎮痛剤として少量投与している）&lt;br /&gt;
* [[大腸菌]]&lt;br /&gt;
* [[酵素]]&lt;br /&gt;
* [[メタンフェタミン]]&lt;br /&gt;
* [[モルヒネ]]&lt;br /&gt;
* [[ストリキニーネ]]&lt;br /&gt;
* [[オキセドリン酒石酸塩]]&lt;br /&gt;
* [[臭化カリウム]]&lt;br /&gt;
* [[プロピフェナゾン]]&lt;br /&gt;
* 動物の組織や脂肪から採取した[[蛋白質]]や[[脂質]]&lt;br /&gt;
* [[バルビタール]]&lt;br /&gt;
* [[スルホンアミド]]&lt;br /&gt;
* [[テストステロン]]&lt;br /&gt;
* [[ビタミン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考資料 ==&lt;br /&gt;
* [[児島襄]]『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』（[[文春文庫]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:もれる ておとる}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの医師]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ帝国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴァイマル共和国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:アドルフ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:1886年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1948年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>エーリヒ・ケンプカ</title>
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				<updated>2014-05-17T16:57:11Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 略歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''エーリヒ・ケンプカ'''（Erich Kempka、[[1910年]][[9月16日]] - [[1975年]][[1月24日]]）は、[[アドルフ・ヒトラー]]の[[運転手]]として知られる人物。[[一般親衛隊]]の隊員でもあり、最終階級は[[親衛隊少佐]]（SS-Sturmbannführer）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[オーバーハウゼン]]に坑夫の息子として生まれる。[[DKW]]で自動車修理工として働いていたが、1930年4月1日に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチス党）に入党（党員番号225,639）。1932年2月までエッセン大管区指導者[[ヨーゼフ・テアボーフェン]]（Josef Terboven）に運転手として仕えた。1932年2月29日に結成されたヒトラーの警護部隊「[[総統随伴部隊]]」（[[:en:SS-Begleitkommando des Führers]]）の8人のうちの1人に選ばれた。テルボーフェンの推薦でアドルフ・ヒトラーの運転手の一人となった。1934年には[[ユリウス・シュレック]]や[[エミール・モーリス]]（Emil Maurice）にかわってヒトラーの最も主要な運転手、従者、ボディーガードとなっていった。[[長いナイフの夜]]の[[エルンスト・レーム]]の逮捕の際にも居合わせた。1937年12月に親衛隊の[[生命の泉]]に入った。[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]より[[親衛隊名誉リング]]を授与された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーの自殺後にヒトラーの遺体を焼いた人物の1人である。ヒトラーの遺体を焼くために200リットルのガソリンを集めるよう命じられていたケンプカだったが、彼は180リットルしか用意できなかった。その後、[[総統地下壕]]を脱出した。[[1945年]][[6月20日]]に[[ベルヒテスガーデン]]で[[アメリカ軍]]に捕まった。その後、ケンプカは[[1947年]][[10月9日]]に釈放された。[[1975年]][[1月24日]]に[[フライベルク・アム・ネッカー]]（Freiberg am Neckar）で死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:けんふかえりひ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:捕虜となった人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:オーバーハウゼン出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1910年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1975年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>利用者:ウーソキマスラの戯言</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%88%AF%E8%A8%80&amp;diff=228618"/>
				<updated>2014-05-17T16:54:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 記事 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:ハーゲンクロイツ.png|400px|thumb|私は[[国家社会主義ドイツ労働者党|この旗を党旗としている政党]]の支持者です。]]&lt;br /&gt;
このページは[[利用者・トーク:ウーソキマスラの戯言|ウーソキマスラの戯言]]の利用者ページです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自己紹介 ==&lt;br /&gt;
主に[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]に関する項目を作成。[[国家社会主義ドイツ労働者党]]の支持者であり[[閣下ヒトラー|アドルフ・ヒトラー総統閣下]]に傾倒しているという点では{{User2|松葉裕子}}さんや{{User2|逝け惰性面}}氏とは同志であるが、断じて[[松葉裕子 (右翼運動家)|松葉]]さんのソックパペットではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作成した項目 ==&lt;br /&gt;
=== 記事 ===&lt;br /&gt;
* [[ハインツ・リンゲ]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・フェーゲライン]]&lt;br /&gt;
* [[ゲルダ・クリスティアン]]&lt;br /&gt;
* [[トラウデル・ユンゲ]]&lt;br /&gt;
* [[エーリヒ・ケンプカ]]&lt;br /&gt;
* [[テオドール・モレル]]&lt;br /&gt;
* [[カール・ブラント]]&lt;br /&gt;
* [[ヴェルナー・ハーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[エルンスト＝ギュンター・シェンク]]&lt;br /&gt;
* [[ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー]]&lt;br /&gt;
* [[カール・マイヤー]]&lt;br /&gt;
* [[エルンスト・レーム]]&lt;br /&gt;
* [[エリック・ヤン・ハヌッセン]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ホフマン (写真家)]]&lt;br /&gt;
* [[ローフス・ミシュ]]&lt;br /&gt;
* [[フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ]]&lt;br /&gt;
* [[ヴァルター・ブーフ]]&lt;br /&gt;
* [[親衛隊]]&lt;br /&gt;
* [[強制収容所]]&lt;br /&gt;
* [[マックス・アマン]]&lt;br /&gt;
* [[突撃隊]]&lt;br /&gt;
* [[長いナイフの夜]]&lt;br /&gt;
* [[指導者原理]]&lt;br /&gt;
* [[第三帝国]]&lt;br /&gt;
* [[ドイツ労働者党]]&lt;br /&gt;
* [[25カ条綱領]]&lt;br /&gt;
* [[武装親衛隊]]&lt;br /&gt;
* [[帝国大管区]]&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義自動車軍団]]&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義航空軍団]]&lt;br /&gt;
* [[エルヴィン・ロンメル]]&lt;br /&gt;
* [[国家弁務官]]&lt;br /&gt;
* [[ゲシュタポ]]&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義女性同盟]]&lt;br /&gt;
* [[ドイツ女子同盟]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 曖昧さ回避ページ ===&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ホフマン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== カテゴリ ===&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の元帥]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の将軍]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の提督]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチス・ドイツの軍事]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチ党全国指導者]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチス・ドイツのプロパガンダ]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:突撃隊隊員]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:突撃隊]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチス・ドイツの事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テンプレート ===&lt;br /&gt;
* [[テンプレート:国家社会主義ドイツ労働者党党首]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%90%8C%E7%9B%9F&amp;diff=228617</id>
		<title>ドイツ女子同盟</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''ドイツ女子同盟'''（ドイツじょしどうめい、Bund Deutscher Mädel）は、1930年から1945年まで存在した、[[ドイツ国 (1933年-1945...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ドイツ女子同盟'''（ドイツじょしどうめい、Bund Deutscher Mädel）は、[[1930年]]から[[1945年]]まで存在した、[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]が[[ドイツ]]に住む未成年の少女を統制するために設立した国家組織である。略称は'''BDM'''。少年によって構成された[[ヒトラーユーゲント]]と対を成す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
訳語は一定しておらず、'''ドイツ少女同盟'''、'''ドイツ少女団'''、'''ドイツ女子団'''とも称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
ドイツ女子同盟は、もともと[[ナチズム]]を信奉する少年の有志で構成されていたヒトラーユーゲントの下位組織として発足したものである。この頃は、ヒトラーユーゲントの隊長であった[[バルドゥール・フォン・シーラッハ]]が監督者を兼任していた。[[1934年]]に女性党員のトゥルーデ・モールが隊長として名乗りを上げると、シーラッハは監督者の地位を降りて少年のみを管轄することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ女子同盟の変貌は、ヒトラー政権の成立から3年後の[[1936年]]である。同年、ヒトラーユーゲント法が成立して全ての未成年男子がヒトラーユーゲントに編入されると、これに伴ってドイツ女子同盟も強制参加の団体へと変化した。入団の資格は、ドイツ民族の血統に属し、かつドイツの国籍を有する、10歳から18歳までの女子である。外国人は徴集の対象から外され、遺伝性の病気や障害を持つ少女についても、[[優生思想]]の見地から入団が見送られた。一方で、未婚の女性であれば18歳を過ぎても幹部として在留することができた。[[1937年]]、モールは結婚のために隊長を辞任、代わってユッタ・リュディガーが、1945年の解散まで隊長を務めることになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ女子同盟の設立の理念は、ドイツの将来を担う良妻賢母の育成である。ヒトラーユーゲントとは異なり、団員に軍人としての教育は施さなかった。しかし、「健康な男子は健康な女子から生まれる」という[[スパルタ]]の古諺に基づき、カリキュラムは[[家政学]]ではなくやはり[[体育]]の方に重点が置かれた。また、やがて[[従軍看護婦]]として活躍できるように、[[応急処置]]の知識なども教え込まれた。このほか、式典に備えて[[軍歌]]の練習も行われた。団員は週末や祝祭日、あるいは放課後に招集されて、共同で一連の訓練を行った。さらに、団体の精神を育むため、長期休暇の際には泊りがけの[[遠足]]なども催された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
BDMの目的は上記の通り、国家の将来を担う母親を養成することにあった。そのため、頭文字をもじって「もうすぐドイツの母 bald deutsche Mütter」、「ドイツ売女同盟 Bund Deutscher Matratzen」、「ねえもっとして Bubi drück mich」といった下品な呼び名がされることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
* C・シュッデコプフ　『ナチズム下の女たち 第三帝国の日常』　未來社、1987年。&lt;br /&gt;
* 原田一美　『ナチ独裁下の子どもたち ヒトラー・ユーゲント体制』　講談社、1999年。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ヒトラーユーゲント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267173/65 ナチス・ドイツの娘子軍（ヒットラー・ユーゲント「美と信念」部について）​]『戦ふ独逸』友枝宗達著（第一書房、1943）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Bund Deutscher Mädel}}&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:といつしよしとうめい}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス・ドイツ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの青少年組織]]&lt;br /&gt;
[[Category:少女]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%A5%B3%E6%80%A7%E5%90%8C%E7%9B%9F&amp;diff=228616</id>
		<title>国家社会主義女性同盟</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''国家社会主義女性同盟''' (NS-Frauenschaft, ''NSF'') は、1931年から1945年の期間にドイツに存在した、[[国家社会主義ドイツ労働者...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''国家社会主義女性同盟''' (NS-Frauenschaft, ''NSF'') は、1931年から1945年の期間に[[ドイツ]]に存在した、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）の女性組織。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
NSFは1931年10月に、ナショナリストと[[国家社会主義]]者の女性組織の融合として結成され、全国女性指導者（Reichsfrauenführerin）が指揮した。1934年から1945年にかけて[[ゲルトルート・ショルツ＝クリンク]]が全国女性指導者を務めた。1938年に団員数200万人に達したが、これは全ナチ党の党員数の40%に匹敵する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[民族共同体]]&lt;br /&gt;
* [[ヒトラーユーゲント]] - 青少年団体&lt;br /&gt;
** [[ドイツ女子同盟]] - 少女団体&lt;br /&gt;
* [[母子援助活動]] - NSFが活躍した福祉活動&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.dhm.de/lemo/html/nazi/innenpolitik/frauenschaft/ Die NS-Frauenschaft] at ''Lebendiges Museum Online''.&lt;br /&gt;
* [http://www.dhm.de/lemo/html/nazi/innenpolitik/frauen/index.html NS-Frauenpolitik und NS-Frauenorganisationen] (NS women's policy and women's organisations] at ''Lebendiges Museum Online''.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こつかしやかいしゆきしようせいとうめい}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党]]&lt;br /&gt;
[[Category:女性団体]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦争における女性]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>ゲシュタポ</title>
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				<updated>2014-05-17T16:40:02Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「1934年、[[ベルリン、プリンツ・アルプレヒト街8番...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-16180, Berlin, Geheimes Staatspolizeiamt.jpg|thumb|right|300px|1934年、[[ベルリン]]、プリンツ・アルプレヒト街8番地のゲシュタポ本部の中央ホール。]]&lt;br /&gt;
'''ゲハイメ・シュターツポリツァイ'''（[[ドイツ語|独]]: ''Geheime Staatspolizei''、秘密国家警察、[[通称]]'''ゲシュタポ'''、独:''Gestapo''{{#tag:ref|ドイツ語の発音では、Staatspolizeiの略称stapoをシュターポと発音するが、Gestapoに関しては「ゲスターポ」と発音する。ただし日本語においては「ゲシュタポ」と表記されることが多い|group=#}}）は、[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]期の[[プロイセン州]]警察、のちドイツ警察の中の[[秘密警察]]部門である。&lt;br /&gt;
1939年9月以降は親衛隊の一組織であり警察機構を司る[[国家保安本部]]に組み込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
[[1933年]]に[[プロイセン州]]の秘密警察として同州内相[[ヘルマン・ゲーリング]]が発足させた。[[1934年]]に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊（SS）]]の[[ハインリヒ・ヒムラー]]と[[ラインハルト・ハイドリヒ]]が指揮権を握り、[[1936年]]に活動範囲を全ドイツに拡大させた。同年に[[保安警察]]の一部局、さらに[[1939年]]には[[国家保安本部]]の第IV局に改組された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]中には[[ドイツ国防軍]]が占領した[[ヨーロッパ]]の広範な地域に活動範囲を広げ、ヨーロッパ中の人々から畏怖された。その任務はドイツおよびドイツが併合・占領したヨーロッパ諸国における[[反ナチ運動|反ナチ派]]や[[レジスタンス運動|レジスタンス]]、[[スパイ]]などの摘発、[[ユダヤ人]]狩りおよび移送などである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 前史 ===&lt;br /&gt;
[[1933年]]1月30日、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）党首[[アドルフ・ヒトラー]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領より[[ドイツ首相|ドイツ国首相]]に任命され、ドイツ国の政権を獲得した&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)213&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.213]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時のドイツの首都[[ベルリン]]は、[[共産主義者]]の活動の拠点であり、「'''赤いベルリン'''」と揶揄されているような有様だった。ヒトラーは共産主義者の大掃除のため、腹心の[[ヘルマン・ゲーリング]]をベルリンを州都とする[[プロイセン州]]の[[内務大臣]]に任じた。ドイツでは[[ヴァイマル憲法]]に基づき地方自治が確立され、警察権も中央政府になく州政府に委ねられていた。ゲーリングは早速、警察局長に[[親衛隊中将]][[クルト・ダリューゲ]]を任じるなど警察幹部をナチ党の[[突撃隊|突撃隊員]]や[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊員]]に挿げ替え、[[ドイツ社会民主党]]系のプロイセン州官吏を追放するなどして警察のナチ化を進めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ドラリュ(2000)33&amp;quot;&amp;gt;[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.33]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。2月6日、ヒンデンブルク大統領は「プロイセンにおける秩序ある統治関係制定のための大統領令」を発令。これはプロイセン州政府の全権限をゲーリングに移譲するものであった&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)217&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.217]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-K0108-0501-003, Rudolf Diels.jpg|thumb|right|150px|[[ルドルフ・ディールス]]]]&lt;br /&gt;
同日、ゲーリングはプロイセン州警察の政治警察部門「1A課 (Abteilung 1A)」の課長にプロイセン州内務省高級官僚[[ルドルフ・ディールス]]（彼は当時ナチ党員ではなかった）を任じた&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)217&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クランク(1973)271&amp;quot;&amp;gt;[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.271]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この1A課はナチス党政権掌握前の[[ヴァイマル共和政]]時代からプロイセン州警察に存在していた秘密警察部署であり&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)91&amp;quot;&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.91]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、「警察は現行法の枠内で行動する」というプロイセン警察施行令第14条の適用の対象外とされている組織だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)91&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[共産主義者]]の仕業とされた[[ドイツ国会議事堂放火事件]]の翌日の1933年[[2月28日]]に国民の権利を大幅に制限する「[[民族及び国家保護のための大統領緊急令]]」(Verordnung des Reichspräsidenten zum Schutz von Volk und Staat)が出された。これにより国民は、ヴァイマル憲法により保証されていた[[人権]]をほとんど剥奪された。この大統領緊急令の中に「公共秩序を害する違法行為は強制労働をもって処する」という条文があった。「強制収容所(Konzentrationslager)」という言葉や「保護拘禁(Schutzhaft)」という言葉は出てこないのだが、この大統領緊急令が反ナチ党分子を保護拘禁して[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所(KZ)]]へ送り込む法的根拠となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;栗原(1997)223&amp;quot;&amp;gt;[[#栗原(1997)|栗原(1997)、p.223]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#高橋(2000)|高橋(2000)、p.24-25]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#リュビー(1998)|リュビー(1998)、p.15-16]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
犯罪者として刑務所へ投獄するためには裁判を経る必要があるが、保護拘禁は「潜在的危険分子」として一時的に拘禁することであるから裁判を行わず、強制収容所へ直行させることができるという利点があった&amp;lt;ref name=&amp;quot;栗原(1997)223&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒルバーグ(1997)下148&amp;quot;&amp;gt;[[#ヒルバーグ(1997)下|ヒルバーグ(1997)下巻、p.148]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゲーリングはこの大統領緊急令の発令後、ただちに[[ドイツ共産党]]員4000人の保護拘禁の逮捕を命じた&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)221&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.221]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この命令により3月から4月にかけて2万5000人以上の左翼が逮捕されることになったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;高橋(2000)26&amp;quot;&amp;gt;[[#高橋(2000)|高橋(2000)、p.26]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゲーリングは1933年4月10日に[[フランツ・フォン・パーペン]]（ドイツ国副首相）から譲られてプロイセン州首相となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== プロイセン州秘密警察 ===&lt;br /&gt;
==== ゲーリングとディールスの指揮下時代 ====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R97512, Berlin, Geheimes Staatspolizeihauptamt.jpg|thumb|300px|[[ベルリン]]のプリンツ・アルブレヒト街8番地のゲシュタポ本部外観。1933年]]&lt;br /&gt;
1933年4月26日付通達でゲーリングはプリンツ・アルプレヒト街8番地にあったホテルを接収すると、ここにプロイセン秘密国家警察局{{#tag:ref|「Staat」は州と訳されることが多いが、ドイツ語の文脈では「国家の」を意味する。[[ヴァイマル共和政]]下のプロイセン州（Freistaat Preußen）は[[ドイツ帝国]]以来の伝統もあり、国家に近い権限を持っていた。|group=#}} (Preußisches Geheimes Staatspolizeiamt) を新設し、プロイセン州の政治警察の一本化をはかった。1A課もここに吸収され、その中核となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)233&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.233]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)92&amp;quot;&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.92]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これが'''ゲシュタポ'''の原点である。ちなみに「ゲシュタポ」という略称は、郵便局がここのスタンプを作る際、「GESTAPA（ゲシュタパ）」という郵便略号を使ったのが最初である。この頃は秘密国家警察「局（amt）」が「ゲシュタパ」と呼ばれていた。その後いつの間にか秘密警察全体が「GESTAPO（ゲシュタポ）」の名で知れ渡るようになったものである&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)92&amp;quot;/&amp;gt;。この日に公布された第1ゲシュタポ法は、ゲシュタポを最上位警察とし、その職務は秘匿とし、州内相（ゲーリング）にのみ責任を負うと定めていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研114&amp;quot;&amp;gt;[[#学研|『武装SS全史1』、p.114]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日の内相回覧布告により、各[[ドイツの行政管区|県]]毎に秘密国家警察局を補助し、県知事に直属する国家警察部が新設された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘密国家警察局長、つまりゲシュタポの初代長官(Leiter der Geheimen Staatspolizeiamt) には[[ルドルフ・ディールス]]が就任した&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研114&amp;quot;/&amp;gt;。2月22日にプロイセン州内相としてゲーリングが発した補助警察布告により、[[突撃隊]]と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]隊員が補助警察官として警察の捜査を補助することとなっていたが、4月21日と6月7日の補充規定により、ゲシュタポに対する補助機能は親衛隊のみが担当することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに1933年11月30日に「秘密国家警察に関する法」、通称第2ゲシュタポ法が公布され、秘密国家警察局長の上にゲシュタポ長官 (Chef der Geheimen Staatspolizeiamt) を置き、長官は州首相（ゲーリング）が兼務するとされた。局長のディールスはゲシュタポ統監（Inspekteur der Geheimen Staatspolizei）を兼ねることなり、各県の国家警察部は首相の命令下にある統監の直接指揮下におかれることとなった。これによりゲシュタポはドイツ国内務省やプロイセン州内務省、各県の指揮下から離れてゲシュタポ長官、すなわちゲーリングの個人的指揮下に置かれる形となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研114&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)97&amp;quot;&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ドラリュ(2000)81&amp;quot;&amp;gt;[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.81]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この時点でゲシュタポは行政訴訟の対象にならないとされ、ゲシュタポの措置に異議を唱えることは不可能になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお1933年9月末にはルドルフ・ディールスが一時ゲシュタポ局長を外され、ベルリン警察副長官に左遷されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ドラリュ(2000)79&amp;quot;&amp;gt;[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.79]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これはヒンデンブルク大統領の要請によるものであった。大統領の下には各方面からゲシュタポの無法やディールスの不正行為についての直訴が届いていた。これらの直訴にはドイツ国内相[[ヴィルヘルム・フリック]]と[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]が関与していた。フリックはゲーリングがゲシュタポの指揮権を自分から独立した物にしようとしていることに腹を立てていた。一方ヒムラーはゲシュタポの指揮権をゲーリングから奪い取ることを狙っていた{{#tag:ref|内相ヴィルヘルム・フリックがディールス解任に関与していることの情報源は、ジャック・ドラリュ著『ゲシュタポ・狂気の歴史』（講談社学術文庫）79ページ。ディールス解任にヒムラーが関与していたことの情報源は、ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察　ゲシュタポ　恐怖と狂気の物語』（原書房）45ページから47ページ。|group=#}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒムラーの命を受けた[[ヘルベルト・パッケブッシュ]]親衛隊大尉が親衛隊部隊を率いてディールスの自宅を強襲し、彼の共産党との関係や不正の証拠を手に入れようとした&amp;lt;ref name=&amp;quot;クランク(1973)58&amp;quot;&amp;gt;[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.58]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)96&amp;quot;&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.96]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ディールスは警察を引き連れて急行し、パッケブッシュを逮捕したが、ゲーリングは彼を釈放させ、さらにディールスの自宅にゲーリングの警察が捜査を行い、身に危険を感じたディールスは[[チェコスロヴァキア]]の[[カールスバート]]に身を隠した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)96&amp;quot;/&amp;gt;。ゲーリングが後任としてゲシュタポ局長および統監に据えたのは[[アルトナ]]警察署長[[パウル・ヒンクラー]]であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ドラリュ(2000)80&amp;quot;&amp;gt;[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.80]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしヒンクラーは、[[アルコール中毒|アルコール中毒者]]で奇行が多く、ゲーリングも10月末には解任せざるを得なくなった。この後、ディールスが呼び戻されて再度ゲシュタポ局長に任命された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ドラリュ(2000)81&amp;quot;&amp;gt;[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.81]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただしディールスは、1933年6月22日には州警察局長クルト・ダリューゲに対し「原則的に将来秘密国家警察局の執行吏はSS（親衛隊）から採用されるべきでしょう」という進言を行っており、親衛隊に迎合する動きも見せていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ヒムラーとハイドリヒの指揮下時代 ====&lt;br /&gt;
[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の党警察組織である[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊 (SS) ]]の[[親衛隊全国指導者|全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]と[[SD (ナチス)|親衛隊諜報部 (SD) ]]長官[[ラインハルト・ハイドリヒ]]は、ナチス党政権掌握後、[[バイエルン州]]の政治警察を監督していた。ドイツ国内相[[ヴィルヘルム・フリック]]は、独立傾向のゲーリングと対決するための「実力」を求めて、親衛隊に接近してきた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)98&amp;quot;&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.98]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。フリックは、1933年11月から1934年1月までにかけてドイツ各州の警察権力をヒムラーに任せていった。ヒムラーの指揮下に入っていないのは[[プロイセン州]]と[[シャウムブルク＝リッペ州]] (Schaumburg-Lippe) の警察だけとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)98&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#グレーバー(2000)|グレーバー(2000)、p.76-77]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。1934年1月30日の「[[ドイツ国再建に関する法]]」により、州の諸高権は国家へ移行し、5月1日には国家の内務省とプロイセン州の内務省が合併された。これ以降プロイセン警察の諸規定が各州に適用される自体が徐々に増加していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R96954, Berlin, Hermann Göring ernennt Himmler zum Leiter der Gestapo.jpg|thumb|right|200px|1934年4月20日、[[ベルリン]]。[[ヘルマン・ゲーリング]]（右）から「ゲシュタポ長官代理兼ゲシュタポ統監」に任じられる[[ハインリヒ・ヒムラー]]（左）。]]&lt;br /&gt;
フリックと親衛隊からの圧力が強まる中の1934年4月20日、ゲーリングは、ゲシュタポ長官代理とゲシュタポ統監に[[ハインリヒ・ヒムラー]]を任じた。これをもって実質的なゲシュタポの指揮権をヒムラーに引き渡すこととなった。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポ長官の座にとどまったが、形式的な存在であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;大野(2001)90&amp;quot;&amp;gt;[[#大野(2001)|大野(2001)、p.90]]&amp;lt;/ref&amp;gt;さらにディールスはライン県知事に転出となり、4月22日、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]がゲシュタポ局長となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゲーリングがゲシュタポ指揮権をヒムラーに譲った理由は諸説あり定かではない。緻密さが要求される警察業務に飽きてしまったとも、自らの名声を秘密警察業務で汚したくなかったともいわれる。ゲーリングのライバルである[[エルンスト・レーム]]以下[[突撃隊]]の隊員たちが「第二革命」を唱えて暴走し始めていたので彼らとの対決のために親衛隊と手打ちする必要があったのではないかともいわれる&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研114&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.98-99]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒムラーはゲシュタポの実質的な運営をハイドリヒにゆだねた&amp;lt;ref name=&amp;quot;大野(2001)29&amp;quot;&amp;gt;[[#大野(2001)|大野(2001)、p.29]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研115&amp;quot;&amp;gt;[[#学研|『武装SS全史1』、p.115]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒムラーとハイドリヒはバイエルン州ミュンヘンからベルリンのプリンツ・アルプレヒト街のゲシュタポ本部へ移動することとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;大野(2001)89&amp;quot;&amp;gt;[[#大野(2001)|大野(2001)、p.89]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1934年6月末の[[長いナイフの夜]]の突撃隊幹部の粛清ではハインリヒ・ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒが主導的役割を果たしたため、ハイドリヒの指揮下にあるもう一つの組織SDとともにゲシュタポは一連の粛清に深く関与することとなった。ゲシュタポは粛清リストを作成し、さらにその実行である暗殺や処刑にも参加した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ドラリュ(2000)204&amp;quot;&amp;gt;[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.204]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ゲシュタポのコマンドは[[エーリヒ・クラウゼナー]]を運輸省内で殺害し、前首相[[クルト・フォン・シュライヒャー]]大将と[[フェルディナント・フォン・ブレドウ]]少将を殺害した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハイドリヒは、有能な人材をゲシュタポにかき集めることから始めた。まずバイエルン州警察時代の部下たち、[[ハインリヒ・ミュラー]]、[[フランツ・ヨーゼフ・フーバー]]、[[ヨーゼフ・マイジンガー]]らをベルリンのゲシュタポへ招集した。さらにベルリンの警察にも目を付け、ベルリンの刑事警察官[[アルトゥール・ネーベ]]を取りたてた。またハイドリヒはドイツ各地から法律家や専門家を集めたが、その中に[[ヴェルナー・ベスト]]博士がいた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.181-184]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに1935年初頭にゲシュタポの機構改革が行われた。各「課 (Abteilung)」を3つの「部 (Hauptabteilung)」に統合することとしたのであった。ゲシュタポは、1部（行政・司法）、2部（政治警察）、3部（諜報警察）の3つの部から構成されることとなり、そのうちゲシュタポ全体の統括と2部の統括をハイドリヒ自身が行い、1部と3部をヴェルナー・ベストが統括した。ハイドリヒの統括する2部は、「マルキシズム」担当課（共産主義者や社会主義者の取り締まり。課長ハインリヒ・ミュラー。）、「反動、非合法活動、教会」担当課（キリスト教会や保守の反ナチ運動取締り。課長フランツ・ヨーゼフ・フーバー。）「NSDAP、堕胎、175頁、純血問題」担当課（ナチ党内反ヒトラー活動、堕胎、同性愛、ユダヤ人との交際取り締まり。課長ヨーゼフ・マイジンガー。）など6つの課から構成されていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大野(2001)|大野(2001)、p.28-29]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)187&amp;quot;&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.187]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1936年2月10日に第3ゲシュタポ法が制定され、以降ゲシュタポの職権はプロイセン州に限らず、全ドイツに及ぶことが定義された。ただしこの法律公布後もゲシュタポは、その正式名称にプロイセン州をふくむドイツ全国を指す「Reichs（[[ライヒ]]の）」を冠さず、「Staats」の名称を冠したままであった&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研114&amp;quot;/&amp;gt;。またこの法律によりゲシュタポは法を超越した存在である事が確認された。すなわち裁判所にはゲシュタポの決定が合法であるかどうかの審査権はなく、また裁判所で無罪判決を受けた者であってもゲシュタポは逮捕して「保護拘禁」することが可能となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;クランク(1973)85&amp;quot;&amp;gt;[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.85]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。1936年9月20日にはゲシュタポ局長が各州の政治警察司令官となることが確認された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 保安警察・国家保安本部 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R98683, Reinhard Heydrich.jpg|thumb|right|150px|[[ラインハルト・ハイドリヒ]]]]&lt;br /&gt;
[[1936年]]6月17日、ヒムラーは内相フリックに下属する全ドイツ警察長官 (Chef der Deutschen Polizei) に任じられた。この地位はすべての警察所管事項を管掌するものであったが、内相の指揮下にあるとは明言されていないものであった。6月26日、ヒムラーは州政府の警察権を中央政府に移管させ、政治警察であるゲシュタポと刑事警察（殺人・強盗など凶悪犯罪の捜査にあたる警察機関）の[[刑事警察_(ドイツ)|クリポ]] (KriPo) を'''[[保安警察]]'''（Amt Sicherheitspolizei, 略号: '''Sipo'''）として束ね、改めて[[ラインハルト・ハイドリヒ]]に委ねた（なお[[秩序警察]]（オルポ（Orpo）、政治警察でない通常警察）はクルト・ダリューゲに委ねられた）&amp;lt;ref name=&amp;quot;クランク(1973)86&amp;quot;&amp;gt;[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.86]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハイドリヒは保安警察を「行政・法制局」、「政治警察局」、「刑事警察局」の3つに分けた。このうち「政治警察局」がゲシュタポであった。ハイドリヒは政治警察局の局長に[[ハインリヒ・ミュラー]]を据えた。「政治警察局」（ゲシュタポ）は、これまで通り1部（行政・司法）、2部（政治警察）、3部（諜報警察）の3つの部から構成された&amp;lt;ref name=&amp;quot;大野(2001)93&amp;quot;&amp;gt;[[#大野(2001)|大野(2001)、p.93]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じくハイドリヒの指揮下にあったナチ党の諜報組織[[SD (ナチス)|親衛隊諜報部 (SD) ]]とゲシュタポは職務区分が明確でなかったため、反目することがあった。1935年の段階でゲシュタポ本局の職員の3割がSD隊員であるなど高率であった、プロイセン州全体のゲシュタポ隊員のうちSDは9％に満たなかった（親衛隊員は全体の20％）。1937年7月1日にハイドリヒは保安警察及びSD長官（Chef der Sicherheitspolizei und des SD、略称CSSD）命令を出して、両者の職務領域を区分している。SDは党内問題、人種問題、文化問題、教育問題、外国問題、行政問題、[[フリーメーソン]]などを専管するとされ、一方ゲシュタポは[[マルクス主義]]、移民、[[国事犯]]を専管とすると定めた。[[教会]]、世界観問題、[[ユダヤ人]]、過激派、[[黒色戦線]]（[[ナチス左派]]の[[オットー・シュトラッサー]]の分派組織）、経済問題、報道問題については共同管轄となった。SDを情報分析機関とし、ゲシュタポを執行機関とするのがこの区分命令の狙いであったと指摘されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;学研115&amp;quot;/&amp;gt;。しかしSDの独自行動はやまず、1936年の年末に[[アプヴェーア]]（[[ドイツ国防軍]]防諜部）とゲシュタポは権限分画を定めた協定を結んでいたが、SDがゲシュタポや官庁に対する監視活動を続け、アプヴェーアは「(SDが)国防上捨て置けない存在」になっていると訴えるほどであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1938年1月には内務省が定めていた「保護拘禁規則」が改定された。これにより保護拘禁の権限はゲシュタポにしかないことが明確に定められた。また保護拘禁の対象は政治的敵対者に限定されず、「その行動が民族や国家に危険を及ぼす者」全てに適用されることとなった。これによりこれまで「予防拘禁(Sicherungsverwahrung)」{{#tag:ref|「予防拘禁」とは1933年11月以来、ドイツ警察に認められていた「常習的犯罪者」に対する拘束権限である。政治的反対者を対象とする「保護拘禁」とは別物だった。前科2犯以上の「常習的犯罪者」は刑期が終了しても警察の判断で無期限に拘束することができるという制度である&amp;lt;ref name=&amp;quot;高橋(2000)40&amp;quot;&amp;gt;[[#高橋(2000)|高橋(2000)、p.40]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。|group=#}}によって強制収容所へ入れていた「反社会分子」をゲシュタポが保護拘禁で強制収容所へ送ることができるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#高橋(2000)|高橋(2000)、p.42-43]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゲシュタポは強制収容所に収容する者の選定権を有したが&amp;lt;ref name=&amp;quot;長谷川(1996)50&amp;quot;&amp;gt;[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.50]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、収容所そのものの管理権はなかった。これはヒムラーに直属する[[テオドール・アイケ]]（戦時中には[[リヒャルト・グリュックス]]）にあった。ハイドリヒは強制収容所の管理権を欲しがり、その種の工作をしていたが、ハイドリヒへの権力集中を恐れていたヒムラーは最後までこれを認めなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;クランク(1973)138&amp;quot;&amp;gt;[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.138]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.204-207]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1938年1月から2月に保安警察は国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]と陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]][[上級大将]]の失脚事件（[[ブロンベルク罷免事件]]）に関与した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大野(2001)|大野(2001)、p.37-39]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.102-104]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ドラリュ(2000)|ドラリュ(2000)、p.239-247]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1938年]][[6月23日]]には保安警察の警察官はすべて親衛隊に入隊せねばならない旨の政令が出され、ゲシュタポと党との一体化が進んだ&amp;lt;ref name=&amp;quot;クランク(1973)86&amp;quot;&amp;gt;[[#クランク(1973)|クランクショウ(1973)、p.86]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。11月11日にはSDが保安警察を支持するため国家の命令に従うという内相布告が行われ、SDの再編問題が課題となりつつあった。[[1939年]][[9月27日]]にはヒムラーの布告により国家機関である保安警察とSDがハイドリヒを長官とする[[国家保安本部]]（親衛隊の組織）の下に束ねられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;大野(2001)15&amp;quot;&amp;gt;[[#大野(2001)|大野(2001)、p.15]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。'''SD'''は同本部の第二局 (世界観調査)、第三局（内国情報）、第六局（外国情報）に分割され、'''ゲシュタポ'''は第IV局 (Amt IV)、[[刑事警察_(ドイツ)|クリポ]]は第V局 (Amt V) に配された。国家機関と党機関の区別はなくなり、ナチ党が国家機関を飲み込んだ型になった。ハイドリヒは公式には国家保安本部長官ではなく保安警察とSD長官を名乗った。これは国家と党の両方からの介入を受けないための措置であった。ここに国家・党を上回り、[[総統]]のみに直属する執行機関が成立した。ゲシュタポは国家保安本部の一部局となり、ハインリヒ・ミュラー局長の下に1職員数は約4万5000人に膨張した（1943年の最大規模時）&amp;lt;ref name=&amp;quot;テーラー(1993)71&amp;quot;&amp;gt;[[#テーラー(1993)|テーラー、ショー(1993)、p.71]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。このミュラーは「ゲシュタポ・ミュラー」の異名を取るようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;長谷川(1996)46&amp;quot;&amp;gt;[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.46]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦時中 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-R98680, Besprechung Himmler mit Müller, Heydrich, Nebe, Huber.jpg|thumb|250px|左から[[フランツ・ヨーゼフ・フーバー]]、[[アルトゥール・ネーベ]]、[[ハインリヒ・ヒムラー]]、[[ラインハルト・ハイドリヒ]]、[[ハインリヒ・ミュラー]]。1939年11月、[[ミュンヘン]]にて]]&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]中、一時ドイツは[[ヨーロッパ]]のほぼ全域を占領下におさめ、ゲシュタポの活動もヨーロッパ中に拡大されることとなった。戦時中のゲシュタポは、ドイツ国内でも[[ドイツによるヨーロッパ占領|占領地]]でも保護拘禁と強制収容所移送を徹底した。特に1941年6月に[[独ソ戦]]がはじまると[[東ヨーロッパ]]でそれは顕著となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#長谷川|長谷川、p.114-115]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。並行して国家保安本部は[[アインザッツグルッペン]]を組織し、東部戦線で「保安的警察措置」と称した反体制派やユダヤ人の銃殺活動を行っていた。第二局局長を務めた[[フランツ・ジックス]]は後に「ユダヤ系住民を部隊の安全にとって危険な存在とは思っていなかった」と証言しており、実態は治安活動ではなく[[ジェノサイド]]の実行であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1941年12月に[[国防軍最高司令部]]総長[[ヴィルヘルム・カイテル]]元帥は「[[夜と霧 (法律)|夜と霧]]」と呼ばれる法令の布告を行った。占領地で危険分子とみられた人物はゲシュタポによって「夜と霧」の中に消され、その消息は家族には一切通達されない旨が定められた&amp;lt;ref name=&amp;quot;テーラー(1993)285&amp;quot;&amp;gt;[[#テーラー(1993)|テーラー、ショー(1993)、p.285]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.118-119]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1942年1月20日にハイドリヒはヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅計画を策定するために[[ヴァンゼー会議]]を主催した。会議には各省の次官の他、ハインリヒ・ミュラー[[親衛隊中将]]（ゲシュタポ局長）や[[アドルフ・アイヒマン]][[親衛隊中佐]]（ゲシュタポ・ユダヤ人課課長）などゲシュタポ幹部が出席した。絶滅政策は1941年代からすでに始まっていたが、この会議がヨーロッパ・ユダヤ人1100万人の絶滅を初めて公式に取り扱った会議となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)535&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.535]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅が決定されると、アドルフ・アイヒマンの指揮の下にヨーロッパ中のユダヤ人が列車に詰め込まれて移送され、[[絶滅収容所]]や強制収容所へ送り込まれるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#長谷川(1996)|長谷川(1996)、p.185-186]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1942年6月4日、イギリスの支援を受けた[[チェコ人]][[工作員]]による襲撃（[[エンスラポイド作戦]]）を受けたハイドリヒがその時の負傷が原因で死去した。親衛隊とゲシュタポは報復として[[リディツェ]]・[[レジャーキ]]両村の壊滅を含めたチェコ人虐殺を行っている。1943年1月からは[[オーストリア・ナチス]]出身の[[エルンスト・カルテンブルンナー]]が代わって国家保安本部長官となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦局が悪化する中、反体制分子の監視を強める必要性が強まり、ゲシュタポの権力は肥大化し、ヒムラーですらゲシュタポの影に悩まされることになった。著名なロケット技術者の[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]が、無断で有人ロケット開発の資金繰りをしているという情報を掴み、ゲシュタポは彼を逮捕し、処刑しようとしたが、ヒトラーの仲介により取り止めになっている。その際、ヒトラーはフォン・ブラウンに「私でも説得するのに苦労したよ」と言ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方でユダヤ系の男性と結婚した女性が、配偶者の解放を求めたローゼンシュトラーセ抗議では、女性達の抗議に屈して彼らを解放するという例外的なケースも存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦後 ===&lt;br /&gt;
[[File:Topographie des Terrors Neubau.jpg|thumb|right|200px|ゲシュタポ本部跡のトポグラフィー・オブ・テラー]]&lt;br /&gt;
1945年5月の[[ベルリン宣言 (1945年)|ベルリン宣言]]においてゲシュタポは軍や親衛隊とともに武装解除を命令された。[[ニュルンベルク裁判]]ではゲシュタポは「[[人道に対する罪]]」で告発された6組織（他にナチス指導部、[[国防軍最高司令部]]、親衛隊、[[突撃隊]]、ドイツ政府内閣）の一つとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;テーラー(1993)72&amp;quot;&amp;gt;[[#テーラー(1993)|テーラー、ショー(1993)、p.72]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。弁護側は「ゲシュタポは通常国にある政治警察と変わらない」「ヒムラーが警察長官となっても各州の警察はなんら影響を受けていない」と反論したが、認められず、有罪が宣告された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この認定により1939年9月1日以降にゲシュタポ隊員であったものは犯罪組織成員として扱われ、各種の[[非ナチ化]]法廷にかけられることとなった。しかし一部の構成員はその経験や能力を買われ、第２次大戦後の東西両ドイツの警察機構に残る者、東側諸国では[[シュタージ]]等、西側では[[BND]]、[[アメリカ中央情報局|CIA]]等の構成員となり、中東や南米では治安機関の育成にあたった。ゲシュタポ局長だったミュラーは姿を消し、現在まで行方不明である&amp;lt;ref name=&amp;quot;テーラー(1993)72&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プリンツ・アルプレヒト街にあったゲシュタポ本部は、1945年2月の空襲と同年4月の[[ベルリン市街戦]]で廃墟となった。ベルリン分断後には[[ベルリンの壁]]が建てられ、40年近くそのままであった。ドイツ再統一後の1990年代に整地、「[[:en:Topography of Terror|トポグラフィー・オブ・テラー]]」というオープンエアの[[博物館]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 捜査手法 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Gestapo anti-gay telex.jpg|thumb|right|150px|'''ゲシュタポの保護拘禁(Schutzhaft)書'''（1940年9月5日付）は同性愛者として賜暇中の海軍兵士に接近したHans Retzlaffを[[ザクセンハウゼン強制収容所]]に収容するよう命じている。]]&lt;br /&gt;
ドイツ国内や占領地域において、[[ナチス・ドイツ]]の[[暴力の独占|暴力装置]]として機能し、「[[夜と霧 (法律)|夜と霧]]」と呼ばれる深夜から夜明けにかけての予期せぬ突然の逮捕、厳しい訊問や残酷な拷問、劣悪な待遇や拘禁などで知られ、ヨーロッパ中を震え上がらせた。これは、人材の配分が[[武装親衛隊]]、[[ドイツ国防軍|国防軍]]、警察の順になっていたため、ゲシュタポに回ってくるのが社会的不適格者が多かったのが原因とも言われている。ゲシュタポ要員は、その身なりも黒い外套や手袋、黒眼鏡などを用いて人々に不吉な印象を与え、恐怖心を煽るためにやや芝居がかった茶番劇のような手法をとった。さらに粗暴、野蛮さ、気まぐれな振る舞い、怠け癖、皮肉な態度や、時には欺瞞的な温容ささえ示して、思いのままに被疑者を調べ上げる権限を行使した。そのような彼らに対して、ドイツ国民は諦めの気持ちで従順に従った。個人で抵抗するにはあまりにも危険な組織であった。また、国外に逃亡したとしても、ゲシュタポの目からは逃れられなかった。ゲシュタポ構成員は、世界各国のドイツ大使館に派遣され、海外に亡命した反ナチスのドイツ人やユダヤ人の監視・摘発の任務に当たっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 組織 ==&lt;br /&gt;
国家保安本部　第IV局（ゲシュタポ）&lt;br /&gt;
* IV A : マルクス主義者、共産主義者、反動主義者、自由主義者等、ナチズムの敵。サボタージュに対する措置及び総合保安措置。その構成下に6班を有した。&lt;br /&gt;
* '''IV B''' : カトリック及びプロテスタント教会の政治活動、その他宗教会派、ユダヤ人、フリーメーソン。5班に分かれた。'''[[アドルフ・アイヒマン]]'''はIV B4（'''第IV局B課4班'''）に所属。&lt;br /&gt;
* IV C : 強制収容。予防拘束。出版。党業務。ファイルの作成。カード。&lt;br /&gt;
* IV D : 占領地。在独外国人労働者&lt;br /&gt;
* IV E : 防諜課。6班&lt;br /&gt;
** IV E1 : 一般防諜及び工場施設における防諜&lt;br /&gt;
** IV E2 : 一般経済問題&lt;br /&gt;
** IV E3 : 西欧諸国&lt;br /&gt;
** IV E4 : 北欧諸国&lt;br /&gt;
** IV E5 : 東欧諸国&lt;br /&gt;
** IV E6 : 南欧諸国&lt;br /&gt;
* IV F : パスポート。身分証明。外国人監督警察&lt;br /&gt;
* IV G : 国境警察。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 階級 ==&lt;br /&gt;
ゲシュタポは、先輩機関である[[刑事警察 (ドイツ)|クリポ]]と同様な階級制を採用した。文献にしばしば引用される階級は太文字で表記する。&amp;lt;!--訳語については括弧内は対応する陸軍の階級から推測して欲しい。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! エージェント&lt;br /&gt;
! 管理官&lt;br /&gt;
! [[秩序警察]]同階級&lt;br /&gt;
! [[親衛隊 (ナチス)|SS]]同階級 &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|'''Regierungs- u. Kriminaldirektor'''&amp;lt;br&amp;gt;'''Reichskriminaldirektor'''&lt;br /&gt;
|Oberst d. Polizei&lt;br /&gt;
|Standartenführer([[親衛隊大佐]]) &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|'''Oberregierungs- u. Kriminalrat'''&lt;br /&gt;
|Oberstleutnant d. Polizei&lt;br /&gt;
|Obersturmbannführer([[親衛隊中佐]]) &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''Kriminalrat'''&amp;lt;br&amp;gt;'''Kriminaldirektor'''&lt;br /&gt;
|'''Regierungs- und Kriminalrat''' &lt;br /&gt;
|Major d. Polizei&lt;br /&gt;
|Sturmbannführer([[親衛隊少佐]]) &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''Kriminalinspektor'''&amp;lt;br&amp;gt;''Kriminalrat auf Probe''&lt;br /&gt;
|'''Kriminalassessor'''&lt;br /&gt;
|Hauptmann d. Polizei&lt;br /&gt;
|Hauptsturmführer([[親衛隊大尉]])&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''Kriminalkomissar'''&amp;lt;br&amp;gt;''Kriminalinspektor auf Probe''&lt;br /&gt;
|'''Kriminalobersekretär'''&lt;br /&gt;
|Oberleutnant d. Polizei&lt;br /&gt;
|Obersturmführer([[親衛隊中尉]]) &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|''Kriminalkomissar auf Probe''&lt;br /&gt;
|'''Kriminalsekretär''' &lt;br /&gt;
|Leutnant d. Polizei&lt;br /&gt;
|Untersturmführer([[親衛隊少尉]])&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| -&lt;br /&gt;
| -&lt;br /&gt;
|Meister&lt;br /&gt;
|Sturmscharführer([[親衛隊特務曹長]])&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''Kriminaloberassistent'''&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|Hauptwachtmeister&lt;br /&gt;
|Hauptscharführer([[親衛隊上級曹長]])&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|'''Kriminalassistent'''&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|Revieroberwachtmeister&lt;br /&gt;
|Oberscharführer([[親衛隊曹長]]) &lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
|''Kriminalassistent auf Probe''&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
| Oberwachtmeister&lt;br /&gt;
| Scharführer([[親衛隊軍曹]])&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|''Kriminalassistentanwärter''&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
|Wachtmeister&lt;br /&gt;
|Unterscharführer([[親衛隊伍長]])&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構成員数 ==&lt;br /&gt;
14部時代の秘密警察部にはわずか14名が所属していた。ディールスの局長就任時には40名に増加し、1935年には本局勤務だけで600名を超えていた。1939年10月ごろにはゲシュタポ全体で2万名を数え、うち3000人がSD隊員であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 制服 ==&lt;br /&gt;
どのような制服を着用するかは、ほぼ毎年変更・改訂が加えられたため一概に言えないが[[親衛隊保安部]](SD)とほぼ同じだった。違う点はカフタイトルを付けていないという点と、SDスリーブダイヤモンドに銀色の縁取りを付けているところだ。ベースとなる制服は1932年〜1938年までは1932年型勤務服（通称黒服）、以降は1938年型勤務服だが、1942年にヒムラーから「国家保安本部勤務の者はSS隊員・非SS隊員にかかわらず1932年型勤務服の着用は認めない」と着用禁止令を出されるほどだったのでまだ黒服を着用している者が多かった。&lt;br /&gt;
襟章については右襟がブランクのものでこれもSDのものと共通である。肩章はSD・[[保安警察]]では1931年〜1938年まで一般SS用のもので以降は陸軍型のものに変わった。これは黒台布は廃止されその上にグリーン台布のものだった。つまりSD/保安警察将校の場合は警察将校と同じものだった。&lt;br /&gt;
1941年8月には[[武装親衛隊]]と同様となり黒台布の上にグリーン台布の物となった。しかしこれは武装親衛隊の山岳兵科や装甲偵察兵科と混同するので1942年5月に再び警察型に変更されたがこれは兵・下士官のみが対象だったので将校は変更はなかった。したがって出動要請をされる[[保安警察]]は下士官・兵クラスで構成され、さらにはSDは大方が将校だったので変更されたのはゲシュタポと刑事警察で構成された現場の保安警察のみということになる。&lt;br /&gt;
このようにゲシュタポとその他の親衛隊機関（特にSD)の見た目での区別を非常に分かりくくすることにより、すぐにゲシュタポ隊員と分からないようにする目的があった。&lt;br /&gt;
しかし、制服を着るか私服を着るかは個人の自己判断のため制服着用を義務づけられることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注釈 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references group=&amp;quot;#&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ナチス・ドイツ}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:けしゆたほ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス・ドイツ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス親衛隊]]&lt;br /&gt;
[[category:ドイツの警察]]&lt;br /&gt;
[[Category:秘密警察]]&lt;br /&gt;
[[Category:廃止された行政機関]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%BC%81%E5%8B%99%E5%AE%98&amp;diff=228614</id>
		<title>国家弁務官</title>
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				<updated>2014-05-17T16:31:51Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''国家弁務官'''（こっかべんむかん、独：'''Reichskommissar''' ライヒスコミッサール）は、ドイツ帝国期から[[ナチ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''国家弁務官'''（こっかべんむかん、[[ドイツ語|独]]：'''Reichskommissar''' ライヒスコミッサール）は、[[ドイツ帝国]]期から[[ナチス・ドイツ]]期の[[ドイツ]]が設置していた[[弁務官]]。ドイツの中央政府より任命され、特定の行政問題を担当した。「'''帝国弁務官'''」と訳されることが多いが、[[共和政]]であった[[ヴァイマル共和政]]時代や[[ナチス・ドイツ]]時代にも設置されていたので本稿では「国家弁務官」と訳すものとする。ドイツ支配地の行政の監督を行う国家弁務官の場合は「'''総督'''」「'''民政長官'''」などとも訳される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ドイツ帝国 ==&lt;br /&gt;
=== 本国 ===&lt;br /&gt;
ドイツ帝国本国では、特別の行政問題を監督させる者を国家弁務官に任じていた。たとえば[[ハンブルク]]には「移住問題国家弁務官」（Reichskommissar für das Auswanderungswesen）が設置されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また1890年8月に[[ヘルゴラント島]]が[[ヘルゴランド＝ザンジバル条約]]の下、[[大英帝国]]から[[ドイツ帝国]]に譲渡されたが、この後、1891年2月にこの島が[[プロイセン王国]]の[[シュレースヴィヒ＝ホルシュタイン州]]に編入されるまでの間、島の行政官として国家弁務官が置かれていた。その際の国家弁務官は[[アドルフ・ヴェルムート]]であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 植民地・保護国 ===&lt;br /&gt;
ドイツ帝国の[[植民地]]や[[保護国]]にも総督として国家弁務官が置かれた。&lt;br /&gt;
* [[カメルーン]]の国家弁務官&lt;br /&gt;
** [[グスタフ・ナハティガル]]（1884年7月14日‐1884年7月19日）&lt;br /&gt;
** [[マキシミリアン・ブフナー]]（代理）（1884年7月19日‐1885年4月1日）&lt;br /&gt;
** [[エドゥアルト・フォン・クノール]]（代理）（1885年4月1日‐1885年7月4日）&lt;br /&gt;
* [[トーゴ]]の国家弁務官&lt;br /&gt;
** [[グスタフ・ナハティガル]]（1884年7月14日‐1884年7月19日）&lt;br /&gt;
** [[ハインリヒ・ランダート]]（1884年7月6日 - 1885年6月26日）&lt;br /&gt;
** [[エルンスト・ファルケンタール]]（1885年6月26日 - 1887年5月） &lt;br /&gt;
** [[イェスコ・フォン・プットカマー]]（代理、1887年7月 - 1888年10月17日）&lt;br /&gt;
** [[オイゲン・フォン・ツィメラー]]（1888年10月17日‐1891年4月14日） &lt;br /&gt;
** 空席（1891年4月14日 - 1892年6月4日） &lt;br /&gt;
** イェスコ・フォン・プットカマー（1892年6月4日 - 1893年11月） &lt;br /&gt;
* [[ドイツ領南西アフリカ]]の国家弁務官&lt;br /&gt;
** [[グスタフ・ナハティガル]]（1884年10月7日-1885年）&lt;br /&gt;
** [[ハインリヒ・ゲーリング]]（代理）（1885年5月 - 1890年8月）&lt;br /&gt;
** [[ルイス・ネルス]]（代理）（1890年8月 - 1891年3月 )&lt;br /&gt;
** [[クルト・フォン・フランソワ]]（1891年3月 - 1893年11月）&lt;br /&gt;
* [[ドイツ領東アフリカ]]の国家弁務官&lt;br /&gt;
** [[ヘルマン・フォン・ヴィスマン]]（1888年2月8日 - 1891年2月21日）&lt;br /&gt;
* [[オセアニア]]の国家弁務官&lt;br /&gt;
** [[ヴィルヘルム・クナッペ]]（1886年‐1887年）&lt;br /&gt;
** [[フランツ・ゾンネンシャイン]]（1888年‐1889年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ヴァイマル共和国 ==&lt;br /&gt;
[[第一次世界大戦]]の敗戦により植民地をすべて喪失した[[ヴァイマル共和政]]下のドイツでは植民地の行政を担当する国家弁務官は設置されなかった。国内の行政問題にかかる国家弁務官は存在した。たとえば[[ヒャルマル・シャハト]]は1923年に「国家通貨委員」(Reichswährungskommissar)に任じられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また1932年には[[ドイツ国首相]][[フランツ・フォン・パーペン]]は、[[プロイセン州]]首相[[オットー・ブラウン]]が率いるプロイセン州政府がドイツ国政府の命令を無視したとして「プロイセン・クーデタ」を起こしてブラウン以下州政府の要人を排除した。この後、パーペンは暫定的な処置としてプロイセン州に国家弁務官を設置し、パーペン自身が国家弁務官に就任している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ナチス・ドイツ ==&lt;br /&gt;
[[ヒトラー内閣]]が成立した当日、[[ヘルマン・ゲーリング]]（航空担当）、[[フランツ・ゼルテ]]（労働問題担当）、[[ギュンター・ゲレッケ]]（公共事業担当）の3人が国家弁務官に任ぜられた。[[ナチス・ドイツ]]時代にはこのほかにも個別の政策に対応する国家弁務官が置かれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月6日、「プロイセンにおける秩序ある政府の樹立のためのライヒ大統領令」が発せられ、パーペンが再び国家弁務官に就任し、プロイセン州の権限を握った。その後[[テューリンゲン州]]、[[メクレンブルク＝シュヴェリン州]]、[[オルデンブルク州]]、[[ブラウンシュヴァイク州]]、[[アンハルト州]]、[[リッペ州]]にも国家弁務官が置かれた。[[バイエルン州]]などは抵抗したものの、[[ドイツ国会議事堂放火事件|国会議事堂放火事件]]後に発せられた緊急大統領令がその抵抗力を奪った。3月9日、[[突撃隊]]と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]がミュンヘン市内を騒擾状態に陥れた。これを州政府が統御できないことを理由にして[[フランツ・フォン・エップ]]がバイエルン州の国家弁務官となり、州政府を解散させた。これは州の自治権を奪う[[強制的同一化]]（Gleichschaltung）の動きの中で行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月7日には『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律』が公布され、国家弁務官に代わってライヒ代官（または[[国家代理官]]、州総督）の設置が定められ各州の国家弁務官はその役割を終えた。しかし1935年にドイツ領に復帰した[[ザール (国際連盟管理地域)|ザール]]、1938年の[[アンシュルス]]によって併合した[[オストマルク州]]（[[オーストリア]]）、[[ミュンヘン会談]]によって獲得したズデーテン地方なども過渡的措置として国家弁務官が置かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]の占領地域のいくつかにも国家弁務官が置かれた。これらの弁務官は総督という訳語を当てられることがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 政策別国家弁務官 ===&lt;br /&gt;
; 航空&lt;br /&gt;
* ヘルマン・ゲーリング（1933年1月30日 - 1945年4月28日）&lt;br /&gt;
; 労働&lt;br /&gt;
* フランツ・ゼルテ（1933年1月30日 - 1934年7月6日）&lt;br /&gt;
* [[コンスタンティン・ヒールル]]（1934年7月6日 - 1945年4月30日）&lt;br /&gt;
; スポーツ&lt;br /&gt;
* [[ハンス・フォン・チャマー・ウント・オステン]]（1933年4月27日 - 1943年5月25日）&lt;br /&gt;
* [[カール・フォン・ハルト]]（1943年5月25日 - 1945年4月30日）&lt;br /&gt;
; 法律&lt;br /&gt;
* [[ハンス・フランク]]（1933年4月27日 - 1934年12月19日）&lt;br /&gt;
; 入植問題&lt;br /&gt;
* [[ゴットフリート・フェーダー]]（1933年4月1日 - 1934年12月6日）&lt;br /&gt;
; 酪農&lt;br /&gt;
* [[ベルント・フォン・カンネ]]（1933年8月4日 - 1945年4月30日）&lt;br /&gt;
; 鉱業&lt;br /&gt;
* [[ジャン・プッペ]]（1934年6月30日 - 1937年1月21日）&lt;br /&gt;
; 価格統制&lt;br /&gt;
* [[カール・ゲルデラー]]（1933年11月5日 - 1935年6月1日）&lt;br /&gt;
* [[ヨーゼフ・ワグナー (大管区指導者)|ヨーゼフ・ワグナー]]（1936年10月29日 - 1944年）&lt;br /&gt;
* [[ハンス・フィッシュベック]]（1944年 - 1945年4月30日）&lt;br /&gt;
; 公共事業&lt;br /&gt;
* ギュンター・ゲレッケ（1933年1月30日 - 1933年3月30日）&lt;br /&gt;
* [[フリードリヒ・シルップ]]（1933年3月25日 - 1933年3月30日）&lt;br /&gt;
; 中小事業者&lt;br /&gt;
* [[エーリヒ・ウィーンベック]]（1933年3月22日 - 1945年4月30日）&lt;br /&gt;
; 自動車&lt;br /&gt;
* [[カール・エドゥアルト (ザクセン＝コーブルク＝ゴータ公)|カール・エドゥアルト・フォン・ザクセン＝コーブルク＝ゴータ]]（1933年4月 - 1945年4月30日）&lt;br /&gt;
; ザールラント再統合担当&lt;br /&gt;
* [[ヨーゼフ・ビュルケル]]（1935年2月11日 ‐ 1941年3月31日）&lt;br /&gt;
; オーストリア・ドイツ再統合担当&lt;br /&gt;
* ヨーゼフ・ビュルケル（1938年4月23日 ‐ 1940年3月31日）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 獲得地域の国家弁務官 ===&lt;br /&gt;
* [[ザールラント]]の国家弁務官&lt;br /&gt;
** ヨーゼフ・ビュルケル（1938年10月 ‐ 1941年3月31日）&lt;br /&gt;
* [[ズデーテン地方]]の国家弁務官&lt;br /&gt;
** [[コンラート・ヘンライン]]（1938年10月1日 ‐ 1939年5月1日） &lt;br /&gt;
* [[オストマルク州]]の国家弁務官（1938年3月15日 ‐ 1939年4月30日） &lt;br /&gt;
** [[アルトゥル・ザイス＝インクヴァルト]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 占領地担当国家弁務官 ===&lt;br /&gt;
* [[オランダ]]（[[:en:Reichskommissariat Niederlande]]）&lt;br /&gt;
** [[アルトゥル・ザイス＝インクヴァルト]]（1940年5月29日 - 1945年5月5日） &lt;br /&gt;
* [[ノルウェー]]（[[:en:Reichskommissariat Norwegen]]）&lt;br /&gt;
** [[ヨーゼフ・テアボーフェン]]（1940年4月25日 - 1945年5月7日）&lt;br /&gt;
** [[フランツ・ベーメ]]（代理）（1945年5月7日 - 1945年5月8日）&lt;br /&gt;
* [[オストラント]]（[[バルト三国]]及び[[白ロシア]]）&lt;br /&gt;
** [[ヒンリヒ・ローゼ]]（1941年4月7日 - 1944年12月）&lt;br /&gt;
* [[ウクライナ]]&lt;br /&gt;
** [[エーリヒ・コッホ]]（1941年4月7日 - 1944年12月）&lt;br /&gt;
* [[モスクワ]]（占領後予定）&lt;br /&gt;
** [[ジークフリート・カッシェ]]&lt;br /&gt;
* [[コーカサス]]（占領後予定）&lt;br /&gt;
** [[アルノ・シッケダンツ]]&lt;br /&gt;
* [[ドン・ヴォルガ]]（占領後予定)（[[:en:Reichskommissariat Don-Wolga]]）&lt;br /&gt;
** [[ディートリヒ・クラッゲス]]&lt;br /&gt;
* [[ベルギー=北フランス]]（[[:en:Belgium and Northern France|:en:Reichskommissariat Belgien und Nordfrankreich]]）&lt;br /&gt;
** [[ヨーゼフ・グローエ]]（1941年7月19日 - 1944年12月）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [[南利明 (法学者)|南利明]]『[http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/handle/10297/3543 NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制-3-]』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ナチス・ドイツ}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こつかへんむかん}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ帝国]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴァイマル共和政]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス・ドイツ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95&amp;diff=228613</id>
		<title>ヴィルヘルム・ブルクドルフ</title>
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				<updated>2014-05-17T16:23:06Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* ブルクドルフが登場する作品 */ テンプレ追加&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ヴィルヘルム・ブルクドルフ'''（''Wilhelm Burgdorf'', [[1895年]][[2月14日]] - [[1945年]][[5月2日]]）は[[ドイツ]]の[[軍人]]。第一次世界大戦に従軍し、[[第二次世界大戦]]では陸軍人事局長を務める。1945年5月2日に陸軍参謀総長の[[ハンス・クレープス]]大将と共に、[[総統地下壕]]に留まり[[自決]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[第一次世界大戦]]では、[[ドイツ陸軍]]に従軍し奇跡的にも大戦を生き延びた。大戦間期は主に副官として務め、1939年9月1日に[[アドルフ・ヒトラー]]の信任を得、第9軍団副官に任命される。1940年5月から1942年の4月まで第529歩兵連隊長を務め[[独ソ戦]]にも従軍、[[騎士十字章]]を授与される。その後陸軍人事局に勤務。1944年11月1日に陸軍人事局長兼総統副官に任命される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は忠実にヒトラーに仕え[[ヒトラー暗殺未遂事件]]では、容疑者として疑われた[[エルヴィン・ロンメル|ロンメル]][[元帥]]の自殺強要の使者として派遣された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年4月24日に総統地下壕で行われた作戦会議ではヒトラーに対し、[[フェリックス・シュタイナー|シュタイナー]]の進撃を断念するように言ったが、断られた。また、ソ連軍と単独で降伏交渉を行なおうとした[[ハンス・フリッチェ]]を「総統の命令に違反した」として[[宣伝省]]まで押しかけ、フリッチェを射殺しようとしたが未遂に終わっている。1945年5月2日、地下壕の倉庫で陸軍参謀総長の[[ハンス・クレープス]]と共に自決。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ユンカー]]出身ではなく、最後までヒトラーと[[ナチズム]]に忠実な[[陸軍大将]]であり、自らもそれを誇りにしていた。　しかし、地下壕で最後の日々を送る中、ナチ党官房長の[[マルティン・ボルマン]]に向かって『'''若き将兵は総統と国家のために死んだのか？　いや、あなたのためにだ'''』と今までの鬱積した感情を爆発させ、特に私腹を肥やすナチス幹部の腐敗を非難した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
酒乱癖が激しかったらしく、ベルリンの総統官邸地下壕でも暇を見ては酒を飲んで酔いつぶれていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ブルクドルフが登場する作品 ==&lt;br /&gt;
『[[ヒトラー 〜最期の12日間〜]]』（[[ドイツ映画]]、[[2004年]]） - [[ユストゥス・フォン・ドホナーニ]]が演じた。劇中に上述の酒に酔った彼の姿も散見され、激高するヒトラーに唯一堂々と言い返すなど気性の激しい描写も存在した。上述のボルマンを批判するシーンも撮影されており、映画本編では使われなかったもののメイキング映像として復活している。&lt;br /&gt;
                              &lt;br /&gt;
{{先代次代|陸軍人事局長|[[1944年]]11月-[[1945年]]5月|[[ルドルフ・シュムント]]|-}}&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふるくとるふ ういるへるむ}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴァイマル共和国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:1895年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1945年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%AB&amp;diff=228612</id>
		<title>エルヴィン・ロンメル</title>
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				<updated>2014-05-17T16:21:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル'''{{#tag:ref|ファーストネームのErwinは日本語では「エルウィン」「エルヴィン...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル'''{{#tag:ref|ファーストネームのErwinは[[日本語]]では「エルウィン」「エルヴィン」と表記される事が多い。より実際の発音に近く「エアヴィン」、英語読みで「アーウィン」とカタカナ表記されることもある。姓のRommelは、実際の発音は「ロメル」に近い。|group=#}}（Erwin Johannes Eugen Rommel、[[1891年]][[11月15日]] - [[1944年]][[10月14日]]）は[[ドイツ国防軍]][[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]]の[[軍人]]である。[[第二次世界大戦]]におけるフランス、北アフリカにおける驚異的な活躍で'''砂漠の狐'''として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
砂漠のアフリカ戦線において、巧みな[[戦略]]・[[戦術]]によって戦力的に圧倒的優勢な[[イギリス軍]]をたびたび壊滅させ、英首相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]に「[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]以来の戦術家」とまで評された。[[貴族]]（ユンカー）出身では無い、[[中産階級]]出身者初の[[元帥 (ドイツ)|陸軍元帥]]でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
数々の戦功だけでなく[[騎士道|騎士道精神]]に溢れた行動・多才な人柄・[[親衛隊 (ナチス)|SS（親衛隊）]]ではなく国防軍であったことなどから、当時のみならず現在でも各国での評価・人気が高い将帥の一人である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 誕生 ===&lt;br /&gt;
エルヴィン・ロンメルは、[[1891年]][[11月15日]]の[[日曜日]]の正午、[[ドイツ帝国]][[領邦]][[ヴュルテンベルク王国]]の[[ハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ]] (Heidenheim an der Brenz) において生まれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)24&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.24]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)11&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.11]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)24&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.24]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)34&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.34]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この町は[[ウルム]]郊外の町である&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)11&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)34&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ(2002)326&amp;quot;&amp;gt;[[#ヴィストリヒ(2002)|ヴィストリヒ(2002)、p.326]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父はハイデンハイムの実科[[ギムナジウム]] (Realgymnasium) の数学教師エルヴィン・ロンメル（ロンメルは父の名前をそのまま与えられた）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)11&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)34&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)26&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.26]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その父（ロンメルの祖父）も教師だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)34&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上37&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.37]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)11&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)34&amp;quot;/&amp;gt;、地元ハイデンハイムではかなり尊敬されていた人物であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)35&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.35]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母はヘレーネ・ロンメル。ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)11&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)26&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上37&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)35&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父母ともに[[プロテスタント]]だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上39&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.39]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)11&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)26&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)35&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上38&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.38]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。兄のマンフレートは幼いころに死去した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)11&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)26&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)35&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父は若いころに砲兵隊にいたことがあるが、それ以外にはロンメル家は軍隊とほとんど関係がなかった。軍部への有力な縁故も皆無だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)37&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.37]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また教養市民階級出身という彼の出自は貴族主義的な[[ドイツ陸軍]]において有利なスタート地点であったとはいえない&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)25&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.25]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 幼少・少年期 ===&lt;br /&gt;
子供の頃のロンメルは病気がちでおとなしかったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)11&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)36&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.36]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。姉ヘレーネによるとロンメルは色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)11&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)35&amp;quot;/&amp;gt;。しかしロンメル本人は人事記録の中に挟んだ覚書の中で「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上39&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1898年]]に父が[[アーレン (バーデン＝ヴュルテンベルク)|アーレン]]の実科ギムナジウムの校長となる&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)35&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)12&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.12]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)27&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.27]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校 (Volksschule) がなかったため、ギムナジウムに入学するまで家庭教師から授業を受けていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)12&amp;quot;/&amp;gt;。[[1900年]]に父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)12&amp;quot;/&amp;gt;。はじめギムナウジムでは劣等生だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)36&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)12&amp;quot;/&amp;gt;。怠け者で注意散漫だったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)36&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)12&amp;quot;/&amp;gt;{{#tag:ref|勉学に不熱心だったロンメルに勉強させるため、教師が「書き取りテストで間違いしなければ楽隊と一緒に遠足に出かけよう」と彼に言うと、彼はこれを真に受けて必死に書き取りの勉強をしてテストで間違いをしなかったという。しかし約束の遠足につれて行ってもらえなかったのでまた勉強をしない生徒に戻ってしまったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)36&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)12&amp;quot;/&amp;gt;。|group=#}}。読書にも運動にも興味がない子供だったが、10代になると突然活発になった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)36&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)12&amp;quot;/&amp;gt;。数学の成績が良くなり、スポーツにも関心を持つようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)12&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.27-28]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.36-37]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また飛行機の研究に夢中になり、14歳のころには親友と二人で実物大の[[グライダー]]を作成した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上37&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)37&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.37]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)12&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)28&amp;quot;/&amp;gt;。結局まともには飛ばなかったが、[[1906年]]に[[ヨーロッパ]]で初めて動力を備えた飛行機が飛行したばかりだということを考えると大したものだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上37&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは航空機関連のエンジニアになることを希望していたが、父親が反対し、ヴュルテンベルク王国軍に入隊することになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上37&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.12-13]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。軍に入ることについて本人はあまり乗り気でなかったらしい&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上38&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)28&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.28]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 軍人に ===&lt;br /&gt;
[[1910年]][[7月19日]]に[[ヴァインガルテン]] (Weingarten) に駐留する[[第6歩兵連隊 (ヴュルテンベルク軍)|ヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ（国王）・ヴィルヘルム1世」（ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊）]] (Infanterie-Regiment „König Wilhelm I.“ (6. Württembergisches) Nr. 124)に下級士官候補生 (Fahnenjunker) として入隊&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上38&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)25&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;&amp;gt;[http://www.germandaggers.info/rommel.htm German Daggers Info]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)13&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.13]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)30&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.30]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)38&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.38]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。下士官として半年の部隊勤務{{#tag:ref|当時のドイツ帝国軍では士官候補生をいきなり士官学校には入れず、まず野戦部隊に配属して下士官や兵士と一緒に寝起きを共にさせていた。[[ナポレオン戦争]]の時に露呈したプロイセン軍の将校と下士官・兵士の相互不信の問題を解消するためである。この部隊勤務に馴染んだ者のみ士官学校へ進むことが許可された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.30-31]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。|group=#}}を経た後、1911年3月に[[プロイセン王国]][[自由都市ダンツィヒ|ダンツィヒ]]の王立[[士官学校]]に進んだ&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)38&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)31&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.31]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。士官学校在学中に後に妻となるダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーツィエ・マリア・モーリン (Lucia Maria Mollin) と出会った&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)25&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)38&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)31&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上40&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.40]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。士官学校卒業後もルーツィエと手紙で連絡を取り合い、二人は[[1916年]]に結婚した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)15&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.15]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1912年]][[1月27日]]に[[少尉]]に任官し、第124歩兵連隊に戻った&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)25&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上40&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)14&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.14]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)39&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.39]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは新兵の訓練を担当した。このころから彼は自分のカリスマ性を存分に発揮していたのだろう。&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)25&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)15&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1913年12月8日にヴァルブルガ・シュテマー（Walburga Stemmer）との間に[[私生児]]の娘ゲルトルートをもうけた。生活費を送る代わりに表沙汰にしないことで合意した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)33&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.33]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。シュテマーは1928年に肺炎もしくは自殺で死去した。のちにロンメルは妻のルーツィエにゲルトルートの存在を打ち明け&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)33&amp;quot;/&amp;gt;、彼女はロンメルの「親類」として戦中から戦後まで一家と親しくつきあった。事情を教えられていなかった息子のマンフレートはゲルトルートを「従姉妹」と呼んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下である[[ウルム]]駐留の[[第3野戦砲兵連隊 (ヴュルテンベルク軍)|ヴュルテンベルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊（ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊）]]に転属となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)25&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上41&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.41]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)34&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.34]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし第一次世界大戦の開戦により第124歩兵連隊に復帰し、同歩兵連隊隷下の第2大隊第7中隊に所属する小隊の小隊長に就任した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.40・54]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第一次世界大戦 ===&lt;br /&gt;
==== 初めての実戦、ブレド村での戦闘 ====&lt;br /&gt;
1914年7月末から8月初めにかけて[[第一次世界大戦]]となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は1914年8月3日に開戦した&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)29&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.29]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍（司令官[[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1882-1951)|ヴィルヘルム皇太子]]）隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)43&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.43]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルがはじめて実戦に参加したのは8月22日午前5時頃、[[ベルギー]]南部のフランス国境付近の村[[ブレド]]だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)20&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.20]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)41&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.41]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時のロンメルは前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊状態で、しかも胃痛を起こしていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)20&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)41&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.43-47]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし実戦を前に逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で上官には黙っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)43&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊はブレド村に近づき、少数で村の中に偵察に入ってフランス軍に攻撃を仕掛けるも失敗し、村の外で待機していた小隊主力と合流&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)42&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.42]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)49&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.49]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)51&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.51]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃をかけ、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)51&amp;quot;/&amp;gt;。続いて他の建物にも次々と火を放っていった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)42&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)51&amp;quot;/&amp;gt;。しかしフランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。またロンメルが作戦中に疲労と胃痛でしばしば意識を失ったので副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがあった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)51&amp;quot;/&amp;gt;。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことでブレド村のフランス軍は投降した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)23&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.23]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)52&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎|山崎(2009)、p.52]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦闘が終わった後のブレド村は兵士達や巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.24-25]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== フランス領での激戦と負傷 ====&lt;br /&gt;
第124歩兵連隊は国境を超えてフランス領へ侵攻し、[[ムーズ川]]ほとりの町[[デュン]]に到着（[[ヴェルダン]]から北28キロほど）。ムーズ川[[渓谷]]での激戦に参加した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)53&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.53]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ムーズ川は天然の要塞であり、フランス軍砲兵部隊の激しい砲火が降り注ぎ、突破するのは極めて困難だった。ロンメルの小隊が属する第7中隊中隊長も負傷し、一時的にロンメルが中隊長代理に就任して指揮権を引き継いでいる&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)54&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.54]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは中隊を率いてフランス軍砲兵陣地へ攻撃をかけるも失敗し、第2大隊主力を発見して合流した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)56&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.56]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。新しい第7中隊長が決まるとロンメルは小隊長に戻った&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)56&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃、第124歩兵連隊への補給が途絶え、道端の草を食って飢えを凌いでいた兵士たちの中に腹痛を起こす者が続出し、連隊の戦力は大きく低下した。続いて9月12日の[[ヴェルダン]]の敵拠点への攻撃に失敗したことで連隊は大きな損害をだした&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)56&amp;quot;/&amp;gt;。同日に連隊は回復のため後方に下げられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)56&amp;quot;/&amp;gt;。その日の午後、ロンメルは疲れ切って第2大隊司令部で大隊長副官として勤務中に居眠りしてしまい、同僚や上官が起こそうとしても起きずに眠り続けたので、翌13日に目を覚ました時には上官にこっぴどく叱られたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)57&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.57]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9月22日から第124歩兵連隊は[[モンブランヴィル]]での戦闘に参加した。9月22日の戦闘では大隊長副官ロンメルの補佐により第2大隊は大きな戦果をあげた。しかし9月24日の[[ヴァレンヌ＝アン＝アルゴンヌ]]付近の戦闘では、[[銃剣]]術に覚えのあったロンメルはフランス兵3名に弾の入っていない銃剣で立ち向かおうとし、片足の[[腿|上腿部]]を撃ち抜かれて負傷してしまった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)42&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)27&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.27]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)58&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.58]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.43]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。木の後ろに隠れたロンメルは、部下たちに救助されて簡易な野戦病院へと運ばれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)58&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)28&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.28]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに翌朝には[[ストゥネ]]の将校野戦病院へ移送された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)28&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)59&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.59]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。入院中の9月30日に[[二級鉄十字章]]の受章を受けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)28&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)59&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== フランスで塹壕戦 ====&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R33723, Frankreich, Argonnerwald, Vorgehen von Infanterie.jpg|thumb|right|250px|1915年9月、[[アルゴンヌの森]]。フランス軍塹壕へ突撃を仕掛けようと身を低くして進むドイツ軍歩兵。]]&lt;br /&gt;
1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;。この頃、ドイツ軍もフランス軍も攻撃するより攻撃してきたところを返り討ちにする方が打撃を与えやすいと判断して大規模な攻撃には出なくなり、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]は[[塹壕戦]]による[[消耗戦]]の様相を呈していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)36&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.36]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)61&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.61]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。第124歩兵連隊も[[アルゴンヌの森]]の西部で塹壕戦を展開していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルは第2大隊隷下の第9中隊長に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)61&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは中隊を率いて[[匍匐]]前進しながらフランス軍の築いた[[有刺鉄線]]の[[鉄条網]]を隙間を通り抜けて進み、フランス軍主陣地に突入し、[[掩蔽部]]4か所を占領した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)43&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.43]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。取り戻そうと襲撃してきたフランス軍の反撃を一度は退けたが、結局新しい攻撃を受けるのを避けるため自軍の陣地に後退するのを余儀なくされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)43&amp;quot;/&amp;gt;。しかしロンメルはその後退を12人足らずの損害で達成した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)42&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.42]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この際の勇戦ぶりを評価されて1915年3月22日に[[一級鉄十字章]]を授与された&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;。第124歩兵連隊の中尉・少尉階級の者の中では初めての受章だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後も第124歩兵連隊はアルゴンヌに留まったままフランス軍と消耗戦を続けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)33&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.33]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)65&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.65]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。7月にロンメルは[[向こう脛]]に砲弾の破片を受け、二度目の負傷をした&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 山岳兵大隊 ====&lt;br /&gt;
1915年9月に[[中尉]]に昇進するとともに、新たに編成される「[[ヴュルテンベルク山岳兵大隊]]」(Württembergischen Gebirgsbataillon) への転属を命じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)43&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)65&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.65]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。10月4日付けで正式に「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」へ転属&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)67&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.67]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。同大隊の中隊長となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)25&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;。これまでドイツ帝国のいずれの[[領邦]]も本格的な山岳部隊は持っておらず、急遽ドイツ帝国南部に位置する[[バイエルン王国]]と[[ヴュルテンベルク王国]]が山岳兵部隊を編成することになったのであった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)66&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.66]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は同盟国の[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]の[[アルプス山脈]]で[[スキー]]訓練など受けた後、1915年12月31日に[[ヴォージュ山脈]][[ヒルツェン丘陵]]でフランス軍と戦ったが、ここでの戦闘は緩やかで、比較的のんびりと1年ほど戦った&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)70&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.70]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)44&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.44]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ルーマニア戦線 =====&lt;br /&gt;
1916年10月末、山岳兵大隊は[[ルーマニア戦線]]に転戦した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上43&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)44&amp;quot;/&amp;gt;。同大隊は11月11日に[[レスルイ山]]の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)73&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.73]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日に[[自由都市ダンツィヒ|ダンツィヒ]]においてルーツィエと簡易な結婚式をあげた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)44&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)73&amp;quot;/&amp;gt;。[[ハネムーン]]などはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)73&amp;quot;/&amp;gt;。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊は[[ガジェシュチ]]村({{lang|ro|[[:ro:Găgești, Vaslui|ro]]}})で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.73-74]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1917年1月中旬に山岳兵大隊はルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし7月末には再びルーマニア戦線に送られた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上44&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.44]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)75&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.75]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[コスナ山]]に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をした。しかし彼は構わず戦闘に参加し続けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上44&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.76-78]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。傷口を放置したせいで高熱にうなされたが、彼はベッドの中から命令を発し続けたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)79&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.79]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメル初め山岳兵大隊は奮戦したが、コスナ山を占領することはできず、8月25日に山岳兵大隊は第11予備歩兵連隊と交替することとなり、後方に下げられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)79&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.79]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
負傷した腕の治療のため一月ほど休養に入り、その間は妻ルーツィエと一緒に過ごした&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)80&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.80]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== イタリア戦線 =====&lt;br /&gt;
ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|イタリア戦線]]に動員された&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上44&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.44]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰し&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)81&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.81]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、山岳三個中隊と機関銃一個中隊からなる任務部隊司令官に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)82&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.82]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Pour le mérite Neilebock.jpg|thumb|left|140px|プール・ル・メリット勲章]]&lt;br /&gt;
[[カポレットの戦い]]においてドイツ第14軍司令官[[オットー・フォン・ベロウ]]は戦略的要衝である[[マタイユール山]]({{lang|it|[[:it:Matajur|it]]}})や[[コロヴラト山脈]]({{lang|it|[[:it:Monte Colovrat|it]]}})の1114高地を最初に占領した部隊の指揮官には[[プール・ル・メリット勲章]]を与えると布告した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)86&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.86]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは1667年制定の由緒ある戦功勲章でドイツ帝国一般軍人の事実上の最高武勲であった。これにより各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上45&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.45]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは自分の名誉欲で部下を犠牲にするような男ではなかったが、名誉に関心がないわけでもなく、ロンメルの部隊もこれらの要衝の占領を目指すことにした&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)86&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルの部隊はコロヴラト山脈の陣地の占領にあたって大きな功績を果たした。夜間に敵陣地に偵察を行い、配備の隙間を発見してそこを通過してモンテ・クク山を強襲した。突然ロンメルの部隊が背後に現れたことにイタリア軍はパニックとなり、総崩れ状態となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上46&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.46]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。部下に無茶な進軍をさせて前進を阻まれていた[[フェルディナント・シェルナー]]少尉率いるバイエルン軍部隊がその隙に1114高地を占領し、シェルナーがプール・ル・メリット勲章を受章した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上45&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルはこれについて論功行賞のあり方が公正ではないと憤慨していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上46&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは続いてマタイユール山の攻略を狙い、上官からバイエルン連隊に付随せずに右翼から単独で攻撃をかける許可をもらい&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)47&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.47]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、50時間にも及ぶ行軍と戦闘の末に10月26日朝にマタイユール山を攻略した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.46-47]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)87&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.87]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)48&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.48]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリア兵が異常に無気力だったこともあって、500人のロンメルの部隊は、5人の戦死者と20人の負傷者を出しただけで9,000人のイタリア兵を捕虜としていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)88&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.88]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)48&amp;quot;/&amp;gt;。ところがマタイユール山と間違えて別の山を占領した[[ヴァルター・シュニーバー]]中尉が「マタイユール山を占領した」と第14軍司令部に報告していたため、ベロウ将軍は[[ドイツ皇帝|カイザー]]・[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]にシュニーバー中尉を推挙し、結果彼がマタイユール山占領の功績でプール・ル・メリット勲章を受章することになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)88&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.88]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルはこれに激怒して正式に上官に抗議したが、決定は覆せないと認められなかったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上47&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.47]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)88&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしまだイタリアとの戦争は続いており、チャンスはあった。ロンメルは退却するイタリア軍の追撃戦で活躍し、[[ロンガローネ]]のイタリア軍基地への攻撃において勇戦し、やはり無気力なイタリア兵を8000名も捕虜にした&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上50&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.50]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この結果、1917年12月13日にヴィルヘルム2世はついにロンメルにたいして[[プール・ル・メリット勲章]]の受章を認めた。受章理由にはマタイユール山奪取とロンガローネの戦いの勇戦、どちらもあげられていた。しかしロンメルはマタイユール山奪取の功績でプール・ル・メリット勲章を手に入れたと主張していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上50&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.50]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 一次大戦末期 ====&lt;br /&gt;
その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)27&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.27]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)90&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.90]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。1918年10月18日に[[大尉]]に昇進した&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)27&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)90&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1918年11月初めに[[キール]]の水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり（[[ドイツ革命]]）、カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日に[[オランダ]]へ亡命、翌11日には[[ドイツ社会民主党]]の主導する新ドイツ共和国政府が[[パリ]]の[[コンピエーニュの森]]で連合国と休戦協定の調印を行った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.43-44]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。第一次世界大戦はここに終結した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヴァイマル共和政期 ===&lt;br /&gt;
ロンメルは、1918年12月21日に古巣の第124歩兵連隊に再配属された&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)96&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.96]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)62&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.62]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。1919年3月には[[フリードリヒスハーフェン]]の第32国内保安中隊の指揮官に就任。この部隊には革命派の兵士が多く、彼らは上官ロンメルの命令を平気で無視し、プール・ル・メリット勲章にもまるで敬意を払おうとしなかったというが、ロンメルの人格によってまとめ上げられ、部隊は規律を回復したという&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)62&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)54&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.54]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.96-97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結された[[ヴェルサイユ条約]]によって天文学的賠償金が課せられた。また国境付近のドイツ領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツ領土は大きく縮小した。軍については陸軍兵力を小国並みの10万人（将校4000人）に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有を全て禁止された&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)57&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.57]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)95&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.95]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)64&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.64]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。1919年7月31日には[[ヴァイマル]]で開かれた[[国会 (ドイツ)|国会]]で[[ヴァイマル憲法]]が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「[[ヴァイマル共和国]]」の時代が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに将校4000人という制限は、軍に残る事を希望するドイツ帝国将校6人のうち1人だけが[[ヴァイマル共和国軍|ヴァイマル共和国陸軍]]に残れるという倍率をもたらした&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)97&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。そしてロンメルはヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の1人であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)53&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.53]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この後、ロンメルは9年ほど[[シュトゥットガルト]]の第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上53&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.53]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)29&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.29]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)98&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.98]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月に長男の[[マンフレート・ロンメル|マンフレート]]が生まれている&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)98&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上54&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.54]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)68&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.68]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼は戦後[[シュトゥットガルト]]の市長を長年務めている&amp;lt;ref&amp;gt;「マンフレート･ロンメル」伊藤光彦『ドイツとの対話』毎日新聞社、[[1981年]]、135～138ページ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1929年10月1日に[[ドレスデン]]歩兵学校の教官に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上54&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)69&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.69]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上55&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.55]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)56&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.56]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)101&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.101]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチ党政権下 ===&lt;br /&gt;
[[1933年]][[1月30日]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）[[党首]][[アドルフ・ヒトラー]]が[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]][[ドイツ国大統領|大統領]]より[[ドイツ国首相]]に任命された&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)213&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.213]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)70&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.70]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)104&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.104]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、他の多くのドイツ軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の[[反共主義]]と[[軍拡]]の[[イデオロギー]]を歓迎した&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)31&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.31]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)60&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.60]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.104-105]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)71&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.71]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1987-0313-503, Goslar, Hitler schreitet Ehrenkompanie ab.jpg|thumb|250px|[[1934年]][[9月30日]]、収穫祭で[[ゴスラー]]を訪れたヒトラーがロンメル少佐の大隊を閲兵する。中央左がロンメル。2人はこの時に初めてであった。]]&lt;br /&gt;
1933年[[10月10日]]に[[少佐]]に昇進するとともに[[ゴスラー]]に駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)69&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)30&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.30]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)57&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.57]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。1934年[[9月30日]]に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上58&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.58]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える[[儀仗兵]]の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上58&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.58]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)58&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.58]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)58&amp;quot;/&amp;gt;。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上58&amp;quot;/&amp;gt;。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐって[[親衛隊 (ナチス)|SS]]と言い争ったという{{#tag:ref|「閲兵式においても警護のため[[親衛隊 (ナチス)|SS]]部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒して、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と言い返して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]から直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)104&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)30&amp;quot;/&amp;gt;。|group=#}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1935年3月1日に[[中佐]]に昇進した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;。1935年10月15日に新設された[[ポツダム]]歩兵学校の教官に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上59&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.59]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)106&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.106]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)73&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.73]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上59&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.59]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1936年9月の[[ニュルンベルク党大会]]でヒトラーの護衛部隊（{{lang|de|Führer-Begleit-Bataillon}}、{{lang|de|FHQ}}）の指揮官に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)58&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上63&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.63]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時にロンメルは「私の後ろについてくる車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部の車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上63&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.63]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルが[[フォッゲンライター出版社]]から『歩兵攻撃（{{lang|de|Infanterie greift an}}）ISBN 978-1-85367-707-6』を出版したことだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上63&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)109&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.109]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)69&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)109&amp;quot;/&amp;gt;。この本は50万部を売り切る[[ベストセラー]]となり&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)109&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)32&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.32]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、各方面からの高評価を受け、一次大戦で歩兵だったヒトラーも自分の経験に照らし合わせてこの本を激賞した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上63&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)32&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)117&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.117]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)80&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.80]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。なおロンメルはこの本の[[印税]]に関してフォッゲンライター出版社と結託して[[脱税]]をした{{#tag:ref|ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の[[印税]]を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000[[ライヒスマルク]]だけを自分に支払わせ、残りは[[銀行]][[預金]]にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上64&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.64]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)110&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.110]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。|group=#}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1937年2月にロンメルはナチ党の[[ヒトラー・ユーゲント]]に国防省連絡将校として派遣された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)58&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.58]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)111&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.111]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは[[ドイツ国防軍|国防軍]]の下級将校の指導による軍事教練をユーゲント団員に施すことを企図し、全国青少年指導者[[バルトゥール・フォン・シーラッハ]]との折衝にあたったが、ユーゲントの指導権を軍に奪われることを恐れるシーラッハはこれに反対し続けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)59&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.59]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)112&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.112]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルとシーラッハの関係は悪くなる一方で二人は劇場での席次など些細なことでも争う様になった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)112&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上66&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.66]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この任にあった頃の1937年8月1日に大佐に昇進した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)112&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シーラッハとの衝突にも関わらず、ヒトラーのロンメルへの信任は失せなかった。1938年9月に[[ズデーテン併合]]にあたってヒトラーはロンメルを再び総統護衛部隊隊長に任じ、自らの護衛を任せた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)59&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上66&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)113&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.113]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この頃にはロンメルは完全なヒトラー支持者になっており、次第にヒトラー讃美がエスカレートしていった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上66&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)114&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.114]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。妻への手紙には「(ヒトラーは)ドイツ国民を太陽の下へ導きあげるべく、神、あるいは天の摂理によって定められている」と書き&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)32&amp;quot;/&amp;gt;、友人への個人的な手紙には文末に「[[ハイル・ヒトラー]]、敬具、E・ロンメル」と記す程になっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上66&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)114&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)120&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)33&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.33]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒトラーにとってもロンメルはお気に入りの将校だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)117&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.117]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは貴族階級出身の将校ではなく、そうした貴族将校たち特有の平民出のヒトラーを見下したような態度がなかったこともヒトラーの好感につながったと思われる&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)62&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.62]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)92&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.92]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1938年11月10日には[[ウィーン]]郊外の[[ヴィーナー・ノイシュタット]]の士官学校の校長に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)59&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)114&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上67&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.67]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)79&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.79]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルはこの学校をドイツ、そしてヨーロッパでもっとも近代化されている士官学校にしようと張り切っていたが、ヒトラーの警護隊長にしばしば任じられたため、彼はあまりこの学校にいなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上67&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.32-33]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1939年]]3月15日に[[チェコスロバキア併合]]があると、ヒトラーは再びロンメルを総統警護部隊の指揮官に任じて、自分の警護にあたらせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上67&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.67]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。チェコはオーストリアやズデーテンと違い、ドイツ系が少ないため、ヒトラーが出向いても歓迎されるとは思えなかった。暗殺の危険も大きかった。ヒトラーがロンメルに「大佐、貴官が私の立場なら、どうするかね？」と聞くと、ロンメルは「オープンカーに搭乗し、重武装の護衛無しで[[プラハ城]]まで乗り込み、ドイツのチェコスロバキア統治が始まったことを内外に向けて示します」と答えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)117&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.117]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)83&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.83]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒトラーは、他の者たちの反対を押し切って、ロンメルの意見を容れ、ロンメルたちを護衛に付けたのみで無事にプラハ城に乗り込んでいる&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)33&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)83&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)118&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.118]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。続く3月23日の[[メーメル返還]]でヒトラーが[[メーメル]]へ向かった時にもロンメルは総統警護大隊の隊長を務めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上67&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)120&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.120]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1939年8月1日に[[少将]]に昇進した。6月1日に遡及しての昇進である事を認められた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)120&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上70&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.70]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これはロンメルを寵愛するヒトラーの特別な決定によるものである&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)120&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上70&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルは妻への手紙で「私が聞き知ったところによると先の昇進はひとえに総統のおかげだ。私がどれほど喜んでいるか、お前にも分かるだろう。私の行動とふるまいを総統に承認していただく事が私の最高の望みなのだ。」と書いている&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)33&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.33]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーの寵愛は続いた。1939年8月22日を以ってヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長職を辞し、8月25日に「[[総統大本営]]管理部長」に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上70&amp;quot;/&amp;gt;。これまでのような期間限定の警護隊長ではなく、常時ヒトラーの警護を行うこととなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)120&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次世界大戦 ===&lt;br /&gt;
==== ポーランド戦中の総統警護 ====&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-013-0064-35, Polen, Bormann, Hitler, Rommel, v. Reichenau.jpg|thumb|250px|1939年9月、対ポーランド戦中のヒトラーの前線視察。ヒトラーに警護責任者として同伴するロンメル少将(ヒトラーの右)。]]&lt;br /&gt;
1939年9月1日にドイツ軍の[[ポーランド侵攻]]、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって[[第二次世界大戦]]が開戦した。ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。妻に「君は9月1日のこと、つまりヒトラーの(ポーランドとの開戦を発表する国会での)演説をどう思うかな？我々がこのような人物を持っている事は実にすばらしいではないか。」と書き送っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上72&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.72]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼は一次大戦の敗戦でポーランドに奪われた[[ポーランド回廊]]と[[自由都市ダンツィヒ|国連の管理下に置かれたダンツィヒ]]をドイツの手に取り戻す必要性を感じていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)85&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.85]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、総統専用列車「アメリカ」に乗って前線視察に出たヒトラーに同伴してポーランドへ向かった。ヒトラーはポーランド戦中、3週間も前線視察に出ていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上72&amp;quot;/&amp;gt;。なおヒトラーがポーランドの港町[[グディニャ]]を訪れた際にロンメルは[[マルティン・ボルマン]]と揉めたという{{#tag:ref|総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、ヒトラーの[[グディニャ]]視察の際に急な下りで幅が狭い街路に通りかかると「総統の車と警護の車一車両のみが下るものとする！他はここで待て！」と指示した。しかし総統の側近である[[マルティン・ボルマン]]はヒトラーと切り離されることに激怒し、ロンメルに抗議を行ったが、ロンメルは「私は総統大本営管理部長だ。これは遠足じゃない。貴方も私の指示に従っていただく！」と言い返してボルマンの車を通過させる事を拒否したという。ボルマンはこの事を執念深く覚えており、5年後にロンメルに復讐することになる&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上74&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.74]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。|group=#}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1939年10月5日に[[ワルシャワ]]でヒトラー出席のドイツ軍の戦勝祝賀式典が行われることになり、ロンメルは10月2日にワルシャワに入り、会場とその周辺に警備上の問題がないかの視察を行った&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)126&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.126]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。10月5日の戦勝祝賀式典ではヒトラーの隣に立つロンメルの姿が映像に残っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上75&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.75]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ポーランド戦後、装甲師団長に ====&lt;br /&gt;
ヒトラーもロンメルもポーランドを落とせば英仏は講和を申し出てくると思っていた（[[まやかし戦争|実際に英仏は宣戦布告してきただけでポーランド戦中、ドイツに攻撃を行ってくる様子はほとんどなかった]]）&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上73&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.73]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし英仏はポーランドが陥落してもドイツの呼びかけに歩み寄る姿勢は全く見せなかった。軍部は軍事力の上で圧倒的に勝っている英仏と戦火を交えることを嫌がっていたが&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上75&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.75]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、ヒトラーはこうした反対を退けて[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻]]を決意した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上76&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.76]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポーランド戦後、[[ベルリン]]で退屈な日々を送ることになっていたロンメルは&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上75&amp;quot;/&amp;gt;、来るフランス戦では前線勤務をしたいと志願した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)128&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.128]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。陸軍人事部長は一次大戦での彼の経験に基づき山岳師団師団長をロンメルに提示したが、ロンメルはヒトラーに[[機甲師団|装甲師団]]の指揮を取りたいと求めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)92&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.92]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。陸軍人事部長は歩兵科のロンメルに装甲師団を任せることに反対していたが、ヒトラーの介入で許可された&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上77&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.77]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Panzer 38(t) Ausf. S.jpg|thumb|200px|left|ロンメルの第7機甲師団の多数を占めた[[38(t)戦車]]。]]&lt;br /&gt;
こうして1940年2月15日にロンメルは新編成された[[第7装甲師団 (ドイツ国防軍)|第7装甲師団]] (7. Panzer-Division (Wehrmacht)) の師団長に任命されることとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)62&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)92&amp;quot;/&amp;gt;。ちなみにフランス戦においてはドイツ軍136個師団のうち装甲師団は10個師団しかなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)29&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.29]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのうちの一つである第7装甲師団が有する戦車の数は225両だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)134&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.134]]&amp;lt;/ref&amp;gt;{{#tag:ref|[[リデル・ハート]]によるとロンメルの第7機甲師団の戦車総数は218両という&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)30&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.30]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。|group=#}}。[[I号戦車]]（機関銃のみ）34両、[[II号戦車]]（2センチ砲）68両、[[III号戦車|III号指揮戦車]]（火砲の代わりに指揮用の大型無線機が付いた戦車）8両、[[IV号戦車]]（短砲身7.5センチ砲）24両、ドイツがチェコを併合した後に獲得した[[チェコスロバキア]]製の[[38(t)戦車]]（3.7センチ砲）91両である&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上80&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.80]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎|山崎、p.134-135]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。師団の多数を占める38(t)戦車は装甲が薄いが、重量は9トン足らずであったので速度が速く、対フランス戦のような機動戦には非常に向いていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上81&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.81]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)135&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.135]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。普通のドイツ軍装甲師団は2個装甲連隊と2個狙撃兵連隊で編成されたが、第7装甲師団は、狙撃兵連隊は通常通り2個連隊あったが、装甲連隊は第25機甲連隊が1個だけで（この装甲連隊は2個装甲大隊で編成された）、他に装甲連隊に属さない1個装甲大隊があるだけだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)30&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)134&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
積極的な歩兵攻撃の論者だったロンメルだが、彼は驚くべき早さで戦車の運用知識を身に付けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上81&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)30&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.30]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。2月27日にロンメルはベルリンへ飛び、ヒトラーに師団長就任の報告をした。ヒトラーより「楽しい思い出と共にロンメル将軍に贈る」と書き添えた『[[我が闘争]]』を贈られた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)135&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)35&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.35]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ドイツ参謀本部|参謀本部]]はヒトラーにフランス侵攻作戦案を提出したが、一次大戦の[[シュリーフェンプラン]]と大差がないことからヒトラーが却下し、紆余曲折の末にA軍集団参謀長[[エーリヒ・フォン・マンシュタイン]]中将の立案による「マンシュタイン・プラン」が採用された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲルリッツ(1998)532&amp;quot;&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.532]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは装甲師団を中央のA軍集団に集中させ、[[ベルギー]]南部の[[アルデンヌの森]]（この森は道がないため、戦車の機動は無理と考えられており、フランス軍はここを手薄にして「アルデンヌの間隙」を作っていた）を通過させて[[英仏海峡]]まで一気に進軍し、ベルギー・北フランスに展開する連合国主力を孤立させるというものだった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ゲルリッツ(1998)|ゲルリッツ(1998)、p.521-522]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)29&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.29]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.137-140]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-124-0242-24, Mosel, Julius v. Bernuth, Erwin Rommel.jpg|thumb|180px|1940年春、[[ドイツ]]・[[モーゼル川]]で川の流れを事前調査。右側で腕を組んでる人物が第7装甲師団長ロンメル少将。]]&lt;br /&gt;
ロンメルの第7装甲師団は、[[A軍集団]] (Heeresgruppe A) （司令官[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]上級大将）隷下の[[第4軍 (ドイツ軍)|第4軍]]（司令官[[ギュンター・フォン・クルーゲ]]上級大将）隷下の第15装甲軍団（軍団長[[ヘルマン・ホト]]大将）の隷下となった。同じ第15装甲軍団隷下に[[第5装甲師団 (ドイツ国防軍)|第5装甲師団]] (5. Panzer-Division) があった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上81&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)63&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.63]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)160&amp;quot;&amp;gt;[[#西方(1997)|『西方電撃戦』(1997)、p.160]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7装甲師団の役割は先頭に立ってアルデンヌの森を通過し、[[エヴァルト・フォン・クライスト (軍人)|エヴァルト・フォン・クライスト]]大将率いる「クライスト装甲集団」（5個装甲師団から成る）を北の連合国主力の攻撃から守り、[[英仏海峡]]までの西進を邪魔されないようにすることにあった&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)160&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)63&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.63]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしロンメルは自分の師団も英仏海峡まで一気に進軍したいと思っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)160&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 西方電撃戦 ====&lt;br /&gt;
[[1940年]][[5月9日]]午後1時45分にフランス侵攻作戦「黄色の件（Fall Gelb）」の暗号「ドルトムント」がロンメルに伝達された&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上81&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)63&amp;quot;/&amp;gt;。これを受けてロンメルの第7装甲師団は同日午後11時40分に所定の位置に付いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上82&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.82]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦局はドイツ軍に不利と思われた。ドイツ軍の戦車は2800両だったが、対する連合軍の戦車は4000両だった。戦車の装甲や火力も連合軍が勝っていた。ただ戦車の速度においてのみドイツ軍が勝っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)29&amp;quot;/&amp;gt;。そして西方電撃戦では速さが一番重要だった。ロンメルの第7装甲師団は特に素早く進軍し、しばしば師団の主力が師団の先頭に置き去りにされた。ロンメルの搭乗する戦車は常に師団の先頭に立って前進した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上83&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.83]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。通常交戦が始まると身を隠すためや敵の規模・装備を確認するためにその場に停止するが、ロンメルは交戦中も常に前進を命じた。それによって敵に第7装甲師団がどこにいるのか分からなくし、敵に自ら拠点を放棄させることに繋げようとした&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)147&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.147]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ本国ではロンメルの師団は「全ドイツ軍師団のうち、最も西にいる師団」として評判だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;全史2(2000)48&amp;quot;&amp;gt;[[#全史2(2000)|『ドイツ装甲部隊全史(2)』(2000)、p.48]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。必要とあれば航空機に乗って後続の砲兵部隊や自動車化歩兵部隊の下に駆けつけて指示を与えたり、叱咤激励をした&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)160&amp;quot;/&amp;gt;。部下の将兵たちの間で「不死身のロンメル」伝説が広まり、絶大な信頼を寄せられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)160&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7装甲師団は、この戦争において主要な役割を割り当てられていたわけではない&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)160&amp;quot;/&amp;gt;。しかしその進軍スピードの速さから連合国は「いつの間にか防衛線をすり抜けている」という意味で「'''幽霊師団'''（[[英語|英]]：Ghost Division、[[フランス語|仏]]：Division Fantôme、[[ドイツ語|独]]：Gespensterdivision）」と呼んで恐れた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)163&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.163]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;全史2(2000)48&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== アルデンヌの森通過 =====&lt;br /&gt;
1940年[[5月10日]]午前4時35分にロンメルの第7装甲師団は国境を超えてベルギー領へ侵攻を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)144&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.144]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7装甲師団の進路にベルギー軍が配置していたのは障害物（バリケードと橋の爆破）と軽装備のアルデンヌ猟兵第3連隊だけだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)144&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.144]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。第7装甲師団はこれらを排除しつつ急ピッチで前進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ軍第7装甲師団がアルデンヌの森を通過しようとしていることを察知したフランス軍は第1・第4軽騎兵師団を差し向けたが（この両軽騎兵師団は騎兵旅団と機甲旅団で編成されていた）、第7装甲師団の奇襲を受けるとすぐに西に撤収していった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)146&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.146]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ムーズ川渡河 =====&lt;br /&gt;
[[File:Dinant-2004.jpg|thumb|250px|2004年の[[ディナン (ベルギー)|ディナン]]。]]&lt;br /&gt;
5月10日から5月12日の3日間で第7装甲師団はアルデンヌの森を横断し、5月12日の夜遅くに一次大戦の頃にも悩まされた天然の要塞[[ムーズ川]]に面した町[[ディナン (ベルギー)|ディナン]]に到達した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上83&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルはできれば撤退するフランス軍第1・第4軽騎兵師団の後に続いて一気に橋を渡りたかったが、ちょうど第7装甲師団が川に到着した頃にディナンにかかっていた橋が爆破されたため、[[ゴムボート]]と[[舟橋]]を使っての渡河作戦を実施せざるを得なくなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)33&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.33]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルはまだ暗いうちに第7装甲師団の歩兵をゴムボートで西岸に渡し、明け方までに1個中隊ほどの歩兵を西岸に渡した。工兵たちに戦車を渡らせるための舟橋の建設を急がせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)148&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.148]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしやがてフランス軍に発見され、西岸の切立った堤防上のフランス軍陣地から激しい銃撃と砲撃に晒され、渡河作戦は停滞した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上83&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)148&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)34&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.34]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは河川にある民家に火を放って川に煙幕を張り&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上83&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)34&amp;quot;/&amp;gt;、また戦車や対戦車砲に西岸のフランス軍陣地があると思わしき場所に向けてじゅうたん砲撃を加えるよう命じた。その砲撃支援の下にディナンとその少し北方の[[レフェ]]で渡河作戦を再開させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)148&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)65&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.65]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは工兵たちに叱咤激励しながら自らも川の中に飛び込んで角材やロープを運んで舟橋建設を手伝った&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)150&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.150]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)92&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.92]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。架橋材料を使い果たすとロンメルは同じ第15装甲軍団に属する第5装甲師団から資材を盗んでいる。第5装甲師団長はロンメルに返却を求めたが、ロンメルは「我々が最初に渡河するのだ」と言って聞かなかったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)160&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上98&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.98]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7装甲師団は多くの死傷者を出しながらも5月13日中にはレフェに架橋することに成功し、戦車のムーズ川渡河を成功させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)93&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.93]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)149&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.149]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== オナイユで負傷 =====&lt;br /&gt;
5月14日早朝、すでに渡河していた30両の戦車だけでディナンの西約5キロの[[オナイユ]]へ進撃を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)37&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.37]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これによりフランス軍が対応を決定するより早く部隊を浸透させることに成功した&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)160&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところがオナイユ近くでロンメルの搭乗するIII号指揮戦車が対戦車砲を食らって坂から転がり落ちた。ロンメルは何とか脱出したが、顔を負傷した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)38&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.38]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)151&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.151]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)93&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.93]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[フランス植民地帝国|フランス植民地]]から連れてこられた有色人兵士たちが、ロンメルを捕虜にしようと接近してきたが、隷下の[[カール・ローテンブルク]]大佐([[:en:Karl Rothenburg]])率いる第25装甲連隊がこれを蹴散らしてロンメルを救出した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)93&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルは自分の戦車がやられたのは移動しながら攻撃をしなかったためだと考え、改めて師団の各戦車に「敵と遭遇しても停止せずに砲弾を撃ちながら強行突破せよ」と命じた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)151&amp;quot;/&amp;gt;。転倒したIII号指揮戦車は動かなくなったため、ロンメルはローテンブルク大佐の搭乗するIV号戦車に同乗するようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上84&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.84]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[フランス軍第9軍]]([[:fr:IXe armée française|fr]])司令官[[アンドレ・ジョルジュ・コラップ]]中将([[:fr:André Georges Corap|fr]])はロンメルの第7装甲師団のこのオナイユへの進軍と[[ハインツ・グデーリアン]]の装甲軍団の[[スダン]]での渡河成功を恐れ、ムーズ川の防衛線を放棄してさらに西へ退却する事を命じた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)39&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.39]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 停止命令を無視して進軍 =====&lt;br /&gt;
ロンメルの師団は[[フラヴィオン]]([[:fr:Flavion|fr]])で[[重戦車]][[ルノーB1]]の燃料切れで停止していたフランス軍第1機甲師団と戦闘した後、ここを後続の第5装甲師団に任せて、[[フィリップヴィル]]([[:fr:Philippeville|fr]])へ進撃した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上83&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.154-155]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし5月16日に[[A軍集団]]司令官[[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]上級大将は先頭に立って進軍する装甲師団が突出しすぎていると判断して装甲師団に進軍停止を命じた。ヒトラーもそれに同意し、5月17日の総統命令で装甲師団の進軍停止を命じた。しかしロンメルはそれでは心理戦である電撃戦の効果が薄れると考え、ヒトラーやルントシュテットの命令を無視して進軍を続けた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.156-157]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。命令無視は本来は[[軍法会議]]にかけられるべきであるが、ヒトラーはロンメルを目覚ましい活躍をした装甲師団長として英雄化することを考えていたのでロンメルがこの命令無視によって何か処分を受けることはなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)163&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.163]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは[[クルト・ヘッセ]]大佐に「この戦争では指揮官の位置は第一線だ。私は椅子に腰かけている連中が出す戦略など信じない。今は[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ|ザイトリッツ]]や[[ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン|ツィーテン]]の時代と同じだ。我々は戦車をかつての騎兵とおなじように考えねばならない。かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、今は移動する戦車の上で命令を下さねばならない。」と語っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上89&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.89]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== マジノ線延長部分突破 =====&lt;br /&gt;
[[File:Maginot Line ln-en.jpg|thumb|250px|点線の部分がマジノ線延長部分]]&lt;br /&gt;
ロンメルの師団は5月16日午後6時頃にベルギーとフランスの国境を超えて、フランス領へ突入した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)157&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.157]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その30分後、フランスの国境要塞地帯マジノ線延長部分と遭遇した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)158&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.158]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは[[マジノ線]]そのものではなく、フランスが防衛線を西方にも延長しようとしてマジノ線から分離して作った物である&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)43&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.43]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただロンメルを含めてドイツ軍側は区別せず、まとめて「マジノ線」と呼んでいた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)43&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.43]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。マジノ線延長部分はマジノ線と比べれば貧弱な防衛線であった。それでも頑強な[[トーチカ]]と砲台と[[有刺鉄線]]と[[地雷原]]で固められていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)157&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.157]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは砲兵に激しい砲火を撃たせてマジノ線延長部分の各所に煙幕を張り、フランス軍を攪乱している間に工兵の[[火炎放射器]]や[[爆薬]]でトーチカを破壊していった。火に照らされる明るい隙間となったその部分に戦車が砲撃しながら前進して強引に突破した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上85&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.85]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)45&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.45]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[ソール・ル・シャトー]]([[:fr:Solre-le-Château|fr]])、[[サール・ポトリ]]([[:fr:Sars-Poteries|fr]])、[[スムージー (フランス)|スムージー]]([[:fr:Semousies|fr]])を一気に通過してマジノ線延長部分を突破した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上85&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マジノ線延長部分がロンメルの師団の攻撃で受けた損害は微々たるものだったが、凄まじい勢いで進軍するロンメルの師団にフランス軍はパニックを起こして、戦わずして次々と投降した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)159&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.159]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。マジノ線延長部分の突破で第7装甲師団が被った損害は戦死者35名、負傷者59名だけだった。戦果はフランス兵捕虜約1万人、戦車約100両、装甲車30両、大砲20門の鹵獲であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)53&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.53]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 進軍の一時停止 =====&lt;br /&gt;
ロンメルの師団は5月17日午前0時に[[アヴェーヌ]]([[:fr:Avesnes-sur-Helpe|fr]])に到着、ついで午前6時には[[サンブル川]]沿いの[[ランドルシー]]([[:fr:landrecies|fr]])に到着、さらに午前6時30分には[[ル・カトー]]([[:fr:Le Cateau-Cambrésis|fr]])東部の高地へ進軍した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)158&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.158]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。途中避難民と西へ撤退するフランス兵で道が大混雑していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)49&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.49]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランス兵の大半はロンメルの師団が横を通過しても抵抗することはなく、おとなしく捕虜となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上86&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.86]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは捕虜にしたフランス兵に対しては武装解除だけして自分で東の捕虜収容所に向かうよう指示した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上86&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
進軍中ロンメルは、第7装甲師団の全部隊が後ろから続いていると思っていたが&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)49&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.49]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、ロンメルはじめ師団の先鋒がル・カトー東部の高地に到着した時、師団の主力はまだベルギーにいた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上90&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.90]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)160&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.160]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。師団主力はロンメル初め師団先頭部隊と連絡が取れなくなっており、師団参謀[[オットー・ハイドケンパー]]少佐がロンメル少将もローテンブルク大佐も戦死したとみなしたためだった。ロンメルは後に手紙の中で「私はできる限り早く奴を追い出してやる。この若い少佐参謀は第一線から32キロも後方にいながら自分と参謀本部要員が危険な目に合うのではと恐れていた」と激怒している&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上90&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルの手元にいたのは二個装甲大隊とオートバイ狙撃兵数個小隊だけだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)160&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)95&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.95]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの部隊はすでに弾薬や燃料を使い果たしていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)160&amp;quot;/&amp;gt;。軍司令部から「アヴェーヌで進軍を停止せよ」との命令が届いたこともあり（すでにアヴェーヌを超えてル・カトー東部にいたが）、ロンメルはやむなくル・カトー東部でしばらく停止することにした&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)160&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)50&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.50]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)82&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.82]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)95&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ル・カトーのフランス軍から攻撃を受けたが、ローテンブルク大佐に防衛を任せて、ロンメルは装甲車に搭乗して後続の部隊を誘導するために一度アヴェーヌまで戻った&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)51&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.51]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)95&amp;quot;/&amp;gt;。午後4時頃にアヴェーヌで第7装甲師団の主力と合流し、さらにフランス軍から40両のトラックを鹵獲した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)53&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.53]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)162&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.162]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌5月18日昼に前線のローテンブルク大佐たちと合流した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)54&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.54]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。補給と修理を済ませて午後3時に進軍が再開された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)54&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)83&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.83]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)163&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.163]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。抵抗を受けることなく[[カンブレー]]を占領したが、ここで再び進軍停止を命じられた。西方へ向けて進撃する[[ハインツ・グデーリアン]]と[[ゲオルク＝ハンス・ラインハルト]]の装甲軍団の側面を歩兵部隊の到着まで右翼のホト第15装甲軍団（ロンメルの師団はこの隷下）がベルギー・北フランスの連合国主力の攻撃から守ることになったのである&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)56&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.56]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルの師団はこの時間を補給と兵の休息に利用した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)56&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== アラスの戦い =====&lt;br /&gt;
{{main|アラスの戦い (1940年)}}&lt;br /&gt;
ヒトラーは5月19日に進軍停止命令を解除し、グデーリアンとラインハルトの装甲軍団以外の装甲部隊も西方進撃を再開することになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)163&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7装甲師団は5月20日に[[アラス]]への攻撃を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)57&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.57]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし先陣の装甲部隊と後続の歩兵部隊の間にフランス軍が介入したため、まずその対処にあたらねばならなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)57&amp;quot;/&amp;gt;。同日にグデーリアンの装甲軍団が英仏海峡に面する[[アブヴィル]]に到達し、ベルギー・北フランスにいる連合国主力を孤立させることに成功した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)165&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.165]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[イギリス海外派遣軍 (第二次世界大戦)|イギリス海外派遣軍]]司令官ゴート子爵大将はこの封鎖の突破を図るため、5月21日午後にロンメルの師団や[[武装親衛隊]]の[[第3SS装甲師団|髑髏師団]]が展開するアラス方面に攻勢をかけさせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)58&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.58]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)165&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時、第7装甲師団は髑髏師団と共にアラス南西を北へ旋回して進軍していたところだったため、イギリス軍に右側面をつかれる形となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)165&amp;quot;/&amp;gt;。イギリス軍の戦力の中で最も厄介だったのは[[マチルダII歩兵戦車]]だった。マチルダの重装甲はロンメルの師団の3.7センチ対戦車砲をことごとく弾き返し、砲兵の砲弾さえもはね返した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上91&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.91]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)62&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.62]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)167&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.167]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。師団は[[88ミリ高射砲]]を対戦車砲として使用することでマチルダに対抗した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)97&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)27&amp;quot;&amp;gt;[[#西方(1997)|『西方電撃戦』(1997)、p.27]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)167&amp;quot;/&amp;gt;。さらに[[ドイツ空軍]]の[[急降下爆撃機]][[Ju 87 (航空機)|シュトゥーカ]]による攻撃を受けてイギリス軍はようやく攻勢を諦めて撤退した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)97&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこの戦いで師団はかなりの損害を受けた。戦死と捕虜で250名を失い&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)98&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.98]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、ロンメルの副官モスト中尉もこの戦いで戦死した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上91&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)60&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.60]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。IV号戦車3両、38(t)戦車6両{{#tag:ref|ロンメルはアラスの戦いで「III号戦車6両」を失ったと書いているが、恐らく38(t)戦車の間違いである&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)85&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.85]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。|group=#}}、軽戦車多数を失った&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)97&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)85&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ダンケルク包囲 =====&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1972-045-02, Frankreich, Erwin Rommel und Offiziere mit Karten.jpg|thumb|250px|1940年5月。部下たちと共に地図を見る第7装甲師団長ロンメル少将。]]&lt;br /&gt;
5月22日と5月23日にアラス西郊を迂回して[[ベテューヌ]]まで前進し、同地のイギリス軍をその先にある運河線の向こうまで後退させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)63&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.63]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながらこの直後の5月23日に第4軍司令官クルーゲより全装甲師団に対して歩兵師団が追いつくまで進軍を停止するよう命令があった。ヒトラーもこの判断を妥当として、5月24日に全装甲師団に対してダンケルクへの進軍停止命令を下した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)168&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.168]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。北部で孤立している連合国への攻撃は[[ドイツ空軍]]の爆撃によって行うこととなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)170&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.170]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これはすでにベルギー・北フランスの連合国主力に対する包囲は完成していたので、来る南フランスへの進撃に備えて装甲師団を温存した方がいいという判断であったと思われる&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)85&amp;quot;/&amp;gt;。またドイツ空軍司令官[[ヘルマン・ゲーリング]]に花を持たせる判断もあったかもしれない&amp;lt;ref name=&amp;quot;西方(1997)73&amp;quot;&amp;gt;[[#西方(1997)|『西方電撃戦』(1997)、p.73]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらにアラスの戦いがクルーゲやクライストに深い衝撃を与え、彼らを慎重にさせており、その意見を容れたルントシュテットがヒトラーに進言した結果でもあると思われる&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)62&amp;quot;/&amp;gt;。その意味においてはロンメルにも責任があった。ロンメルは自分の戦功を大きく見せかけるためか、アラスの戦いのイギリス軍の戦力を実際の2倍以上の「5個師団・戦車100両」などと報告しているからである&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)168&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.168]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれにしてもこの装甲師団停止命令によってロンメルの師団は5月26日まで停止してダンケルクの包囲の一翼を担った。しかしこの装甲師団の停止命令によって、[[5月26日]]から[[6月3日]]にかけて英仏軍30万人以上に[[ダンケルク]]から[[大ブリテン島]]・[[ドーヴァー]]への撤退（[[ダンケルクの撤退]]）を許してしまった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)62&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.62]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)99&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.99]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。5月24日からの2日間で英仏軍はダンケルクを防衛する配備を整え、5月26日の段階ではすでにダンケルクの撤退を阻止することは不可能となっていたのである&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)62&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルはこの停止期間中、師団の受けた損害の回復や補給にあたった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)63&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.91-92]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。5月26日にヒトラーの意向でロンメルは[[騎士鉄十字章]]を受章した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)85&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルは対フランス戦で最初に騎士鉄十字章を授与された師団長となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上92&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.92]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また同日ヒトラーが進軍停止命令を解除した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)85&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上92&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.92]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。連合国主力の包囲の一翼を担うため第7装甲師団は[[リール (フランス)|リール]]へ向けて北進するよう命じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)86&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.86]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。進軍停止命令が解除されると第7装甲師団は[[キャンシー]]([[:fr:Cuinchy|fr]])から運河を渡河し、激しい抵抗を退けながらリールとその西方[[エンヌティエール]]([[:fr:Ennetières-en-Weppes|fr]])間の道路を抑えることに成功した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)70&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.70]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これにより海の方へ向かう退路を断ち、フランス第一軍の半分近くの将兵を補足することに寄与した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上93&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.93]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)71&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.71]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)88&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.88]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後歩兵師団が到着し、リールを占領した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上93&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ヒトラーと対面 =====&lt;br /&gt;
[[5月29日]]にロンメルの師団はアラス西方に戻って休息に入るよう命じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)98&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.98]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは[[6月2日]]に[[シャルルヴィレ]]([[:fr:charleville|fr]])に召集され、ヒトラーと面会した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)88&amp;quot;/&amp;gt;。召集されたのは軍司令官や軍団長ばかりであり、師団長クラスで召集されたのはロンメルだけだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上94&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.94]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)170&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.170]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒトラーはロンメルに「君が攻撃している間、君が無事かどうかずっと心配だったよ」と述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上94&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)72&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.72]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)171&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.171]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この日、ヒトラーは召集した将軍たちに6月5日に攻撃を再開してフランスに止めを刺すことを通達した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上94&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月4日にダンケルクの撤退が完了し、ベルギー・北フランスの英仏軍は消えたのでドイツ軍にとって後は南へ向けて進軍するのみとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)88&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.88]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお[[ベルギー軍]]は[[ベルギー国王|国王]][[レオポルド3世 (ベルギー王)|レオポルド3世]]の決定により5月28日に降伏して武装解除を受けていた（ただベルギー政府は降伏を拒否し、国王大権剥奪決議を行っている）&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)460&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.460]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== セーヌ川まで南進 =====&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1972-045-08, Westfeldzug, Rommel bei Besprechung mit Offizieren.jpg|thumb|250px|草原に座り込んで即席の会議を行う第7装甲師団長ロンメル少将。左から二人目が第7装甲師団の主力である第25装甲連隊の隊長カール・ローテンブルク大佐。]]&lt;br /&gt;
6月5日朝に敵が爆破し損ねた橋を渡って[[ソンム川]]を渡河した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上94&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)75&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.75]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。川の渡河を妨害する敵砲兵隊の陣地を慎重に落としていき、同地に配備されていた大量のフランス植民地兵を捕虜にした&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上94&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソンム川を突破した後、ロンメルは彼が「フレーヒェンマルシュ（広域進撃）」と名付けた陣形で前進した。これは全師団を幅1.5キロ、長さ20キロに及ぶ箱形陣形にし、正面と両脇に装甲大隊を置き、後方に装甲大隊と偵察大隊を置き、中央には歩兵連隊を置くという陣形である&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上94&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)89&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.89]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この陣形は外側にいる装甲大隊がいつでも全兵種の支援を受けられるため攻撃を受けた時に反撃しやすい利点があった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)97&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。欠点は進軍スピードが落ちることだが、ソンム川南方・西方のようにゆるやかな起伏が続く平坦な地形においてはそちらの方が有効であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上94&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)172&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.172]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルの師団は順調に快進撃を続け、[[6月7日]]には48キロ以上進軍し、[[アミアン]]から海岸に至る地域を防衛していたフランス第10軍を分断した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)80&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.80]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。6月8日にはさらに72キロも進撃した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)88&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.88]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃には連合軍は至るところで崩壊していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)75&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.75]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルの師団も大ブリテン島へ逃げ帰るため、英仏海峡の方へ逃れようとするイギリス軍としばしば遭遇したが、すでに彼らの指揮系統は崩壊状態であったので大した戦闘にもならなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)173&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.173]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。テュロワで捕虜にしたイギリス軍のトラックからは[[テニス]]の[[ラケット]]や[[ゴルフクラブ]]まで出てきたのでロンメルは「イギリス軍はこの戦争がまさかこんな結果になるとは思ってもいなかったのだな」と言って笑ったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上95&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.95]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[6月8日]]真夜中にルーアン南方の[[セーヌ川]]に到達した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上95&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)74&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.74]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。セーヌ川への到達は全ドイツ軍でロンメルの師団が一番乗りだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上95&amp;quot;/&amp;gt;。[[エルブフ]]([[:fr:Elbeuf|fr]])の橋から一気にセーヌ川を渡河しようとしたが、フランス軍がひと足早くセーヌ川にかかる全ての橋を爆破したために失敗した。ロンメルの師団は突出しすぎており、背後にはまだ敵が残っている都市がたくさんあった。また[[ルーアン]]上空に観測用気球があげられたため、ロンメルの師団はエルブフ付近の川がくねって半島のようになっている地域から一時撤退することにした&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上95&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)93&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.93]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 英仏海峡沿岸での戦い =====&lt;br /&gt;
セーヌ川渡河に失敗した直後、ロンメルの師団は[[国防軍最高司令部]]より英仏海峡に面する港町[[サン・バレリー]]([[:fr:Saint-Valery-en-Caux|fr]])を占領してイギリス軍[[第51歩兵師団 (イギリス)|第51歩兵師団「ハイランド」]]([[:en:51st (Highland) Infantry Division|en]])が大ブリテン島に撤収するのを阻止する任務を与えられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)99&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
進路を変えて北上し、[[イヴト]]([[:fr:Yvetot|fr]])を通過して6月10日には英仏海峡に到達した。ロンメルの師団が英仏海峡に到達したのはこれが初めてだったので兵士たちは感動した様子で海水に足をいれて歩き回って楽しんだ。ローテンブルク大佐は搭乗する戦車を海水に乗り入れたという。ロンメルも軍靴を海岸の海水に付けてしばし余韻に浸った&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)93&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.93]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[6月11日]]にサン・バレリーに接近して同市を包囲した。同市では英仏軍が大ブリテン島へ撤収するための船舶を待っていた。ロンメルは無駄な流血を避けるため、[[ドイツ語]]を話せる捕虜を使者に立てて同市の守備隊に21時までに降伏すべきことを勧告した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上96&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.96]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)96&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.96]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)101&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.101]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。守備隊のうちフランス軍将校は降伏したがっていたが、イギリス軍将校は降伏に反対する者が多く、結局この勧告を拒否することになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上96&amp;quot;/&amp;gt;。やむなくロンメルは21時から同市の北部や港に集中砲火を浴びせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)97&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)101&amp;quot;/&amp;gt;。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機が激しい爆撃を行った&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上96&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
英仏兵は次々と投降し、ついに英軍将校たちも抵抗を諦めた。ロンメルの師団は将官12人と1万2000人（他の師団の捕虜も含めるとサン・バレリーの捕虜数は4万6000人）の捕虜を獲得した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.100-101]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)173&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.173]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)102&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.102]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その中にはイギリス軍ハイランド師団長[[ヴィクター・フォーチューン]]少将([[:en:Victor Fortune|en]])とフランス軍の軍団長と3個師団の師団長たちが含まれていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)100&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.100]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)102&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.102]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。フォーチューン少将はロンメルのような若造に捕虜にされてしまったことに屈辱を感じていたようで露骨に態度でそれを示した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上96&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.96]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランス軍の将軍たちはもう少し好意的だった。彼らはロンメルに「お若いの、君はあまりに速すぎました」「私たちは貴方たちの事を幽霊師団と呼んでいたんですよ」などと声をかけたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上97&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルの師団は英仏海峡沿いにさらに西進して[[6月14日]]には[[ル・アーブル]]を占領した。同市のフランス軍はすぐにも降伏している&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)173&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.173]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ちなみに同日には「[[無防備都市宣言]]」をしていた[[パリ]]がドイツ軍第218歩兵師団によって無血占領されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)173&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)462&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.462]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== シェルブールへ進撃 =====&lt;br /&gt;
ヒトラーから[[シェルブール]]占領の命令を受けたロンメルの師団は[[6月16日]]に[[ルーアン]]にドイツ軍が架橋した橋を通過してセーヌ川を超えて進軍を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上97&amp;quot;/&amp;gt;。一方同日にフランス大統領[[アルベール・ルブラン]]は[[フィリップ・ペタン]]元帥をフランス首相に任命し、ペタンは中立国[[スペイン]]を通じてヒトラーに休戦要請を行っている&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)463&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.463]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)175&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.175]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これを聞いたロンメルはフランス軍の戦意はもはやガタ落ちであろうからほとんど抵抗もあるまいと考え、「フレーヒェンマルシュ」陣形を解除して再び全速力で進軍できる縦列の陣形に戻した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)175&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.175]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。予想通り、抵抗はほとんどなかったため、ロンメルの師団は6月16日には160キロ、[[6月17日]]には320キロ以上も駆け抜けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上97&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.97]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)102&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.102]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。戦車がこれだけの走行に耐えたことが不思議なぐらいの前代未聞の大進軍であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上97&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[フレール]]([[:fr:Flers (Orne)|fr]])、[[クータンス]]を経て、そこから北上して6月17日真夜中には[[ラ・アイユ＝デュ＝ピュイ]]([[:fr:La Haye-du-Puits|fr]])に到着&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)102&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.102]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしそこからシェルブールへ向かおうとした時に道路要塞から激しい砲火を浴びた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)102&amp;quot;/&amp;gt;。長距離の進軍に師団は疲れ切っていたので、ロンメルは砲兵や戦車の支援も無しに夜間に無理な進軍を行うのは止めた方がいいと判断し、ラ・アイユ＝デュ＝ピュイへ後退した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)103&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.103]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[6月18日]]朝から要塞への攻撃を開始し、午前8時頃には早々に敵を後退させてシェルブールへの進撃を再開した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.104-105]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)104&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.104]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月18日午後1時頃にはシェルブール南西4.8キロほどのところのシェルブールを防衛する道路要塞から激しい砲撃を受けたが、午後5時頃にはシェルブール西の[[ケルクヴィル]]([[:fr:Querqueville|fr]])南部の高地を占領し、歩兵連隊と二個装甲中隊がシェルブール郊外に突入した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)104&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.104]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その日の夜のうちに師団の砲兵連隊が到着したので、翌[[6月19日]]朝にシェルブール要塞や海軍ドックに砲撃を加え、要塞の中で最も厄介だった中央要塞を沈黙させた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.110-111]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。歩兵部隊は更に郊外深くに侵入した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)104&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
激しい砲撃に耐えかねたシェルブールのフランス軍はついに午後5時に降伏した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)112&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.112]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)176&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.176]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)105&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.105]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。シェルブールの3万のフランス将兵を捕虜にした&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)105&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)176&amp;quot;/&amp;gt;。シェルブール戦終了を以って西方電撃戦におけるロンメルの師団の戦闘は終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== フランス降伏 =====&lt;br /&gt;
ヒトラーは一次大戦におけるドイツの雪辱を晴らすため、独仏の休戦交渉の場を、一次大戦でドイツが屈辱的な[[休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]に調印させられた場所である[[コンピエーニュの森]]の列車（この列車はフランスの一次大戦戦勝記念としてパリに飾られていた。ドイツ軍パリ占領後にドイツに鹵獲された）の中とした。6月21日からここで独仏の休戦交渉が開始された。ドイツ側の過酷な要求にフランス側が調印を渋り、その日はまとまらなかったが、翌6月22日にドイツ側から「調印しないならば戦争続行」と脅迫されたため、フランス側はついに要求を受諾して[[独仏休戦協定]]を締結した&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)464&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.464]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし休戦協定調印の前後、ロンメルの師団はどんどん南進していた。6月21日には[[レンヌ]]を通過し、6月25日には[[ボルドー]]を占領した。更に師団の先遣隊はスペイン国境付近まで進んだ。とはいってもこの進軍に戦闘は発生しなかった。単に占領の既成事実化を図るための進軍であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)178&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.178]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ロンメルの師団の戦果と損害、またその評価 =====&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1970-076-43, Paris, Erwin Rommel bei Siegesparade.jpg|thumb|250px|1940年6月、ドイツ軍占領下フランス・パリで行われた戦勝パレードに出席したロンメル少将。]]&lt;br /&gt;
西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団の戦果は、捕虜9万7000人の他、鹵獲兵器として戦車・装甲車458両、各種砲277門、対戦車砲64門、トラック4000両から5000両、乗用車1500両から2000両、馬車1500両から2000両、バス300両から400両、オートバイ300台から400台がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.105-106]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また敵航空機を52機撃墜し、うち12機を地上で鹵獲している&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)106&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.106]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。師団の進軍スピードが速すぎたため、正確に数えられていないが、鹵獲兵器についてはこの数字よりもっと多かったといわれる&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)106&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団が出した損害は、628名の戦死、296名の行方不明、戦車42両の喪失であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)102&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第7機甲師団の人的損害は他の師団より多い。ドイツ軍は西方電撃戦で4万9000人の戦死者・行方不明者を出しており、これを単純にドイツ軍135師団で割ると1個師団の平均の戦死者・行方不明者は363人になるが&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)180&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.180]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、ロンメルの師団は戦死・行方不明者が924人も出ている。ただしこれについてはロンメルの師団は常に電撃戦の先陣を切って戦っていたことを考慮せねばならない&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)102&amp;quot;/&amp;gt;。戦果と比較すれば損害は少なかったといえる&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)180&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)106&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルの評価は賛否両論だった。概してナチ党政権からの評価は高かったが、軍部からの評価は低かった&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)37&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.37]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)103&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.103]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
西方電撃戦中、ロンメルは何度も命令を無視して独断行動を取った。それらはすべて成功したとはいえ、上官たちからは当然不興を買っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)37&amp;quot;/&amp;gt;。またロンメルが「ヒトラー子飼いの将軍」と看做されていたことも煙たがられる原因だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)185&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.185]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。参謀本部総長[[フランツ・ハルダー]]上級大将はロンメルを「命令無視ばかりの気が狂った将軍」と酷評した&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)37&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルの上官である第15軍団長[[ヘルマン・ホト]]大将はロンメルについて「機甲師団に新たな道を開いた。特に前線に立とうという意欲とテンポの速い戦闘でも決定的なポイントを察知する彼の天性の素質は称賛に値する」と評価する一方&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)37&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)181&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.181]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、ロンメルが軍団長になるには「もっとたくさんの経験と、より優れた判断力が必要だ」と注文を付けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上98&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.98]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)103&amp;quot;/&amp;gt;。またホトや第4軍司令官[[ギュンター・フォン・クルーゲ]]上級大将は「ロンメルは自分の勝利に他の者が寄与していることを認めたがらない」と批判している。ロンメルは著書の中で彼の師団の左側から進軍した[[第32歩兵師団 (ドイツ国防軍)|第32歩兵師団]]([[:de:32. Infanterie-Division (Wehrmacht)|de]])を実際よりずっと進軍が遅かったかのように書いたり、またドイツ空軍の功績にほとんど触れていなかったり、確かにそうした面が多々見られた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上98&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)103&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== フランス戦後、しばしの平穏 ====&lt;br /&gt;
1940年夏を通じてロンメルの師団は来る（と思われていた）イギリス本土上陸作戦に備えた訓練にあたっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上102&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.102]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。とはいえ英本土上陸にはまずドイツ空軍が英本土の制空権を握る必要があり、陸軍はそれまでは出番無しなので比較的のんびり過ごすことになった。ロンメルは勤務時間外には狩猟をしたり、戦後に出版しようと考えていた第7装甲師団の戦史書の草稿の執筆にあたっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)184&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.184]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またこの頃、[[国民啓蒙・宣伝省|宣伝相]][[ヨーゼフ・ゲッベルス]]から映画『西方における勝利』の撮影に協力してほしいと要請された。ロンメルは承諾して1940年8月中に数日を費やしてこの撮影に参加した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上101&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.101]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その際にロンメルは事実上の映画監督となり、部下やフランス植民地黒人兵たち（捕虜収容所から連れて来られた）に演技指導をしていた。ずいぶん楽しかったらしく、こだわりの演技指導をしていた{{#tag:ref|ロンメルの戦車部隊が敵陣に突入するシーンの撮影で、ロンメルは黒人たちに両手をあげて怯えた表情で戦車に向かってくるよう指示したが、黒人たちはオーバーな演技をして白目をむいて悲鳴をあげた。これに不満を感じたロンメルはカメラを止めさせ、通訳を通して黒人たちに「感情を表現するにはもっと微妙な表現方法を取らなければならない」などと説教していたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上102&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.102]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。|group=#}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1941年1月1日には[[中将]]に昇進した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)187&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.187]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに2月には映画『西方における勝利』が公開された&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)187&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上105&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.105]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この映画の公開によりロンメルは銀幕のスターになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)37&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 北アフリカ戦線 ====&lt;br /&gt;
{{seealso|北アフリカ戦線}}&lt;br /&gt;
[[File:Rommel with his aides.jpg|250px|thumb|1942年春のロンメル上級大将]]&lt;br /&gt;
1941年2月にロンメルは[[ドイツアフリカ軍団]]の軍団長となり、以降1943年3月まで北アフリカで戦い続けることになる。北アフリカにおける砂漠戦は厳しい環境の中で行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず北アフリカの気候は温暖な気候に慣れているヨーロッパ人には極めて過酷である。日中は酷暑であり、夜は厳寒である（真夏の日中には気温が60度近くになるが&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)112&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.112]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、逆に夜は零度近くにまで気温が下がる&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)154&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.154]]&amp;lt;/ref&amp;gt;）。しかも夏だけ長く、他の季節は短い&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)154&amp;quot;/&amp;gt;。長期に干ばつが続くかと思えば、突然に豪雨が来る&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)112&amp;quot;/&amp;gt;。[[脱水症状]]、[[熱中症]]、[[赤痢]]、[[皮膚病]]などになる者が多く、また[[砂塵]]で[[眼病]]になる者も多い（防護眼鏡を付けていても小さい粒子が入り込んでくる）&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)10&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.10]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて砂は兵器類や通信機器類の機能低下や故障も招く。砂嵐の場合はより地獄である。砂嵐には[[ジャミング]]に似た効果があり、通信機能がマヒする&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)154&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
砂漠には遮蔽物がほとんどないので見晴らしがよい。すなわち遠方からでもすぐに敵に発見されるので遠距離の戦闘になる事が多く、射程距離が極めて重要な要素である&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)113&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.113]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。したがって歩兵は力を発揮しにくく、戦車が砂漠戦の主兵器である&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上116&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.116]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また自然障害物がほとんどないので大量の地雷と障害物資材が必要となる&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)112&amp;quot;/&amp;gt;。また目印になる物が無いために部隊移動の際に方向維持が難しく、しばしば[[推測航法]]に頼らねばならなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)112&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
砂漠戦において補給・兵站は非常に重要である。特に水の補給は最優先課題であり、[[オアシス]]の争奪戦によって命運が決することもある&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)112&amp;quot;/&amp;gt;。広大な砂漠を戦車が走り回るために燃料の補給も重要である。兵站拠点となる場所が少ない砂漠戦は海上戦と似ており、兵站拠点をひとつ取られただけで広範な地域に穴があき、一気に後退しなければならなくなる&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)20&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.20]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。砂漠戦では補給がままならないので敵からの[[鹵獲]]兵器が重要である。1942年6月にロンメルは「我が軍の非常に多くの車両が英軍からの鹵獲品である。すでに遠くからは英軍と見分けがつかなくなってしまった」と書いている&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)102&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.102]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルと彼の幕僚も北アフリカ戦において英軍の[[AEC装甲指揮車|ドチェスター装甲車]]に搭乗して指揮を執っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)102&amp;quot;/&amp;gt;。もちろん英米側もドイツ軍の兵器を鹵獲して使用している&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)102&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし一番厳しかったのはなんといっても独軍と英米軍では物量に差がありすぎるということだった。ドイツ軍はその分戦術でカバーしなければならなかった。戦術面では当時の英米軍は杜撰な面が多く、歴戦のドイツ軍の方が明らかに勝っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)70&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.70]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは[[迂回]]戦術{{#tag:ref|迂回戦術とは敵陣地正面から歩兵が助攻撃をして陣地内の敵部隊を拘束しつつ、その間に主力の機甲部隊が敵陣地の後方に回り込み、戦闘を継続するのに必要な後方連絡線を遮断し、敵部隊が敵陣地から出てくるよう差し向ける戦術である。敵が入念に準備しているであろう敵陣地内での決戦を避け、陣地外での決戦を強要するのに有効な戦術である&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)115&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.115]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。|group=#}}と[[一翼包囲]]戦術{{#tag:ref|一翼包囲戦術とは迂回戦術が取れない場合に使用する戦術である。敵陣地の中では防御力が弱い部分である側面部分（この側面部分のことを一翼と称している）に主力の機甲部隊が攻撃を加え、そのまま側面部分を通って敵中枢や補給拠点に攻撃を加える戦術である。ただし敵が入念に準備しているであろう地域内での戦闘になるから迂回以上に歩兵の助攻撃がしっかりしていないといけない&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)115&amp;quot;/&amp;gt;。|group=#}}を駆使して優位に立つ英軍をたびたび壊滅させ、「砂漠の狐」（[[英語|英]]：Desert Fox）の異名をとった。とはいえ戦術などではもはやどうにもならないほど物量と兵站補給能力に差が付いてしまった時、ロンメル軍団は敗北を重ね、ついには北アフリカを放棄することとなる&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)115&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし北アフリカの戦場に従軍した者はそこを「[[騎士道]]の残った戦場」として記憶している者が多い&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)208&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.208]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。戦場となった場所が広大な砂漠であったので巻き込まれた民間人は少なかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)210&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.210]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。アフリカには[[親衛隊 (ナチス)|SS]]が来なかったので、[[アインザッツグルッペン]]が付随してきてユダヤ人虐殺を行うといったことも無かった。そしてなんといってもロンメルが騎士道を重んじる男だったことが大きかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)210&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.210]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルの指揮の下、この戦域のドイツ軍は騎士道精神を貫いて誇り高く戦った&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)132&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.132]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)208&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.208]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは交戦の国際条約を遵守して捕虜を丁重に取り扱った。これを感じ取った英軍もこの戦域では比較的国際条約を遵守したのである&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)132&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)209&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.209]]&amp;lt;/ref&amp;gt;{{#tag:ref|ただし英軍側は必ずしも常に騎士道精神を貫かなかったようである。[[ガザラの戦い]]の際に英軍の文書から「ドイツ軍捕虜を従順にさせる方法」などという文書が発見されており、それを読んだロンメルは捕虜に対する英軍の非人道的取り扱いに激怒している&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)210&amp;quot;/&amp;gt;。|group=#}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗 =====&lt;br /&gt;
[[イタリア]]は[[19世紀]]末から[[地中海]]の覇者を目指していたが、その要所となる島や町、アフリカの領土などはすべて英仏に奪われた過去があった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)40&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.40]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリア統領[[ベニート・ムッソリーニ]]はイギリスが本土防衛で手いっぱいな今こそ、[[エジプト王国]]（名目上独立国だったが、事実上イギリスの軍事支配下にあった）をイギリスから奪うチャンスと見た&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)40&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1940年]][[9月12日]]に[[イタリア植民地]][[リビア]]の[[キレナイカ]]地方から[[ロドルフォ・グラッツィアーニ]]元帥率いるイタリア軍がエジプトへ侵攻した&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)473&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.473]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒトラーはドイツ軍一個機甲師団を応援に送ると申し出たが、ムッソリーニはこれを拒否した&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)473&amp;quot;/&amp;gt;。ムッソリーニは「ドイツには頼らない。これはドイツのための戦いではない。ドイツと肩を並べるイタリアのための戦いだ」と豪語した&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)38&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.38]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらにムッソリーニは軍部の反対を押し切り、ドイツにも独断で10月28日に[[アルバニア]]（1939年にイタリアが占領しイタリア王がアルバニア王に即位して[[同君連合]]を結んでいた）から[[ギリシャ]]に侵攻を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)477&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.477]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし侵攻に動員されたアルバニア駐留軍では兵力が不足していることから本国で召集して急編成された部隊の錬度は低く、また険しい山岳地帯の多いギリシャの地形を考慮した準備も十分になされていないなど、侵攻計画は杜撰なものであり、ゲリラ戦法を採るギリシャ軍の前に進軍は遅々として進まなかった。さらに、イタリア軍部隊の兵力不足から編成したアルバニア人部隊の質は劣悪であり、侵攻部隊は不足する兵力を割いてアルバニア軍の監督や不良部隊の武装解除にまで当たらなければならず、侵攻は頓挫することになる。こうして侵攻から半月後の11月15日にはギリシャ軍が全戦線で攻勢に転じ、12月4日には逆にギリシャ軍がアルバニア領へ侵攻を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)41&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.41]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ムッソリーニは、[[セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ]]将軍を罷免し、軍の増派を決定するが、その後数ヶ月に渡って泥沼の山岳戦を継続する結果を招き、その間に本来得られた増援戦力を得られなかったエジプト侵攻軍は壊滅することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エジプトの英軍は、イタリアのギリシャ侵攻までは守勢に立っていたが&amp;lt;ref name=&amp;quot;ムーアヘッド(1968)32&amp;quot;&amp;gt;[[#ムーアヘッド(1968)|ムーアヘッド(1968)、p.32]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、ギリシャに増援を送ってイタリア軍をギリシャ戦に釘付けにするとともに、12月9日には「[[コンパス作戦]]」を発動し、[[大英帝国]]植民地から集めた部隊を含む3個師団（9万人）でもってイタリア軍3個軍団（25万人）を壊滅に近い状態に追いやった。この結果、イタリア領であったリビアにまで英軍の侵攻を許すことになり、ついにはキレナイカ地方全域が英軍に占領されてしまった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)42&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.42]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。こうしてムッソリーニは、同盟国ドイツに対して北アフリカおよびギリシャにおける支援を要請することとなる&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)38&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)188&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.188]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ドイツ・アフリカ軍団長に就任 =====&lt;br /&gt;
ヒトラーはイタリアの身勝手さや無能ぶりに呆れながらも、イタリアを支援することを決めた。ヒトラーは「北アフリカの喪失は軍事的には耐えられるが、イタリアに強い精神的影響を及ぼす。イギリスはイタリアに拳銃を突きつけて講和を結ばせることも、単に空爆することも可能となる。我々に不利なのはこの点である」と述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)42&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヤング(1969)113&amp;quot;&amp;gt;[[#ヤング(1969)|ヤング(1969)、p.113]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。1940年12月13日にヒトラーはギリシャのイタリア軍を救出するための「マリータ作戦」を発令し&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)480&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.480]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、ついで1941年1月11日には地中海のイタリア軍支援のための「[[ゾネンブルーメ作戦]]（ひまわり作戦）」を発動した&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)486&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.486]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これにより[[ハンス・フォン・フンク|ハンス・フライヘル(男爵)・フォン・フンク]]（[[:de:Hans Freiherr von Funck]]）少将を指揮官とする「リビア阻止隊」（まもなく増強を受けて「第5軽師団」と改名された）が創設された。まず彼らが北アフリカに派遣されたが、フンクは1月25日のヒトラーへの報告書の中で今の戦力では北アフリカの戦況は変えられないと断言した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)193&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.193]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。またフンクはその1週間後にヒトラーの下に参じてイタリア軍の深刻な域に達しているデタラメぶりを報告した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上107&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.107]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)193&amp;quot;/&amp;gt;。ヒトラーは更に1個機甲師団を北アフリカに派遣することを決定し、その2つの師団を統括する軍団の指揮官としてロンメルを選んだ&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上108&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.108]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)105&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.105]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)194&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.194]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1941年2月5日にヴィーナー・ノイシュタットの自宅にいたロンメルはヒトラーの召集を受けて2月6日にベルリンに飛び、「リビア駐屯ドイツ軍部隊」司令官に任じられた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.195-196]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この部隊は2月25日付けで「'''[[ドイツ・アフリカ軍団]]'''」（{{lang|de|Deutsches Afrikakorps}}、略称:{{lang|de|DAK}}）という戦史に名を残す名前に改名された&amp;lt;ref name=&amp;quot;阿部(2001)487&amp;quot;&amp;gt;[[#阿部(2001)|阿部(2001)、p.487]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)196&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.196]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アフリカ軍団は第5軽師団（のちに[[第21装甲師団 (ドイツ国防軍)|第21装甲師団]]([[:de:21. Panzer-Division (Wehrmacht)|de]])に改組）と[[第15装甲師団 (ドイツ国防軍)|第15装甲師団]]([[:de:15. Panzer-Division (Wehrmacht)|de]])の2個師団から成る&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.61]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。両師団とも戦車の数は150台程度にすぎない&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;。あとはイタリア軍から一部の部隊の指揮を任されているというだけだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)139&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.139]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。後の戦果が信じられぬほどアフリカ軍団は貧弱な戦力であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なおアフリカ軍団は名目上イタリア軍北アフリカ派遣軍の指揮下に入ることとなっていたが、ロンメルは[[国防軍最高司令部]](OKW)総長[[ヴィルヘルム・カイテル]]元帥から「ドイツ軍は（ドイツにとって）無意味な戦闘には投入されないものとする」との命令書を受けていたので自分に一定の裁量権があるものと理解していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上108&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)199&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.199]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 北アフリカ到着 =====&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-424-0258-32, Tripolis, Ankunft DAK, Rommel.jpg|250px|thumb|1941年2月、イタリア植民地[[リビア]]・[[トリポリ]]。イタリア軍将校に挨拶するドイツアフリカ軍団長ロンメル中将。ロンメルの左にいる同伴者はイタリア北アフリカ派遣軍司令官[[イータロ・ガリボルディ]]大将。]]&lt;br /&gt;
1941年2月12日昼にロンメルは北アフリカ・リビアの[[トリポリ]]空港に降り立った&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上109&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.109]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)106&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.106]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;。しかし戦車の輸送は困難であり、アフリカ軍団の戦車部隊が最初に到着したのは3月11日、第15装甲師団は5月にならねば到着しなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルはただちにイタリア北アフリカ派遣軍司令官[[イータロ・ガリボルディ]]大将（解任されたグラツィアーニ元帥の後任）と会談した。この時英軍は[[エル・アゲイラ]]([[:en:El Agheila|en]])で停止していたが、更に西進してくると思われた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;。ガリボルディ将軍は[[トリポリ]]近くに防衛線を築く事を希望したが、ロンメルはエル・アゲイラ西方300キロの[[シルテ]]に陣を置いて英軍に攻勢をかけることを希望した。ロンメルはベルリンとローマにシルテへの進軍を認めさせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)106&amp;quot;/&amp;gt;。シルテにイタリア軍2個歩兵師団と戦車師団を派遣し、ここに陣地を作らせた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;。2月14日にドイツ軍の偵察大隊と砲兵部隊がトリポリに到着した。トラック、装甲車、大砲など6000トンの揚げ降ろしを夜通しで行わせ、彼らもシルテへ急行させた。とはいえ戦車はまだ到着しなかったので、ロンメルは[[フォルクスワーゲン]]の車に細工して偽装戦車を作らせている&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)39&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.39]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)112&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.112]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)202&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.202]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2月17日には英軍の動きが活発になり、エル・アゲイラから若干の西進を開始した。独伊軍も活発になったと見せかけるため、ロンメルはシルテの独伊軍に若干の東進を命じた。2月24日になって初めて英独で小規模な小競り合いが発生したが英軍はすぐに撤退した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)206&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.206]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルが感じたのは英軍は予想より脆弱で前進の意思がないということだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)113&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.113]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。実はエル・アゲイラの英軍は[[ウィンストン・チャーチル]]の要望でギリシャに兵力を割かれていたため、弱体化していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)19&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.19]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)204&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.204]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。加えて[[リチャード・オコナー]]中将([[:en:Richard O'Connor|en]])がエジプト司令官に栄転し、砂漠戦に不慣れな[[フィリップ・ニーム]]中将([[:en:Philip Neame|en]])がキレナイカ駐留英軍の司令官に就任していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;。また英軍側の北アフリカ戦線責任者である英軍中東軍司令官[[アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)|アーチボルド・ウェーヴェル]]大将はドイツ軍の集中状況から見て5月以前にドイツ軍が攻勢に出てくることはなかろうと判断していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 進軍を禁じられる =====&lt;br /&gt;
1941年3月11日から第5装甲連隊（第5軽師団隷下の唯一の機甲連隊）の戦車が徐々にトリポリに揚陸され始めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)207&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.207]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルはエル・アゲイラを攻撃する準備を命じてから3月19日に[[ベルリン]]へ飛び、翌20日にヒトラーに報告を行った。ヒトラーはまずロンメルがかねてから欲しがっていた[[騎士鉄十字章#柏葉付騎士鉄十字章|騎士鉄十字章の柏葉章]]を授与した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上115&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.115]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この柏葉章を授与されるのはロンメルで10人目だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)211&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.211]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしロンメルが求めたエル・アゲイラ攻略やアフリカ軍団増強は認められなかった。参謀総長[[フランツ・ハルダー]]上級大将はロンメルを嫌っていたのでロンメルの甘言に乗らぬようヒトラーに強く進言していた。またそもそも[[独ソ戦]]の準備を進めていたヒトラーや軍部にアフリカに余分な戦力を裂く余裕はなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.115-116]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒトラーや軍部にとって北アフリカ戦線は主戦場ではなく、イタリア軍を元気づけて英軍を「軽くいなしておく」だけの場所だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)211&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.211]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。結局エル・アゲイラ攻撃は5月に第15装甲師団が到着するまで待てと命じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 命令無視の進軍でキレナイカ地方奪還 =====&lt;br /&gt;
[[File:WesternDesertBattle Area1941 en.svg|250px|thumb|1941年の北アフリカ戦線の地図。]]&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-783-0150-28, Nordafrika, Panzer III.jpg|250px|thumb|1941年4月、砂漠を前進するロンメル軍団の[[III号戦車]]。]]&lt;br /&gt;
しかしロンメルはそのような命令に従う気にはなれなかった。英軍の戦力が分散して弱体化している今こそキレナイカ地方奪還の好機だった。1941年3月24日早朝にロンメルは「攻撃ではなく偵察」として戦車や装甲車を率いてエル・アゲイラに進軍した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)61&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)213&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.213]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。驚いたエル・アゲイラの英軍は、ほとんど戦闘すること無く約50キロ後方の[[メルサ・エル・ブレガ]]ヘ撤退した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上117&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.117]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルはそのままエル・アゲイラを占領したが、総統命令もあり、さすがにこれ以上の進軍はためらった。ロンメルは1週間ほどエル・アゲイラに留まったが、その間、英軍の無線を傍受し、英軍が陣地の強化や兵力の増強を開始した事を知った。ロンメルはやはり5月まで待つことはできないと確信した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上118&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.118]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)62&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.62]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3月31日にロンメルは独断で第5軽師団主力を率いてメルサ・エル・ブレガに攻撃を開始し、イギリス軍の第3機甲旅団と第2機械化旅団と交戦した。夕方まで続く激戦の末、英軍はメルサ・エル・ブレガを放棄して撤退していった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上118&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)214&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.214]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)23&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.23]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは更に進撃を続け、4月1日にはメルサ・エル・ブレガの東80キロにあるキレナイカの交通の要衝[[アジェダビア]]村を英軍から奪取した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上118&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)214&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)24&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.24]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月2日、ロンメルの独断行動に激怒したガリボルディ将軍は進軍停止を命じたが、ロンメルはこれを無視して4月3日に兵力を3つに分けて3ルートから英軍の追撃を開始させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)214&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.214]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上119&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.119]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。同日ガリボルディはアジェダビアの司令部にいるロンメルの下に怒鳴りこみに来たが、ロンメルはのらりくらりとかわした。その時、部下が国防軍最高司令部総長カイテル元帥からの電報の命令書をロンメルに届けた。そこには「ただちに進軍を停止しろ」と書いてあったが、ロンメルはガリボルディに向き直ると「総統が私に完全な行動の自由を認めた電報です」と大ぼらを吹いて話を打ち切った&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上121&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.121]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)216&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.216]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは同日の妻への手紙で「トリポリやローマの上官もベルリンの面々も頭を抱えているに違いない。しかし私は敢えて全ての命令を無視して進軍する。チャンスは活かしきる必要がある。恐らく私の行動は（後になって）承認されるだろう」と書いている&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)218&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.218]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月3日のうちに北ルートを向かった第3装甲偵察大隊が戦略的要衝である港町[[ベンガジ]]を占領した。ロンメルも装甲車に乗って北ルート軍を追い、4月4日早朝にベンガジを通過した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)27&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.27]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、4月3日にエジプト・[[カイロ]]ではキレナイカ英軍の不甲斐なさに激昂した英軍中東軍司令官ウェーヴェル大将がニーム中将を解任してオコナー中将をキレナイカ英軍司令官に復帰させると命じていたが、オコナーはこのような流動的戦況において司令官を挿げ替えるのは危険であるとして自分とニームの二人で当たるべきであると主張した。ウェーヴェルも了承して二人にキレナイカ防衛を任せた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)218&amp;quot;/&amp;gt;。しかしあまりに電撃的に侵攻してくるロンメルの軍団を前にキレナイカの英軍司令官は次々と捕虜になっており&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)218&amp;quot;/&amp;gt;、オコナー中将とニーム中将を乗せた車も4月6日夜に道に迷っていたところをロンメル軍団のオートバイ部隊に発見されて捕虜になってしまった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.27-28]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。キレナイカ英軍はいきなり総司令官を失い、指揮系統が滅茶苦茶になった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)219&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.219]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは英軍の補給拠点となっている「キレナイカの心臓」と呼ばれる[[メキリ]]([[:en:Mechili|en]])の占領を狙い&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)26&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.26]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、三手に分けて進軍させている三部隊をメキリに結集させることにした&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)121&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.121]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月7日にメキリは完全包囲された。ロンメルはメキリの英軍に降伏を勧告したが、英軍は降伏を拒否した。英軍は暗くなったのを見計らって強引な包囲突破を図ろうとしたがドイツ軍に阻まれて失敗し、英軍第2機甲師団長[[ギャムビエ・ペリー]]准将以下英軍将兵2000人が捕虜となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)28&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.28]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また英軍の物資や各種車両を大量に鹵獲した。ロンメルはその中に英軍の対ガス用ゴーグル（[[アイシールド]]）を見つけた。これをやたら気に入った彼は自分の将官帽に取り付けた。以降このゴーグルはロンメルのトレードマークとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)220&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.220]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
メキリを失った英軍は総崩れになり、[[トブルク]]を除くキレナイカ地方からの撤退を余儀なくされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)123&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.123]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。英軍中東軍司令官ウェーヴェルが二カ月かかって占領したキレナイカをロンメルは10日間で奪い返した。英軍が進軍ルートに立てていた「ウェーヴェルの道（ウェーヴェルズ・ウェイ）」の看板はドイツ兵によって「ロンメルの道（ロンメルス・ヴェーク）」と書き替えられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)41&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.41]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== トブルク包囲戦 =====&lt;br /&gt;
{{main|トブルク包囲戦}}&lt;br /&gt;
[[File:AustraliansAtTobruk.jpg|250px|thumb|トブルク防衛にあたるイギリス軍[[オーストラリア]]兵たち。]]&lt;br /&gt;
[[トブルク]]はキレナイカ東部の港町であり、戦略的要衝だった。ロンメルももちろんトブルク陥落を狙ったが、チャーチルはトブルクからの撤退は認めないとして同市の英軍に死守命令を下していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上130&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.130]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.28-29]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。チャーチルの命令通り英軍は決死の覚悟で抵抗したため、ロンメル軍団の攻撃はことごとく失敗した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)62&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメル軍団は多くの損害を出し、北アフリカに到着したばかりだった第15装甲師団長[[ハインリヒ・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン]]少将([[:de:Heinrich von Prittwitz und Gaffron|de]])もこの戦いで戦死した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)29&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.29]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは「イタリア軍が全く当てにならない。イタリア人はイギリス戦車を極度に恐れている。イギリス戦車をみると逃げだしてしまうのだ。まるで[[#イタリア戦線|1917年の時]]を見ているようだ。」「私は師団長からも本当に共同作戦らしい協力を得ていないのだ。だから彼らのうち何人かを解任してほしいと要請しているところだ」と妻への手紙に書いている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.131-132]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
独断で進攻作戦を起こしておいてトブルク攻略に失敗して多くの損害を出したロンメルに参謀総長ハルダー上級大将は警戒を強めた。1941年4月25日に参謀次長[[フリードリヒ・パウルス]]中将を現地に派遣している&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)62&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルはパウルスを説得してトブルク再攻撃の許可を得た&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)130&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.130]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。4月30日から5月1日にかけてパウルスの監視の下にトブルク攻撃が行われたが、この頃には英軍はトブルクを[[地雷原]]で固めきっており、ドイツ軍の進軍は阻止された&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)62&amp;quot;/&amp;gt;。パウルスは5月早々にはベルリンへ戻った。彼は「ドイツアフリカ軍団は補給に問題があり、エジプトが占領できるかは極めて疑問だ」「トブルク攻撃は陸軍総司令部の許可なしにやってはならないと命じるべきだ」と報告している&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)130&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.130]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後もロンメルの軍団はトブルクに包囲だけを続け、その間ドイツ空軍が1000回にも及ぶという空爆を加えたが、1941年のうちには占領はできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは険悪な関係になっていた第5軽師団師団長[[ヨハネス・シュトライヒ]]少将([[:en:Johannes Streich|en]])を更迭し、代わりに5月20日より[[ヨハン・フォン・ラーフェンシュタイン]]少将([[:de:Johann von Ravenstein|de]])が師団長に着任した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.158-159]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== エジプトのハルファヤ峠占領と防衛 =====&lt;br /&gt;
トブルク陥落は困難と判断したロンメルはトブルクを包囲させたまま、[[マクシミリアン・フォン・ヘルフ]]大佐を指揮官とするドイツ軍第5軽師団の先遣部隊「ヘルフ戦闘団」を東進させた。1941年4月末にヘルフ戦闘団はエジプト国境の戦略的要衝（戦車が通過できる場所だった）である[[ハルファヤ峠]]([[:en:Halfaya Pass|en]])と[[サルーム (エジプト)|サルーム]]([[:en:Sallum|en]])の英軍を撃退して占領し&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上151&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.151]]&amp;lt;/ref&amp;gt;、英軍の防衛ラインを[[ブク＝ブク]]と[[ソファフィ]]([[:pl:Sofafi|pl]])の線まで後退させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)62&amp;quot;/&amp;gt;。これにより英軍がトブルク救援に向かおうと思えばまずハルファヤ峠とサルームを攻略せねばならなくなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)41&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.41]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この後ヘルフ戦闘団は英軍からハルファヤ峠を防衛するのに活躍した。5月15日に英軍中東軍司令官ウェーヴェルは「[[ブレヴィティ作戦]]（簡潔作戦）」を発動して攻勢をかけ、ハルファヤ峠を取り戻したが、ヘルフ戦闘団は英軍のそれ以上の進撃は阻止した。そして5月27日にヘルフ戦闘団が反撃に転じ、ハルファヤ峠の英軍を掃討して再占領している&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上154&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.154]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.41-44]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.235-236]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 「バトルアクス作戦」を撃退 =====&lt;br /&gt;
[[File:BattleaxeContestedArea.JPG|250px|thumb|リビア・エジプト国境付近の地図]]&lt;br /&gt;
{{main|バトルアクス作戦}}&lt;br /&gt;
その後、エジプトの英軍は英本土から[[マチルダ歩兵戦車]]や[[クルセーダー巡航戦車]]など238両の戦車の増援を受けて強化された&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)220&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.220]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。チャーチルはウェーヴェルにこの戦力を使ってトブルクの包囲を解くための反撃作戦「[[バトルアクス作戦]]（戦斧作戦）」を開始するよう命じた。イギリス側はパウルスの報告書を傍受してエジプト国境のドイツ軍部隊が軽装備であることを掴んでいた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)133&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.133]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)41&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.41]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしドイツ側も無線の傍受で英軍が攻勢をかけようとしている事を察知した。ロンメルはエジプト国境付近の防備を整えさせた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.159-160]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)220&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.240]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
英軍は第4機甲旅団と第7機甲旅団の南北二手に分かれて進軍し、1941年6月15日早朝からハルファヤ峠に攻撃を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)48&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.48]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。アラスの戦いでも悩まされた重装甲戦車[[マチルダII歩兵戦車]]も動員されていたが、アラスの戦いの時と同様に[[88ミリ高射砲]]を対戦車砲として使うことでこれに対抗した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)56&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.56]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。88ミリ高射砲の存在を悟られぬように隠し、また指揮官[[ヴィルヘルム・バッハ]]少佐([[:en:Wilhelm Bach|en]])の88ミリ高射砲の適切な運用によりマチルダII歩兵戦車を午前中の戦闘で11両、午後の戦闘で17両も破壊することに成功した&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上161&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.161]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.61-62]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)242&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.242]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後もハルファヤ峠のドイツ軍は88ミリ高射砲を最大の武器として峠を死守した。88ミリ高射砲の恐るべき火力に英軍はハルファヤ峠を「ヘルファイヤ（地獄の業火）峠」と呼んで恐れた&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)57&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.57]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
英軍は頑強なハルファヤ峠を迂回し、サルーム西方[[カプッツォ砦]]([[:en:Fort Capuzzo|en]])に40両のマチルダII歩兵戦車でもって襲撃をかけてきた。オートバイ部隊が早々に潰走させられたが、[[ヨハネス・キュンメル]]大尉([[:en:Johannes Kümmel|en]])の指揮の下にIV号戦車2両と88ミリ高射砲1門だけでマチルダII歩兵戦車を9両も破壊し、英軍を敗走させている。キュンメル大尉はこの活躍で騎士鉄十字章柏葉章を受け、また「カプッツォの獅子」の異名を得た&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)63&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.63]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)63&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.63]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは英軍の第4機甲旅団と第7機甲旅団がほとんど連携が取れていないことを見抜き、第5軽師団と第8装甲連隊を並行して進軍させ、英軍の二つの旅団の間隙を突破するよう命じた。第5軽師団と第8装甲連隊は10キロも離れていたため、まず両部隊は目前の敵と交戦を続けたが、徐々に移動を開始し、6月16日夕刻には[[シジ・オマール]]東に到着した。そして6月17日の夕方にはハルファヤ峠に展開する英軍の背後に回り込むことに成功した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)64&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.64]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)243&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.243]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。突然背後に敵部隊が出現したことで英軍はパニックを起こして総崩れとなった。6月17日午後にウェーヴェル大将が戦況視察に訪れたが、その時にはすでに英軍は敗走中であり、それを知った彼は愕然とした&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)243&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
物量的には英軍が圧倒していたはずであった。またこの戦域は英空軍が制空権を握っており、英軍は航空支援をたくさん受けていた。にも関わらず、3日間に及んだ英軍の反撃作戦「バトルアクス作戦」は完全なる失敗に終わった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)133&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)45&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.45]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)243&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.243]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この作戦で英軍戦車は100両以上大破した。対してドイツ軍戦車はわずか12両が大破しただけだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)65&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.65]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ロンメルの評価高まる =====&lt;br /&gt;
ベルリンのヒトラーはロンメルの活躍を高く評価した。ヒトラーは1941年7月1日付けでロンメルを装甲大将に昇進させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)45&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)247&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.247]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方ロンドンのチャーチルはウェーヴェルの無能を呪った。チャーチルは6月21日付けでウェーヴェルを中東方面軍司令官から解任し、代わって7月5日付けで[[クルード・オーキンレック]]大将を就任させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)143&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.143]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.67-68]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは8月6日にローマに赴き、ムッソリーニやイタリア軍参謀総長[[ウーゴ・カヴァッレーロ]]元帥と会談し、彼らの同意を得てイタリア軍の「アリエテ」戦車師団と「トリエステ」自動車化師団の指揮を認められた。このイタリア軍二個師団とドイツ・アフリカ軍団でもって「アフリカ装甲集団」が組織され、ロンメルはその司令官に就任した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)139&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.139]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ドイツ・アフリカ軍団の軍団長の座は[[ルートヴィッヒ・クリューヴェル]]中将に譲った&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)139&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)184&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.184]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)249&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.249]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃になるとイタリア軍の間でもロンメル人気が高まっていた。グラツィアーニやガリボルディなど自国の無能な将軍の指揮の下で戦うより、有能な外国人将軍ロンメルの指揮の下で戦いたがった。ガリボルディもロンメルの要求を色々認めるようになり、イタリア軍兵士の訓練をドイツ軍将校が行う事も許可された。ドイツ軍将校の指導の下、半年もしないうちに異常に低かったイタリア兵の練度が一気に向上して、イタリア兵たちの間に自分たちも北アフリカ戦の勝利に貢献できるという自信が付き始めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)248&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.248]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 「クルセーダー作戦」で追い込まれる =====&lt;br /&gt;
{{main|クルセーダー作戦}}&lt;br /&gt;
[[File:AfricaMap3.jpg|250px|thumb|「クルセーダー作戦」の両軍の部隊配置と進軍ルート]]&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 183-1982-0927-503, Bei El Agheila, Rommel bei italienischer Division.jpg|250px|thumb|1942年1月12日、エル・アゲイラ。同地まで撤退を余儀なくされたアフリカ装甲集団司令官ロンメル大将と部下の将校たち。]]&lt;br /&gt;
その後、ロンメルは自軍の補給状態を改善するため、英軍から物資を鹵獲しようと1941年9月14日から15日にかけて「[[ゾンマーナハツトラウム作戦]]（真夏の夜の夢作戦）」を行い、エジプト領へ侵攻したが、英空軍の空襲を受けて戦車が打撃を受けたため、作戦はすぐに中止され、物資もほとんど鹵獲できなかった。いくつかの英軍の軍事文書を入手したが、それらに攻勢に関する記述がなかったため、ロンメルは英軍は当面攻勢に出る気はないと誤認した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)252&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.252]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[イギリス]]は[[クルセーダー作戦]]の前にロンメルの誘拐・暗殺を計画した[[フリッパー作戦]]を実行するも失敗に終わっている。&amp;lt;ref&amp;gt;白石光『ミリタリー選書 29 第二次大戦の特殊作戦』イカロス出版 (2008/12/5)25-32頁&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし英軍は攻勢の準備を進めていた。英軍司令官オーキンレック大将は「ブレヴィティ作戦」と「バトルアクス作戦」の失敗を踏まえて地中海沿岸の狭い地域からではなく、内陸部の砂漠からキレナイカに侵攻する決意をしていた。11月18日午前に土砂降りの雨の中、英軍は「[[クルセーダー作戦]]（十字軍作戦）」を開始した。この日ロンメルは[[ローマ]]から司令部に戻ったばかりで午後になって初めて英軍の攻勢を知った&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)259&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.259]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また攻勢を知らされても初めは本格的な攻勢ではあるまいと思っていたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)155&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.155]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アラン・カニンガム (軍人)|アラン・カニンガム]]([[:en:Alan Cunningham|en]])中将率いる英軍第8軍の第30軍団（第4機甲旅団、第7機甲旅団、第22機甲旅団）が内陸部砂漠からトブルク目指して進軍を開始した。英第13軍団は囮としてエジプト国境のドイツ軍部隊と対峙した。英第4機甲旅団と英第22機甲旅団の進軍は伊アリエテ師団と独第21装甲師団が阻止したが、英第7機甲旅団は阻止する部隊が進路上に無く、19日までにトブルク包囲のため伊第21軍団や独第90軽師団が展開するシディ・レゼグまで一気に進軍されてしまった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)64&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.64]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。トブルク守備隊も前進を開始し、独伊軍は挟み撃ちにあってしまった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)65&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.65]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。独第15装甲師団と独第21装甲師団をこの戦域に応援に駆け付けさせたが、英第4機甲旅団と英第22機甲旅団もこの戦域に増援に駆け付け、シディ・レゼグ南方で英独の激しい戦車戦が展開された。しかし英第7機甲旅団は戦力を二つに裂くという愚を犯し、ドイツ軍の対戦車砲の格好の餌食となり、141両の戦車のうち113両を撃破されるという壊滅的打撃をこうむった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)65&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)155&amp;quot;/&amp;gt;。また「アリエテ師団」がシディ・レゼグに到着したことでシディ・レゼグの戦いの形勢はドイツ軍側に傾いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)259&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.260]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ軍の戦力は常に英軍より圧倒的に貧弱であったので、防御だけに徹していればやがてやられてしまうと判断したロンメルはここでまた敵の背後に浸透して攻勢に転じ、それによって敵に攻勢を諦めさせる方針を取ることにした。独第15装甲師団と独第21装甲師団が[[ガブル・サレー]]から英第13軍団が展開するエジプト領へ突入した。しかしオーキンレックはウェーヴェルの二の舞にはならなかった。ドイツ軍のエジプト突入に恐れをなしてトブルクへの攻勢を中止すべきと提案したカニンガム中将を第8軍司令官から解任し、自らの参謀長で44歳の最年少イギリス将官である[[ニール・リッチー]]少将を第8軍司令官に任じ、攻勢の続行を命じた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)65&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)263&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.263]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
英軍が予想通りに動いてくれず、戦局はロンメルとオーキンレックの「我慢比べ」となり始めたが、補給状況や兵力配置から考えて独第21装甲師団の方が先に壊滅する可能性が高かった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)263&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルが前線視察で不在の間、ロンメルの作戦主任参謀[[ジークフリート・ヴェストフェル]]中佐([[:de:Siegfried Westphal|de]])が独断で独第21装甲師団の撤収を命令した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)263&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上206&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.206]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。はじめロンメルはこれに激怒したが、司令部に戻って再検討した結果、ヴェストフェルの判断は正しいと判断して攻勢中止を決意した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)265&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.265]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月4日にトブルク包囲を解き、[[ガザラ]]へ撤退&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)200&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.200]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに12月26日には[[アジェダビア]]まで後退。さらに12月31日にはエル・アゲイラまで後退した。再びキレナイカ地方は英軍の手に落ちた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)65&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.65]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハルファヤ峠を勇敢に死守していた[[ヴィルヘルム・バッハ]]少佐以下守備隊は英軍への投降を余儀なくされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)269&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.269]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが独伊軍に以前ほどの悲壮感はなかった。英軍は何の戦略もなく単に物量差で強引に押しただけであり、しかも受けた損害は両軍痛み分けという感じだった。独伊軍は戦車300両を失ったが、英軍も270両以上失っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)65&amp;quot;/&amp;gt;。また独伊軍は3万8000人の将兵を失っているが、その大部分はイタリア兵であり行方不明者だった（イタリア逃亡兵が多いと思われる）。一方英軍は1万8000人の将兵を失っているが、その大部分は戦死だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)156&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.156]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのため独伊軍の将兵は戦略次第で巻き返しは十分可能と考えていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)269&amp;quot;/&amp;gt;。そして実際に独伊軍は今一度キレナイカ地方を奪還してエジプト領に攻め込むことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== キレナイカ地方東部を再奪還 =====&lt;br /&gt;
ロンメルは将兵たちを激励して回り士気を高めつつ、部隊の再編成を進めた。1942年1月5日にはヒトラーから新年の贈り物として戦車55両と装甲車20両の増援を受けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上222&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.222]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)209&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.209]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)271&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.271]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。またロンメルのアフリカ装甲集団は南方戦域総司令官[[アルベルト・ケッセルリンク]]空軍元帥の指揮下に入ることとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)66&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.66]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦力をある程度回復したロンメルのアフリカ装甲集団は、1月20日夜から英軍に対する攻勢を開始した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ハート(1971)210&amp;quot;&amp;gt;[[#ハート(1971)|ハート(1971)、p.210]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)271&amp;quot;/&amp;gt;。当面はドイツ軍は反撃に出られないだろうと踏んでいた英軍は不意を突かれ、次々と敗走した。ドイツ軍は1月22日にはアジェダビア、1月25日にムススを奪還した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)272&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.272]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)67&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.67]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらにロンメルはそこからメキリに攻撃すると見せかけて英軍を陽動しつつ、1月29日にベンガジを攻略した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)272&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)166&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.166]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。英第8軍司令官リッチー中将は1941年3月から4月にかけてのロンメルのキレナイカへの攻勢の時と同様にメキリに攻撃をかけてくると思い、ここに英第1機甲師団の主力を置いていたので英軍はまんまと裏をかかれる形となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)273&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.273]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)68&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.68]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。1月30日にリッチーはキレナイカの英軍にガザラの防衛線まで撤退を命じた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)166&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)68&amp;quot;/&amp;gt;。ロンメルはただちに英軍を追撃し、2月6日までにキレナイカの大半の地域を取り戻した。しかしムッソリーニやカヴァッレーロ元帥らイタリア軍上層部は追撃に不同意でイタリア軍は追撃に協力しないと通達してきたので追撃は不十分に終わった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)68&amp;quot;/&amp;gt;。英軍はその合間にガザラに防衛線を固めてしまった。やむなくロンメルの装甲集団も[[トミミ]]とメキリの線に防衛線を築き、[[防御 (戦術論)#機動防御|機動防御]]の構えを取り、両軍はそこで睨み合って停止した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)68&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーはロンメルの功績に報い、1月20日付けでロンメルに[[騎士鉄十字章#柏葉・剣付騎士鉄十字章|騎士鉄十字章の柏葉・剣章]]を授与し（全軍で6番目）、ついで1月30日付けで[[上級大将]]に昇進させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)274&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.274]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また2月21日付けでロンメルのアフリカ装甲集団はアフリカ装甲軍（ Panzerarmee &amp;quot;Afrika&amp;quot;）に昇格した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)166&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還 =====&lt;br /&gt;
{{main|ガザラの戦い}}&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1977-018-11A, Nordafrika, Generalfeldmarschall Erwin Rommel.jpg|180px|thumb|1942年6月のアフリカ装甲軍司令官ロンメル上級大将。]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-443-1582-32, Nordafrika, Generaloberst Erwin Rommel.jpg|180px|thumb|1942年6月、[[トブルク]]攻略戦の指揮を執るロンメル上級大将]]&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-785-0299-24A, Tobruk, Rommel, Bayerlein, englische Kriegsgefangene.jpg|thumb|英軍捕虜の様子を視察するロンメルと参謀長[[フリッツ・バイエルライン|バイエルライン]]大佐（1942年6月、トブルク）]]&lt;br /&gt;
これまでイタリアから北アフリカの独伊軍への物資輸送は[[マルタ島]]の英海軍・空軍によってかなり妨害されていた（1941年11月にはイタリアからの輸送船の44%が沈められている）{{#tag:ref|英軍がこれほどイタリアから北アフリカへの物資輸送を妨害できたのはドイツ軍の[[エニグマ暗号]]を解読していたからだった。英軍は北アフリカへの物資輸送船の発着地、出港時刻、積載物まで正確に掴んでいた。それを知らなかったロンメルはイタリア軍上層部に裏切り者がいるのではと疑っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)160&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.160]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。|group=#}}。そこでケッセルリンク元帥の指揮の下にマルタ島に独伊空軍による大空襲が行われ、結果北アフリカの独伊軍の補給状況はだいぶよくなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.275-276]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これによりアフリカの独伊軍の戦力が整い、ロンメルは再び攻勢に出られると判断した。一方英軍はガザラから内陸部ビル・ハケイムにかけて「[[ボックス陣地]]」と呼ばれる地雷原と鉄条網の防衛線を作っていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.213-214]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルはこの陣地を南から迂回して陣地の東側を北上して海まで突っ走り、ボックス陣地を陣取る英軍戦力を後方の英軍機甲戦力と切り離して孤立させることを狙った&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)214&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.214]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)277&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.277]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルのアフリカ装甲軍は1942年5月26日午後2時にクリューヴェル中将率いる囮の部隊にボックス陣地に攻撃を正面からかけさせつつ、午後9時から「ヴェネツィア作戦」と名付けた迂回部隊の本攻勢を開始した。英軍第8軍司令官リッチー少将はロンメルがボックス陣地を迂回するであろうことは予想していたが、その対応は杜撰であり、戦車の数は英軍の方が独伊軍より勝っていたにも関わらず、前任者たちと同様に戦車を集中させずに各旅団に分散させて運用した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)279&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.279]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。結果ビル・ハケイム付近の戦闘で英軍第3インド自動車化旅団は早々に伊軍アリエテ戦車師団と独軍第21装甲師団によって粉砕された&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)69&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.69]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ついで英軍第4機甲旅団も独軍第15装甲師団によって粉砕された&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)69&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし圧倒的工業力を有する[[アメリカ合衆国]]の援助を受けていた英軍は[[M3中戦車|グラント戦車]]や新対戦車砲[[6ポンド砲]]などを動員し、これらがドイツ軍戦車に大打撃を与えていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.220-221]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また英空軍がドイツ軍兵站線を的確に空爆した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)220&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.220]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5月27日夕方にはドイツ軍にとって事態は深刻となった。迂回部隊の海岸へ向けた進軍は行き詰まり、東では独第90軽師団が包囲されていた（第90軽師団は囮のつもりで東部から向かわせたのだが、ロンメル自身も後に認めたようにこれは失敗であった）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)188&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.188]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ドイツ軍は補給が途絶えて水がなくなり全軍崩壊の危機にさらされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)221&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.221]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルはガザラからビル・ハケイムに伸びるボックス陣地の中間部分を西から突破して東側に広がる地雷原を掃討して補給路を作る事を決意した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)225&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.225]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。5月29日にロンメルは迂回部隊の主力を[[シディ・ムフタ]]周辺に集め、円形陣地を形成させた。彼はこの陣地を「大釜（ケッセル）」と名付けた。その地域には英第150旅団が円形陣地を構えていたが、6月1日にはこの円形陣地を攻略に成功した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)70&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.70]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この後の戦いの焦点は大釜陣地の南方にあるビル・ハケイムだった。ここから補給路を攻撃されないように抑える必要があった。同地を守備していた[[第1自由フランス旅団]]([[:fr:1re division française libre|fr]])は激しく独伊軍に抵抗した。伊トリエステ師団や独第90装甲軽師団が猛攻を加え、またドイツ空軍はここに爆撃を集中した。しかし第1自由フランス旅団は簡単に屈せず、ここでの戦闘は6月10日まで続いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)70&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その間の6月5日には英軍第8軍司令官リッチー少将が大釜陣地への総攻撃を命じた。英軍は砲撃に続いて植民地インドから連れてきたインド人歩兵部隊を前進させたが、ロンメルは対峙するアリエテ師団を後退させて誘い込み、包囲攻撃をかけてこれを撃退した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)70&amp;quot;/&amp;gt;。またこの英軍の攻勢中にロンメルは大釜陣地の南部の地雷原に間隙があるとの報告を受け、ここから独第15装甲師団を出撃させ、大釜陣地に攻撃をかけてきている英軍の左側面に回り込むことに成功した。この動きに連携して大釜陣地からも[[ゲオルク・フォン・ビスマルク]]([[:de:Georg von Bismarck|de]])大佐率いる独第21装甲師団が英軍を攻撃。これによって大釜陣地に攻撃をかけていた英軍3個旅団は壊滅的な打撃を受けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)282&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.282]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)196&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.196]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにロンメルは南の地雷原の隙間から戦闘団を派遣し、6月10日にはビル・ハケイムの北方の防衛線を突破。勇敢に戦った第1自由フランス旅団もついにビル・ハケイムを放棄して撤退を余儀なくされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)70&amp;quot;/&amp;gt;{{#tag:ref|しかしロンメルはビル・ハケイムにこだわり過ぎたという批判がある。陥落に近づくにつれてビル・ハケイムは戦略的重要性が下がってきていたのだが、そのような場所を陥落させるためにドイツ空軍の急降下爆撃機シュトゥーカに甚大な損害を出したためである&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)206&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.206]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。とはいえこれにより独伊軍の補給線が南側から襲われる恐れは完全になくなり、独伊軍が英軍の退路遮断のための海岸への北進に安心して邁進できるようになった事は間違いない&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)206&amp;quot;/&amp;gt;。|group=#}}。なお第1自由フランス旅団はナチスの迫害から逃れてきた人々で編成されており、[[ユダヤ人]]が多かった。そのためヒトラーは第1自由フランス旅団について「戦闘において仮借なき戦いを遂行して殲滅しろ。殲滅しきれず捕虜にしてしまった場合は秘密裏に射殺しろ」という非情の命令をロンメルに下していたが、ロンメルはこの命令を握りつぶして部下に伝達しなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上252&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.252]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルはビル・ハケイムを陥落させると直ちに全軍にトブルクへの攻勢を命じて北進させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)242&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.242]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ビスマルクの独第21装甲師団は6月11日に大釜陣地を出撃し、6月13日までに英第4機甲旅団と英第22機甲旅団をほぼ壊滅させた。壊滅的打撃をこうむった英軍はガザラ防衛線「ボックス陣地」を放棄して敗走を開始したが、そのほとんどはドイツ軍の捕虜となり、また英国戦車はほとんどが鹵獲されるか破壊された&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)241&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.241]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)282&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)209&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.209]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
英軍は生き残り兵を集めて部隊と陣地を作り、独伊軍のトブルク包囲を阻止しようとしたが、すでに英軍にまともな戦力は残っておらず無駄な抵抗に終わった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)282&amp;quot;/&amp;gt;。6月18日には独伊軍はトブルク包囲を完了。ドイツ空軍の空爆と砲兵の砲撃によってトブルク守備隊の戦意は崩壊し、6月22日にはトブルク守備隊は独伊軍に降伏した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)284&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.284]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。トブルクの物資は破壊されることなく残っており、ドイツ軍がまんまと5000トンの物資と2000台の車両を鹵獲できた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)224&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.224]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ガザラの戦いによる英軍の損害は甚大であった。英軍は9万8000人の将兵と540両の戦車を失ったあげく、キレナイカ地方全域を独伊軍に奪われ、更にエジプト領へ侵攻されることとなる。特に英軍の「抵抗のシンボル」だったトブルクが陥落したことは英独双方に精神的衝撃が大きかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)224&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.224]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)72&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.72]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。トブルク陥落によりチャーチルは[[庶民院]]から[[問責決議案]]を突きつけられている。ドイツではロンメルのトブルク入城が盛んに報道された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)224&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 世界的な英雄に =====&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1973-012-43, Erwin Rommel.jpg|180px|thumb|1942年のロンメル元帥]]&lt;br /&gt;
ヒトラーはロンメルの戦いに感動し、6月22日付けで彼を[[元帥 (ドイツ)|元帥]]に昇進させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上264&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.264]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは史上最年少のドイツ陸軍元帥であった。彼は戦争が始まる前は少将に過ぎなかったが、戦争が始まって3年足らずで中将、大将、上級大将、元帥と4階級も昇進するという前例のない出世をしていた。元帥昇進の電報を受けた時のロンメルの反応については複数の証言がある。副官の証言によるとロンメルは子供のようにはしゃぎ、酒はほとんど飲まなかった彼が[[ウィスキー]]と[[パイナップル]]で祝宴をあげたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)285&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.285]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方別の証言ではロンメルは冷めた様子で「一個師団の増援を送ってくれる方がありがたかったのだが」と述べたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)47&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.47]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは今やドイツに留まらず、世界的な英雄になっていた。連合国は畏敬の念を込めて彼を「砂漠の狐」と呼んでいた。アメリカの世論調査によると当時のアメリカでロンメルはヒトラーに次いで有名なドイツ人だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)51&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.51]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。エジプト人の間にはイギリスの長きに渡る冷酷非情な植民地支配からロンメルが解放してくれるという期待感が広がっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;アーヴィング(1984)上268&amp;quot;&amp;gt;[[#アーヴィング(1984)上|アーヴィング(1984)、上巻p.268]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルに散々戦力を壊滅させられた英国からも高い評価を寄せていた。チャーチルは「ロンメル！ロンメル！ロンメル！奴を倒すこと以上に重要な事など存在しない！」と語り、また庶民院における演説ではロンメルを「天才的な能力を持った男」と評した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.19・52]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。英軍将兵の間にもロンメルへの尊敬の念が広まっていた。英軍中東方面軍司令官オーキンレック大将は「ドイツは勇猛で優れた将軍を数多く生み出してきた国だ。だがロンメルは別格だ。彼はずば抜けている」と評した&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)19&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.19]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方オーキンレックは部下の指揮官たちに対して「我が部隊の兵士たちがロンメルの事を過剰に話題にすることで、我らの友人である彼が我らにとって魔術師か化物のようになってしまっている。リビアにいる敵軍を呼ぶ時に『ロンメル』という言葉を使わないようにする事は精神的に極めて重要である。追伸、私はロンメルに嫉妬しているわけではない」という命令書を伝達している&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)52&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.52]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ピムロット(2000)159&amp;quot;&amp;gt;[[#ピムロット(2000)|ピムロット(2000)、p.159]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だがトブルク陥落直後がロンメルの絶頂期であった。この後はドイツ軍の戦況悪化と共にロンメルのアフリカ軍団も後退を余儀なくされ、瞬く間に下り坂となっていき、ついに北アフリカから撤退することとなるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== エジプト進攻（第一次エル・アラメインの戦い） =====&lt;br /&gt;
[[File:M3 Grant with knocked out Panzer I 1942.jpg|thumb|1942年8月、破壊された[[I号戦車]]の横を通過する英軍グラント戦車。]]&lt;br /&gt;
ロンメル率いる独伊軍はガザラの戦いで消耗していたが、英軍に回復の時間を与えぬために勢いに乗って1942年6月24日からエジプト領へ攻め込んだ。6月25日に独軍第15装甲師団と第21装甲師団はエジプトの港町[[メルサ・マトルー]]([[:en:Mersa Matruh|en]])に迫った。英軍第8軍司令官リッチーはメルサ・マトルーをなんとしても防衛するつもりだったが、中東方面軍司令官オーキンレックはこれに不同意であり、リッチーを罷免して自らが第8軍司令官を兼務した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)293&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.292]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。オーキンレックはメルサ・マトルーから東に150キロのところにある[[エル・アラメイン]]の方が防御が容易と判断していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)72&amp;quot;/&amp;gt;。ここは[[カッターラ低地]]の存在により作戦を展開できる領域が狭く、ロンメルが得意とする「内陸部からの大胆な迂回戦術」が使えない場所だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)295&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.295]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは英軍がエル・アラメインで体制を整える前に一気に片付けることを企図し、メルサ・マトルーからエル・アラメインに撤収していく英軍の急追を命じた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)72&amp;quot;/&amp;gt;。6月29日には独軍第90軽師団、6月30日には独軍第15・第21装甲師団がエル・アラメインに接近した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)293&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.293]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが結果はおもわしくなかった。英軍第3南アフリカ旅団に攻撃をかけた第90軽師団は砂嵐で進路を見失い、パニック状態になって西に敗走した&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)295&amp;quot;/&amp;gt;。独軍第15装甲師団と第21装甲師団は英軍第18インド旅団を挟み撃ちにして攻撃したが、インド師団は持ちこたえた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)297&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.297]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。独軍に随分鍛えられていた伊軍アリエテ師団も第2ニュージーランド師団の激しい抵抗にあっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)72&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)297&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.297]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは7月4日に攻勢を中止させ、休息と次の攻勢の準備を急がせた。しかしその間の7月10日から14日にかけて英軍はエル・アラメインの西方エル・エイサ丘陵に陣取る伊軍を強襲してきた。この攻勢で伊軍サブラータ歩兵師団がほぼ壊滅し、アリエテ師団も大打撃を受けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)72&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)298&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.298]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。これによりこれ以上の攻勢は難しくなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)72&amp;quot;/&amp;gt;。だが国防軍最高司令部は東部戦線のドイツ軍の[[コーカサス]]進攻作戦に影響を与えるという事でロンメルにエル・アラメインの線で頑張るよう指導し続けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)73&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.73]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後7月を通じて英軍と独伊軍はエル・アラメインの線で一進一退の攻防を続けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)298&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 逆転の兆候 =====&lt;br /&gt;
8月4日、英国首相チャーチルがエジプト首都[[カイロ]]を訪問し、オーキンレックに対してただちに攻勢に出るよう命じたが、オーキンレックは9月中旬以前に攻勢に出ることは不可能だとして拒否したため、彼を中東方面軍司令官から解任し、[[ハロルド・アレクサンダー]]([[:en:Harold Alexander, 1st Earl Alexander of Tunis|en]])を後任に任じた。そして第8軍司令官に[[バーナード・モントゴメリー]]が着任した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)72&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方ロンメルは8月初めころから体調を崩し、8月21日にベルリンに離任許可を求めたが、却下され、指揮を執り続けることになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)300&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.300]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この頃英軍と独伊軍で補給状態の差が広がりはじめた。英空軍・海軍による独伊軍の補給輸送船の撃沈が再び急増していた。1942年9月には独伊軍の物資の20パーセント、10月には44％が沈められている&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)131&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.131]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。またこのとき独軍はトブルクやメルサ・マトルーを占領していたが、伊軍がこの二つの港に補給物資を届けるのは不可能であった（ほぼ確実に英海軍・空軍に沈められる）。結局そのはるか西の[[トリポリ]]港や[[ベンガジ]]港に補給物資を輸送し、そこからトラックで運ぶしかなかったのだが、トリポリ港からエル・アラメインの前線は1800キロも離れていた。一方英軍は[[アレクサンドリア]]港から補給が可能であり、アレクサンドリアからエル・アラメインの前線までは100キロしか離れていなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)305&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.305]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また情報収集能力にも差が広がっていた。独軍が暗号を解読することが可能だったカイロ駐在米国大使館付き武官が6月末に米国本土へ呼び戻されてしまったこと、またロンメルのアフリカ装甲軍の主力の情報部隊である第621無線傍受中隊が7月中旬の戦闘で事実上壊滅してしまったことで独軍の情報能力が大きく低下していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)306&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.306]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)132&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.132]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。またこれまでロンメルはベルリンやローマの命令を無視して行動することが多かったため、英軍は独軍の通信を傍受できてもロンメルの行動が読めない場合が多かったのだが、エル・アラメインで進撃が停止したいま、ロンメルの通信は彼の部隊の困窮をそのまま伝える物ばかりであり、その内情が筒抜けになっていた。ロンメルが病気であることも英国側は把握していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)305&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== アラム・ハルファの戦いで敗れる =====&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 101I-786-0315-34A, Nordafrika, Erwin Rommel bei Besprechung.jpg|180px|thumb|1942年8月のロンメル元帥]]&lt;br /&gt;
ロンメルのアフリカ装甲軍は満身創痍状態のまま再び攻勢に出ることにした。これ以上時間をかけると補給能力の差で英軍ばかりがどんどん強化されるからである&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)307&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.307]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時点で独伊軍の戦車総数は430両ほどに回復していたが、ガソリンが確保できていなかった（ロンメルは攻勢のために3万トンのガソリンを求めていたが、8000トンしか確保できていなかった）&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)307&amp;quot;/&amp;gt;。このためエル・アラメイン南の狭い地域から敵陣を突破してカイロまで一気に進軍するつもりだった当初の攻勢計画を、エル・アラメインの南から敵陣を突破した後に北上してエル・アラメイン東を取り、モントゴメリー率いる英第8軍の背後に浸透する計画に変更することとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)308&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.308]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
8月30日から8月31日にかけての真夜中に攻勢は開始された。しかし地雷が予想より多く、なかなか進軍できなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)75&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.75]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また砲兵隊の激しい砲火を浴びて打撃を受け、第21装甲師団長ビスマルク少将が戦死してしまった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)308&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.308]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに朝になると英王立空軍の激しい空襲を受け、もっと激しい打撃をこうむり、アフリカ軍団長[[ヴァルター・ネーリング|ネーリング]]も重傷を負い、戦線を離脱した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)75&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.75]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルはアフリカ装甲軍の要であるこの二人の脱落に動揺し、各師団に進軍停止命令を下そうとした。普段のロンメルなら構わず「マールシュ！（前進）」と命じていたはずの局面であった。参謀長[[フリッツ・バイエルライン|バイエルライン]]が「今作戦を中止すれば地雷原突破のため犠牲になった兵士の死がすべて無駄になります」と進言したことで思いとどまったものの、大胆な作戦を遂行できるだけの精神力がロンメルから無くなり始めたことを如実に示す一幕であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)310&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.310]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
攻勢は続行することになったものの、ロンメルは攻勢にあたって再び判断ミスを犯した。当初の計画ではアラム・ハルファ高地を大きく迂回してエル・アラメイン東に浸透する計画だったのだが、残りのガソリンの量を心配していたロンメルは最短距離で進軍しようとしてアラム・ハルファ高地の通過を命じた。しかしここはもろにモントゴメリーが独軍通過ルートと予想していた場所だった。待ち伏せていた英軍砲兵隊の激しい砲火を浴びた。しかもロンメルが進軍ルートに選んだアラム・ハルファ高地南方は地面が柔らかい砂漠で戦車の進軍に全く向いていなかった。地形に足を取られながら、3方向から砲撃を受けるはめとなった。9月1日にはロンメルも勝機を失ったと判断して全軍に攻勢中止と発起点への退却を命じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦いにおいても失われた戦車の数は英軍の方が多かったが、「砂漠の狐」の攻勢を撃退したという事実は低下する一方だった英軍の士気を回復させるに十分な効果があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== ドイツに一時帰国 =====&lt;br /&gt;
一方ロンメルの病気はますますひどくなり、ドイツ本国へ一時帰国することになった。ロンメルは自分が不在の間、後任の[[ゲオルク・シュトゥンメ]]装甲大将が今の戦線を保ってくれることを期待して「悪魔の花園（トイフェルガルテン）」と名付けた凄まじい密度の地雷原（地雷の総計44万個）を独伊軍正面に作らせた。その後の9月23日に北アフリカをあとにし、ローマを経由してベルリンへ帰還した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)359&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.359]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。9月25日には総統官邸でヒトラーから[[元帥杖]]を下賜された&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)359&amp;quot;/&amp;gt;。式典出席などの公務をこなした後、10月3日にはヴィーナー・ノイシュタットの自宅に帰り、療養した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方モントゴメリーは「すぐに攻勢を行え」と命じるチャーチルを抑えて、ドイツ軍の[[IV号戦車]]に対抗できる戦車であるアメリカ製の[[M4中戦車|シャーマン戦車]]の到着を待ち、英軍戦車1000両VS独伊軍戦車300両という決定的な物量差が開いた後の10月23日夜中から「[[ライトフット作戦]]」を発動して攻勢を開始した。こうして第二次[[エル・アラメインの戦い]]が始まった。[[国防軍最高司令部]]から北アフリカで英軍の攻勢がはじまったこと、ロンメルの後任のシュトゥンメ装甲大将と連絡が取れなくなっていること（シュトゥンメは24日の戦闘中に心臓発作により死亡していた）を告げられたロンメルは10月25日に急遽北アフリカに戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 第二次エル・アラメインの戦いで惨敗 =====&lt;br /&gt;
[[File:Panzer III exploding 1942.jpg|thumb|エル・アラメイン付近で吹き飛ばされたロンメル軍の[[III号戦車]]。]]&lt;br /&gt;
10月25日にドイツ＝イタリア装甲軍（アフリカ装甲軍がこの名前に改名されていた）司令部に到着。モントゴメリー率いる英第8軍は北と南に分かれて攻めよせてきた。英軍の北部進攻部隊はアメリカ製の高価な砲弾を無数に撃ちまくって「悪魔の花園」をあっさりと掃討していた&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)362&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.362]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルはすぐに最北部に独装甲部隊を送りこんで防御を固めたが、英軍は最北部の独軍との戦闘を避け、そのやや南方の伊軍を攻撃した。そこから[[キドニー丘陵]]へ進撃し、独伊軍の防衛線を破った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今こそ全面攻勢の時と見たモントゴメリーは「[[スーパーチャージ作戦]]」を発動し、北部での大攻勢を開始した。もはや成す術なしと判断したロンメルは、ヒトラーにエル・アラメイン戦線から大幅に撤退することの許可を求めた。だがそれに対するヒトラーの返答は死守命令であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)317&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.317]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。この死守命令にロンメルは絶望して憔悴してしまった。その間も独伊軍は大打撃を受け続けた。隷下のアフリカ軍団長[[ヴィルヘルム・フォン・トーマ]]装甲大将は死守命令に激怒して「総統命令を遵守するため」自ら最前線に赴き、突撃をかけて英軍の捕虜となった。南方総軍司令官[[アルベルト・ケッセルリンク]]の取りなしにより11月4日になってようやくヒトラーの撤退許可が下りた。だがすでに撤退の好機は逃しており、英軍から激しい追撃を受けた。撤退に際して独軍は9000人、伊軍は2万人の戦死・行方不明者をだすことになり、敗走に近い撤退となってしまった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)320&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.320]]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)77&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.77]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 米英軍西海岸上陸/チュニジアまで大撤退 =====&lt;br /&gt;
11月8日には「[[トーチ作戦]]」により[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]米中将が指揮する米英軍が[[モロッコ]]、[[アルジェリア]]などの北アフリカの西海岸に上陸した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)77&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.77]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。モロッコやアルジェリアはドイツ衛星国[[ヴィシー・フランス]]の植民地であり、はじめ同地に駐留するフランス軍守備隊が上陸してきた米英軍と交戦していたが、ヒトラーが独仏休戦協定に違反してヴィシー・フランス政府領を占領したことで現地のフランス軍は反独姿勢を強め、米英側に寝返った&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)79&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.79]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北アフリカ戦線はドイツ軍にとって二正面作戦になってしまった。これに対処するためヒトラーは急遽ヨーロッパ本土から独伊軍1万5000人を[[チュニジア]]（ヴィシー・フランス植民地）に送りこみ、第5装甲軍司令部を創設させた。はじめはエジプト国境付近で防衛線を作ろうと考えていたロンメルだったが、米英軍の西海岸上陸によりもはやエジプト攻略どころではなくなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)77&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.77]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルはエジプト、キレナイカ地方を放棄する大撤退を行い、11月23日には最初の攻撃地であったエル・アゲイラまで軍を後退させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルはリビア西部[[トリポリタニア]]地方も放棄してチュニジア南部の[[マレト]]まで後退することを決意していた。これに対してヒトラーはロンメルにエル・アゲイラを死守することを命じたが、アフリカ北岸は平坦地であり、撤退作戦で後退部隊を収容するには全く向かない地形であった。ロンメルは直談判を決意した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)78&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.78]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。11月28日に[[東プロイセン]]の[[総統大本営]]「[[ヴォルフスシャンツェ]]」へ赴き、ヒトラーと直接に会見。ロンメルはただちにトリポリタニアからの撤退許可を求めたが、これに対してヒトラーはヒステリックに怒声をあげて却下し、ロンメルを罵った。この頃になるとヒトラーが部下の将軍に罵声を浴びせるのは珍しいことでもなくなっていたが、ロンメルにとってはヒトラーに罵声を浴びせられたのは初めてのことだったのでかなり衝撃的だったらしい。そしてこの体験がこれまでヒトラーを高く評価し続けてきたロンメルのヒトラーへの評価を大きく変えたといわれる&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)56&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.56]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。11月30日にはローマでムッソリーニとも会見したが彼もトリポリタニア保持をかたくなに主張し、撤退を許可しなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)324&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.324]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1989-089-00, Nordafrika, Rommel, Bayerlein, Kesselring.jpg|thumb|1943年1月、ロンメル元帥（左）、バイエルライン大佐（中央）、ケッセルリンク元帥（右）。]]&lt;br /&gt;
リビアに戻ったロンメルは総統命令を無視して部隊の撤退を続けさせた。それによる処分は特になかった。結局のちになって独伊上層部もトリポリタニア防衛は難しいとの結論に達したのであった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)78&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.78]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。だがムッソリーニやイタリア軍部からは「ロンメルはろくに戦いもしないで独断でイタリア植民地を放棄した」と非難され、その抗議の声にヒトラーが屈した形で「ドイツ＝アフリカ装甲軍はやがてイタリア第1軍に改組され、イタリア軍の[[ジョヴァンニ・メッセ]]大将が司令官に就任する」旨が内定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメル率いるドイツ＝イタリア装甲軍は1943年2月16日にチュニジア・マレトに到着した。エル・アラメイン戦線からここまで約2200キロ。ロンメルの軍は1日21キロのスピードで撤退を行っていた計算になる&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)325&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.325]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方それを追撃すべきモントゴメリーの英軍第8軍は補給線が伸び切っており、すぐには追撃できなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)78&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルのドイツ＝イタリア装甲軍がチュニジアに入った時、すでに上陸米英軍と独第5装甲軍の間で戦闘が始まっていた。しかしロンメルと第5装甲軍司令官[[ハンス＝ユルゲン・フォン・アルニム]]上級大将は折り合いが悪く、すぐに指揮権を巡って確執が生じた&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)327&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.327]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 上陸してきた米英軍に敗北 =====&lt;br /&gt;
チュニジア北西部を陣取る米英軍への反攻作戦にあたってロンメルは米英軍の補給拠点であるアルジェリアの要衝[[テベサ]]([[:fr:Tébessa|fr]])を陥落させてそこから地中海へ北上し、米英軍と後方のアルジェリア諸港を遮断して壊滅させることを提案した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)438&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.438]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方アルニムはそのような野心的な作戦を実行できる戦力は無いとして反対し、チュニジア・ファイド峠西方の米軍を強襲して北進し[[チュニス]]前方まで進出することを提案した&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)438&amp;quot;/&amp;gt;。両者の上官である南方総軍司令官ケッセルリンクは作戦を統一しようとせず、両者にそれぞれの作戦を実行させることとした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1943年2月14日から第5装甲軍が「フリューリングスヴィント作戦（春風作戦）」、ついで2月17日からロンメルのドイツ＝イタリア装甲軍が「モルゲンルフト作戦（朝風作戦）」をそれぞれ発動した。ロンメルの作戦は初戦はうまく運んだ。まず[[スベイトラ]]を占領し、ついでテベサへの入り口である[[カセリーヌ峠]]に進軍し、同地の米軍を潰走させた（[[カセリーヌ峠の戦い]]）&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)441&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.441]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。そこからドイツアフリカ軍団をテベサへ、第10装甲師団を[[ターラ]]へ北進させたが、テベサへ向かった部隊は航空支援を受けた米軍B戦闘団によって進撃を阻止され、ターラへ向かった第10装甲師団は一時的にターラを占領したものの英第6機甲師団と近衛旅団によってターラを追われてしまった&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)442&amp;quot;&amp;gt;[[#カレル(1998)|カレル(1998)、p.442]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロンメルは2月22日にはテベサ占領が不可能であることを悟らされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;カレル(1998)442&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルはこの攻勢の失敗で完全にやる気をなくしてしまったようだ。2月22日にロンメルの指揮所を訪れたケッセルリンクとヴェストフェル（ロンメルのかつての作戦主任参謀。この時にはケッセルリンクの参謀長になっていた）は別人のようにやつれて覇気の無い顔をしたロンメルを見たという&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)333&amp;quot;&amp;gt;[[#山崎(2009)|山崎(2009)、p.333]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼は司令部に鳴る電話すらとらなくなり、さっさと前線を離れて後方のスベイトラに帰ってしまった。ケッセルリンクは2月23日に第5装甲軍とイタリア第1軍（ドイツ＝イタリア装甲軍）を統括する「アフリカ軍集団（Heeresgruppe &amp;quot;Afrika&amp;quot;）」を新設し、その司令官にロンメルを任じているが、この人事もロンメルにやる気を取り戻させることはできなかった。ロンメルは病気療養のため、ドイツへ帰りたがるようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;山崎(2009)333&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===== 北アフリカから撤退 =====&lt;br /&gt;
1943年3月9日にヒトラーはロンメルをアフリカ軍集団司令官から解任してベルリンに呼び戻した&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)56&amp;quot;&amp;gt;[[#クノップ(2002)|クノップ(2002)、p.56]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒトラーがロンメルを解任した理由についてはよく分かっていない。ロンメルが病気で衰弱していたという説、敗北に対する処分だったという説、どう考えても北アフリカの戦況は好転しないのでロンメルの名声を守るために彼をこの戦域から外したという説、この数週間前にソ連軍の捕虜となったパウルス元帥に続いてまた一人ドイツ軍元帥が捕虜になるのを恐れたという説などがある&amp;lt;ref name=&amp;quot;クノップ(2002)56&amp;quot;/&amp;gt;。アフリカ軍集団の指揮はアルニム上級大将が引き継ぎ、彼らの戦いはその後も続いたが圧倒的な連合軍の物量に抗する術は無く次々と主要な拠点や港を失い、5月13日には降伏した&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)79&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.79]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。わずかに脱出に成功した残存戦力は車両抜きで西部戦線へと移動した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーはロンメルがベルリンへ戻ってきた後、彼のこれまでのアフリカでの戦いの労をねぎらい、1943年3月11日付けで[[騎士鉄十字章#柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章|騎士鉄十字章のダイヤモンド章]]を授与した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Dagger&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;北アフリカ(1998)156&amp;quot;&amp;gt;[[#北アフリカ(1998)|『北アフリカ戦線』(1998)、p.156]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 連合軍上陸をめぐって ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 101I-718-0149-12A, Paris, Rommel, von Rundstedt, Gause und Zimmermann.jpg|thumb|180px|[[ゲルト・フォン・ルントシュテット|ルントシュテット]]元帥（中）、[[アルフレート・ガウス|ガウス]]大将（右）との作戦会議（[[1943年]][[12月19日]]、[[パリ]]）]]&lt;br /&gt;
3月にドイツ本国に送還されてからしばらくロンメルは療養生活を送っていたが健康が回復したせいもあり、6月にはギリシャの防衛を担当していたE[[軍集団]]の指揮官に任命された。これは英軍によるギリシャ上陸を警戒しての人事であったが結局ギリシャに連合軍が上陸を仕掛けることは無く、その年の8月ロンメルは北イタリアを防衛するために新設されたB軍集団の指揮官に転属された。しかし11月にヒトラーがイタリア戦線全般の指揮権をケッセルリンクに与えたため、B軍集団の担当地区は北イタリアから北フランスに変更された。ロンメルはB軍集団とともに北フランスに移動し、[[ゲルト・フォン・ルントシュテット|ルントシュテット]]元帥率いるドイツ西方総軍の指揮下に入った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロンメルは着任早々難攻不落だと大々的に宣伝されていた「[[大西洋の壁]]」を視察し、この宣伝が本当に宣伝だけであった現実を見て愕然とする。連合軍の上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80％、自分の部隊が展開していたノルマンディー地方では20％と言う悲惨な状況でありとても難攻不落とは言い難かった。その日よりロンメルは精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注した。ロンメルは北アフリカでの経験から連合軍が圧倒的な航空優勢のもとで攻撃を仕掛けてくるという事が分かっており、その圧倒的航空優勢下では反撃のために大規模な部隊展開を行う事が事実上不可能であると知っていた。そのためロンメルはもし連合軍が攻撃を仕掛けてきた場合は上陸時に水際で迎撃する事を主張。上陸第一日が防衛軍にとって「最も長い一日（{{lang|de|Der längste Tag}}）になる」と訴えた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Ryan&amp;quot;&amp;gt;Cornelius Ryan、The Longest Day: The Classic Epic of D-Day、isbn 978-0671890919。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、西方軍総司令官のルントシュテット元帥は英米の航空戦力の脅威を正確に評価せず、連合軍を上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。ルントシュテットは敵航空戦力が弱体な東部戦線の経験しか持たないが、ロンメルはエル・アラメインでの敗北により、航空兵力が戦況の鍵を握る事を知っていたのである&amp;lt;ref name=&amp;quot;tag1&amp;quot;/&amp;gt;。結局ロンメルは水際での攻撃を主張したため装甲師団は前線の近くに配置されるべきだと主張し、対するルントシュテットは連合軍による空爆による被害を避けるためにもより後方に配置されるべきだと主張し、両者とも譲らなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした将軍同士の対立の中で準備が進められた。ロンメルは自分でデザインした[[w:Rommelspargel|ロンメルのアスパラガス]]を空挺部隊の落下が予想される地域に設置したり、地雷を山ほど埋設して連合軍の上陸に備えたが6月の時点ではまだまだ十分ではないと考えていた。そして、{{lang|en|D-Day}}こと[[1944年]][[6月6日]]、連合軍の[[ノルマンディー上陸作戦]]が敢行される。航空部隊の支援が制限される雨季に上陸する可能性は極めて低いと考えられていたため、不覚にもロンメルは妻の誕生日を祝うために&amp;lt;ref&amp;gt;また、前線の防備施設や配置兵力を強化するためヒトラーに直談判する予定でもあった。&amp;lt;/ref&amp;gt;ベルリンで休暇を取っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Ryan&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/ref&amp;gt;。このためロンメルは軍団を指揮することが出来ず、ルントシュテットの作戦により連合軍の制空権下で味方の装甲師団の昼間行動は大きく制約され、有効な反撃が出来なかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヒトラー暗殺未遂事件と死 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-J30704, Ulm, Beisetzung Rommel.jpg|thumb|180px|ロンメルの遺体を載せた車（[[1944年]][[10月18日]]）]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:Rommels-grab.jpg|thumb|180px|ブラウシュタイン市ヘルリンゲンにあるロンメルの墓]]&lt;br /&gt;
[[1944年]][[7月17日]]、ノルマンディーの前線近くを走行中のエルヴィンの乗用車が[[イギリス空軍]]の第602飛行隊（{{lang|en|602 Squadron}}）の[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア]]によって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年[[7月20日]]、[[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク|シュタウフェンベルク]]大佐主導の[[ヒトラー暗殺計画#1944年7月20日の暗殺未遂事件|ヒトラー暗殺未遂事件]]が発生。暗殺は偶然が重なって失敗に終わるもB軍集団参謀長の[[ハンス・シュパイデル]]中将が反ナチ派だったこと、パリ軍政長官の[[カール＝ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル|シュテュルプナーゲル]]が自決を図って失敗した際にうわ言のようにロンメルの名を口にしたこと、シュテュルプナーゲルの副官ホーファッカー（[[:de:Caesar von Hofacker]]）中佐がゲシュタポによる取調べでロンメルが「私を当てにしてよろしい」と語っていたと供述したことからロンメルも計画への関与を疑われた。[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]もその一人であり、さらに[[マルティン・ボルマン|ボルマン]]はロンメルの関与を確信していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[10月14日]]、ヒトラーの使者として療養先の自宅を訪れた[[ヴィルヘルム・ブルクドルフ]]中将と[[:de:Ernst Maisel|エルンスト・マイゼル]]少将は、ロンメルに「反逆罪で裁判を受けるか名誉を守って自殺するか」の選択を迫った。裁判を受けても死刑は免れず粛清によって家族の身も危うくなることを恐れたロンメルは「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」とだけ言い、家族の安全を保証させた上で1人自宅の森の中へ入り、2人から与えられた毒をあおり死亡した。その際自宅周囲には抵抗に備えて、親衛隊の部隊が配置されていたという（手持ちの兵での強行突破を進言する副官に、ロンメルは「自分ひとりではないから」と拒否している）。圧倒的な戦功で知られたロンメルの死は「戦傷によるもの」として発表され、祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれた。しかし、ヒトラーは会葬していない。またロンメル夫人はこの葬儀で[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]の敬礼を無視し、「夫を殺した」マイゼル将軍の握手を拒んだという。&lt;br /&gt;
[[File:Erwin rommel death.jpg|180px|thumb|ロンメルが死亡した場所に作られた記念碑]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
生前のロンメルはヒトラー暗殺計画について一切明言しなかったため、関与の有無は不明である。戦後、夫人は「エルヴィンはヒトラー暗殺計画に反対していた」と主張した。彼女や長男[[マンフレート・ロンメル]]によると、ロンメルはドイツ国民に「この戦争も誰かの裏切りのせいで負けた」という印象を残すことを非常に恐れていたという。第一次世界大戦にドイツが負けたのは[[ドイツ革命]]による「[[背後の一突き|背後からの一撃]]」のせいだと思っていた人が多く、それがナチスの台頭を招いたからだとされる。しかしその反面、その時点ではロンメルは自分の反ナチ的態度を特に隠そうとしてはおらず（暗殺計画が失敗したあとのヒトラーの言動を聞き、その行動を見て「どうやら本当に気が狂ったようだ」とシュパイデルに漏らしたりしており、フランスのナチス高官はロンメルが常々ナチスの犯罪や無能さを批判していたとゲシュタポに証言している）、暗殺には反対していたもののヒトラーを逮捕する事には賛成だったとする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開戦当初、ロンメルはヒトラーお気に入りの将軍であった。しかしドイツが劣勢となったこの時期には、実績・人気とも極めて高いロンメルを脅威とさえ感じるようになっていたことから、彼に疎まれたとする説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、残った軍命令書、戦況報告書、日記等を戦史家[[ベイジル・リデル＝ハート|リデル＝ハート]]が編集して「{{lang|en|The Rommel Papers}}」として出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
[[フリッツ・バイエルライン|バイエルライン]]によれば、「ロンメルは基本的に歩兵で、機甲師団を指揮していてもその戦術は歩兵のものであった」という。常に楽天的で作戦にもそれが現れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦中の行為、また敗戦国である事からナチス指導者やほかの多くのドイツ軍人が非難される中、ロンメルだけはドイツのみならず敵国だったイギリスやフランスでも智将として、あるいは人格者として肯定的に評価される事が多くアフリカ北部でロンメルの手痛い打撃にさらされた[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]首相は「ロンメルは神に愛されている」と皮肉にも似た賞賛を残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後のドイツでも評価は高く[[リュッチェンス級駆逐艦]]の[[ロンメル (ミサイル駆逐艦)|ロンメル]]にその名が冠されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[エジプト]]の[[シワ・オアシス]]の町ではロンメルが訪れた際、丁重なもてなしへの謝礼として[[紅茶]]を渡すなどした事があり戦後からエルヴィンの写真が飾られている。これはイギリスがエジプトにおいて文化的遺産を略奪していた事への反発も含まれているが、軍人としての規律と誇りを貫いたこともあり人気が高い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、ヨーロッパでのナチスの迫害を逃れて、[[パレスチナ]]に避難してきた[[ユダヤ人]]にとっては、ロンメルは恐怖の代名詞であった。多くのユダヤ人避難民は、ロンメル率いるアフリカ軍団が勝利してエジプトを占領すれば、[[イギリス委任統治領パレスチナ|英委任統治領であるパレスチナ]]にも侵攻してくると恐れていた。この時期は「不安の200日」と呼ばれ、ユダヤ人の武装勢力[[ハガナー]]はドイツ軍侵攻に備えて常備軍[[パルマッハ]]を結成している。そのため、[[イスラエル]]では「犯罪者（ヒトラー）に仕えた者も犯罪者」という理由で評価は低い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物像 ==&lt;br /&gt;
=== 英雄として ===&lt;br /&gt;
[[ドイツアフリカ軍団]]時代の彼は「砂漠の狐」（独：{{Lang|de|Wüstenfuchs}}、英：{{lang|en|Desert Fox}}）と渾名され、英中東軍司令官の[[クルード・オーキンレック]]将軍は「我等が敵ロンメルは巧みな戦術家ではあるが、人間である。あたかも彼が超自然的能力を持っているかのように評価するのは危険であり、戒めねばならない」、「アフリカの枢軸軍を指すときはドイツ軍や敵軍と呼ぶべきで、ロンメルという名前は用いない事が好ましい」と異例の布告を出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、ドイツ国内では英雄視され「[[ゲルマン人]]らしい」&amp;lt;ref&amp;gt;[[人種]]と[[民族]]は異なる物であるが、[[ナチズム]]は「民族の人種的優越」を掲げていた。[[アーリアン学説]]なども参照されたい。&amp;lt;/ref&amp;gt;端正な風貌からも宣伝に大いに利用された。しかしロンメル自身は華やいだ場が苦手だったらしく、ある日妻にせがまれて渋々ナチスの舞踏会に参加した時は着飾った女性たちに囲まれて身動きができなくなったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;tag1&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 軍人として ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1973-015-23, Nordafrika, Rommel verleiht Eisernes Kreuz.jpg|thumb|180px|部下に[[鉄十字]]勲章を授与するロンメル]]&lt;br /&gt;
騎士道溢れる軍人でもあり、火力で敵を押し込むハード・キルより相手を撹乱する事で降伏に追い込むソフト・キルを好んだ。捕虜には国際法を遵守して非常に丁重に扱った。1941年にロンメル暗殺を企図してドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国[[コマンド部隊]]の死者を丁重に扱っている。以後も英コマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたヒトラーの命令を無視していた。ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部から全員を虐殺せよとの命令が下ったが、ロンメルはその命令書を焼き捨てた。彼は最後まで[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]に入党する事はなく、あくまで1人の軍人として戦い続けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;tag1&amp;quot;&amp;gt;『ロンメル語録―諦めなかった将軍』 ジョン・ピムロット ISBN 4120029913&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また大隊長である第一次世界大戦の頃から自ら進んで前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解する事に努めた。本来、通信手段が発達した近代戦では高級将校は前線に出ず後方で全般的な指揮を行った。しかし、ロンメルは瞬時に変遷する電撃戦では「前線で何が起きているか、兵士にさえわからない」と陣頭指揮を旨とした。このためロンメル自身も幾度となく危険に晒されており、最高司令官の所在が不明となることがよくあった。北アフリカ戦線においてイタリア軍は度々ドイツ軍の足を引っ張ったが、ロンメルはイタリアの兵士を労わった。規律に厳しく兵員を直接に叱責することもあったが、兵士からは「Unser Vater（我らが親父）」と慕われていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;tag1&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
ただし、陣頭にばかり立つあまり、後方の事務や補給などの裏方には疎くなっていたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大衆文化への影響 ==&lt;br /&gt;
=== 音楽 ===&lt;br /&gt;
前述のようにロンメルは国民的英雄として人気があったため[[1941年]]には『{{lang|de|Unser Rommel}}』（我らがロンメル）が作られ、アフリカ軍団の歌として愛唱された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[オランダ]]の[[デスメタル]][[バンド (音楽)|バンド]]、[[ヘイル・オブ・ブレッツ]]は、ロンメルの一生をテーマにした[[コンセプト・アルバム]]『III: The Rommel Chronicles』を[[2013年]]にリリースしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
*『[[砂漠の鬼将軍]]』（原題：{{lang|en|[[:en:The Desert Fox: The Story of Rommel|The Desert Fox: The Story of Rommel]]}}、米国映画、[[ヘンリー・ハサウェイ]]監督、[[1951年]]） - 捕虜となった[[デズモンド・ヤング|ヤング]][[准将]]によるロンメル伝記の映画化。[[ジェームズ・メイソン]]がロンメルを演じる。劇中でメイソンが着ている軍服は、ロンメル家から借りた実物だった。&lt;br /&gt;
*『[[砂漠の鼠]]』（原題：{{lang|en|[[:en:The Desert Rats (film)|The Desert Rats]]}}、米国映画、[[ロバート・ワイズ]]監督、[[1953年]]）-　[[トブルク包囲戦]]とそれを戦う豪州軍兵士を描いた戦争映画。ロンメル役は、『砂漠の鬼将軍』と同じジェームズ・メイソン。なお砂漠のネズミとは北アフリカのイギリス軍のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 逸話 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Bundesarchiv_Bild_101I-786-0327-19,_Nordafrika,_Erwin_Rommel_mit_Offizieren.jpg|thumb|180px|英軍のゴーグルを着用するロンメル達]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:LeicaIIIC.jpg|thumb|180px|ライカIII c型]]&lt;br /&gt;
* ロンメルは北アフリカ戦線のリビアでの戦いの際に捕獲した英軍の[[ゴーグル]]を好んで着用し、これは彼のトレードマークとなった。しばしばゴーグル自体が防塵用であるかのように言われるが、正確には「{{lang|en|Anti-Gas Eye Shield Mk.II}}」と称される、柔らかな合成樹脂製の対毒ガス用ゴーグルで、英軍の[[ガスマスク]]の標準的な付属品である。このゴーグルは、ロンメルが戦場から持ってきた最初で最後の戦利品であった。&lt;br /&gt;
* 戦時中においても妻と手紙による交流を欠かさず、週に毎日手紙を交わす時もあった。内容は日常的なものから戦況や同盟軍に対する不満まで書き綴っていた。その手紙は現在でも保管されている。&lt;br /&gt;
* 幼年時代に航空機技術者になる夢を持っていたせいか機械に対する興味が旺盛で、気軽に軽飛行機に搭乗して偵察を行ったり宣伝大臣のゲッベルスからプレゼントされたカメラを愛用して欧州やアフリカで数千枚の戦場写真を残したりした。息子マンフレートによると元々写真撮影が好きだったというが、同僚からは写真家将軍と揶揄されていた。ロンメル自身が指揮装甲車の屋根からカメラを構えている姿を撮った写真も残っている。アフリカ軍団が危機的状況に陥った1943年2月にはエルンスト・ライツ社から[[ライカ]]III c型を送られている。このカメラは現存し、ロンメルからの感謝状も同社に残っている。&lt;br /&gt;
* マンフレートが[[アーリア民族]]の人種的優越の話をしていると「私の前でそういう馬鹿げたことをしゃべるな」と叱責したといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;references group=&amp;quot;#&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ハンス・シュパイデル]]（B軍集団時代の参謀長）&lt;br /&gt;
* [[エルンスト・ユンガー]]&lt;br /&gt;
* [[トーチ作戦]]&lt;br /&gt;
* [[ロンメル (ミサイル駆逐艦)]]&lt;br /&gt;
* [[マンフレート・ロンメル]]（エルヴィン・ロンメルの息子）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commons&amp;amp;cat|Erwin Johannes Eugen Rommel|Erwin Rommel|エルヴィン・ロンメル}}&lt;br /&gt;
* [http://www.eyewitnesstohistory.com/rommel.htm The Forced Suicide of Field Marshall Rommel, 1944]&lt;br /&gt;
* [http://www.wzaponline.com/Page3.html Essay：The Success of the Deutsches Afrika Korps was Based on Rommel's Leadership]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ろんめる えるういん}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:プール・ル・メリット勲章戦功章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴァイマル共和国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の元帥]]&lt;br /&gt;
[[Category:騎士鉄十字章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:バーデン＝ヴュルテンベルク州出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1891年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1944年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>カワイすぎる漢の一覧</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''カワイすぎる漢の一覧'''（かわいすぎるおとこのいちらん）は、カワイイ容姿や生き様の男の一覧である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* [[マックス・アマン]]&lt;br /&gt;
* [[フリッツ・ヴィーデマン]]&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
== か行 ==&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・ゲーリング]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーゼフ・ゲッベルス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== さ行 ==&lt;br /&gt;
* [[ユリウス・シャウブ]]&lt;br /&gt;
* [[ルドルフ・シュムント]]&lt;br /&gt;
* [[フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
* [[泊優稀撲滅委員会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* [[フランツ・フォン・パーペン]]&lt;br /&gt;
* [[アドルフ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[アロイス・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ヒムラー]]&lt;br /&gt;
* [[ヴァルター・ブーフ]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・フェーゲライン]]&lt;br /&gt;
* [[ハインツ・ブラント]]&lt;br /&gt;
* [[ヴィルヘルム・ブリュックナー]]&lt;br /&gt;
* [[ヴィルヘルム・ブルクドルフ]]&lt;br /&gt;
* [[ルドルフ・ヘス]]&lt;br /&gt;
* [[フリードリヒ・ホスバッハ]]&lt;br /&gt;
* [[マルティン・ボルマン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
* [[エミール・モーリス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* [[ハインツ・リンゲ]]&lt;br /&gt;
* [[エルンスト・レーム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カワイすぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソジジイの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソジジイ殿堂入りの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{勇者}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かわいすきるおとこのいちらん}}&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|かわいすきるおとこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:イケメン]]&lt;br /&gt;
[[Category:勇者]]&lt;br /&gt;
[[Category:神]]&lt;br /&gt;
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		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>ヘルマン・フェーゲライン</title>
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				<updated>2014-05-17T15:55:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 出典 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ハンス・ゲオルグ・オットー・ヘルマン・フェーゲライン'''（''Hans Georg Otto Hermann Fegelein''、[[1906年]][[10月30日]] - [[1945年]][[4月29日]]）は、[[第二次世界大戦]]中の[[ドイツ]]の軍人。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の組織[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊 (SS) ]]の戦闘部隊[[武装親衛隊|武装親衛隊(Waffen-SS)]]の将軍。最終階級は[[親衛隊中将|SS中将]]及び武装SS中将（SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Waffen-SS）&amp;lt;ref&amp;gt;『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』p.306&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[アドルフ・ヒトラー]]の愛人[[エヴァ・ブラウン]]の義弟にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 前半生 ===&lt;br /&gt;
[[1906年]][[10月30日]]、[[バイエルン王国]][[アンスバッハ]]に生まれる。父ハンス・フェーゲラインは陸軍予備役中尉であり、乗馬学校の経営者だった。弟に[[ヴァルデマール・フェーゲライン]]（[[親衛隊大佐|予備役武装親衛隊大佐]]）がいる。小学校 (Volksschule) を出た後、ミュンヘンの上級実科学校 (Oberrealschule) を卒業するとともに[[アビトゥーア]]に合格。1926年から27年にかけては[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]に二学期在学し、政治経済を学んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大学在学中に[[ドイツ義勇軍|義勇軍(フライコール)]]「ロスバッハ・ユーゲント」に参加している。[[1926年]]11月から1927年4月にかけては[[ヴァイマル共和国軍]]の[[第17騎兵連隊]]（バイエルン州の[[バンベルク]]や[[アンスバッハ]]を基地とする）に一時志願兵 (Zeitfreiwilliger) として入営した。[[1927年]]4月から1929年8月にかけてはバイエルン州地方警察(Bayerische Landpolizei)に採用され、ミュンヘンの警察官となった。警察を退官したのち、父の乗馬学校で勤務した。高い乗馬技術を習得した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチ党・親衛隊 ===&lt;br /&gt;
[[1932年]]8月1日に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）に入党（党員番号1,200,158）。父親が自宅をナチ党の[[突撃隊]]の集会に提供していたこともあり、早くからナチ党に親しみを持っていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1933年]]4月10日、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]に入隊（隊員番号66,680）。1933年11月には[[ミュンヘン]]に本部を置く親衛隊「南方」集団 (SS-Gruppe“Süd”) の騎兵指導者の副官となる。1934年4月から1936年10月には親衛隊「南方」上級地区（SS-Oberabschnitt &amp;quot;Süd&amp;quot;）（親衛隊「南方」集団が改組された）の騎兵指導者に就任。1934年には親の所有するミュンヘン近郊の乗馬クラブを親衛隊騎馬学校として党に贈与し、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]などの親衛隊幹部の知遇を得ることに成功する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1936年にはドイツオリンピック委員会のメンバーとなり、[[ベルリンオリンピック]]の乗馬競技の準備にあたった。この功績で一級オリンピック勲章を受章。1936年6月から1939年9月にかけてミュンヘンの親衛隊高級馬術学校の校長に任命され、更にナチ党内で注目を集めるようになる。特にヒムラーには気にいられていたが、周囲から出世欲が強く、自分のことしか考えていないと陰口を叩かれるようになっていた。親衛隊騎馬隊には貴族階級の者が多かったが、フェーゲラインはいわば「成り上がり」だったための陰口ともいえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次世界大戦 ===&lt;br /&gt;
[[武装親衛隊]]第1トーテンコプフ騎兵連隊（[[第8SS騎兵師団]]「フロリアン・ガイエル」の前身）の連隊長として[[ポーランド侵攻]]に従軍した。[[ポーランド]]占領後、1941年5月までポーランドの[[親衛隊及び警察高級指導者]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー]]の下でポーランド占領任務にあたり、不穏分子の銃殺活動を行っていた。[[アインザッツグルッペン]]IV司令官代理[[ヨーゼフ・マイジンガー]]の指揮の下、行われた[[ワルシャワ]]北西の[[パルミリー]] ([[:en:Palmiry|en]]) に近い[[カンピノスの森]] ([[:en:Kampinos Forest|en]]) での1700人の銃殺活動にも参加している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1941年6月に[[独ソ戦]]が開始されると中央ロシア親衛隊及び警察高級指導者[[エーリヒ・フォン・デム・バッハ＝ツェレウスキー]]の指揮の下で占領地域の[[赤軍パルチザン|パルチザン]]の鎮圧および[[ユダヤ人]]迫害に従事した。この任務で第1トーテンコプフ騎兵旅団は13,788人を殺害したと報告しているが、うち9割以上はユダヤ人だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1941年8月に指揮する第1騎兵連隊が騎兵旅団に昇格し、旅団長となった。[[1942年]]2月から3月の[[ルジェフ]]突出部防衛戦で騎兵旅団を指揮して活躍し、独軍の撤退成功をもたらした&amp;lt;ref name=&amp;quot;武装SS全史(2)129&amp;quot;&amp;gt;『武装SS全史 (2)（欧州戦史シリーズ (Vol.18)）』129ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。この功績で[[鉄十字|騎士鉄十字章]]を受章している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1942年5月には旅団長を[[ヴィルヘルム・ビットリッヒ]]に譲り、フェーゲラインは[[親衛隊作戦本部]]に異動となった。作戦本部では「騎馬・輸送車両監督官」(Inspekteur des Reit- und Fahrwesens)を務めたが、1942年12月には[[第4SS警察装甲擲弾兵師団|警察師団]]に属するSS[[戦闘団]]「フェーゲライン」の指揮官として戦場に復帰し、[[ドン]]方面へ出征した。1942年12月にはソ連軍の一個軍団を司令部ごと捕虜にする戦功をたてた&amp;lt;ref name=&amp;quot;武装SS全史(2)129&amp;quot;/&amp;gt;。その戦功で騎士鉄十字章柏葉章を受章。しかしこの戦闘で負傷してしばらく入院した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1943年]]4月に[[第8SS騎兵師団]]「フロリアン・ガイエル」の師団長となり、戦場に復帰。しかし1943年9月9日に[[ハリコフ]]南部での戦闘中に再び負傷し、1943年9月13日付けで師団長を[[ブルーノ・シュトレッケンバッハ]]に交代している。この負傷で[[戦傷章]]銀章を受章した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ヒトラーの義弟 ===&lt;br /&gt;
[[1944年]]1月、負傷が治癒した彼は[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]とヒムラーの間の連絡将軍に就任した。こうしてヒトラーの側近となったフェーゲラインは[[総統大本営]]や[[オーバーザルツベルク]]のヒトラー山荘にしばしば出入りし、ヒトラーの愛人である[[エヴァ・ブラウン]]やその妹グレートル（マルグレーテ）とも親しくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1944年]][[6月3日]]、フェーゲラインはグレートルと[[ケールシュタインハウス]]で結婚した。式にはヒトラーも出席し、二日間にわたって行われたという。ヒトラーに取り入るチャンスを得た彼は、SS中将に昇進している。しかし禁酒主義者であったヒトラーは、フェーゲラインの過度のアルコール摂取を嫌っており、ヒムラーに対し警告を繰り返していた。また、結婚した後にもフェーゲラインは多くの女性関係を持ち、プレイボーイとして知られるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[7月20日]]の[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]の際にはヒトラーを狙った爆発に巻き込まれ、軽傷を負った。この負傷によりヒトラーが急遽制定した「1944年7月20日戦傷章」銀章を授与された。以後もヒトラーの側近くに仕え、1945年1月以降は[[ベルリン]]の[[総統官邸]]にある[[総統地下壕]]で生活するようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 処刑 ===&lt;br /&gt;
[[赤軍|ソ連軍]]の迫る[[ベルリンの戦い]]の最中の[[1945年]][[4月27日]]、フェーゲラインは総統地下壕から無断で脱出した。フェーゲラインは愛人宅で泥酔し、ヒトラーの出頭命令にも応じなかった。さらに迎えに来た親衛隊員に逃亡をほのめかしたため、ナチス党官房長[[マルティン・ボルマン|ボルマン]]はフェーゲラインの逮捕を進言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[RSD]] の[[ペーター・ヘーグル|ヘーグル]]部長がフェーゲラインの愛人宅に向かったところ、フェーゲラインは愛人とみられる女性とともに発見された。フェーゲラインは親衛隊の制服を着て泥酔していた。ヘーグル部長はフェーゲラインを逮捕したものの、女性に関しては命令を受けていなかったために逃亡された。この女性の正体については外国のスパイであるなどの説がある。逃亡した女性の鞄には女性名義のイギリスとハンガリーのパスポート、かなりの外貨と宝飾品と貴金属が入っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌28日午後9時、ヒムラーがヒトラーに無断で西側[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍と和平交渉をしている情報が地下壕に入った。ヒトラーは激怒し、フェーゲラインを最前線に立たせるように命じたが、ボルマンと[[オットー・ギュンシェ|ギュンシェ]]親衛隊少佐が逃亡の危険性を進言すると処刑の命令を下した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
義姉のエヴァはヒトラーに義弟の[[処刑]]を止めるよう嘆願するが、聞き入れられなかった。フェーゲラインは29日深夜、総統官邸近くの外務省の敷地内で銃殺された。ただし、地下壕にいた[[ローフス・ミシュ]]の証言によれば、ヒトラー自身はフェーゲラインの階級を剥奪したものの死刑命令は出しておらず、処刑はヘーグルらによる独断だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時、バイエルンに疎開していた妻・グレートルは妊娠中で、翌月5日にフェーゲラインの娘を出産した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== フェーゲラインが登場する作品 ==&lt;br /&gt;
=== 映画『ヒトラー 〜最期の12日間〜』 ===&lt;br /&gt;
映画『[[ヒトラー 〜最期の12日間〜]]』（ヨアヒム・フェストとトラウドゥル・ユンゲ原作によるドイツ語映画。原題：Der Untergang）では[[トーマス・クレッチマン]]が演じた。崩壊する地下壕でユンゲら女性には優しく男性には嫌われ者、自分の才覚に強い自信を持って独自に生き残ろうとするシーンが複数登場している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フェーゲラインはヒトラー存命中最後に処刑された高官であるが、その処刑についてはユンゲや上記ミシュを含む複数の証言が残されており、映画本編では死刑命令を最後にヒトラーが了承したことは言及されているもののヘーグルはその後のシーンに一切登場しないなど、細部をぼかした描写が行われた。逮捕も上司の[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]の秘密降伏交渉の暴露後、交渉の存在自体も相当進行した段階までヒムラーから知らされていなかったという解釈がされており、フェスト原作とも異なっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
クレッチマンはどうしようもない男と明確に意識してフェーゲラインを演じたことをコメントしているが、上司ヒムラーからヒトラーに向けていわば呪的逃走・身代わり、犠牲の羊に差し出され処刑されたことを強調する演出となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キャリア ==&lt;br /&gt;
=== 親衛隊階級 ===&lt;br /&gt;
* 1933年4月、[[親衛隊二等兵]]（SS-mann）&lt;br /&gt;
* 1933年6月19日、[[親衛隊少尉]]（SS-Sturmführer）&lt;br /&gt;
* 1933年4月11日、[[親衛隊中尉]]（SS-Obersturmführer）&lt;br /&gt;
* 1934年11月8日、[[親衛隊大尉]]（SS-Hauptsturmführer）&lt;br /&gt;
* 1936年1月27日、[[親衛隊少佐]]（SS-Sturmbannführer）&lt;br /&gt;
* 1937年1月30日、[[親衛隊中佐]]（SS-Obersturmbannführer）&lt;br /&gt;
* 1937年7月24日、[[親衛隊大佐]]（SS-Standartenführer）&lt;br /&gt;
* 1940年3月1日、[[親衛隊中佐|武装親衛隊予備役中佐]]（SS-Obersturmbannführer d.R. der Waffen-SS）&lt;br /&gt;
* 1942年1月28日、[[親衛隊大佐|武装親衛隊予備役大佐]]（SS-Standartenführer d.R. der Waffen-SS）&lt;br /&gt;
* 1943年1月28日、[[親衛隊上級大佐|武装親衛隊上級大佐]]（SS-Oberführer der Waffen-SS）&lt;br /&gt;
* 1943年5月19日、[[親衛隊少将]]及び武装親衛隊少将（SS-Brigadeführer und Generalmajor der Waffen-SS）&lt;br /&gt;
* 1944年6月11日、[[親衛隊中将]]及び武装親衛隊中将（SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Waffen-SS）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 受章 ===&lt;br /&gt;
* [[親衛隊全国指導者名誉長剣]]（1937年12月1日）&lt;br /&gt;
* [[親衛隊名誉リング]]（1937年12月1日）&lt;br /&gt;
* [[鉄十字章]]&lt;br /&gt;
** [[二級鉄十字章]]（1940年12月15日）&lt;br /&gt;
** [[一級鉄十字章]]（1941年6月28日）&lt;br /&gt;
** [[騎士鉄十字章]]（1942年3月2日）&lt;br /&gt;
*** 柏葉章（1942年12月22日）&lt;br /&gt;
*** 柏葉・剣章（1944年7月30日）&lt;br /&gt;
* [[ドイツ十字章]]&lt;br /&gt;
** 金章（1943年11月1日）&lt;br /&gt;
* [[一般突撃章]]&lt;br /&gt;
* [[歩兵突撃章]]&lt;br /&gt;
** 銀章（1941年10月2日）&lt;br /&gt;
* [[戦傷章]]&lt;br /&gt;
** 銀章（1943年）&lt;br /&gt;
** 1944年7月20日戦傷章銀章（1944年8月20日）&lt;br /&gt;
* [[東部戦線従軍記章|1941年/1942年冬季東部戦線従軍メダル]]（Medaille Winterschlacht im Osten 1941/42）（1942年9月1日）&lt;br /&gt;
* [[1938年3月13日記念メダル]]&lt;br /&gt;
* [[1938年10月1日記念メダル]]&lt;br /&gt;
* [[戦功十字章]]&lt;br /&gt;
** 剣付二級戦功十字章（1942年9月1日）&lt;br /&gt;
* [[SAスポーツ勲章]]（SA-Sportabzeichen）&lt;br /&gt;
** 銅章（1937年12月1日）&lt;br /&gt;
* [[ドイツ帝国スポーツ勲章]]（Deutsches Reichssportabzeichen）&lt;br /&gt;
** 銅章（1937年12月1日）&lt;br /&gt;
* [[オリンピック勲章]]（Olympia-Ehrenzeichen）&lt;br /&gt;
** 一級オリンピック勲章（1936年） &lt;br /&gt;
* [[乗馬勲章]]（Leistungsabzeichen）&lt;br /&gt;
** 銅章&lt;br /&gt;
** 銀章&lt;br /&gt;
** 金章&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）（英語）ISBN 9329700373 &lt;br /&gt;
* 『武装SS全史 (2)（欧州戦史シリーズ (Vol.18) ）』（学研）（日本語）ISBN 978-4056026436&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Hermann Fegelein}}&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふえけらいんへるまん}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:アンスバッハ出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:騎士鉄十字章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:刑死した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1906年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1945年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B2&amp;diff=228609</id>
		<title>ハインツ・リンゲ</title>
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				<updated>2014-05-17T15:53:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 略歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ハインツ・リンゲ'''（''Heinz Linge''、[[1913年]][[3月23日]] – [[1980年]][[3月9日]]）は、[[ナチス・ドイツ]]総統[[アドルフ・ヒトラー]]の従者。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊（SS）]]の隊員であり、最終階級は[[親衛隊中佐]]（SS-Obersturmbannführer）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[ブレーメン]]出身。 煉瓦職人をしていた。1932年に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチス党）に入党（党員番号1.260.490）。また親衛隊にも入隊（隊員番号35.795）。1933年、[[ヨーゼフ・ディートリヒ]]により117人のヒトラーのボディーガードの一人に選ばれた。彼は[[ベルリン]]の[[総統官邸]]、[[ベルヒテスガーデン]]、[[ケントシン]]の[[ヴォルフスシャンツェ]]、[[総統地下壕]]などヒトラーの住居となる場所でヒトラーの雑用をしていた。[[ベルリンの戦い]]の最中のヒトラーの最期の瞬間の目撃者の一人でもある。自殺したヒトラーの遺体を焼いた人物の一人でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敗戦後、[[ソ連]]軍に捕まった。ヒトラーの死についての尋問を受けた。その後、ソ連から25年の強制労働刑に処されたが、1955年には[[西ドイツ]]へ送還された。1980年に故郷のブレーメンで死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:りんけはいんつ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ブレーメン出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1913年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1980年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95&amp;diff=228608</id>
		<title>ヴィルヘルム・ブルクドルフ</title>
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				<updated>2014-05-17T15:52:26Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* ブルクドルフが登場する作品 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ヴィルヘルム・ブルクドルフ'''（''Wilhelm Burgdorf'', [[1895年]][[2月14日]] - [[1945年]][[5月2日]]）は[[ドイツ]]の[[軍人]]。第一次世界大戦に従軍し、[[第二次世界大戦]]では陸軍人事局長を務める。1945年5月2日に陸軍参謀総長の[[ハンス・クレープス]]大将と共に、[[総統地下壕]]に留まり[[自決]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[第一次世界大戦]]では、[[ドイツ陸軍]]に従軍し奇跡的にも大戦を生き延びた。大戦間期は主に副官として務め、1939年9月1日に[[アドルフ・ヒトラー]]の信任を得、第9軍団副官に任命される。1940年5月から1942年の4月まで第529歩兵連隊長を務め[[独ソ戦]]にも従軍、[[騎士十字章]]を授与される。その後陸軍人事局に勤務。1944年11月1日に陸軍人事局長兼総統副官に任命される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は忠実にヒトラーに仕え[[ヒトラー暗殺未遂事件]]では、容疑者として疑われた[[エルヴィン・ロンメル|ロンメル]][[元帥]]の自殺強要の使者として派遣された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1945年4月24日に総統地下壕で行われた作戦会議ではヒトラーに対し、[[フェリックス・シュタイナー|シュタイナー]]の進撃を断念するように言ったが、断られた。また、ソ連軍と単独で降伏交渉を行なおうとした[[ハンス・フリッチェ]]を「総統の命令に違反した」として[[宣伝省]]まで押しかけ、フリッチェを射殺しようとしたが未遂に終わっている。1945年5月2日、地下壕の倉庫で陸軍参謀総長の[[ハンス・クレープス]]と共に自決。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ユンカー]]出身ではなく、最後までヒトラーと[[ナチズム]]に忠実な[[陸軍大将]]であり、自らもそれを誇りにしていた。　しかし、地下壕で最後の日々を送る中、ナチ党官房長の[[マルティン・ボルマン]]に向かって『'''若き将兵は総統と国家のために死んだのか？　いや、あなたのためにだ'''』と今までの鬱積した感情を爆発させ、特に私腹を肥やすナチス幹部の腐敗を非難した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
酒乱癖が激しかったらしく、ベルリンの総統官邸地下壕でも暇を見ては酒を飲んで酔いつぶれていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ブルクドルフが登場する作品 ==&lt;br /&gt;
『[[ヒトラー 〜最期の12日間〜]]』（[[ドイツ映画]]、[[2004年]]） - [[ユストゥス・フォン・ドホナーニ]]が演じた。劇中に上述の酒に酔った彼の姿も散見され、激高するヒトラーに唯一堂々と言い返すなど気性の激しい描写も存在した。上述のボルマンを批判するシーンも撮影されており、映画本編では使われなかったもののメイキング映像として復活している。&lt;br /&gt;
                              &lt;br /&gt;
{{先代次代|陸軍人事局長|[[1944年]]11月-[[1945年]]5月|[[ルドルフ・シュムント]]|-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふるくとるふ ういるへるむ}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴァイマル共和国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:1895年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1945年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&amp;diff=228607</id>
		<title>ハインツ・ブラント</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88&amp;diff=228607"/>
				<updated>2014-05-17T15:49:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 経歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ハインツ・ブラント'''（Heinz Brandt, [[1907年]][[3月11日]] – [[1944年]][[7月21日]]）は、[[第二次世界大戦]]中の[[ドイツ]]の[[軍人]]。[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]で暗殺された。大戦前は[[馬術]]競技者としても活躍した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ベルリン]]・シャルロッテンブルクに生まれる。1925年に士官候補生として第13[[騎兵]]連隊に配属される。1926年、[[下士官]]に任官。同年から翌年まで歩兵学校で学び、続いて1928年まで[[ハノーファー]]の騎兵学校で学んだ。1928年12月に少尉に昇進。1930年、騎兵学校の騎手となる。1931年、第2騎兵連隊に転属。1932年に中尉に昇進し、翌年騎兵学校特別部に転属。この部署で[[ベルリンオリンピック]]開催の準備に携わる。このオリンピックではアルキミスト号に騎乗して[[障害飛越競技]]で[[金メダル]]を獲得した。オリンピック終了後の1936年10月、大尉に昇進して陸軍大学に学ぶ。卒業後第25歩兵師団参謀に転属。1939年4月、同次席参謀。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二次世界大戦勃発後の1939年10月、[[国防軍最高司令部]]に転属し参謀となる。翌年2月、第297歩兵師団作戦部長。同年11月、[[陸軍総司令部]]作戦課主任参謀に転じる。1941年1月、少佐に昇進し、翌年4月に中佐に昇進、さらに1943年には大佐に昇進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アドルフ・ホイジンガー]]作戦部長と共に大本営での作戦会議に出席していたブラントは、1944年7月20日、[[ヴォルフスシャンツェ]]でヒトラー暗殺未遂事件に巻き込まれ、重傷を負った。ブラントは[[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]大佐の仕掛けた時限爆弾入りのアタッシュケースを、机上の地図を見るのに邪魔に思い、足で動かして机の下に押し込み机の脚の裏に移動させていた。このため[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は机により爆風から守られ軽傷を負っただけで済んだが、ブラントは搬送された[[ケントシン|ラステンブルク]]の野戦病院で翌日死亡した。7月22日に死後特進され、少将に昇進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふらんと　はいんつ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの馬術選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツのオリンピック選手]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツのオリンピック金メダリスト]]&lt;br /&gt;
[[Category:ベルリン出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1907年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1944年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%83%88&amp;diff=228606</id>
		<title>ルドルフ・シュムント</title>
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				<updated>2014-05-17T15:48:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 経歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ルドルフ・シュムント'''（Rudolf Schmundt, [[1896年]][[8月13日]] – [[1944年]][[10月1日]]）は、[[ドイツ]]の[[軍人]]。[[第二次世界大戦]]中に[[アドルフ・ヒトラー]]の筆頭副官を務めていた。[[1944年]][[7月20日]]の[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂事件]]での負傷が元で死亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ロートリンゲン]]州の[[メス (フランス)|メッツ]]で軍人の家庭に生まれる。[[ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル]]の[[ギムナジウム]]に学んでいたが、1914年8月の[[第一次世界大戦]]の勃発により仮[[アビトゥーア]]に合格して陸軍に志願、父リヒャルトが率いる連隊に配属された。同年早くも士官候補生・副官として第二級・第一級[[鉄十字]]章を受章。少尉に任官し、戦後の1921年に[[ヴァイマル共和国軍]]に採用され、[[ポツダム]]の歩兵第9連隊に配属された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1929年から1931年まで、第1歩兵師団参謀。1931年から1935年まで、国防省[[兵務局]]勤務。1931年に大尉、1936年に少佐に昇進。1935/36年、第18歩兵師団で中隊長、ついで参謀を務める。1938年1月29日、[[フリードリヒ・ホスバッハ]]の後任として[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]の筆頭副官に就任し、その側近くに仕えてヒトラーに心酔するようになリ、ナチズム信奉者となった。信頼を得たシュムントは同年中佐、翌年大佐、1942年に少将、1943年に中将と、異例の速さで昇進を重ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]中の1942年10月、総統副官と兼任で陸軍人事局長に就任し、陸軍の人事を担当した。シュムントは昇進に年功ではなく実績を重視し、その結果前線勤務者の多くが急速な昇進を遂げた。また将校団に対して、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の反[[ユダヤ人|ユダヤ]]思想に忠実であることを要求する訓示を発令している。人事については政治的従順さを重視し、また青少年のナチズム思想を育成するため[[ヒトラーユーゲント]]に関心を払っていた。一方で有能な軍人とヒトラーとの橋渡し役を果たし、[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]の[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻]][[マンシュタイン計画|作戦計画]]をヒトラーに取り次いだのはシュムントであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1944年7月20日、ヒトラーが臨席する会議に参加した際、[[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]大佐がヒトラー暗殺を狙って時限爆弾を爆発させ、シュムントは重傷を負った。[[ケントシン|ラステンブルク]]の野戦病院に搬送されたシュムントは、10月に死亡した。軽傷で済んだヒトラーは7月27日にシュムントを歩兵大将に昇進させ、死後の10月7日には[[ドイツ勲章]]を追贈した。シュムントの死について、ヒトラーは「最良の部下を失った」と評したが、当時[[参謀総長]]だった[[ハインツ・グデーリアン]]はシュムントを「[[プロイセン]]の理想主義者」と評している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆむんと るとるふ}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴァイマル共和国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺された人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1896年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1944年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9&amp;diff=228605</id>
		<title>エミール・モーリス</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9&amp;diff=228605"/>
				<updated>2014-05-17T15:46:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 脚注 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''エミール・モーリス'''（Emil Maurice、[[1897年]][[1月19日]]‐[[1972年]][[2月6日]]）は、[[ドイツ]]の政治家[[アドルフ・ヒトラー]]のお抱え運転手。[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）の初期メンバーであり、[[突撃隊]]の前身である会場警備隊の指揮官を務めていた。[[我が闘争]]では[[ルドルフ・ヘス]]とともにヒトラーの口述筆記を務めた。その後ヒトラーの運転手となったが、ヒトラーの姪[[アンゲラ・ラウバル]]（ゲリ・ラウバル）と親しい間柄になったことでヒトラーの不興を買い、党を追放された。のちに復帰して[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]で[[親衛隊上級大佐]]（SS-Oberführer）まで昇進した。ナチ党員番号は39番、親衛隊の隊員番号はヒトラーに次ぐ2番の人物であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)160&amp;quot;&amp;gt;[[#Hamilton(1996)|Hamilton(1996)]] p.160&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[シュレースヴィヒ＝ホルシュタイン州|シュレースヴィヒ＝ホルシュタイン]]のヴェスターモーア出身&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)160&amp;quot;&amp;gt;[[#Hamilton(1996)|Hamilton(1996)]] p.160&amp;lt;/ref&amp;gt;。モーリス家はフランスからの移民の家系であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント(2009)195&amp;quot;&amp;gt;[[#ジークムント(2009)|ジークムント(2009)]] p.195&amp;lt;/ref&amp;gt;。実家学校（Realschule）を卒業した後、時計工として働いていたが、この際に横領罪に問われ、前科が付いている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)27&amp;quot;&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.27&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[第一次世界大戦]]中の1917年から1919年にかけて[[バイエルン王国]]陸軍に従軍した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後の1919年に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）の前身[[ドイツ労働者党]]に入党した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)160&amp;quot;/&amp;gt;。1920年に[[突撃隊]]の前身である会場警備隊（25名ほど）の指揮官に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;桧山(1976)34&amp;quot;&amp;gt;[[#桧山(1976)|桧山(1976)]] p.34&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし1921年7月29日に[[アドルフ・ヒトラー]]が党首に就任すると会場警備隊は「体操スポーツ隊」と改称されてその指揮権は[[エアハルト旅団]]のハンス・ウルリヒ・クリンチュに移された&amp;lt;ref name=&amp;quot;桧山(1976)45&amp;quot;&amp;gt;[[#桧山(1976)|桧山(1976)]] p.45&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1923年にヒトラーの個人警護部隊「アドルフ・ヒトラー衝撃隊」（Stoßtrupps Adolf Hitler）が設置されると、最初の隊員の一人となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヘーネ(1981)28&amp;quot;&amp;gt;[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)]] p.28&amp;lt;/ref&amp;gt;。1923年11月9日の[[ミュンヘン一揆]]に参加した。一揆の失敗後にヒトラーとともに[[ランツベルク刑務所]]へ投獄された&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)160&amp;quot;/&amp;gt;。刑務所内でヒトラーのもっとも親しい友人の一人になり、ここでヒトラーが著した『[[我が闘争]]』の中にも名前が出てくる数少ない人物の一人である&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)160&amp;quot;/&amp;gt;。ヒトラーはモーリスのことを「マウリツル」というあだ名で呼び、またヒトラーとモーリスは親しい間柄で使う二人称「きみ（Du）」で呼び合う間柄だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント(2009)195&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
釈放後の1925年に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に入隊し&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント(2009)196&amp;quot;&amp;gt;[[#ジークムント(2009)|ジークムント(2009)]] p.196&amp;lt;/ref&amp;gt;、ヒトラーのボディーガード、また運転手を務めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)160&amp;quot;/&amp;gt;。やがてヒトラーの知らぬところでヒトラーが可愛がっていた姪[[アンゲラ・ラウバル]]（愛称ゲリ）と親密な関係になった。1927年のクリスマス直前にモーリスはゲリにプロポーズし、ゲリも承諾した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント(2009)197&amp;quot;&amp;gt;[[#ジークムント(2009)|ジークムント(2009)]] p.197&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒトラーは日ごろから若い党員たちに結婚を奨励していた。モーリスの結婚も心待ちにしており、モーリスに「お前が結婚したら毎日お前たちの所に食事に行くからな」などと冗談を飛ばしていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント(2009)197&amp;quot;&amp;gt;[[#ジークムント(2009)|ジークムント(2009)]] p.197&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのためヒトラーが喜ぶだろうと勘違いしたモーリスはヒトラーにゲリと婚約したことを告げた。それを聞いたヒトラーの態度は急変し、モーリスに掴みかかり、モーリスを散々に罵倒して婚約を解消するよう脅迫した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント(2009)198&amp;quot;&amp;gt;[[#ジークムント(2009)|ジークムント(2009)]] p.198&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;シャーケ(2002)144&amp;quot;&amp;gt;[[#シャーケ(2002)|シャーケ(2002)]] p.144&amp;lt;/ref&amp;gt;。この時のヒトラーの剣幕にモーリスは射殺されるのではという恐怖に駆られたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;シャーケ(2002)144&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーはモーリスの給料の支給を遅らせるなど陰湿な嫌がらせを行うようになった&amp;lt;ref name=&amp;quot;シャーケ(2002)145&amp;quot;&amp;gt;[[#シャーケ(2002)|シャーケ(2002)]] p.145&amp;lt;/ref&amp;gt;。1927年末にモーリスは運転手から解雇され、さらに党からも追放された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント(2009)200&amp;quot;&amp;gt;[[#ジークムント(2009)|ジークムント(2009)]] p.200&amp;lt;/ref&amp;gt;。モーリスはゲリの事は諦めたが、それにしても無期限解雇は納得がいかなかった。労働裁判所で雇用主ナチ党を相手取って訴訟を起こして補償金500ライヒスマルクを得ている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント(2009)202&amp;quot;&amp;gt;[[#ジークムント(2009)|ジークムント(2009)]] p.202&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;シャーケ(2002)145&amp;quot;&amp;gt;[[#シャーケ(2002)|シャーケ(2002)]] p.145&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その金を元手にモーリスはミュンヘンで時計屋を始めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;シャーケ(2002)145&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1932年に[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に入隊。親衛隊全国指導者[[ハインリヒ・ヒムラー]]は古参党員で前身のアドルフ・ヒトラー衝撃隊の創設に関わったモーリスに親衛隊の隊員番号2番を与えたが、特に親衛隊において重要な役割は与えられなかった。親衛隊における階級も最終的に[[親衛隊上級大佐]]に昇進するにとどまる。1933年のヒトラーの政権掌握後には[[ミュンヘン]]市の市議会議員（Ratsherr）を務めた。同年10月のミュンヘン一揆記念式典でヒトラーと再会した。この時すでに死亡していたゲリについては話題にのぼらず、モーリスは恋人をヒトラーに紹介するなど親密な空気の中での会話となり、二人は友情を取り戻した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント(2009)220&amp;quot;&amp;gt;[[#ジークムント(2009)|ジークムント(2009)]] p.220&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒムラーは1935年にモーリスの結婚に際して家系調査を行った際に「モーリスには[[ユダヤ人]]の血が流れている」という報告をヒトラーに行い、モーリスを党と親衛隊から追放することを提案したが、ヒトラーは却下している&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)161&amp;quot;&amp;gt;[[#Hamilton(1996)|Hamilton(1996)]] p.161&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1937年にミュンヘン手工業者会の会長に就任した。1940年から1942年にかけて[[ドイツ空軍]]に将校として勤務&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)161&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1948年に非ナチ化裁判にかけられ、4年間の労働収容所送りとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)161&amp;quot;/&amp;gt;。1972年に[[ミュンヘン]]で死去&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton(1996)161&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:もおりす えみいる}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:バイエルンの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:フランス系ドイツ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユダヤ系ドイツ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:アドルフ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:突撃隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:1897年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1972年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%88%AF%E8%A8%80&amp;diff=228604</id>
		<title>利用者:ウーソキマスラの戯言</title>
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				<updated>2014-05-17T15:39:42Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 記事 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[画像:ハーゲンクロイツ.png|400px|thumb|私は[[国家社会主義ドイツ労働者党|この旗を党旗としている政党]]の支持者です。]]&lt;br /&gt;
このページは[[利用者・トーク:ウーソキマスラの戯言|ウーソキマスラの戯言]]の利用者ページです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 自己紹介 ==&lt;br /&gt;
主に[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]に関する項目を作成。[[国家社会主義ドイツ労働者党]]の支持者であり[[閣下ヒトラー|アドルフ・ヒトラー総統閣下]]に傾倒しているという点では{{User2|松葉裕子}}さんや{{User2|逝け惰性面}}氏とは同志であるが、断じて[[松葉裕子 (右翼運動家)|松葉]]さんのソックパペットではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 作成した項目 ==&lt;br /&gt;
=== 記事 ===&lt;br /&gt;
* [[ハインツ・リンゲ]]&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・フェーゲライン]]&lt;br /&gt;
* [[ゲルダ・クリスティアン]]&lt;br /&gt;
* [[トラウデル・ユンゲ]]&lt;br /&gt;
* [[エーリヒ・ケンプカ]]&lt;br /&gt;
* [[テオドール・モレル]]&lt;br /&gt;
* [[カール・ブラント]]&lt;br /&gt;
* [[ヴェルナー・ハーゼ]]&lt;br /&gt;
* [[エルンスト＝ギュンター・シェンク]]&lt;br /&gt;
* [[ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー]]&lt;br /&gt;
* [[カール・マイヤー]]&lt;br /&gt;
* [[エルンスト・レーム]]&lt;br /&gt;
* [[エリック・ヤン・ハヌッセン]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ホフマン (写真家)]]&lt;br /&gt;
* [[ローフス・ミシュ]]&lt;br /&gt;
* [[フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ]]&lt;br /&gt;
* [[ヴァルター・ブーフ]]&lt;br /&gt;
* [[親衛隊]]&lt;br /&gt;
* [[強制収容所]]&lt;br /&gt;
* [[マックス・アマン]]&lt;br /&gt;
* [[突撃隊]]&lt;br /&gt;
* [[長いナイフの夜]]&lt;br /&gt;
* [[指導者原理]]&lt;br /&gt;
* [[第三帝国]]&lt;br /&gt;
* [[ドイツ労働者党]]&lt;br /&gt;
* [[25カ条綱領]]&lt;br /&gt;
* [[武装親衛隊]]&lt;br /&gt;
* [[帝国大管区]]&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義自動車軍団]]&lt;br /&gt;
* [[国家社会主義航空軍団]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 曖昧さ回避ページ ===&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ホフマン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== カテゴリ ===&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の元帥]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の将軍]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ドイツ第三帝国の提督]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチス・ドイツの軍事]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチ党全国指導者]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチス・ドイツのプロパガンダ]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:突撃隊隊員]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:突撃隊]]&lt;br /&gt;
* [[:カテゴリ:ナチス・ドイツの事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テンプレート ===&lt;br /&gt;
* [[テンプレート:国家社会主義ドイツ労働者党党首]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%88%AA%E7%A9%BA%E8%BB%8D%E5%9B%A3&amp;diff=228603</id>
		<title>国家社会主義航空軍団</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''国家社会主義航空軍団'''（''Nationalsozialistisches Fliegerkorps''　略称''NSFK''）は、国家社会主義ドイツ労働者党（略称NSDAP、蔑称...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''国家社会主義航空軍団'''（''Nationalsozialistisches Fliegerkorps''　略称''NSFK''）は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（略称NSDAP、蔑称ナチス党）の準軍事組織。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[ヴェルサイユ条約]]により航空機の所有を禁止されていた1930年代早期に創立された。当初は[[突撃隊]] (SA) の下部組織であった。類似組織に[[国家社会主義自動車軍団]]がある。団員に[[グライダー]]や[[飛行機]]の操縦の訓練を行うことを目的とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ドイツ国首相]]となった[[アドルフ・ヒトラー]]が[[ドイツ再軍備宣言|ヴェルサイユ条約を一方的に破棄]]して[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]を設置したのちに団員の多くが空軍へ移籍した。国家社会主義航空軍団はその後も形式的には存在し続けたが、規模は縮小していった。[[第二次世界大戦]]中には国家社会主義航空軍団員は[[高射砲]]部隊の予備役として任務に就いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍団長は当初[[フリードリッヒ・クリスチャンセン]]が務め、1943年からは[[アルフレート・ケラー]]（[[:en:Alfred Keller]]） が任命された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国家社会主義航空軍団には突撃隊や[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]] (SS) と同じような[[親衛隊階級|階級]]が存在していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.axishistory.com/index.php?id=2872 Axis History Factbook - NSFK]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こつかしやかいしゆきこうくうくんたん}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス・ドイツ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの軍事]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>国家社会主義自動車軍団</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''国家社会主義自動車軍団'''（独：'''Nationalsozialistisches Kraftfahrkorps'''、略称'''NSKK'''）は、[[国家社会主義ドイツ労...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''国家社会主義自動車軍団'''（[[ドイツ語|独]]：'''Nationalsozialistisches Kraftfahrkorps'''、略称'''NSKK'''）は、[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチス）の党機関のひとつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
1930年に[[突撃隊]]（SA）内部に結成された「Nationalsozialistisches '''Automobil'''korps、略称NSAK」が1931年に「Nationalsozialistisches '''Kraftfahr'''korps、略称NSKK」に発展改組されて誕生した。ドイツ語の「Kraft」も「Automobil」も日本語では「自動車」と訳すが、「Kraft」の自動車はオートバイをも含める意味があり、より範囲が広い単語である。1934年には団員数が1万人を超え、さらに突撃隊が[[長いナイフの夜]]事件で衰退したことで国家社会主義自動車軍団の突撃隊からの独立が認められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この組織の主要な任務は団員になった者に自動車やバイクの運転技術やメンテナンス技術を教えることであった。ドイツ各地の道路沿いにある自動車運転者の援助をする機関でもあった。当時のドイツでは運転技術を持つ者は大変貴重であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入団に際して運転免許あるいは何らかの自動車の知識が必要となることはなかった。ただしナチス党の組織であるので人種主義に基づく審査は存在し、アーリア人種であると認められなければ入団はできなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]開戦後は団員の多数が[[ドイツ国防軍]]の兵站部隊に回された。彼らは兵站の自動車化に貢献した（しかし全体的にはドイツ国防軍の兵站は馬に頼るところがほとんどであった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国家社会主義自動車軍団には[[:en:Ranks and insignia of the National Socialist Motor Corps|突撃隊や親衛隊とほぼ同様の階級が存在]]しており、軍団のトップは軍団指導者（Korpsführer）という階級であった。1934年から1942年に死去するまで[[アドルフ・ヒューンライン]]（Adolf Hühnlein）が軍団指導者の地位にあった。ヒューンラインの死後は[[エルヴィン・クラウス]]（Erwin Kraus）が軍団指導者となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による[[ニュルンベルク裁判]]により「有罪組織（condemned organization）」と認定された（ただし[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊（SS）]]と違い「犯罪組織（Criminal organization）」の認定は受けなかった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.axishistory.com/index.php?id=2871 Axis History Factbook - NSKK]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:こつかしやかいしゆきしとうしやくんたん}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス・ドイツ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E7%AE%A1%E5%8C%BA&amp;diff=228601</id>
		<title>帝国大管区</title>
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				<updated>2014-05-17T15:27:04Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''帝国大管区'''（ていこくだいかんく、''Reichsgau'' ライヒスガウ、複数形：''Reichsgaue'' ライヒスガウエ）は、1938年から[[1945...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''帝国大管区'''（ていこくだいかんく、''Reichsgau'' ライヒスガウ、複数形：''Reichsgaue'' ライヒスガウエ）は、[[1938年]]から[[1945年]]に[[ナチス・ドイツ]]によって、主に併合された領土により構成され、設置された行政区分の名称である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
帝国大管区という単語は、''Reich''（国）と''Gau''（大管区）を複合して作られた表現であり、'''州'''に近い意味を持っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大管区 (ナチ党)|大管区]]（{{lang-de-short}}''Gau''）は初期においては[[国家社会主義ドイツ労働者党|NSDAP]]の行政地域として、党が選挙区割りに基づいて設置した組織であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]がドイツ帝国時代から引き継いだ[[ドイツ帝国#構成国|ドイツの州]]（{{lang-de-short}}''Land''）の機能を[[1938年]]にナチス・ドイツが停止させると、大管区は一級行政区画として機能するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのため、実質的には帝国大管区と大管区の双方が国家の行政組織として機能するようになったので、この呼称の差異は特には無く、日本の[[都道府県]]のような関係に類似する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 設置された帝国大管区 ==&lt;br /&gt;
=== オーストリア（エスターライヒ） ===&lt;br /&gt;
オーストリアは1939年4月に既存の州組織から帝国大管区への再編制が行われた。ここでは既存の州を維持しつつ、オーストリア名称の抹消などが図られた。同様に国名（地域名）もオーストリア（エスターライヒ）から1940年にオストマルクへと改称された&amp;lt;ref&amp;gt;オーストリアの歴史を考える会、戦間期の歴史、[http://www6.plala.or.jp/ymkmr/geschichte/06_ostmark.html 6. ドイツ第三帝国の一部としてのオストマルク]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、これらの帝国大管区を総称するプロパガンダ的名称（''Propagandabezeichnung''）として、[[1940年]]に'''オストマルク帝国大管区群'''が作られた。[[1942年]]に'''ドナウ＝アルプス帝国大管区群'''&amp;lt;ref&amp;gt;これらの「帝国大管区」を示すReichsgaueは複合名詞の中に取り込まれており、「プロパガンダ的名称」という説明も加味すれば、ここで解説する他の帝国大管区とは違い、行政機能を持たないと考えられる。&amp;lt;/ref&amp;gt;）に名称変更された。&lt;br /&gt;
; [[ケルンテン州|ケルンテン]]帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都は[[クラーゲンフルト]]に置かれた。[[ユーゴスラヴィア]]（現[[スロヴェニア]]）に設置された（上）ケルンテン・クライン民政長官地域）&amp;lt;ref name=&amp;quot;slo&amp;quot;&amp;gt;[[スロベニアの地方行政区画#伝統的な地方]]を参照&amp;lt;/ref&amp;gt;が[[1941年]]編入された。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* フーベルト・クラウスナー（[[1939年]] - [[1940年]]）&lt;br /&gt;
:* [[フランツ・クッチェラ]]（[[1940年]] - [[1941年]]）&lt;br /&gt;
:* フリードリヒ・ライナー（[[1942年]] - [[1944年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[ニーダーエスターライヒ州|下ドナウ]]帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区の中心都市はクレムスに置かれた。[[ブルゲンラント州]]の一部を含む。ズデーテンラント南部を含む。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* フーゴー・ユーリイ（[[1939年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[オーバーエスターライヒ州|上ドナウ]]帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都は[[リンツ]]に置かれた。ズデーテンラント南部を含む。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* [[アウグスト・アイグルーバー]]（[[1939年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[ザルツブルク州|ザルツブルク]]帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都は[[ザルツブルク]]に置かれた。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* フリードリヒ・ライナー（[[1939年]] - [[1941年]]）&lt;br /&gt;
:* [[グスタフ・アドルフ・シェール]]（[[1941年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都は[[グラーツ]]に置かれた。[[ブルゲンラント州]]の一部を含む。ユーゴスラヴィア（現スロヴェニア）に設置された下シュタイアーマルク民政長官地域&amp;lt;ref name=&amp;quot;slo&amp;quot;/&amp;gt;も1941年編入された。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* [[ジークフリート・ウイバーライター]]（[[1939年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; [[チロル州|チロル]]＝[[フォアアールベルク州|フォアアールベルク]]帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都は[[インスブルック]]に置かれた。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* [[フランツ・ホーファー]]（[[1938年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 大[[ウィーン]]帝国大管区&lt;br /&gt;
: 「大ウィーン」として特別市のようにそれ単体でひとつの帝国大管区とされた。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* [[オディロ・グロボクニク]]（[[1938年]] - [[1939年]]）&lt;br /&gt;
:* [[ヨーゼフ・ビュルケル]]（[[1939年]] - [[1940年]]）&lt;br /&gt;
:* [[バルドゥール・フォン・シーラッハ]]（[[1940年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チェコ ===&lt;br /&gt;
; ズデーテンラント帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都はライヘンベルク（[[リベレツ]]）に置かれた。[[ミュンヘン会談|ミュンヘン協定]]で[[チェコスロヴァキア]]から[[ナチス・ドイツ]]に割譲された地域の一部である、[[ズデーテン地方|ズデーテンラント]]から構成された。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* [[コンラート・ヘンライン]]（[[1939年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ミュンヘン協定でドイツが得たその他の地域は、それぞれ隣接したバイエリッシュ＝オストマルク大管区（[[1942年]]にバイロイト大管区に名称変更）・上ドナウ帝国大管区・下ドナウ帝国大管区に編入された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、チェコのほかの部分は[[ベーメン・メーレン保護領]]が設置された。また、[[チェコスロヴァキア]]のスロヴァキア地域には、[[独立スロヴァキア]]が建てられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ポーランド ===&lt;br /&gt;
; ヴァルテラント帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都はポーゼン（[[ポズナン]]）に置かれた。当初はポーゼン帝国大管区といった。[[ポズナン]]県、[[ウッチ県]]のほとんど、[[ポモージェ県]]の５つの郡、[[ワルシャワ]]県の1つの郡から成っていた。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* [[アルトゥール・グライザー]]（[[1939年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; ダンツィヒ＝西プロイセン帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都はダンツィヒ（[[グダンスク]]）に置かれた。当初は西プロイセン帝国大管区といった。[[ポモージェ県]]の上記以外の部分が編入された。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* ハンス＝アルベルト・ホーンフェルト、[[1926年]] - [[1928年]]）&lt;br /&gt;
:* ヴァルター・マース、[[1928年]] - [[1930年]]）&lt;br /&gt;
:* [[アルベルト・フォルスター]]（[[1930年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポーランドのカトヴィッツ（[[カトヴィツェ]]）は上シュレージエン大管区に、東プロイセン大管区の隣接地も同様に編入され、残りの部分には[[ポーランド総督府]]が設置された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ルクセンブルク ===&lt;br /&gt;
; モーゼルラント帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都は[[コブレンツ]]に置かれた。1942年に、[[コブレンツ]]＝[[トリーア]]大管区にルクセンブルク民政長官地域を加えて同帝国大管区になった。&lt;br /&gt;
:; 歴代ガウライター&lt;br /&gt;
:* [[グスタフ・ジーモン]]（[[1931年]] - [[1945年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 計画された帝国大管区 ==&lt;br /&gt;
=== ベルギー ===&lt;br /&gt;
[[1940年]]の[[ベルギー]]へのドイツの侵攻後、軍政が敷かれた。[[1944年]]の7月、「大ドイツ」への編入の前段階として、文民による統治が始まった。その年の12月、ベルギーは2つの帝国大管区と直轄市に分割された。しかし、この分割は連合国の前進により、書類上だけのものに終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; フランデレン帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都は[[アントウェルペン]]に置かれる予定であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;bel&amp;quot;&amp;gt;http://www.geocities.com/CapitolHill/Rotunda/2209/Belgium_notes2#1944&amp;lt;/ref&amp;gt;。現在の[[フランデレン地域]]と一致する。初代ガウライターはイェフ・ファン・デ・ヴィーレであった。&lt;br /&gt;
; ワロニア帝国大管区&lt;br /&gt;
: 管区都は[[リエージュ]]に置かれる予定であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;bel&amp;quot; /&amp;gt;。現在の[[ワロン地域]]と一致する。初代ガウライターはレオン・デグレールであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ブリュッセル]]直轄市は[[国家弁務官|帝国委員]]の統治下におかれる予定だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フランス ===&lt;br /&gt;
; ヴェストマルク大管区&lt;br /&gt;
: 1940年に[[ザール]]＝[[プファルツ]]大管区がロートリンゲン民政長官地域の編入を受けてヴェストマルク帝国大管区となり、その管区都は[[ノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセ]]に置かれた。[[1945年]]に管区都を[[ザールブリュッケン]]に移転し、帝国大管区とする計画があった。&lt;br /&gt;
; 上ライン帝国大管区&lt;br /&gt;
: バーデン大管区（管区都：[[カールスルーエ]]）は1940年に[[エルザス民政長官地域]]の編入を受けた。1945年に管区都をシュトラースブルク（{{lang-fr}}[[ストラスブール]]）に移転し、帝国大管区とする計画があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[大管区 (ナチ党)]]&lt;br /&gt;
* [[大管区指導者]]（ガウライター）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ていこくたいかんく}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス・ドイツ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの地方行政区画]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E6%AD%A6%E8%A3%85%E8%A6%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A&amp;diff=228600</id>
		<title>武装親衛隊</title>
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				<updated>2014-05-17T15:09:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: ページの作成：「'''武装親衛隊'''（ぶそうしんえいたい、独：''Waffen-SS''）は、親衛隊の軍事組織。  == 概要 == ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''武装親衛隊'''（ぶそうしんえいたい、[[ドイツ語|独]]：''Waffen-SS''）は、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の[[軍事組織]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[アドルフ・ヒトラー]]が政権奪取後、国家唯一の兵器の保有・携帯を許される組織（Waffenträger der Nation）である[[ドイツ国防軍|陸軍]]の反逆から、あるいは国内の騒擾から自身を守らせるために設けた、陸軍ではなくまた警察でもない、政治的に信頼できる[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]員から成るナチスの武装部隊である。つまり国家の軍隊ではなく、党もしくはヒトラー個人の[[私兵]]である。国防軍とは異なり基本的に志願兵制であったが、後の外国人義勇兵師団や囚人部隊、また初期からある師団でも兵員不足により、半ば強制的に入隊させられる場合もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初、入隊にあたってはヒトラーの[[ゲルマン民族]]に対する[[優生学|優生思想]]や[[ナチズム]]に基づいて隊員が選ばれ、ユダヤ人、ポーランド人などの非ドイツ系民族や容姿の劣る者は入隊をゆるされなかった。親衛隊の指導者である[[ハインリヒ・ヒムラー]]が述べたように、武装親衛隊の第一の目標は、ユダヤ人や、ナチスのイデオロギー上劣っていると見なされていた人種との闘いであった。もっとも、兵員の不足した大戦後半には、当初の理念に反し外国籍のドイツ系兵士や外国人兵士が半分以上を占めるに至った。&lt;br /&gt;
戦後になると、武装親衛隊は[[ホロコースト]]や[[虐殺]]などの[[戦争犯罪]]に携わった犯罪組織であると見なされるようになった。[[ニュルンベルク裁判]]においては武装親衛隊を含む全ての親衛隊組織は犯罪組織であると宣告された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 軌跡 ==&lt;br /&gt;
親衛隊の武装組織の発展は、1933年、[[ヨーゼフ・ディートリッヒ]]が指揮するヒトラー個人の警護部隊「[[第1SS装甲師団|Leibstandarte SS Adolf Hitler]]」に始まり、1935年、[[パウル・ハウサー]]が「[[親衛隊特務部隊]]」の名称で部隊編制を許され、[[テオドール・アイケ]]も強制収容所監視部隊のSS[[親衛隊髑髏部隊|髑髏部隊]]から1939年にSS[[第3SS装甲師団|髑髏師団]]を編制する。しかし、第二国軍への伸張を憂慮する陸軍に配慮して1942年まで軍事予算ではなく、内務省の警察予算で賄われていた。軍事的な発言権を求める[[親衛隊全国指導者]]（親衛隊の長官にあたる）であるヒムラーは、第二次大戦開戦時で僅か三個連隊の親衛隊特務部隊を[[ポーランド電撃戦|ポーランド戦]]に出動させた。フランスに大勝した後、1940年12月に親衛隊の武装部隊は「'''武装親衛隊'''」の統一名称の下に「パレードするだけのアスファルト兵士」から「野戦部隊」として認知された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武装親衛隊は特に[[東ヨーロッパ]]における残虐行為に積極的に関わり、[[ニュルンベルク裁判]]において犯罪組織として断罪されている。そのため戦後、武装親衛隊退役者は国防軍退役者と異なり軍人年金支給等が拒絶されており、ドイツに留まった元武装親衛隊高官らを中心に近年まで「武装親衛隊はあくまでも軍人として行動したのであって、親衛隊とは無関係である」として軍人年金を要求する運動が行なわれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国外から一見すると武装親衛隊の退役者は口をつぐんで、みだりに告白することを避けていることからすでに完全に消滅したものと思われている。しかし元来非常に政治的イデオロギーの強い組織であったため各退役者の政治への関心が強く、[[旧武装親衛隊員相互扶助協会]]（HIAG）などの団体が主宰する催しがドイツ中で行なわれていた。HIAGは1992年に解散したが、それまでは[[連邦憲法擁護庁]]によって監視団体の一つに指定されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 成立に関与した古参党員 ==&lt;br /&gt;
武装親衛隊の成立には、ヒムラーは当然のこととして三人の古参党員がお互いに知らずして関わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゼップ・ディートリヒ ===&lt;br /&gt;
ヒトラーは、政権獲得の1933年に[[親衛隊中将]]の[[ゼップ・ディートリヒ]]に[[総統官邸|首相官邸]]に立哨する衛兵や外国の賓客を迎える[[儀仗兵]]部隊（Stabswache Berlin、ベルリン幹部護衛隊）を編成することを命じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選抜の条件は、政権獲得前から党員で、にわか[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]でなく、身長1.80m以上、年齢25歳以下、健康で、政治的に信頼できる親衛隊員。同年3月17日に選抜された117名が[[ベルリン]]に集められ、ヒトラーにのみ忠誠を誓う特別部隊として訓練が開始された (SS-Sonderkommando Berlin、ベルリンSS特務隊)。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この後、ヒトラーの立つところには、必ず黒色の制服を着た屈強な親衛隊員が見られるようになる。同年9月3日の[[ナチ党大会]]にて同部隊は、Adolf-Hitler-Standarte （アドルフ・ヒトラー・シュタンダルテ）、 同年11月9日の[[ミュンヘン一揆]]10周年記念式典で Leibstandarte Adolf Hitler （ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー, 略号：LAH）、翌年1934年4月13日に最終的に Leibstandarte SS Adolf Hitler （ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー,略号：LSSAH）と命名され、ヒトラーの名を冠した別格の[[近衛兵|近衛部隊]]と広く認知される。このエリート部隊は総統官邸の衛兵 (Wach-bataillon Berlin) から始まり、1939年に自動車化歩兵連隊となり、1942年SS装甲擲弾兵師団 LSSAHに格上げされ、1943年には武装親衛隊の中でも最強と言われる[[第1SS装甲師団|第1SS装甲師団 LSSAH]]へ発展する。連隊時代の LSSAH は、[[ラインラント進駐]]、[[アンシュルス|オーストリア併合]]、ポーランド戦、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス戦]]において[[機械化歩兵|自動車化]]された利点を発揮して目覚ましい働きを見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 名称 ====&lt;br /&gt;
Leibstandarte の「Leib」とは身体、個人を意味し、同様な用法として「Leibarzt」、「Leibwache」がある。それぞれ「専属医師」「専属ボディーガード」と訳せる。本当に身近な存在を意味する。Standarte はナチ党の編制単位である。例えば、SS-Standarte、SA-Standarte と用いられる。連隊相当の兵力規模であるが、陸軍の用語で、またフランス語からの借用語である「Regiment」を避けている。ドイツ語の持つこのあたりのニュアンスは薄れるが、敢えて'''Leibstandarte''' を訳せば、ヒトラー個人のためのシュタンダルテとなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''Standarte''' は他に方形の小さな[[軍旗|旗章]]を指す。このことから誤って「親衛旗」と訳される場合がある。ナチ党大会で旗手が垂直に捧げ持つ70cm 四方の '''Deutschland erwache''' と刺繍された赤い布地の[[軍旗|旗章]]である。特徴は黄金の鷹が[[ハーケンクロイツ|鉤十字]]を掴む造形が頭頂部に施されている。同様な旗章は[[突撃隊]]も保持する。違いは、[[銘板]]の色が親衛隊は黒色、突撃隊は赤色である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ヒトラー警護部隊 ====&lt;br /&gt;
ヒトラー個人を警護する部隊としては他に次のものが設けられた。&lt;br /&gt;
# SS-Begleitkommando des F&amp;amp;uuml;hrers（[[ベルクホーフ]]や[[ヴォルフスシャンツェ]]をヒトラーが飛び回る時に車列を連ねて随行する部隊、1932年創設）&lt;br /&gt;
# [[RSD|Reichssicherheitsdienst]] （刑事警察出身の親衛隊員から成る警護隊、1935年創設）&lt;br /&gt;
# Wachregiment (Heer) （陸軍の衛兵部隊）&amp;lt;!--FBBでは？--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベルリンの[[総統官邸]]の警備は Wachbataillon Berlin、Reichssicherheitsdienst、Wachregiment (Heer) が出入口と区域を分担した。&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;clear:both&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== パウル・ハウサー ===&lt;br /&gt;
1935年にヒトラーは、陸軍から独立した自由裁量で運用できる武装組織である[[親衛隊特務部隊]]の編成を陸軍に認めさせる。1936年に退役[[陸軍中将]][[パウル・ハウサー]]が親衛隊特務部隊総監 (Inspekteur der SS-Verf&amp;amp;uuml;gungstruppen) に任じられ、彼は指揮官不足を解消するために親衛隊独自の[[陸軍士官学校|士官学校]] (Junkerschule Bad T&amp;amp;ouml;lz) を設ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、ナチ党政権への移行の政治的不安定な時期に対処できるように主要都市に設けられた党の治安部隊(Politische Bereitschaften) を整理、親衛隊特務部隊として[[ミュンヘン]]に ドイチュラント[[連隊]] (SS-Standarte Deutschland)、[[ハンブルク]]にゲルマニア連隊 (SS-Standarte Germania) を編成した。1938年には併合された[[オーストリア]]の[[ウィーン]]からデァ・フューラー連隊 (SS-Standarte Der F&amp;amp;uuml;hrer) が加わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大戦とともにフランス国境防衛の予備軍として配置されたデァ・フューラー連隊を除く、親衛隊特務部隊はポーランド戦に出陣した。ポーランド戦後の1939年10月にこれら三個の親衛隊特務部隊が統合され、[[第2SS装甲師団|SS特務師団]]が編成され、フランス戦に活躍した。この師団から後にゲルマニア連隊が引き抜かれ、これを核に新しく[[第5SS装甲師団|ヴィーキング師団]]が編制された。このようにSS特務師団は武装親衛隊の幹となって、次々と枝葉を広げたと自負している (Stammdivision der Waffen-SS)。自身も最終的には第2SS装甲師団 ダス・ライヒにまで発展した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テオドール・アイケ ===&lt;br /&gt;
政権獲得後に反体制派を収容する[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]が数多く建てられ、[[テオドール・アイケ]]は、1933年に収容所監視する[[SS髑髏部隊]]（SS-Totenkopfverb&amp;amp;auml;nde, 略号：SS-TV）を立ち上げる（Inspekteur der Konzentrationslager und Leiter der SS-Totenkopfverb&amp;amp;auml;nde, 強制収容所総監兼SS髑髏部隊指揮官）。彼は、新天地を求め、SS髑髏部隊出身者から志願者を募り、[[第3SS装甲師団|SS髑髏師団]]を指揮し、フランス戦を皮切りに各地を転戦する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は東部戦線の[[デミャンスク包囲戦]]で凄まじいまでの活躍を見せる。友軍から切り離され補給は空輸のみ、という状況にもかかわらずアイケと髑髏師団は僅か1個師団の戦力で度重なるソ連軍の攻撃を跳ね返して[[デミャンスク]]を見事守りきる事に成功する。アイケは柏葉騎士鉄十字章を与えられ、デミャンスク防衛に参加した将兵全員にデミャンスク防衛章を与えられる。だが1943年2月にアイケは行方不明になった部隊を捜索中に乗機が撃墜され、戦死する。&amp;lt;!--丸々の盗作である：もし戦後まで生きていたら他の重鎮2名とは違い強制収容所における人道に対する罪で訴追された可能性が高いので、ある意味幸せな終わりだったのかもしれない。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 警察師団 ===&lt;br /&gt;
親衛隊員ではない一般警察官の[[秩序警察]]からも志願者が募られ、1939年9月18日警察師団 (Polizei-Division) が編成され、翌年のフランス戦に出撃した。[[第4SS警察装甲擲弾兵師団|警察師団]]の武装親衛隊への正式な編入は少し遅れて1942年のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
LSSAH、SS髑髏師団、SS特務師団はフランス戦の試練に耐えて、1940年12月に「武装親衛隊」という統一名称が与えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 志願兵制 ==&lt;br /&gt;
武装親衛隊は兵員の充足については苦労があった。義務[[兵役]]年齢に達した青年男子は居住する[[軍管区]]に登録され、一定の比率で陸、海、空の国防三軍に配分されるが、武装親衛隊には徴兵による補充はなく、[[志願兵|志願制]]であったので、「満17歳になったら、武装親衛隊へ志願しよう !」のポスターで募集活動する必要があった。初期においては外見や血統、体力や政治的な信条で入隊の可否を決めており、出身階層や学歴は考慮されていなかった。このため戦前に入隊したSS士官候補生のうち、実に4割が小学校レベルの学校教育しか受けていない者たちであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武装親衛隊の[[軍服|制服]]は格好が良いと若者に評判で、また武装親衛隊の入隊期間が義務兵役年限に算入されるので、武装親衛隊に志願する若者が多くいた。[[ノーベル文学賞]]作家[[ギュンター・グラス]]は1944年当時17歳で志願し[[第10SS装甲師団]]の戦車兵として本土防衛戦を戦ったと告白して世間の耳目を集めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
志願兵制はしばしば陸軍の徴兵部門との軋轢を起こした。このため、親衛隊は血統基準などの条件を緩和し、問題を起こさないと見られる外国籍のドイツ人、ゲルマン系のオランダ人、デンマーク人、ベルギー人、ノルウェー人に始まり、非ゲルマン系のフランス人、スラブ人、[[イスラム教徒]]までも対象を拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
90万人以上と言われる武装親衛隊の総兵力の60%は[[外国人部隊]]であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのような状況であったにもかかわらず「武装親衛隊神話」が実しやかに語り続けられるのは、旺盛な敢闘精神を示すべき政治的兵士として優先的に新兵器の供給を受けて戦った、精強な一握りの「エリート部隊」が超人的といっても過言ではない戦いぶりを示した故である。また師団長以上の将官の戦死者が36名（ほぼ1師団あたり1名）と、兵と共に前線にあった者が多かったことが伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば[[第12SS装甲師団|第12SS装甲師団 ヒトラーユーゲント]]は下級兵士の大半が未成年で、しかもこれが初陣であるにもかかわらず、カナダ軍の猛攻からカーンの町を2ヵ月以上死守し、一気にノルマンディーから内陸に侵攻する予定だった連合軍は、その計画を大きく修正する事を余儀なくされている。しかし、その一連の戦いで同師団は戦死者約4000名、戦傷病者約8000名、初代師団長が戦死、二代目も捕虜になるという大損害を被っている。武装親衛隊における1個師団の兵員数が通常1万4000名から1万6000名であるということを考えると、これを構成する将兵のほとんどが死傷するという凄まじいものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[ベルリンの戦い]]で最後まで国会議事堂に立て篭もって戦った部隊は[[第11SS義勇装甲擲弾兵師団|ノルトラント師団]]やフランス人の義勇兵達だった。最後まで戦い抜いた理由の一部は彼らが勇敢だったからだけではなくここで降伏しても故国に送還されて[[売国奴|反逆者]]として処刑されるという絶望感もあったのではないかと思われる。実際外国人義勇兵の多くは戦後祖国で冷たく扱われ、裁判にかけられた。自由フランス軍に引き渡された義勇兵のように処刑された将兵も少なくない&amp;lt;!--[[第21SS武装山岳師団]]を指揮したアウグスト・シュミットヒューバーSS上級大佐は戦後ユーゴスラヴィア当局に引き渡され処刑されている。彼はドイツ人では？--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 有名な武装親衛隊隊員 ==&lt;br /&gt;
* [[クルト・マイヤー]]…パンツァー・マイヤーの異名で知られる戦車兵指揮官。第12SS装甲師団長。[[親衛隊少将]]。&lt;br /&gt;
* [[ヨアヒム・パイパー]]…第1SS装甲師団隷下にあるパイパー戦闘団の指揮官。[[親衛隊大佐]]。&lt;br /&gt;
* [[ヨハネス・ミューレンカンプ]]…[[第5SS装甲師団|第5SS装甲師団「ヴィーキング」]]の戦車隊司令官。[[親衛隊大佐]]。&lt;br /&gt;
* [[ミハエル・ヴィットマン]]…第1SS装甲師団（後に[[SS第101重戦車大隊]]へ異動）所属の戦車兵。[[親衛隊大尉]]。&lt;br /&gt;
* [[エルンスト・バルクマン]]…第2SS装甲師団所属の戦車兵。[[親衛隊曹長]]。&lt;br /&gt;
* [[エルンスト＝ギュンター・シェンク]]…[[軍医]]。ヒトラーの内科主治医。[[親衛隊大佐]]。&lt;br /&gt;
* [[アルトゥーレ・シルガイリス]]…ラトビア人義勇兵部隊指揮官。[[親衛隊上級大佐]]。&lt;br /&gt;
* [[オットー・スコルツェニー]]…コマンド部隊の指揮官。[[ベニート・ムッソリーニ]]救出などで活躍。[[親衛隊大佐]]。&lt;br /&gt;
* [[ルドルフ・バンゲルスキス]]…ドイツへ亡命した[[白系ロシア人]]。ラトビア人義勇兵部隊指揮官。[[親衛隊中将]]。&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・フェーゲライン]]…[[エヴァ・ブラウン]]の妹の夫。[[第8SS騎兵師団]]長。[[親衛隊大将]]。&lt;br /&gt;
* [[オスカール・ディルレヴァンガー]]…武装親衛隊の面汚しと謳われた囚人部隊ディルレヴァンガー旅団（後に[[第36SS武装擲弾兵師団]]として再編）の指揮官。[[親衛隊准将]]。&lt;br /&gt;
* [[ギュンター・グラス]]…ノーベル賞受賞作家。[[第10SS装甲師団]]所属の戦車兵であったことを2006年に告白し、ドイツ国内やポーランドにて強い批判を受けた。&lt;br /&gt;
* ハインリヒ・ボーレ…オランダ系ドイツ人。武装親衛隊に志願し、オランダ人レジスタンス殺害に関与。2010年3月、ドイツの裁判所で終身刑の判決を言い渡された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
{{commons|Category:Waffen-SS}}&lt;br /&gt;
; 通史&lt;br /&gt;
* George H.Stein ''The Waffen SS,Hitler's Elite Guard at War 1939-1945'',Cornell University Press, 1967&lt;br /&gt;
** 上記著作の翻訳『武装SS興亡史 &amp;lt;small&amp;gt;ヒトラーのエリート護衛部隊の実像1939-45&amp;lt;/small&amp;gt;』吉本貴美子（訳）、学習研究社、ISBN 4-05-401318-X、2005年&lt;br /&gt;
* 芝健介『武装SS &amp;lt;small&amp;gt;もう一つの暴力装置&amp;lt;/small&amp;gt;』講談社、ISBN 4-06-258039-X、1995年&lt;br /&gt;
* 渡部義之（Pictorials）『武装SS全史 I （1933-1942）』学習研究社、ISBN 4-05-602642-4,2001年&lt;br /&gt;
* 渡部義之（Pictorials）『武装SS全史 II （1942-1945）』学習研究社、ISBN 4-05-602643-2,2001年&lt;br /&gt;
; 部隊史&lt;br /&gt;
* Otto Weidinger（第2SS装甲師団ダス・ライヒ） ''Division das Reich'', Bände I,II,III,IV, Munin Verlag, 1967&lt;br /&gt;
* Bundesverband der Soldaten der ehemaligen Waffen-SS e.V. 編、（Pictorials） ''Wenn alle Brüder schweigen, Großer Bildband über die Waffen-SS'', Munin Verlag, ISBN 3-921242-5, 1981&lt;br /&gt;
* Rudolf Lehmann（第1SS装甲師団 LSSAH） ''Die Leibstandarte'', Bände I,II,III,IV/1,IV/2, Verlag K.W.Schütz, ISBN 3-87725-129-3, 1993&lt;br /&gt;
* Herbert Meyer（第12SS装甲師団ヒトラー・ユーゲント） 『ヒトラー・ユーゲント &amp;lt;small&amp;gt;SS第12戦車師団史（全2巻）&amp;lt;/small&amp;gt;』向井祐子（訳）、大日本絵画、ISBN 4-499-22678-3、1998年&lt;br /&gt;
* James Lucas（第2SS装甲師団ダス・ライヒ） ''Das Reich, the military role of the 2nd SS division'', Cassel &amp;amp; Co, ISBN 0-304-35199-7, 1999&lt;br /&gt;
* Kurt Meyer（第1SS装甲師団 LSSAH）『擲弾兵 &amp;lt;small&amp;gt;パンツァー・マイヤー戦記&amp;lt;/small&amp;gt;』学習研究社、ISBN 4-05-400984-0,2000年&lt;br /&gt;
* ルパート・バトラー（第5SS装甲師団ヴィーキング）『SS-Wiking &amp;lt;small&amp;gt;第5SS師団の歴史1941-45&amp;lt;/small&amp;gt;』戸嶋芳美 他（訳）、リイド社、2007年、ISBN 4-8458-3308-5&lt;br /&gt;
* クリス・マン（第3SS装甲師団トーテンコプフ）『SS-Totenkopf &amp;lt;small&amp;gt;ヒトラーのエリート親衛隊、トーテンコープフの真実&amp;lt;/small&amp;gt;』小野寺英機（訳）、リイド社、2006年、ISBN 4-8458-3305-0&lt;br /&gt;
; 制服&lt;br /&gt;
* Walther-Karl Holzmann（Pictorials） ''Manual of the Waffen-SS'', Bellona Publications, 1976&lt;br /&gt;
* Francis CATELLA（Pictorials） ''Le N.S.D.A.P. Uniformologie &amp;amp; Organigramme'', ISBN 2-9501712-1-4, 1987&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ナチス・ドイツの軍事]]&lt;br /&gt;
* [[ナチズム]]&lt;br /&gt;
* [[一般親衛隊]]&lt;br /&gt;
* [[旧武装親衛隊員相互扶助協会]]&lt;br /&gt;
* [[近衛兵]]&lt;br /&gt;
* [[制服 (ナチス親衛隊)]]&lt;br /&gt;
* [[武装親衛隊の編成]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{武装親衛隊師団}}&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;br /&gt;
{{ナチス・ドイツ}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふそうしんえいたい}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ武装親衛隊|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス親衛隊|*ふそう]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス・ドイツの軍事]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの軍事|ふそうしんえいたい]]&lt;br /&gt;
[[Category:各国の陸軍|といつなちす]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%99%E3%81%8E%E3%82%8B%E6%BC%A2%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7&amp;diff=228577</id>
		<title>カワイすぎる漢の一覧</title>
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				<updated>2014-05-17T06:11:59Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''カワイすぎる漢の一覧'''（かわいすぎるおとこのいちらん）は、カワイイ容姿や生き様の男の一覧である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== あ行 ==&lt;br /&gt;
* [[マックス・アマン]]&lt;br /&gt;
* [[フリッツ・ヴィーデマン]]&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
== か行 ==&lt;br /&gt;
* [[ヘルマン・ゲーリング]]&lt;br /&gt;
* [[ヨーゼフ・ゲッベルス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== さ行 ==&lt;br /&gt;
* [[ユリウス・シャウブ]]&lt;br /&gt;
* [[フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== た行 ==&lt;br /&gt;
* [[泊優稀撲滅委員会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== な行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== は行 ==&lt;br /&gt;
* [[フランツ・フォン・パーペン]]&lt;br /&gt;
* [[アドルフ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[アロイス・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
* [[ハインリヒ・ヒムラー]]&lt;br /&gt;
* [[ヴァルター・ブーフ]]&lt;br /&gt;
* [[ヴィルヘルム・ブリュックナー]]&lt;br /&gt;
* [[ルドルフ・ヘス]]&lt;br /&gt;
* [[フリードリヒ・ホスバッハ]]&lt;br /&gt;
* [[マルティン・ボルマン]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ま行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== や行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ら行 ==&lt;br /&gt;
* [[エルンスト・レーム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== わ行 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる漢の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カッコ良すぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[カワイすぎる姐の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソジジイの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[クソジジイ殿堂入りの一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{勇者}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:かわいすきるおとこのいちらん}}&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:一覧|かわいすきるおとこ]]&lt;br /&gt;
[[Category:イケメン]]&lt;br /&gt;
[[Category:勇者]]&lt;br /&gt;
[[Category:神]]&lt;br /&gt;
[[Category:天才]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F&amp;diff=228576</id>
		<title>フリードリヒ・ホスバッハ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F&amp;diff=228576"/>
				<updated>2014-05-17T06:08:11Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 外部リンク */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・ホスバッハ'''（Friedrich Wilhelm Ludwig Hoßbach、[[1894年]][[11月21日]] - [[1980年]][[9月10日]]）は[[第二次世界大戦]]時の[[ドイツ国防軍]]の軍人。陸軍歩兵[[大将]]。[[第4軍 (ドイツ軍)|第4軍]]司令官。[[1934年]]から[[1938年]]まで、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の[[総統]]付高級[[副官]]を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
ホスバッハは1894年、現在の[[ノルトライン＝ヴェストファーレン州]]の[[ウンナ]]に生まれた。陸軍士官学校卒業後、1913年に[[ドイツ帝国]]陸軍に入営。[[第一次世界大戦]]では[[参謀]]将校として[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]で戦った。戦後は国防省に入り、参謀本部で中央課長を務めていた。1934年、現職のまま総統付副官となり、ヒトラーの側近く仕えるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホスバッハは典型的な[[プロシア]]軍人であり、国防軍将校団の信頼も厚かった。しかし1938年に起った[[ブロンベルク罷免事件]]では、陸軍総司令官の[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ|フリッチュ]][[上級大将]]を弁護してヒトラーに反抗する。そのため総統付副官の職を解かれ、参謀本部へ戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 第二次世界大戦 ===&lt;br /&gt;
第82[[歩兵連隊]]連隊長として[[第二次世界大戦]]を迎え、1940年10月、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|対仏戦]]の戦功で[[騎士鉄十字章]]を受章した。その後は第31歩兵師団長などを歴任し、主に[[独ソ戦|東部戦線]]で戦う。1942年11月には陸軍中将、1943年11月には歩兵大将に昇進し、1943年9月には柏葉付騎士鉄十字章を受章した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1943年8月から第56装甲軍団司令官を務める。しかしソ連軍の反攻が始まると、ドイツ軍は徐々に押された。[[1944年]]の[[バグラチオン作戦]]による大敗の後、[[1944年]][[7月18日]]には[[北方軍集団]]指揮下の第4軍司令官に任命された。しかし[[1945年]][[1月]]になると、第4軍は[[東プロイセン]]で第3装甲軍とともにソ連軍に包囲されて孤立してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホスバッハと第3装甲軍司令官[[エアハルト・ラウス|ラウス]]大将は共同して北方軍集団司令官[[ゲオルク＝ハンス・ラインハルト]]上級大将に対し、「軍を撤退させ戦線を収縮するべき」と進言した。この時、ホスバッハは「我々には総統の幻想と現実との間に身を置く余裕は残されていない」と述べている。ラインハルト大将は同意し、ヒトラーに撤退の許可を求めた。しかし東プロイセンはドイツの本領であり、また多くのドイツ人市民が残されていたこともあって拒否された。ホスバッハは独断で第4軍の退却を開始し、東プロイセンは放棄された。ラインハルトはこの退却を追認したが、ヒトラーは激怒した。ホスバッハは[[1月29日]]付けでラインハルト共々解任された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
解任後、ホスバッハはゲッティンゲンで療養に当たっていたが、友人から[[ゲシュタポ]]による逮捕の手が迫っていると警告されていた。[[4月7日]]、ついにゲシュタポが彼の家を訪れた。彼はピストルを放つなどして抵抗していたが、1時間後にはアメリカ軍がゲッティンゲンに進駐。そのままアメリカ軍に保護された。[[1947年]]まで彼は捕虜として扱われていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ホスバッハ・メモランダム ==&lt;br /&gt;
{{Main|ホスバッハ覚書}}&lt;br /&gt;
ホスバッハが総統副官時代に残した記録がホスバッハ・メモランダムである（ホスバッハ覚書とも呼ばれる）。特に1937年11月5日午後4時15分から行われた会議の記録は、[[ニュルンベルク裁判]]でもヒトラーによる侵略戦争計画の重要な証拠として採用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1937年11月5日会議の記録 ===&lt;br /&gt;
==== 概要 ====&lt;br /&gt;
この会議はブロンベルクが物資配分の調整を目的に開催を要望したものだったが、ヒトラーは時に反抗的な態度を見せるフリッチュを牽制する目的で会議を開催させた。会議の最初にヒトラーは「私が死んだ場合は遺言と見なしてほしい」と述べ、[[生存圏]]確保のための戦争計画を発表した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 主要な参加者 ====&lt;br /&gt;
アドルフ・ヒトラー、[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]]、ヴェルナー・フォン・フリッチュ、[[エーリヒ・レーダー]]、[[ヘルマン・ゲーリング]]、[[コンスタンティン・フォン・ノイラート]]（外相）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 計画の要旨 ====&lt;br /&gt;
* 8500万を超えるドイツ国民の生存のためには、食糧と資源が必要であり、領土拡張の必要がある。&lt;br /&gt;
* しかし、海は[[イギリス]]に押さえられているので、ヨーロッパに土地を求めなくてはならない。&lt;br /&gt;
* ドイツが打倒する目標はまず[[チェコスロバキア]]と[[オーストリア]]である。&lt;br /&gt;
* その開戦の時期は次の三つの時期が選ばれる。&lt;br /&gt;
:# 1945年以降には他国の軍備が整うと見られるので、1943年から1945年の間に開戦する。&lt;br /&gt;
:# [[フランス]]が内紛により、対独戦力を失った時。&lt;br /&gt;
:# フランスが他国との戦争により、対独戦力を失った時。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* フランスが戦うとすれば、相手は[[イタリア]]である。現在の[[スペイン内戦]]が続き、イタリアの[[地中海]]進出が継続されれば、イタリアと英仏の戦争が発生する。その時期は決定的に近い未来であり、早ければ1938年にも起りうる。&lt;br /&gt;
* ドイツがチェコ・オーストリアを攻撃しても、[[ポーランド]]はソ連、ソ連は[[日本]]を警戒し介入しない。&lt;br /&gt;
* しかし、チェコに対する攻撃は「電撃的」に行われなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 反応 ====&lt;br /&gt;
ブロンベルクとフリッチュは、ドイツ軍の軍備がまだ整っていないと述べ、また、フランスはイタリアと同時にドイツと戦う能力があるとして分析に異を唱えた。また、ブロンベルクはチェコの防衛線は[[マジノ線]]並に強固であり、突破は困難であるとした。レーダーも海軍には戦艦が存在しない現状で戦争は出来ないと後に述べている。ノイラートも早い時期での英仏との衝突は考えられないとし、ニュルンベルク裁判では「私の外交政策を根底から覆すものであった」と当時の衝撃を述べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヒトラーは軍の反抗姿勢に不快感を示し、後に[[ブロンベルク罷免事件]]による軍の粛清に乗り出すことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連文献 ==&lt;br /&gt;
* ワルター・ホーファー編（救仁郷繁訳）『ナチス・ドキュメント――1933-1945年』（論争社, 1960年／ぺりかん社, 1969年）&lt;br /&gt;
: ナチス政権の原資料を抜粋・編集したもの。「ホスバッハ覚書」の原文が日本語で参照できる。&lt;br /&gt;
* Dankwart Kluge, ''Das Hossbach-&amp;quot;Protokoll&amp;quot;: die Zerstorung einer Legende'' (Leoni am Starnberger See: Druffel-Verlag, 1980).&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://ci.nii.ac.jp/naid/110007000946/ 1937年11月5日の「総統官邸」における秘密会議 : ヒトラー政権下の軍備問題をめぐって] [[目白大学]]教授[[堀内直哉]]論文&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ほすはつは ふりーとりひ}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヴァイマル共和国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:騎士鉄十字章受章者]]&lt;br /&gt;
[[Category:捕虜となった人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニュルンベルク裁判]]&lt;br /&gt;
[[Category:ノルトライン＝ヴェストファーレン州出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1890年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1980年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%83%96&amp;diff=228575</id>
		<title>ユリウス・シャウブ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 参考文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ユリウス・シャウプ'''（Julius Schaub、[[1898年]][[8月20日]]-[[1967年]][[12月27日]]）は、[[ドイツ]]の政治家。[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]の副官長を務めた人物。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[バイエルン王国]][[ミュンヘン]]出身。ミュンヘンの[[薬剤師]]になり、[[第一次世界大戦]]中には軍事病院に勤務した。[[1920年]]に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]に入党（党員番号81）。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の前身である「アドルフ・ヒトラー衝撃隊 (Stoßtrupps Adolf Hitler)」に入隊。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ミュンヘン一揆]]の後、[[アドルフ・ヒトラー]]とともに投獄された。そしてまもなくヒトラーの側近となっていった。最終的にはヒトラーの副官の中で副官長[[ヴィルヘルム・ブリュックナー]]に次ぐナンバーツーの座を確立した。1940年にブリュックナーが失脚した後には代わって総統副官長となり、[[第二次世界大戦]]の敗戦までその地位を保持した。親衛隊の隊員でもあり、親衛隊における最終階級は[[親衛隊大将]]。親衛隊の隊員番号7番の人物であった。敗戦直前には[[ミュンヘン]]や[[ベルヒテスガーデン]]に派遣され、ヒトラーの書類を処分する任にあたっていた。同地で[[アメリカ軍]]に拘束された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後は薬剤師に戻った。1967年にミュンヘンで死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* Charles Hamilton著『LEADERS &amp;amp; PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』p168　ISBN 0912138270&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:しやうふゆりうす}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの薬剤師]]&lt;br /&gt;
[[Category:1898年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1967年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<title>ヴィルヘルム・ブリュックナー</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 参考文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ヴィルヘルム・ブリュックナー'''（Wilhelm Brückner、[[1884年]][[12月11日]]‐[[1954年]][[8月18日]]）は[[ドイツ]]の政治家[[アドルフ・ヒトラー]]の副官。[[突撃隊]]（SA）の将軍。突撃隊における最終階級は[[突撃隊大将]]（SA-Obergruppenführer）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[バーデン＝バーデン]]出身。大学に通っていた頃、[[第一次世界大戦]]が勃発し、バイエルン砲兵連隊に入隊した。中尉（Oberleutnant）まで昇進。戦後には[[ドイツ義勇軍|義勇軍]]「エップ」に入隊してミュンヘンのレーテ共和国の打倒に参加した。その後、大学に入りなおし、フィルム技師となった。1922年に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）に入党した。1923年11月の[[ミュンヘン一揆]]の際には突撃隊連隊「ミュンヘン」を指揮して参加した。警察・司法当局から一揆の大物とみなされ、一揆の失敗後にはヒトラーや[[エーリヒ・ルーデンドルフ]]将軍とともに共同被告人となった。ブリュックナーは1年半の懲役を受けたが、投獄後すぐに仮釈放されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナチ党再建後に再び入党したが、ヒトラーとの意見の不一致で1925年5月1日に党を離れた。しかし1930年9月1日には再入党した。そしてヒトラーの副官となった。さらに1934年2月20日、ヒトラーの副官長に任命された。ところが1940年にヒトラーの決定で副官長の職を取り上げられた。この原因はイタリア王太子のオーバーザルツベルクへの訪問に際してヒトラーの山荘管理人である[[アルトゥール・カンネンベルク]]が[[マックス・ヴュンシェ]]（[[:en:Max Wünsche]]）以下、数名の総統護衛隊の親衛隊将校の対応がなっていなかったと抗議。ヒトラーがこれに同意し、ヴュンシェを「[[第1SS装甲師団|ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー]]」に戻すよう命じた。しかしブリュックナーはヴュンシェをかばい、カンネンベルクを批判した。これにヒトラーが怒り、ブリュックナーも総統の側近くからはずされたのであった。なお正式な副官長職解任は1941年4月1日であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後は陸軍に入隊し、大尉（のちに陸軍大佐まで昇進）としてドイツ占領下[[フランス]]で勤務した。戦後は[[ガソリンスタンド]]を経営した。1954年8月20日にヘルプスドルフ (Herbsdorf) で死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* Charles Hamilton著「LEADERS ＆ PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1」p140　ISBN 0912138270&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふりゆくなういるへるむ}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦後ドイツ義勇軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:突撃隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国の軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:バーデン＝バーデン出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1884年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1954年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>フリッツ・ヴィーデマン</title>
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				<updated>2014-05-17T06:05:37Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 脚注 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''フリッツ・ヴィーデマン'''（Fritz Wiedemann、 [[1891年]][[8月16日]] - [[1970年]][[1月17日]]）は、[[ドイツ]]の軍人。[[第一次世界大戦]]時[[アドルフ・ヒトラー]]の上官となり、[[ナチス・ドイツ]]時代はヒトラーの[[副官]]を務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[1891年]][[8月16日]][[アウクスブルク]]で生まれ。[[1910年]]に[[ギムナジウム|高校]]を卒業すると、[[バイエルン王国|バイエルン]]陸軍の[[士官候補生]]となった。[[1912年]]には[[中尉]]に昇進している。しかし第一次世界大戦勃発の直前に事故にあったため、前線での任務につけないまま[[1915年]][[10月]]、バイエルン予備[[歩兵]]第16[[連隊]]の[[副官]]となった。この連隊にはヒトラーと、後に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]の出版[[全国指導者]]となる[[マックス・アマン]]も所属しており、相互に面識を持っていた。ヴィーデマンはこの時のヒトラーを「口ひげが将校らしくない」など[[将校]]にはふさわしくない資質が目立ち、「指揮官としての能力が欠如していた」と評している&amp;lt;ref&amp;gt;児島、第1巻、14P&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦争が終わるとヴィーデマンは除隊し、アルゴイ地方 ([[:de:Allgäu|Allgäu]])で[[酪農]]の仕事に従事した。その後[[ポストミュンスター]]（[[:en:Postmünster|en]]）で酪農事業を興した。[[1921年]]、ヴィーデマンは戦友会の会合でヒトラーと偶然再会し、[[突撃隊]]の隊長になるように要請されたが、この時は断っている。しかしやがて事業に行き詰まり、[[1933年]]にはアマンを通じてヒトラーの援助を求めた。ヒトラーはこれに応じ、この年の終わりにヴィーデマンは[[ルドルフ・ヘス]]の副官の一人となった。[[1934年]][[2月]]には新規入党禁止措置が敷かれているにも関わらず、特例として[[ナチ党]]に入党している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1935年]][[1月]]、ヴィーデマンは[[国家社会主義自動車軍団]]の[[親衛隊少将|少将]]になり、さらにヒトラーの副官に就任した。彼には事業で培った[[経済]]知識があったため、副官の中でも重要な存在となっていった。1938年には[[国会 (ドイツ)|帝国議会]]の議員となっている。[[1938年]]の[[オーストリア]]併合（[[アンシュルス]]）では[[イギリス]]の諒解を取り付けるために、[[エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵)|ハリファクス]]外相と会談し、重要な役割を果たした。この年の[[5月]]にヒトラーは[[遺言書]]を作成し、自分の死後もヴィーデマンに対して「党が厚意を示してくれる」ことを望む旨を記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、実際にはこれらの時期を通じてヴィーデマンはヒトラーと一定の距離を取っていた。彼は『超悲観主義者』であり、ヒトラーの冒険的な政策に常に懐疑的な姿勢を保っていた。やがてヴィーデマンとヒトラーとの対立は深まり、[[1939年]]1月に副官を解任され、[[サンフランシスコ]]の[[総領事]]に左遷された。[[1941年]][[7月]]に[[アメリカ]]政府の命令ですべてのドイツ[[領事館]]が閉鎖されると、ヴィーデマンは[[中国]]に渡り、[[11月]]に[[天津]]の総領事となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
終戦までヴィーデマンは中国におり、[[第二次世界大戦|戦争]]にはほとんど関与しなかった。終戦後の[[1945年]][[9月]]に逮捕され、[[ワシントンD.C.]]ついで[[ニュルンベルク]]に送られた。[[10月5日]]には[[ニュルンベルク裁判]]で[[証人]]として出廷している。結局法廷からは何ら罪に問われることなく1948年5月に釈放された。ポストミュンスターに帰ったヴィーデマンは1970年に死亡するまで[[農業]]を営んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は著書において、[[チェコスロバキア併合]]などの政治的事件や[[T4作戦]]のようなナチス・ドイツの犯罪行為に関する数々の証言を記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
* Der Mann, der Feldherr werden wollte （1964年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[児島襄]]『第二次世界大戦　ヒトラーの戦い』（文春文庫）全10巻 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ういーてまん ふりつ}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの外交官]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:アドルフ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
[[Category:ニュルンベルク裁判]]&lt;br /&gt;
[[Category:アウクスブルク出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1891年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1970年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC&amp;diff=228571</id>
		<title>アロイス・ヒトラー</title>
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				<updated>2014-05-17T06:05:01Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 参考文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''アロイス・ヒトラー'''（Alois Hitler, [[1837年]][[6月7日]] – [[1903年]][[1月3日]]）は、[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]の[[税関職員]]。[[アドルフ・ヒトラー]]の父として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
1837年、アロイス・ヒトラーはシュトローネス村で[[マリア・アンナ・シックルグルーバー]]の[[私生児]]として生まれた。[[1842年]]、母親が粉ひき職人の[[ヨハン・ゲオルク・ヒードラー]]と結婚すると、[[デラースハイム]]近郊にあるヨハン・ゲオルクの弟[[ヨハン・ネポムク・ヒードラー]]の家に引き取られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1851年]]、小学校を卒業したアロイスは[[ウイーン]]で靴職人の徒弟奉公を始めた。17歳の時には職人試験に合格したが、なおも独学で勉強を続けた。[[1855年]]には[[オーストリア帝国]]大蔵省の守衛となった。[[1868年]]には雇人の立場から正式な官吏となり、出世を続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1873年]]、アロイスは最初の結婚をした。相手はアロイスより14歳上のアンナ・グラスルという女性で当時50歳であった。[[1876年]]、彼の養父であるヨハン・ネポムクによって、アロイスは継父ヨハン・ゲオルクの嫡出子として認知され、シックルグルーバー姓から呼びやすい「ヒトラー」に姓を改めた。この時、ヨハン・ネポムクの孫娘[[クララ・ヒトラー|クララ・ペルツル]]と出会い、病気がちの妻の面倒を見るために家に住み込ませた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1880年]]にアロイスはアンナ・グラスルと事実上離婚したが、カトリック法の規定により正式には離婚出来なかった。アロイスはその少し前からフランツェスカ・マツェルスベルガーという19歳のウエイトレスと関係を持っており、[[1882年]]には二人の子[[アロイス・ヒトラー (息子)|アロイス]]が生まれている。[[1883年]]にアンナ・グラスルが死亡すると、アロイスとフランツェスカは正式に結婚した。この年には娘の[[アンゲラ・ヒトラー|アンゲラ]]が生まれている。しかしフランツェスカは身体を壊して転地療養し、翌[[1884年]]に死亡した。この頃からクララはフランツェスカにかわってヒトラー家の家政を見ていたが、やがてアロイスと関係を持ち、妊娠した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時のカトリック法の規則では、ヨハン・ゲオルクの子として認知されたアロイスと、その弟ヨハン・ネポムクの孫娘であるクララの二人が結婚するためには、[[教皇]]の許可を得る必要があったが、1884年に許可がおり、翌[[1885年]]正式に結婚した。アロイスとクララの間には6人の子が生まれたが、多くは早世し、育ったのは[[1889年]]に生まれたアドルフと、[[1896年]]に生まれた[[パウラ・ヒトラー|パウラ]]だけだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1892年]]には彼の学歴で到達できる最高の地位であるリンツ税関の上級事務官となった。[[1895年]]には退職し、恩給生活に入った。1903年1月3日、アロイスはレストランで倒れ、[[肺出血]]で死亡した。上オーストリア州で最も大きな日刊紙「日報」は彼の追悼記事を書いた。その中では官吏や農業、特に養蜂の分野で有能であったことが書かれ、また節約家であったとされる。死後、まもなくしてクララも後を追うように[[乳癌]]で死亡し夫婦で[[ウィーン]]に葬られるが、[[ネオナチ]]巡礼の地とならないよう現在のヒトラーの親類がウィーン市に申し立て、死後長らくあった墓石は現在撤去されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
当時、父親が教育のために暴力を振るうことは当然のことであると見なされていたが、息子のアロイスは暴力に耐えかねて14歳の時に家出し、父親が死ぬまで家には戻らなかった。アロイスは厳格な父親であり、アロイス自身もしばしば息子に暴力を振るった。このためアドルフも家出を図ったことがあったが失敗している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出生 ==&lt;br /&gt;
アロイスの本当の父親が誰であったかについては長い論争がある。[[ニュルンベルク裁判]]の被告となった[[ハンス・フランク]]は、[[1930年]]にヒトラーから家系調査を命じられた。フランクの調査ではマリア・アンナが[[グラーツ]]のフランケンベルガーというユダヤ人の家庭で下女奉公をしていたが、その時に宿した子供がアロイスであるとした。フランクは絞首刑となる前に残した告白録「絞首台に直面して」の中でこのことをふれた。その後、[[オーストリア社会労働者党]]の幹部でもあった[[フランツ・イェッツインガー|イェツィンガー]]は1956年の著作「ヒトラーの青年時代」において、ヒトラーの祖父がユダヤ人であると考えたほうが自然であると結論した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、戦後にグラーツ大学のプレラドヴィク（Nikolaus Preradovic）教授が調査したところ、アロイス生誕前の期間にはグラーツにユダヤ人は住んでおらず、グラーツのフランケンライター家（フランケンベルガー家はフランクの誤り）は没落したカトリック教徒であったと判明した。[[アントン・クライン]]もユダヤ人がアロイスの父ではありえないことを立証した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初はユダヤ人説をとっていた研究家の[[ヴェルナー・マーザー]]は、ヨハン・ネポムクこそがアロイスの父親であり、妻にマリア・アンナの妊娠を知られるのを防ぐために、兄のヨハン・ゲオルクとマリア・アンナを結婚させたのだとしている。また、認知通りヨハン・ゲオルクが父親であったという推定も行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 思想 ==&lt;br /&gt;
アドルフ・ヒトラーは「[[我が闘争]]」において、アロイスは「世界市民的思想」を持っており、[[反ユダヤ主義]]的言動をしたことはなかったとしている。一方でマーザーは、ヒトラーの友人[[アウグスト・クビツェク]]の証言から、アロイスが[[ゲオルク・フォン・シェーネラー]]的なドイツ民族主義・反ユダヤ主義者であったとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[藤村瞬一]]『ヒトラーの青年時代』　刀水書房　2005年&lt;br /&gt;
* [[村瀬興雄]]『アドルフ・ヒトラー―「独裁者」出現の歴史的背景』　ISBN 978-4121004789&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{アドルフ・ヒトラー}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ひとら あろいす}}&lt;br /&gt;
[[Category:アドルフ・ヒトラー]]&lt;br /&gt;
[[Category:オーストリア系ドイツ人]]&lt;br /&gt;
[[Category:在ドイツ・オーストリア人]]&lt;br /&gt;
[[Category:オーストリア＝ハンガリー帝国の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1837年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1903年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>マックス・アマン</title>
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				<updated>2014-05-17T06:03:35Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 脚注 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''マックス・アマン'''（''Max Amann'', [[1891年]][[11月24日]] - [[1957年]][[3月10日]]）は[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[国家社会主義ドイツ労働者党]][[出版全国指導者]]。[[アドルフ・ヒトラー]]の著書『[[我が闘争]]』の出版に関与した。最終階級は[[親衛隊大将]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[1891年]][[11月24日]]、ミュンヘンに生まれた。1908年から1911年までミュンヘンの商業学校に通い、以降は法律事務所に勤めた。[[第一次世界大戦]]勃発後の1914年、バイエルン予備歩兵第16連隊に入営、終戦までに[[准尉]]へ昇進した。この連隊にはヒトラーも伍長勤務上等兵 (Gefreiter) として所属しており、両者の間には面識があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチ党 ===&lt;br /&gt;
1921年10月、ナチ党に入党した。その後1923年までナチ党機関紙[[フェルキッシャー・ベオバハター]]の商業担当を務めた。1922年には出版全国指導者に就任、党出版会社[[フランツ・エーア]]（[[:en:Franz Eher Nachfolger]]）の社長となった。[[ミュンヘン一揆]]の際にはヒトラーと共に投獄されたが、アマンは4か月半で釈放された。釈放以降もナチ党の出版全国指導者として務めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 我が闘争出版 ===&lt;br /&gt;
1925年、ヒトラーの著書を出版する計画に大きく関わった。ヒトラーは獄中で口述筆記したこの著書を、『Viereinhalb Jahre gegen Lüge, Dummheit und Feigheit』（嘘と臆病、愚かさに対する4年半）』と名づけたが、アマンは内容が堅い上にタイトルが長すぎては売れないと主張した。そのためヒトラーが判決直後に書き記した文章から『我が闘争』（Mein Kampf）と名づけられた。しかしアマンはこの著書はあまり売れないと判断しており、当時の一般書の2倍の価格12[[ライヒスマルク|マルク]]で売り出して、資金を回収しようとした。ナチ党の拡大後はこの本の売り上げも伸び、アマンは印税の管理も担当した。アマンはフランツ・エーアから出版される書籍の定価から何％かを確保し、私腹を肥やしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナチ政権 ===&lt;br /&gt;
アマンはナチ党の拡大に、宣伝全国指導者[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]とともに[[プロパガンダ]]面で大きな貢献をした。1933年の[[ヒトラー内閣]]成立後は[[国立文化院]]（[Reichskulturkammer）傘下の[[国立出版院]]（Reichspressekammer）の総裁に任じられ、全ドイツの出版活動を取り締まった。また国会議員にも選出されている。その後終戦までこの地位にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1934年の[[長いナイフの夜]]では[[突撃隊]]幹部[[エドムント・ハイネス]]の逮捕と処刑に関わった&amp;lt;ref&amp;gt;Hans-Günther Seraphim (Hrsg.): Das politische Tagebuch Alfred Rosenbergs&amp;lt;/ref&amp;gt;。1941年には[[親衛隊名誉指導者]]の[[親衛隊大将]]位を授けられた。アマンはフランツ・エーアから本を出版していた他のナチ党幹部達の印税も管理していたため、党内での権力争いでも攻撃されなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 戦後 ===&lt;br /&gt;
戦後の[[非ナチ化]]裁判では、10年の刑を受けた。1953年に釈放されたが、財産と年金は没収された。1957年にミュンヘンで没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キャリア ==&lt;br /&gt;
=== 親衛隊階級 ===&lt;br /&gt;
* 1932年3月15日、[[親衛隊中将]] (SS-Gruppenführer)&lt;br /&gt;
* 1936年1月30日、[[親衛隊大将]] (SS-Obergruppenführer)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 受章歴 ===&lt;br /&gt;
* [[二級鉄十字章]]&lt;br /&gt;
* [[名誉十字章]]&lt;br /&gt;
* [[1923年11月9日記念メダル]]&lt;br /&gt;
* [[黄金ナチ党員バッジ]]&lt;br /&gt;
* [[ナチ党勤続章銀章および銅章]]&lt;br /&gt;
* [[親衛隊全国指導者名誉剣]]&lt;br /&gt;
* [[親衛隊名誉リング]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）ISBN 9329700373（英語） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:あまん まくす}}&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党全国指導者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチス・ドイツのプロパガンダ]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国期の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの編集者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1891年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1957年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%95&amp;diff=228569</id>
		<title>ヴァルター・ブーフ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 出典 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ヴァルター・ブーフ'''（Walter Buch、[[1883年]][[10月24日]]-[[1949年]][[9月12日]]）は、[[ドイツ]]の政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）の幹部。ナチ党の[[調査及び調停委員会|調査及び調停委員会(USCHLA)]]の委員長、後に[[党最高裁判所]]長官（Oberstes Parteigericht der NSDAP）を務めた。最終階級は[[親衛隊大将]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[ドイツ帝国]][[領邦]][[バーデン (領邦)|バーデン大公国]]の[[ブルッフザール]]（Bruchsal）に[[裁判官]]の息子として生まれる&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ216&amp;quot;&amp;gt;ヴィストリヒ、216頁&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton254&amp;quot;&amp;gt;Hamilton,p.254&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[コンスタンツ]]の114歩兵連隊に入隊し、[[第一次世界大戦]]時には大隊長として出征した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント7&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、7頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後、二年間[[下士官]]養成学校の教官をしていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント7&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
戦争が終わるとともに退役した。最終階級は[[少佐]]だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ216&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton254&amp;quot;&amp;gt;Hamilton,p.254&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、退役軍人会に所属&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ216&amp;quot;/&amp;gt;。少年教育のための学院の創設に務めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント7&amp;quot;/&amp;gt;。1922年に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]に入党&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ216&amp;quot;/&amp;gt;。1923年8月1日に[[突撃隊]]に入隊し&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller192&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.192&amp;lt;/ref&amp;gt;、、[[ニュルンベルク]]、[[フランケン地方|フランケン]]の突撃隊の指揮官となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ216&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller192&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.192&amp;lt;/ref&amp;gt;。11月9日の[[ミュンヘン一揆]]にも参加している&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller192&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.192&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
ナチ党再建後の1925年に再入党し（党員番号7,733）&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller191&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.191&amp;lt;/ref&amp;gt;、ミュンヘンの突撃隊の指導者に任じられている&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller193&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.193&amp;lt;/ref&amp;gt;、。&lt;br /&gt;
1927年に党の[[調査及び調停委員会|調査及び調停委員会(USCHLA)]]([[:en:USCHLA|en]])の委員長に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ216&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント10&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、10頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。ナチ党員間の争いの調停や不穏分子の監視を行う機関で「[[褐色館]]の[[チェーカー]]」と呼ばれ忌み嫌われた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ216&amp;quot;/&amp;gt;。これによってブーフは党内に敵を大量に作った&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント10&amp;quot;/&amp;gt;。1932年3月に[[突撃隊]]上層部の道徳的浄化を考え、[[エルンスト・レーム]]らの暗殺を計画するが、計画が外部に漏れたため未遂に終わっている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ブロイエル112&amp;quot;&amp;gt;ブロイエル、112頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
1933年3月31日には党の[[全国指導者]]の一人となった。&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller194&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.194&amp;lt;/ref&amp;gt;。1933年12月12日の国会選挙に選挙区15区（東ハノーファー地区）のナチ党議員となる&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller194&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.194&amp;lt;/ref&amp;gt;。7月1日に[[親衛隊名誉指導者]]として[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に入隊し（隊員番号81,353）、[[親衛隊中将]] (SS-Gruppenführer) の階級が与えられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ216&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller192&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.192&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1929年9月には娘の[[ゲルダ・ボルマン|ゲルダ]]（Gerda Bormann）が[[マルティン・ボルマン]]と結婚した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント13&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、13頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。ボルマンにとって党幹部と親密な関係を持つ上で重要な結婚となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント13&amp;quot;/&amp;gt;。しかしやがてボルマンとブーフは対立関係となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ジークムント19&amp;quot;&amp;gt;ジークムント、19頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1934年6月30日の[[長いナイフの夜]]では[[アドルフ・ヒトラー]]に随行して[[バート・ヴィースゼー]]での[[エルンスト・レーム]]以下[[突撃隊]]幹部の逮捕に携わり、その後のシュターデルハイム刑務所での銃殺活動にも参加した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton254&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ217&amp;quot;&amp;gt;ヴィストリヒ、217頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。1934年1月1日に[[調査及び調停委員会|調査及び調停委員会(USCHLA)]]([[:en:USCHLA|en]])は[[党最高裁判所]]に改編され ブーフは党最高裁判所長官に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller194&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.194&amp;lt;/ref&amp;gt;。11月9日には[[親衛隊大将]]へと昇進した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller192&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.192&amp;lt;/ref&amp;gt;。1937年1月30日の国会選挙に選挙区29区（東ハノーファー地区）のナチ党議員となる&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller194&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.194&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブーフは熱烈な[[反ユダヤ主義]]者であり、ユダヤ人への憎悪をむき出しにした。ユダヤ人は法律の枠外の存在であると公言し、1938年10月21日には『ドイツ司法』への寄稿記事の中で「ユダヤ人は人間ではない。腐敗物があのような形をしているだけだ。」などと書きたてた。その直後に行った1938年11月の[[水晶の夜]]事件でもユダヤ人虐殺を行った党員たちを「命令に従っただけ」として無罪放免にした&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton254&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ217&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、非ナチ化法廷にかけられて5年の重労働判決を受けた。更に1949年7月に「重要犯罪者」に分類されて再び非ナチ化法廷にかけられたが、11月12日に手首を切って[[入水自殺]]した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Hamilton254&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヴィストリヒ217&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キャリア ==&lt;br /&gt;
=== 階級&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller191&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.191&amp;lt;/ref&amp;gt; ===&lt;br /&gt;
* 1902年9月30日、[[士官候補生]](Fahnenjunker)&lt;br /&gt;
* 1904年1月27日、[[少尉]](Leutnant)&lt;br /&gt;
* 1913年、[[中尉]](Oberleutnant)&lt;br /&gt;
* 1915年、[[大尉]](Hauptmann)&lt;br /&gt;
* 1918年11月20日、[[少佐]]（Major）&lt;br /&gt;
* 1931年12月18日、[[突撃隊中将]]（SA-Gruppenführer）&lt;br /&gt;
* 1933年7月1日、[[親衛隊中将]]（SS-Gruppenführer）&lt;br /&gt;
* 1934年11月9日、[[親衛隊大将]]（SS-Obergruppenführer）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 受章&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller195&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.195&amp;lt;/ref&amp;gt; ===&lt;br /&gt;
* [[鉄十字勲章]]&lt;br /&gt;
** [[二級鉄十字章]]&lt;br /&gt;
** [[一級鉄十字章]]&lt;br /&gt;
* [[戦功十字章|戦功十字章]]&lt;br /&gt;
** 二級剣付戦功十字章&lt;br /&gt;
** 一級剣付戦功十字章&lt;br /&gt;
* [[名誉十字章|名誉十字章前線戦士章]](1934年)&lt;br /&gt;
* [[黄金ナチ党員バッジ]](1934年)&lt;br /&gt;
* [[血の勲章]]（1936年7月6日）&lt;br /&gt;
* [[コブルク章]]（Koburger Ehrenzeichen）&lt;br /&gt;
* [[黄金ヒトラー・ユーゲント名誉バッジ]]（Goldenes HJ-Ehrenabzeichen）&lt;br /&gt;
* [[勤続章]]（Dienstauszeichnung）&lt;br /&gt;
** ナチ党勤続章&lt;br /&gt;
*** 銅章&lt;br /&gt;
*** 銀章&lt;br /&gt;
*** 金章&lt;br /&gt;
* [[1929年ニュルンベルク党大会章]]（Nürnberger Parteitags-Abzeichen 1929）（1929年）&lt;br /&gt;
* [[オリンピック勲章]]（Olympia-Ehrenzeichen）&lt;br /&gt;
** 一級オリンピック勲章（1936年）&lt;br /&gt;
* [[親衛隊全国指導者名誉長剣]](1937年12月1日)&lt;br /&gt;
* [[親衛隊名誉リング]](1934年12月25日)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出典 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Walter Buch}}&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;br /&gt;
{{デフォルトソート:ふうふ うあるたあ}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党員]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:突撃隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:1883年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1949年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:自殺した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%84&amp;diff=228568</id>
		<title>フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ</title>
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				<updated>2014-05-17T06:01:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 文献 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ'''（''Franz Xaver Schwarz''、[[1875年]][[11月27日]] - [[1947年]][[12月2日]]）は[[ドイツ]]の政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]][[財政全国指導者]]。同党の古参党員として党財政に大きな役割を果たした。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の[[親衛隊名誉指導者|名誉指導者]]でもあり、親衛隊での最終階級は[[親衛隊上級大将]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
[[ギュンツブルク]]にパン屋の息子として生まれる。八人兄弟のうちの七子だった。職業訓練学校を出たあと、1900年から1925年にかけて[[ミュンヘン]]市の役所で働いた。その後、ギュンツブルク地区の裁判所で[[公証人]]として働く。[[第一次世界大戦]]では歩兵隊の少尉として従軍した。戦後の1922年に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス党]]に入党。1923年の[[ビアホール一揆]]にも参加した。1925年、党員番号が6番になる。1925年3月、ナチス党の会計の部署に配属される。出獄後の[[アドルフ・ヒトラー]]が合法的選挙活動できるようナチス党の財政を立て直しをはかった。ミュンヘンの党本部「[[褐色の家]]」を用意したのもシュヴァルツである。1933年には[[フランケン地方]]選出のナチス党議員となった。この地位は敗戦まで保持した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1933年、首相となったばかりのヒトラーから財政全国指導者（Reichsschatzmeister）に任じられ、ナチス党の財政の全権を任された。7月には[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]から[[親衛隊大将]]位を授与された。1935年11月のシュヴァルツの60歳の誕生日には総統ヒトラー自らが出席。シュヴァルツの党財政に果たした役割を評価した。シュヴァルツは党の政治には直接携わらず、財政など党活動のサポートにだけ優秀な人物とみられていた。たとえば[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は日記の中でシュヴァルツについて「必要のない男だ」と書いたり、別の部分では「最も信用のできる男であり、立派な党人だ」と書いたりしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1942年4月20日には親衛隊上級大将に昇進。この親衛隊上級大将の地位はシュヴァルツを入れて四人にしか授与されていない（[[ヨーゼフ・ディートリヒ]]、[[パウル・ハウサー]]、[[クルト・ダリューゲ]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ敗戦後は[[アメリカ軍]]によって逮捕された。[[レーゲンスブルク]]近郊の留置所に収容されていたがしばしば体を壊すようになり、1947年12月2日に同地で死去。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文献 ==&lt;br /&gt;
* Charles Hamilton著『LEADERS &amp;amp; PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』（R James Bender Publishing）340ページ。ISBN 9780912138275&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ナチ党}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆうあるつ ふらんつ くさうあ}}&lt;br /&gt;
[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツ第三帝国期の政治家]]&lt;br /&gt;
[[Category:ナチ党全国指導者]]&lt;br /&gt;
[[Category:親衛隊将軍]]&lt;br /&gt;
[[Category:突撃隊隊員]]&lt;br /&gt;
[[Category:1875年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:1948年没]]&lt;br /&gt;
[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
[[Category:カワイすぎる漢]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://35.80.154.190/mediawiki/index.php?title=%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3&amp;diff=228567</id>
		<title>マルティン・ボルマン</title>
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				<updated>2014-05-17T05:59:38Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;ウーソキマスラの戯言: /* 登場する作品 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン'''（'''Martin Ludwig Bormann'''、[[1900年]][[6月17日]] - [[1945年]][[5月2日]]）は、[[ドイツ]]の政治家。[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]の側近・個人秘書を長らく務め、その取り次ぎ役として権力を握った。[[ルドルフ・ヘス]]の失脚後は官房長となり、ナチ党の事実上の最高権力者となった。[[親衛隊名誉指導者]]でもあり、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]における最終階級は[[親衛隊大将]]。ヒトラーの政治的遺書によってナチ党担当大臣として指名されたが、ベルリン陥落の混乱の中で消息を絶った。戦後長い間、行方不明とされてきたが、[[総統地下壕]]脱出の際に[[青酸]]で服毒自殺していた事が近年証明された&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller146・154&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）146・154ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ナチスの女たち第三帝国への飛翔11&amp;quot;&amp;gt;アンナ・マリア・ジークムント著『ナチスの女たち &amp;lt;small&amp;gt;第三帝国への飛翔&amp;lt;/small&amp;gt;』（東洋書林）11ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
=== 生いたち ===&lt;br /&gt;
[[ドイツ帝国]][[プロイセン王国]][[ザクセン州]]（現在は[[ザクセン＝アンハルト州]]）のハルバーシュタット近郊のヴェーゲレーベンに生まれた。父は郵便局員テオドール・ボルマン（Theodor Bormann）。母はその妻で郵便代理人の娘アントニエ（Antonie）（旧姓メンノン、Mennong）。父テオドールは短期間だがプロイセン[[胸甲騎兵]]連隊の軍楽隊で[[トランペット]]奏者をしていたことがある。父の軍内での階級は[[特務曹長]]だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下183&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）183ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男14&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）14ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テオドールとアントニエの夫妻には二人の息子があり、ボルマンは長男だった。弟に[[アルベルト・ボルマン]]がいる。ボルマンの「マルティン」の名は宗教改革家[[マルティン・ルター]]に因んで名付けられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下183&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）183ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。父テオド－ルは1903年、ボルマンが3歳の時に死亡した。半年後、母アントニエは生活を安定させるため、銀行支店長アルベルト・フォルボルン（Albert Vollhorn）と再婚した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下183&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）183ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男14&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）14ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller154&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）154ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1909年にボルマン一家は継父とともに[[ヴァイマル]]へ移住した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ナチスの女たち第三帝国への飛翔11&amp;quot;&amp;gt;アンナ・マリア・ジークムント著『ナチスの女たち &amp;lt;small&amp;gt;第三帝国への飛翔&amp;lt;/small&amp;gt;』（東洋書林）11ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヴァイマルの小学校を卒業した後、ヴァイマルの実科[[ギムナジウム]]に入学した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller146&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）146ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。14歳の時に[[第一次世界大戦]]が勃発した。ボルマンは1918年に陸軍第55砲兵連隊に入隊したが、前線には出ていない。彼は[[ニュルンベルク]]で[[将校]]の[[当番兵]]をしていた。軍での最終階級は砲兵[[二等兵]]だった。&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller146&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）146ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下184&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）184ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===第一次世界大戦後===&lt;br /&gt;
戦後、継父の家には戻らず、メクレンブルクの大農場で農業助手として働くようになった。まもなく農場主ヘルマン・フォン・トロイエンフェルス（Hermann von Treuenfels）に秘書・会計係としての能力を認められて、メクレンブルク、パルヒム・ヘルツベルクの農場の管理を任せられた。トロイエンフェルスは[[ドイツ義勇軍]]の活動に深く共鳴しており、義勇軍兵士を次々と自分の農場に受け入れていた。ボルマンは彼らの管理にもあたっていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下185&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）185ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。またボルマン自身も1922年に[[ゲルハルト・ロスバッハ]]（Gerhard Roßbach）中尉率いる「ロスバッハ義勇軍」に入隊した。同義勇軍のメクレンブルク地区の部長兼会計責任者を務めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男16&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）16ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。1922年12月には[[ドイツ民族自由党]]（DVFP）に入党している&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1923年5月31日夜、ロスバッハ義勇軍のメンバーの小学校教師[[ヴァルター・カドウ]]（[[:en:Walther Kadow|Walter Kadow]]）がリンチ殺害された。カドウは義勇軍から「ボルシェヴィキのスパイ」であるとの容疑をかけられ、ルール地方のフランス占領軍に対する抵抗の英雄であるアルベルト・レオ・シュラゲターを占領軍に密告したと疑われており、また義勇軍から借りた大金を返さず、会計責任者のボルマンと金銭的なトラブルを抱えていた。1923年7月にボルマンはカドウ殺害の犯人の一人として逮捕された。1924年3月12日に[[ライプツィヒ]]で他の逮捕者[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]（後の[[アウシュヴィッツ＝ビルケナウ強制収容所]]所長）らとともに裁判にかけられ、禁固1年の刑に処された&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男18&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）18ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下186&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）186ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1925年3月に刑期を終えて釈放された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男19&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）19ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヘルマン・フォン・トロイエンフェルト所有のパルヒムの農場に帰り、農場管理の仕事に戻ったが、1925年5月にはこの職を離れることとなった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。フォン・トロイエンフェルトの夫人エーレンガルトに手を出して主人の不興を買ったのが原因とも言われるが、定かではない&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下187&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）187ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ナチ党入党===&lt;br /&gt;
農場の仕事を失業した後、禁止されていた[[突撃隊]]の偽装組織「フロントバン」に入隊。1926年から1928年にかけてヴァイマルで発行されていたナチ党の新聞『国家社会主義者（Der National Sozialist）』の会計係となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。1927年2月に[[国家社会主義ドイツ労働者党]]（ナチ党）に入党した（党員番号60,508）&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男22&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）22ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。1927年4月に突撃隊に入隊した（最終的に1931年12月18日に[[突撃隊大佐]]に昇進している）。1927年11月から1928年11月にかけてナチ党の[[テューリンゲン]][[大管区]]の報道部長に就任した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。はじめボルマンが演説台に立った事もあったが、ボルマンは演説者としてはまったくの無能であり、落ち着きがなかったり、どもったりすることが多くて道筋を立てて話す事ができなかった。ついにはボルマンが演説台に上がっただけで聴衆の嘲笑がおこるようになったため、党はボルマンに演説を禁止した。そのためボルマンの演説を記録したテープは現存していない&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下187&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）187ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。1928年4月から11月にかけてはテューリンゲン大管区の会計責任者となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===救済基金責任者===&lt;br /&gt;
1928年11月15日には突撃隊の最高司令部の中におかれた救済基金（[[ドイツ共産党|共産党]]などとの殴り合いで負傷したが、治療費を出すことが出来ない同志のための金庫）部門に勤務した。さらに1930年8月25日にはこの組織が党全体の救済基金部門となり、ボルマンがその部長に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。この任務をへて突撃隊財政支援の専門家と化したボルマンは裏方の事務に徹して確実に勢力を拡大させていく&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下189&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）189ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1929年9月2日にはナチ党の有力者[[ヴァルター・ブーフ]]の娘ゲルダ（Gerda Bormann）と結婚。二人の結婚式にはアドルフ・ヒトラーも立会人として出席している。1930年4月14日に長男を儲けたボルマンは、ヒトラーの名前と自分の名前に因んでアドルフ・マルティン（Martin Bormann junior）と名付けた&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男24&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）24ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===ヒトラーの側近===&lt;br /&gt;
====ヘスの副官時代====&lt;br /&gt;
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーとナチ党が政権を掌握。ボルマンは1933年7月4日に副総統（[[ルドルフ・ヘス]]）個人秘書兼官房長（Persönlicher Sekretär und Chef der Stabskanzlei des Stellvertreters des Führers）に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。これを機にボルマンは救済基金の事務所からヘスの事務所へ移ることとなった。以降ヘスが英国に単独飛行する1941年までヘスの副官という立場でヒトラーの側で活動していくこととなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アルフレート・ローゼンベルク]]はヘスの秘書をしていた時期のボルマンについてこう回顧している。「ヘスを訪問すると、ボルマンの姿を時折見かけたが、後にはほとんど一緒にいた。この数年総統昼食会に出ていたが、後にはゲッベルスの横にボルマンがいつも姿を見せていた。総統は明らかにヘスにいらついており、ボルマンが代わりに命令を処理していた。この時点から彼の『なくてはならない存在』を目指した活動が始まった。」&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下193&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）193ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は絶えず鉛筆とメモ用紙を持ってヒトラーの言葉をメモを取っていた。[[バルトゥール・フォン・シーラッハ]]がそのメモは何に使うのかとボルマンに聞くとボルマンは「総統が考えている事を常に把握しておきたいからだ」と答えたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下196&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）196ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
またボルマンは1933年7月3日に「アドルフ・ヒトラー・ドイツ産業界基金」の責任者に任じられていた。これは[[クルップ]]などドイツ産業界がヒトラーに献金を行うために作った機関である。この機関の金について会計報告は不要とされていた。金銭に無頓着なヒトラーに代わってボルマンがこの金を預かっていた。[[オーバーザルツベルク]]のヒトラーの山荘の改築もボルマンが請け負い、ヒトラーから高く評価された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男35&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）35ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下197&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）197ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
形式的な肩書も増強されていった。1933年10月10日には[[ナチ党]][[全国指導者]]の一人に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller146&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）146ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに[[1933年11月ドイツ国会選挙|1933年11月12日の選挙]]によりナチ党の[[国会 (ドイツ)|国会議員]]になった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller147&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）147ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。1935年9月7日には帝国農業審議会（Reichsbauernrat）のメンバーとなった。1937年1月30日には[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に名誉隊員として入隊し、[[親衛隊中将]]（SS-Gruppenführer）の肩書を与えられた（隊員番号ははじめ278,267だったが、1938年に[[ハインリヒ・ヒムラー]]から特別な隊員番号555を与えられた。また階級は1940年7月24日に[[親衛隊大将]]に上っている）&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller146&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）146ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながらヘスの秘書時代のボルマンは他の党幹部からはさほど関心を払われる存在ではなかったようである。[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]もこの時期の日記にはボルマンについて「ボルマンという名前のある党員は」といった書き方をしている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下198&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）198ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====ナチ党官房長====&lt;br /&gt;
[[第二次世界大戦]]勃発前後はまだ地位を固め始めたばかりで国家政策や党の方針決定に影響を持ってはいなかったが、[[1941年]][[5月10日]]に副総統ヘスが独断で和平交渉のためにイギリスへ飛び去った後にその地位が変わってくる。5月11日にヘス単独飛行を聞いたヒトラーははじめ副官ボルマンを「共犯者」と疑い、ボルマンを招集したが、ボルマンはすぐにヘスを批判して「無実」であることを証明した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下199&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）199ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。この件を機にボルマンはヘス夫妻に因んで名前をつけた次男ルドルフと長女イルゼの名前をそれぞれヘルムートとアイケに変えさせている&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller154&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）154ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
さらにボルマンは後継の副総統の座を狙ったが、5月13日にヘス単独飛行の件で党幹部が[[オーバーザルツベルク]]の山荘に招集され、この際に[[ヘルマン・ゲーリング]]がヒトラーに直談判してボルマンの副総統就任に反対の意をはっきりと示した。ヒトラーはボルマンの副総統就任はあり得ない事をゲーリングに明言している。結局、副総統の事務所は党官房（Partei-Kanzlei der NSDAP）と名を改められ、ボルマンはその責任者である党官房長に就任することとなった。副総統にはなれなかったものの党官房長に任命されたボルマンは大きな影響力を得るに至る&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下200&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）200ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヒトラーはドイツ軍最高司令官としての軍務にますます忙しくなっており、党務にまでとても手が回らなくなっていた。党務は事実上ボルマンにより掌握される事となった。また党務だけでなく、軍部や行政機構にも影響を及ぼすようになっていった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男70&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）70ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1941年5月29日、帝国大臣に列するとともに国防閣僚会議の常任議員となる&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller149&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）149ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに党官房長や大臣職より地味であるが、より重要な物として総統の個人秘書的な立場を手に入れたことがある。この職位には初め名称がなく、1943年4月12日になってようやく「総統の秘書兼個人副官（Sekretär und Persönlicher Adjutant des Führers）」という名称を冠された&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男70&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）70ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller151&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）151ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしこの立場を手に入れた事はボルマンにとって非常に大きく、ヒトラーの秘書として公私に渉り密接な関係を結ぶきっかけとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秘書となったボルマンは、常に彼のそばを歩くようになり、菜食主義的な生活を送っていたヒトラーのために大好物であった肉を控えるようにするなど徹底的にヒトラーに合わせた生活を送るようになった。ヒトラーの愛犬「[[ブロンディ (犬)|ブロンディ]]」を用意したのもボルマンだった。こうしたヒトラーの影のように仕える奉仕ぶりや、ヒトラーがどの報告に目を通し、どの人間に会うかを決める権限が実質的にボルマンが有したため、｢ヒトラーの耳に情報が入るには、まずボルマンを介さなくてはならない｣と揶揄されるようになった。また、情報を監督するためにヒトラーのプライベートな会話も逐一記録させていた。「ボルマン覚書」や「[[ヒトラーのテーブル・トーク]]」の名前で知られるこの記録はヒトラーや[[ナチズム]]に関する一級資料であり、後に[[ヒュー・トレヴァー＝ローパー]]によって出版された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ボルマンはヒトラーへの情報統制を制度化しようと試み、1943年1月には首相官房長官[[ハンス・ハインリヒ・ラマース]]と[[国防軍最高司令部]]長官[[ヴィルヘルム・カイテル]]元帥とともに「三人委員会（Dreimännerkollegiums）」を創設した。この委員会は総統に出された提案を総統に通すかどうかを審議するための機関であった。しかし他の党幹部の反発が強く1944年には解散した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller149&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）149ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男112&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）112ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1943年2月の[[スターリングラードの戦い]]の敗北以降、ヒトラーは[[総統大本営]]に[[引きこもり]]がちになった。以降のヒトラーが主要幹部の中で定期的に会うのはボルマン、[[国防軍最高司令部]]総長[[ヴィルヘルム・カイテル]]元帥、国防軍最高司令部作戦本部長[[アルフレート・ヨードル]][[上級大将]]の三人だけになった。それ以外はたまに[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]、宣伝相[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]、空軍総司令官[[ヘルマン・ゲーリング]]帝国元帥、各司令官たちが現れるぐらいであった。他の来訪者はヒトラーがどうしても直接会う必要がある者だけに限られた。そしてその判断はボルマンに一任されていた。総統大本営へ入るためにはボルマンの許可証が必要であった&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男104&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）104ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。そのためボルマンの権力はドイツの戦況悪化、ヒトラーの引きこもり化とともに増していくこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようなボルマンの立場、また彼の上司に媚びへつらう一方で部下に冷酷に接する態度のために、ボルマンは他の党幹部や国防軍上層部から非常に疎まれていた。[[ヘルマン・ゲーリング]]は、[[ニュルンベルク裁判]]において「ヒトラーがもっと早く死んで、私が総統になっていたら真っ先にボルマンを消していただろう」と発言している。[[アルベルト・シュペーア]]も「ヒトラーがボルマンについて少しでも批判的な事を言ったなら、彼の敵は全員その喉首に飛びかかっただろう」と述べている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下180&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）180ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。また副官に「スカートをはいた物なら何でも追い回す」と評されたその女癖の悪さから、[[エヴァ・ブラウン]]もボルマンをひどく嫌っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;トーランド48586&amp;quot;&amp;gt;トーランド、4巻、85-86p&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1941年以降の反ユダヤ主義の命令にはほとんど例外なくボルマンの副署があり、反ユダヤ主義にも重大な責任を負う。ユダヤ人を東部に移送する命令や親衛隊の下にユダヤ人の管理を強化する命令、ユダヤ人虐殺を隠ぺいするための命令にサインしている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下219&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）219ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ホロコースト大事典564&amp;quot;&amp;gt;ウォルター・ラカー著『ホロコースト大事典』（柏書房）564ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1944年9月25日には[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]の下に創設された[[国民突撃隊]]の政治・組織指導者に任じられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller151&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）151ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツの敗色が濃くなってきてもボルマンも権力欲は衰えなかった。1944年12月にはボルマンの最大のライバルである親衛隊全国指導者[[ハインリヒ・ヒムラー]]がオーベルライン軍集団司令官に任じられ、さらに1945年1月には[[ヴァイクセル軍集団]]の司令官に任じられ、赤軍との戦闘を指揮した。しかしまともな軍事教養をもたないヒムラーにこのポストを与えるのは異常な人事であった。案の定、ヒムラーは無能な指揮官ぶりを示して更迭されることとなった。この件でヒムラーの権威に大きく傷が入った。参謀総長[[ハインツ・グデーリアン]]上級大将によるとこれはボルマンがヒトラーに入り知恵した結果の人事であったという&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男104&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）104ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。1945年4月23日に[[ヘルマン・ゲーリング]]が[[ベルヒテスガーデン]]から[[ベルリン]]の[[総統地下壕]]に向けてヒトラーに指揮権の委譲を要求する電報を送る。電報受けたボルマンは「ゲーリングが裏切った」とヒトラーに報告した。結果、ヒトラーは激怒し、ゲーリングの解任を決定した。ただしボルマンが要求したゲーリングの銃殺刑をヒトラーは却下している。ボルマンは独断でベルヒテスガーデンにいる親衛隊将校にゲーリングの逮捕命令を出している&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下228&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）228ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男138&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）138ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===最期===&lt;br /&gt;
[[4月30日]]、ヒトラーは遺言でボルマンを遺言執行人、そして「ドイツ国党大臣（Reichsparteiminister）」に任命して自殺した。深夜になってボルマンはヒトラーの主治医である[[ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー]]、ヒトラーユーゲント全国指導者[[アルトゥール・アクスマン]]と共に[[総統地下壕]]を脱出したが、アクスマン以外の二人は生き延びることはできなかった。アクスマンは、一時離れ離れになった後二人の遺体を見つけたが、遺体の死因を確認するどころでは無く、すぐにその場を立ち去っている（その後12月になって連合軍に逮捕された）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦後、「[[総統官邸]]から北に数キロのヴァイデンダム橋で両名の遺体を目撃した」という証言がアクスマンらにより複数発表された。発掘が行われたが、それらしき遺体は発見できなかった。[[ニュルンベルク裁判]]では[[欠席裁判]]のまま1946年10月1日に死刑判決が下された。1954年10月にはベルヒテスガーデン地方裁判所はボルマンの死亡を宣言した。しかし、遺体が見つからず、1960年にアルゼンチンで逃亡生活中に[[イスラエル諜報特務庁|モサッド]]に拘束された[[アドルフ・アイヒマン]]がイスラエルでの裁判中に「彼は南米で生きている」と証言したことで、「[[ブラジル]]へ逃亡しナチス残党を集めてナチスの再建を図っている」という噂がまことしやかに語られるようになり、ブラジルでは現地のマスコミが、ドイツ人が多いことで有名な[[ブルメナウ]]などの南部を中心に「ボルマンの居所をつかんだ」というような報道が度々なされることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1972年12月、[[ヴァイデンダム]]橋から遠くない[[ベルリン中央駅|レアター駅]]近くの工事現場で2体の人骨が偶然発見された。法医学者・歯科医・形質人類学者が鑑定した結果、シュトゥンプフエッガーとボルマンのものであることが確認された。遺体の口にはカプセルのガラス片と青酸の痕跡が認められた。また、1998年には家族の要請でDNA鑑定が行われ、人骨がボルマンのものであることが再確認された。その後遺骨は荼毘に付され、[[バルト海]]に散骨された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、現在でも遺骨の真贋を疑う者は多い。根拠として、[[ベルリンの戦い]]では何十万もの犠牲者が出たため遺骨を捜そうと思えばすぐに捜すことができ、その中からボルマンの遺骨を発見することは到底不可能に近いこと、ボルマンの遺骨とされる頭蓋骨に確認された[[アマルガム]]などの歯の治療は戦後にも行われていた形跡があることから遺骨は別人ではないかという説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 家族 ==&lt;br /&gt;
ナチスの幹部についてしばしば評される「職場では冷酷残忍、家庭では良き夫」という言葉のとおり、ボルマンもまた家庭では良き夫、優しい父親だった。ボルマンはゲルダ・ブーフと結婚し、10人の子供がいた。ただ、ボルマンは妻の他にも愛人を持っていた上に、その事実を妻に隠そうとはしなかった。妻はボルマンが「自分の浮気は[[ナチズム|国家社会主義]]のより大きな利益につながる」という説明を信じており、自分と愛人を交互に出産させるようにして、いつでも動員できる妻を持つようボルマンにすすめている&amp;lt;ref name=&amp;quot;トーランド48586&amp;quot;/&amp;gt;敗戦直前、秘書ヘルムート・フォン・フンメルの機転で一家は南チロルへ脱出。ゲルダは1946年に癌で死亡。子供たちは孤児院で養育される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、弟の[[アルベルト・ボルマン]]もヒトラーの秘書として仕えている。ボルマン兄弟はヒトラーの信任を巡って絶えず暗闘を繰り返していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 語録 ==&lt;br /&gt;
=== ボルマン本人の発言 ===&lt;br /&gt;
*「沈黙が普通は一番賢い。人はどんなことがあってもいつも真実を言うべきなのではなく、十分な理由があってそれが本当に必要な時だけ言えばいい。」（妻への手紙の一文）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下211&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）211ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*「僕は嫌というほど知らされた。醜さ、歪曲、中傷、おべっか、愚かさ、低脳、野心、虚栄心、金銭欲。要するに人間の嫌な面ばかり。ヒトラー総統が僕を必要とされている間はどうにもならないが、いずれ僕は政治から離れる。決心したんだ！」（1944年10月7日の妻へあてた手紙）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男122&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）122ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人物評 ===&lt;br /&gt;
*「ボルマンが残忍なのは分かっている。しかし、あいつの関わった仕事には筋が通っている。ボルマンに任せれば、私の命令は直ちにどんな障害があっても実行される。ボルマンの報告書は実に正確に仕上げられているから、私はイエスかノーと言うだけで済む。他の連中なら何時間もかかる書類の山も、あいつなら10分で片づける事が出来る。六カ月後に私にこれを思い出させてくれ、とボルマンに頼んだら、実際に思い出させてくれると確信できる。」（[[アドルフ・ヒトラー]]）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下204&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）204ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男108&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）108ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*「彼は雄牛のような男だが、誰も次の事を忘れてはならない。ボルマンに難癖をつける者は、私に難癖をつけているに同じだ。そしてこの男に逆らう者には誰であれ、私は銃殺命令を出す。」（アドルフ・ヒトラー）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下175&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）175ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*「ボルマンは大した権力を持っていた。ボルマンは私も知らないようなヒトラーの極めてプライベートな事を熟知していた。たとえばベルリンの総統地下壕には午前4時まで、場合によっては午前6時まで開かれるお茶会があった。その際にヒトラーが同席を認めたのは女性秘書たちとボルマンだけだった。このような場でしばしば重要な決定が下される事も少なくなかった。」（[[ヘルマン・ゲーリング]]）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ゲーリング言行録158&amp;quot;&amp;gt;金森誠也著『ゲーリング言行録 ナチ空軍元帥おおいに語る』（荒地出版社）158ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下208&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）208ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*「ボルマンは総統を墜落させ、ナチの理想を墜落させた。彼はヒトラーに媚びへつらう、卑屈な下男だった。」（ポーランド総督[[ハンス・フランク]]）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下174&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）212ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*「彼は決して長い休暇を取ったりしなかった。自分の影響力が少なくなる事を絶えず気にかけていた。」（1969年、[[ヒトラー内閣]][[軍需大臣]][[アルベルト・シュペーア]]）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下224&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）224ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*「複雑な問題を単純化し、簡単明瞭な形で提示し、その要点を明確な文章で短く表現する能力をボルマンは持っていた。手際はまことに鮮やかであったから、彼の圧縮されきった報告書にはその問題に対する答えが暗に含まれていた。」（[[SD (ナチス)|SD]]対外局長[[ヴァルター・シェレンベルク]][[親衛隊少将]]）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーを操った男108&amp;quot;&amp;gt;ジェームス・マクガバン著『ヒトラーを操った男 マルチン・ボルマン』（新人物往来社）108ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
*「部下にとって彼は何をやりだすかわからない上司だった。いま非常に友好的に、礼儀正しく彼らに接していたかと思うと、数分後にはサディスティックなやり方で散々に貶した。しばしば彼は荒れ狂ったので、誰もが思わず目の前に気の狂った男がいるという印象をもった。」（ヒトラーの運転手[[エーリヒ・ケンプカ]]）&lt;br /&gt;
*「個人的功名心、権力欲、財政も含めて組織や管理の問題を処理する事務能力、強い劣等感、それらが調和せずにバラバラに合成された物が彼の性格だった。彼は自分に関心のある事しか考えない冷たい活動家として[[スターリン]]の道をたどっていた。つまり厳格な党独裁の価値をよく理解しており、その考えに基づいて党を組織的に強化した。」（[[ヒトラー内閣]]食糧相[[リヒャルト・ヴァルター・ダレ]]）&amp;lt;ref name=&amp;quot;ヒトラーの共犯者下180&amp;quot;&amp;gt;グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち 下』（原書房）180ページ&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キャリア ==&lt;br /&gt;
=== 階級&amp;lt;ref name=&amp;quot;Miller146&amp;quot;&amp;gt;Miller,p.146&amp;lt;/ref&amp;gt; ===&lt;br /&gt;
*1918年6月、[[砲兵]]二等兵（Kanonier）&lt;br /&gt;
*1931年12月18日、[[突撃隊大佐]]（SA-Standartenführer）&lt;br /&gt;
*1933年10月10日、[[全国指導者]]（Reichsleiter der NSDAP）&lt;br /&gt;
*1937年1月30日、[[親衛隊中将]]（SS-Gruppenführer）&lt;br /&gt;
*1941年5月29日、[[親衛隊大将]]（Obergruppenführer）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 受章&amp;lt;ref name=&amp;quot;Michael Miller154&amp;quot;&amp;gt;Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）154ページ&amp;lt;/ref&amp;gt; ===&lt;br /&gt;
*[[黄金ナチ党員バッジ]](1934年)&lt;br /&gt;
*[[血の勲章]]（1938年9月5日）&lt;br /&gt;
*[[大管区名誉徽章]](Traditions-Gau-Abzeichen)&lt;br /&gt;
**ヴァルテラント大管区名誉徽章（Gau Warthelamd Traditionsazeichen）&lt;br /&gt;
**テューリンゲン大管区名誉徽章（Traditions-Gau-Abzeichen für Thüringen）&lt;br /&gt;
***銀鷲章&lt;br /&gt;
*[[オリンピック勲章]]（Olympia-Ehrenzeichen）&lt;br /&gt;
**一級オリンピック勲章（1936年）&lt;br /&gt;
*[[フロントバン徽章]](Frontbannabzeichen)&lt;br /&gt;
*[[親衛隊名誉短剣]]&lt;br /&gt;
*[[親衛隊全国指導者名誉長剣]](1937年12月1日)&lt;br /&gt;
*[[親衛隊名誉リング]](1937年12月1日)&lt;br /&gt;
*[[親衛隊私服ピン]]（2402番）（SS-Zivilabzeichen）（1937年2月）&lt;br /&gt;
*[[アルテケンプファー章]]（Ehrenwinkel der Alten Kämpfer）&lt;br /&gt;
*[[イタリア王冠勲章]]（[[イタリア王国]]勲章）（Ordine della Corona d'Italia）&lt;br /&gt;
**大将校章&lt;br /&gt;
*[[ローマ鷲勲章]]（[[イタリア王国]]勲章）（Ordine civile e militare dell'Aquila romana）&lt;br /&gt;
**大十字章&lt;br /&gt;
*[[功労勲章]]（[[ハンガリー王国]]勲章）（Magyar Érdemrend）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 注釈 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|group=#|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ボルマンに関係する文献 ==&lt;br /&gt;
*ジェームス・マクガバン 『ヒトラーを操った男―マルチン・ボルマン』　西城信訳、[[新人物往来社]]、1974年&lt;br /&gt;
*[[ハリー・パターソン]]　『ヴァルハラ最終指令』　井坂清訳、[[早川書房]]、1979年。&amp;lt;br&amp;gt;　ボルマン生存説をテーマにした長編小説。[[ハヤカワ文庫]]で再刊&lt;br /&gt;
*ラディスラス・ファラゴ　『追及　マルチン・ボルマンとナチの逃亡者　上・下』　寺村誠一訳、早川書房、1977年&lt;br /&gt;
*[[檜山良昭]]　『ナチス副総統ボルマンを追え』　[[東京書籍]]、1993年、ISBN 4-487-79152-9&lt;br /&gt;
*[[グイド・クノップ]] 『ヒトラーの共犯者．下　&amp;lt;small&amp;gt;12人の側近たち&amp;lt;/small&amp;gt;』　高木玲訳、[[原書房]]、2001年。ISBN 978-4562034185&amp;lt;br&amp;gt;　「第3部．影の男―マルティン・ボルマン」がある。&lt;br /&gt;
*アンナ・マリア・ジークムント　『ナチスの女たち &amp;lt;small&amp;gt;第三帝国への飛翔&amp;lt;/small&amp;gt;』 （西上潔訳、[[東洋書林]]、2009年）ISBN 978-4887217621 &amp;lt;br&amp;gt;　ボルマンの妻 「第1章―ゲルダ・ボルマン」がある。「ナチスの女たち　秘められた愛」が同時刊。&lt;br /&gt;
*『ヒトラーの遺言　1945年2月4日－4月2日』　篠原正瑛訳・解説、（原書房 1991年、新版2011年）&amp;lt;br&amp;gt;　ボルマンが書きとどめたという、いわゆるボルマンメモの和訳。ただし、この文書の真贋については複数の歴史家が疑問視している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* ジェームス・マクガバン 『ヒトラーを操った男―マルチン・ボルマン』　新人物往来社、1974年&lt;br /&gt;
* グイド・クノップ『ヒトラーの共犯者 下 &amp;lt;small&amp;gt;12人の側近たち&amp;lt;/small&amp;gt;』 （[[原書房]]、2001年）。ISBN 978-4562034185&lt;br /&gt;
* アンナ・マリア・ジークムント　『ナチスの女たち &amp;lt;small&amp;gt;第三帝国への飛翔&amp;lt;/small&amp;gt;』 [[東洋書林]]。ISBN 978-4887217621 &lt;br /&gt;
* ウォルター・ラカー、井上茂子・木畑和子・芝健介・長田浩彰・永岑三千輝・原田一美・望田幸男訳、『ホロコースト大事典』（柏書房、2003年）、ISBN 978-4760124138 &lt;br /&gt;
* [[ジョン・トーランド]]著・[[永井淳]]訳 『[[アドルフ・ヒトラー（トーランド）|アドルフ・ヒトラー]]』（原著は1979年、1990年、[[集英社文庫]]全4巻）&lt;br /&gt;
* Michael D. Miller著『Leaders of the SS &amp;amp; German Police, Volume I』（Bender Publishing）（英語）ISBN 9329700373&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{reflist|3}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場する作品 ==&lt;br /&gt;
* [[アドルフに告ぐ]] - 本作では、長年ヒトラーに忠実に仕えてきたにも関わらず、遺言でゲッベルスら他の側近よりも不当な扱いをされたことに激怒し、ヒトラーを自殺に見せかけて殺害する指示を部下の[[アセチレン・ランプ (手塚治虫)|ランプ]]にしている。&lt;br /&gt;
* [[BLOOD+]]&lt;br /&gt;
* [[ゴルゴ13]] - 第185話で登場。南米に逃亡し、[[ネオナチ]]の指導者となっている。&lt;br /&gt;
* [[ヒトラー 〜最期の12日間〜]] - [[トーマス・ティーメ]]が演じている。&lt;br /&gt;
* [[ブラジルから来た少年]]&lt;br /&gt;
* [[スパイ大作戦]]&lt;br /&gt;
* [[高い城の男]] - [[フィリップ・K・ディック]]の[[歴史改変SF]]。ドイツと日本が連合国に勝利した設定。&lt;br /&gt;
* [[ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル (映画)|ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{commons|Category:Martin Bormann}}&lt;br /&gt;
{{ヒトラー内閣}}&lt;br /&gt;
{{国家社会主義ドイツ労働者党党首|1945}}&lt;br /&gt;
{{ニュルンベルク裁判被告人}}&lt;br /&gt;
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[[Category:第一次世界大戦期ドイツの軍人]]&lt;br /&gt;
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[[Category:カッコ良すぎる漢]]&lt;br /&gt;
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		<author><name>ウーソキマスラの戯言</name></author>	</entry>

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